30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2022年01月

老眼のこと

自分ではまったく恥ずかしいことに、50代という自覚が薄い。
近所に10代、20代からの仲間が住んでいるせいもあるだろう。つい20代の頃の雰囲気で、仲間と話をしてしまう。

かつて自分が描いていた、「50歳とかになったら、すげえだろうなあ。いろいろと世界の見え方も変わってきて、貫禄つくやろうなあ」という妄想は、完全に打ち砕かれている。
というのも、わたしが20代の頃に接していた40代、50代の方たちは、まあ今考えても、世間的に見ても戦国武将のようなたたずまいを備えていたし、発する一言の重みもあり、伊達政宗や北条早雲がそこらへんを歩いているような日常だった。ああなりたいなあ、と思いながら生きていたが、実際に自分が50代になると、まったく自分の中身が成長しないことに愕然としてしばらく言葉を失うほどだ。

変わらなきゃ、とイチローはかつてCMで言っていた。
自分もそう思い、成長しよう、大人になろう、あわよくば北条早雲のように関東八国をたばねたい、と思っていた。「名こそ惜しけれ」というような貫禄を持ちたい、とも。
しかし自分の成長の歩幅に気づいてしまった。北条早雲どころか、何も持たない子どものまま、である。

しかし、身体の方はきちんと年を重ねているらしい。
とにかく、教科書の字が小さく見えてしまう。
だんだんと腕を伸ばしつつ、「えーっと」と目を細めて教科書を見るようになる。
子どもは敏感で、そのしぐさをみるやいなや「あ、あらま先生、老眼だなあ」と言って笑う。
わたしは「うっせえわ!」と思いながら(口では言わない)
「ええと、正しさとは愚かさとは、それが何か・・・」と教科書を読み始める。

週末になって眼鏡屋へ出かけた。
ところが店員さんが示す老眼鏡の、なんと種類の多いこと!

こんなにメニューが豊富とは思わなかった。
おまけに眼鏡屋は、「目のことを知っていただくため、眼科受診も一度なされては」などという。
「かかりつけ医があると良いですよ」とも。

今日は、眼鏡屋ですぐに購入とはならず、ともかく「老眼の第一歩」ともいえる心構え、を教えていただき、なにかお店の会員になったことだけで、すっかりくたびれてしまった。

そもそも眼鏡とは無縁で生きてきたために、ちょっと試しに、鼻の上にかけてみたが、違和感もあるし、目の前になにかある、というだけで妙な気分になってしまう。これに慣れるような気もしない。
だがこれが無ければ、見えにくいのもたしかだ。

帰宅後、外に散歩に出て、遠い山の上を見た。
遠くを見ていれば視力が回復するかと思ったのだ。
じっと見ていると、稜線がはっきりと見える。おお、見える、見えるぞ・・・。

嫁様にそのことを言うと、いつものように冷たく

「老眼はそんなの関係ないじゃない?」

と、かぼちゃを煮ている。

嫁様は器用にコンタクトをつけたり外したりしている。
ずっとそれで生きてきたから、まったく慣れたもので、流れ作業のようにそれをする。

「眼鏡も慣れるよ、すぐに」

と言ってくれたが、そうだろうか。

ただ、歳をとったためか、見えにくくなった、ということにそれほどイヤな感じがない。
別に見えなくても、そんなに困らない、という感じの方が強い。
これは意外だったが、この余裕の感じ、これだけが自分にとっての「50代としての成長」なのかもしれぬ。

人生の本当に大事なことは、薬のびんの裏側のごく小さな文字が読めるか読めないか、ではない。このことを知っているだけでも齢を重ねた意味がある。これが亀の甲より年の劫、ということであろう。

それにしても、化粧品の後ろの文字、薬品の後ろの文字というのは、なんであんなに小さいのだろうか。1錠のむのか、それとも2錠なのか、じっくり見ても分からない。
たしかどこかに虫眼鏡があったが・・・見当たらない。
50代になってこんな苦労をすることになろうとは思わなかった。

用法・用量の『1錠か2錠か』くらい、もっとでかく表示しろ!!と思う。
もう、適当に2錠とかで飲んじゃうよ?こんな小さい字だったら・・・いいの?と、妄想上の◯◯製薬会社の社長さんに向かって言いながら、とりあえず1錠だけ飲んだけどネ。

oomurakon

【6年歴史】戦後の米ソ冷戦と沖縄

発問と流れ

ゴジラ水爆沖縄


1 恐怖におののく人々。なにを見ているのだろう?

2 写真をみて気づくことを。

3 水爆の説明

4 アメリカの実験と考え

5 米ソの冷戦とは

6 平和条約はソ連とは結ばなかった

7 沖縄県はどうだったか

8 写真をみて気づくことを。

9 日本語を守る取り組みについて

10 米軍基地は残された

11 ふたたび、なにか気づくことは?

12 なぜ戦闘機?なぜ日の丸?

13 自衛隊がつくられた背景にある「朝鮮戦争」

14 人間は戦ってばかり。ゴジラはどう思うだろう?

15 人間は戦う歴史と戦わない歴史とどちらが長い?

16 縄文時代の平和はもう戻らない?

【6年歴史】太平洋戦争学習の記録

前回までに太平洋戦争の入り口までを学習したので、その次。
(YOUTUBEにてパワーポイント資料を公開しました)
学習問題
【戦争が始まって、町や村はどんなふうに変化したのだろう】


東京大空襲
  ↓
沖縄戦
  ↓
日露戦争との死者数の比較
  ↓
原爆(ひろしま・ながさき)
  ↓
終戦後の長崎で撮影された 1枚の写真(ジョー・オダネル)

長崎では、まだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に、わたしはたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

焼き場となっている川岸には、浅い穴だけが掘られている。水がひたひたと押し寄せていた。灰や木片、石灰が散らばっている。燃え残りの木片が、風をうけると赤く輝いて、熱を感じる。白いマスクをつけた係員がもくもくと、荷車の先から、うでや足の先をつかんで、引きずりおろす。そして、そのままの勢いで、火の中に放り込んだ。死体ははげしく炎をあげて、燃え尽きる。
(中略)

焼き場に、10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせていて、ぼろを着ていた。足は、はだしだった。少年の背中に、2歳にもならないような幼い子がくくりつけられていた。その子は眠っているようだった。体にも、まったく傷がなく、やけどのあとらしいものも、みえなかった。

少年は焼き場のふちに進み、そこで直立不動になった。
わきあがる熱風を感じていたのだろうが、動じず、そのまま動かず立っているままであった。
係員がようやく、その幼子を背中からおろし、足元の燃えさかる火の上に、のせた。

炎が勢いをまし、おさな子の体を燃やし始めた。立ち尽くす少年は、そのままの姿勢で立ち続け、その顔は炎によって赤く染まった。気落ちしたように少年の肩がまるくなり、背が低くなったようだった。しかしまた、すぐに背筋をのばして、まっすぐになった。わたしはずっと、この少年から目をそらすことができなくなっていた。

少年は、まっすぐを見続けた。足元の弟に、目をやることなく。ただひたすらに、まっすぐ前を。
軍人にも、これほどの姿勢を要求することはできまい。

わたしはカメラのファインダー越しに、涙ももう枯れ果てた、深い悲しみに打ちひしがれた顔を見守っていた。わたしは思わず、彼の肩を抱いてやりたくなった。しかし、声をかけることができず、そのままもう一度だけ、シャッターを切った。

すると少年は急に向きをかえ、回れ右をすると、背筋をぴんとはり、まっすぐ前をみて歩み去った。あくまでも、まっすぐ。一度もふりかえることなく。

【すごろく授業】ためしにとことんキレてみる

そろそろ歴史の授業も佳境を迎え、明治から大正、昭和、と至近距離まで来ております。
昭和、という年号を聴くと、もうブワーッとあれやこれやと思い出が蘇ってきて、教科書に載っていることなどほんの一部だ、という気がしてしまいます。

で、今日は「太平洋戦争突入!」というたいへんに勇ましい授業をやる予定だったのですが、
冷静な女子の一言から、わたしが予定していた講談師か?宝井馬琴なのか?と、みまごうばかりの歴史講談【いざゆけや真珠湾と悲運のガダルカナル】は、おじゃんになってしまいました。

つまり、なんで太平洋戦争になるのか、ちょっと何言ってるのかよく分からない、というのです。
その子にとっては、日清戦争もよく分からないし、日露戦争もよく分からないと。

ただ、「なんで戦争したのか」ということが、いまいち意味不明寮だ、というのです。

クラスには歴史ファンもいるし、歴史読本「戦艦武蔵のすべて」を読破した男子もいるので、そのあたりの女子の疑問については、そんなことは簡単だぜニヤニヤ、と余裕を見せており、そのうちの一人であるGくんは、

「そりゃあ、ロシアだ。コリアをロシアに、そう、コリアをぶんどられてたまるかってことさね」

と質問した女子の頭上ナナメ上、3m先の回答。

おまけにGくんは早口で、コリアをこりゃあ、という感じでいうので、

「そりゃあ、こりゃあ」と聞こえたらしく、女子はぶ然とした表情のまま「まったくわかりません」と動じない。

そこで、クラス全員の総意でもって、本日は日清戦争から太平洋戦争までの復習をすることになってしまった。こんなふうに歴史の授業は遅々として進まないために、卒業間際まで焦ることになってしまう。

わたしは閃いて、もう10分で説明を終わらせようという良くない作戦を思いついた。

それが、「すごろく型歴史授業の進め方」であります。

正月遊びのすごろくのように、でっかい四角いマスを描き、まずその中に、「列強に攻められる不安」と書いた。すべてはここから始まるよ、とおごそかに宣言した。

「いいでしょうか。すべての良くない物語(ストーリー)は、不安から始まるんだね」

みんなノートに記入。1マス目「不安」です。

そして、日清戦争、とつぎのマスを。
「国境を接してるから、韓国を取られたらまずい、と思ったんだね」
当該児童の女の子は、「そこは、はい。納得できます」と言ってくれた。

日本は韓国を自国の強い影響下に置きたい、とねがった。もちろんロシアを牽制するためだ。
しかし、そこに思わぬ伏兵がいて、清の国が難癖をつけてくる。もちろん清からすれば、朝鮮というのは古来からの属国でありますから、みすみす取られるわけにはいかない。で、日本と衝突。

さらに、その流れで今度は親玉のロシアと対決。つぎのマスに、「日露戦争」と書く。
ここにも女子が「まあしかたがない」という表情で納得してくれて進んだ。

そして次が「韓国併合」。日露戦争に勝った後の流れだ。

続きます。清の国が滅び、中国が新しい国の建設にごたごたしている隙につけこんだ形での「満州国建設」。

これはもう、日本という国家を一人の人間に例えると、「強迫神経症」という感じであります。ロシアだって、目の前の土地をとられたら不安ですよね。日本が満州を支配したら、その隣国のロシアは烈火のごとく怒ると思うのだが、日本はもうとめどない欲の塊のようになっており、列強に対抗するためにも、生糸の輸出量を増やすためにも、植民地を欲したわけね。

地図をみると、子どもたちも「えー、こんなとことっちゃうの」「ロシア、目の前じゃん」「ひでえ」というつぶやき。

案の定、その次が「列強及び中華民国の抵抗」

ここでこんな発問をした。
「世界の主要国から、手を引け、と通告され、地元の国や周囲の国もそれを認めない、というなかなか厳しい情勢です。自分が日本の将来を決める立場だとしたら、手を引きますか?」

すると大半は手を引く、と答えたが、なかに一人、場の空気を読む子がいて

「いえ。ぼくはもうこうなったら、いったんとことんキレてみます!」

じゃあ、キレたことにして進もう。

アメリカを中心にした経済制裁で、鉄も石炭も石油も手に入らなくなった日本は、満州を守ると同時に南進します。インドネシア、マレーなどに進出し、資源をねらいます。

「南進⇒さらなる反対を生む」と板書。子どもたちもノートに記述。
南進の結果、もともとそこらへんを植民地にしていたフランスも日本に対して激怒します。
最初に質問した女子が、

「ばかなの?」

と冷静につぶやいていたのが印象的でした。
Gくんが「石油がないから仕方がない」と、震えるような小声で言いました。

そこで、ある写真を見せて、これ誰かわかる?というと、たぶん10年前ならクラスの半分は手を挙げたと思われるが、おどろいたことに3人しか知らなかった。

ヒトラーであります。

シンドラーのリストもアンネの日記も、もうあまり話題にならないし、世間的には忘れ去られているのだろうか。あるいは、ネットの一部で「ホロコーストはなかった」と信じる人たちもいるように、ないことになってしまったのかもしれないが、ヒトラーは実在の人物であります。どんどんと無名になっていってますが、少し前までは有名でした。

ヒトラーが最大領土を広げた地図をテレビに映すと、クラス中が「おおお」とどよめく。
ハーケンクロイツがフランスの領土の半分以上をとってしまっているし、スカンジナビア半島にも領土をひろげた形になっている。イギリスなんて周りをとりかこまれた雰囲気で、小さくなって見えるから。

次のマスは、「日独伊三国軍事同盟」

当時のポスターを映して見せます。
なかよし三国ポスター

こんなに強い国とタッグを組んだら、アメリカもフランスも日本に文句を言わなくなるかもね。

次が「ハルノート」

満州撤退・日独伊三国同盟の破棄などをアメリカが日本に要求します。

再度、
「自分が日本の将来を決める立場だとしたら、ここで手を引きますか?」


というと、さきほどと同じ展開で、一人を除いて全員が「撤収する」という意見。Tくんだけが

「ぼくは一度だけ、ためしにとことんキレてみたいです」

そこで最後のコマが

「太平洋戦争」

なるほど、とうなずいてくれました。

最初に「よくわからない」と相談してくれた女子が、次の日の日記に書いてくれました。
「今日の歴史はすごろくで書きました。すごく分かり良かったので、次もすごろくで教えてください」。

子どもにとっては、AしたらB、BしたらC、・・・というように、納得して進みたいのだろう。
ことに、「戦争」というような、得体のしれない、なんでか理由もちっともわからん行為には。
素直に納得できるものでもないのでしょう。歴史が好きで、テストも100点連発している子も、実はこのあたりの戦争から、「?」が増えてきます。心理的に納得できない気持ちがあるんでしょう。奈良時代の聖武天皇のように、天災で民が困っているから鎮護国家をねがって大仏建立、というのなら非常に納得できるし、よくわかる感じがする。国家の統率者に対して共感する気持ちも湧いてくる。

でも、戦争の時代、とくに昭和初期は、児童心理的に難しさのある時代なんでしょうね。こころが納得しようとしないのだから。Tくんの一言で、それが納得できたんですね。

「ためしにとことん、キレてみた」

とね。人間が正常じゃなかったんだね。それがぎりぎりの線で、全員の「納得」を引き出した。

どこかの出版社の方がもしこのブログをみてくださっていたら、教師用の本を書きますのでご依頼ください。タイトルは

「小学校歴史授業は「すごろく」でよく分かる!」

地元の野菜市場で「自然薯」

「野菜市場」で自然薯を買ってきた。
月に1度くらい、車で自宅から15分ほどの距離にある「野菜市場」へ行く。だいたい、そこで、近所の加納さん、という方が作っている、卵と牛乳と砂糖だけで作った激うま「プリン」を買う。ついでに季節に応じてさまざまな地元の野菜が売られているのを見物するのだ。

今日は自然薯を発見した。
自然薯は掘るのが大変。さぞかし高いだろうと思ったが、長さ20cmくらいのが430円で出ている。おお、と思い、その勢いで購入した。
考えてみると、山の土を掘り起こして収穫したものではなく、ちゃんと栽培をしているものだろう。シールをよく見てみると、「短形自然薯」とある。これは長いもと自然薯の交配種だそうだ。山の土の中で掘り起こした天然の自然薯なら、とても430円では買えまい。

わたしは学生時代に寮で暮らしていたために、へんてこな先輩方にたくさんお目にかかった。
まさに珍奇な人間博物館のような場所で、ここにはとても書けないような「へんてこりん」な先輩が大勢いて、当時はネットもスマホもないから、みんな暇で、やたらと用もなく長い廊下を行き来していた。(わたしは毎日お化け屋敷に寝泊まりしているような気分で過ごし、「今日はどんなお化けが出てくるかな」と、わくわくしていた)

ある日、Nという修行僧のような立ち居振る舞いをする大学院の先輩が、「おい新間、むかごごはんを食べよう」とドアをノックしてきた。
わたしは初めてきく「むかご」という単語が分からないので、「むかでを食べるんですか」と聞き返したのを覚えている。
修行僧の先輩は談話室で座禅を組んだり、海岸近くの岩場で何時間も太陽を拝んだりと過酷に自分を追い込むことが好きだったので、むかでを食べる、という妄想もあながち無理はなかったからである。

しかしそれは残念なことにムカデではなく、自然薯の一部の「むかご」のことだった。

先輩は裏の物置にあった古いシャベルを私に持たせて、自分は手ぶらで鼻歌をうたいながら寮の裏山を登っていく。あとで振り返ってみると、わたしはここで気が付いて戻るべきであったが、なんだか楽しそうでわたしもハイキング気分でそのあとを追った。

先輩は山道の途中でむかごを発見し、「これこれ」とポケットに無造作にむかごをぽいぽいと収穫すると、今日は米を炊くが、そこにこれを入れると山の幸を感じて幸福感が30分間は持続するのだ、と熱弁した。

わたしはそれが人生初の「むかご」との出会いであった。

先輩はすぐにその場でむかごをひとつ口に放り込み、わたしにも一つくれた。
少し拭いてから口の中に入れると、たしかにこれは芋である。
こんなものがごくありふれた山道の途中に存在するのか、ということ自体にも、わたしは軽い興奮を覚えた。

「おお、これは食える、食えるぞ・・・」

考えてみれば、その先輩は他の先輩とはちがってちっともアルバイトをせず、極貧生活を送っていた。しかし、こうやって謎の知識でもって山の幸をゲットし、意外に明るい学生ライフを満喫していたのだ。別の日には、野菜を煮て豚汁を食べていたが、その野菜は雑草であった。先輩は「食えるから雑草ではない」と言っていたが。

さて、そのむかごをいくつもポケットにしまうと、今度はシャベルでそのあたりの土をちょっとばかり掘ってみろ、と言う。

言われたとおりに掘ってみると、まだまだ深く掘れ、という。ただし決して根を傷つけるな、という。わたしはちょっと、めんどくさくなってきた。
おまけに、石ばかりでシャベルの先がすぐに石に突き当たる。
時間は経つものの、ちっとも深く掘れずにだんだんとくたびれてもきた。
先輩はにこにこしながら穴の奥を見ている。日曜日の朝に私を呼びに来たわけが、これでわかった。
しかし、掘り進むうちに夢中になってきてがんばって掘り続けると、たよりない小さな自然薯が出てきた。

「これは小さすぎるな。もっと地下には親分がいるだろう」

先輩の見立ては結局はまちがっていたのだが、わたしはそれを信じてそこからさらに60cm近く深く、へとへとになりながら掘った。

自然薯は寮で宝物のようにして扱われ、おろし金ですられると、ほかほかの炊き立てご飯の上を経由し、われわれの胃の中におさまった。
あとでこの話を他の先輩に言うと、その先輩も腹を減らしていたらしく、「むかご」という単語に異常に反応し、

「特別に細い作りのホンツキという道具を使えばもっと楽に掘れるはずだ」

と、後日かなりでかい自然薯を掘ってきていた。

自然薯はとろろにしても何に使っても味が良い。
畑でつくる芋で「長いも」があるが、これはのっぺりとして棒のようで皮がむきやすい。しかしとろろとしても、つなぎとしても、自然薯と比べたらなにか物足りない。
とは言え、長いもは色が白くてきれいであり、そのまま白さを生かして煮てみるとなかなかである。ちょっと焼き目をつけたりすれば、軽いつけあわせにもなる。味は淡泊で、これはこれで捨てがたい魅力がある。

「長いも」と同じように冬の野菜で、白くて長いといえば大根だが、大根を煮るときに米を少々、洗ってはじめからいっしょに煮るのが新間家の母のやり方であった。
なんで大根と米をいっしょに煮るのかというと、どうもそれが先祖から伝わるやり方だったらしく、母もよく分からないけれど、苦みがとれる、という話であった。

生の大根は、大根おろしがいい。冬の大根おろしはただそれだけで甘味があり、ちょうどよい汁気もあって、天下の美味である。

ところで大根の切り方に、「せんろっぽんに切る」という言い方がある。
この言い方がなんとも粋で、私は子どもの頃にこの言葉の言い回しを使いたくて使いたくてたまらなかった。

せんろっぽんに切る
SENーROPPONーNIーKIRU。


私は幼いために「せんろ」という言葉から電車を想像し、きれいに線路の枕木のように、きちんと間隔をあけて、細長く切っていくためだろう、と勝手な解釈をしていた。

大根も、線路の枕木のようにきれいに切られると、その白さがひときわ輝くようで、台所の重要な役者である。

コロナ禍で家にいることが多い子どもたちに、家で料理をつくってみたら、と提案しておいた。
後日、写真を撮ってきて、それをレポートしてくれる子が現れた。これはとても面白い。
食材と子どもとの出会いは、その後の長い「食生活」の楽しい思い出になっていくだろう。

daikon

オミクロン・・・卒業式に暗雲がたちこめる

全米の医療機関から悶絶するような悲鳴が聞こえてきそうだとのこと。
それをわたしは、「ICU使用率が82%に到達した」という報道によって知りました。
ICUとは、集中治療室の略で、重症患者のための場所です。たとえば、命が亡くなるギリギリのところや、限りなく危険性が高い場合に入ります。
そんな大事な場所が、82%も埋まってしまったのです。なんでこんなことが起きたのか。
それは、オミクロン株の登場が原因です。

どうやら以前流行したデルタ株をしのぐスピードで広まっているらしいです。
重症化しない、という噂もありました。だからわたしも、安心していたのです。
でも、実際にはICUに入るくらいの重症患者が増えています。
なぜなのでしょうか。実は、感染者数が爆発的に増えており、アメリカでは軽症の患者も多いかわりに、デルタ株も含め、り患した人の数が膨大になりすぎ、要するに分母が限りなく増えたために、重症患者も増えているのです。感染者が元々抱えていた他の病気が急速に悪化して搬送されてくる事例が多発しているらしいです。

おそらく、世界で猛威を振るったデルタ株(現在進行中です)を超えて、さらに感染者数を上回るだろう、ということです。そのために医療現場がひっ迫し、結果として、重症患者の数も増えてしまいそうです。

さて、わたしが一番今ざんねんなのは、卒業式のことです。
おそらく卒業式は簡易的なものにならざるを得ないでしょう。
歌も歌えないでしょうし。

卒業生の名前を一人ひとり呼ぶとき、たいていわたしは情けない声になってしまって泣きますが、マスクをしているおかげで、その情けない様子をあまり子どもに見られずに済むのが、まあちょっとは救いでしょうか。

それにしても、毎年教員が悩んできたのは、インフルエンザでしたが、そのインフルエンザはさっぱりです。
冬の行事はまさにインフルエンザとの闘いでありまして、インフルエンザで学級閉鎖だとか、インフルエンザをふせぐためにこれまでもまあ、いろいろやってきましたよ。教室の換気だとか、手洗いの時間をわざわざ増やしたり、回数を増やしたり、ね。これまでも。別にコロナじゃなくとも。

そのころのことを思うと、今の学校の対応は完璧です。
毎日、毎日、ドアの取っ手も階段の手すりも、水道の蛇口もドアの子どもが手をつけそうな場所なども、広範囲に消毒しています。
アルコール消毒の機械は教室に2こ、各学年の廊下に1こずつ、昇降口にも1こずつ、給食室や理科室、音楽室でも図書館でも、毎日毎日、アルコール消毒ですもの。

そして、全校集会の中止。
大人数が集まることは、もうありません。

これだけの対応をしているからか、インフルエンザで学校を休む子はほとんどゼロです。たぶん本当にゼロだと思う。

しかし、そのブロックの隙間を縫うようにして、ひたひたとオミクロン株の魔の手が入ってこようとしている。町のスーパーでも、レストランでも、みんな手を消毒し、マスクをしているのに、どんどんと感染者が増えています。こんなにマスクをして、みんなしゃべらないのに!

わたしはオミクロンが恐ろしい。
インフルエンザなんて雑魚キャラで、蹴散らしてしまうのでしょうね、オミクロンくらいの破壊力の持ち主になると・・・。

アメリカの集中治療室の使用率が、全米のレベルで8割を超えてしまう。
各都市の、各病院の治療室で、オミクロン株感染による死者が徐々に増えている。
デルタ株も収まっていないところにきて、急激にオミクロンが増えた。
これは前代未聞らしいです。ちょっと恐ろしすぎて、こわいくらいです。
どうなるんだろうか。

ともあれ、卒業式に暗雲が立ち込めてきたのは間違いがなさそうです。
でも、だからといって悲しいとは思いません。子どものすばらしさは変わらないし、子ども一人ひとりの価値が失われるわけではないですからね。きっと胸を張って、元気に卒業していくでしょう。学んだことや楽しかった思い出とともに。

mikan2

2022年も、どうぞよろしくお願いします

昨年、もっともエキサイティングだったのは、道徳の授業だった。
きっかけは、悪口。
悪口を言いたくなる人の気持ちを考えながら、一人ひとりが真剣に考えた。
悪口を言われるとどうなるのか、悪口とはいったい何なのか。
また、悪口によってどんな変化が起きるのか、実際の価値が変わるのかなど、考えることがたくさんあった。

わたしはこの授業が続いている間、常に
「これがやりたかったんだよね」
と思いながら暮らしていて、楽しくて仕方がなかった。
どんどんと、悪口にパワーがなくなっていくのが分かったからだ。

授業というほどのこともなく、わたしは
「では前回の続きからはじめよう。だれでもどうぞ」
と言うだけで、どんどんと活発な意見が出た。

話が混線してくると、わたしはちょっとだけ意見を整理する。
A、という意見が出たね、
そのあと、B、という意見が出てきて、ちょっと変化してきたね、・・・など。

振り返りのノート記述を、放課後に読んでいる時が一番面白い。
これを自分だけがワクワクして読んでいるのがもったいない。
忙しい日常のなかにも、こうした楽しみが存在することが、この上ない幸福に思える。

自分が好きなものを そうは思わないと言われた時に腹が立つかどうか。

これは昨年、もっとも子どもたちがエキサイトした発問である。
「腹が立つ」というのは、自身に対して、率直に確認できる心の動きなのだろう。
この授業は時間が経つのが惜しくて仕方がなかった。

2022年のスタート。
さて、どんな一年にしようか。
もっともっと、進めたいね。このことを。

-KmYUytmTsKn8kamL8LpfA


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