自分ではまったく恥ずかしいことに、50代という自覚が薄い。
近所に10代、20代からの仲間が住んでいるせいもあるだろう。つい20代の頃の雰囲気で、仲間と話をしてしまう。
かつて自分が描いていた、「50歳とかになったら、すげえだろうなあ。いろいろと世界の見え方も変わってきて、貫禄つくやろうなあ」という妄想は、完全に打ち砕かれている。
というのも、わたしが20代の頃に接していた40代、50代の方たちは、まあ今考えても、世間的に見ても戦国武将のようなたたずまいを備えていたし、発する一言の重みもあり、伊達政宗や北条早雲がそこらへんを歩いているような日常だった。ああなりたいなあ、と思いながら生きていたが、実際に自分が50代になると、まったく自分の中身が成長しないことに愕然としてしばらく言葉を失うほどだ。
変わらなきゃ、とイチローはかつてCMで言っていた。
自分もそう思い、成長しよう、大人になろう、あわよくば北条早雲のように関東八国をたばねたい、と思っていた。「名こそ惜しけれ」というような貫禄を持ちたい、とも。
しかし自分の成長の歩幅に気づいてしまった。北条早雲どころか、何も持たない子どものまま、である。
しかし、身体の方はきちんと年を重ねているらしい。
とにかく、教科書の字が小さく見えてしまう。
だんだんと腕を伸ばしつつ、「えーっと」と目を細めて教科書を見るようになる。
子どもは敏感で、そのしぐさをみるやいなや「あ、あらま先生、老眼だなあ」と言って笑う。
わたしは「うっせえわ!」と思いながら(口では言わない)
「ええと、正しさとは愚かさとは、それが何か・・・」と教科書を読み始める。
週末になって眼鏡屋へ出かけた。
ところが店員さんが示す老眼鏡の、なんと種類の多いこと!
こんなにメニューが豊富とは思わなかった。
おまけに眼鏡屋は、「目のことを知っていただくため、眼科受診も一度なされては」などという。
「かかりつけ医があると良いですよ」とも。
今日は、眼鏡屋ですぐに購入とはならず、ともかく「老眼の第一歩」ともいえる心構え、を教えていただき、なにかお店の会員になったことだけで、すっかりくたびれてしまった。
そもそも眼鏡とは無縁で生きてきたために、ちょっと試しに、鼻の上にかけてみたが、違和感もあるし、目の前になにかある、というだけで妙な気分になってしまう。これに慣れるような気もしない。
だがこれが無ければ、見えにくいのもたしかだ。
帰宅後、外に散歩に出て、遠い山の上を見た。
遠くを見ていれば視力が回復するかと思ったのだ。
じっと見ていると、稜線がはっきりと見える。おお、見える、見えるぞ・・・。
嫁様にそのことを言うと、いつものように冷たく
「老眼はそんなの関係ないじゃない?」
と、かぼちゃを煮ている。
嫁様は器用にコンタクトをつけたり外したりしている。
ずっとそれで生きてきたから、まったく慣れたもので、流れ作業のようにそれをする。
「眼鏡も慣れるよ、すぐに」
と言ってくれたが、そうだろうか。
ただ、歳をとったためか、見えにくくなった、ということにそれほどイヤな感じがない。
別に見えなくても、そんなに困らない、という感じの方が強い。
これは意外だったが、この余裕の感じ、これだけが自分にとっての「50代としての成長」なのかもしれぬ。
人生の本当に大事なことは、薬のびんの裏側のごく小さな文字が読めるか読めないか、ではない。このことを知っているだけでも齢を重ねた意味がある。これが亀の甲より年の劫、ということであろう。
それにしても、化粧品の後ろの文字、薬品の後ろの文字というのは、なんであんなに小さいのだろうか。1錠のむのか、それとも2錠なのか、じっくり見ても分からない。
たしかどこかに虫眼鏡があったが・・・見当たらない。
50代になってこんな苦労をすることになろうとは思わなかった。
用法・用量の『1錠か2錠か』くらい、もっとでかく表示しろ!!と思う。
もう、適当に2錠とかで飲んじゃうよ?こんな小さい字だったら・・・いいの?と、妄想上の◯◯製薬会社の社長さんに向かって言いながら、とりあえず1錠だけ飲んだけどネ。
近所に10代、20代からの仲間が住んでいるせいもあるだろう。つい20代の頃の雰囲気で、仲間と話をしてしまう。
かつて自分が描いていた、「50歳とかになったら、すげえだろうなあ。いろいろと世界の見え方も変わってきて、貫禄つくやろうなあ」という妄想は、完全に打ち砕かれている。
というのも、わたしが20代の頃に接していた40代、50代の方たちは、まあ今考えても、世間的に見ても戦国武将のようなたたずまいを備えていたし、発する一言の重みもあり、伊達政宗や北条早雲がそこらへんを歩いているような日常だった。ああなりたいなあ、と思いながら生きていたが、実際に自分が50代になると、まったく自分の中身が成長しないことに愕然としてしばらく言葉を失うほどだ。
変わらなきゃ、とイチローはかつてCMで言っていた。
自分もそう思い、成長しよう、大人になろう、あわよくば北条早雲のように関東八国をたばねたい、と思っていた。「名こそ惜しけれ」というような貫禄を持ちたい、とも。
しかし自分の成長の歩幅に気づいてしまった。北条早雲どころか、何も持たない子どものまま、である。
しかし、身体の方はきちんと年を重ねているらしい。
とにかく、教科書の字が小さく見えてしまう。
だんだんと腕を伸ばしつつ、「えーっと」と目を細めて教科書を見るようになる。
子どもは敏感で、そのしぐさをみるやいなや「あ、あらま先生、老眼だなあ」と言って笑う。
わたしは「うっせえわ!」と思いながら(口では言わない)
「ええと、正しさとは愚かさとは、それが何か・・・」と教科書を読み始める。
週末になって眼鏡屋へ出かけた。
ところが店員さんが示す老眼鏡の、なんと種類の多いこと!
こんなにメニューが豊富とは思わなかった。
おまけに眼鏡屋は、「目のことを知っていただくため、眼科受診も一度なされては」などという。
「かかりつけ医があると良いですよ」とも。
今日は、眼鏡屋ですぐに購入とはならず、ともかく「老眼の第一歩」ともいえる心構え、を教えていただき、なにかお店の会員になったことだけで、すっかりくたびれてしまった。
そもそも眼鏡とは無縁で生きてきたために、ちょっと試しに、鼻の上にかけてみたが、違和感もあるし、目の前になにかある、というだけで妙な気分になってしまう。これに慣れるような気もしない。
だがこれが無ければ、見えにくいのもたしかだ。
帰宅後、外に散歩に出て、遠い山の上を見た。
遠くを見ていれば視力が回復するかと思ったのだ。
じっと見ていると、稜線がはっきりと見える。おお、見える、見えるぞ・・・。
嫁様にそのことを言うと、いつものように冷たく
「老眼はそんなの関係ないじゃない?」
と、かぼちゃを煮ている。
嫁様は器用にコンタクトをつけたり外したりしている。
ずっとそれで生きてきたから、まったく慣れたもので、流れ作業のようにそれをする。
「眼鏡も慣れるよ、すぐに」
と言ってくれたが、そうだろうか。
ただ、歳をとったためか、見えにくくなった、ということにそれほどイヤな感じがない。
別に見えなくても、そんなに困らない、という感じの方が強い。
これは意外だったが、この余裕の感じ、これだけが自分にとっての「50代としての成長」なのかもしれぬ。
人生の本当に大事なことは、薬のびんの裏側のごく小さな文字が読めるか読めないか、ではない。このことを知っているだけでも齢を重ねた意味がある。これが亀の甲より年の劫、ということであろう。
それにしても、化粧品の後ろの文字、薬品の後ろの文字というのは、なんであんなに小さいのだろうか。1錠のむのか、それとも2錠なのか、じっくり見ても分からない。
たしかどこかに虫眼鏡があったが・・・見当たらない。
50代になってこんな苦労をすることになろうとは思わなかった。
用法・用量の『1錠か2錠か』くらい、もっとでかく表示しろ!!と思う。
もう、適当に2錠とかで飲んじゃうよ?こんな小さい字だったら・・・いいの?と、妄想上の◯◯製薬会社の社長さんに向かって言いながら、とりあえず1錠だけ飲んだけどネ。