30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年10月

『個別最適化』を読み解く

文科省が出している答申ではこう述べられている。

『全ての子供に基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させ、思考力・判断力・表現力等や、自ら学習を調整しながら粘り強く学習に取り組む態度等を育成するためには、教師が支援の必要な子供により重点的な指導を行うことなどで効果的な指導を実現することや、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどの「指導の個別化」が必要である。
基礎的・基本的な知識・技能等や、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力等を土台として、幼児期からの様々な場を通じての体験活動から得た子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、探究において課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現を行う等、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が学習が最適となるよう調整する「学習の個性化」も必要である。

 「指導の個別化」は一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し、個々の児童生徒に応じて異なる方法等で学習を進めることであり、その中で児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくことなども含みます。ICTを活用することで得られる新たなデータも活用し、きめ細かく学習の状況を把握・分析したり、個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくことで、確実な資質・能力の育成につながっていくことが期待されます。また、学習履歴(スタディ・ログ)、生活・健康面の記録(ライフログ)等、児童生徒に関する様々なデータを可視化し、学習方法等を提案するツールなど、新たな情報手段の活用も考えられますが、そのような新たな情報手段の活用も含め、児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 「学習の個性化」は個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げることを意味し、その中で児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくことなども含みます。例えば、情報の探索、データの処理や視覚化、レポートの作成や情報発信といった活動にICTを効果的に使うことで、学びの質が高まり、深い学びにつながっていくことが期待されます。また、児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 この点に関連し、平成28年答申でも、子供たちが自分のキャリア形成の見通しの中で、個性や能力を生かして学びを深め将来の活躍につなげることができるよう、学校教育で学んだことをきっかけとして、興味や関心に応じた多様な学習機会につなげていけるようにすることも期待されている、とされています。[脚注3] 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の中でも、児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設けるなど、児童生徒の興味・関心を生かした自主的、自発的な学習が促されるよう工夫することが求められています。

「指導の個別化」「学習の個性化」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」ですが、これを教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」です。学習指導要領の総則では「児童(生徒)の発達の支援」の項目において、「個に応じた指導」の充実を図ることについて示しています。[脚注4] 「個に応じた指導」に当たっては、「指導の個別化」と「学習の個性化」という二つの側面を踏まえるとともに、ICTの活用も含め、児童生徒が主体的に学習を進められるよう、それぞれの児童生徒が自分にふさわしい学習方法を模索するような態度を育てることが大切です。』


これを読み解いていかなければならない。
いったいどういうことなのか?
100人の先生がいたら、100通りの解釈のできるものなのか?
それとも、100人の先生が、この文章の意味を、きっちり1つに解釈できるものなのか?

上の文章の中で、「児童」が主語になっている部分を列挙してみた。
これからの時代に児童生徒が自ら学ぶ内容について】

1〇児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくこと
2〇一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し
3〇個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくこと
4〇児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう
5〇個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げること
6〇児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくこと
7〇児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう
8〇児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設ける
児童生徒がこうなるように、上記のような学びができるように、教師は指導をせよ、というのである。

肝心なのは、これを学校生活のどの時間にするべきなのか、というテーマだ。
時間を指定しないと、先生たちは日ごろの行事や授業推進日程に忙殺されてしまい、具体的に実行しないまま時が過ぎる、ということにもなりかねない。時間をいつ、と断定することが大切だ。

1)すべての学校生活を通して上記を実現する
2)総合的な学習の時間内に上記を実現する
3)特別活動や学活の時間に上記を実現する


さて、どの時間帯なのだろうか?

とくに、7番目の
児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、というのは、具体的にどのタイミングで行うことなのだろうか?

これが、いわゆる「個別最適化の時間不明問題」である。

いつやるの?

学習指導要領には言及されていない。

だれか、文科省に聞きに行ってくれる第三者はいないだろうか?

というのも、教員がこれを文科省に尋ねると、すぐに県教委や市教委に電話がいき、担当者から

「なんでいきなり文科省にきくんですか」

と叱られてしまうからである。

だって、市教委に聞いても、県教委に聞いても、よくわからないんだからしょうがない。

このブログを見た文科省の先生、ぜひ教えてください!
コメント欄からでだいじょうぶです。
よろしくお願いします。

ojigi_fukai_side

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちは

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちの方が圧倒的に多い。
教室にはサッカーの才能を持つ子もいるし、野球の才能を持つ子もいる。
空手やダンスに才能を持つ子もいる。
しかし、あこがれ、という気持ち以外に、あきらめ、という感情を持つことだってある。
もうぼくは、レギュラーにもなれないんだ、とか。
そもそも向いていなかったのでは、とか。
いつも力になれない、チームのためになれない、とか。
うまくできない、才能がない、あの子に勝てない、とか。

こういう相談をする子に、どう声をかけたらいいだろう、といつも悩む。
新間草海も、悩むときは悩みます。

・・・

たしかに、何かをはじめたころは、覚えるのが楽しくて仕方がない。
新しいことをたくさん覚える。
道具も新品を買ってもらう。
みんながあれこれやっているのを不思議に思ってみているときと比べたら、
「あ、なるほど、そのためにやってんだな」
と合点していくときの成長は、自分でもよくわかるし実感ができる。
先輩を見習って、自分でも工夫をしていく時代になると、さらに楽しい。
先輩のまねができるのも楽しいが、自分はこうする、こうしたい、というものを見つけたら、もう時間がいくらあっても足りないくらい、熱中できる。

しかし、ある時期をすぎて、なんだか地面が平らに見えるときがくる。
今までは、この坂の上に、この丘の向こうに、なにかあるだろうと思ってやっていく。
途中まではもう上り坂を登っていく感じしかしないから、夢中になって登っていくわけだ。
それが、どうも見晴らしがよくなってしまって、向こうのほうにもとくに何かがあるわけではない感じがしてくるときがある。

このまま歩いて行っても、自分の歩幅でいけば、このくらいだろうなあ、という良くない予感もしてくる。どうにも自分の歩幅が、わかってしまった、という感覚だろうか。あいつほど早く行けない、あいつほど遠くまでいけないだろう、とわかってしまう。そうなると、いくら足を運んでいても、自分が前に進んでいるかわからない、という状態になってしまう。

そうなったときに、「自分に合ったものって何だろうか、自分は何と合うんだろうか」と考えるようになるのかもしれない。世の中でこれが良い、とされるものを求めるのではなく、求めるものが変わっていく。世間がいうものを求めるのではなく、自分と合うものを。

今教室にいる子で、すでに悩み始めている子がいる。
ソフトテニスをつづけるべきか、悩んでいる。
大人だよなあ、と思う。
自分が小学生のころなんて、めざすものもなければ、あきらめるものもない、まだ何の土俵にも立っていなかった。

あのとき、あのころ、ラジカセが家にあったのだから、古今亭志ん生だって桂文楽だって聞けただろうと思う。小学校4年生のころから、毎晩志ん生の「火焔太鼓」のカセットテープを聴いて育っていたら、わたしも夢の舞台に立てたかもしれない。笑点のレギュラーにもなれたかもしれない。
しかし、人生は一度きりだ。後悔はしていない。

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちの方が圧倒的に多い。
自分はなにものかに、「なれなかった」と思う人の方がたくさんいるのが、この世の中だ。
ソフトテニスで悩んでいる子は、今、あれこれと考えている。
てっぺんに立つことだけに価値があるのではない。
もしかすると、MVPをとるであろう大谷翔平クンは、ホームランを量産したから価値があるのでもないかもしれない。それはスポットライトの当て方しだいだ。見る人によって、価値は何種類にも分けられる。大谷選手のどこに価値があるのか、何に価値があるのはは、見る人によって異なる。
また、彼には世界中のマスコミからスポットライトを浴びているからまぶしく見えるけれど、もしかしたらどの選手にも、彼のようなスポットライトが当たった瞬間、どの選手も同じように輝いて見えるのかもしれない。

「大谷みたいになれないだろうから、野球を辞めます」

という小学生がいたら、彼には世間のスポットライトが集中して当たっているからまぶしく思えるのだよ、でもだれにだって、スポットライトを当てたら、みんなものすごく輝いて見える、と言いたい。きみだって、なにかに興味を持って、生き生きと行動していたら、それだけで大谷のように輝いているんだよ、とね。

otaniesnsyu

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