30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年09月

【6年・歴史】そしていよいよ豊臣秀吉

秀吉の学習に入る。

これまでの天下人、という人を列挙してみる。
1 蘇我馬子 大臣   天皇の爺となって大威張り⇒乙巳の変で自害
2 藤原道長 【関白】太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒武士の時代になってフェードアウト
3 平清盛  太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒源氏にやられた
4 源頼朝  征夷大将軍 貴族にならなかった⇒土地配分に失敗して建武の新政へ
5 足利義満 太政大臣 天皇の母の夫となって摂関家以上をねらう⇒応仁の乱へ
6 織田信長 関白・太政大臣・征夷大将軍が選べたがならず⇒本能寺で自害

どうでしょう。
ここまでみると、1番から5番までの人たちが、いかに官位にあこがれていたかがわかりますね。
2 藤原道長は関白になっています。しかし、3~5の人はだれも関白にはなれませんでした。
なぜなら、「関白」というのは、非常に特別な位で、藤原家の人以外はなれないのです。
関白とは、いっさいすべてを天皇に代わる、という位でしたから。
それで、古い時代に天智天皇(中大兄皇子)から特別に名前をいただいた、という中臣鎌足さん以後、「藤原家」の人には与えられますが、それ以外の血筋の方が「関白」につくことが許されなかったのです。

5の足利義満は、ぎりぎりのところまで行きました。
権力が頂点に達していたために、当時の中国「明」に対しては、「日本国王」と名乗りましたが、天皇を含め、世の中のだれも文句を言いませんでした。義満の権力がいかにすさまじかったか、わかるというものです。
義満さんは「関白」ではないけれど、なにかもっと特別な位がないか、自分にもらえないか、と思って待っていたようでしたが、あいにく待ちくたびれて病死します。

そうなると、やはり6 の織田信長は、特別でしょう。
なんせ、藤原家でもないのに、「関白をやろう」と天皇(朝廷)が言い出してますから。
なんでこんなに大盤振る舞いかというと、天皇はこの破天荒な新しい勢力をどう扱ってよいのか、途方に暮れていたかららしい。朝廷からすると、本来守ってくれるはずの「幕府」はまったく頼りにならず、どんどんとおいつめられていく。当の将軍である足利義昭は西国の大名を頼って右往左往しているばかりだし、京都は実質的には織田信長が仕切っている。朝廷はつぶされるかもしれなかったのであります。実際に、京都の御所はもう織田勢の支配下にあり、朝廷が信長のご機嫌をとるためには、もう「官位をあげよう」というくらいしか手がない。

このときの朝廷のサービスぶりはすごくて、正三位・内大臣をあげる、従二位がほしいか、正二位は、右近衛大将はどうか、右大臣をあげる、今度は左大臣をあげる、といった狼狽ぶり。
信長としては、もう天下を取ったも同然、ということであったでしょう。

さて、信長は本能寺で討たれ、その後の秀吉はどうだったのか。

結果ですが、ご存じの通り、

パンパカパーン!
関白太政大臣に無事になりました~!!


え、摂関家(藤原家)じゃないのに?

大丈夫です。

豊臣、という別のすごい姓を、天皇からいただいたのです。
つまり、奈良時代の藤原家の祖、あの「中臣鎌足」のマネですね。
あのときは中臣に対して「藤原」、というのをあげたんだから、ぼくには別のをくれ、というわけ。
そこで、「豊臣」をもらった。

で、藤原と同じくらい偉い、ということにしたので、その初代として

関白に

なれたのでありました。
秀吉は、頭がいいね。足利義満には、そういう発想がなかったみたい。
日本には藤原家しかない、という固定観念にとらわれていたから、関白は無理だ、と思ったのかな。
でも秀吉は、「藤原だって最初は天皇にもらったんだよな。じゃ、俺もくれよ。そうだなあ、中臣鎌足ってのがいたから、えーと、中臣ってのは中途半端だし、ようし、俺は豊臣で!」とアイデアが湧く人だった。


7 豊臣秀吉 関白太政大臣 武家も公家も両方合わせて組織しようとしてあえて将軍にならず ⇒死去

ということでありますね。

こう振り返ってみてみると、日本の歴史って、

1 蘇我馬子 大臣   天皇の爺となって大威張り⇒乙巳の変で自害
2 藤原道長 【関白】太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒武士の時代になってフェードアウト
3 平清盛  太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒源氏にやられた。藤原家でないために関白にはなれず。
4 源頼朝  征夷大将軍 貴族にならなかった⇒土地配分に失敗して建武の新政へ
5 足利義満 太政大臣 天皇の母の夫となって摂関家以上をねらうが失敗⇒応仁の乱へ
6 織田信長 関白・太政大臣・征夷大将軍が選べたがならず⇒本能寺で自害


だいたい、1の蘇我馬子のマネなんだなー。天皇の親戚になって関白になりたい、というのが、ずーっと続いてきたというわけだ。

hideyosi

【6年・歴史】いよいよ織田信長、その前に・・・

さて、いよいよ織田信長、とその前に、もう一つ学習しておく人がいる。
それが、「フランシスコ・ザビエル」さんであります。

この人が日本にもたらした革命が、実は日本をつき動かしております。
ザビエルさんのやってきたころ、つまり戦国時代に日本が南蛮と貿易を行うためには、ある条件がありました。それは、スペインやポルトガルからの宣教師たちの布教活動を認めて交流することです。これが前提条件となっていました。

ザビエルさんたちは、主眼である布教をさせてくれるんだったら、という条件つきで、さまざまなおみやげを見せたり、贈ったり、話をしたり、という「文化交流」も行ったわけです。
そういうわけで、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名なザビエルさん。結果として、キリスト教だけではなく、織田信長が長篠の戦いで実戦使用した鉄砲や眼鏡なども伝えています。

織田信長とザビエルさん、実は直接の面会はしてはおりません。
その代わり、ザビエルとの関係をもつイエズス会のルイス・フロイスが、1569年に信長と直接面会しています。

さて、時代は進み、
信長は混乱した室町幕府の終末期において、どんどんと頭角をあらわして他の守護大名を圧倒、実際の天下人にあと一歩、というところまでたどりつきます。

朝廷も信長という人物におそれおののいておりまして、なんと3つの官位を信長にさずけようとしますよ。

天皇「これ、信長よ」
信長「はい」
天皇「お前の欲しい官位をやろうぞ。関白、太政大臣、そして征夷大将軍。どれがほしいのじゃ」
信長「そうですねえ・・・」

というところまで来ました。
足利将軍もいるにはいたのですが、足利将軍はもうすでに官位としては信長以下になりさがっておりましたので、信長にとって、なにも障害になるものはない。
足利義昭は征夷大将軍ではありましたが、朝廷が与える官位としての上下関係でいくと、信長はすでに征夷大将軍より上だったのですね。(信長は朝廷より従三位・権大納言・右近衛大将に任じられ、従三位・権大納言・左近衛中将の義昭よりも上位の存在となった)

ところが、事件が起きてしまいます。

天皇「さ、どんな官位がほしいのじゃ?なんでもやるぞ」
信長「そうですねえ。・・・もう少ししたら、お返事するので、まってちょーよ」

と言いつつ、一月後に本能寺で死んでしまう。


残念ですねえ、信長。
天下統一に近くまでたどりついたというのに・・・。

ところで信長は西洋の知識が大好きだったようです。
地球儀を見せてもらうと、地球が丸いことや他の天体についても理解したそうですし、
フロイスがプレゼントしようとした時計をみて興味を持ち、くれるのはありがたいが、日本では修理ができないのが惜しい、と言って、そのままフロイスに返却したそうですね。

もう関白にもなれるし、征夷大将軍にもなれる、というところまできたんだから、いっそのこと日本を超えてヨーロッパに行ってみたい・・・と思ったかもしれません。

(※ヨーロッパの各地で王侯貴族の先生をしていたGiordan Buruno という人物がODA NOBUNAGAと顔がそっくりで、もしかしたら信長がヨーロッパに移動してそう名乗ったのではないか、という説がありますが、まあこれは冗談でしょうけど、おもしろいことを考える人もいるものですね。このブルーノという人物は主流派だったカトリック教会の天動説チームに反して、地動説を堂々と唱えた変人だったらしいです⇒結果、火あぶり)

さて、信長の死後は、いよいよ秀吉さんですね。どうなるやら。
左がブルーノ。似てますか?
織田信長とブルーの

【6年・歴史】いよいよ戦国時代~信玄と佐渡の金山~

室町幕府まででいったん、テスト。
室町時代は義満や義政などの政治のあと、文化の勉強が一段落。前回、雪舟の「秋冬山水図」を美術の鑑賞風に学んで終わりとした。
いよいよ戦国時代に入ります。

戦国時代の最初は、武田信玄と上杉謙信。
この2名を学ぶ意義は、戦国の雰囲気を知ってもらうためともう一つ、武田信玄が土木の天才であったことを知るためだ。

武田信玄が率いる甲斐の武士は、実は農業土木の天才である。川の流れまで変えてしまう。入り組んだ丘陵地帯や小さな谷、盆地など、くまなく水田にしたのは、この農業土木の天才たちがいたからでありましょう。なにせ、平野と違って水をひくのに手間がかかる。水をせき止めること、小さな流れをいくつもつくること、意図的にあふれさせることなど、水のコントロールをしたいのであれば、石や岩や材木を駆使して、いわゆる土木工事をせねばならない。平野でも工事はしただろうが、なにせ難易度がちがう。彼らは急流を制したのである。

このあたりが、広大な平野で豊かな川にめぐまれた愛知や静岡の農業者とはちがうところ。
東海地方では発展しなかった農業土木が、山梨や長野では発達したのには、わけがある。

こうした「山の国ならではの知恵」は、信玄に多大な恩恵をもたらした。
なぜなら、このころ、日本中の山から「金」や「銀」が見つかったからであります。
全国の山を制した「山師」たちは、甲斐の人間たちであった。山の中でトンネルを掘れる甲斐の人間が、全国の金山をみつけていったのです。トンネルを掘ると、黒四(くろよん)ダムのように水が出るときもある。だから、そもそも土木工事ができないと、鉱山採掘のトンネルは掘れないのですね。甲斐の人間はそれができた。

信玄は長生きすればよかったのにねえ。豊臣秀吉や家康は、そうして信玄たちが見つけた金山を、あとになってぶんどっていっただけのことですね。

のちに徳川幕府の巨大な財源となる佐渡金山も、すでにこのころから「とれる」場所だと発見はされていた。ただしまだ深くは掘られていなかった。いよいよその莫大な埋蔵量が知られるのは、天下分け目の関ヶ原の合戦のころだ。当時全世界にあった金の、その半分ほどの埋蔵量があると見込まれた。ここを徳川家が押さえた、というのだ。関ヶ原までにその情報を知ることのできた武将は、だれしも徳川側についた。
石田三成は、それを知らなかった。西軍方に味方した大名のほとんどが、知らなかったと思われる。

ただ、関が原に集結したときに、その噂を知らされた武将もいる。
動揺しただろうねえ。それだけの金があれば、天下が取れるのはわかりすぎるくらい簡単なことだからだ。こりゃ、次は家康の時代だな、と確信したはず。

さて、子どもたちはこれらを学んだあと、いよいよ織田信長の学習に入る。

佐渡金山

【笑点その2】そのための笑点システム~朝の会特別編~

司会「笑点の時間です。司会の円楽です」

司会は公募。
ふだんは注目されることのない子が意外にもトライしたりする。

あらかじめお題は前の週の金曜日の朝に配布。
班で話し合う時間も設ける。
その際、班のみんなが面白いと判断したものには、赤鉛筆でしるしをつけておく。
このときの会議はネタバレをふせぐために、小声でないしょで行う。
他の班に聞こえないように配慮する。


さて翌週の月曜日が本番である。
黒板前に4つの席を配置。
さらに一つ、端の方に司会者席を設ける。

4つの席には、1班から4班までの班からひとりずつ、有志が座る。
手には班員のメモ用紙をもっている。これは先週末にあたためておいたネタが書いてある。
班の中で受けたネタには赤鉛筆で丸がついているので、それを言うことになっている。
班ではウケたネタなので、ちょっと安心して座ることができる。
まあ、ウケなくてもぜんぜんかまわないし、ウケないことに対して同じ班のメンバーがウケてくれるからおもしろい。
今回のネタは、
『たしかにおっしゃるとおりです。ですが・・・』

お題が出されたら、上記のように発言し、その後につづけて自由にしゃべる。
いつもの「笑点」と、雰囲気は同じだ。

拍手が多い場合は、司会者の判断でざぶとん(カード)が配られる。
カードといってもただのイラスト用紙なのだが、プレゼントとして班員がもらえるためにみんな頑張る、というわけだ。

例)先生のセリフです。「廊下を走ったんだって?」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、後ろから幽霊が追いかけてきたんです!

のような感じだ。



先生のセリフです。「遅刻したそうじゃないか!」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、今日にかぎって電車が遅れてしまって。
(徒歩通学でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。しかし、朝焼けがとても美しく、思わず日ごろの感謝を太陽に向かって拝んでました。今日のぼくがあるのは、先生のおかげです。だから遅刻はナシにしてください。

たしかにおっしゃるとおりです。けれども、朝見た雲の形がユーラシア大陸の形に見えたので、思わずあそこがイタリア、あそこはロシア、と社会の勉強をしていて遅れました。この僕の勉学に対する意欲だけは褒めてください!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、急にぼくの目の前にだけ、雪が降ってきたんです!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、朝ごはんの味噌汁が、ぼくだけめちゃくちゃ熱かったんです!弟はいいんですが、家族でぼくだけ猫舌なんで・・・

たしかにおっしゃるとおりです。だからぼく、めちゃくちゃ走ったんですよ!!ですが、遅いんですよ、足が!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、めざましテレビの占いで、あろうことかぼくが12位だったので、1位だった妹とけんかしてました。

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、名刺を忘れたことにさっき気づいて。
(小学生でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、夢の中ではしっかり登校し、すでに4時間目まで授業を受けてきたんで許してください。

たしかにおっしゃるとおりです。ナイショですが、なんと宇宙人がいたんで、ちょっとだけ話してきちゃいました。こんなチャンスはめったにないんで。

他にも、

友達のセリフです。「あれ?〇〇くん、シャツの後ろ前が反対じゃない?」

とか

近所の人です。「おたくのテレビの音量が大きすぎるんですけど」

のようなお題が考えられます。

IMG_7774

【笑点】言葉を増やすのが第一

言葉を豊かにしたい、と思う。
本を読ませたいが、それだけでもダメで、実際にやりとりができないといけない。
きちんとやりとりをさせたい。
なぜそう思うかと言うと、「言葉を有効に活用する能力をみると、今の子たちは力不足で、現実世界を生き抜くのに足りない」と思うからだ。

といっても、昭和の時代のわたしよりも、ちゃんとしている子がたくさんいる。
どういうことかというと、時代がそれ以上を要求している、ということ。
昭和ならそのまま「そんなものだからあきらめろ」となっていたことが、もうコンプライアンス的にあきらめるわけにいかず、解決しなければならなくなってきていることが多いと考える。

わたしは現代の方が幸福だと思う。
昔は泣き寝入りが多かったのではないかと思う。
また、世の中はそういうもの、で済ませていたことが多かったのだと思う。
たとえばいじめ、パワハラ、シングルマザーへの差別など。
しかし、時代はもう、「一人ひとりを最大に尊重する」ということができるようになってきた。だから、昭和とはちがう。正しいことはどんどんと推し進めるべきなのだ。

というわけで、今の子たちは、
要求されるレベルがこれまでよりも高い。
そのレベルに達することができるように、どの子も支援しなければならない。

その中心になるのは、「言語活動」である。
正しい語彙で、
必要な語彙で、
語彙を選択して、
論理的に、
わかりやすく、
相手に共感してもらえるように

話すこと。

これが求められているわけ。
しかし、こんなことは大人でも難しい。
大人でも、論理的に言語をうまくつかって、冷静に話し合える人の方が少ない。

そのため、学校では四六時中、言語をうまく使う、ということに注力して教育をする。

〇言いたいことが言えているか
〇必要な語彙を選択できているか
〇論理的に話すことができているか
〇(提案したいなら)提案できているか
〇(謝りたいなら)謝ることができているか
〇(励ましたいなら)励ますことができているか

どうしてそう思ったのか、という「理由の説明」はいちばんむずかしい。
大人でも、きちんと理由を説明できる人は少ない。
大人がかんちがいしやすいのは、自分では理由を説明した気になっていることだ。でも実際には、その人の「理由」は伝わっていない。これは子どもも本当に苦労する。

さて、小学生が習うべきなのは、

1)あなたは「〇〇〇」と言いたいのですね
2)そこでわたしは「△△△」と言いたいのです


という、基本的なキャッチボールです。


政治家の答弁などを聴いていると、記者の質問とはまったく無関係のひとりよがりの発言をして、問いに正対しない、という致命的なミスをしています。
これを小学生がやってしまうと、もう社会生活がおくれなくなるくらい、やばい。

相手のボールを、しっかりと受け取り、ああ、こう言いたいのだな、と把握する。
できれば、「あなたのセリフを自分はこう聞いた」、ということを確認するのがいい。
勘違い、聞き違いということも、世の中にはとても多い。リスクも高い。
相手の言い分を聞き、あなたの意見はこうなのですね、あなたはこう言いたいのですね、と。
そうすると、その時点でちがうなら、相手が訂正を出せる。
OKなら、その後、自分の意見を言えばいい。
その「きちんと相手の発言に呼応して、正対した対話をする」ということ。
これが、小学生の習うべき「言語活動」であります。

それを子どもたちが身につけるためのステップとして・・・(つづく)

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【図工】コンクールとは

ポスターコンクール。
夏休みの宿題で取り組む子が多い。

7月、夏休みに入る前に、一人の子が相談に来た。
「どんな絵を描けばいいのかわからないから、これまでの入選作品を見せてほしい」
とのこと。

コンクールは、基本的にお題があって、その趣旨に沿った作品を募集している。
だから、防火ポスターだったら火の用心とか、コンロの火を確認しよう、とか。
交通安全だったら「右左を見て渡ろう」とか。

ふつうはわかりやすいものなんだけど、今年の6年生は「人権」のポスターが募集案内で出ていて、その子はそれを描こうと思ったらしい。
たしかに、人権、というのは、アイデアがたくさんあって、しぼりきれないかもしれない。
人権というのは、生活のありとあらゆるところに垣間見えるものだし、人間生活、人間関係、どこを切り取っても、テーマが浮かびあがる。だから、ちょっと迷った、というのもわかる。

そのとき、わたしはこんなのが入選してるみたいだよ、ということで、前年度の入賞作品というのが紹介されているWEBページとか回覧物とかを見せた。
子どもは「ああ、こんな感じか」
と納得し、そのまま夏休みになった。

ところで、わたしはつい最近になって、そのことが思い出されるのであります。
ポスターはたしかにコンクールの募集があり、先方の都合で集めるものです。
だから、向こうがほしい、と期待される作品というものがある、のです。
たしかにそうだ。

ところが、なぜ子どもが迷うかと言うと、

「何を期待されているかがわからない」

ということなんだろうと思う。
期待に応えるために、その子は「ああ、前年度の入選作品をみせてもらえば、より傾向がわかるだろう」と思ったのだと思う。かしこいな。
傾向と対策、という大学入試向けの赤い本があるけど、そんな感じ。彼女なりに傾向を把握し、対策しようとしたんだろう。

ちょっとまてよ、とわたしはそこで思う。

なんだか、最初のスタートが弱くないか、と。
描きたいものがある、という子どもの意欲がまずあって、コンクールがあるのではないのか、と。
入選作品を見て、傾向と対策、というのは、なんだかちょっと違和感が出てきたのであります。

コンクールというと、なんだか子どもたちの意思がちょっとだけ置き去りにされている気がする。
あれこれ、子どもが考えた。あれこれ思った。
それを絵にしてみよう、と思った。
やってみた。
おもしろい絵ができあがった。
なるほど、とうなずけるところがあるし、発想に驚いたり、工夫がみえたりしてくる。
見てるだけで楽しいなあ、とにっこりする。子どもは楽しんで描いただろう、というのが想像される。大人はそれが至上の喜びになる。

順番はあくまでも、
子どもの意思⇒作品⇒大人がみて⇒おもしろがる
ということだろう。

大人のために子どもが描く、というのは、なんだか順番が違う気がする。

なんで順番が異なってくるのかというと、やはりそこに「賞」をつけたからなのでは?
それで釣ったからでしょう。
子どもはいともたやすく、釣られてしまう。子どもだもの、そりゃ釣られるよ、ということなのですが、これはやってはいけない範疇の『大人のパワハラ』なのでは?

賞をとったらすごい、みたいなのがあって、なんだか余計だよ。
もう、コンクールで賞を出すのって、やめたらいいのに。
出すなら、全員とてもがんばって描いてくれてありがとう、という感謝の言葉と参加賞でいいんじゃない?

芸術を振興するのが第一目的なら、絵画芸術を専門とする塾がコンクールをすべきだろう。
ちがうんやから。絵というのは、描きたくて描いて、よく描けたな、と自画自賛し、絵を描くのって楽しいなあ、人生に絵というものがあって、本当にいいものだなあ、良かったなあ。人間に生まれてよかった、というので十分なのでは。少なくとも小学生は。

コンクールを主宰する大人は、それを子どもにお願いして「見せてもらっていいかな」「いいよ」というやりとりをして、「すごく感動したので、ポスターに使わせてもらいたい」「ああいいよ」という流れが必要なのでは。

(学校の図工教育がずっと悩みつづけてしまっているのは、コンクールという大人の事情をすっぱり学校社会から切って捨てていないからなのでは)

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【高学年・総合】プラスチックが紙に変わってきている?

スーパーやお店で買っているもの。
以前はプラスチックだったのに、紙に変わってきているものがある。
なにかひとつ、見つけて報告しよう。

こういう学習をしたところ、子どもたちは写真をとってきて見せてくれたり、ノートにイラストをかいて説明してくれたりと、なかなか面白く活動ができた。

写真を撮るのは、とてもいい活動になる。
それを見せながら、説明する、ということが癖になっていると、物おじせずに発表できる子に育っていく気がするよ。
これは欧米ではShow and Tell と言われているらしい?
子どもに限らず、情報を共有する際の当たり前の行動。大人でもそう。

さて、どんなものが発表されたか。

まずは、キットカット。
チョコレートです。みなさんおなじみ。
しばらく前から、袋がプラスチックではなく、紙製になっている。

つぎは、コンビニのお弁当。
ふた以外が、紙製になったものが売られている。
紙だけど、水分にも負けないコーティングがしてあるらしい。

さらに、中身の見える紙製のクリアファイルも世に出ているらしい。
これなど、紙なのに中身が透けて見える、というのが驚きだ。
紙を半透明にするなどという、ちょっと以前なら考えられない技術も、どうやら実現しているらしい。

あとは、惣菜の容器、飲料のふたが、プラスチックの量が少ないフィルム状になってきているものもある。

東京ではスーパーのイオンが繰り返し使える容器でシャンプーや消臭剤、ガムなどを販売する「LOOP」というシステムを始めた。詰め替えられる商品がまだ限定的ではあるが、こうした動きはどんどんと加速していくにちがいない。

こうした動きは消費者の声が生きている。
つまり、「こんなことができたらいいのでは」という声をあげた、貴重な消費者の人がいる、ということだ。
そこには、「どうせそんなのしないよ、企業は金儲け主義だから」という冷めた感じがない。
きっと、企業だって過剰なエネルギーを削減しようとしている。消費者の本音をぶつければ、企業だって動く気持ちはもっている。そう信じた少数の消費者が、自分たちの意見を会社に進言した。

イオンは立派だ。
その声を、きちんと聴いた。
「消費者はうるさいもの、やっかいなもの」という認識ではなく、きちんと仲間として信頼しているところが立派だ。

そういえば、いつの間にか、ロールパンの包装の仕方が変わっている。
以前は、クロージャーという、きんちゃくのように袋の上部を留める道具がついていた。クロージャー

あれはまあちょっとだけ便利といえば便利だった。なぜなら、口を閉じて留めることができるから、なんとなく保存するのがやりやすかったからだ。
しかし、まあ、クロージャーは無くてもいい。別にわれわれがそこまで、求めているわけではない。今の包装の仕方だって、十分だ。袋の口をなんかで別のクリップでつまんでおくか、中身が少なければ、きゅっと袋の先をまとめてしばっておくこともできる。

これもプラスチック削減になっている。
最初にクロージャー廃止に動いたのはヤマザキパンらしい。企業内では社長をはじめ、みんな不安だったらしい。「なんでクロージャーをなくしたんだ!」と、消費者から苦情が殺到するのでは・・・。

しかし、一件もなかった。
すんなり、受け入れられた。
別に、消費者はそこまでクロージャーにこだわってなかった。

これは重要で、実は、「企業が考える消費者の希望と、実際の消費者の希望」とは、別だからでありますね。いっしょのように考えがちですが、実際はちがうのでした。
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考えてみれば、不思議です。
どうして、「こうではないか」と考えることと、実際の事実とは、異なってしまうのでしょう。
山崎製パンの社員は、消費者研究のプロですよ。でも、予想は外れるのですネ。プロでも失敗する。それが消費者マインド、というやつなのでしょう。

なぜ「会社」側の予測ははずれるのか
~ちっとも読めない消費者の気持ち~


↑こういう本がビジネス本で出版されていそうですが、小学校の6年生が総合的な学習の時間にこうした事例をたくさん調べるのも面白いですよね。

※紙製のクロージャーも開発されたらいいのに。

写真は、イオンのループ。
loo@

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