秀吉の学習に入る。
これまでの天下人、という人を列挙してみる。
どうでしょう。
ここまでみると、1番から5番までの人たちが、いかに官位にあこがれていたかがわかりますね。
2 藤原道長は関白になっています。しかし、3~5の人はだれも関白にはなれませんでした。
なぜなら、「関白」というのは、非常に特別な位で、藤原家の人以外はなれないのです。
関白とは、いっさいすべてを天皇に代わる、という位でしたから。
それで、古い時代に天智天皇(中大兄皇子)から特別に名前をいただいた、という中臣鎌足さん以後、「藤原家」の人には与えられますが、それ以外の血筋の方が「関白」につくことが許されなかったのです。
5の足利義満は、ぎりぎりのところまで行きました。
権力が頂点に達していたために、当時の中国「明」に対しては、「日本国王」と名乗りましたが、天皇を含め、世の中のだれも文句を言いませんでした。義満の権力がいかにすさまじかったか、わかるというものです。
義満さんは「関白」ではないけれど、なにかもっと特別な位がないか、自分にもらえないか、と思って待っていたようでしたが、あいにく待ちくたびれて病死します。
そうなると、やはり6 の織田信長は、特別でしょう。
なんせ、藤原家でもないのに、「関白をやろう」と天皇(朝廷)が言い出してますから。
なんでこんなに大盤振る舞いかというと、天皇はこの破天荒な新しい勢力をどう扱ってよいのか、途方に暮れていたかららしい。朝廷からすると、本来守ってくれるはずの「幕府」はまったく頼りにならず、どんどんとおいつめられていく。当の将軍である足利義昭は西国の大名を頼って右往左往しているばかりだし、京都は実質的には織田信長が仕切っている。朝廷はつぶされるかもしれなかったのであります。実際に、京都の御所はもう織田勢の支配下にあり、朝廷が信長のご機嫌をとるためには、もう「官位をあげよう」というくらいしか手がない。
このときの朝廷のサービスぶりはすごくて、正三位・内大臣をあげる、従二位がほしいか、正二位は、右近衛大将はどうか、右大臣をあげる、今度は左大臣をあげる、といった狼狽ぶり。
信長としては、もう天下を取ったも同然、ということであったでしょう。
さて、信長は本能寺で討たれ、その後の秀吉はどうだったのか。
結果ですが、ご存じの通り、
パンパカパーン!
関白太政大臣に無事になりました~!!
え、摂関家(藤原家)じゃないのに?
大丈夫です。
豊臣、という別のすごい姓を、天皇からいただいたのです。
つまり、奈良時代の藤原家の祖、あの「中臣鎌足」のマネですね。
あのときは中臣に対して「藤原」、というのをあげたんだから、ぼくには別のをくれ、というわけ。
そこで、「豊臣」をもらった。
で、藤原と同じくらい偉い、ということにしたので、その初代として
関白に
なれたのでありました。
秀吉は、頭がいいね。足利義満には、そういう発想がなかったみたい。
日本には藤原家しかない、という固定観念にとらわれていたから、関白は無理だ、と思ったのかな。
でも秀吉は、「藤原だって最初は天皇にもらったんだよな。じゃ、俺もくれよ。そうだなあ、中臣鎌足ってのがいたから、えーと、中臣ってのは中途半端だし、ようし、俺は豊臣で!」とアイデアが湧く人だった。
7 豊臣秀吉 関白太政大臣 武家も公家も両方合わせて組織しようとしてあえて将軍にならず ⇒死去
ということでありますね。
こう振り返ってみてみると、日本の歴史って、
1 蘇我馬子 大臣 天皇の爺となって大威張り⇒乙巳の変で自害
2 藤原道長 【関白】太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒武士の時代になってフェードアウト
3 平清盛 太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒源氏にやられた。藤原家でないために関白にはなれず。
4 源頼朝 征夷大将軍 貴族にならなかった⇒土地配分に失敗して建武の新政へ
5 足利義満 太政大臣 天皇の母の夫となって摂関家以上をねらうが失敗⇒応仁の乱へ
6 織田信長 関白・太政大臣・征夷大将軍が選べたがならず⇒本能寺で自害
だいたい、1の蘇我馬子のマネなんだなー。天皇の親戚になって関白になりたい、というのが、ずーっと続いてきたというわけだ。
これまでの天下人、という人を列挙してみる。
1 蘇我馬子 大臣 天皇の爺となって大威張り⇒乙巳の変で自害
2 藤原道長 【関白】太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒武士の時代になってフェードアウト
3 平清盛 太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒源氏にやられた
4 源頼朝 征夷大将軍 貴族にならなかった⇒土地配分に失敗して建武の新政へ
5 足利義満 太政大臣 天皇の母の夫となって摂関家以上をねらう⇒応仁の乱へ
6 織田信長 関白・太政大臣・征夷大将軍が選べたがならず⇒本能寺で自害
どうでしょう。
ここまでみると、1番から5番までの人たちが、いかに官位にあこがれていたかがわかりますね。
2 藤原道長は関白になっています。しかし、3~5の人はだれも関白にはなれませんでした。
なぜなら、「関白」というのは、非常に特別な位で、藤原家の人以外はなれないのです。
関白とは、いっさいすべてを天皇に代わる、という位でしたから。
それで、古い時代に天智天皇(中大兄皇子)から特別に名前をいただいた、という中臣鎌足さん以後、「藤原家」の人には与えられますが、それ以外の血筋の方が「関白」につくことが許されなかったのです。
5の足利義満は、ぎりぎりのところまで行きました。
権力が頂点に達していたために、当時の中国「明」に対しては、「日本国王」と名乗りましたが、天皇を含め、世の中のだれも文句を言いませんでした。義満の権力がいかにすさまじかったか、わかるというものです。
義満さんは「関白」ではないけれど、なにかもっと特別な位がないか、自分にもらえないか、と思って待っていたようでしたが、あいにく待ちくたびれて病死します。
そうなると、やはり6 の織田信長は、特別でしょう。
なんせ、藤原家でもないのに、「関白をやろう」と天皇(朝廷)が言い出してますから。
なんでこんなに大盤振る舞いかというと、天皇はこの破天荒な新しい勢力をどう扱ってよいのか、途方に暮れていたかららしい。朝廷からすると、本来守ってくれるはずの「幕府」はまったく頼りにならず、どんどんとおいつめられていく。当の将軍である足利義昭は西国の大名を頼って右往左往しているばかりだし、京都は実質的には織田信長が仕切っている。朝廷はつぶされるかもしれなかったのであります。実際に、京都の御所はもう織田勢の支配下にあり、朝廷が信長のご機嫌をとるためには、もう「官位をあげよう」というくらいしか手がない。
このときの朝廷のサービスぶりはすごくて、正三位・内大臣をあげる、従二位がほしいか、正二位は、右近衛大将はどうか、右大臣をあげる、今度は左大臣をあげる、といった狼狽ぶり。
信長としては、もう天下を取ったも同然、ということであったでしょう。
さて、信長は本能寺で討たれ、その後の秀吉はどうだったのか。
結果ですが、ご存じの通り、
パンパカパーン!
関白太政大臣に無事になりました~!!
え、摂関家(藤原家)じゃないのに?
大丈夫です。
豊臣、という別のすごい姓を、天皇からいただいたのです。
つまり、奈良時代の藤原家の祖、あの「中臣鎌足」のマネですね。
あのときは中臣に対して「藤原」、というのをあげたんだから、ぼくには別のをくれ、というわけ。
そこで、「豊臣」をもらった。
で、藤原と同じくらい偉い、ということにしたので、その初代として
関白に
なれたのでありました。
秀吉は、頭がいいね。足利義満には、そういう発想がなかったみたい。
日本には藤原家しかない、という固定観念にとらわれていたから、関白は無理だ、と思ったのかな。
でも秀吉は、「藤原だって最初は天皇にもらったんだよな。じゃ、俺もくれよ。そうだなあ、中臣鎌足ってのがいたから、えーと、中臣ってのは中途半端だし、ようし、俺は豊臣で!」とアイデアが湧く人だった。
7 豊臣秀吉 関白太政大臣 武家も公家も両方合わせて組織しようとしてあえて将軍にならず ⇒死去
ということでありますね。
こう振り返ってみてみると、日本の歴史って、
1 蘇我馬子 大臣 天皇の爺となって大威張り⇒乙巳の変で自害
2 藤原道長 【関白】太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒武士の時代になってフェードアウト
3 平清盛 太政大臣 天皇の爺となって大威張り⇒源氏にやられた。藤原家でないために関白にはなれず。
4 源頼朝 征夷大将軍 貴族にならなかった⇒土地配分に失敗して建武の新政へ
5 足利義満 太政大臣 天皇の母の夫となって摂関家以上をねらうが失敗⇒応仁の乱へ
6 織田信長 関白・太政大臣・征夷大将軍が選べたがならず⇒本能寺で自害
だいたい、1の蘇我馬子のマネなんだなー。天皇の親戚になって関白になりたい、というのが、ずーっと続いてきたというわけだ。