30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年08月

勝手に名前を付けるのが良い、という話

夏休みの後の楽しみは、子どもたちの日記を見ることだ。
これはまちがいない。
全国の小学校の先生たちも、これには異論がないだろう。
だって、すこぶる面白いもの。

それに、ああ、愛されているなあ、ということを感じると、とても心があたたかくなる。
子どもたちのために、とがんばっている親の思いにぐっと共感もできる。

今回も、始業式後の初の土曜日に、学校でまだ読み切れていない日記を出して、すべてにコメントを書いてきた。休日のしずかな学校で、じっくりと読んでいると、たまにひとりで声を出して笑ったりする。

コロナ禍のために、多くの子は出かけることをせず、せいぜい隣町のおばあちゃんの家で花火をしたり、おじいちゃんと虫を捕りに行ったりと、今できることで精いっぱい楽しんでいる。
他県など、遠くへ出かけたことを書いた子はほとんどいなかった。

「イベントがなくひまだったので、お姉ちゃんと面白い遊びを考えて、ずっとやってました」

というのや、

「サッカーの練習も試合も無くなってしまったので、イモリに餌ばかりあげていました」

というものがある。

イモリを飼う子は、家のガレージの屋根の下に、巨大なテーマパークのごときイモリパークをつくっており、水草を入れたり砂を入れたりし、イモリが飽きないようにと、レイアウトというか部屋の模様替えを頻繁に行って時間をつぶしたそうだ。

「とちゅうで一回、イモリが見えなくなったので探したら、砂に埋まってました」

もはやその模様替えはイモリのため、ではあるまい。


ところで、子どもたちは鳥や昆虫やおもしろい花を咲かす植物などに興味を持つが、一般に〇〇博士、というレベルに達する子には、共通しておもしろい習性があることに気づいた。

それは、「とりあえず名前をつけておく」という乱暴なふるまいであります。

こういう「めっちゃ〇〇が好き」という子たちは、図鑑ももちろん大好きなのですが、小学生用の図鑑に載っていないような鳥だとか虫とかに、勝手に名前をつけます。

ここで、それは正式ではないから、だとか、勝手に名前つけちゃだめだし、だとか、私はくわしくないから、とかというように、

「世の中の正しさにこだわる子」

は、〇〇博士にはならない。

これがわたしにとっては、不思議なことであります。
だって、勝手に名前つけるのって、いいの?ということがあるでしょう。
結局その名前って、世間的にはまちがい、なのですからね。

そういう意味で、教室に生まれてくる〇〇博士は、大胆不敵な子が多い、のです。
ぽにょぽにょ虫、だとか、きれいな鳥に「カラカラ」とかつけちゃいます。

あとで、その生き物の正式な名前がわかるのですが、

「わたしのつけた名前の方がいいのになあ」

という自負がある。

つまり、その虫のことをどれだけ好きになれたか、というものさしで見ているために、昭和の昆虫学者や鳥類学者なんかよりも、わたしのほうがすごい、という感覚をもつことが可能なわけ。

このくらい破壊力がある感性をもっていると、死ぬときに後悔などなく、幸福なまま死ねそうです。

というか・・・
なんでわたしたち大人は「正しさ」にこだわり、自分の中の、これが好き、という感覚を虐げてしまうのでしょう。世の中にいるであろう「その道に詳しい方」のイメージと自分とを競争させたあげく、自分を卑下し、ああ私たち下々の者にはこの虫の魅力など到底わかりっこないでごぜえやす・・・というように自信を失ってしまうのでしょうね。

わたしはこの鳥が好きになった。そのため、このカラフルな鳥に、カラカラ、という名前を与える!

という行動が、「まちがえている」「よろしくない」と非難されてしまう・・・そんな世の中にはならない方が、わたしたちは、その鳥との間に豊かな関係・生き生きとした関係をむすべるような気がします。

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腕時計をしろ、という話

夏休みが終わり、学校がはじまる。
正直、ああたいへんだなあ、またはじまる、とか思うネ。
ゆっくりしたペースで暮らすことができていたのは束の間、また2サイクルエンジンのような、秒単位の生活が始まるわけだ。

最初の1日目、わたしがいつも心がけているのは、『45分間の体感時計が狂っていないか』ということ。
教師を長く続けていると、最初の5分と中盤の15分、最後の10分、5分、というように、どこかで「チーン」とアラームが鳴り、45分でひとまとまり、という体内時計ができてくる。つまり、45分間の授業がちょうど終わるように、脳内に時計ができるんですな。
一番大事なのが「そろそろ残り5分を切るぞ」という、『最終アラーム』なのですが、これが時計を見なくてもわかるのです。子どもがどれだけ作業に熱中していても、教師の側に「あ、そろそろかな」という感覚が生まれてくる。
これが狂うと、わたしが最後の「ではこれで終わりにしましょう」というあいさつの前に、チャイムが鳴ってしまう。そうすると、休み時間に食い込むため、ちょっとばかり子どもたちがかわいそうでしょう。

一番良いのは、わたしが「終わりましょう」と言い、当番さんのあいさつが終わったあと、ちょうど30秒後くらいに「キーンコーン・・・」となるのがいいですね。
子どもたちも、なにか心に余裕があります。

・・・腕時計すればいいだけや。

・・・もっといえば、ちゃんと振り向いて、黒板の上の教室の時計をみればいいんや。

それをしないで、体内時計に頼るのはアホだね。

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【6年・道徳】コンコルド効果を授業する

あなたは、70キロほど離れた街で開催される、バスケットボールの試合を観戦する計画を立てました。あなたはすでに前売りチケットを5000円で購入しています。ところが、試合当日の天候は猛吹雪で試合会場に行くのはとても危険です。さて、あなたはどうしますか。

1:試合会場に行く
2:暖かいあなたの家でテレビ観戦する

みなさん、どちらを選びます?

サンクコスト、という言葉があります。
もしかしたら「コンコルド効果」という言葉の方が知られているかもしれない。

わたしは幼い時に図鑑でコンコルドを見たときから、
「大人になったらこれに絶対乗る!」と決めていた。
そういう少年は多かったと思う。なぜなら、音速以上で飛ぶ唯一の民間飛行機だからだ。
マッハ2で飛ぶコンコルドは、音を置き去りにして飛ぶために、乗客は完全な静寂を体験する。まったく音のしない乗り物、というわけだ。聞いただけでワクワクした。
いつか音速越えを体験してみたい。わたしはそう思ったが、その夢はかなえられない。
なにしろ、もうコンコルドは全機、廃棄されている。

なぜそんな立派な超音速旅客機が廃棄されたかというと、
コストがかかりすぎたからであります。

実は、そのことは、コンコルドの設計段階からわかっていた。
これ、飛ばしたらえらい金がかかるぞ、と。
それに、乗りたいという客は多いだろうが、たかが1時間程度早いだけで10倍の料金を払おう、という客がいるだろうか。チケットはどの席も当時の価格で100万円以上した。

コンコルドは世界一の赤字運営となった。飛ばせば飛ばすほど、会社は倒産に近づくのであります。

なぜ、そんな欠陥だらけの赤字旅客機をつくろうとしたかというと、これはもう、第二次世界大戦中の日本と同じで、設計や実験の段階で相当なお金をかけてしまっていたからで、
もうこれだけお金を使っちゃった以上、
もうこれだけエネルギーをかけちゃった以上、
いまさら、あとにはひけないよ

という感覚があったからであります。
これを、コンコルド感覚、コンコルド効果、というのですね、心理学の世界では。

近頃は、こうしてすでに支払ってしまった資金や労力のことを、「サンクコスト(埋没資金)」とよぶのでありました。くわしく書くと、【埋没費用 とは、事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力のこと】だそうです。(わたしは最近知りました)

合理的に考えると、リスクとペイをしっかりみて、さきほどのバスケの試合でも、事故の危険や生命のリスク等を考えれば「家で安全にテレビで試合を楽しむ」ことができるわけだが、すでにお金を支払ってしまい、それはもう取り返せないのですが、惜しい、という気持ちが湧いてきて、危険だけどバスケの試合に出かける方を選ぶ人が多いのだそうです。

では、次の場合はどうだろうか。
試合当日の天候は、先ほどと同じく危険な吹雪です。ただ、観戦チケットは運よく友人からプレゼントされたものです。さて、あなたはどうしますか。

1:試合会場に行く
2:暖かいあなたの家でテレビ観戦する
コストがかかっていないと考える人がほとんどなので、もうすでに引き返せない、とか、ここまでがんばったんだから、という思考は働きませんね。当然、2を選ぶでしょう。


なぜこういう話を出したかと言うと、こういうのを、小学生も勉強した方がいいのでは?と思うからです。道徳なのか、なんなのかナ・・・


パラリンピックやオリンピックも、サンクコストが惜しい、という気持ちで選んでないかな・・・
ちょっと不安になりますね。
こんだけ準備したんだしとか・・・まさかね。

さて、おまけにもう一つ。
みなさんは、次の事例、どう思いますか?

あなたは、国家資格が必要な、ある職業に憧れ、学生時代に必死に勉強しました。猛勉強の末に国家資格を獲得し、あなたは憧れの職業に就けました。

3年間ほど勤めたものの、その仕事はあなたが思っていたような仕事ではなく、憧れた当初の志も失われてしまいました。働く中で、他に興味のある仕事も見つかり、「他のことに挑戦してみたい」という気持ちも強くなっていきます。こんなとき、あなたならどうしますか。

これ、正解はないと思うのですよ。
自分でとことん考えて、そうするしかないのかな、と。
しかし大事な点がある。これらを判断する際に、くれぐれもサンクコストにとらわれないこと。
できるだけ、コンコルド効果に陥らない、ということが、とても大事だと思うネ。

コンコルド

麻痺していく言語感覚と価値観のゆらぎ

1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説。
それが「1984年」だ。
これを教材にできないかと考えている。
SDGsを学んでいくうえでの大切な視点を、子どもたちが学べると思うからだ。

物語の中は、特別な世界だ。
この世界の市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

これは子どもたち自身が感じ始めていることと、非常にリンクする。
たとえば、学校で使うipadは、すべて検索の履歴や表示の履歴が教育委員会のサーバーに残っている、と聞いて、
「え?これみんな親にばれるの?」とTくんが不安な顔つきになったのもつい最近ことだ。
Tくんはそれ以後、ipadでゲームの検索をするのをあきらめた。
いわば、実体験があるから、「当局によって監視」されているというのは、よくわかる。いや、これまでのどの時代の子どもたちよりも、このことの意味はものすごく肌で実感できるのだと思う。
つまり、ようやく、時代が追い付いてきたのだ。この「1984年」というSF小説を教材とする、もっともふさわしい時代になったというわけ。

1984-Big-Brother
小説では、主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄(かいざん)作業を行う。それが彼の仕事業務なのだ。
改ざん、ということの意味について、小学生の子には今一つぴんとこないだろうが、中学生以上なら理解できるだろう。
つまり、1984年は「・・・ということになっている」という建前が唯一の判断のもとになる世界であり、けっして【合理的な事実】によって何かを判断するのではないのである。

さて、この1984年の世界については、もっとも大切な「嘘とはなにか」が、SDGsにはもっとも大事になってくる。具体的には、SDGsの数々の目標を達成するために、どうすれば良いのか、という点について様々な考えや視点があるが、なかには合理的で実際のものではなく、虚構や偽りがまぎれこんでいるかもしれない。ここは重要なポイントだ。

たとえば、プラスチックではない、紙ののストローを使っているからわたしの消費行動は善である、という論理はどうだろう。ストローを植物繊維でつくる紙製のものに替えたら、その人の行動は残りも含めてすべて〇(まる)かというと、そうとは限らない。しかし、「わたしはこんなに気を付けている」(だから他のことは多少どうだっていい)という免罪符になってしまうのではないか、という点だ。
これが企業規模になると、もっと大きな話になる。庭に草木を植え、社員がマイカー通勤をしないからエコに取り組んでいるのだとしても、当の企業が地下水を汚染したり必要以上に汲み上げたりしているのなら、SDGsに資しているとはいいがたい。

そういう意味で、SDGsには厳しい「内省の目線」が必要であり、大きくは前進することが難しくても、一人ひとりが自然や社会に対して真摯に向きあうことが大事なのだ。そして、人として『お天道さま』に恥じない行動をとろうとするることが重要なのである。それは決して、「見た目」をとりつくろう精神では達成できない。周囲にうしろ指をさされるからやるとか、悪い評判がたつのを防ぐため、というのではだめだ。「わたしはとりくんでいる」ということにしておこう、というのでは不純である。形や見た目、体裁をととのえる目的ではSDGsは成り立たないのだ。「ということにしておく」という建前では、意味がない。あくまでも、合理的・実際的に、事実として目標達成に近づくのでなければ。

そのことを小学生が学ぶために、SF小説を授業の教材に持ってくるのは、いささか飛躍しすぎだという人もいるだろう。しかし、事実よりも「・・・ということになっている」ということにする、という欺瞞が、この小説ほどにわかりやすく示されているものもないと思われるため、これを選ぶしかないのが現実だ。

他に、身近な事例があればそれを教材にしてもいいのだが・・・。

最期に、1984年の世界でもっとも有名な言葉を紹介しよう。
この小説の中では、町中に党のスローガンが掲示されている。
戦争は平和である (WAR IS PEACE)
自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

人々は、この矛盾した言葉を何度も頭に叩き込むことで、違和感をなくしていく。
当初はふつうに「おかしいな?」とか「それは筋が通らない」などと思っていても、どんどんと教育されていき、しだいに「感覚がマヒしていく」のだ。

「WAR IS PEACE」を連呼するうちに、麻痺していく言語感覚。
これらは、二重思考、と呼ばれる、思考コントロールの技術だ。
アクセルとブレーキを同時に踏むかのような、本来は矛盾した言葉を繰り返すことで、人の感覚は麻痺していく。
つじつまがあわなくても、しだいに平気になっていく、困惑した心理。
筋を通すのが本当だ、という感覚がなくなっていき、「どうでもいいや」となっていく思考放棄。

1984年の世界では、この「言語感覚の麻痺」こそが、みんなが落ち着いて暮らせるすばらしい社会にするための、最初の政策だ、ということになっている。

政府が、人々の「まっとうな言語感覚」を放棄させるため、あえて意図的に仕組んだ言葉とロジックの破綻(はたん)この作戦がじわじわと人々の心に作用し、ついに1984年には、主人公のスミスは、心を破壊させてしまう。スミスは愛情省の「101号室」で自分の信念を放棄し、党の思想を受け入れ、処刑される日を想って心から党を愛するのであった。

きちんと筋を通したい、と思う子どもが育つか、あるいは
筋など通さなくても、どうでもいい、と考える子が将来の日本をつくるか。
この「1984年」こそが、教科書に載るべきだと思うネ。なんたって、今年の大学共通テストの世界史Bにこの小説が出題されてるんすからナ・・・。

世界史B
1984年

笑福亭仁鶴さんの思い出

笑福亭仁鶴さんがお亡くなりになった。
ニュースを聞いて、また一つ、時代が終わったという感じがして、椅子に座り込んだ。
枝雀さんが亡くなり、米朝師匠も亡くなった。
東京では志ん朝さんが亡くなり、小さん師匠に柳昇さん、文治、柳橋、円楽さんも亡くなった。
忘れちゃいけない、立川談志さんもだ。

米朝師匠の訃報を聞いたとき、呆然としていたら、その後すぐに入船亭扇橋師匠も亡くなって、くやしくて泣けてきた。もう一度、見たい、そのうち見れる、会える、と浅はかにも思っていた。
それから、春団治師匠も可朝さんも、歌丸さんも亡くなった。

寄席(よせ)というのは、一番ホッとできる空間だ。
演者は精一杯の配慮をする。
お客さんは素直に楽しむ。

そこでは、一対一の関係だ。
演者と客は、一対一なのだ。真正面からの、「お互い」なのだ。
噺が終わると、こちらも不思議とお辞儀をしたくなる。そのお互いの関係が、仁鶴さんとはもう結べない。

高校生の頃に名古屋の「なごやか寄席」に出てくれた。ラジオ番組の収録だ。
前から3列目で仁鶴さんを見ていると、この人は顔と声のトーン(質)で、ものすごく得をしているな、と気づいた。もちろんお顔はご本人のおっしゃる通りで四角くて大きく、口が横にも縦にもよく開いて動く。しかしながら声はしっとりとしていて、聞いている人を落ち着かせる。
最大の特徴は眉で、これは各方面からも指摘がある通りだ。仁鶴さんの評にはたくさんの識者がこのことについて書いているが、眉が上がっても目つきがするどくならず、逆に小さな目が一生懸命にまっすぐを見つめるためにこの人の素朴さや正直さが強調されてくる。
ボンカレーのCMやモルツのCMでも、目を一生懸命に見開こうと眉をあげればあげるほど、他の人にはないくらいの「努力」を感じさせる。最大に見開いたとしても、その小さな瞳は小さなままだからだ。だから、多くの人が、この人の顔やしゃべりに、圧迫感を感じない。

圧迫感を出さない、逆に素直で純なものを感じさせる。
それが、この「眉」なのだ。このことは、芸人の最大の長所であったろう。
人は、「どうだ、すごいだろう」を見たいわけではない。
そこが、芸だ。

テープで一番聞いたのは「道具屋」「初天神」「青菜」だったか。
近所の図書館で借りたのを、ダビングして自分で何度も聞いた。
噺が短いから、覚えようと思ったのだ。
でも覚えられなかった。やはり言葉のイントネーションが違う。関西の落語は名古屋の高校生にはまねができなかった。仁鶴さんは、あの「眉」で、あの「声」だからこそ、面白かったのだ。
とぼけた感じや、やさしい話し方が好きだった。

今、日本中が訃報に接して暗くなっている。
エンゼルス・大谷選手の40号のホームランで一瞬だけ明るくなったが、一時しのぎだった。
仁鶴さんの訃報を聞いて、喪に服す人は多いだろう。
仁鶴さん、浄土よりこちらの世界をどうか優しく見守ってくださいね。
合掌。

仁鶴師匠

義民たちの尊い犠牲の上に今の生活がある

平和は、願ったり叫んだりしてもやってはこない。
どうすれば次の世代につなぐことができるのか。
夏は、その重みを痛感する季節だ。
とくに、昨日は8月15日。いろいろと考えることがあった。

特攻隊という人の命を無駄にする、悪魔の所業があった。
その作戦を立て、命令する、ということがあった。
想像すらできない世界だが、実際のこと。
それから、まだ100年も経っていない。

特攻隊経験者は語る。
「特攻隊が【無駄死に】するなどのの犠牲があって、その犠牲を強いた犯罪に対する深い反省と悔恨があって、今があることを忘れてはいけない」。

深い反省と悔恨、二度と繰り返さない、という覚悟が今の時代の繁栄を支える基本。
それは、人類が学んだ、貴重な「学び」だ。
人は悪魔にもなれる。
これは現実だ。
目をそむけるわけにはいかない。

わたしの姉はフランスにしばらく住んでいた。
姉は、よく日本の市民の意識と、フランス人の意識の違いを評して、こんな話をした。
フランスの市民は王政を実力で撤廃した。
だから、今でも政治が気に入らなければ声をあげる。
自分が認めた政治の仕組みでなければ、おおいに意見を言うのが伝統であり、市民としてのアイデンティティを支える根幹なのだ。

日本もそうだ。
王政ではないが、「天皇は現人神」という理念を撤廃した。
そして、やはり自分たちが納得できる政治をつくろうとする。
人間はおろかになりがちだ。権力を持つと、その蜜の味を知り、私利私欲に走る。そして、市民の生活を顧みない政治家が出現する。フランスのように日本もかつては声をあげてきた。

日本の市民革命ともいうべき動きは、たくさんあるが、なかでも有名なのが【加助騒動】だろう。
長野県安曇野市にある貞享義民記念館のサイトにはこう紹介してある。
貞享騒動は貞享3(1686)年、松本藩で起こった百姓一揆【ひゃくしょういっき】。この年、松本藩では、米が不作だったのに、1俵あたり年貢米を3斗(1斗=約18リットル)から3斗4、5升(10升=1斗)に引き上げる決定をしました。周辺の藩は1俵あたり2斗5升だったため、加助らが立ち上がり、年貢米の軽減を求め、訴状を提出、各地から多くの農民が結集して、騒動になりました。訴えはいったん聞き入れられました(後略)。

わたしはもっとも気の毒なのは、王、であると思う。
権力を持つことを強いられ、本心では願わないでも、大勢の取り巻きに囲まれ、いいように利用される。これは結局、精神的に支配されているのと同じだ。王はなにも意のままにできないのである。なぜなら、その立場を利用する者がいるからだ。

はだかの王様、という泣ける童話がある。こんな童話があること。それ自体が証明している。
王、という立場である人間こそ、もっとも意志を曲げられ、なにも知らされず、ただ周囲に利用されるだけの存在なのだ。

上述の安曇野の義民たちは、訴状を出して政治を動かしました。
しかし分を超えたふるまいであると処罰されます。一揆を扇動した首謀者であることから、加助は処刑されるのですが、ともかくも自分たちの意思で、政治を動かして見せるという尊い行動でありました。処刑され、いのちは奪われたのですが、この尊い命の犠牲の上に、今のわたしたちの生活があるといってもよいでしょう。

今は亡き義民たちの存在を胸に刻み、「彼らの犠牲を忘れないでほしい」と願う。過去を正しく知り、未来に継承することが、今を生きる人の責務だと考えるからだ。

政治にものを申せる社会。
納得のいく政治をみずからがつくっていく社会。
けっして、はだかの王様を世に生み出さないと知恵を働かせ、一握りの者に権力を独占させたり、にぎらせたりすることのない社会。

「義民たちの犠牲があって、今があることを忘れてはいけない」。

この夏、義民記念館を訪問し、あらためて考えたことでした。

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上の写真は、東京朝日新聞に連載された「義民嘉助」。
この連載物の作者は、樋口一葉と恋人関係にあったと噂された、半井桃水(なからい・とうすい)。

作者の半井桃水は、この連載の最後に、このように記しています。
「昔時領主の暴政にたえず、百姓の疾苦を見かねて、奮然犠牲となった義民が、めいめいの裡(内面の意味)に教訓を与えて、永く郷党(郷土の意味)を益する事は、言うまでもない遺徳である」
今の世にも通ずる、考えさせられる一文だと思います。

侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!

『侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!』
という記事が、スマホの画面を派手に飾る。
どの記事も、選手ががんばった様子やうれしがっているコメントを載せている。
識者が「感動した!」と興奮する様子が、だいたいその記事の後半にくっついている。

オリンピックのこの報道。
スポーツをさらに面白くするためには、この報道のスタイルをほんの少し変えることだ。

野球は世界的にみると非常にマイナーで、人口の少ない競技であります。
だからなかなか参加する国も少ないし、これまでも五輪の公式な競技にはならない場合があった。

私自身はそのことをとても惜しいと思うし、クリケットと比較してもそん色ないほど、ベースボールはショーとして見ごたえのあるスポーツだと思う。

五輪での日本の金メダルは、「野球がこんなに面白い」というのをアピールする良い機会だ。しかし、金メダルをとった、というだけの報道しかないのは惜しいことだと思う。

多くの人にとって、野球のルールや面白さは、あまりよくわからないと思います。
それは言語化されないし、記事にもならないから。
ところが、野球というのは、たった一球にドラマが詰まっているのです。
その1球を、解説してくれたら、もっともっと、野球の楽しさが伝わるのに、と思うのです。

たとえば大昔のことですが、「江夏」という大投手がいました。
この江夏の話で、ノンフィクションの小説が出ているのをご存じでしょうか。
1979年の11月4日に大阪球場で行われた、プロ野球の日本シリーズの第7戦の近鉄バファローズ対広島カープの試合で広島のリリーフエースである江夏豊が9回裏に投球した全21球のことを、小説にしたのです。あるいはこの話は、NHK特集で1時間の番組にもなりました。
なぜこんなに注目されたのでしょう。

それは、「投球内容が詳細に説明された」からです。

実は、毎試合ごとに、野球と言うスポーツには壮大な物語が生まれているわけですが、だれもそんなの気にしていないために、記者は記事に書いたりはしないのです。
これは逆なんだと思います。
記者が、そこを記事にするようにしていくと、多くの人が野球の本当の醍醐味を知り、

おもしれえなー

と興奮するようになるのです。

ふつうの人にとっては、解説がなければわからないのです。
なにも見ないで聞かないで、試合を見ているだけでそこまで到達できる人は、ほんの一握りのマニア、というわけです。

江夏の21球とは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。
両チーム初の日本一をかけた日本シリーズ。
近鉄も広島も、両チームが譲らず、3勝3敗で迎えた第7戦のことでした。
7回表が終わった時点で4対3と広島カープがリードしていました。

広島が1点リードで迎えた9回裏。
日本一をかけ、江夏豊がマウンドに上がります。
江夏の投じた1球目は、6番羽田耕一にセンター前ヒットを打たれ、広島に暗雲が立ちこめます。
近鉄は1塁に代走を送ります。羽田に代わり、シーズン代走盗塁記録をもつ藤瀬史朗を送ります。

ここで、球場は割れんばかりの歓声につつまれます。
藤瀬選手は、ものすごい足が速く、この年には盗塁をばんばん決めていたからです。
江夏はピンチを迎えます。

ノーアウト1塁。
迎えた7番クリスアーノルドに対して、江夏はボールを2つ続けて出してしまいます。
この時、もちろん江夏バッテリーは盗塁を警戒するわけですから、こうなるのも無理はない。

4球目に見逃しのストライク。

さらにこの後です。

5球目にボールとなるのですが、藤瀬がスタートして盗塁を決めます。おまけにキャッチャーの送球がそれてしまい、ノーアウト3塁という決定的なピンチを迎えるのです。

やばいですよね。
心臓がバクバクする展開です。
ノーアウトですよ。
同点のランナーが3塁にいるんですよ、それも足の速いやつが。
そして、カウントは1ストライク3ボール。

決定的に不利じゃないですか!

このあと、21球まで江夏は投げるのですが、結局0点に抑えて、広島が優勝するのです。

1球ごとに、江夏と水沼捕手との間に、あるいはベンチとの間に、言葉ではない、水面下の作戦が展開されるわけですが・・・

こんなもの、球場で見ている人にもわからない。説明されないと。
しかし、説明されると、すげえなあ、となる。

そうなのです。
野球は小さな活動が一つ一つ、積み重なってゲームを構成する。極端に言えば、投手の投げる一球ごとにドラマが枝分かれしていく。
だから、そのドラマの行方や可能性をさまざまに考え、実際の投手と捕手がどう判断するか、それらを野手が理解して動けるのか、そこがみどころなのだ。

しかし、それを選手と同じように感じたいと願うなら、さまざまなデータや意味の把握に長けた解説が必要になる。

うまく解説し、どうして選手がそこで悩んだのか、なせその行動を選んだのか、教えてくれる人が必要なのだ。

前の打席でこの球をファールにされているから、組み立ては似ているけれど最後の1球だけ全くちがう球種にして裏をかこう、と捕手が考えたとする。

しかし、投手は自分の制球が今一つ調子が良くなく、最後のスライダーがすっぽぬけたら『まずい』と考える。

投手が首を振ると、捕手はその意味をすぐに理解し、ではちがう作戦に出よう、とまた新たな提案をする。

たった数秒間にこれだけの情報のやり取りを行うわけです。球場でもテレビ中継でも、それらをぼーっと見ているわれわれのような大多数の観客には、その意味がなかなかつかめない。やはりマスコミがそれを解説してくれることが必要だ。

今回の五輪報道でも、江夏の21球のように、この回のこの投球の組み立てはどうだったのか、と細かく教えてくれるといいのだが。

野球ファンが新たに増えるチャンス。
ぜひNHK特集で、今回の五輪のこまかなドラマの内実を、詳細に伝えてほしい。

きっと、江夏の21球、魔術のような「スクイズ外し」に負けないようなドラマがあっただろうと思うね。

スクイズ外し

【悲願の金】←変わるかも

子どもたちと15年間ほど、毎日いっしょに暮している生活が続いている。
なんとなく感じているのは、これまでとは常識がちがってきている、ということ。
マスコミがつくってきたストーリー、映画でつくられてきたストーリー、世間でよく語られてきているストーリーとは、またちがった個人のストーリーをたくさん見てきた。
そして、人々が求めているものは、必ずしも、世間で語られる価値観とは一致するわけではない、ということに、遅ればせながら私も気付くことになった。

「みんながみんな、〇〇がほしい、というわけでもないよね」

こういう話をすると、多くの人が、「そりゃそうさ」と言う。
みんながみんな、ポルシェに乗りたいわけではない。
場所や用途によってはポルシェは不要。
ポルシェはかっこいいけど、堆肥を積むのは軽トラが良い。
そんなことはみんなわかっている。

実はそんなことをねがっているのではない、というのはよくある話だし、自分のことをふりかえると、たしかに実感できる。

そこで、以下を考えてみてもらいたい。
金メダルがほしいか、といわれると、「そうでもない」という人がいることに、あなたは驚く?それとも、それはそうだろうな、と思う?

これを子どもに聞いてみる授業を、2学期になったらやってみようと計画している。

なぜこんな授業を思いついたかと言うと、日刊スポーツの以下の記事を読んだからである。
https://www.nikkansports.com/sports/column/ogishima/news/202108040001225.html
2021年8月5日1時48分:
「国も順位もなし」がスケボーの常識 このカルチャーで「五輪が変わる」

スケボーの世界には、より難易度の高い技に挑戦することにリスペクトがある。
それを尊重しあい、お互いに励ましあう。成功すればみんなで喜び合う。
「いっしょに競技をする相手を応援する」「相手の成功を願う」
そこには『個人』はあるが、国の別や政治の力は働かない。政治を寄せ付けない、と言うべきだろうか。

また、結果よりも過程を重視する、という感じがある。
結果がどうあれ、どう挑むか、挑む気持ちがあるか、挑戦しているか、ということに最大の注視がある。だからなのか、金メダルだった、銀メダルだった、などに興味関心がそれほどいかない。もっというと、どこの国の選手がメダルをとったかなどは、話題にすらならない。そもそも、自分の国籍に頓着していない。人気にあやかりたい政治家にとっては、もっとも扱いにくい選手たちになっている。

マスコミも、どう報道してよいか悩んでいるふしがある。
よく記事のタイトルに「悲願の金」という言葉が使われる。
「金にしか意味がない」とメダルの色にこだわるのは、よく聞く話だ。
それは間違ってはいない。柔道でもレスリングでも他の競技でも、間違ってはいない。

しかし、スケボーには「悲願の金」という使い古した定番の文句が書けない、使えない。
記事を書く人間は、スケボーにだけは、苦心してタイトルをつくらねばならない。

金メダルが悲願ではないと?
では、選手はなにを願って、人一倍つらい練習をこれまでしてきたのか?

スケボーに出場する個人は、一人ひとり、ちがう人格をもつ。
その一人ひとりが、いったい、何を願っているのか。
それが国威発揚のためでもなく、親や恩人・コーチのためでもないのなら、いったい何を願っているのか?
金メダルを取ることが、目的ではないのだとしたら?

これを授業の核に据えたらどうか。

スケボーの選手たちは、なにを願っているのだろうか?


子どもたちは、いったい何を感じ取り、どう考えるだろうか。

スケボー

【心配】修学旅行行けるのか?

9月末に実施予定の修学旅行。
わたしの勤務校では、県内に予定を変更して計画してきた。

ところが、予測に反して、以前よりもコロナ禍の状況はひどくなってきている。
ニュースによれば
国立感染症研究所の推定によると、首都圏の新規感染者に占めるインド由来のデルタ株感染の割合は、4日時点で89%に到達。
だそうである。

なぜこんなに短期間に、デルタ株、というのが拡がってしまったのか。
理由は、その感染力にあるらしい。
デルタ株というのは、水疱瘡並みで、いわゆる感染力が爆発的だそうだ。水疱瘡は一人がかかるとどんどんと広がる。保育園でも小学校でも、油断していると非常に恐ろしい感染力を持つ。


以下は、時事通信社のニュース。
『感染者数は、日本時間5日正午時点で約2億19万人。国別では、米国(約3530万人)が最多で、インド(約3177万人)、ブラジル(約2000万人)、ロシア(約627万人)、フランス(約627万人)が続く。世界の死者は425万人以上。
 世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は7月30日の記者会見で、デルタ株が130カ国以上で検出されたことを明らかにし「なぜこれほど簡単に広がるのか世界の専門家と解明作業を続けている」と語った。』


要するに、これからは、このデルタ株が日本中を席巻するであろう、ということが
科学的・合理的に考えると、予想される、というわけ。

では、デルタ株というのはどんな特徴をもつのか。
1つめは、ワクチンに対しての特徴。

従来型に対しては1回の接種で57%の人に十分な抗体ができたのに対して、デルタ株の場合は1回の接種では37%にとどまっています。そして2回の接種を完了すれば、従来型だと99%、デルタ株でも97%と、9割を超える有効性が分かっています。(日テレEニュースの記事6/24より:抜粋)

ということらしい。
また、さらに新しいmsnニュース(7/28)によると、

ワクチン接種が最も進んでいるイギリスやイスラエルでもデルタ株による新規感染者数はものすごい勢いで増えています(図6)。イギリスでは既に約8割の人が抗体を持っているとのデータがあるにもかかわらず、です。イスラエルではファイザーのワクチンは95%デルタ株の感染を防ぐとされていましたが、その後64%に訂正されました。つまり、ワクチンを接種していてもデルタ株の感染は抑えきれない、ということです。ただ、接種していることで入院や重症化といったリスクは両国で確実に下がっているようです。

だそうだ。
要するに、『1人が8人~9人を感染させるほどの強い感染力を持ち、幼児からお年寄りまで全年齢の人がかかってしまう「かかりやすさ」を誇り、体力のある若い人さえ感染させるデルタ株』ということである。

わたしが小学校の教師として不安に思うのは、若い人にも感染する、ということである。子どもの感染はどうなのだろうか。

もう本音を言うと、修学旅行などやっている場合ではないと思う。
修学旅行の直後になって、クラスに感染者が出たら、と想像すると怖い。
そうなってしまったら、きっと「中止にしたらよかった」と思うことだろう。
悔やんでも悔やみきれないにちがいない。

というか、なにか社会全体としての手を打てないものかといつも思う。
日本中の人が集まって、こうしよう、ああしよう、と話し合うことができないものだろうか。
全員で話し合うのは無理だから、地域から代表者が集まって、コロナの対策の知恵を出し合うということにならないだろうか。

とくに、東京では、感染しても入院できない、ということになっているようだ。
こうなると、外出を控えたくなる。
医療に期待ができなくなっているのは恐ろしい。
呼吸が困難になったとしても、点滴が必要になったとしても、すぐには病院にかかれないのだから。
やがて、みんな、買い物を控え、飲食を控え、旅行を控えることになるだろう。
政府は自粛を呼びかけるが、そのこと自体には、あまり意味がないのかもしれない。
なぜなら、世の中の人は、「怖さ」がわかれば、自分から出歩かないようになるだろうから。つまり、「自粛」というのは、本当に自分の意思で、自粛するようになるのだろう。
自分の意思で、と言う部分が重要である。それは決して、政府が呼びかけたからではない。
みんな、自分を守ろうとして、
「買い物を控え、飲食を控え、旅行を控えることになる」のである。
それをだれもとめることができない。

経済をまわしたのはやまやま。でも、それが不可能になる。
恐ろしい未来予測だが、外れてほしい予測だが、合理的に考えるとそうなってしまう。
なにせ、感染して呼吸が苦しくなったとしても、病院は人を受け入れる余裕が無いのだから・・・
つまり、感染者が増えれば増えるほど、本来であれば救えたような「重症ではない患者」を救えなくなる。コロナで死ぬというよりも、酸素吸入の必要はない軽症のうちに治せないから死ぬ、のでありましょう。これは人災なのかもしれません。

都市圏のデパートではクラスタが発生したところがあり、休業したそうだ。
大阪では阪神百貨店で128人、阪急うめだ本店で34人の感染が確認された。
満員電車では、山手線1両につき、3~4人の感染者が乗っている、と計算できるらしい。
これでは外出も控えたくなるし、経済もまわっていかないだろう。

各県や、各市から、代表者が集まって、コロナのことで日本全国規模の会議を実施してはどうだろう。そして、そこで決まったことを公表し、全員がそのことについて考えたり、討論したりして、専門家の知見も入れながら、方針を定めるのがよいと思う。

あ、それが「政治」か!

こうなったら病院へ
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