夏休みの後の楽しみは、子どもたちの日記を見ることだ。
これはまちがいない。
全国の小学校の先生たちも、これには異論がないだろう。
だって、すこぶる面白いもの。
それに、ああ、愛されているなあ、ということを感じると、とても心があたたかくなる。
子どもたちのために、とがんばっている親の思いにぐっと共感もできる。
今回も、始業式後の初の土曜日に、学校でまだ読み切れていない日記を出して、すべてにコメントを書いてきた。休日のしずかな学校で、じっくりと読んでいると、たまにひとりで声を出して笑ったりする。
コロナ禍のために、多くの子は出かけることをせず、せいぜい隣町のおばあちゃんの家で花火をしたり、おじいちゃんと虫を捕りに行ったりと、今できることで精いっぱい楽しんでいる。
他県など、遠くへ出かけたことを書いた子はほとんどいなかった。
「イベントがなくひまだったので、お姉ちゃんと面白い遊びを考えて、ずっとやってました」
というのや、
「サッカーの練習も試合も無くなってしまったので、イモリに餌ばかりあげていました」
というものがある。
イモリを飼う子は、家のガレージの屋根の下に、巨大なテーマパークのごときイモリパークをつくっており、水草を入れたり砂を入れたりし、イモリが飽きないようにと、レイアウトというか部屋の模様替えを頻繁に行って時間をつぶしたそうだ。
「とちゅうで一回、イモリが見えなくなったので探したら、砂に埋まってました」
もはやその模様替えはイモリのため、ではあるまい。
ところで、子どもたちは鳥や昆虫やおもしろい花を咲かす植物などに興味を持つが、一般に〇〇博士、というレベルに達する子には、共通しておもしろい習性があることに気づいた。
それは、「とりあえず名前をつけておく」という乱暴なふるまいであります。
こういう「めっちゃ〇〇が好き」という子たちは、図鑑ももちろん大好きなのですが、小学生用の図鑑に載っていないような鳥だとか虫とかに、勝手に名前をつけます。
ここで、それは正式ではないから、だとか、勝手に名前つけちゃだめだし、だとか、私はくわしくないから、とかというように、
「世の中の正しさにこだわる子」
は、〇〇博士にはならない。
これがわたしにとっては、不思議なことであります。
だって、勝手に名前つけるのって、いいの?ということがあるでしょう。
結局その名前って、世間的にはまちがい、なのですからね。
そういう意味で、教室に生まれてくる〇〇博士は、大胆不敵な子が多い、のです。
ぽにょぽにょ虫、だとか、きれいな鳥に「カラカラ」とかつけちゃいます。
あとで、その生き物の正式な名前がわかるのですが、
「わたしのつけた名前の方がいいのになあ」
という自負がある。
つまり、その虫のことをどれだけ好きになれたか、というものさしで見ているために、昭和の昆虫学者や鳥類学者なんかよりも、わたしのほうがすごい、という感覚をもつことが可能なわけ。
このくらい破壊力がある感性をもっていると、死ぬときに後悔などなく、幸福なまま死ねそうです。
というか・・・
なんでわたしたち大人は「正しさ」にこだわり、自分の中の、これが好き、という感覚を虐げてしまうのでしょう。世の中にいるであろう「その道に詳しい方」のイメージと自分とを競争させたあげく、自分を卑下し、ああ私たち下々の者にはこの虫の魅力など到底わかりっこないでごぜえやす・・・というように自信を失ってしまうのでしょうね。
わたしはこの鳥が好きになった。そのため、このカラフルな鳥に、カラカラ、という名前を与える!
という行動が、「まちがえている」「よろしくない」と非難されてしまう・・・そんな世の中にはならない方が、わたしたちは、その鳥との間に豊かな関係・生き生きとした関係をむすべるような気がします。
これはまちがいない。
全国の小学校の先生たちも、これには異論がないだろう。
だって、すこぶる面白いもの。
それに、ああ、愛されているなあ、ということを感じると、とても心があたたかくなる。
子どもたちのために、とがんばっている親の思いにぐっと共感もできる。
今回も、始業式後の初の土曜日に、学校でまだ読み切れていない日記を出して、すべてにコメントを書いてきた。休日のしずかな学校で、じっくりと読んでいると、たまにひとりで声を出して笑ったりする。
コロナ禍のために、多くの子は出かけることをせず、せいぜい隣町のおばあちゃんの家で花火をしたり、おじいちゃんと虫を捕りに行ったりと、今できることで精いっぱい楽しんでいる。
他県など、遠くへ出かけたことを書いた子はほとんどいなかった。
「イベントがなくひまだったので、お姉ちゃんと面白い遊びを考えて、ずっとやってました」
というのや、
「サッカーの練習も試合も無くなってしまったので、イモリに餌ばかりあげていました」
というものがある。
イモリを飼う子は、家のガレージの屋根の下に、巨大なテーマパークのごときイモリパークをつくっており、水草を入れたり砂を入れたりし、イモリが飽きないようにと、レイアウトというか部屋の模様替えを頻繁に行って時間をつぶしたそうだ。
「とちゅうで一回、イモリが見えなくなったので探したら、砂に埋まってました」
もはやその模様替えはイモリのため、ではあるまい。
ところで、子どもたちは鳥や昆虫やおもしろい花を咲かす植物などに興味を持つが、一般に〇〇博士、というレベルに達する子には、共通しておもしろい習性があることに気づいた。
それは、「とりあえず名前をつけておく」という乱暴なふるまいであります。
こういう「めっちゃ〇〇が好き」という子たちは、図鑑ももちろん大好きなのですが、小学生用の図鑑に載っていないような鳥だとか虫とかに、勝手に名前をつけます。
ここで、それは正式ではないから、だとか、勝手に名前つけちゃだめだし、だとか、私はくわしくないから、とかというように、
「世の中の正しさにこだわる子」
は、〇〇博士にはならない。
これがわたしにとっては、不思議なことであります。
だって、勝手に名前つけるのって、いいの?ということがあるでしょう。
結局その名前って、世間的にはまちがい、なのですからね。
そういう意味で、教室に生まれてくる〇〇博士は、大胆不敵な子が多い、のです。
ぽにょぽにょ虫、だとか、きれいな鳥に「カラカラ」とかつけちゃいます。
あとで、その生き物の正式な名前がわかるのですが、
「わたしのつけた名前の方がいいのになあ」
という自負がある。
つまり、その虫のことをどれだけ好きになれたか、というものさしで見ているために、昭和の昆虫学者や鳥類学者なんかよりも、わたしのほうがすごい、という感覚をもつことが可能なわけ。
このくらい破壊力がある感性をもっていると、死ぬときに後悔などなく、幸福なまま死ねそうです。
というか・・・
なんでわたしたち大人は「正しさ」にこだわり、自分の中の、これが好き、という感覚を虐げてしまうのでしょう。世の中にいるであろう「その道に詳しい方」のイメージと自分とを競争させたあげく、自分を卑下し、ああ私たち下々の者にはこの虫の魅力など到底わかりっこないでごぜえやす・・・というように自信を失ってしまうのでしょうね。
わたしはこの鳥が好きになった。そのため、このカラフルな鳥に、カラカラ、という名前を与える!
という行動が、「まちがえている」「よろしくない」と非難されてしまう・・・そんな世の中にはならない方が、わたしたちは、その鳥との間に豊かな関係・生き生きとした関係をむすべるような気がします。