30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年06月

排除すればいい、という風潮その2

前回の【排除すればいい、という風潮】の記事に、多少の反響があった。当然だろう、という人もいたし、へえ、何故なのだろう、という反応もあった。
ふだん、「何かに失敗すると叱責され、ペナルティを与えられている」という体験を積んだ子どもたちが、そういう発想を自然としているのではないか、という卓見もあった。これには、なるほど、そうかもしれない、と思わされた。

さて、思い返してみると、このようなことはこれまでも多くあった。
これは以前の勤務校での話。

その学校では、午後はこのような流れでした。
【給食】⇒【休み時間】⇒【清掃】

ところで、給食の後、教室の机はどうするか。
多くの学校がこうしていると思う。
つまり、全員が教室の前の部分に、自分の机を動かすのであります。
なぜなら、教室の床をそうじするから。
机を前方に全体に寄せておいて、片側がきれいにできたら、今度は教室の後方にすべて移して動かし、それから残りの半分をきれいにするのであります。

ある子が、その「机の移動」をしないで、遊びに出てしまうことが連続した。

「先生、〇〇くんはまた机を動かしていないよ」

さらにその〇〇くんは、当番もよくさぼった。
給食の当番になると、野菜缶とか汁缶とか、みんなの食器とか、給食室に運ばないといけない。しかし〇〇くんはそういう日にも、休み時間の遊びを優先して、仕事をしないで校庭に出てしまうのでありました。

当然、クラス会議では、このことが議題になります。

すると、この〇〇くんが、声高に叫ぶのですよ。

「ペナルティを与えて、こらしめたらいい!」

わたしは当時、このことがすごく不思議でした。

「ええ?〇〇くん、だって、ペナルティのルールをつくると、〇〇くんが罰を受けることだってあるんだよ?」

わたしが心配して言うと、

「おれは大丈夫!」

と平気な顔です。
逆に、なんでおれのことばかり、先生が言うのか?と、不満そうにしています。
わたしはあまりにびっくりしたので、
「だって、先週だって〇〇くんは野菜缶の当番なのに、外に出ちゃったじゃない」
というと、それも気に入らない様子で、
「なんで先生は俺のことばかり言うの?」
と口をとがらしていました。


結局、このときはペナルティ制度を採用したものの、
いの一番に〇〇くんが机も動かさずにそのまま校庭に行ってしまい、ペナルティの対象者になりました。(正確に言うと、〇〇くんが自分は悪くない、他の子のせいだ、とあくまでもペナルティの実施をこばんだために、なにもしなかったのですが)

このように、自分の姿を客観視できない子、メタ認知できない子ほど、

「ペナルティで罰を与えればいい!」

と叫ぶのです。

〇〇くんは、いつも直感的な行動に走ります。
熟慮が苦手で、自分自身を直視することができない。
だから、自分のことを棚に上げて、平気で人を責めるし、人の不正には厳しく、あくまでも懲罰を下したい、こらしめたい、自分はそのかわり、【よい人】であるはずだ、と思う(思いたい)のです。

これは、世の中は善と悪に分かれるのだ、人間もよい人間と悪い人間がいるのだ、というような、勧善懲悪だけで物事を見通したい、という手抜き思考です。
そもそも、ひとを善と悪だけに分けられるわけがないのですが、ひとを個別に考えたり、善の意味、悪の意味、生きる目的などを考え始めるとなると、それはたいへんな複雑思考なので、ひとはみんなこういう思考が苦手なのでしょう。だからわれわれ人間が

勧善懲悪で決めればいい、深く考えたくない

と思うのも無理はないのです。

しかし、それを現代の小学校の生活に持ち込むのは無理ですね。だって、この子はよいこ、この子は悪い子、と決めるのは、馬鹿げていますから。

道徳の授業で、善悪を超えるような討論が始まると、〇〇くんはとてもめんどうくさそうにします。

「Aが悪いやつで、Bがいいやつ。それでいいじゃん!はやくこんな話し合い、終わりにしようよ!」

そう叫んだ〇〇くんの困惑したような、ゆがんだ表情の悲痛な姿を今でも時々、思い出します。
問題を処理するのが人生の目的ではないですものネ。

majin


排除すればいい、という風潮

先日、子どもたちの話し合いを見ていて、気が付いたことがある。
それは、「ひとは、都合の悪いものを簡単に排除しようと思う人ほど、全体への視野をもたず全体への配慮を欠く」ということである。

なぜなら、ここからは単に私の推測だが、ひとはかんたんに目に見える結果を欲しがる」態度をとる時ほど、全体への配慮ができない、視野を広げられない、客観視できないからだ。

具体例を書く。

実は、わたしがあまり怒らなく、注意もしないからだろうか。
最近まで、うちのクラスは、理科室への移動に時間がかかっていた。休み時間の後、おしゃべりに花を咲かせてなかなか支度ができない子がいる。あるいは、自分が夢中になっているドッジボールから帰ってきた後、ぎりぎりになって思い出したようにトイレに行く子もいる。それで、全員が時間通りに理科室にそろわないのである。(チャイムが鳴る直前には自分たちの教室にはいるのだが、そのあとで、別の棟の2階まで移動しなければならない)
わたしは時間がかかりすぎることや、45分の授業が結局は40分ほどにしか確保されていないことを子どもたちに伝え、「これはみんなにとってはどうなのか」と問うた。

すると、理科は楽しいので、45分しっかりやりたい、という。
その方が自分たちにとっては得だ、という子もいる。

しかし、現実はそうならない。おしゃべりばかりで支度をしない。理科の教科書やノートも持って行かないといけないが、それらの準備を放っておいて、チャイムが鳴るまで自分の教室で時間をつぶしてしまうのである。
で、チャイムがなってあわてて準備をしだす子がいる。

クラス会議になった。

すると、
1:一人ひとりが自覚を高めないといけない。
2:前もって理科の準備をしておこう。
3:おしゃべりしている人は気づいていないか忘れているから、声をかけよう。

というような意見が出てくる。
ここまでは例年の動きであり、ふつうの光景、毎年(とは限らないが、毎年のように)繰り返される光景である。

しかし、なかには、こんな意見も出るのである。

4:遅れた人には、ペナルティを与えればよい。

わたしが今回気づいたのは、この4:遅れた人にペナルティを与えよう、という意見を出す子が、どういう子か、ということである。

おそらくみなさんも予想される通りだ。
つまり、「よく遅刻し、おしゃべりをし、他の子に話しかけ、トイレにぎりぎりにかけこむ子」こそが、「ペナルティを与えればよい」と言うのであります。

なぜか。
わたしもよくわからなかった。
メタ認知ができていないからだろうか?
ふつう、自分がいつも遅れているな、しゃべってしまっているな、反省しなきゃな、と思う子は、「ペナルティ」なんぞ言い出さない。自分がとばっちりを受ける可能性が高いから。
しかし、そうは考えない。自分のふだんの様子や姿には関心がないのか、気づいていない・・・。

だから、いとも簡単に【罰を与えればよい】的な発言をしてしまう。おそらく自分の姿を認知できていないことが、「ペナルティを与えれば済む」という発言に表れるのである。

逆に、いつもはけっこう時間通りに行動できている子が、かえってその子のことを心配して、「ペナルティはやめた方がいいのでは?」とおずおずと提案するわけ。なぜなら、その子に対してだけでなく、将来先々まで見通したり、自分を含めたまわりの子たちのことまで、さまざまな影響についても含めて考えているから。

言われた子は、自分が心配されていることに気づかず、ただ自分の主張を邪魔された、反対されたように思って

「なんでだよ!ペナルティを決めないとぜったいにみんな遅れちゃうよ!」

と言ったりすることだってある。
このときの態度は、かなり強い。声を荒げ、熱弁する。なんでみんなわかってくれないんだ、となる。

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周囲の落ち着いた子たちは熟考に入る。

わたしならちょっと意地悪に、
「そこまでペナルティを主張するなら、一度、やってみればいいじゃないか」
とでも、言いたくなる。きっと、自分がペナルティを受けたらよくわかるだろう、と考えるからだ。

しかし、クラスの優しい子たちはそうは言わない。
どうしたらこの子に、きちんと理解させることができるだろうか、とじっくり考えるのである。
そして、言葉を変えたり、言い方を変えたり、具体例を示したり、と工夫する。

残念だけど、その行為はむくわれない。なぜなら、前述の【ペナルティ主張者】はそんなことをすべて一蹴するからだ。

「みんなぐちぐち言ってるけど、それじゃなにも進まないよ!ガツンとペナルティを与えれば、一度にぜんぶ言うこと聞くようになるって!!

わたしはあまりにもこの構図が今回、切断面がきれいに見えるほどにあざやかだったので、非常に印象に濃く残った。

整理してみよう。

メタ認知できない子にとって、自分の姿は自分からは見えない。
また、問題や課題というのは、実は何が問題なのか、問題の焦点はどこか、問題と思っている自分の見方そのものの整合性や合理性はどうか、などには思い至ることがない。心の中では、そういうことをじっくり考えるのはめんどうなので、できたら避けて通りたい、と思っているようだ。

したがって、いつも遅刻する当人たちは
勢いよく、ズバッと、単純に解決できるもの
と考えてしまう。

実際にはさまざまな要素が複雑にからみあうし、さらに全体を見通さなければ結論など容易にでるものではない。この事象ひとつとってみても、関係者は多数いるのだ。
しかし、【ペナルティで罰を与えれば万事解決と思う子】は、視野の外側や周囲にある、自分自身も含めた、それらの存在に思い至ることがない。(思考するのには、相当な負荷がかかる。その負荷に耐えられないかもしれない)

わたしが感動したのは、それでもその子に対して、ペナルティをやめよう、と声をかけつづけた子たちの存在だ。
「わたしだってうっかり忘れることがある。あなたにもその可能性はある。だれにだって、ついおしゃべりすることがある。それを見とがめて、罰を与える、という判断はだれがするのか。そこまで考えたらどうだろうか。おしゃべりをした子を見て、今のはアウトだと判断した子も苦しい、された子も苦しくなる。お互いに罰を与え合うという泥沼のような状態が生まれる。それをこの大切なクラスにつくるのか。わたしは嫌だ。みんなで自覚を高めあい、声をかけあって、遅刻しないようにするのをまずは真剣にすべきだ」
というのである。
それも、言わんとすることを確かめるようにして、何度もゆっくりと考え、言葉をたしかめながら・・・。

くりかえすが、これを言うのは、日ごろちっとも遅刻などせず、きちんと準備をして、ぬかりなく理科室に間に合うようにいける子なのだ。


どうです?
一見、矛盾しているでしょう?
つじつまが合わない。


ええと、この場合の矛盾というのは、おそらく
『都合の悪い行動をとる者を罰により貶(おとし)め、排除すればいい』という意見が、その「都合の悪い行動をとる子」の主張である、という点だ。
また、逆に、どんな人も排除しないでいよう、という意見は、時計の時間に間に合わせようと努力できる子の主張であり、おそらく排除される対象ではない側の子の意見なのである。

まことに人というのは、不思議なんであります。

山の男、という話

北陸地方の奇談集『北越奇談』に、人間と山男の交流の記述がある。
越後国高田藩(現 新潟県上越市近辺)で山仕事をしている人々が夜に山小屋で火を焚いていると、山男が現れて一緒に暖をとることがよくあったという。
身長は6尺(約180センチメートル)、赤い髪と灰色の肌のほかは人間と変わりない姿で、牛のような声を出すのみで言葉は喋らないものの、人間の言葉は理解する様子がうかがえた。
裸身で腰に木の葉を纏っているのみだったので、ある者が獣の皮を纏うことを教えたところ、翌晩には鹿を捕えて現れたので、獣皮の作り方を教えてやったという。

この話が妙に気になり、奇談集『北越奇談』は、かの葛飾北斎が描いているというから、長野県小布施市の「北斎館」まで行き、本物を見てきた。愛知の岡崎市からだと、高速道路で4時間ほど。日帰りで強攻だったが、嫁様のご機嫌を伺いつつの家族へのサービスも兼ねて行ってきた。

Hokusai_Yama-otoko


どうしてこのような「奇妙で話の通じない者」との交流が気になるかというと、やはり日常において、人と人との話が通じない、理解しあえない、ということがあるからだ。

北斎館

今の政治を見ていると、「ひとと人とは理解しあわないのが普通」ということがよくわかる。
たとえば文科省がツイッターで#教師のバトン という投稿を呼びかけた。
本当の役人側のねらいは、教師の魅力や良さをメッセージに込めて現場から発信してもらい、教員のなり手が劇的に少なくなっている現在、少しでもその「なり手」を増やすことに貢献することであった。

ところが、実際には文科省が頭を抱えるほど教師のむくわれなさと現場の苦しさが訴えられてしまい、ねらいとはまったく逆の結果になっている。これは当然で、役人が現場の教師のことを知らないからであり、なぜ知らないかというと、これも無理もない、しょせん、人はひとのことなどわからないのである。

わたしはこれは確信犯で、文科省はこうなることを当然予測し、効果を見込んでやっていると思う。だって、文科省の予算を削ってるのは「通産省」であり「財務省と金融庁」なんだもの。

話を元に戻して、わたしは「話が通じないだろう、と思う人と、どのように接するか」ということに非常に興味がある。これは母親にも当てはまる。なぜなら、生まれたばかりの赤ん坊は、話が通じない。2,3歳ころから通じたかな、と思うことはあっても、話がくいちがったり、大人の常識がまったく子どもの方には無かったり、当然こう考えるだろう、と大人が思うことも、子どもはそうは思わない、ということが連続するからである。

考えてみれば当然で、わたしたちは、相手の脳内で起きることをすべて計画し、コントロールしているわけではない。相手をコントロールするのは不可能なこと。現在の政府がまったく国民感情を理解しないように見えるのも、これはもう当然のことなのである。

わたしが北斎館でこの絵を見ながら小一時間瞑想にふけっているのを、北斎館の方がちょっと変に思って様子を見に来られたが、わたしが別にただじっと考え込んでいるだけなのをみて、安心して元の場所へ帰って行かれた。

北斎の描いた「山の男」は化け物という感じが強く、とても人の姿とは思えない。しかしよくその説明を読むと、身振り手振りなどをみてきちんと気持ちや考えていること、伝えようとすることは理解するようである。
北越奇談のみならず、全国にあるこのような山男奇談を点検してみると、やはり言葉は通じないが、相手のことを親身になって心配したり、手伝ってやったりと、妙なことになかなか心を通じ合わせることができており驚く。

この絵を見る限り、おそらくロシア系の民族であろう。難破船でほうほうのていでたどり着いたのが日本列島であったのだろうか。たしかに冬は列島に向けて季節風が吹きつける。命からがらたどり着いた異国の地で、言葉も通じぬし、「鬼だ!」と驚かれるし、人目につかぬ山の奥へこもってなんとか生き抜こうとしたのだろうか。このロシア人が日本人の暖を取っている場に来て、少なくとも何度かくりかえして交流を試みているのは興味深い。どんな心境だったのか、人恋しさはあったのだろうか、想像するのが面白い。

静岡に伝わる山男奇談によると、あるときに遠州の又蔵という者が、病人のために医者を呼びに行く途中、誤って谷に落ち、足を痛めて身動きがとれなくなった。そこへ山男が現れ、又蔵を背負って医者のところまで辿り着くと、かき消えるように姿を消した。後に又蔵が礼の酒を持って谷を訪れたところ、山男が2人現れ、喜んで酒を飲んで立ち去ったという。

また、「北越雪譜」第二編巻四によれば、天保年間より40〜50年前の頃、越後魚沼郡堀之内から十日町に通じる山道を通りがかった竹助という者が午後4時頃に道の側に腰かけて焼飯を食べていると、谷あいから猿に似たものが現れた。その背丈は普通の人より高くはなく、顔は猿のようには赤くなく、頭の毛が長く背に垂れていた。害をなす様子はなく、焼飯を求めるそぶりをするので竹助が与えると嬉しそうに食べた。この者は竹助の荷を肩に掛けて山道を先に立って歩き、1里半ほど行って池谷村に近くなったところで荷を下ろして素早く山へ駆け登った。その当時は山で仕事をする者が折々この「異獣」を見たという。柳田國男は「北越雪譜」のこの記事を、山人が米の飯に心を引かれた例であるとしている。

わたしがこの「竹助」であったら、谷あいからふと現れたこの「異人」にどのように対応するのであろうか。きっと体がもう硬直して腰をぬかしてしまい、気絶するやもしれぬ。
しかしこの「竹助」さんは、ちゃんと相手の様子をみて『害をなす様子がない』ことを悟っている。きちんと分析し、相手の出方を見定め、コミュニケーションをとっているのである。すごいなと感心する。

このような「山人」「山男」というのは、実は日常に、すぐ近くにいる。
わたしであり、あなたのことである。
言葉を使っているから、日本語を話すからといって、わかりあっているわけではない。
まったく知らないのである。本心なんて。

教室の子どもたちの本心も、わたしはちっとも知らない。
わかったふりをしている教師がいるだけである。

【6年国語】話し合おう~五輪を開催すべきか~

光村図書の国語の教科書には、「討論をしよう」という単元があります。
正しくは、『聞いて,考えを深めよう』。

最初は、
①「中学生も電車の運賃は大人の半額にするべきである」
②「小学生は携帯電話を持っているべきである」
③「大人の方が得である」
などのテーマ設定をするつもりであった。
肯定側と否定側に分かれて作戦を練り、いわゆるディベートをする。

ところが、そうは問屋が卸さない。
クラスのどちらかというとひょうきんキャラで通っているSくんから、いわゆる五輪問題で話合おう、という意見が出たために、みんながそれにのってしまった。(たぶんSくんなりに、ちょっと受けをねらったのではないか、と思う)

【目標】
・テーマに沿って、話し手の意図をとらえながら聞き、自分の意見と比べるなどして考えをまとめることができる。
・互いの立場や意図をはっきりさせながら、計画的に話し合うことができる。
・討論会における言葉の使い方などについて関心をもつことができる。


生き生きと討論会に取り組むように、児童は肯定側・否定側・聞き手の3つに分かれ、聞き手は肯定側・否定側どちらがより説得力があったかの客観的な判断を行って、勝敗を競うゲーム的な要素を取り入れる。


【五輪を開催すべきである】

クラスの半分を肯定側にし、残り半数を否定側にすると、肯定側からブーイングが出た。
しかし、双方の立場を経験することがわかると、「なーんだ」とブーイングは止(や)んだ。

五輪開催をめぐっては、今現在、大人の世界でも激論が巻き起こっている。
たとえば政府分科会の尾身会長は6月2日衆議院厚生労働委員会で、オリパラについて踏み込んだ発言をした。
「今のパンデミックの状況で開催するのは普通はない」
そして、開催するなら政府・五輪委員会に厳しい責任と強い覚悟がいる、一般の人は家で静かにテレビ観戦と伝えないと、感染対策ができない、などと強く主張。尾身会長は“厳しい責任と強い決意”を政府や組織委員会に求めたのだった。
しかし、菅総理は、「専門家としてもきっちりと感染対策をする、ということだと思う」と、あくまでも推進の立場。
同じく竹中平蔵氏は、尾身会長の発言に対し『明らかに越権』『五輪の中止議論自体が不毛』など怒り爆発。
推進側の丸川珠代五輪相は「我々はスポーツの持つ力を信じてやってきた。別の地平から見てきた言葉をそのまま言っても、なかなか通じづらいというのが私の実感」との見解を述べる。

国会でも議論していることを、6年生の児童がどこまで話すのかなーと思っていた。
もしかしたら、国民の代表者が考えている以上のことを話すかも?
ときに、子どもは本質を見抜くから・・・と、ちょっとだけ期待もした。

しかし、結果、それほど盛り上がらない。

肯定側の多くは、スポーツっていいじゃない、という意見。
「わたしはバレーボールが好きなので、スポーツが盛り上がるのはうれしいです」
などの意見が出て、少し推進しちゃおうかな、という感じ。

否定派は、
「(五輪の影響で、感染症で)死ぬ人が増えるかもしれないのにやる本当の理由がわからない」
という感じで、やっぱり

さすがに大人ほどは盛り上がらない。

そんなものかな、と思う。
だって、6年生なんだもの。

でも、最後の『五輪って本当の本当は、何のためにやるの』に、推進派も否定派も、クラスのだれも答えられず、結果、否定派が勝ちとなりました。

子どもの世界では、盛り上がらない話も、
テレビや大人の世界では、がぜん盛り上がってくるのが、不思議といえば不思議か。

五輪



オリンピックの実施について、朝からテレビでは大討論会の様子だ。日曜日のモーニングショー、ワイドショー、芸人から文化人から専門家まで、喧々諤々、実施すればいいだの、反対だのとかまびすしい。
「反対派をおさえこめ」と排除しようとする動きも感じる。しかし、メタ認知できない人ほど、目の前のうるさい蠅を追い払えばよい、という考えになっている。より全体を見通す力、後世までの影響を深く考えていかねばならないし、即断即答でおしつぶせばいい、というのではぜったいにないと思う。時間がかかって当然で、オリンピックはなんのためにやるのかを、よい機会だから全世界の小学生、中学生もまじえて、みんなで討論すればいい。そのための国連だと思うし、国会だと思う。
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