30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年04月

加速する未来への『心の準備』を小学生とともに

〇空飛ぶ車
〇量子コンピュータ
〇3万2000の遺伝的疾患
〇寿命脱出速度の加速
〇培養肉
〇量子ドット
〇脳が直接インターネットに繋がる
〇メタ知能
〇学歴の意味はなくなる
〇水がもっとも希少な資源となる

漫画<アキラ>の中で、大友克洋氏はオリンピックの中止を予言した。
予言というものの中には、たまには当たるものが、混じっているようだ。

上記の予測は、予言というよりはもうすでに実際に進みつつある現状だ。
したがって、ほぼ100%、世の中はこんなふうに進んでいくらしい。
水の問題は深刻で、水源を確保した企業は最高に儲かるが、水源を確保できなかった自治体は生命のカギをにぎられ、弱体化するとのこと。(日本の山のふもと、水源になる土地は、これから世界中の多国籍企業が買い占めていくだろう)

固定電話の権利というものが、ずいぶん昔は売られていたものだが、今はそれを買う人はほとんどいない。「固定電話には価値があるだろう」と信じる人が多い場合は、それが売買され、利用する人も出る。学歴も同様。固定電話と同様に、「うーん、要らないかな。なくても平気かも」という人が徐々に増えていくだろう。そうなればなるほど、学歴を信じてもらえる世界はほとんどなくなり、信用する人もいなくなる。企業も学歴を信じるのではなく、実際のその人物のアビリティを見極めるようになる。

さて、現時点で小学生の子どもたちは、なにをどうすればいいのか。
わたしは、子どもたちが「未来予測」をすればいいと思う。
未来がこうなる、という予測をするには、そうなる証拠を集めなければならない。
また、それが単なる雑な情報なのでなく、論理的に推理できるための有力なデータでなければならない。ごみのような情報か、有力なデータか、見極めるのがむずかしいのである。しかし、そこを小学生なりに真剣に考えていくのが楽しいのではないだろうか。

国語算数理科社会も、もちろん大事だ。
音楽体育道徳家庭科も、むろんだ。

しかし、「未来予測」ほど、楽しい学びは、他に見当たらないくらいではないかと思う。
人間は、未来を考えるのが、基本的には楽しいのではないかと思う。特に子ども時代は。
(わたしはもう若くなく、日曜日にちょっと畑を耕した程度ですでに腰が痛い。人生も折り返し地点を過ぎたようだと、未来はあまりどうでもよくなってくる気がする。しかし、死ぬまでになにができるかを考えるのは、基本的には楽しいことにちがいない)

空飛ぶ車

宿題をマインドマップで考えさせると・・・【思考ツール】

どうして小学校で思考ツールが流行し始めたのだろう。
文部科学省初等中等教育局視学官としてご活躍されている田村学という先生がいる。
その先生が以前、中学校の授業で思考ツールを使ってみた。
「深い学び」っていうのが、これじゃないか、ということになり、タブレット端末とも相性がよいことから、徐々に広がってきたようだ。
文科省の中でも話題になり、全国で講師になって招かれる主事の先生たちがこれを取り上げているようで、現場の先生たちにこれらを紹介したことで、全国的な流行がきているようだ。

思考ツールの原点は、古代インドの曼陀羅だ、という人もいるし、いや、イギリスのトニー・ブザン氏のマインドマップだ、という人もいる。
また、いやいや、カードを使ったデータ整理法「KJ法」で有名な川喜田二郎教授だろう、という人もいる。トニー・ブザン氏と川喜田二郎氏はお互いに仲が良く、ともに「頭脳の取扱説明書」を探し当てようとして研究をすすめた同志であったようだ。

わたしは大学生の頃に「KJ法」に出会ったが、それはとある講習会で、答えがあるようなないような、禅の問答のような思考実験をくりかえしていたさなかに、
「この講習会でこうやってあれこれと考えていた川喜田先生が、ここからヒントを得てKJ法を提唱された」
と聞き、なんじゃそれは、と思ったことがきっかけだった。

たしかに人間の思考というのはとらえどころもなく、拡散すると思えば収束し、結論を導いたと思った瞬間にまたわからなくなり、まことに思考というのは妙なものである。
また、一人の頭脳があるキーを探し当てて夢中になっていると、その人のつぶやきを聞いた別のある一人が、あたかもパスボールを受け取るようにして思考を進め、それを聞いてさらに新しいひらめきを得る、ということが起きる。
思考とかひらめき、脳のインスピレーションというのは、キーとなる要素が複雑にからみあい、遠くのものが一瞬にして結合し、どんどんともつれあい刺激されあいながら、汲めども尽きぬ知恵の鉱脈のように再生産を繰りかえす。

小学校で「学ぶ」ということが、これまでは知識中心であったが、そういう時代が今こそ本当に終焉するらしい。国語辞書、百科事典、新聞記事、研究者ネットワーク、ぜんぶインターネットにまかせる。それでよい、ということのようだ。いまやスマホで簡単に、学会・学術ネットワークにもアクセスできる。
これまでは、「そうはいってもな」という雰囲気があった。そうはいっても、知識は必要だし、その情報を蓄積するのは、授業でさまざまなことを学びながら少しずつ、ということであった。

でも、どうやら文科省は、本気らしい。今度こそ。

人間は、知識の量がどうこうというより、「思考する」のだ、という感じ。
わたしだって、小学生が思考ツールを使いこなす、ということに、大きく違和感を持つ世代なのだが、どうやら時代はそういうことになってきているようだ。

で、そもそも大きな目的が、

「自分で自分の学びを計画できるようにさせる」

ということのようなので、

わたしはそれこそ、「宿題を自分で思考して計画し、決めていく」というのを、子どもがやったらいいのでは、と思いついたというわけ。

では具体的に、なんだろう。どんなツールで?

昨日からずっとそれを考えていて、

トニー・ブザン氏の マインドマップか。
あるいは川喜田二郎氏の KJ法か。
それとも、古代インドに源流を置く、マンダラートか。


この3つのうちのどれかで、いちばん小学生向きなのが、トニー・ブザンかな、と思った次第。

KJ
写真は、川喜田次郎氏。

SDGsでアジア人差別を考えようとする子がいる

母は日本人で父がネパール人、という子がクラスにいる。
わたしはその父親に一度だけお目にかかった。
すごく瞳がきれいで、物腰のていねいな方であった。

生まれて3歳までの時期をネパールで暮らした子で、うっすらとそのころの記憶があるという。
今は日本に来ていて、国籍も日本人として生活している。
母親は、なんと普通の公立学校の教員である。市内の別の小学校に勤務している。

その子は、SDGsに関心が深く、目標の10番目にある、
『人や国の不平等をなくそう』を研究テーマに選んだ。
SDGs10


そして、それを自分の研究に設定した理由をクラスのみんなの前できちんと発表した。

「いま、アジア人や黄色人種が差別を受けています。これをなくしたい」

彼女はどちらかというと、クラス内ではひょうきんものだ。休み時間に爆笑をとるような面白いキャラなのだが、これを言ったときの彼女の顔つきは本当にまじめで、真剣だった。

東京新聞が、
アジア人差別がアメリカで顕著になってきているが、日本人も例外でなく、被害を訴える日本人が増えているという記事をあげていた。

『コロナ被害が拡大し始めた昨年3月下旬から今年2月末までのアジア系への憎悪犯罪は3795件。加害者は、相手の顔つき、体形だけをみて卑劣な犯行に及んでいるとみられる』(東京新聞)

差別は、不安から始まる。
マウントを取らねば、と焦るのは、自尊心の欠如が原因だ。
自分に満足しているメンタル、自分を肯定するメンタルの持ち主は、相手を肯定する。
それがふつうだ。同じこころの動きだから当然。
自分を否定する者だけが、相手を否定する。

ところで、昔懐かしいイソップ童話。
今はもうすっかり忘れ去られてしまい、子どもも知らない子の方が多い。
イソップは奴隷(といってもギリシャの奴隷は奴隷のイメージとはちょっとちがうらしいが)だったせいか、人間観察をつづけ、この寓話の作者になった。
イソップは、うまく心理学を表現している。
「すっぱいぶどう」や「北風と太陽」など、人間の意識の動きをよくとらえている。
わたしは、このイソップ童話から、差別の元のメンタルを考える授業ができないかな、とよく考えることがある。

人は、強制されると反発したくなる。
つまり、人には自分のことは自分で決めたいという欲求があるようなのだ。

「これあげよう」というと「別に要らない」と言いたくなるが、
「あなたにはあげない」となると、それが無性に手に入れたくなる。
こんな程度のことですら、すぐに心がそう動いてしまうのが人間だ。
いつでも、こころの自由を担保しておきたい。
これは、人間のかなり原始的な欲求だろうと思います。
このような心の働きを「心理的リアクタンス」といいます。

イソップ物語の北風が、旅人のコートを脱がすことが出来なかったのがまさにこれです。
無理やりに脱がそうとすればするほど、そうはさせるものか、と反発しようとするのです。
心理的リアクタンスは日常のあらゆる場面で発生します。
isop


差別のこころを解明し、全人類が、自分の心の動きや状態を、じっくり考えるためにはどうしたらいいのか・・・。

『この目標は、国内および国家間の所得の不平等だけでなく、性別、年齢、障害、人種、階級、民族、宗教、機会に基づく不平等の是正も求めています。』

彼女の長い闘いが、今、はじまろうとしている。

GOOGLE市政の教員よ、結束を

GOOGLEのChromebook を使うようになりました。
文科省は「一人一台の端末を使え」と指示しました。
しかし、その端末を Apple社の IPADにしろ、とかGOOGLE Chromebook  にしなさい、と命令したわけではないのです。

市の教育委員会も、悩んだでしょうね。
どうするのか、と。

『くくく・・・いったい、わが市は、なにを導入したらいいんだ!』と。
kaisya_komaru_man

なんてったって、巨額の金額が動きますし、使いにくくて現場からクレームが出たら、矛先が向かうのは教育委員会ですからね。

そして、おそらく多くの自治体に向けて、GOOGLE社とAPPLE社が攻勢をかけたでしょう。
教育委員会は、ほぼ、Windowsよりも安価な端末として上記の2社を選んだはずです。
学校現場の大きな変革に際し、この2社はもうウハウハがとまらないと思います。

ちなみに愛知県下で、わたしの友人に聞いたりやサイトで調べたりしたところ、
春日井市→Chromebook
郡上八幡、岡崎市→IPAD
蒲郡市→Microsoft 365 Education

のようです。

つまり、各自治体によって、導入したタブレットがちがうのですね。
さらに言うと、OSが異なるために、使えるアプリやソフトも違ってきます。
自分の育った小学校がどのOSを使っていたかによって、子どもたちにも

◎得意なOS

というものが、できてくるのでしょうね。
悪いことではありません。むしろ、高校等で友達と交流するときに、異なるOS体験を持つ子と交流するのは新鮮な体験でもありましょう。

ところで、わたしはGOOGLE系の市に所属したわけですから、当然
GOOGLEのChromebookを使って授業をするわけですが、ちょっと問題が。

それは、教育委員会が自由に端末にアプリを入れるのを許可していないために、
教員がこれぞと思うアプリを入れることができません。
ほとんど、GOOGLEアプリしか使えません。

わたしは Mindmap を使いたいのですが、いくつか見つけたアプリは
GOOGLE PLAY にあるのです。
でも制限がかかっていてインストールできません。

ちくしょう。

で、結局、アプリでインストールするタイプではなく、クラウド型(WEBサービス型)のMindmapを利用することにしました。

なにがいいでしょうかね。
現場の先生方、ぜひ教えてくださいね。
実践例など、交流しあいたいと思います。

ちなみに、以前、こういう話題で相談にのってもらっていたS先生のいる☆☆市は、IPADのため、わたしがGOOGLE派にころんだことが残念でならないらしく、

「あらま先生がGOOGLEに魂を売ったことを残念に思います。さようなら」

と言って、IPADのアプリばかり、わたしに内緒で研究しておる。
わたしはそういう意味で、市政によって貴重な友人を失ったわけだ。
かといって教育委員会を責められない。とほほ。

え、気持ちを切り替えよう。
全国の小学校教員のうち、GOOGLEのChromebookで授業をする羽目になった先生方、ぜひ助け合いましょう!
ぜひ、コメントやメッセージなどで教えてください。

今のところ、わたしが考えているのは
MindMup 2Zero-friction mind mapping, tightly integrated with Google Apps
というものです。

https://drive.mindmup.com/

おすすめポイントは、以下の3つらしい。
1)マインドマップをGoogleドライブに保存可能
2)アプリケーションの起動もGoogleドライブから直接できる
3)利用料が無料

保存がウェブアプリ上ではなく自分のGoogleドライブになるのは、子どもたちにとっても非常に使い勝手が良いし、いざとなれば共有して担任が全員分を一度に加工したり、印刷したりできやすい。

わたしはまず、これで各自の宿題を計画させようと考えております。
宿題を計画する、とはどういうことか・・・。

(つづく)

【6年社会】日本国憲法の3つの原則を学ぶことが困難すぎる

政治の基本である憲法を学ぶのに、なかなか子どもたちも苦労します。
第一、国民主権が当たり前、という子どもたちに、その価値を教えるのが難しい。
1946年まで、「大日本帝国」だったこと。
天皇主権だったこと。
国民の基本的人権が保障されていなかったことなど、
今の子どもたちからしたら、本当に理解できないことだらけですよね。

軍部が政治をつかさどるようになり、武官がいわゆる閣僚になりました。
閣僚はもちろん軍の利益を追求しますし、くにの政治は特定の立場にとってやりたい放題です。
【私利私欲】で動く政治でした。
その結果がインパール作戦の餓死、
また、シベリア抑留、ガダルカナルの玉砕にまで
つながりました。

国民は政治家の手足となり、自らが選んだのではない武官による勝手な政治のせいで
命をいいように扱われてしまったのです。
最終的には、「天皇の命令だから」で、押し通されました。
天皇主権の国でした。

そこから、戦後、国民主権に舵を切りました。
どうして国民主権にしたかを説明せずに、いきなり、
「はい、国民主権です。覚えましょう」では、子どもたちもぽかん、です。

そこで、授業の最初に昭和天皇が馬に乗っているカッコイイ写真を見せます。

昭和天皇


発問【写真を見て気づいたことを出し合おう】

かっこいい。
馬に乗っている。
ひとりだけ、白馬だ。
おつきのものを、従えている感じがする。

すぐに写真を切り替える。

天皇の行幸2


発問【さきほどの写真と比較し、ちがう点を見つけよう】

ふつうの住宅街を歩いている。
みんなといっしょに並んで歩いてる。
わざわざ帽子をとって、会釈をしている。
なんか、えらそうじゃなくなった。

これはだれか、と問うと、わからない子が7割。
残りの3割が、「天皇?」という。

1946年、という年を、黒板に板書する。
今から何年前?

75年前だ。

この年をきっかけに、天皇が馬から降りてみんなといっしょに歩くようになった。
天皇は、主権者でなくなった。では、何になったか。

子どもたちが教科書で調べると、「象徴」と書いてある。

では、だれが主権者になったのか。

子どもたちがつづいて教科書で調べる。「国民だ!」

ここで、2つの意見が出た。
1)国民の代表者
2)国民

国民の代表者に政治を行わせ、そのことによって得られる福利や幸福は、国民が得る、とある。

この文をみて、再度考えたら、2)国民 ということになる。

大切な日本国憲法の柱だ。
このことを4字熟語でなんというか。
国民主権。

さて、国民は主権者になったが、その主権者は基本的人権を大切にされるかどうか。

教科書をめくりながら、子どもたちが見つける。
「基本的人権は保障される!」

憲法には、そのことがかなりくわしく説明されている。
全部で28の条文が、国民の基本的人権を守る、と書いている。

さて、もう一つ柱がある。
これは他の国には、ない。

教科書に書いてあるのを見つけ、子どもたちがいう。
「平和主義!」

戦力を持たない、とある。
国々の間で争いが起こっても、決して戦争をしないこと。
この目的を達成するために陸軍・海軍・空軍などの戦力をもたないこと。
実際にはとうにこの理想は放棄して久しいのだが、いまだ条文は生きている。

大人にもこのことの価値づけ、解釈が困難であるのだが、
子どもたちは6年生なりに、これをとらえようとする。

自主学習でコスタリカの平和憲法を調べた子がいて、

第12条 常設的機関としての軍隊は廃止する。公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。
 大陸間協定により又は国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。いずれの場合も文民権力に常に従属し、単独又は共同して、審議することも声明又は宣言を出すこともできない。


これをノートに書いてきた。
いずれの場合も文民権力に常に従属し、というところの意味を、さらにお父さんたちに聞いて、自分なりに解釈していた。

「安倍元総理が軍服を着ることがないように願っています」とのこと。

「叱る教育は必要ない」(47NEWS)【エデュ・ゴチャ】

YAHOOニュースをつらつら無気力に眺めていたら、こんな記事を見つけた。


この記事を書いたのはだれかと調べてみたら、喜多明人という大学教授であった。
最初、リンク先の47NEWS、というWEBは、どこかの私企業かと思った。
ところが、実際はこれだけの地域の新聞社が結託して、主に中央(東京)中心より発信されているニュースではなく、東京以外のローカルな内容を報道しているところであった。

47NEWS 参加社一覧
北海道新聞 | 室蘭民報 | 河北新報 | 東奥日報 | デーリー東北 | 秋田魁新報 | 山形新聞 | 岩手日報 | 福島民報 | 福島民友新聞 | 産業経済新聞 | 日本経済新聞 | ジャパンタイムズ | 下野新聞 | 茨城新聞 | 上毛新聞 | 千葉日報 | 神奈川新聞 | 埼玉新聞 | 山梨日日新聞 | 信濃毎日新聞 | 新潟日報 | 中日新聞 | 中部経済新聞 | 伊勢新聞 | 静岡新聞 | 岐阜新聞 | 北日本新聞 | 北國新聞 | 福井新聞 | 京都新聞 | 神戸新聞 | 奈良新聞 | 紀伊民報 | 山陽新聞 | 中国新聞 | 日本海新聞 | 山口新聞 | 山陰中央新報 | 四国新聞 | 愛媛新聞 | 徳島新聞 | 高知新聞 | 西日本新聞 | 大分合同新聞 | 宮崎日日新聞 | 長崎新聞 | 佐賀新聞 | 熊本日日新聞 | 南日本新聞 | 沖縄タイムス | 琉球新報 | 共同通信

「叱る教育は必要ない」
これは約4年前(2017年4月23日)までわたしがこのブログのタイトルにつけていたものと、趣旨がそっくりだ。
そこで、なつかしさと、ちょっとした興味から、本ブログのタイトルをもとにもどしてみた。(期間限定)

主に安倍政権になってから、「叱る教育」というのが推奨されてきていて、
「四の五の言わず、ばちーんと殴っていうことを聞かせたらいいんですよ」
「「口で3回注意したけど言うことを聞かないので、頬を叩いた」←これを体罰としてよいのか疑問だ(体罰ではない)」


といった論調で政治家や一部の評論家が「叱れ、叱れ」と世論をつくってきた。
「子供の自律心や忍耐心を育てるには、子供の心に不快感を引き起こしてでも教えることが必要である」というのが、それらに共通する内容であった。

ところが、47NEWSは、「叱る教育は必要ない」と言い切る。

わたしはもうずいぶん長いこと、大きな声で叱責するということがない。
前年度までは大声が自慢の先生に、大声でわめくように叱られて育ってきた、という子がいて、わたしがあまりにも叱らないためにあきれ果て、こんなふうに言いに来た。

「先生、先生はもっと強く叱った方がいいと思います。じゃないとみんないうことを聞かないと思う」

こんなふうに言いに来たのは彼が最初ではなく、毎年のようにくりかえされる年中行事だ。
保護者もそういう。「あらま先生は叱らないみたいですが、だいじょうぶですか」。

わたしは苦笑いして、照れてハハハというだけだ。
「は、すみません」
しかし、すぐに子どもは何も言わなくなる。
その代わり、「うちのクラスはなんでも話し合うんだね」というようになる。
なんでもかんでも、しょっちゅう話し合う。
それで、子ども自身が、自分の問題だとし、自分たちで解決しようと思い、アイデアを出し、解決していく。わたしの口癖は、
「いまの、どう思う?」だ。

叱る必要がわからない。子育てにイライラする、というのも、本当のところ、よくわからない。

叱るとか、しつけとか、自分のイライラをぶつける、というのを、すべてごっちゃにしていることを、「EDU-GOCHARING(エデュ・ゴチャリング・・略してエデュ・ゴチャ)」というが、多くの人がこのエデュ・ゴチャの状態になっているのだと感じる。

「しつけと体罰を混同してはならない」という論調があるらしいが、おかしいと思う。
主に、体罰を是認する方がおっしゃっている。
どうおっしゃっているかというと、【これは体罰ではなく、しつけなのだ、だから叩いてもよい】というわけ。

しかし、わたしに言わせれば、その考え方がすでに【エデュ・ゴチャ】の状態である。
しつけというのは、しっかりと自分を客観視し、自分を含めた周囲を大切にできるように励ますことである。そのことと、体罰とが、「混同」などされるわけがない。まったく異質だからだ。異次元のものだからだ。
さもその双方が近く、似ているような雰囲気で書かれていること自体に驚く。それがエデュゴチャなのだ。


桜井 氏がブログに書いていた、「口で3回注意したけど言うことを聞かないので、頬を叩いたが、それはしつけだから良いことだ」という話。

これは、とても切ない話だ。
こうなる以前に、長いストーリーがあるだろう。
もうこのひとの言うことは聞けない、と心を閉じねばならないほどに追い詰められた状態の子どもがいる。その子に信頼されない大人が何を言ったって、彼の心には届くまい。大人は気に入らないから、さらに頬を叩くのだ。いったいそれで、なにが通じるというのだろう。
そもそもの入り口から、なにかがまちがっていたことを大人が改めない限り、そうなるまでに追い詰められた子どもは救われず、大人もまた、大きな勘違いの泥沼から這い出すことができないだろう。

BENZMAN

市長さんに言えば?(請願権の学習)6年社会

6年生の社会を教えるというと、たいていの人は「ははあ、歴史でしょう」という。
ところが教科書が変わり、なんと日本国憲法から学習することになった。昨年度からである。

でも、残念なことに、くいつきは悪い。
なんといっても法律とか憲法とか、むずかしい言葉の羅列でおもしろくもない。

そこで、市長を活用する授業プランをとる。
この際、岡崎市全市の6年生を救うために、岡崎市長の中根氏に協力を願うしかあるまい。おそらく市長も、6年生を救うためだと知れば協力してくださると信じたい。

実は、6年生は、自分たちが政治を動かせると思ってはいない。そこが目の付け所である。
【請願権】
憲法16条には、こうある。
「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

小学生が自分たちの心からの願いを、きちんと市長に提案(請願)することは、なににもかえがたく尊い「政治参加」であり、日本国を愛する愛国者ならもろ手を挙げて賛美するであろう取り組みである。

そこで、具体的にこんな法律やルールは撤廃してほしい、という請願を市長あてに出すのである。

「団地の公園の壁が汚れてしまって治安が悪いです。きれいにしてほしい」
「学校の砂場の予算がないために砂場で遊べません。砂を購入してほしいです」
「学校のトイレは昭和にできたままで便器にも床にも壁にもひびが入っている状態です。また冬は暖房がトイレにはないためにお尻がちぢこまり、出るものも出ません。ぜひトイレに暖房を入れてほしいです」
などだ。

市長にはあらかじめ手紙を書いておいてもよいかもしれない。
「ぜひお返事をいただければ幸いです(お忙しければ結構です)」とでも。

このようなことは憲法で保障されている行為であり、このことで一切、差別や不当な不利な扱いを受けることはけっしてない、と強調しておきたい。

さて、このあとに、

「小学生」と「憲法」との間に、距離があるか、と問う。

すると、「関係があるし、距離も近い」と回答する子が増える。

最後にダメ押しで、この条文も教える。

【教育権】
憲法26条
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。


再度、問う。
小学生と日本国憲法って、距離がある?と。

みんな「とっても関係が深く、距離はない」という。

さて、ここからが、日本国憲法の学習だ(次時につづく)。

kenpou

聖徳太子1400回忌だって

聖徳太子が亡くなって、もう1400年が経つ。
西暦622年に亡くなったという。
ここは、「もうそんなに経つんかー」と言ってみたい気分(言えないけど)。
太子と面識はないが、なんとはなしに、身近な人ではあるね。

さて、わたしはかつて、クイズ王(アタック25で優勝経験を持つ)の加藤学さんに京都を案内してもらったことがある。

そのときのことは、記事にも書いた。
(なんとその加藤学さんは、先日の4月4日にテレビ朝日で放映された「45年の思い出」の回に登場し、キレッキレの追い上げを見せてトップ賞!)

その京都の旅行の後に、少しだけ暇があった。
そこで、ふと、奈良を見ておきたくなり、四天王寺に行った。
2019年の4月のことで、コロナの1年前だったから、まだあれこれと見学ができた頃だ。

拝観料を払って中に入ると、五重塔と金堂があり、わたしは回廊をおもむろに回ったあと、金堂に入った。ここに救世観音がおわしまして、何人かの敬虔な信者の方がひざまづいて祈っておいでになりました。

わたしも静かに観音様を見、頭を垂れて己の罪深さをしみじみふりかえっておりますと、なにやらにわかに人が増えてきた。
そして、わたしはどんどんと奥へ追いやられてしまった。
すると、若いお坊様が中へお入りになり、なにやら小さなか細い声で、おっしゃいました。

わたしは聞き取れないままに人に流されるようにして、少しお坊様の周りを空けたようにしてそこに居たのだが、まだ状況が呑み込めず、隣にいた白髪の物腰静かな老婆の隣で、帰りの高速バスの時間を気にしていました。

すると、今度は明らかに主役と思われる、すごい法衣をまとったどえらいお坊様が入っていらした。
わたしはとっさに「やばい」と感じ、ここにいていいのだろうか、どうすればいいのか、と軽くパニックに。ところが隣の白髪の御婆様はじっと動かず、四方の周囲の誰も動かないため、わたしはどうすることもできずにそこに立ちすくんだままだ。

見ていると、儀式が進みだした。
なにか、お辞儀を繰り返していた若い坊さまがケースから小さな上等のビロウド袋を取り出し、頭にうやうやしく掲げると、それをば偉い坊様にバトンタッチした。さすればそれを坊様は長い念仏で丁寧に、ねんごろに扱ったかと思うと、それを隣のばあ様の頭の上に、とんとんと、なにか真似をしたのでございます。

わたしはよく事情が呑み込めないために、なにか緊張して体をかたくしておりますと、若い坊様がやさしく私に指導してくださった。
「あたまを下げてください」

ぽんぽん、と、目をつむった私の頭に、なにかを当ててもらった感覚。
そして、なにやらおごそかに唱える声が聞こえる。
どうやら、えらい儀式に参加してしまったよう。
あとで聞いたところによると、それは毎日11時より行われる舎利出しの法儀というもので、南無仏のお舎利を以て、ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、又参詣者の頭にあててもらおうという取り組みなんだそうです。

わたしはこのあと、儀式に参加した廉(かど)により金銭を請求されたらどうしようか、帰りの高速バス代はどうなるのか、と正直生きた心地がしなかった。

それにしても、仏陀の魂がこめられたお骨でもって、この頭を清めていただいたことは本当に光栄なことだ。悪い脳みそも、これで多少は聖徳太子の慈悲深さによりそのめぐりの悪さが軽減したのではないかと思って心が安らいだ。

なんでこんなことをいまさら思い出したかというと、先週のニュースで「厩戸皇子1400回忌」が報道されていたからだ。西院伽藍では舞楽(ぶがく)などが披露されたようだ。
奈良はいいな、とそのとき、報道されるテレビ画面を眺めながら、わたしは思った。
この土地では、ふとしたときに、またたくまに1400年のときを超えて、その当時の生きた人間にふれることができる。

わたしが暮らす愛知県はせいぜい・・・、江戸時代か戦国時代、までだからなあ。
徳川家康公を思うと、彼はなんとまあ、最近の人であろうか、と思うのである。
奈良は偉大だ。またいつか、行きたいな。

四天王寺

『ずるさ』の学習~トーンポリシング~

道徳で、『ずるさ』を考えた。
ずるいという意味が人によって異なるため、一応の定義をしなければならない。
基本は「相手を自分の思う通りに操作しようとする」動作を「ずるい」と規定した。
意見を押し付けようとする動作はすべてこれにあたるから、意見の押しつけはすべて「ずるい」ということになる。

これはネットに広がる言論を理解するために必要なリテラシーの一つで、小学生の時代に学んでおくべきネットリテラシーの学習の一つに分類されている。
いわゆる、「思い込み」「きめつけ」に陥らないための相続力スイッチである。
欧米では、相手の意見を封じ込める言い方、対応の仕方を「トーンポリシング」といい、やってはいけない、と指導されている。しかしまだまだ人は思い込みが強く、相手を自分の都合の良いように操作しようとするから、トーンポリシングに対抗する力を得るには訓練が必要だ、ということになっている。大人でもパワハラで苦しんでいるんだから、これからの新しい時代を生き抜いていく子どもたちには絶対に必要な素養だと考えられているのでありましょうな。

このトーンポリシング、という言葉を知ったとき、ポリシング、というのはポリスと同義かなあ、と思って調べてみたら、やはりTone Policingで、Police(いわゆるポリス、警察の原義にあたる言葉で、統治、監視、というような意味)の親戚筋にあたる言葉であった。

授業では、「どっちもどっち」ということを題材にした。
いわゆるネットにはびこる、「DD論」である。
これはリテラシー授業では初歩の学習だけど、たぶんなんとなく子どもたちも日常で耳にしたりであったりしたことがあるからだろうと思う。

〇どっちもどっちじゃないか。別に問題視することはない。あなたが言える立場じゃない。
〇あなたの方にだって問題がある、課題があるじゃないか。指摘する資格がないよ。
〇言い方が悪いんだよ。そんな言い方では伝わらないからダメ。聞き入れてもらえなくて当然。

どれも今苦しんでいる人にどう聞こえるか、という視点で授業を進めます。
ネットでは冷笑系、と呼ばれている『反応の仕方』に分類されているようだけど、その冷たさを十分に味わいます。ロールプレイングをすると、みんな硬直したような表情になる。

「ひでえ」

思わず見ていた子が反応してつぶやいた一言です。
そう。冷笑って、キツイんですね。当事者ならそう思える。


どうして冷笑になるのかというと、過去にうまく伝えられなかったトラウマがあるから。
うまく伝える、という「伝えてよかった」経験値がかなり低く、伝えることに自信がないから、冷笑、という「ひねくれた」表現になってしまって病的になっている。

ところが子どもはまだそのトラウマがないか少ないから、ひねくれてこじれた大人よりもしっかりと物事に向き合えている。子どもの持つパワーですね。

「〇〇くん、〇〇してね、ときちんとお願いしたらいい」

それが授業で子どもたちが見つける答えです。
かんたんです。

「もう少し、机をうしろに下げてほしい」

これが言えるかどうか。

「おかずをもう少し多くよそってほしい」

これが言えるかどうか。

「机をえんぴつでコツコツやるのをやめてほしい」

これが言えるかどうか。

言えない子が、冷笑系に走る。走りやすくなる。あるいはそうなる素地を「抱えてしまう」。


きちんとお願いできる子は、きちんと交渉している。相手を尊重している。

冷笑する子は、孤独に悩んでいる。孤独におびえている。過去のトラウマにおびえている。
それで、お願いの仕方や友達の反応を悲観的に想像して心をこごえさせている。
しかし、友達のあたたかさや血の通ったコミュニケーションを思い出せば、きちんと話してみよう、と相手を尊重することができる。
心が柔軟性を失ったとき、想像力を失ったとき、あまりにも硬直しきったときは、相手を「あなたのそれはトーンポリシングじゃないか!」と(←逆トーンポリシングという)非難することさえ起きる。自分を守ろうとしての精一杯の努力なわけだ。言いたいことを言うことすらできず、相手の言動を封じようとここまでひねくれることがあるのだから、やはり人間は自分の伝えたいことをしっかりと伝える、ということができにくく育っているものらしい。

【発問1】
自分「かばんをここに置かないでよ」
相手「え?もっと早く言ってくれたらよかったのに」

言われたときに感じた気持ちはどうだろうか。
まず自分でノートに書く。できるだけくわしく。
そのあと、みんなで交流。発表しあう。
心が広がり、安心感が増えたかどうかで判断する。
「伝えてみてよかった、と思えたかどうか」

【発問2】
自分「わたしのこと、テリーって呼ばないで」
友人A「伊藤だからそう呼んだんだよ。そこまで傷つくことかなあ」
友人B「悪気はないんだからいいじゃない」

言われた時の気持ちを考える。
「お願いしてみたときの気持ち、お願いしてみてよかったと思えたかどうか」
「そのあとこう言おう、と考えましたか。そのつづきは、どう答えますか?」

【発問3】
(自分の側で考える)
自分が、今、苦しんでいる、という気持ちを伝えることができましたか?

【発問4】
(自分の側で考える)
相手に配慮してもらえる、という安心はありましたか?

【発問5】
(相手の側で考える)
相手を自分の思い通りにさせようとしたかどうか。
こちらの気持ち、自分の思いを伝えることはできたかどうか。

【発問6】
相手の心の状態がよくなったと思いますか。
自分の心の状態がよくなったと思いますか。

【発問7】
このやりとりの良くない点、欠点はなんですか。

【発問8】
トーンポリシングをどう思いますか。

〇わたしとしては、最後の「トーンポリシング」という言葉を、小学生段階で知り、使いこなせる言葉にできる、というのが、この授業の目的のように思う。

「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである」(ジョン・スチュアート・ミル)

2

1学期の最初の授業【国語】

【発問1】『先生が日曜日の朝に必ずお庭でやっていることは何か』と聞かれて、当てることは可能か不可能か、どちらですか。

可能→25人
不可能→10人

〇可能と思う理由(わけ)
・たくさん意見を出していけばそのうち当たるかもしれないから
・ヒントを出してもらえば当てられると思うから

〇不可能と思う理由(わけ)
・他人の考えていることを正確に当てることはできないから
・他の人の頭の中身が本当かどうか判別ができないから

このあと、意見交換。
「ノーヒントならほぼ無理だと思います」
「最初から正解するのはほぼ無理」


【発問2】
では、それを可能にするための条件は何でしょう。

〇意見をたくさん出す
〇先生のヒントをよく聞く
〇先生の表情をよく見て「こころをよむ」
〇当たるまであきらめない
〇みんなでたくさん相談する



では、
1)意見をたくさん出す
2)そのためにノートに書いた自分の意見はどんどん発表する
3)友達の意見や先生のヒントをよく聞く
4)みんなでどんどんたくさん意見を出して相談する
ということの「すごさ」を実感してみましょう。

【発問3】
田んぼの『田』という漢字の中に、どんな漢字がかくれているのか、さがしてみましょう。
最初は1人だけで考えます。ノートに思いつく漢字をたくさん書きましょう。

いくつかけましたか?
〇3つ
〇7つ
〇10こかけた!

見つけた漢字の数をノートに記録しておきましょう。
「わたし7つ」
「おれ、10こ!」

【指示1】
赤鉛筆で、友達の意見をたくさんもらっていいことにします。
クラス中のアイデアをたくさんあげたりもらったりしてみましょう。
いくつまで増やせるでしょうか。
でははじめ。

【ふりかえり】
いくつに増えましたか。
〇15こになった!


一二三十日
旧上土王干
士山出曰卍
・・・など


【やってみてどうでしたか】
〇みんなで相談すると早い
〇たくさん教えてもらうとうれしい
〇かぶっているのも多かったけど、知らないのがあって教えてもらえた

【6年生の授業の受け方】
〇たくさん意見を出して考える
〇ノートに書いた意見はどんどん発表する
〇ヒントになりそうかどうかはあとで考える。まず出す。
〇男女関係なくどんどん聞くのが早い

raku-umi

人生は重き荷を背負いて行くがごとし

徳川家康公が言ったとされる、
「人生は重き荷を背負いて行くがごとし」
という言葉があります。
新入生のランドセル姿を見ていると、そんな言葉をふと思い出しますね。

ところが、今や学校では置き勉が当たり前。廊下に備え付けのロッカーだけでは足りないから、学校で全員にファイルケースを買いまして、教科書類はほとんど置いていくシステムになっています。
ランドセルが重かったのはすでに過去の話になって久しいわけなので、今の子たちは

「え?ランドセル?・・・べつに、重くないし」

という反応でしか、ないでしょう。


だから、ランドセルは今の子どもたちにとっては、良いものであります。
重く苦しい『荷物』だ、とは認識されていないからですね。

ところが、先日、わたしが見た子は、ひどく重そうなランドセルをしょっていた。
見たところ、低学年かな。1,2年生くらいか。
とっさに思い出したのは、
「人生は重き荷を背負いて行くがごとし」でありました。
彼は、ひどく重そうなランドセルを、よっこらせ、よっこらせ、と運んでいた。

きみは、竈門炭治郎か、という感じ。
いや、ここは小学校だから、二宮金次郎か・・・。

その子は必死の形相で、ともかく懸命に歩いていく。
なぜか6年生の昇降口にいて、校舎をグルーッと回って、1年生の昇降口に行こうとしているらしい。お兄ちゃんかお姉ちゃんの、忘れ物かなにかを取りに来たんだろうか?事情があるのかな。

それにしても必死なので、じっと見てしまった。
そこではたと気が付いた。
なんか、大変そうなんだけど、いい顔をしてんだな。

「ぼくはこの重い荷物をがんばって運んどるんや!」
という感じが伝わってくる。

せや、重いけど、こんな日があってもいいやんか。

ランドセル

わたし自身は、もう教師になって十何年も経過してしまったことや、
いい加減、なかなかに年をくってしまったために、
今はもう、本当になにも持たずに学校と家を行き来している。

空手です。
右手も左手も、空っぽ。
車のキーだけを、ポケットに入れて持ってる。

これは最高です。なんせ、忘れ物がない。
だって、最初から無いんだから。持ち物が、ない。
ハンカチとティッシュと車のキー。それだけ。
軽いって、いいですよ。


重いのもいいけど、軽いのもイイ。
重いのを一生懸命持つのも、イイ。だけど軽いのもイイ。
徳川家康は
「振り返ってみると、重い荷物持ってたなー」
という感じなのかな。
きっと、そうなんだろう。

将軍になり、幕府を開き、自分が天下を取った。
ああ、ふりかえってみると、なんて遠い道のりだったろうか。
それにしても、今の身の軽さよ、わが世は春だのう。

「人生って、こんなに軽いものだったんだっけ?」

きっと、徳川家康さんは、そういう感覚をふと、覚えたのだろう。
長い人生、起伏の激しい人生街道、波乱万丈の人生路をしみじみと振り返って、

「うそ!人生、めっちゃ軽いやん!こんなんだと思わんかった!」

って。

きっと、そうや。

わたしも早く、そんな心境になってみたい。
今、相当軽い思いをしているが、もしかするともっと本来の自分は軽いのかもしれない。
もっともっと、さらにさらに、軽くなれるのかもしれない。そこを追求してみたい。

軽く、軽く、もっと軽く。
これ以上ないと思っても、さらに本当の軽さがあるかもしれないから。

どんどんと。
軽さの極限へ!がんばろう!!!!
さらに、さらに、軽くなろう!!


うーん、・・・こうやって気負うのが、軽くなれない原因なのかもな・・・。

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