30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年03月

『内輪ノリ』と『おもてなしのこころ』

通勤で使っている道を、聖火が走ることになった。
勤務校の近くでもあるから、わたしは正直、わくわくしている。
約1万キロ離れたアテネから、はるばると海を渡ってオリンポスの神々が宿る聖火がこの地に運ばれてくることを思うと、幼い時に「学研まんが」でこの事実を知ったとき以来の愉快さを覚える。
自分の目では、実際に聖火をみたことがないし・・・

で、聖火が走るのが数日後であることを知り、職場でその話をしたいと思いながら通勤した。
ところがだ。

「だれもそんな話しとらーん」(磯野波平の声で)

そもそも考えてみると、この町自体で、ほとんど盛り上がっていない気がする。
広報誌には掲載されていたものの、街にそんな雰囲気があまり感じられない。
「聖火がここを通ります!」みたいなお店の看板や広告も、ほとんど・・・見ない。
この町の人は、市役所の人(それも担当者のみ)以外、そのことを気にしていないんじゃないか、と思うくらい。

とうとう我慢できず、退勤する時間の間際になって、
「五輪の聖火が通りますよ」
と話題にしてみたら、話しかける方みんな、気の毒そうな顔になり(!)
「それで混まなきゃいいんだけどね。じゃ、さよなら」
と、まったく意にも介さない。あげくは交通事情の心配だ。
これではオリンポスの神々に対して、顔向けができないではないか。
せっかく凹面鏡で太陽神(これはゾロアスター教の流れを汲む)が意図してつけてくださる火なのに・・・神の火ですよ!?そんなのめったに見られないのに!

しらべてみたら、全国的にそんな感じらしい。
どうもスポンサーである企業や関係者だけの「おまつりさわぎ」になっているようで、
こういうのをさして、
『内輪ノリ』という。

内輪ノリは、基本的にきらわれてしまう。
仲間外れにされる、という人間の基本的な感情のマイナス面に働きかけるからだと思います。

つまり、聖火がこんなに愛されないことになってしまったのは、
「内輪だけで盛り上がる」ことになっちゃうからでしょう。
逆説ですね。周囲を巻き込もうとして『関係者』が盛り上がった状態を見せていると、ますますそれが「内輪だけの」ものにみえてきてしまい、さらに周囲が引いていくという・・・。

スポンサーは、派手にやればやるほど、訴えかければ訴えかけるほど、周囲から
「なんだあれ、内輪だけでノってやがる」
と思われて、意図とは真逆に「きらわれる」のであります。
コカ・コーラはもう方針を変え、でかいトラックも廃止して、山伏の修験者みたいな格好になって世を忍ぶ感じを出した方がいい。逆に、ひそかに、目立たぬように、決して内輪でもりあがっているのでありません、という体で声を忍んで夜中の2時くらいに走るようにした方が、好感度をとりもどすことになるでしょう。

そうすると、いかにも神の火を扱っている感も出るし、修験道の厳しさや、「おのれのための修行」感も増してきて、神々しくもなってくる。その修行のバックスポンサーがコカ・コーラ社だと知れば、なかなかコーラもやるではないか、という評価になると思う。

さて、内輪ノリを防止する、というのは小学校教師にとってはぜったいに身につけなければならないスキルでもあります。クラスの中に、内輪ノリをつくってしまってはいけないからです。
そこで、担任はつねに、教室に入るや否や、すばやく目を室内にめぐらし、
〇ひとりでいる子はいないか
〇表情の暗い子はいないか
〇ふだんと雰囲気が異なる子がいないか

などを感じ取らねばなりません。
そして、すべての子に、「あなたを気にしていますよ」というサインを送ります。

〇「なにしてるの?」と楽しそうに話しかけたり、
〇その子の好きなテレビ番組の話をしたり、
〇その子の飼ってるペットの様子を気にして話したり、
〇なにも話題がなければTシャツのプリントの文字を和訳して「いい服だねえ。いいメッセージが書かれてる」とほめたり

します。
そこからが本番で、そのことを、周囲に広げます。

「ねえ、Jちゃん、ワンちゃんの散歩で昨日、〇〇くんと会ったって。〇〇くんのところの犬の方が大きいんだよね。みんなえらいねえ、ちゃんと世話して」

というようにして、その話題に『反応してくれそうな』数人に、まずは話してみます。
しばらくその話題で場をあたため、徐々に教室内の温度を、0.1度きざみで上げていくのですね。

そうすることで、内輪ノリを防ぎます。
〇〇ちゃんの飼っている犬がどんな行動をとったのか、10分後にはクラスのみんなが知っているように願って。

『内輪ノリ』で盛り上がれば盛り上がるほど、周囲の子たちから冷ややかに見られてしまう、という高学年”あるある”の日常は、こうして担任が少しずつ減らしていかないといけません。
微々たる努力ですが、1年間積もり積もると、なかなかのものです。
配慮したクラスと、配慮してこなかったクラスとでは、大きな違いが出てきます。

小学校の教室、という小さな場でさえ、毎日のように話題が変わり、毎日のように新しい情報が「上書き」されていくのです。
五輪という大きなイベント、火を燃やし続けるというオリンピックならではのナイス・アイデアにのっかろうというのですから、スポンサーの各社は「聖火」に関して、自分たちだけ盛り上がっている雰囲気、というのを廃し、あくまでも

「今の日本に暮らす大多数のひとびと、市民、世間一般の庶民の暮らし」

というものに目を向けて、メッセージを発していかないと、ますます嫌われてしまうことになりはしないか・・・

わたしは、大きなトラックが派手な色づかいで大きな音を出しながらパレードするよりも、
修験道の行者が、夜中にやまぶしの恰好で、わらじをひたひたと鳴らしながら市内をまわり、

〇ギリシャはアテネの太陽神がもたらす聖火 と
〇山伏の聖地・那智の滝から運んできた水 とを組み合わせて持ち、


コロナの火が消えますように、と願ってそっと聖火を吹き消してみせたり、静かに夜中の3時に静かにイベントを終えたりした方が、より好感度が上がると断言したい。
だって、国民みんな、心配してるんだもの。五輪でその心配を消すことはできない(火は消せても)。楽しみを得たいか心配をなくしたいか、と聞かれたら、心配の方を無くしたいんだよね、国民って。(お祭りで盛り上がるのもイイけど、心配ごとがあるうちは、なかなか正直、盛り上がる気分になれないのが人の感情というもの)

根底にあるのはただ一つ「おもてなしの心」。
これに尽きますね。教師はこれを忘れてはならない。

seika

【黄金の比較原則】45分の小学校授業で最大活用

~小学校の授業で、ベン図を最大に活用するために~

【黄金の比較原則】とは、以下のようなものであります。

比較ツールの成長段階


比較のよさを知る、体験することが大事だ。
そこから「では次は、あれとこれを比較してみたい」という意欲につながるからだ。
学習の意欲、それも単発ではなく、連続した意欲につなげるためには、
「比較」の良さを知り、いろんな変化したバージョンを次々とくりかえしたくなる、という展望につながらなくては。

そこで、黄金の比較原則というものを打ち出しました。

この原則にのっとれば、

〇飽きてしまう前に
〇比較の良さを体験し
〇より確かな『概念の昇華』を味わえます


かならずこの原則の最終場面では、ふりかえり、を行いましょう。
【比較のふりかえり】

比較してみて、よかったかどうか。

比較する前と後で、どうちがうか。

比較することの良さってなんだろう。

最後の、「比較の良さってなんだろうか」というのが、一番のコツです。
ここで、どうして今回、わたしはこの思考技術を駆使したのだろうか、という、
自分の学び自体、学びの具体的な方法自体を、ふりかえることになるからです。

では、みなさん、ぜひこの原則で、授業を進めてみてください!

ベン図を使った授業のご報告、お待ちしております。
(本ブログのメッセージ機能から、ぜひ「自分もやってみた!」レポートをお寄せください)

【5年国語】大造じいさんとガン・あかつきがなぜ真っ赤になるかとベン図のこと

「東の空が真っ赤に燃えて、朝がきました。」

ここで椋鳩十がなぜ、『真っ赤に燃えて』と書いたのか。
表現の工夫を見つけよう、という課題で、数人の子がこの表現(叙述)に着目した。

「これは、そのあとに大造じいさんがぜったいにしとめてみせるぞ、今日こそはつかまえてみせる」という緊張感のある戦いの場面だから、「赤」という色を使い、「燃えて」という、大造じいさんの気持ちと重なるような情景の描写を入れたと思います。

全員が納得し、筆者は 色のイメージ をうまく使って、大造じいさんの心理まで表現したのだ、ということになった。

gan


他にも、すがすがしい朝を「青くすんだ空を見上げながら、にっこりとしました」で、青いイメージを使って表現したり、白い羽毛が散る場面では「羽が、白い花弁のように、すんだ空に飛び散りました」
として、戦う赤のイメージを白で終わらせたり、と表現に工夫がみられる。

そこまで話し合ったところで、一人の子が

「なぜ真っ赤に燃えてなのかは、考えてみれば当たり前で、この文が大造じいさん目線だからです」

とノートに書いたのを発表してくれた。

他にも数人、

「大造じいさん目線」という言葉を使って書いた子がいて、賛成してくれた。

これは、1学期に勉強した蜂飼耳さんの「なまえつけてよ」という物語文の中で、〇〇目線というのを学習したため、そのことを覚えていたからだ、という。

「なまえつけてよ」は、地の文にある表現もみな、主人公の春花の目線で書かれていた。
勇太が、プイッと横を向く、と地の文に書かれているけれども、勇太はものすごくやさしい子で、実際にはそうではなく、春花に迷惑をかけないための所作だったわけで、プイッと見えたのは、あくまでも期待していた春花のざんねんな気持ちが『そういうふうに見た』わけで・・・。

そこから、物語文の地の文にも、主人公の目線がふくまれている、というのを習っていた。


だから、『東の空が真っ赤に燃えて』いるように感じ、そう見たのは、たしかに大造じいさんであり、それは大造じいさんの目線からみたわけだから、当然そう見えるわけだ。
作者の椋鳩十さんは、そのときの大造じいさんの心理を、きちんと情景描写とリンクさせている。

表現の魅力を今回はまとめてみたわけだが、多くの子が、
今回の「大造じいさんとガン」と、1学期の「なまえつけてよ」を比較して、

〇作者は情景描写をする地の文に主人公の目線をしのばせることによって、そのときの心理を読者にわかりやすく伝えるとともに、主人公の立場を明らかにすることに成功している。
〇空が青く見えるのも、赤く見えるのも、どちらも主人公の目線と心理(内面の状態)によって見えるもの。

ということを書いた。

また、2学期の「想像力のスイッチを入れよう」と比較して

〇主人公が受けたり持ったりした印象が、情景描写の地の文に書かれている。情景描写は事実を書いているわけではない。事実よりもどちらかというと、「印象」が書かれる。

ということを書いた子もいた。

ここでも、『比較』ということが思考ツールとしてうかびあがってきたわけだ。
2つの物語文、一つは既習のもの、比べるもう一つは現在習っているもの。
これらを比べてみて、ということが、できてくる。
学習とは、つねに、以前ならったことと、今考えていることの『比較』、ともいえるかもしれない。

国語でも、ベン図での学習ができそう、だ。

makka


ちなみに、以下が『黄金の比較原則』だ。

比較ツールの成長段階

「先生!比較するのに、ベン図を使ってもいいですか?」

深い学びに至るには、について、前回の続き。

小学校の理科だと、思考の深まりを次のように計画しておりまして
3年生で比較
「くらべてみてどうか、ちがいは、おなじところは」

4年生で関係付け

「Aが増えてもBは変わらない。だから、AとBは関係がない。もしくは、Aが増えたらCも増えた。だから、AとCは関係している。」

5年生で条件制御
「変化やはたらきをそれらに関わる条件に目を向けながら調べる。変える条件は・・・、変えない条件は・・・。結果は・・・なので、・・・なことがわかった。」

6年生で推論
「自然の物事に関する原因や決まり、関係について仮説を立てながら予測する。
◯◯ということや◇◇ということを合わせて考えると、△△だと思う。もし・・・仮説A・・・だと、◯◯ということが起こるし、もし・・・仮説B・・・だと、△△ということが起こる。これらを比べると◇◇ということがわかるのではないかと思う。」

をツールとして学ぶことになっている。


いいじゃないですか!
思考の深まりとは何か、について、すでに小学校理科は提示してくれています!

さて、思考の入り口にあたる『比較』とは何か、にもどりましょう。

比較とは、どのような意味を持つか、ということをもう一度整理すると・・・

「比較」は、ある一つの特定の操作を意味するのではなく、さまざまなタイプの考察をそのなかに含んでおります。たとえば、複数の事実を前に置いて、そこに見いだされる共通点や相違を発見し、列挙していくことも比較の一つのタイプであろうし、その異同の理科的、国語的、社会的背景の解明とその比較も重要な課題である。さらに、そこから事象の本質を取りだしたり、一般的な法則を発見したりすることも比較の重要な一部である。比較は、取り扱う内容も多様であるが、比較という操作もまた、多様な層からなっている。表層に現れた類似性を指摘することから始まって、事象の本質を把握していくことまで、さまざまな考察の方法を包摂している。

ということになりましょう。

つまり、子どもたちは、ただ

「わーい、バッタとカマキリ、くらべてみようー!」

というノリだけで比較してしまうのではなく、

比較、というのが重要で、そうすることで
『より深く本質をさぐることができそうだから』
だと、ちゃんと思ったうえで「よし、比較しよう」となるのが大事だというわけ。

そこで、比較がしやすいツールを知る。

それが、ベン図です。

これを、これまでは教師側の教える工夫、として使ってきたと思うんだけど、そうでなく、児童が自ら、
「おれにとって深い学びにつながる道具として使えそうだから、使いたい」
ときちんと意識して使う、ということです。

ベン図とは、複数の集合の関係を図として表したものです。
情報を視覚的に整理し、共通点や相違点など、項目の集合間の関連を見い出すために使用でき、ある概念の背後にあるロジックを徹底的に考え、関連を表現して視覚的に伝えるために役立ちます。基本的なものから高度なものまで、さまざまな対象に使えます。
複数の選択肢を比較し、それらの間の共通点と相違点を明確に確認するために使用できる、すぐれた思考ツールとよべましょう。

飛蝗とカマキリの違い

このベン図を、まずいちばんに教室で使えるようにする。
それが、「見方・考え方をはたらかせて」につながるのではないか。


ちなみに、以下が、黄金の比較原則、と呼ぶ『思考の流れ』の表です。
じっくりご覧ください。
比較ツールの成長段階

思考ツールを使いこなす児童に育てる ベン図が第一歩な理由

小学校の学習指導要領が新しくなり、「見方・考え方をはたらかせて」という文言がどの文書にも見受けられるように変化した。

たとえば、国語では
言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
ということになった。

文科省は「児童の深い学びを実現させる」、というが、その説明には
習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているか。
と書かれている。ここにも、『見方・考え方を働かせ』が入っている。

さて、ここで、懸命に働かせろ、と示している『見方・考え方』って、なに?ということですが・・・

どうやら私が勝手に推測するに、

簡単なのは、

比較

かな、と思います。

Aとくらべて、Bはこうではないか。

というような、くらべる、という思考技術ですね。

たとえば、バッタとカマキリを比較してみると・・・

bug_syouryou_batta


バッタはこういう特徴をもつが、カマキリはそれに比して、また別の特徴を持つといえるのではないか、・・・だとかいうような・・・。

飛蝗とカマキリの違い


これを見ると、カマキリが肉食であり、はっぱを食べない、というのが、いちばんの違いであるように思います。

肉食だから、触角が長いのですね。

逆に、はっぱを食べるバッタさんたちは、逃げる際に邪魔になったり、ときには触角が長いからこそ、捕食者にとらえられてしまうことだってある。だから、触角を短くしているわけだ。

また、住んでいる場所も、食性の違いが主な原因になっている。
肉食はどこにも住める。カマキリは林にも住める。
しかし、草食のバッタさんは、いざというときに飛距離が確保できないわけで、やはり逃げる身としては草原に住みたい、となる。

そうみてくると、顔つきだって納得できてくる。
餌を探して回るカマキリは目がでかく、単眼まで備えているわけで、どちらかというと視覚優位だ。
でも、バッタは目で確認している暇はなく、かすかな音や伝わってくる振動で逃げなくてはならず、目に頼るよりも聴覚や振動を感ずるセンサーを発達させました。
だから、なんと、足の付け根に耳があるんですねえ。

ここまで比較してくると、いよいよもって、カマキリとバッタの区別がついてくる。
より深く、相手を知ることになる。
もうカマキリは、肉食だからそうなった、という体つきである。
そして、バッタは、草食だからそうなった、という体つきなんであります。

そう言えるほど、理解を深めた子は、バッタとカマキリをまちがえるなんてことはありません。
よーく顔をみて、

「あ、目がでかい。こりゃ肉食やな。おまけに逃げるのに邪魔なほど、鎌がでかいわ。これはカマキリじゃなー」

と、はっきりと理由をつけて考えることができる。
こうなってくると、たとえ反論されても平気です。

緑色のかわいい昆虫をつかまえたときも、

『もしこの昆虫が草食だったら、でかい鎌は逃げるのに邪魔、長い触角も邪魔です。そして目がでかい。しかし、草食の昆虫の目が大きくてもあまり役に立ちません。視界の中に敵の姿がうつった時点で、それはもうあの世に渡る寸前だ、ということです。後ろ足も小さいし、逃げるための瞬発力が出るとは思えません。したがって、この昆虫は見たところ、草食ではなく肉食です。すなわち、カマキリの仲間でしょう!』


mushi_kamakiri


・・・

とまあ、比較することにより、「見方・考え方をはたらかせることにより」詳細と本質により深く迫ることができるのでありましょう。
比較を思考開始のきっかけとして用いて、さらに→なぜそういう違いが出てくるのか→原因は何か→原因として考えられる理由のうち、もっとも重要な理由は何か→原因に順位をつけるとしたらどうか→比較した二つの対象の立場を入れ替えてみるとどうか・・・というように、思考を進めていけるようになりますね。より深い学びに進むために。

整理してみると、
比較 → なぜ同じかなぜ違うかの原因さがし(関係づける) → 原因に順位を付ける → 双方の立場や条件を入れ替えてみる
というような、思考の流れができてきます。
この思考の流れを、【黄金の比較原則】と名付けることにする。

【黄金の比較原則】
比較ツールの成長段階
こうした思考の流れを指して、
『「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう』
というのではないだろうか。

「タブレット端末を家に持ち帰る」で職員室大論争

卒業式が終わり、いよいよ職員室は戦闘モードに突入した。
これから学校の公的文書の中では最後の砦と言われてきた、「要録」づくりが始まる。
それと同時並行で、
〇どの先生が異動になるか
〇その先生の仕事をだれがどのように引き継ぐか
〇そもそも次年度の校務の分掌はどのようにするのか
〇備品の紛失はないか
〇教科書をどの部屋において、チェックするのはいつか
〇教室は来年度どの先生がどのクラスがどのように使うか
など、多岐にわたるチェックと大引っ越し作業がはじまるからだ。
なんせ、異動だけで十名を超える。
小規模な学校だと約3分の1が異動である。学校が変わる先生も大変だが、残る先生も引っ越しだ。2階から3階へ、というだけならまだしも、別の棟や建物に引っ越すとなると、なかなか大変だ。

愛知県内を東西南北くまなく異動した経験から、引っ越し大名、と言われるS先生が、途方に暮れたような声で
「あの荷物、どうやって引っ越そう」とぶつぶつつぶやいており、周囲の先生たちから失笑を買っている。
S先生は独自に作成する教材教具づくりのプロであり、その教室内での実践は子どもたちからも人気があってすばらしい。ところがいざ今日になってみると、それらは宝物ではなく、ただ単に引っ越しをしにくくさせる厄介な荷物に見えているようだ。

さて、そのさなかに「職員会議」と呼ばれる御前会議が10くらい計画されており、そのつど、次年度のための非常に重要な決定がされていく。次年度は、ほぼここで出された線で、実行されていくのだ。
「3月の時点で、方向が決まっておりました」
というのは、どの先生も使う、いわば伝家の宝刀だ。年度途中でさまざまな意見が出てきても、最終的には担当の先生がこの時期に出した「この方向」と呼ばれる答申が職員会議で承認されていたら、どの先生もそれに従わざるを得ない。

頭の中は、しっちゃかめっちゃかである。

目線の先には引っ越しの荷物が見えており、頭の中は次年度の運動会のことを考えており、ところが参加している職員会議ではGIGAスクール構想について議論している、というのが、今、全国の多くの小学校でもくりひろげられている実態だろう。小学校は全国に2万校ある、といわれており、教員は40万人いるらしいから、その40万人の中の半分は、こうして目線と頭と会議が乖離していると思う。(個人の印象にすぎません)

さて、今日はひさびさに血沸き肉躍る大論争がもちあがった。
GIGAスクール担当の私と、職務上それを進めざるを得ない教頭が矢面に立ち、一斉攻撃を受けた。

実は、市から、

「今度くばられるタブレット端末を、家庭に持ち帰って自主学習などに使え」

という指針が出されている。

ところが、これが職員室に火をつけた。

「1年生が無事に持ち帰れるとは到底思えません!」
「1年生の中には、ランドセルのふたをしめないでひっくり返している子が日常的にいます!」
「田んぼの中に落としても無事なんですか?防水とか?」

tanbo


わたしはおどおどしながら体を揺らし、前かがみになって手をもみ、

「いえ、防水ではありません。田んぼに落としたら、その時点で故障確定、電源は今後いっさい入りません」

というしかない。
そのあまりに無責任な回答に対し、おおー、というどよめきが起きる。
あちこちの島で「無理よねえ」「こんなの許せない」というつぶやきまではっきりと聞こえてくる。
わたしは追い打ちをかけるように、

「ええ、持ち帰ってもし使ったとしても、充電ができない、という問題があります」

教頭がうらめしそうに私を見る。

「なぜなら、家庭には充電ケーブルは配られないし、電気代がかかることに嫌悪感を示すご家庭もあるだろうと思います。また、無線LANで接続できるはずですが、おうちでその設定をしなければならず、無線LAN機器のSSIDと呼ばれるパスワードを入れたりとか、一定のご負担をご家族にお願いすることになります」

「それを、児童全員に強制する、ということでしょうか!」

定年近い年配の先生は、ほとんど怒声に近い声でそれを言う。

「そんなことを、勝手にこっちで決めてしまっていいんですか?第一、保護者にはなにひとつこういった説明をしていないじゃないですか!」
「無線LANがある前提のようですけど、みんながみんな、そうじゃないですよ!」
「そうですよ、保護者の中には、そんなこと聞いてないよ、という人も多いと思いますが!」

わたしは目線を下げ、ほとんど腰を曲げて、その怒声をうやまうようにして聞く。

担当者というのは、こういうものだ。
ちらっと、テレビでこういうの、見たことあるな、と思う。
政治のしりぬぐいをさせられる官僚が、こうやって頭をさげているのを見たことがある。

「とにかく、タブレットを家に持ち帰る、なんていうのは、現段階では保護者の同意がない限り、学校側で勝手に決めてしまうことではないと思います!」

ほとんどの先生がそれに賛成だった。
わたしと教頭は、引き下がった。

さて、どうなるのだろうか。

鄧小平が「富める者から豊かになれ」と指示したのが先富論であった。
しかしそれは巨大な格差を生み、中国はいまだに人口の半分以上が貧困に悩んでいる。
李克強首相が掲げる経済政策で、貧困層を救う「リコノミクス」が提唱されるが、それも遅々として進んでいない。おそらく、富んだ者が社会全体を親愛の情で見つめる、というのは理想に過ぎない。富んだ者は自身がつかんだ経済的な富は、競争の中で勝ち取ったと理解する。それは、弱者を切り捨てる、ということと同義だからだ。

写真は、リコノミクスを掲げる李 克強(り こっきょう、り こくきょう)首相。
RIKOKKYOU


タブレットを学校に配備し、児童が使えるようにする、というのは、必要なことだと思う。
しかし、あまりにも、そのことを進めるための、地盤整備が遅れている。

「えっと、新間先生、その場合、家庭に『充電ケーブル』を配るんですか?」

わたしは、それを聞いたとき、とっさに充電ケーブルをアマゾンでポチりたくなった。購入数のところを、「500」にして。

大好きな芸能人の悪口を言われて逆上する子

いつも、子どもたちと一緒に生活をしております。
すると、大人にはないような出来事もたくさん起きる。
大人どうしであれば、そんなことはないだろうな、ということ。多いですね。

1)大声を出して、とっくみあいの喧嘩

東京は町田の繁華街で、中華料理の店から出たら、目の前で大人がなぐりあっていたのを見たのは、あれはもう20年ほど前か。でもまあ、酔っ払って双方がおかしな調子にならない限り、大人はさほど、子どものようにとっくみあいの喧嘩をすることもないような気がします。
なぜ子どもはとっくみあうかというと、まあちょっと、試してみたいんでしょうね。わたしも隣の家のケンちゃんと本気でなぐりあったことがあります。わたしは8歳、ケンちゃんは7歳でしたね。わたしの持っていたおもちゃを、ケンちゃんがわざと、どぶに落としたのがきっかけですね。当時は「嫉妬」という感情をよく理解していませんでした。

2)大声を出して、悪口の言い合い

これももう15年前でしょうか。神奈川県のとある駅で、駅員さんがいるにもかかわらず、大声で怒鳴りあい、ののしりあっていた乗客どうしがいましたが、まあ、大人ではめずらしいような気もします。小学校だと、たまにありますよ。大人よりは頻度が多いように思います。


なぜこんなことを書いているかというと、疑問がありまして、なぜ子どもどうしはなぐりあったり、大声で喧嘩したり、というのがあるのだろうか。大人になるとその頻度がかなり減るのはなぜだろうか。というのがちょっとよく分からない。だれか、教えてほしいと思います。

先日は、大好きな芸能人についてスピーチしあう、ということがありました。
これは国語の教科書や外国語の教科書や、理科や算数でもそうなんですが、今の文科省はとにかく、子どもに「自分の意見を言わせたい」のです。先日県の講座で講師として招かれていた文科省の担当者も、かなりそれを言ってます。「まずはアウトプットさせたい」と。

ともかく、上から知識が降ってくるようなこれまでの学習のイメージを、根底から変えたいようです。なので、欧米のような「討論」のイメージで、学習を進めたいらしい。
そうするためには、今の学校でも、とにかく自分の意見はこうだ、と言わせたいのです。
研究授業などは、もうそんなのばかりで、とにかくアウトプットさせた場面を文科省の息のかかった講師がどんどんと高評価しています。

で、ここからが問題。
実は、日本人の子どもたちに、育っていないものがありまして。
だから、上記のような文科省のもくろみは、意外にもうまくいかないのです。
それは、「他の評価を気にして許せない」という日本人の特性でしょうかね。

ある子が意見をいうと、それをすんなりと承知しないのですね。
いや、意見なら討論になってもよいのですから、文句をつけてもいいのです。
しかし、ただの感想や印象を述べた程度であっても、「それはちがう」とケチをつける。
それが日本人の癖なのでしょうか。大人もそうだから、子どもだけ変えるのは難しい、という人さえいます。

感想はそれをそのまま、まずは受けたらいいじゃないか。
と思うのですが、そうでもないのですよ。なかに、「ケチ」をつける子がいるんですね。
また、「ケチ」をつけられても、「へえ、そう」と意に介さない子もちゃんといます。
「へー、わたしはそう思うんだけどな。あんたはちがうんだね」という感じで。

ところが、そうじゃなくて、「いや、〇〇は▲▲でしょ!」と。「なんでそんなことを言うんだ」と、険悪なムードになる子もいる。


したがって、文科省の役人が進めようとしている「意見をアウトプットする」というのすら、難しいという現状があるのですよ。文科省の役人は、ぜんぜん気づいていないでしょうけど・・・。

大好きな芸能人のことを「好きだし、あこがれる」と話したら、「えー、ぜんぜんかっこよくないじゃん」という子がいて、そこから大荒れ。つかみあいの喧嘩、一歩手前になりました。
文科省の方は、この事象から、あることに気づいていただきたいと思います。つまり、相手の話すことをそのまま聞く、というかんたんのようでいて、すこぶる難しいことを、ちゃんと学習しないとダメ、ということです。

「ひとの言葉の聞き方」から教科書で扱わないとね。現場からは以上です。

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正しく評価できるスキルとは

ものごとをスッと見通す。
そのものの実際の価値を正しく理解できる。
そういう能力を身につけたいと思う人は多いのではないか。
わたしもそうだ。

子どもの実際の姿を知りたいし、学びたい。
その子のユニークさを見たいし、わかりたいし感じていたい。

AをAとみる、ということくらい、むずかしいことはない。
まわりがみんな、AをBと言っていた場合、それをAとみる人が何人いるだろうか。

あるいは、周囲の人の多くがすばらしい、と断じたものを、
自分にとっては正直、どうなのか、と言えるかどうか。

あの人がいい、と言った。
新聞でもいい、と書いてある。
テレビでも人気のある芸人さんが良いとほめていた。
それを、自分としてはこうだ、と言えるかどうか。

自分は、周囲のみんなが「良い」とほめたものを、どうとらえているのだろう。
良い、というのが、ただの印象・感想であると、どれだけ冷静にとらえているだろう。
AをAとみる、ということがいかに大変か。

わたしがAだ、と思ったのは、言ってみればただそこから受けた印象を語っているにすぎない。
「おれはAだと思うなあ」
事実は印象をとりさった部分のことだから、「Aだと思う」という以外のところに、事実はある。

すると、子どもの行動や様子を見ていて、「印象以外」をどうくみとるのか。
教師は子どもの事実実態には、なかなか迫ることができない。

たった一つ、有効な手段がある。
それは、当人が、自分について語る、その言葉である。
その言葉が、事実にかなり近いのではないか、とみる。
そのくらいしか、分からない。

本人が、自分について、こうではないか、という遅々としたところにしか、
正しい道の進み方がない。

そこを力強く歩もうとする際に、ほんの少し、周囲の大人として
「こう見えるけどどうか」「ここが良さだと思うがどうか」くらいしか言えない。

そろそろ評価の時期が近い。
評価とはどういうものか。
価値があるかどうか。←そこには主観しか存在しない。

本当に、子どものことなんて、わかりようがない。
だから安心できるし、だから救われる。
第一、他人に分かられて、たまるか、ということ。
自分でも自分のことなんて、ぜったいによく分からないのに。

chou-cho

『雑』の側からは『繊細』の側がよく見えない

多くの教育者が
「子どもには、少しずつ与えよ」
と言っている。

これは子どもが自己形成するにあたり、雑(ざつ)な感性を育てるか、繊細(せんさい)な感性を育てるか、という2つの道があり、まあ教育的には、よりも繊細が良い、と考えるからでしょうね。

なぜ繊細が良いかというと、『センサーの感度が鋭い方が良い』、と考えるからでしょう。
たとえば温度計が、1の位を基準にして表示されるとしたら、

18度(℃)

とかになる。
それが10分の1の位を基準にしていたら、

18.8度(℃)

とかの表示ができる。
すると、18度よりも実は19度に近いじゃん、という、
より科学的で合理的な事実のとらえ方ができるようになる。


1の位を基準にする子を育てるか、10分の1の位まで知ろうとして感受できる子を育てるか。
それが、雑な子か、繊細な子か、のちがいでしょう。


しかし、大人の側の都合からいうと、
繊細な子を育てるのは、えらい苦労がかかる
ということが分かっています。
繊細な子を育てるのは、繊細でなければならないのです。
雑ではとうてい、つとまらない。
だからなかなか、そうは問屋が卸さない。


なんて言ったって、学校では、35人から40人ですから。
その大人数ををせまい部屋に入れて、いっせいに給食を食べさせ、いっせいに同じような絵を描かせる。で、クーピーの12色とか、絵の具の24色とか、ドバアーッ、と最初に与えます。
だって、細かくていねいになんて、一人ひとりをみてなんか、いられないですもん。


本当は最初は赤だけで、徐々に青を足し、黄色を足し、少しずつその色の味わいを、子どもとともに味わい、言語化しながら、身体で表現しながら、色を繊細に味わいつつ、・・・というのがやりたくても、とうていそこまで手が回らないから、

入学と同時に、サクラクレパス16色、一気にどーん!

です。

サクラクレパスが悪いのでありません。
社会の仕組みとアイデアが、まだ貧困、ということです。
アイデアと知恵が、足りてない、のですな。

で、1年生なのにもう16色で絵を描かせてしまいますが、
16色で描くのにせいいっぱいがんばった子たちは、だんだんと疲弊して、
たった1色のみの濃淡の味わいには無関心になる。そして、それを味わう感覚を失っていくのですね。

その感覚がもっともマヒしたのが教師ですから、赤と青だけで絵を描いてしまった子の絵を

「この濃淡がいいねえ」

とは思わず、

「なんだこれ、つまんない」

と思ってしまうわけ。
で、余計なことに

「もっと色を使いなさい」

と指示を出す。

nijimi


ところが、感性が豊かで育っていてするどくて優秀な子は、もうこの濃淡だけで十分に美しいことを知っており、他の色がくるとそれらをすべて台無しにすることを知っていますから、もう他の色は使いたくないわけ。

これがいわゆる、

「評価基準の雑な先生が、繊細な子をみる際に噴き出す矛盾」

です。

専門用語では、

The contradictions when a loose teacher takes care of a highly sensitive children.

略して、CLSCと言います(嘘)。

『雑』の側からは、『繊細』の側が、よく見えないのです。
逆に、『繊細』の側からは、『雑』の側が、すっごくよく見える。もう丸見えです。
だけど、それを言語化することできない。
「雑だねえ」としか、言いようがない。

雑な方は、自分の側に引っ張ろうとしますので、一生懸命に
雑になろう、雑になろう、と声をかけて誘います。うるさいほどに。

で、それがうるさい、といやがっていると、繊細の側もどんどん疲弊して、雑になってしまう。
結局、雑の側が、勝つのです。世の中というのは。
みんなで雑になり合って、「繊細」の価値をなくしていっている。

HSCからみると、それに付き合うのはタイヘンなことですから、
やはりHSCは、しずかに、できるだけ「雑な人々」を刺激しないように、そこからそっと離れるしかない。

学校に来たくない気持ち、なかなか言葉にしがたいけど、そんな感じなのかな、と想像することがあります。

輝きだす記憶のカケラ、という話

先日、国語で「大造じいさんとガン」の学習をしていたら
大造じいさん、と答えるべきところで

「兵十(ひょうじゅう)?」

と答えた男子がいて、クラス中が大爆笑になった。

兵十というのは4年生のときに学習した「ごんぎつね」の登場人物で、
たしかに兵十も大人の男性だし、大造じいさんと重なる点が多い。
両方とも昔の話で、主人公が銃を持ってる。動物と関わる、というのも同じだ。

「兵十は去年でしょ!」
と隣の女子がたしなめると、クラス中が大爆笑した。
「あっちはごん、こっちはがん!」

わたしはその時に、涙を流しながら大笑いする子らの姿をみながら
不思議な感傷にとらわれていまして、

これが青春、というもののような気がする・・・

と、ふと思った。

もちろん、こんなワンシーンのことなど、すぐにみんな忘れちまうでしょう。
あと1年もすれば、子どもたちにとっては大昔のこと。
そんなことあったっけ?という話になります。


考えてみると、クラスというのはふしぎなものです。
縁もゆかりもないような、ふつうは出会わないような人と、こうして出会っていっしょに過ごすのですからね。

○自分はなにに心を動かされ
○どういうことに充実感を見出しているか

一人ひとりがちがうのですが、なかにはそれを共有しあえる友達も出てきます。
そこには一切の利害関係はありません。なぜって、そこにいるのは、
たまたま理由もなく集まった、ただ学区が同じだった、というだけの人間どうしだからですね。

同じ教室にいる仲間でも、
モチベーションに違いはあるし、
苦手な人もいるし、
尊敬できない人もいる。
その中で、共に出会い、泣いたり笑ったりしている。
これは、なにか相当な理由があったとしても、なかなかできない世界ではないだろうか。
自分から選択したわけではないからね。

青春というのはむろん、人によってちがいます。
多くの人が、「青春=きらきらしてる」ととらえるのではないかと思う。

しかし、今回のように、
「大造じいさん」を言うときに
『ええっと、兵十(ひょうじゅう)?』
と言ってしまい、クラス中が大爆笑するような、そんなちっぽけな、ただそれだけで意味のないようなものが、あと何年後かにふと、頭の片隅から湯気がたちのぼるように、記憶のカケラとしておぼろげに思い出されたことがあるとしたら、これはもう立派な青春ではないだろうか。

つまり、今回のことに限らず、どうしたって人は、昔を思い出すのです。
あのとき、あんなことがあったな、あの人がこう言っていたな、あんな恰好をしていたな、こんな気分だったな、とか。

「ああ、あんなことをしていたよなあ」

と、突然に、ある気分と共に、思い出すのですよね。人間は。
おそらく、今はたいしたことないと思うような、一瞬の気分や、出来事や、光景を。

そして、考えてみると、そのたいしたことがないようなものを、自分の中でしっかりととらえていて大事に持っているわけで、それが青春というわけ。
あとになって思い返すと、大事な、大事な、大事な、自分という人間の生涯の思い出になっているわけで・・・

・・・というようなことを、一瞬でわたしはどうやら考えたようで、
大爆笑が済んだ子どもたちが、涙を拭きながら顔をあげて、ふたたび私の方を(つまり黒板の方を)みたのを感じながら、

「ああ、どうやら私は、このときのことをあとで思い出すんだろうなあ。ふと、ね。そして、きらきら、とね」

と思ったのでした。

で、どうせあとで思い出すようなことをやってんだから、全力を尽くそう、と改めて思ったわけ。
あとで思い出すんだから、ね。

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