通勤で使っている道を、聖火が走ることになった。
勤務校の近くでもあるから、わたしは正直、わくわくしている。
約1万キロ離れたアテネから、はるばると海を渡ってオリンポスの神々が宿る聖火がこの地に運ばれてくることを思うと、幼い時に「学研まんが」でこの事実を知ったとき以来の愉快さを覚える。
自分の目では、実際に聖火をみたことがないし・・・
で、聖火が走るのが数日後であることを知り、職場でその話をしたいと思いながら通勤した。
ところがだ。
「だれもそんな話しとらーん」(磯野波平の声で)
そもそも考えてみると、この町自体で、ほとんど盛り上がっていない気がする。
広報誌には掲載されていたものの、街にそんな雰囲気があまり感じられない。
「聖火がここを通ります!」みたいなお店の看板や広告も、ほとんど・・・見ない。
この町の人は、市役所の人(それも担当者のみ)以外、そのことを気にしていないんじゃないか、と思うくらい。
とうとう我慢できず、退勤する時間の間際になって、
「五輪の聖火が通りますよ」
と話題にしてみたら、話しかける方みんな、気の毒そうな顔になり(!)
「それで混まなきゃいいんだけどね。じゃ、さよなら」
と、まったく意にも介さない。あげくは交通事情の心配だ。
これではオリンポスの神々に対して、顔向けができないではないか。
せっかく凹面鏡で太陽神(これはゾロアスター教の流れを汲む)が意図してつけてくださる火なのに・・・神の火ですよ!?そんなのめったに見られないのに!
しらべてみたら、全国的にそんな感じらしい。
どうもスポンサーである企業や関係者だけの「おまつりさわぎ」になっているようで、
こういうのをさして、
『内輪ノリ』という。
内輪ノリは、基本的にきらわれてしまう。
仲間外れにされる、という人間の基本的な感情のマイナス面に働きかけるからだと思います。
つまり、聖火がこんなに愛されないことになってしまったのは、
「内輪だけで盛り上がる」ことになっちゃうからでしょう。
逆説ですね。周囲を巻き込もうとして『関係者』が盛り上がった状態を見せていると、ますますそれが「内輪だけの」ものにみえてきてしまい、さらに周囲が引いていくという・・・。
スポンサーは、派手にやればやるほど、訴えかければ訴えかけるほど、周囲から
「なんだあれ、内輪だけでノってやがる」
と思われて、意図とは真逆に「きらわれる」のであります。
コカ・コーラはもう方針を変え、でかいトラックも廃止して、山伏の修験者みたいな格好になって世を忍ぶ感じを出した方がいい。逆に、ひそかに、目立たぬように、決して内輪でもりあがっているのでありません、という体で声を忍んで夜中の2時くらいに走るようにした方が、好感度をとりもどすことになるでしょう。
そうすると、いかにも神の火を扱っている感も出るし、修験道の厳しさや、「おのれのための修行」感も増してきて、神々しくもなってくる。その修行のバックスポンサーがコカ・コーラ社だと知れば、なかなかコーラもやるではないか、という評価になると思う。
さて、内輪ノリを防止する、というのは小学校教師にとってはぜったいに身につけなければならないスキルでもあります。クラスの中に、内輪ノリをつくってしまってはいけないからです。
そこで、担任はつねに、教室に入るや否や、すばやく目を室内にめぐらし、
〇ひとりでいる子はいないか
〇表情の暗い子はいないか
〇ふだんと雰囲気が異なる子がいないか
などを感じ取らねばなりません。
そして、すべての子に、「あなたを気にしていますよ」というサインを送ります。
〇「なにしてるの?」と楽しそうに話しかけたり、
〇その子の好きなテレビ番組の話をしたり、
〇その子の飼ってるペットの様子を気にして話したり、
〇なにも話題がなければTシャツのプリントの文字を和訳して「いい服だねえ。いいメッセージが書かれてる」とほめたり
します。
そこからが本番で、そのことを、周囲に広げます。
「ねえ、Jちゃん、ワンちゃんの散歩で昨日、〇〇くんと会ったって。〇〇くんのところの犬の方が大きいんだよね。みんなえらいねえ、ちゃんと世話して」
というようにして、その話題に『反応してくれそうな』数人に、まずは話してみます。
しばらくその話題で場をあたため、徐々に教室内の温度を、0.1度きざみで上げていくのですね。
そうすることで、内輪ノリを防ぎます。
〇〇ちゃんの飼っている犬がどんな行動をとったのか、10分後にはクラスのみんなが知っているように願って。
『内輪ノリ』で盛り上がれば盛り上がるほど、周囲の子たちから冷ややかに見られてしまう、という高学年”あるある”の日常は、こうして担任が少しずつ減らしていかないといけません。
微々たる努力ですが、1年間積もり積もると、なかなかのものです。
配慮したクラスと、配慮してこなかったクラスとでは、大きな違いが出てきます。
小学校の教室、という小さな場でさえ、毎日のように話題が変わり、毎日のように新しい情報が「上書き」されていくのです。
五輪という大きなイベント、火を燃やし続けるというオリンピックならではのナイス・アイデアにのっかろうというのですから、スポンサーの各社は「聖火」に関して、自分たちだけ盛り上がっている雰囲気、というのを廃し、あくまでも
「今の日本に暮らす大多数のひとびと、市民、世間一般の庶民の暮らし」
というものに目を向けて、メッセージを発していかないと、ますます嫌われてしまうことになりはしないか・・・
わたしは、大きなトラックが派手な色づかいで大きな音を出しながらパレードするよりも、
修験道の行者が、夜中にやまぶしの恰好で、わらじをひたひたと鳴らしながら市内をまわり、
〇ギリシャはアテネの太陽神がもたらす聖火 と
〇山伏の聖地・那智の滝から運んできた水 とを組み合わせて持ち、
コロナの火が消えますように、と願ってそっと聖火を吹き消してみせたり、静かに夜中の3時に静かにイベントを終えたりした方が、より好感度が上がると断言したい。
だって、国民みんな、心配してるんだもの。五輪でその心配を消すことはできない(火は消せても)。楽しみを得たいか心配をなくしたいか、と聞かれたら、心配の方を無くしたいんだよね、国民って。(お祭りで盛り上がるのもイイけど、心配ごとがあるうちは、なかなか正直、盛り上がる気分になれないのが人の感情というもの)
根底にあるのはただ一つ「おもてなしの心」。
これに尽きますね。教師はこれを忘れてはならない。
勤務校の近くでもあるから、わたしは正直、わくわくしている。
約1万キロ離れたアテネから、はるばると海を渡ってオリンポスの神々が宿る聖火がこの地に運ばれてくることを思うと、幼い時に「学研まんが」でこの事実を知ったとき以来の愉快さを覚える。
自分の目では、実際に聖火をみたことがないし・・・
で、聖火が走るのが数日後であることを知り、職場でその話をしたいと思いながら通勤した。
ところがだ。
「だれもそんな話しとらーん」(磯野波平の声で)
そもそも考えてみると、この町自体で、ほとんど盛り上がっていない気がする。
広報誌には掲載されていたものの、街にそんな雰囲気があまり感じられない。
「聖火がここを通ります!」みたいなお店の看板や広告も、ほとんど・・・見ない。
この町の人は、市役所の人(それも担当者のみ)以外、そのことを気にしていないんじゃないか、と思うくらい。
とうとう我慢できず、退勤する時間の間際になって、
「五輪の聖火が通りますよ」
と話題にしてみたら、話しかける方みんな、気の毒そうな顔になり(!)
「それで混まなきゃいいんだけどね。じゃ、さよなら」
と、まったく意にも介さない。あげくは交通事情の心配だ。
これではオリンポスの神々に対して、顔向けができないではないか。
せっかく凹面鏡で太陽神(これはゾロアスター教の流れを汲む)が意図してつけてくださる火なのに・・・神の火ですよ!?そんなのめったに見られないのに!
しらべてみたら、全国的にそんな感じらしい。
どうもスポンサーである企業や関係者だけの「おまつりさわぎ」になっているようで、
こういうのをさして、
『内輪ノリ』という。
内輪ノリは、基本的にきらわれてしまう。
仲間外れにされる、という人間の基本的な感情のマイナス面に働きかけるからだと思います。
つまり、聖火がこんなに愛されないことになってしまったのは、
「内輪だけで盛り上がる」ことになっちゃうからでしょう。
逆説ですね。周囲を巻き込もうとして『関係者』が盛り上がった状態を見せていると、ますますそれが「内輪だけの」ものにみえてきてしまい、さらに周囲が引いていくという・・・。
スポンサーは、派手にやればやるほど、訴えかければ訴えかけるほど、周囲から
「なんだあれ、内輪だけでノってやがる」
と思われて、意図とは真逆に「きらわれる」のであります。
コカ・コーラはもう方針を変え、でかいトラックも廃止して、山伏の修験者みたいな格好になって世を忍ぶ感じを出した方がいい。逆に、ひそかに、目立たぬように、決して内輪でもりあがっているのでありません、という体で声を忍んで夜中の2時くらいに走るようにした方が、好感度をとりもどすことになるでしょう。
そうすると、いかにも神の火を扱っている感も出るし、修験道の厳しさや、「おのれのための修行」感も増してきて、神々しくもなってくる。その修行のバックスポンサーがコカ・コーラ社だと知れば、なかなかコーラもやるではないか、という評価になると思う。
さて、内輪ノリを防止する、というのは小学校教師にとってはぜったいに身につけなければならないスキルでもあります。クラスの中に、内輪ノリをつくってしまってはいけないからです。
そこで、担任はつねに、教室に入るや否や、すばやく目を室内にめぐらし、
〇ひとりでいる子はいないか
〇表情の暗い子はいないか
〇ふだんと雰囲気が異なる子がいないか
などを感じ取らねばなりません。
そして、すべての子に、「あなたを気にしていますよ」というサインを送ります。
〇「なにしてるの?」と楽しそうに話しかけたり、
〇その子の好きなテレビ番組の話をしたり、
〇その子の飼ってるペットの様子を気にして話したり、
〇なにも話題がなければTシャツのプリントの文字を和訳して「いい服だねえ。いいメッセージが書かれてる」とほめたり
します。
そこからが本番で、そのことを、周囲に広げます。
「ねえ、Jちゃん、ワンちゃんの散歩で昨日、〇〇くんと会ったって。〇〇くんのところの犬の方が大きいんだよね。みんなえらいねえ、ちゃんと世話して」
というようにして、その話題に『反応してくれそうな』数人に、まずは話してみます。
しばらくその話題で場をあたため、徐々に教室内の温度を、0.1度きざみで上げていくのですね。
そうすることで、内輪ノリを防ぎます。
〇〇ちゃんの飼っている犬がどんな行動をとったのか、10分後にはクラスのみんなが知っているように願って。
『内輪ノリ』で盛り上がれば盛り上がるほど、周囲の子たちから冷ややかに見られてしまう、という高学年”あるある”の日常は、こうして担任が少しずつ減らしていかないといけません。
微々たる努力ですが、1年間積もり積もると、なかなかのものです。
配慮したクラスと、配慮してこなかったクラスとでは、大きな違いが出てきます。
小学校の教室、という小さな場でさえ、毎日のように話題が変わり、毎日のように新しい情報が「上書き」されていくのです。
五輪という大きなイベント、火を燃やし続けるというオリンピックならではのナイス・アイデアにのっかろうというのですから、スポンサーの各社は「聖火」に関して、自分たちだけ盛り上がっている雰囲気、というのを廃し、あくまでも
「今の日本に暮らす大多数のひとびと、市民、世間一般の庶民の暮らし」
というものに目を向けて、メッセージを発していかないと、ますます嫌われてしまうことになりはしないか・・・
わたしは、大きなトラックが派手な色づかいで大きな音を出しながらパレードするよりも、
修験道の行者が、夜中にやまぶしの恰好で、わらじをひたひたと鳴らしながら市内をまわり、
〇ギリシャはアテネの太陽神がもたらす聖火 と
〇山伏の聖地・那智の滝から運んできた水 とを組み合わせて持ち、
コロナの火が消えますように、と願ってそっと聖火を吹き消してみせたり、静かに夜中の3時に静かにイベントを終えたりした方が、より好感度が上がると断言したい。
だって、国民みんな、心配してるんだもの。五輪でその心配を消すことはできない(火は消せても)。楽しみを得たいか心配をなくしたいか、と聞かれたら、心配の方を無くしたいんだよね、国民って。(お祭りで盛り上がるのもイイけど、心配ごとがあるうちは、なかなか正直、盛り上がる気分になれないのが人の感情というもの)
根底にあるのはただ一つ「おもてなしの心」。
これに尽きますね。教師はこれを忘れてはならない。