30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年02月

戦争とはなにか~やなせたかしの伝記から~

光村図書の国語教科書には、やなせたかしさんの伝記が載せられている。
やなせたかしさんといえば、アンパンマンの作者であり、「手のひらを太陽に」の作詞家としても有名だ。子どもたちにきくと、手塚治虫よりも「やなせたかし」の方が知名度が高い。

「おれ、今でも部屋にでっかいアンパンマンがあるよ」

身体の大きな、背の高い男子が言うと、教室中に笑いが起きた。

「頭にほこりがつもってるけど、本棚からずっとこっち見てる」

本人も笑いながら語っていた。

そのやなせたかしさんの伝記で中心になっているのは戦争のことで、戦争で弟を亡くしたたかしさんは「正義とはなんだろうか」と考え続ける。自分なりの答えを出そうとしてずっと自問して生きている。
たかしさんはあるとき、道で仲良くおにぎりを分け合っている兄と妹を見る。
「おなかが減った妹といっしょに、おにぎりを仲良くわけあって食べている兄を見て、これだ、と思った」
本当の正義とは、おなかがすいている人に、食べ物を分けてあげることだ。
やなせたかしさんは、そこからあんぱんまんの着想を得た。

授業の中では、子どもたちと伝記を読んで、それぞれがそこから自分で考えたこと、生きるヒントをもらったことを文章に書いてみた。すると驚いたことに、こんなふうに書く子がいた。

「やなせさんは戦争で人を殺したと思います」

それがまた、クラスでいちばんよく本を読んでいるような、秀才の女の子だったから、わたしは驚いた。彼女が書いたのであれば、この文面は、よほどよく考えたうえでのものなのだろう。

どういうことか、さらに読み進めて、なるほど、とうなった。

彼女は、教科書の文中の、ある部分が気になったらしい。
それは、戦争について、やなせさんが触れた箇所。
そこには、
「戦争は人を殺すもの」とある。

彼女は、
「あれ?」
と思う。

ふつう、戦争について書く場合、よくあるパターンは、こうじゃないか、と。
「戦争は人がたくさん殺される」

ここがどうしても気になって、考えたようである。
どうしてやなせさんが、殺される、ではなくて、殺す、と書いたか。

さて?どう思われますでしょうか?

あんぱんまんは、顔を食べさせるのが仕事だ。
おなかのへった人に顔を食べさせると、あんぱんまんはもう顔がほとんどなくなってしまい、首から下だけの身体でもって、空を飛んで帰る。
絵本が出版された直後には、苦情がたくさん届いたらしい。
こんなのは偽善でしか無い、と。

ところが、作者のやなせさんは、ひるまなかった。
なぜか。やなせさんが、この主人公に込めた、一途な願いがあったからだ。

たとえば、いじめられている子がいるとする。
その子を救おうと思う。
しかし、そのいじめられた子をかばったことで、逆に今度は自分が標的にされ、攻撃を受けるかもしれない。それでもその攻撃を恐れてはいけない、ひるんではいけない、というのだ。
anpanman

なぜ、やなせたかしさんが、あからさまな「自己犠牲」の価値を言うのか。
それは、「いじめられることなんて、たいしたことがない」と心の底から言い切れるからだ。
だれかをかばって本当にだれかを助けようとし、それで誰かが助かるのなら、たとえ自分が、そのとばっちりを受けていじめられてもぜんぜん平気だ。

多くの子は、このことから、

「やなせさんはえらいなあ」

と書く。
立派な人だから、こういうことが書けるのだろう。
ぼくには、わたしには、とてもそんなことはできない、と。


しかし、前述の彼女は、違った。

「やなせさんは人を殺したと思います。戦争で。命令されて」

と書いた。

もうお分かりでしょう。
自分が痛い目に遭うことなんて、人の命を奪うことに比べたら、へっちゃらだ、というのです。
自分が人を殺した。そのことの痛みは、自分がいじめられるなどということよりも、何倍も大きい。
比較にならないくらいの苦しみなんだ。
だれかを救おうと思い、人を殺した。
当時の日本の青年は、みんなこうだったのではないか。
大東亜、アジア共栄圏の繁栄のため。
アジアの友好のため。
悪い欧米諸国をやっつけ、アジアに大きな独立と平和を勝ち取るため。
八紘一宇、本当の世界をここに実現するため。
そのために、やなせさんは、人を殺したのだ、とその子は書いた。
そして実際に、やなせさんは、人を殺したことが、どれだけ深い傷と闇をもたらすか、ということに苦しんだ。「殺すよりも殺された方が、何倍もマシだったと考えた」

彼女は戦後、やなせさんが苦しみぬいた、加害者としての自責の念をあばいた。
そして、あんぱんまんが自己犠牲に立ち、ぜったいに敵を倒さない、ぜったいに命を奪わない、といういかにもクリーンな主人公になった背景に気づいた。

やなせさんの苦しみを知らない人が、かんたんに言うかもしれない。
「あんぱんまんなんて、うすっぺらいヒーローで、あんなきれいごとばかりで成り立つわけがない。この世はきれいごとばかりじゃないんだぜ」

しかし、やなせさんは地獄を見た。地獄を知ったからこそ、あんぱんまんを生み出した。
うすっぺらい、きれいごと、とみるのは、地獄を知らないから、無知だからこその見方だろう。
人の命をうばった者の、そのつらさ、地獄を知ったものが、ようやく呻吟と苦しみの果てに、腹の底から絞り出すように生み出したのが、あんぱんまんなのだ。

・・・とまあ、そんなことを小学生が自分で気づいて、「感想文」に書くなんて、すごいと思いますね。

教科書の文中には「戦争は人を殺すもの」という文があるけど、「戦争は人に殺されるもの」という文は、この伝記には載っていない。彼女はそこに気づいた。そして、やなせさんがなぜ、人を殺すのが戦争と書いたのかを考え、戦争は殺されるから恐ろしいとは書かなかった理由に思い当たった、これがヒントだった、と、教えてくれました。

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指導能力を評価される先生

2月になり、来年度の人事が水面下で動いていることがなんとなく分かる。
わたしも校長から内緒で手招きされたり、教頭から
「どう思います?」とか聞かれたり、
あれこれと話がくる。(ぜんぶ秘密)

ところで、校長とか管理職というのは大変だとつくづく思う。
先生たちの指導能力を評価しなければならないから。
ところがそんな能力は、ぜったいに評価なんてできっこない。
20年連れ添った妻のことでも、まったく分からないことだらけなのに。

先生は子どもの能力を正当に評価しているだろうか、ということを評価するのが校長だ。
子どもの能力を正当に評価する先生を正当に評価する校長の能力を正当に評価することになっているのが教育委員会、ということになる。

こんな芸当がふつう、できるわけがないことくらい、自明でありましょう。

忘れ物が多いですね、というのが子どもを評価することにはならないことくらいは、みなさん分かります。だから、保護者が懇談会で

「先生、うちの子は忘れ物が多くてすみません。どうしたらいいでしょう?」

というお母さんに向かって、たいていの先生たちは

「ああ、鉛筆がなくても、先日Aくんは、字を書いてましたからサバイバルでも生きていけるのはこういう子だと思って感心しました」

ということになります。
お母さんは目を丸くして、いったいどうやって書いたのですか?とおっしゃる。
こういうお母さんは、おそらく子どものころに鉛筆が無い状態では字は書けっこない、というあきらめの人生を送ってきたのでしょう。ところが昨今の子どもはあきらめません。なんてったって、平成生まれですから。強いことこの上ない。

鉛筆の芯が落ちていたのを、鉛筆削りの削りカスの入った箱の中から見つけて、その芯を上手にテープでノートをやぶいた紙きれにくくりつけ、自家製の筆記用具をつくり、それで算数はキチンとこなすわけです。このくらいのこと、朝飯前ですよ。平成の子は!

というか、わたしのクラスは隣の子が鉛筆なら貸してくれるから、それで間に合うわけね。
「友達に借りてはいけません」ということになっている学級でも、上記のような自作の筆記具でのりこえていくわけです。

最悪、鉛筆がなければ、ノートテイクをしなければいい。
案外と、書かなくても、集中して覚えようとすれば覚えられるものです。覚悟さえ決めれば。

ハンカチを忘れた子が、窓から手を突き出して、高速に振っていましたが、あれもなかなかのアイデアだし、校庭をマラソンしてくれば手のひらなんて乾いちゃいます。
わたしが昭和の時代にそんなふうだったから、今でも忘れものをした子を叱る気にはなれません。

太平洋戦争のころ、ある特攻隊の飛行機が、爆弾を忘れて(落ちて)しまい、途中から引き返したそうです。
それで帰ってきたところでちょうど飛行機のエンジンがかからなくなり、命が助かったそうです。
忘れてはいかん、というの、あやしいな、と思います。

というか、学校が

「忘れ物をすること」

について、指導できると思っているのも勘違いだし、
指導する事柄だと保護者がもし考えているのだとしたらそれも勘違いだし、
忘れ物がよくないと思っている世間の考え方も勘違いが含まれているだろうし、

子どもは忘れ物をすることで、実は心の奥がわくわくしていて、
「よし、この困難をどうやってのりこえようか!」となっているので、
そのハリウッド的な盛り上がりを、教師が口をはさんでどうのこうのしようというのは
本当に余計なことだと思います。

人間社会が、忘れ物をしないようにステップアップしていく仕組みなのだとしたら、
なぜ人として完成されたはずのおじいさんやおばあさんが、しょっちゅう忘れ物をするんでしょう。
おそらく、ステップアップ、という「とらえ方」自体に、なにか人間の根源的な間違いやおかしさ
が含まれているのかも。

指導とはステップアップだ、という考え方をやめたら、わりと
学校というのは、もっといきいきしてくるのではないかと思います。
もちろん、その場合、忘れ物というものは、
忘れる時は忘れる、忘れなかったら忘れなかった、というだけのことです。
それについて論評すること自体が、なにか大事なことを忘れている、というパラドックスなわけです。

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