30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2021年01月

最大の悩み【東京への修学旅行計画】

来年、6年生の学年主任をする私の目下、最大の悩み。
それが、
【首都圏への修学旅行を決断してよいか】です。
大体、みなさんお分かりかと思いますが、修学旅行は、旅行会社と協力して行います。
これは修学旅行を失敗してはいけないからで、市教委の指示です。

で、旅行会社に「東京の旅行を計画してください」と依頼した時点から、「企画料」というものが発生し、これは全額保護者負担になってしまうのです。

今の時点で、それを計画しなければならない理由は、旅行が来年の7月だからです。半年前、6か月前の今が、その最終判断をしなくてはならないリミットなのです。
なぜ6か月前か。
ホテルを押さえるからです。100名を超える人数の宿泊予定は半年前に予約開始するので、そこで確定して押さえておかないといけません。小学生100名を宿泊させることのできるホテルは、早い者勝ちでとられしまうのです。良いところから。

主任の私は、それを決断しなければならない。
来年の7月に、100名を超える団体が、無事に修学旅行ができるんだろうか。

【キーポイント①オリンピック】
オリンピックが開催されるのであれば、GO!
観客が会場に集まって無事に開催されるようであれば、都内の観光も一応は可と考えてよいでしょう。

【キーポイント②ワクチン】
ワクチンの効果が見込まれ、全国的に7月までに落ち着くようであれば、GO!

【キーポイント③陽性率】
陽性率がさがってきて警戒レベルが下がるようであれば、GO!

これまでこのポイントをもとに、7月に決行か、どうか、と悩んできました。

で、今日、共同通信社のこんな記事を見つけたのですが・・・。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長は28日、大会の観客の上限や海外からの観客の受け入れ可否を巡り、無観客での開催も選択肢から排除せず、幅広く検討を進めていると明らかにした。ただ、無観客は「基本的にはそういうことはないし、したくない」との否定的な考えを強調。「いろんな形を想定している」と述べた。同日、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長とテレビ電話で会談後、記者団の取材に明らかにした。
これ、観客を制限してとか、無観客もある、ということですよね。
保護者が「五輪を無観客でやろうとしているような状況で、子どもを東京の修学旅行に行かせよう」と考えるかどうか。

ワクチンはどうでしょう。厚生労働省の最新データです。
モデルナ社(米国)との契約(令和2年10月29日)
 新型コロナウイルスのワクチン開発にもしも成功した場合、武田薬品工業株式会社による国内での流通のもと、2021年8月までに4000万回分、秋以降に1000万回分の供給を受ける。

アストラゼネカ社(英国)との契約(令和2年12月10日)
 新型コロナウイルスのワクチン開発にもしも成功した場合、通年で1億2000万回分のワクチンの供給(そのうち約3000万回分については今年の4月までの供給目標)を受ける。

ファイザー社(米国)との契約(令和3年1月20日)
 新型コロナウイルスのワクチン開発にもしも成功した場合、通年で約1億4400万回分のワクチンの供給を受ける予定。

アメリカのニューヨーク・タイムズ(電子版)が、「東京五輪開催の望みは薄くなった」と報道。新型コロナウイルスの感染が拡大する一方、米国内や欧州各国でのワクチンの普及が予想より遅れていることも指摘した。

ワクチン、7月までに間に合うのか・・・。

アスリートの気持ちはどうでしょう。
五輪に内定している陸上女子の新谷仁美選手は「アスリートとしてはやりたい。人としてはやりたくないです」「命というものは正直、オリンピックよりも大事なものだと思います」と発言。

実際、現実的にはダメなのかも分かりませんね( ノД`)シクシク…。

月曜日に校長に相談し、愛知県内での地元の観光を日帰りで行うことにします。

リトルワールドか、日本モンキーパークかな。

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子どもたちの「笑いのセンス」に変化あり

「1時間の授業の中に、一回の大爆笑」というのが、わたしのポリシーだ。
そんなことは学習指導要領には書いてない。
だからまったく私の勝手な取り組みであり、まったく意味はない。
2回は要らない。1回でいい。
しかし、1回の大爆笑が起きる授業は、子どもたちの集中力が増したいい授業になりやすい。
これは長年の経験則だ。

大爆笑が起きるというのは、教師がギャグを放つ程度では起こらない。
子どもがちょっと変なことを言う、ヘンなポーズをとる、というようなことでもダメだ。
つまり、その時に受けを狙った何かというのでは、起こりえないのである。

そうではなく、状況としては、当人たちが真面目に学習の課題に取り組もうとしていなければいけない。
みんなが一生懸命に頑張ろうとしていて、言ってみれば努力しようとしたからこそ起きた偶発的な事件やうまく言おうとしての行為が、大爆笑を誘うのである。前提として、まじめに学習しようという気風がそこにある。そして必ず、大爆笑の中心にいる子は、得意になっていっしょに笑っていなければならない。何かしでかした子が恥ずかしくて下を向いてしまうような状況では、ぜったいに大爆笑にはならない。その子と仲の良い友達が「あの子がかわいそう」と一瞬でも思ってしまうなら、けっして大爆笑にはならないのだ。
つまり、そこにいる全員が安心して、「笑って良いことだ」と思えない限り、小学生というのは大爆笑しないのである。

そういう意味で、テレビの芸人の物まねというのは、大爆笑にはなりにくい。
自分たちが生み出した笑いではないから。
自分たちのクラスだからこそ、この仲間どうしでお互いのことをわかり合っているからこそ生まれてくるようなおおらかな「笑い」が、全員が腹をかかえて笑い合う、大爆笑の笑いなのである。

この稼業をつづけていて、最近感じていることがある。
それは、子どもたちの「お笑い」の質の変化だ。
もしかしたら、コロナの影響もあるかもしれない。

それは、嘲(あざ)笑いの減少である。
だれかのヘマを嗤うのではなく、頓智のような面白い回答で笑う。
ミスを嗤うのではなく、ちょっとした気遣いがバレたときに大笑いする。
慌ててだれかをフォローしたのがしどろもどろになったとき、教室中にこみあげるような笑いが起きるのである。それは、まったく安心感のある笑いであり、ぬくもりのある、おなかが温かくなるような笑いだ。

これは、厳しい世の中を感じ取っているからこそ、少しでもぬくもりを感じようとする「補償行動」のようにも思える。

我々がドリフを見て笑い、欽ちゃんを見て笑い、カラスの勝手でしょ、と歌って笑ったころよりも、今の子どもたちの方が、うんと大人のように思う。
ただ姿や言い方がヘンだから笑うとか、変わってるから、間違えたから、とりちがえたから笑うのではない。

わたしはそこに、手のひらを太陽に、の歌のようなイメージを感じる。
その場に真っ赤な血が通うことを確認し、ようやく子どもたちが笑うような気がする。
こういう雰囲気は、この十年くらいで少しずつ変わってきたようにも思う。

年末に「ガキの使いやあらへんで」の総集編が放映されるが、今年、うちのクラスで見た子は10人もいなかった。
正月早々、訊いた私も驚いた。
紅白よりも、格闘技よりも、子どもというのは「ガキ使(つか)」を見るものだ、とどこかで思っていたから。

まあ、テレビ自体を見ておらず、普段の日と同じようにYoutubeを見たり、家族で別のことをしていた、という子も増えているのだろう。それでも年々、この「年末・ガキ使」の視聴率は、小学生に限っては減っていると思う。

このことについて、日曜日に職員室で仕事をしているとき、なんとなく同僚の数人と話をした。
小学生の神経がひ弱になった、か細くなった、と評する声もあった。同僚の中の一人は、そう言った。「ケツバットとかさ、ああいう刺激に弱くなったんじゃないの」と。
しかし、わたしにはそう思えない。

小学生の志向が変わったのだ。笑わせてやろうは、今は流行らないのだろう。そうではなく、もっとほんのりした、思わず、というか、ふと湧いてくるような親しさの中の笑いが、好まれているのではないか。
「ほうら、こんなに変てこりんだぞ、おもしろいだろう」では、子どもたちは笑わなくなった。ただの「変(ヘン)」には価値がなくなりはじめているというか、動物的な勘というか・・・。その文脈では生きていけないような予感を持っているからではないだろうか。(世の中があまりにもヘンだから、揺り戻しなのか?)

わたしには、今の子どもたちがなにか、感覚のするどさを得てきているような気がする。
安穏とはしていられない、助け合わないと、知恵を出さないと、というような空気を感じる。
本筋からちょっとズレたところを見つけて笑う、というのではない。それはこれまでの余裕があった時代の話。今は本筋が見えず、ズレが本当にズレなのかどうか、危ぶんでいるうちに笑えなくなってしまった。
危機の中で生きようとする子どもたちの本能が、『笑い』というセンサーから変化し始めてきている気がする。

そういえば。
この子たちは東日本大震災の年に、生まれたのだった。

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土門拳の古寺巡礼

今朝、みぞれが少し降った。
雪がふんわりと舞う姿も良いが、みぞれになって、冷たく重く、
弾丸のように降りしきる、というの。
それはそれで、景色としては「ありだな」と思う。いかにも冬らしくて。

高校生のころの私は、はっきり言って人間というのはダメだなと自分のことも含めてかなり悲観していた。そういう心情になると、

人生というのは、苦しいものだなあ
社会というのは、厳しいなあ
人間というのは、愚かだなあ
ということばかりが思えてきて、鬱々とし、
いつの間にか、ふらりと古寺巡礼でもしてみようか、という気持ちになる。

高校2年生が3年生になる春といえば当時は受験勉強のさなかで、
残りが一年を切ったぞ、という緊張感で胃が痛くなるくらい。
周囲を見るとみんな下校前にも図書館にこもり、どんどんと単語帳をめくっている。
わたしは勉強にくたびれると(というか、くたびれてばかりいたけど)図書館の妙な本ばかり探して面白がっていた。

その中に、だれも手をつけていなさそうな写真集があり、わたしはそれを眺めた。
仏像の本であった。ばかでかく、持っていたら重すぎて何度も持ち直すくらいだった。

それが土門拳の『古寺巡礼』だった。
わたしの当時の心情にぴたりと合ったのは、その中の一枚の写真で、ありていに言って私はすっかり心を奪われてしまった。

白黒の大きな写真は、法隆寺の円柱を何本も斜めから撮った構図で、おまけに雪が降っていた。
まだ降り出して間もないころで、急に天候が悪化した感が出ていた。その雰囲気も、当時のわたしの心境に妙にマッチしていたのだろう。また、雪というよりもみぞれのようで、その雪の粒は粗く、スピード感があり、斜めに厳しく降り注いでいた。

ところが、救われることに、そのみぞれの間から、堂々たる柱が見えるのである。
それはあまりにも整然としており、さらには小さな傷までがあちらこちらに目に入るために少しばかり痛々しく、長い風雪に耐えてきたことが一目で、非常によく理解できた。

この柱が、強風にも耐え、雪にもみぞれにも耐えてきたことが、この写真はとてもよくわかるのである。そして、その柱が少しばかり丸みをおびていて、とても人間らしいこと、天井の重い梁をたくさん支えていることなど、当時のわたしは写真の片隅から食い入るように見て、いっぺんに惚れ込んでしまった。

その後、わたしは独りで、高校生にしては一大決心をして大金を払い青春18きっぷを何度か買った。そして京都や奈良にも出かけ、法隆寺を見た。ところが雪の降るころは忙しくてなかなか行けず、写真通りの構図で、みぞれの降るような景色を実際には一度も見ていない。

わたしは大学生になって多くのことがあり、心境がかなり変わったために、なかなか思い出さなかった。でも、なぜか今日のみぞれ、今日の雪は、当時のことをふと、思い出させたな。

近頃は、コロナの大変なニュースばかり見ていたからだろうか。
雪というのは、心をけば立たせるのではなく、心を鎮めてくれる。
人の心も、世の中の不安も、ひとときの間、ふんわりと鎮めてほしいものだ。

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五輪開催できる根拠を動画で説明してほしい

日本という国は、基本的には絵画を大事にしてきた国だと思う。
平安時代は日本風の絵画が飛躍的に発展した時代だった。
有名な技法である「吹抜屋台」は、絵巻の画面展開が地平を斜め上から見下ろす構図をとって描かれている。そのため、舞台が室内であったとき、その様子を表せないので、建物から天井を取り払って描く。絵画はその後も江戸時代、明治大正昭和平成と、どの時代でも愛されてきた。

ところが武士が活躍する鎌倉時代だけは、様子がちがう。
絵画よりも彫刻が愛されたのだ。
絵画というのは主に屋内にある。一方、当時の武士はもっぱらアウトドア志向である。
武士には家の中でじっとして絵をみるというスタイルは合わなかった。野良仕事の帰りに、あるいは馬を駆って行くところに彫刻があれば見る方が好まれた。

土台、文字が読める武士はほとんどいなかった。室内で絵画をみながらその説明を受けるというほどリテラシーが整っていなかった。説明を受けるよりも、直感的に一目(ひとめ)で見て、すぐに理解できる彫刻の方が、性(しょう)に合っていた。

そのため、仁王像の顔は、怖くなくてはならなかった。
何よりも、わかりやすさを求められたからである。
門番のように立っている仁王像をみて、

「ああ、この人は怖い人だ。いうことを聞かねばなるまい」

と思わせなくてはならない。
だから万が一でも仁王像は、赤子をなだめるような優しい温和な顔つきをしていてはいけなかった。

あるいは空也の像のように、旅の姿をした坊様の口元から、ほとばしるように念仏が放出されているような演出が必要であった。それをみればすぐに誰でも、

「ああ、この坊様は、旅をして歩きながら念仏を唱えられたのだろう」

と理解できたからである。
このように考えると、鎌倉の時代は、なによりもリテラシーの低い民であっても、ひとめで理解できるようにと宗教家や為政者が心をくだいて、わかりやすいように、わかるように、と努力したことがわかる。

現代でもそれは同じである。
書物を読まなくなった我々の目の前に、スマホが登場した。
スマホの動画をみて、直感的に理解したいと思う人が増えた。
社会全体が、文字よりも、説明よりも、言葉よりも、動画、がよりふさわしいと考えるようになった。今の時代にユーチューバーがもてはやされるのは、動画が鎌倉時代の彫刻のように、直感的でわかりやすい、とされているからだ。

さて、東京五輪が開催できるかどうか、で世論が割れている。わたしにとっても他人事ではない。
なぜなら、来年の修学旅行の計画を、もう立て始めているからである。
私と同じような立場で、来年の夏の行動を確定しなければならない人が、世の中には大勢いるだろう。この企画にGOサインを出してよいのかどうか、と気を揉んでいるに違いない。

そこで、動画の出番だ。

五輪は開催できる派の人に、お願いしたいことがある。
それは、五輪が開催できる、という根拠がよく理解できるような動画をぜひ作ってほしい、ということだ。五輪が開催できない、という方にも、それがよくわかる動画を作ってほしい!
というか、本当はそれを政府がやるべきだ。国民が選んだ国民の代表ということになっている人たちが、それをやらないと、国民が迷っております。私のように、ね。

五輪がどんな雰囲気で、みんながどんなマスク姿で、選手がどのタイミングでマスクを外すのかとか、宿舎での食事風景とか、スタッフの手洗いの様子とか、万が一感染した場合はどの病院が受け付けるのかとか、無観客だとどんな雰囲気なのかとか、金メダルをつくる方法とか、税金がどのように使われるのかとか、五輪終了後、競技場がどんなふうに活用されるのかとか、地下鉄がどのくらい込みそうなのかとか。選手は選手村と練習場以外の行き来ができないようにするというが、その様子を、とか。

そういうのが、鎌倉時代の仁王像くらい、わかりやすい動画で説明されるようにしてほしい。
そうでもしないと、鎌倉時代に武士が「死んだら浄土へ行ける」と喜んで戦ったようにはならないと思う。選ばれた少数のアスリートだけでなく、日本の全国民がある意味、戦うことになるのだから、政府はこのくらいの努力をしてほしい。

「わかりやすい」は危険な面もあるが、やはり世論を動かすと思う。
なによりも、丁寧な説明が欲しい、と多くの国民が思っている。
五輪はやれるのか、やれないのか。
ていねいな、説明を。ぜひ、動画で。為政者のみなさん、お願いします。

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火球を見た時に思ったこと

昨日の夜、8時30分ごろ。
学校を出て帰ろうと外に出て、駐車場でふと夜空を見上げると、
でっかい流れ星?が見えました。

わたしは最初、流れ星とは思わず、

「・・・」

という感じ。
あまりにも大きかったのと、
緑色の光がちょっと人工的な気がしたから。
きっと、どこかで人工的に打ち上げたものだと思った。
それも、だいぶ長く光って、横に流れたから。

中央は白く光っていたけれど、
周囲は、緑色っぽかった。
また、先端部分はまるで線香花火の先端の玉(たま)のように、オレンジ色に「散っている」部分もあり、
その部分だけを見ると、電線の先端で火花が散っているような印象。

ところがすぐに、

「あんな上空で、人工的に光るわけがない。流れ星か、火球というやつか」

と思い直し、すぐに

「あ、カメラで撮影したらよかった」

と思った。

5、6秒は光っていただろうか。
その短い5,6秒の間に、上記のようなことをたちまち

思う

ことができるのだから、人間の思考というのは本当に素早いのだな、と感心した。
また、同時に

「うーん、なにか願い事を言えばよかったかな」

とも思った。

といって、なにも願い事が思い浮かばず、

「今はただ、ひたすらごはんが食べたいのと、早く寝たい」

ということだけ。

そんな願い事しか思いつかなかったことに対してのみじめさ悔恨
そして、それを、あんなに長い間光り続けてくれていた流れ星がいたにも関わらず、
ぼーっとして逃してしまい、「つぶやくことができなかった」、おのれの反射神経のにぶさに

ぎゃおおおおおん

と吠えたくなりました。

で、今日になってその火球が、東海地方はおろか、関東地方でも見られたということがニュースになっていたのを見て、

「え、あれ、すぐ近所の山に落ちたんじゃなかったのか」

と驚きました。
そんな広範囲で見られるようなものだとは、露(つゆ)ほども思わなかった。

わたしは火球を目撃した帰り道、車の運転をして自宅に帰りながら、

「あの火球、もしかしたら裏の山の神社あたりに隕石になって落ちんてるんじゃないだろうか」

と思い、

「今度の日曜日、隕石探しにでも、ちょっといってくっか」

と呑気にハンドルを握りながらつぶやいていたからであります。

それにしても、でっかい火球で、すぐ近所に落ちたかと思ったがなあ・・・


それからまた今日の夜になってニュースを見ていたら、その動画まで撮影されたのがインターネットでもアップされていたのでさらに驚いた。

わたしが見たのは、神奈川県の方が撮影された動画で、わたしが見たものよりもさらにでっかく見えていた。(拡大してるのかな?よく分からない)

実物は、ほんの珈琲豆程度の小石らしいです。
それが、あんなにきれいに、すごいでっかく見えるなんて。
火花まで散らして。
そして、あんなに緑色に、輝いて見えるなんて。

すごいよねえ。

火球

なぜシーラカンスは生き延びたか

古代魚といわれるシーラカンス。
これまでに何度も見つかっているし、科学博物館にもはく製があるから、見たことある人も多いだろう。子どもたちもよく知っている。

顔つきもぎょっとするような無愛想な顔つきだし、ひれの付き方も違うから、
「これ、魚(さかな)か?」
と発見者が驚くのも無理はない。
1938 年、南アフリカのイーストロンドンの沖合で、見たこともない魚が漁船の網にかかりました。学者が調べたところ、化石でしか知られていなかったシーラカンスと判明。シーラカンスは、約 3 億 8000 万年前に地球に出現し、約 7000 万年前に絶滅したと考えられていたので、生きたシーラカンスは奇跡の発見でした。

わたしは小さなころに学研のまんがか何かでこの古代魚の存在を知ったが、なんでそんな昔のものが今になって生きているのか本当に不思議だった。

ところがあとから調べたら不思議でもなんでもなく、よく学校に生えている「銀杏(いちょう)」の木なんてのは、大昔からなんら変わることもなく、ただひたすらに生え続け、子孫をそのまんま残し続けている木なのだそうだ。

そのような、大昔からその姿のままで、なんら変わることなく、
時代の空気をまったくよまずに生きている種
を「生きた化石」と呼ぶ。

いちばん身近なのは、Gとよばれるやつでしょう。ごっきー、というやつね。
あれも古代からあのままの姿です。ちっとは時代の空気を読め!と言いたくなりますわね。
あの姿のままで、あの生き方のまま、生き続けている。
しぶといもしぶといも、地球を何度となく襲った『大量絶滅時代』でもほろびずに、何億年前と同じ姿で現在も生きている生き物なわけですね。

あとは、珍獣中の珍獣である、「カモノハシ」でしょうか。
くちばしを見れば鴨のようであり、卵を産むが乳を出し、水かきがあって器用に泳ぐ。
こんなにみょうちきりんな動物はまあ、あんまりいないでしょうねえ。
これも恐竜が絶滅するころにはすでに生きていたらしい。

不思議なのは、
〇シーラカンス
〇いちょう
〇ゴキブリ
〇カモノハシ

などが、極限まで地球上の生物が死滅しかかっていたときにも生き延びた、という点であります。

おそらく、空気を読まなかったせいではあるまいか。
カモノハシが、「まわりの哺乳類はみんな卵をやめた。赤ん坊を産むのがこれからのトレンドだ」と言って態度を変えていたら、おそらくまわりの多くのほとんどの動物たちとともに、大量絶滅時代に同じように絶滅していたでしょう。
あるいは銀杏があのような独特のにおいを持っているのに「こんな匂いの強い植物はほかにない。恥ずかしいからやめておこう」と遠慮した実をつけるようになっていたら、当に虫や菌類によって浸食されて絶滅しただろう。

なんでこんな話をしているかというと、うちのクラスの子が
「らいちょう」
の写真をもってきて、冬休みに調べたのを発表してくれたからであります。

わたしは知らなかったが、雷鳥もまた、生きた化石なんだそうだ。
ライチョウの祖先は3000万年前には地球上に存在し、氷河期で多くの動物が息絶えたあとも、そしらぬ風で生き延びてきたらしい。なにせ寒さには強く、今でもアルプスに住んでいる。

そこから生きている化石の話になり、上記のようなシーラカンスの話が出たわけです。

ところで話はコロナウイルスになるのですが、人類がこれから生き延びるとき、
実はカモノハシやらシーラカンスやら臭いイチョウやとぼけた雷鳥から学んだ方がいいのではないかと思うね。だって、極限の「大量絶滅時代を軽々と生き延びた先輩方」なのですからな。

コロナウイルスがよりつかないほどに寒さに耐えるか
いちょうのように臭くなるか、
深海に潜むか、
時代の空気を読まず、文明から少し離れて生きるか


そこにはなにか、人類全体へのヒントがあるのではないかと思う。

雷鳥の里

【緊急】小学校からはじめるカルト防止教育

アメリカの大統領選のニュースを見ていたら、ちょっと目についたのが、
Qアノン、というグループのこと。
今まで知らなかったが、アメリカではかなりの勢力?というか、多くの人がそれを信奉しているらしい。信奉、と書いたのは、いわゆる宗教なのではないけれども、宗教によく似たグループであるらしいからだ。
宗教とは何か、という定義についてはそれこそ宗教の数ほどあるから、ここでは触れないけれど、誤解されないように願いたいが、つまりカルトに似ている、ということ。

カルトというと、狂信的な、という形容詞があたると思う。
いわゆる、強い思い込み、という面が個々の構成員にあり、グループ全体としてその思い込みを否定することを許されない集団、である。

どうしてそこに関心をもったかというと、オウム真理教の事件で連日のように報道された際にテレビによく出ていた、上祐(じょうゆう)氏が、今回のアメリカ大統領選挙について述べた文章が公開されており、それを読んでかなりの危機感をもったからだ。

上祐氏が今、どのような心の状態でいるのか、立場なのか、私には分からない。
しかし、下記のように上祐氏が述べているのは、とても興味深く思える。
「自分が正しく他は間違いという主張ばかりが強く、自分と異なる見解を持つ者を単に嫌悪するのは、心理学的には、実はコンプレックスが強い(自己肯定感が低い)ために、自分が他より正しいと思いたい心理があるという見解がある。自分の教祖・オウムの経験にも、これは当てはまる一面があると思う」

わたしは小学校の教師がいちばん子どもに対して教えなければならない、育てなければならないのは、科学の目だと思っている。
科学の目というのは、事実を事実とし、思考を思考として分けていく近代哲学の基礎である。
ふたをしたびんの中にハエが湧いた場合、ハエは何も無い空気中から『自然発生』すると、「一時的に思ったり考えたりする」ことはあるが「思うだけではなく、それをぜったいに間違いのない事実だとしてしまう」ことは、あってはならない。それが近代の哲学の根本である。

 科学が,それ以外の文化と区別される基本的な条件としては,実証性,再現性,客観性などが考えられる。実証性とは,考えられた仮説が観察,実験などによって検討することができるという条件である。再現性とは,仮説を観察,実験などを通して実証するとき,人や時間や場所を変えて複数回行っても同一の実験条件下では,同一の結果が得られるという条件である。客観性とは,実証性や再現性という条件を満足することにより,多くの人々によって承認され,公認されるという条件である。
「科学的」ということは,これらの条件を検討する手続きを重視するという側面から捉えることができる。つまり,「問題を科学的に解決する」ということは,自然の事物・現象についての問題を,実証性,再現性,客観性などといった条件を検討する手続きを重視しながら解決していくということと考えられる。(小学校学習指導要領より抜粋)

上祐氏はこうもつぶやいている。
「トランプ氏の選挙不正・陰謀説を根拠がないとして批判するメディアの報道(のネット上の動画)に対して、日本人によるネット上のコメントの多くが、トランプの主張を支持し、メディアの方を批判している。当然米国のトランプ支持者はそれ以上なのだろう。善悪で真っ二つに割れる。大変な世の中になった」

わたしはそれらをつぶさに見たわけでもなく、今回の上祐氏の話の内容もまだよくわからないことばかりだが、

1〇情報をうのみにしてしまう
2〇情報を信じ込み、だれかを攻撃する


ということ自体は、とても良くわかる。
それは、小学校の生活の中でも、まったく頻繁に起こり得るからだ。
小学生も、
1「情報をうのみにしやすい」し、
2「その情報をもとに、だれかを攻撃することがある」。


実は、その小学生の親もそうだ。
われわれだって、情報をうのみにしやすい。
人間はだれしも、こういうことをやってしまう。
上祐氏は、オウムもそうだった、と言っている。

世間の人は一般に、オウムを信じ込む人と自分とはちがう、と考えているが、実は上記の2点は共通している。例外なく、人間ならだれにも、だ。

であれば、小学校の先生は、カルトにならない教育、をしていくしかない。

思い込んで事実に反することをして損をする、というのは、1人や2人だけなら世間的な損害も少ないかもしれないが、地球上には70億のひとがいるのだから、その70億人が「事実に反する思い込み生活」をおくるのだとしたら、その損害は地球規模だ。

子どもがカルト思想にならないための授業を、一つ一つ、授業案として積み重ねていくしかない。
できたらこれを、全国の教員と提携して、進めていきたいな、と夢を見ています。

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ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』

中学生のころ、洋楽が流行した。
わたしもご多分にもれず、友達といっしょにレコードショップでLPを探したり、ビルボートのチャートを毎週チェックしたりしていた。
懐かしすぎる話題なので、LPが分からない方は「LP(エルピー)レコード」をググってください。

友だちはお小遣いをはたいてLPプレーヤーを買ったところ、ものの数年で販売される新曲がことごとくCDばかりになり、唇をかんで悔しがっておりました。わたしは貧乏でしたらかどちらも買えず、ずっとカセットデッキでしたね。東芝のちっちゃい奴。宝物でした。

友だちがレコードをレンタルすると、その話を聞きながら、同時にカセットを仲間内で貸してまわしていき、一通りなかまの間をカセットが回ると、みんなで音楽の評価を語り合うのがルールになっておりました。

その中に、「Born in the USA」がありまして、狂ったように繰り返すフレーズが耳にこびりつき、癖になるような感覚を覚えました。
歌詞を知らずに聞いていると、なんとなく元気が出てくる。
テンポもいいし、大声で叫ぶ感じもすごく明るい。
わたしは最初、すごく人々の元気を鼓舞する歌だと思った。

ところが・・・のちに自衛隊に入隊した友人のKくんがこれを大のお気に入りにして、何度もこの歌に関する様々な話をしていたのですが、歌詞が絶望的に暗いのです。
体制側への強烈な皮肉を込めた歌詞で、聴くだけで陰鬱な気分に囚(とら)われること間違いなし。
『俺はアメリカに生まれたけれど、この自分の悲惨な運命はどうしても国家の判断ミスからそうなった』といわんばかり。「Born in the USA」は強烈な国家への皮肉を込めた、愛国反戦歌なのでした。

この愛国反戦歌の大好きなKくんは、その後無事に入隊し、今ではけっこうえらい人になっているらしい。いいよね。強烈な国家への皮肉と哀しみを、いつも好んで口ずさんでいた彼が、自衛隊のおえらい人になってるって。・・・なんか、いいでしょう?

ところで、星野源くん。
みなさんは、彼が大みそか、紅白歌合戦で歌った曲を覚えておいででしょうか。
彼の歌もまた、歌詞にとらわれずに聞くと、とても元気が出てくる。メロディやリズムに癒されながら、最後には元気が鼓舞される雰囲気がある。
紅白で熱唱したのは、「うちで踊ろう」の紅白バージョンなのですが、歌詞の中に

「僕らずっと独りだと 諦(あきら)め進もう」

というような言葉がありました。

孤独だと諦(あきら)めよ、というのですから、なかなかの言葉です。
諦める、という言葉の意味はいったいなんだろうか、と深読みしたくなる。
ともすると、なんだか鬱になりそうなほどの、暗いイメージがします。
曲は明るいのに、歌詞は暗い。このあたり、ブルーススプリングスティーンとかぶります。

しかし。

あきらめる、というのは、元は、明らめる、ということ。
あきらかにする、という意味だったそうですね。
だとすると、そんなに暗い言葉では、ない。

独り、という言葉にも、否定的なイメージを持つ人が多い?・・・かもしれないが、結局、自分が自分をお世話することを最高に楽しくやろう、という意味ですから、それがやれるのがまずは第一だというわけ。独りでもかまわないし、独りでいい。むしろ、独りでこそ、まずは自分自身を最高にお世話しようとするだろう、という。

他のためになにかしなければ、という余計な道徳観念でなにかをするわけではなく、わかりもしないのに、おせっかいな不都合を相手におしつけるわけでもない。頼まれもしない圧力ほど厄介に感じるものもないのですからな。だいたい、自分がしてほしいことを、相手が本当に理解しているはずがない。自分がしてほしいことを、一番細かく丁寧にキャッチできているのは、自分。

星野源くんの歌詞の本当の意味は、本人に直接尋ねていないから分からないけれど、緊急事態宣言が出されるかという瀬戸際で、なかなかの歌詞だったな、と思います。
ブルース・スプリングスティーンも、ときの政権や体制に向けて強烈なパンチをくらわせた歌をうたったのですが、源くんもある意味、世の中に対して強烈なパンチを見舞った感がありますね。

「僕らずっと独りだと 諦(あきら)め進もう」

まさに原点。
「自分を世話する」を全世界の人間が真剣にやる、という時代です。
まずは自分をかわいがろう。それも、とことん。

星野源

教員の健康を考える

教員に限らず、人間は健康が大事だと思います。
基本となるのは、規則正しい食生活、十分な休養、適度な運動でしょうか。

わたしには持病があり、20代の初めから、かなり気を付けて暮らしてきた。
まずは椎間板ヘルニア。
椎間板の間のクッションのような役目をしているものが、つぶれて一つ消滅している。
そのため、わたしの腰椎は非常に硬い。あるところまでいくと、曲げられなくなる。
20代の初めに手術をしたんだけど、ずっと腰痛もちであります。

さらに、腎臓結石。
石ができやすいのは父親譲りで、そういう体質なんでしょう。
結石が尿管まで来てしまうと、突如としてのたうちまわるような背中や腰の痛み、腹部の痛みがはじまって、息ができなくなる。
これは近くで見ている人は嘘だと思うみたいですね。だって、その直前までなんともないから。
それと、痛み止めなど注射して、しばらくすると、痛みがすっと消えてしまう。
そうなると、もう見た目はなんともなくなるわけ。
私の嫁様は、わたしがのたうちまわる姿を目撃しているが、あとでケロリとなった姿を見て
「あれは嘘だったのだろう」
と本気で思ったらしい。

いや、本当なんすよ。その時は激痛なの。息ができないんだから・・・。
ふだんから、小芝居じみた言動を繰り返しているせいで、嫁様にも信頼されなくなっています。
反省しなければ。

わたしはこの2つを予防するため、若いころからあれこれと勉強をするはめになった。
20代の後半ごろから始めた(自発的な)節制の、まず一つ目が禁酒(ビール)である。
ビールは結石をつくりやすい。だから、飲まない。

まあ、結石で苦しむのは自分なので、そうならないために節制するのはまさに自分自身のためであります。

ビール以外にも実はあれこれと、食べ物や飲み物で結石につながるものがあり、これらすべてを防ぐのは難しい。
そのために工夫をして、できるだけ「酸」を体に入れた方がいいと思って、酢を飲んでおります。
酢は、酢酸ですね。クエン酸でもいいだろうと思われる。
つまり、酸で石を溶かせるのではないかと思うわけです。カルシウムが塩酸に溶けるでしょう。あんなイメージで。(注:エビデンスなし)

夜になると、毎晩、黒酢をうすめて飲んでおります。
また、給食の後にクエン酸飲料をひそかに飲んだり・・・
これがおいしい。わたしの体には、「酢」とか「酸」とかが、あっているように思う。
だって、すごくおいしいもの。

自分の体のことを一番よく知っているのは自分だろうと思います。
また、どのような生活習慣が自分の健康にどのような影響を与えるかを把握しているのも自分。
健康管理は自分で人生を管理するようなものだと思います。

さて、わたしが尊敬する方が東京の調布に住んでいて、わたしは彼からいろいろなことを学びました。
その方の職業は、鍼灸師。中国で実際に人間の体の隅々までを研究してこられた方です。
彼が時折、WEB上に情報を出しているのを見て学んでいるのですが、これが非常に含蓄に富んでいる。

ここでは、以前教えていただいた、雑誌の記事を紹介します。



どうも、人間というのは、腸が主人公らしい。
腸の内側が体内であり、腸管の外側は、体の外、ということ。
原始生物の環形動物、たとえばチューブワームなどをみていると、あれなどは、ほぼ腸だけで生きている生物ですね。人間(生物)の元の形はこれか、と納得できる気がします。
それだけ、腸が大事、ということ。わたしたちの本当の中身は、腸管である。
腸管が、その人の本体、ということになろうか。
進化の過程をていねいに見ると、腸以外は、あとから付いた付属品なわけね。脳でさえも。

まとめ。
腸には、食物繊維がよいようです。
今年の目標として、できるだけ多くの食物繊維をとれるように頑張ろうと思います。
まずは筑前煮かな。あれはこんにゃくも入るし、にんじんとかれんこんとか、なんだか繊維っぽいからね。
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コロナで変わる学校

コロナの情勢が厳しい。
かつてない勢いで陽性の人数も増えているし、死者も増えている。
緊急事態宣言についても検討されている。
英国は一日に5万人の陽性が出て、恐怖に陥っているらしい。
なんでもこれまでのウイルスとは違う、変異したモノだとか。
学校も変わらざるを得ない。

以下、おそらくそうはならないとは思う、ならないとは思うんだけど・・・
でも、だ。
もし仮に、実際の感染者やコロナが要因と認められる死者がさらに驚くべきスピードで増加したら。
そう考えて・・・
今から、日本の小学校教師として、思考実験をやってみる。
最悪の事態を想像してみようと思う。

学校は、もしかしたら休校措置がとられるかもしれない。
また、9月入学をふたたび検討することになるかも。
もしくは、どの学年も1年の休眠措置(冬眠のような)がとられるかもしれない。

そうはならなくとも、学校はいつ休校になるやしれない。
あるいは、従来の進度を気にすることなく、大幅にその学習内容が緩和されるかもしれない。
もしくは、小学校6年間が合計8年間のように増えるかもしれない。
その8年の間に、これまでのような6年生までの分を勉強してください、というように、

これまでの8分の6に、スピードが緩和される

などの措置が出るかもしれない。
これは世界的にコロナウイルスの変異種がさらにさらに増加し、休校が繰り返されるなど、あまりにも特殊な場合の予想だ。

で、そうなると、社会が、学校が、法律が、これまでの常識が、すべて、いったん見直し。
0(ゼロ)からみなおしになりますね。ゼロからってすごいです。
家と学校とで、両方で子どもはどう日中を過ごすか、ということが大きな課題になる。
これは大きいです。本人にとっても家族にとっても、学校にとっても。

宿題をバンバンだして、課題をせっせとこなす子どもたち

というようなことでは、もうしのげないのではないか、と思うね。
だって、教えてないことも、どんどん勉強してほしいもの。

要するに、

学校で習わないことも、自分で勉強できる子ども

に育てることが、学校の大きな使命になるかもしれません。

となると、保護者の側も、大きな発想転換を求められます。
だって、子どもが自分で勉強するんですよ。学校で習ったことがないのに。
昭和・平成までの思考なら、考えられないことですな。
「学校で教えてもらってないことを、子どもが分かるはずがないでしょう」
と多くの親も考えるかもしれない。

しかし、コロナの情勢如何では、もうそうするより、他の道がなくなる、ということです。

学校はずっと休校のようになるかもしれない。これまでのようなイメージでは続けられなくなるかもしれない。
オンラインで教えればいい?
たしかにそうするのも必要でしょう。
しかし、今の大学の講義のように、オンラインがいかにやりにくいかということも分かってしまったので、メリットもあるかわりにデメリットの大きさも考えると、オンラインの授業さえできれば大丈夫、というふうにはならないでしょうね。

昨年の春以後、多くの大学がZOOMや録画等でオンラインの授業を行ったようですが、なかなか厳しい意見もあるようです。
調査では、「あなた自身が最も好ましいと考える授業形態はどちらですか」との問いに対し、「対面授業」と答えた学生が54%に上り、「Web授業」の22%を大きく上回った。

「秋学期もWeb授業が継続されるとなれば賛成ですか、反対ですか」との問いには「賛成・どちらかと言えば賛成」が40.1%、「反対・どちらかと言えば反対」が59.9%で、ほぼ6割の学生が対面授業の再開を望んだ。Web授業の継続に反対する声は下級生ほど強く、1回生では7割近くに達している。
朝日新聞Globe+の記事より抜粋


小学生でも、自分で「まなびの計画」をたてて、自分で興味を持ってしらべたり考えたりする、というのがスタンダードな学校のスタイルになってくるかもしれない。

となると、学習の計画ですね。
これを立てられるようにならないと。
そもそも、

興味を持って ⇒ しらべて ⇒ まとめてみる

このことのスタート地点に、小学生が立つこと自体が、難しいのですね。
多くの学校の先生が、いちばん苦労しているのも、そもそも興味をもってもらう、ということです。
国語も算数も社会も理科も、音楽も家庭科も体育も。
いろんな資料や情報を小出しにしながら、子どもの目がちょっときらきらしてきたり、自信をもって意見が出てくるようになってきたところで、大きな課題に向かわせる、というのが定番。

興味を持ってもらうために、子どもに物を見せたり、資料をつかませたり、話してみたり、ということが必要なんだけど、それが個別にできるかというと難しい。

でも、それをしなければ、最悪の事態に備えることができない。
ここらをずっと、この先、われわれは考えていくことになりそう。

小学校の先生の仕事の中心が、教室で知識を注入することではなくなって、
その子なりの学習計画が立てられるように支援するマネジメントが本業になってくる。
学校には、その学習計画をちょっと背中を押すために集まってきてもらう、ということかな。

どう?次の学習はどうする?
こんなのから興味をもてるかな、ちょっと本を読んでみようよ。
どうかな、まずはいろいろ見てみよう。
友だちはこんなレポートを書いて発表しているよ。どう?


こんなやりとりを、ひとりひとりが教師とやって、納得したら家に帰っていく。

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今年はユーチューブを始めたい

ユーチューブをやりたいと思ったのは、すごく面白い動画に出会ったことがきっかけです。
昨年の9月ごろでしたか・・・。

わたしはそのころ、5年生のキャンプを控えていました。
土日になると飯盒炊飯の動画を見て、子どもへの指導の方法を考えていました。たまたまその中でみた動画が、すっごく面白かったのです。

ソロキャンプにあこがれている方が、山ではなくて自宅の庭で外用の時計型ストーブに火をつける、というただそれだけの、本当に意味のないような焚火の動画だったのですが、すっごく面白かった。

人間の顔は出てきません。セリフもない。
ただ、ゆっくりと焚火をしているだけ。
そこに、ときおり、その人のひとりごとのような、文字のテロップが入るのです。
「あちち」
とか。

「そろそろ湯を沸かすか・・・」
というような。

「あれ?コップをどこへ置いた?」
とかね。

で、時おり、目の前の道を小さな息子さんが自転車で通っていき、
「あ、息子だ」
とか。

まあ、日曜日の昼下がり、『お父さんなにやってんの!』という感じですね。
会社員のお父さんが、非日常を求めて、庭で薪をただ燃やす、というだけ。
それも、10分くらいの短い、ポエムのような動画でした。

おもしろかったのは、最後、奥さんに呼ばれて、「ちょっとー」と言われて、「今日の動画はこれで終わりです」となる。子育て家族のお父さんが、本当に30分程度でしょうか、自分だけの時間を焚火で過ごすわけ。

それをわざわざ、編集し、10分の動画にしている。
わたしはこれを見て、これが現代の俳句かしら、と考えました。
お父さんはその後、家族のためにスーパーに買い物に行くわけですが、
『その方の日常を、スパンと横からぶった切ったような、その断面を眺めているような』感じがしたのです。

おお、こんなことができるんだ、動画って、と感心しました。
人生を切り取るのは、落語か俳句か短歌か、それとも昭和の歌謡曲だとばかり思っていました。
ところが、この動画は、その方の声も顔も見えないけれど、生活の雰囲気や感じていることや、いいお父さんなんだな、ということや、なにか仕事のことで考えているんだなとか、語らないこと、画面に映されていないあれこれを、ものすごく感じさせてくれました。

動画って、その人の目線が現れるから、本当に「人間性」が出るみたい。
わたしの知り合いの動画編集の青年も、同じようなことを言っていました。
「動画は人間性をアピールできるツール」というようなことを言ってました。
そうだな、と思います。

いいなあ、こんな動画ならぜひ撮ってみたい。
そう思ったのが、去年の秋でしたかね。
今年はぜひ、動画をとってみたい。
俳句ですよ、これは。

今のYoutubeって、多くの人が投稿しています。
まあユーチューブだけじゃないですけどね。
多くの人がつぶやいている日常を、

俳句動画

のようにして、こんなふうにアップしている人がたくさんいるのを初めて知りました。
アクセス数はとても少ないですね。だから、これでお小遣いを稼ごうとか、そんなのではないのでしょう。あくまでも、

俳句

のようなスタンスだと思います。
ぜひやってみたいですね。

というか、小学校の授業で、こういうのやろうと思ったのですよ。
ちょっとしたつぶやき動画というのか、セリフ無し、顔なし、演技無し、広告なし、アピールなし、というようなことでの、

【純粋俳句動画】

を子どもがつくったらどうだろうか。

日常を撮影して、最後にその子なりのつぶやきをテロップで入れたら・・・

まあ、直感だけです。面白そう、というネ。
なんの授業になるんだろうか、道徳なのか図工なのか・・・。

いいなあ。やってみよう。

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【2021年】よろしくお願いします

みなさま明けましておめでとうございます。
新しい年、2021年になりました。
昨年もたくさんの記事を読んでいただき、ありがとうございました。
ブログで、自分の考えや感想をあれこれと発表できるのは、本当に楽しいし、ありがたいことだな、といつも思います。

ブログをはじめて15年ですが、これを書くことでいつも自分が何を考えているのか、自分でも整理しています。メタ認知の練習ですね。
合計アクセスが本ブログになって33万アクセスです。本当にありがたいです。

さて、今年やってみたいことは・・・

〇ユーチューブを始めてみたい
〇農業合宿をやってみたい
〇部屋の整理をしたい

みなさま、われわれの目の前には、はるか広大な草原が広がっています。

「私たちは同じ未来を見ている。ゴールまでみなさん、共に駆けて、駆けて駆け抜けようではありませんか」

新しい年を、ぜひ共に、どこまでもどこまでも!

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