30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年11月

20代の先生たちがすごすぎる件

20代の先生たちって、なんでこんなにも素敵なんだろう。
仕事はできるし気が利くし、子どもたちの目線に立っている。

こうしてまぶしく彼ら彼女たちを見ていると、
自分が加齢してドジばかりやっているのが際立って感じられる。

階段を上がると息が切れるのは、もうどうしたらいいか分からない。
マスクのせいで、もうほとんど3階まであがった時点で息ができない。
いつも踊り場でそのままブラックアウトする勢いだ。頭の中で、山本 小鉄がカウントしはじめる。

また、ちょっと子どもがやさしいそぶりを見せたりすると、
涙腺がゆるみそうになることがある。
これも、加齢のなせるわざでありましょう。

ときには放課後10分ほど、意識がなくなるときがある。
「今日は職員会議も無いし、会合もないし、さあ、学級事務ができる・・・ぞ・・・」
って、ちらっと思った記憶があるけど、そのあとの記憶がさだかでなく、気が付いたら目の前に隣のクラスの先生がいたときがある。


体育の時間も、加齢が気になる。
ちょい前なら、鉄棒もマット運動も、ちょっと見本みしてみっか、と自分がやったものだが。
今はもっぱら、

「できる人、見本おねがい」

で両手を合わせている。
「先生やってみてー」
と言われる年も、すでに越えたようだ。
もうクラスの子どもたち、だれもわたしにマット運動の技を要求しないようになった。

廊下をあるくときはたいてい、肩甲骨をまわすのがくせになっている。

給食もそうだ。
「あらま先生は大盛りにしてあげないかん」
というので、かつては大盛りが配られていた。
ところが今ではもうすっかり食が細くなり、配膳してくれる子も、心配そうに
「あらま先生、このくらいなら食べられますか?」
と、ごはんを少し減らしながらこっちをうかがってくれる。ほとんど介護のようである。

加齢などくそくらえだ!

先日は社会科の資料集の、細かい字が見えないのと、地図帳の細かいのがよく見えなくて閉口した。
思わず知らず、手に持っている地図帳をだんだんと顔から離し、まゆをひそめ、わたしのこの瑠璃細工のようなつぶらな瞳をせいいっぱい見開いて、地図記号を読み解こうとしたが、見えない。

「ええええー、この岡崎市の、ええー、岡崎市の、・・・ここになんか・・・自動車の関連工場の・・・なんか、記号がありますね。えー、なんだこれは」

すると子どもが冷静に

「あらま先生、投影機で拡大するとテレビに映せると思うよ」

と、憐れんだような目で、いそいそとそれをやってくれようとした。

わたしはVロート・ゴールド40を目にさしながら、今このブログを打ち込んでいるのだが、

・・・40じゃ、もうダメだな。
アラヒフだもの。Vロート・50が必要だ。

と思った。
とはいえ、こうやって子どもたちのことを考えていると、あれ、もうなんだか視界がにじむ。
やさしい子たちだよな。ほんとに。
涙腺も他の腺も、なにもかも、本当にゆるみっぱなしです。

とはいえ、まだまだ月曜日だ!! しまっていくぞーーーーー!!!

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人間の脳って、そんな程度

「わたしは幼いころ、〇〇をした経験があります」
と嘘をついていると、最初は「というのは嘘だけど・・・」、と本人もわかっているはずだのに、
だんだんと時間が過ぎると、それを本気に思う人も出てくるらしいです。
だいたい、5割の人がそういうトリックにひっかかってしまうらしい。

あるいは、母親がおもしろがって息子に向かって
「ほら、小さいときに熱海の温泉へ行ったでしょう。大きなお風呂に入ったでしょう」
とか嘘を言っていたら、本当の本当に、当人も本気でそう思い込むそうですよ。行ってないのに。

人間の脳って、そんな程度らしいですね。
これ、小学校だったら何の教科の勉強になるのかな。

オロナミン

人生は、向うからやってくるもの

子どもは、人生というのは、向うからやってくるものだ、と思っているのではないか?

まるでゲームのように。

ほら、あるでしょう。
ゲームセンターなんかで、道路が向うからつぎつぎと風景を変えながらやってくるサーキットゲームが。

運転席に乗り込むんだけど、その運転席が前に動くわけではない。
ゴーカートじゃないから。
ゲームセンターの床の上に置いてあるマシンだから。
ゲームセンターの隅の壁際に、自分自身はいつまでも停まっているわけ。
前に進んでいると思うのは、乗り込んだ人だけ。

マシンの横から客観的にその姿を見ている人からすると、

「あ、あの椅子に腰掛けた人、いそがしくハンドルを動かしているな」と見えるゲームね。

あー。

そうそう。そのゲームですよ。
思い出しました?

car


カーレース
 (↑ これはちょっと古いかな)

こんな感じかもしれない。
子どもの感じ方って。

子どもからすると、自分が進んでいるんじゃなくて、人生が向うからやってくる。


ところが、大人はちがう。
自分が切り開いて、進んできた、と思っている。
自分が選択して、道を選んで、さらにはからまった茨(いばら)や蔦(つた)の葉をよけながら、大きな石を避けながら、小川を飛び越えながら、

自分こそが進んできた、という感覚がある。

だから、これからもずっと、前に進まなきゃいけない、と感じている。
そして、子どもに言う。

「人生と言うのは、イバラの道だ。四方八方に気を配って、怠りのないよう、勇気を出して進んでいくんだぞ」

 ↑ こう思っているからかもしれない。
だから、大人ってのは、毎日大変な思いをして生きている。

また、世の中の一方では、進むべき道が分からない、と悩んでいる人もいる。
自分には、やるべきことがわからない、いい道がない、どの道を進めばいいのか分からない、という。
そして、

「自分は停まっちゃった」

と思って、嘆いたり、みんなと比べて引け目を感じたり、する。


安心してください。

子どもは世界が違います。
人生の方が、向うからこちらに向かって、どんどんとやってくる。
進もうとしなくても、道に合わせてハンドルを動かしていけばいい。
ずーっと右に向かってハンドルを切ってみたり、ずーっと左に向かってハンドルを切ってみたり。
ただ、それだけ。


えーッ??
だったら、だったら、人生の意味は?
生きていくために必要な、生きる理由とは?


↑ ほらほら。
大人は、そこに「意味」や「理由」を探そうとするけど・・・。

子どもは、精いっぱいに生きている。
自分では決して、「自分が精いっぱいに生きている」なんて思わないのに。
そんなことを考えなくてもいいくらいに、精いっぱい生きているわけ。
目下のところ、大人に向けて大きくなるぞ、というだけで、すごい充実している。
大人のように、なにかを達成するために生きているわけでないのに、充実してる。

大人になればなるほど、「どうやったら充実するのかわからない」となっていく。
大人は、なにかをやるのが人生だ、と考えて、前へ進もう、となる。
反対に、子どもは、「人生の方からぐんぐんとやってくる」と思ってる。

事実が分からなくなる・・・という件

だれでも、そうなる可能性がある。
それが、「事実が分からなくなる」ということ。
考えてみると、だれも事実がこうだ、ということが言えない。
人間ならだれでも、事実を事実と断言することができない。
人間はどうしても「脳」でものを見たり聞いたり判断する。
その「脳」がエラーを起こしている可能性があるからだ。
機械人間でない限り。(あ、機械も故障するか)

怖いのは、エラーを起こしやすくする方法があることだ。
脳は、自分を『否定する』ことで、足踏みをする。
これは、ただしい認知に戻ろうとしての正常な動作である。
たとえば、二度見。
人間はだれでもぎょっとして二度見することがある。
これは脳がとっさに映像を処理しきれず、確かめようとして視覚情報に再度頼ること。
脳はとっさに一時的な処理を行うが、脳のどこかで
「そんなはずがない」
という理性と論理的な思考が働く。
そこで、いったん、足踏みをする。
自分が視覚をフルに使って得た情報に自信をもってもいいのだが、いったん「否定」し、足踏みをするのだ。だから、二度、見ようとする。情報を脳内に構成しなおすためにもう一度、情報をインプットしないといけないから、二度見るのだ。

しかし、これが頻繁になってくると、自分の判断能力が衰えてきていると思うか、
あるいは、自分には判断する能力が欠けている、というふうに考えるようになる。
すると、

現実に起きている事実と 自分の脳内でそうだろう、と思うこととが、乖離しているように感じる。
これがたまにある程度だったら、

「あちゃー、ボケとったなー」
「あれ、やっちゃった。思い込んでたな」

で終わるかもしれないが、頻繁にあるとそうはいかない。

「事実が分からない」

という極端な不安心理が襲うようになる。

外国の映画で、悪い奴が主人公の精神状態を追い詰めるために
「あれ?車を変えたのですか?」
という主人公を憐れむように見ながら、
「なにをおっしゃっているのです?わたしはもうずっと前からこの車ですよ」
という。
「ええ?たしかつい先日までは〇〇に乗っていたはず・・・」
「どうしたのですか。最近のあなたはおかしいですよ」
という芝居を打つ。
悪い奴の仲間がこうしたことをどんどんと展開し、しだいに主人公が追い詰められていくわけ。

事実とは何かは分からない。
自分の脳がこうとらえた、ということは言える。
しょせん、脳がこの程度、という納得があれば、悪い奴にだまされることもない。
だって、悪い奴の脳だって、この程度なんだもの。
「あなたの認知がゆがんでいるということもある」
と言い返せるようになっておかないと。

「あれ?車を変えたのですか?」
という主人公を悪い奴が憐れむように見ながら、
「なにをおっしゃっているのです?わたしはもうずっと前からこの車ですよ」
と言ったとしたら、
そう芝居を打つ悪い奴に向かって
「そうですか。わたしたちの脳はお互いに事実に到達できませんからね。まあそれらしい証拠がまたぞろ集まってきたところで、どうもそうらしい、ということにしておく程度にしておきましょう。あなたもわたしも、お互いに思い込んでいるのでしょうからな、ははは」
と煙に巻いてほしい。

さて、なんでこんなことを書くかというと、
教室でものがなくなった、という事件が起きたからです。
まあ消しゴム一つなんですがね。
MONO消しゴムのでかいやつ。
それと、同じく筆箱に入っていたはずの京都のキーホルダー。
それが一度に無くなって紛失し、

「だれかが盗ったのでは」

ということになった。

捜索⇒該当児童の家庭への連絡⇒子どもたち全員の荷物調べ⇒全家庭への連絡通知と家庭内での捜索依頼⇒(授業をつぶして)クラス内での聞き取り⇒(授業をつぶして)全員が休み時間に何をしていたかの調査⇒(授業をつぶして)その調査に嘘がないかどうかのさらなる調査⇒(授業をつぶして)他のクラスの子たちへの聞き取り調査⇒キーホルダーを持ってきた子の家庭への謝罪連絡、と進むのが予期されました。

ところが、本人が思い出してくれた。

「あ、そうだ。お姉ちゃんに言われてキーホルダー、外したんだった。MONO消しゴムも、小さいのに替えたんだった」

これで、上記のように授業をつぶした捜査をしなくて済みました。

で、上記のような『認知』の授業をしておいた方がいいのでは、と思うようになりました。
その子が素直に言ってくれたからよかったですが。
意地を張って、

「ぜwったいに学校に持ってきてた!!」

とか

「だれかが盗った!!」

とか言われた日にゃ・・・

誰だって認知にはゆがみが生じております。
その証拠に、風邪をひいたら、コロナでなくとも嗅覚が落ちるそうですぜ。
人間なんて体調の変化ですぐに認知がゆがんでしまって、昨日とちがってくるんすからナ。

一枚の紅葉

『学びの最適化』に向けて

学びの最適化、ということが叫ばれて久しい。
なぜ最適化する必要があるかというと、人間が「学び続ける」ためでありましょう。
学校を卒業してしまったとたんに、

「あーあ、せいせいした」

というのであっては、まったく学校というのは価値がない。
その後の人生を、生涯にわたって豊かにしていくために学校がある。
そう考えたら、「一人ひとりが、自分が学び続けるための強固なエンジンを身につける」のが学校という装置であります。

学ぶというのは、常に自分の中の情報や価値観や考え方、感じ方をリフレッシュするということであって、それがなければ、ただの奴隷以下。生きる喜びは一切皆無でしょう。

自分が自分として学び続けられるようになるために。
他とともに知恵を分かち合い意見を比べることのできる身近な共同体があればなお豊かだ。
これを具体的に実現させるのが、小学校の責務だ。
現在の小学校の基本方針は、コレでありましょうし、もうすでに長いこと、こうやって学校は成り立ってきた。

さて、ところが学校の現在の実情としては、少々上記から、ずれた部分がある。
たとえば、ある子が急になにかのきっかけで、算数の熱が高まり、算数が異常におもしろく感じちゃったらどうするか。4年生なのに、方程式にめざめてしまい、代数とかに興味が出ちゃったら。
今日はもう、国語じゃなくて、社会じゃなくて、大好きな体育よりも給食よりも、なにをおいても算数、算数、となったら。

現在のカリキュラムでは対応できません。
4年生は4年生の学習をすることになってる。
しかしこれは逆にいうと、ものすごく親切に、その子にだいたい合うように、カリキュラムが組まれている、というわけで、これはこれでたいしたこと。実にすぐれたシステムがすでにできあがっている、というわけ。
しかし、これからもう一歩、頭一つ抜け出そう、というのがSociety5.0だ。

これからの学校は、
1)基本的な学年に応じた従来のカリキュラムでの学習
を基本にして
2)個別の素質や習熟度、要望に応じて組み立てることのできる学習
を付け足し、ハイブリッド型にしていくことになるだろう。

このハイブリッド方式のうちの2)を積み上げていくためには、その子なりのカルテのようなものがあったらいい。個別の学習計画と呼ばれるものだ。これを電算化して、本人や親、そして周囲のクラスメートも、さらには担任も、それを見ながら助言するようにしたらいい。


朝の10分間の活動で、子どもたちが一人一台のタブレットにアクセスし、自分のポートフォリオを見ながら計画する。

本人「よし、今度はこういう学習をしたいな」
クラスの友達「Aくん、それもいいけど、こんなのはどうかな」
親「この間家族でこんな話をしていたから、こんな勉強もつけたしたらどう?」
担任「では、図書館でこんな本があるから、これをまとめてみたらどうだろう」
クラスの友達「いいねえ。じゃあぼくも関連した勉強をするから、終わったら二人で発表会をしようよ」

これをデジタルでやる。
デジタルはこういうことは強い。
一度に情報が共有化される。
デジタルは、分類したり、仲間を見つけたり検索したりが得意だ。
このことが、「デジタルの世界が寄与できる、学びの最適化」だろうと思う。

担任は、教える、というよりも、助言する、という立場に、どんどんとなっていく気がするね。
授業の上手な、快活な先生もいいけど、いつもそっと静かに、近くにいる先生、というのも、渋くてよいでしょう?


二人で1

子どもは「何のために生きるか」を問わないのが不思議

タイトルに書いたが、
一生懸命に遊んでいる子どもたちを見ていると、
そう言えばこの子たち、「何のために生きるかを問わない」ことに気づく。

人は何のために生きるか。
充実感や達成感を得るため、感じるために生まれてきたのではない。
そもそも、何か事がらを進めたり、達成したものを得るために生まれてきたのではない。

では、なんのため?

人生は、何かをするため、ではないかもしれない。
もしそうなら、逆に何かをしてはいけない、というのでもないだろう。

では、なんのため?


われわれ大人は、
「社会からの」あるいは「人生からの要求」には必死で応えようとする。
一方で、「人生からの問いかけ」には耳を貸さない。
常に、強い緊張と切迫感、焦りを感じながら、生きている。

ところが、子どもは違う。
「人生からの要求」には関心が無く、
「人生からの問いかけ」には真摯に向き合う、というのが、子ども。

だからだろうか。毎日、真剣に遊んでいる。

毎日すれ違う一年生が、いかにも幸福そうに雲を見上げながら歩いていくのを見てると、
教師も時折、こうやって人生を考えるようになる。
自分は、たった一度の「人生」から、なにを問いかけられているのだろうか。

ひとの人生は、社会よりも価値が高い。
それぞれの人の、人生の価値が高まれば、
結果として、社会全体の価値が高まるだろうと思う。

人生の価値は、「なにをしたか」ではない。
「なにをして過ごしたか」でもない。
「どこで過ごしたか」でもなく、
「だれと過ごしたか」でもない。
そこには、なにもない。

教室で過ごしている子どもたちはふだん、
そんなこと、なにひとつ気にしていないように見える。
たったひとつ。一所懸命に遊ぶのは楽しい。これは真実だろうなと思う。

aki3

クラスから児童会長候補を選ぶ方法について

米国で大統領選が行われたが、こちらもあと2ヶ月で、選挙だ。
5年生は4クラスあるから、各クラスから立候補者が1人ずつ出る。
まずは、その立候補者をクラスの中で擁立しなくてはならない。

たった一回の人気投票では、なんだかな、と思う。
つまり、じっくりとみんなで考えあって、クラスの温度が高まって、納得してみんなで笑顔で進める感じにはならないような気がする。
そこで、リーダーをいろんな子に経験してもらいながら、みんなでリーダー像、というのを考えることにした。

一週間に一度、リーダーを経験してもらう。
リーダーは席替え、掃除の班決め、朝の10分活動の内容企画推進、その他の権限が与えられる。

席替えを決められる、と聞いて、ウォーーーー、という地鳴りのような声が聞こえた。
相当、期待しているようだ。

「先生!その席替えの方法は、どうやって決めるんですか?」
「リーダーが決めます」

ざわざわ

「席替えは、リーダーがみんなに聞きながら決めるのですか?」
「みんなに聞くかどうか、自分で全部決めてもいいし、それもふくめて決めるのがリーダー」

ざわざわ

「え、先生、確認ですけど、リーダーが勝手に決めてもいいんですか」
「いいです。リーダーが責任もちます」

ざわざわ

これはかつてないことになった。
これまで先生が決めてきた席替え。
くじ引きで決めたこともあるけど、自由にはならなかった。
それが、このリーダーになることで、どうやら『勝手に決められるらしい』。

クラスでいちばんのお調子者、兼、やんちゃくん、兼、ドッジボールの審判を買って出るタイプの男子が、目の隅をキランと光らせながら、ドスのきいた声で確認してくる。

「先生、男子同士でとなりになっても、いいんですか」
「リーダーが責任もって決めるのであれば」

ざわざわ

信託システムを使うことにした。
自薦、他薦、白紙。
どれでもOKだ。
票を勝ち得た人で決まるのではなく、票を受けた人、票の入った人が、さらにだれを推薦するかで決まる仕組みだ。

たとえば、AくんがBくんをリーダーとして信託したとする。
BくんがCくんを選んだ。この時点で、Cくんには、Bくんの票とAくんの票の2票が入る。

さらに、CくんがDくんを選んだ場合は、Dくんに3票入ることになる。
つまり、AくんとBくんが信託したCくんが、自分を含めた3票をDくんに信託したことになる。

このとき、Dくんが自薦したとしよう。
Dくんは、自分こそリーダーにふさわしいと考えて、自分に票を入れたとする。
すると、このDくんには、すでに3票があるため、そこに自分の1票を加えて、4票が入る。
つまり、先の3票にくわえて、4票が入るのだ。合計7票。

この信託システムによって、もっとも得票数の高い人物がリーダーとなる。


信託システムの最初は、子どもたちからアンケートをとることだ。
下記の3つを書くカードを配布して、回収する。

①自分の名前
②自分が信託する人の名前
③理由


これを教師が集計するのだが、とても面倒だ。
ぜんぶ手計算するのがめんどうなので、途中までエクセルを作ってみた。

(信託システムを少しだけ楽に入力するエクセルシート)←右クリックでリンク先を保存

本当にかんたんな関数しか使っていないために、ざんねんなことに途中までしか使えない。
最後の結果までは、このエクセルでは出ない。
しかし、それでも最初の1からスタートするよりも楽だ。

【使い方】
1)児童名を黄色いマスに入力します。
2)番号は、出席番号です。
3)一番左側のピンク色のマスには、その児童が信託した子の出席番号を入力します。


信託システム1


「キレる」が正当化されない、ということ

学校で、わたしが堅持しているのは、
「キレる」を正当化しない、ということ。
これを認めてしまったら、まあちょっとひどいことになるだろうと思う。

ドラえもんを見ていて、昭和には実際によくあったのかもしれないが、ぜったいに許されないのはジャイアンが周囲の人物をお気軽に殴るシーン。
ジャイアンは、自分の機嫌をそこねる相手にたいして、実にお気軽に手を出してしまう。
これを「いい」としてしまうなら、人間が人間ではなくなっていく。
人間は知的に活動できるからこそ、その価値が出てくるのであって、相手を殴るのを正当化していては、人間としてはまったくもう、負けである。
戦争は、手を出したら負け、である。
何も残らず、何も得られない。
終わった後に残るのは、深い悔恨の念と自責の念、そして傷ついた同胞と焼け野原である。
「キレる」は、人として異常なこと、としていかねばならない。

これを子どもに徹底させるのは、最初は容易なことではない。
なぜなら家で親にそう教育されている場合もあるからだ。
「やられる前にやれ」と教えている家庭もある。
そこに一教師や担任が、「手を出したら負け」と教えるのだから、子どもは混乱する。

しかし、学校で生活していると、その意味がだんだんに分かってくる。
子どもたちが納得していく。
手を出した子は、どうしてもレッテルを貼られるのである。
「手を出す子」として。

相手が傷ついて苦しんでいるのに、それを見てニヤッと笑っているのである。
それを見て、平気でいるのである。
同じクラスで生活している子にとっては、そういったクラスメートは、『気持ち悪い』としか思えないのだ。だから、だんだんに、しずかに、しずかに、孤独にさせられていく。子どもは実に、そのあたりの運び方が自然である。

わたしは教師になって15年。この間に、「友達に手を出す子」ほど孤独な存在はいないと思うようになった。例外なく、孤独である。そして、その子の小学校生活は、例外なく、暗い。
本当の仲間は、だれひとり、いないのである。

そのことを子どもに伝えると、それはそうだろう、と納得する。
だから、家で親になんと習っていようが、実感が勝つ。
つまり、「手を出したら負けだな」と思うのである。

そして、その前に、手を出す前に、「キレる」を正当化しない、というのが出てくる。
キレるのは、戦略としては悪手であり、キレる必要もない。
そう思えるように、学級を育てていかねばならない。
そのためのたった一つの方法が、

「車座での話し合い」

である。
車座は、だれも中心がいない。
そのことがビジュアルで子どもたちに実感される。
全員が同格になっての、意見の出し合いなのである。
それも、しつこく、何度も何度も、毎朝のように車座、である。
そして、どうしたら解決できるか、と何度も話し合う。

これをやっている限り、「キレる」必要はない。
その場で、「困っているから相談に乗ってほしい」と一言いえば、キレる必要がなくなるのである。

そこまでを全部、ひとつのセットにして、指導のワンセット、とするのである。

手を出したら、負け、である。
これを何度も何度も、学級のさまざまなシーンで、わたしは言っている。

手を出すな。手を出したら、負けだ。
手を出したら負け

SDGS持続可能な体育

持久走大会が開催される。
昨日、子どもたちにそのことを伝えた。

いろんな反応がある。
やる気十分の子、文句ばかりの子、と分かれる。

なんで文句が出るのか、ちっとも理解不能である。
だって、持久走って楽しいじゃないですか。
みんなフーフー言って走るし、へばりそうになっても足は動くし、人間の体って不思議だなあとすごく実感できる。
ところが文句をぶーたれている子に言わせると、

「だってわたし遅いんだもん」
という。
遅くたっていいじゃないか、と言うと、
「いいえ、遅いのはダメです」
という。

いつから遅いのがダメで、速いのが良いとなったのだろうか。
わたしはぴんときて、
「ははあ、みんな、運動会の徒競走と混線しているでしょう。誤解だよ、誤解」
と解説したが、子どもたちはなんとなく目つきが暗く、口元をひきしめている。

あなたたちは『だって、速い方がいいではないか』というけど、どうして速い方がいいのかをちゃんと説明できるの?

と問うが、

子どもたち、だれも説明できない。逆に、

じゃあ先生、なんのために持久走やるの?

と聞いてくるから、クラス会議をやった。

すると、一生懸命に走ることはいいことだ、という子がいる。
賛成も多数。
さっきまで、マラソンやだー、と文句を言っている子まで、「そこは賛成」と言うので驚いた。

なぜ一生懸命に走ることはいいことなんだろうか?

わたしは輪の真ん中で、しずかに、問いかけていく。
子どもたちは車座になって、とくに順番も決めずに思いついたなりに話す。
だれもがお互いの顔をみて、その話を聞いている。
多数決で決める、ということではないから、どこまで自分の考えが深まったかが大事だ。
しずかに、しずかに、みんなでお互いのちょっとしたセリフを聴きあう。
いいなあ、車座って。

子どもたちから、健康になる、自分の体のことがわかる、限界を知れる、走り方がわかる、など・・・いろいろ出る。

わたしは中央に座っているが、大きな輪のあらゆる方向から、意見が出てくるのが面白い。
たくさん意見が出されてから、最後にとっておきの質問をした。

ゆっくり、言葉を区切って、はっきりと。

持久走大会は、きらいなことですか。

子どもたち、きょとんとしている。

わたしは、中央に座っていたが、あらためて座りなおした。
で、しずかに、繰り返した。

持久走大会は、きらいなことですか。

すると、やはり女子のほとんどが、

「きらいです」

ときっぱり言う。
わたしは頭の中がまっしろになった。

おそらく、体育だって持久走大会だって、きらいだと思っている子はいるだろう。
今、世の中はSDGSだ。つまり、持続可能な社会をめざしている。
その、持続可能な社会を担う子どもらが、

「体育はきらい。二度とやりたくない」

と言ってしまえば、実はSDGSは破綻する。
だって、その子にとって『体育』は持続しないのですぞ。
学校は、教師は、「持続可能な体育」をやるしかない。
いったいなにが、持続可能な体育なのか。
その子にとっても、教師にとっても、学校にとっても、
ひとりの生涯にわたっての持続可能な体育であり、
社会全般が、「持続可能な体育」をその内部にふくんだ社会でなければ。

「順位が関係ないならいいけど」

女子のひとりが言った。

わたしはすぐさま
関係なし!
と叫んだが、

体育主任の先生の机の上には、ちゃんと賞状が印刷してあったのを見たから、

ちょっとうしろめたい気持ちになりました。

持久走

【国語科の宿命】5年生の国語もえぐい

教科書に、広島の原爆をテーマにした作品が掲載されている。
8月6日、8月9日、8月15日には国民がみな戦争の悲惨さを思い返し、不戦の誓いを立てる我が国のことである。教科書に、これが掲載されても不思議はない。

ちなみに、今の小学生はおどろくほど、そのあたりの知識がない。
戦争をしていた事実も、5年生になってようやっとのみこめた、という子が多い。
昔にくらべて、戦争を話題にしたドキュメンタリーが放映されなくなった。
そういえば「はだしのゲン」は戦争の醜さを際立たせているというクレームがつき、公共の図書館には置かれなくなってきているらしい。

戦争をテーマにした文芸作品というのはこの世にごまんとある。
ヨーロッパもそうだし、アメリカもそういう作品をたくさん生み出してきた。
わたしが若いころに見た西洋の映画はほとんどが、戦争をテーマにしていたように思う。

『ディア・ハンター』(1978)
『地獄の黙示録』(1979)
『プラトーン』(1986)
『フルメタル・ジャケット』(1987)
『プライベート・ライアン』(1998)

『風と共に去りぬ』だってそうだし、
コッポラも、チャップリンも、
大脱走だって、シンドラーのリストだって、戦争がテーマだ。

今はそういうのを、子どもが見ることがないのかもしれない。
5年生が、本当に、戦争を知らない。

ところで、わたしが戦争を子どもたちに考えさせるために使う写真が、これである。

称名寺


子どもたちは、本当に悩む。
寺の梵鐘が、石である。
これがいったいなぜ戦争と結びつくのか。

石に神が宿っていると考えて、その石をつくと戦争に勝つと思ったのだ、とか。
すごいご利益のある石なんだとか。
戦争に行く人が石に祈ったからだとか。
子どもたちは真剣に考えるが、鐘が金属として回収されたとは思いつかない。

「みんな、たくさん考えを出してもらいましたね。でも、ぜんぶ違います」

ここから、戦争の狂気を考えていく。
ちなみに当時の近衛内閣が命令した「金属類回収令」に厳格にしたがった市町村は、子どものアルミの弁当箱まで回収した。一方で、時の内閣の指示命令にそれほど従わなかった市町村は、大事にしていた『鐘』を隠して出さなかったりもした。

市町村の判断で
〇時の政府の命令が、人々の生活にくいこむように響くか、そうでないか
が決まったようだ。
各市町村の、『自治の気風』が、そうさせたのだろう。

したがって、これは、
自治とは何か、を考えさせる教材にもなっている。

それにしても、この教材もやがて、消え行く運命なのかもしれない。
教科書を変えよう、変えよう、という空気は日増しに増えている。
戦争を忘れよう、忘れよう、という空気も。

しかし、今回の教科書の改訂で、なくなっちゃうかなーと心配していたら、ちゃんと残ったから、文科省もなかなかやるなーと思いました。
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