30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年10月

【社会科の宿命】5年生の社会はえぐい

5年生の社会科に、もっと世間の目が集まるとよいと思う。
この中身はどうか、ということを、マスコミが報じたり、テレビでタレントが討論したり、それについての関連本が売れたりするといいなあ、と思う。

なぜかというと、5年生の社会とは、今の日本を学ぶ、ということだからです。

先日、新卒24歳の先生と話をしました。
社会科の教科書をみながら、お互いに授業案のアイデア出しです。
こうやってブレインストーミング的になんでも出し合いながら、少し予定が先の単元を話題にし、授業の骨の部分を考えておくわけです。

印象的だったのは、

「日本は世界でもトップクラスの経済力でしたからね」

という、若い彼の発言。
完全に、過去形でした。

これが、わたしよりもさらに年配の先生の耳に、意外に聞こえたらしい。
定年間近の先生が近くの席に座っていらっしゃるのですが、
「経済力、うーん過去形だよなあ」
と感に堪えたように言った。

十年以上前まで、定年間近の先生は
「日本の経済力はすばらしい。世界の模範になるレベル」
というテイストで、社会科の授業をつくっていた、とのこと。
定年間近の先生にとっては、「つい最近までは・・・」という感じ。

ところが、若い20代の彼にとっては、日本の経済力が強かった、という事実は、完全な過去、です。

ちなみに、ニッポンの1人当たりの国内生産(GDP)は、2018年にイタリアと韓国に抜かれて世界23位になり、最低賃金の低さはOECD(経済協力開発機構)諸国の平均とくらべて

平均の、さらに3分の2。

程度です。
かなり、低い。

この10年で、すごく順位を下げました。
以前はこのGDPが、輸出入の額や量を反映した国のだいたいの経済規模や経済力を示すものだったのですが、GPDが下がり続けたいま、

GDPはあまりいい指標ではない

ということになり、あんまり日本では重要視されなくなりました。
重要視されなくても、学校ではやはり常識として学ばなければならないので、今の子どもたちは

「日本はイタリヤや韓国よりも下」

というところから、学び始めるわけです。
まあ、くやしいけどしかたがない。
教室で学んでいる子どもたちは、生まれた時からちょうど10年くらいですからね。
うまれたときから、日本という国は、それほど経済力がなかったわけだ。

そういう話をしていると、年配の先生が

「むかしはGNPが世界2位だとかいって、浮かれていたからなあ」

とおっしゃる。

若い先生が

「え、2位だったんですか?」

と驚く。

GNPは世界経済がグローバル化するとともに使われなくなり、その後はGDPが指標となる。
GDPは、2010年に中国に抜かれて世界第3位となった。
そこからの凋落ぶりは目を覆うばかり。

5年生の小学生は、これからこういった日本の実態をまなんでいく。
子どもは未来に向けて自分が生きていく国を良くしていく意欲にあふれている。
だから、言葉が明るい。
アイデアなんてどんどん出せばいい、良くなるはずだ、という楽観がある。

英語の授業で、ハロウィンの祭りをしらべた。
すると、家からかぼちゃをたくさん持ってきた子がいた。
おうちの人の協力で、20個近くの大きなカボチャが教室に集まった。

「すごいよねえ、でっかいかぼちゃだよなー」

と、子どもたちはみんな笑顔だ。

これが、子どもたちの生きるパワーだろう。
自分たちが生きていく先には、豊かな土壌がある。
かぼちゃだってとれる、いもだってとれる、がんばればもっともっと野菜やコメもとれるだろう。
そういう明るさ、気分がある。

これが、いつの間にか、大人社会の閉そく感におしつぶされたり、「努力しても豊かになれないというむくわれなさ」にとってかわったりすることが怖い。

日本の自殺者数は世界で8番目。アメリカとくらべて、2倍いる。
逆に、人口はアメリカの3分の1にすぎないのに、だ。
比率としては、10代の若者が増えている。「むくわれなさ」を予感するのか。ため息が出る。
しかし、これも、社会で学ぶ、日本の実情だ。
5年生の社会は、えぐい。

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【書道】半紙の右に名前を書いた子に

みんなが書き終わったのを見ていたら、ひとり、半紙の右側に名前を書いた子がいた。

みなさんなら、どうされますか?

わたしはとりあえず呼んで、いっしょに見ながら

「これ、どうする?」

ときくと、

「どうしたらいいですか」

ときかれた。

「みんな左に書いているから、へんに思われるかも」

というと、

「でも右でいいんなら」

という。

つまり、へんに思われようがなんとおもわれようが、平気だ、というわけ。
このあたりは大物です。

「気にしない?」

と確認すると、

「ええ」

とのこと。

で、結局、そのまま掲示しました。

ひとりだけ、教室で、半紙の左側でなく右側に名前が書いてあります。

「字を書いてみたら、右側がけっこう空いていたから」

という合理的な判断だ、と本人は理由を述べておりました。

しかし、いちおう、

左側に書くことに、書道の世界では、いちおうそうなっている。

芸術は、自分の作品の『終わり』に、署名するんだ、左側がおわりなのだ、ということも伝えました。

しかし、

「今回は最初に書きました」

という。

おそらく、書道の世界が千何百年以上(?)つづいているけれど、作品の冒頭にサインをしたのは初めてでしょう。

わたしがそれを言うと、目を輝かせて

「え!じゃ、ぼくが歴史上、最初の人間ですね」

と言った。

頬を紅潮させ、笑みまで浮かべている。

こんなに目をかがやかせられたら、教師の負けです。

教師は、目がかがやいていない子に対しては何か言えるかもしれないが、
ぴかぴかに目を輝かせている子には、文句をつけられない。


★写真は、朝陽にかがやいている大銀杏(おおいちょう)。
大銀杏

【教師稼業】もしも私が女神なら

試されるのが好きじゃない。
子どものころからそうだった。
堂々としていたい。
それがいちばん自分の中の正直な気持ち。

だから、何かを訊かれるなら、尋ねられるのなら、相手には堂々と質問してもらいたい。
こちらも堂々と、本当に思っていることを、つつみかくさず言いたい。
それがいちばん、人間と人間の、まっとうな、傷つけあわないコミュニケーションの姿だろうと思う。逆に、こちらも、堂々と質問をしていきたい。うそいつわりのない、本当の気持ちを聞いてみたい。

もちろん、それにはお互いが守らねばならない条件がある。
相手がなにを思おうが、何を考えていようが、どんな言葉をつむぎだそうが、相手をまるごと尊重すること。
そうならないかぎり、「通じ合う」ことがない。
通じ合わなければ、話す意味がない。

だから、幼いころに聞いた、金の斧と銀の斧の話をきいたとき、顔面を殴られたかのような衝撃を受けた。今でもおぼえてる。

3つ、歳(とし)の離れた姉が、わたしに読んでくれた。
わたしは「女神」というのが分からなかった。
姉に尋ねると、神さまの一種だろう、ということだった。

わたしがそれまでイメージする神さまは、やさしい感じのする、爺さま、だった。
しかし、この女神、なんと性格の悪いこと。

「あなたの落とした斧は、金の斧ですか、銀の斧ですか」

そんなの、神さまなんだから知っているでしょう。
ところが、今落とした斧を知っていながら、男を試したのだ。

教師は、この女神のようになってはいけない。
ただひたすらに、もっともっと、この木こりのことを観察しつづけるしかない。
みるのだ。子どもを見る。それが教師の仕事である。けっして、決めつけないで、ああだこうだ、としないで、〇や×をつけるために見るのでなく、ただひたすらに、真摯に事実を見ようとして見る。

女神だって、そうやって本当にみていないと、木こりが正直かどうかなんて、分からない。
また、そのとき正直であったとしても、正直でなくなる瞬間だってあるだろう。人間だもの。
他人の前で正直にふるまったところで、それが本当に良いことかどうかも分からない。また、正直に言わなかったから救われる、というケースもあるし、正直に言うから人を傷つける場合だってある。
正直、ということそのものに価値があるのではなく、『ひとを本当に思う』ということ、その心のはたらき方に価値があるのではないだろうか。

もし教師が女神なら、まずは

「ケガなかった?」

だろうねえ。

いえ、もちろん自分のけがじゃなく、木こりがけがしてないかという・・・

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不安の強い担任にはなるな

担任の不安が強いと、生徒をどうしても変えたくなる。

生徒を問題視するからだ。

教頭の不安が強いと、先生たちをどうしても変えたくなる。

先生を問題視するからだ。

校長の不安が強いと、この学校は良くないという情報になって父兄に伝わる。

学校を問題視するからだ。

不安は、形を変えて、どんどんと伝わる。

大人が不安を抱えていると、どうしても、子どもを助ける、のでなくて
子どもに「助けて!」と言っているような大人になってしまう。

子どもに不安をぶつけ、子どもに自分の不安を解消してほしい、と
どこかで願うような大人は、

心の状態が安定している人をみると、

「どうして問題だと感じないのだ!」

と問題視する。

問題視するのが癖になってしまって、目の奥が落ちくぼんでするどい顔つきになっている。

で、子どもはそういう「背後に隠れた」先生の不安を感じ、息苦しさを感じている。


先生の心配をしなきゃならない場合、子どもはずいぶんと疲弊してしまいます。
われわれにとって大切なのことは、子どもに心配をかけない大人になることです。

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【11歳】大縄跳びがきらいなあなたへ

拝啓

あなたの担任になって、もうかれこれ半年以上が過ぎました。
春、見事に花を咲かせいていた校庭の桜はすっかり落ち葉になってしまいました。
そして、その落ち葉の掃除も、もう終わりました。
時の流れははやいものですね。

さて、大縄跳びがきらい、と断言したあなたは、その後大縄跳びの練習には入りません。
ずっとそばで見ているあなたを見ていて、先生はあなたが寒くて風邪をひかないようにとばかり、願っています。

他のクラスのことは知りませんし、前年度この学校の大縄跳びがどうだったかというこれまでの歴史も知りません。
しかし、先生は、大縄跳びは楽しいと思います。
だって、人間がジャンプするだけでも楽しいじゃないですか。
先生のうちの子は、トランポリン大好きですぜ。
ポンポンと跳ねながら歌うので、舌をかまないか、と心配しています。

さて、大縄跳びが嫌いだという子は、多いですね。
あなたに限らず。
先生が教師という職業をはじめてからだって、何人もそういう子に出会ってきました。

「だって、ひっかかったら、男子にすごい目でにらまれるんだよ。あれすごくいやなんだ」

まあ、そういうことがいやなんですよね。
だから、純粋に「大縄跳びがいやだ」というわけではない。
そこは分離して考えましょう。

大縄跳びがいやなのか、男子ににらまれるのがいやなのか。
もっと深堀りすると、
「そうやってひっかかることを失敗と規定し、その失敗をすると記録にならないから自分たちの失点だと考え、クラスとしての競争意識が満足できないから、だから足をひっかけた子のことを責める」
という文化そのものがいやなのでしょうかね?

まあ、その男子はかなりの勘違いをしています。
まず、ひっかかることで記録数が少なくなりますが、そもそも記録数を伸ばすことが大縄跳びの目的ではありません。まあ体育主任の先生が「よい記録を伸ばしましょう」と言うかもしれませんが、まああんなのは、先生の勝手な都合です。もしかしたら、体育主任の先生も、そんなことを言いたくないかもしれません。でも、ゲームにするとなんとなく盛り上がる雰囲気があるので、それをするのが癖になっているのでしょう。

それから、ひっかかって記録数が多くならないことが、クラスの名誉失墜に当たるかどうか、ということですが、だれかの足がひっかかることがクラスの名誉失墜にはならないと思いますし、クラスの価値が低下する、ということもないと思います。足がひっかからないと「スゴイ」かどうか・・・。「すげえ!足がひっかからなかった!」と鼻たかだか、になる?
そうなる人もいるけど、そうじゃない人もいるでしょう。

さらに、その足をひっかけた子を責めると、その子が次回は足をひっかけなくなるかどうか。
責められて、逆に緊張して足を引っかけるかもしれません。どうするのでしょうか。
責められて気を付けようと思う子が50%いるかわりに、逆に緊張してひっかけてしまう子も50%いるだろうと思いますが、その件についてはどうするのでしょう。

だから、責めるかどうするか、というところに、戦略もなにもないわけで、まああまり賢い方法ではありません。男子が声を荒げて、

「てめえ、ひっかけんじゃねーよ!」

と言ったことがあったなら、それが目的を達成するための行為なのかどうか、クラスで会議をした方がいいでしょうねえ。

つまり、去年までの大縄跳びで、あなたは相当、つらい目にあったのでしょう。
そして、それがトラウマになっているようです。
だから、「大縄跳びの目的は何か」を考えればいいのではないでしょうか。

競争?知りません。
わたし、この頃、「競争」という意味が、よく分からなくなっているので・・・。

競争するから頑張れる?
競争しないと頑張れない?え、その意識じゃないと、ぜったいに頑張れない・・・?
それはまずい。だって社会に出たら、ぜんぶがぜんぶ、競争ばかりじゃないもの。

あー、わかった。大縄跳びの真の目的は、跳んだ瞬間に、空が近くなるんで、みんな青空に親近感が増す、ということではないでしょうか。

え?ちがう? じゃ、何なのでしょう? みんなで地球を揺らすため? それもちがう?
えーなんだろ・・・
あー、わかった。できるだけ天の神さまに近づくためってか。
ちがうわねー

そうそう。そうやって、目的を考えるのがいちばん大事。

バベルの塔

丁(てい)ポイントからのシルバーポイント

レジで金を払おうと待っていた。
目の前は、腰の曲がったおじいさんであった。
一瞬、隣のレジをチラ見したけど、そちらもすでに並んでいた。

おじいさんは現金で代金を払おうとしていた。
わたしは頭の中で、次の社会の授業の展開を考え始めた。
「水産業は終わったから、工業の1時間目だな。さてどうすっか」
いつも、レジで待つときはこうすることにしている。

レジの会計係は、大学生らしきお兄さんであった。
小柄だがシャープな眼鏡をかけたイケメンで、そのまま仮面ライダーの若手俳優になれそうだった。

若いお兄さんは
「Tカードをお持ちでしょうか?ポイントがつきます」
と言った。

その瞬間、目を細めて小銭入れをまさぐっていたおじいさんの手が止まった。

チッ

私は心の中で舌打ちをした。
「余計な情報を・・・おじいさんTカードなんて持ってなさそうだろ」

おじいさんは手の動きを止めたまま、
「丁カードは・・・どうだったけかな」
とつぶやいた。

その様子を見て、わたしの後ろの客は、素早く隣のレジに移動した。
カニのような横移動
見事なくらいで、わたしもすぐにそうしたくなったほどだ。

ところが、私の耳に残った、イントネーションがそうはさせなかった。
おじいさんは、

T(ティー)

とは発音しなかった。

かっこよいほどにクリアなボイスで、

「丁(てい)」

と発音したのだ。

わたしは何事ならんと興奮し、その続きを聴くためにそのままそこに残ることにした。
脳内で、なにかが点滅し、「・・・ブログに書けるぞ、書けるぞ・・・」と繰り返したからである。

「丁(てい)カード」

おじいさんの見事な発音を聞いていると、本来はこっちだったのか、という錯覚さえ起きそうだった。

ちなみによく言われている道路交通法上の「丁(てい)字路」というのは、ただしく「丁(てい)」である。
それをたいした知恵もない若輩者がなにをとりちがえたのか「T(ティー)字路」だと勘違いした。今では国民の約半数が、T(ティー)字路と思っているそうだ。しかし、あくまでも道路交通の法規上は『丁(てい)』。さすが、昭和20年代に策定されただけのことはある。

さて、おじいさんは
「丁(てい)カードはどうだったっけか」
とつぶやきつつ、何かのカードを取り出した。

「いえ、こちらはカインズの会員カードですね」
にべもなく、突き返す若い店員。

わたしはその態度にむかついた。
一緒に探してあげるとか、なにかもうちょっと人間らしいあたたかな心遣いがあろうに。

おじいさんは狼狽した様子でさらに次のカードをレジのトレイに置いた。

「こちら、どこかのクリーニング店のカードですね。Tカードは無いでしょうか?」
スマートな眼鏡の奥で、冷たい目線をいささかも動かすこともなく、店員は言い放つ。

おじいさんはめげずに、
「丁(てい)カードは・・・。はて、ばあさん何か言っとったかナ・・・」

レジはしばらく時間停止状態となった。
おじいさんはロダンの彫刻のように動かず、立派なことに若い店員も見事に停止していた。
ついでに私も目の前のリアルな動画に興奮し、心臓以外は停止していたと思う。

やがておじいさんが三度目に取り出したカードは、どうやら本物のTカードらしかった。
わたしだったら、どうしたろう。
「素晴らしい!お客様、やっと丁(てい)カードが出ましたね!」
と歓喜の声を上げるのではなかろうか。

ところがその冷静沈着なスマートお兄さんはやはり動ぜず、そのままシャッと機械に通し、秒でカードを返した。

さて、ようやく現金払いの儀式にうつることができる。

現金をふたたび探し始めたおじいさん。今度は、『釣り銭を減らす行為』に出た。

「いくらだったかいね?」
「1421円です」


青年はひとことも無駄口をたたくことがない。
「そうですね」もなければ「はい」という合いの手も無い。
よく訓練されたレジマシーンである。
しかし、今はその方が何倍もありがたい。

「ほんなら、21円を出そうかなあ」
おじいさんは指で小銭入れをかき混ぜながら、ゆっくりと言った。
すると、上記のセリフを言い終わるか言い終わらないかのうちに、レジマシーンの見事な技がくりだされたのである。

「Tポイントで21円を出せますので小銭は要りません」

そのとたん、
シャキーン
どこかで、金属音が聞こえた気がした。
そして、青年の四角い眼鏡の縁が、一瞬、まばゆく光った。

彼は活舌が良い。おそらく市内で五本の指に入るくらいだろう。
だから、この長いセリフをたったの1.5秒ほどで言い終えた。
わたしも、かろうじてその前半が聞き取れたくらいだったから・・・。

さて、そのおじいさんには聞き取れなかったのだと思う。
速すぎて。
もしかすると、最後の
「小銭は要りません」
だけが聞こえたのかもしれない。

おじいさんはとたんに相好を崩したような表情となり、
「えええ、ほんまか。ありがとう、ありがとう」

青年はすぐに、じいじから札を受け取り、瞬く間に会計を終えた。

「はい、次の方どうぞ」

にこっとして、彼の白い歯が見えた。
わたしは一瞬、彼を抱きしめたいような気持ちにさえ、なった。

おじいさんは弁当をもち、よっこら、よっこら、と歩きはじめる。
わたしの会計はもちろん丁ポイント。スマートに会計を済ませ、若者の笑顔に送られた。

さて、おじいさんがカードを何枚も持たねばならないのは大変なことである。
ここで提言したい。
日本国民は還暦を過ぎたら、
〇丁ポイント
〇dポイント
〇ポンタ
〇WAON
などはもちろん、マツモトキヨシもビックカメラもナナコポイントもすべて、気にしなくても良いようにしたらいい。
すべて、還暦カード(シルバーカード)に統一するのである。
どの店でも、還暦をすぎたらそのポイントがつく。
そして、そのポイントを使えば、いつでも買い物の会計額のうち、10の位と1の位が、00に自動的にそろうのである。

そうしたら、還暦すぎると買い物が楽でしょうがない。
政治というのは、国民生活のためにあるのである。
だから、政治という仕組みをそうやって便利に使うべきだろう。

ということで、還暦カードのデザインを募集中です。
どしどしご応募ください。
わたしのクラスの子(現在5年生)が、将来の夢で総理大臣になる、必ずなる、と断言しております。なので、一応今からそのように頼んでおきます。いずれ実現するでしょう。間違いない。
(同時に、Tカード丁カードと呼んでよい、という法律もつくってもらいますネ)

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【子育て】もの申す子に育てる

学校で何を学ぶか。
世の中の多くの人はどう考えているのだろうか。
おそらく、今の世の中のことをしっかり学べるように、と考える人が多いのではないだろうか。

もしも、学校で重要視するものを、下記のように変革したとしたら何が起きるか。

今の世の中の仕組みを成り立たす人になるために学ぶ

  ↓

私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みはどうなのか、を思考・創造することを学ぶ


もし、このように変化したとしたら・・・

おそらく、起業家がたくさん出てきてしまうだろう。
そして、従来型の企業には就職しなくなるんじゃないだろうか。
あるいは、就職したとしても、従来やっていたことをただ繰り返すのではなく、どんどんと新しいアイデアを実行してしまうのではないだろうか。

企業としては、会社としては、どちらの人材を得たいか、ということになる。

「そりゃ、指示をしっかりと聞いて、その通りやれる人材が欲しいに決まっている」

と考える人は、今の世の中の仕組みをきちんと学ぶ学校 に入学すればよい。

しかし、

「新しいアイデアを思いついて実行できるように計画する人が欲しいだろう」

と考える人は、私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みを思考する学校 に入学するべきだ。

で、今の公立小学校はそのちょうど中間にいる。
例えば、図工の授業はずいぶんと変わってきた。
文科省の指導のもと、鑑賞の授業に力を入れ、ずいぶんと変革されたのがもう10年くらい前だ。
文科省は、「生きる力を本人が手にすること」を標榜して、鑑賞の授業をがらりと変えてしまった。

そのため、ゴッホとかピカソとかの名作の名前を覚える授業ではなく、
「自分がその絵を見て何を語ることができるか」を重視する授業に変えられてしまった。

つまりこれは、起業家を育成する方向である。

また、国語や社会も従来とは変わってきている。
歴史だって、こうなってこうなってこうなった、というあらすじをとらえるだけでない。
どうしてこういう現象が世の中に起きてきたと思うか、自分なりのとらえや発見を語れるようにする。だから、子どもたちは、授業になると書いたりしゃべったりが、忙しい。

覚える、というよりも、いかに自分の意見を持つか。

時代は変わり始めている。

文科省はこういう方向にずいぶん前にかじをきり、進めよう、進めよう、としている。
ところが一部、抵抗勢力がいる。
それが、親だ。

親は、自分の子どもに、

「従来の企業に就職しておとなしく首にならぬように長く勤められるように」

と考える。

だから、子どものテストの点数に目を光らせ、もう覚えたか?と聞く。


ところが、学校は、次のようなことを子どもに聞く。

きみは、どう思うの?なぜ?なるほどーふーん。
どうしてそう考えたの?その意見の参考にしたものはある?
どんな本を読んでそう考えたの?友達の意見で参考にしたことはある?
そう考えるとどんないいことがあるの?
そこから発展させてさらに考えたいことは?それは世の中のためになりそう?
世の中にはそれとは逆の考えもあるけど、反対意見についてはどう思う?

大学入試もそうだが、高校入試も面接の比重が高くなり、面接の時間が長くなり、作文や小論文の比重がどんどん高まっている。

意見が言える子の未来は、明るい。

大人だって、大臣だって、自分の意見をきちんと伝えるのが良い。
ロシアの怪僧ラスプーチンだって、トランプ大統領だって、サラリーマンだって教師だって、誰だって、自分の意見を言える世の中が正しい。
ラスプーチン

【さかさま】長生きの秘訣は・・・

.
アメリカのテレビ局。
ある番組で、100歳を超えて長寿をエンジョイしている人にインタビューをした。

ま、どこの国でもこういう番組を、つくるみたいネ・・・。

「何をしたら、そんなに長寿になれるのでしょうか?」

そしたらそのしわくちゃのおじいちゃん、

「なんでそんなことを聞くんだ」

と、ぶつぶつ言う。

べつに怒っているわけではないんだけど、不思議そうに、逆に訊くわけ。
ところが、テレビ局の方は、はやく、答えが欲しい。
だから、話を進めようとする。
その白髪のおじいちゃんをいたわるようにしながら、タレントが聞く。

「いやいや、みんなが聞きたいんですよ。テレビに映すと、スタジオで、みんながそれを待っているんです」

じいちゃんは、それには、答えない。
この場面だけみると、じいちゃんが頑固に見える。

なんでこのじいちゃん、聞かれたことに、答えないんだ?素直じゃねえなあ、このじいさんは!

・・・とか、思っちゃう。

だって、すぐに答えてあげればいいのに・・・って、ね。

たとえば、

「わしは毎日、散歩をしているからのう」

でもいいし、

「わしは毎朝、ヨーグルトを食っておるし、それを20年続けているんじゃよ」


とかね。

視聴者は、そういう返事が欲しいわけ。
まったく、視聴者の期待に、応えてくれないの。このおじいさん。・・・ったく、頑固だよね。
融通が利かないというか・・・。



ところが、事件は急展開する。

インタビュアーのタレントに向けて、じいさんが、かます。

「じゃ聞くが、お前さんは、長生きできると思うのか?」

「いや、私は無理ですね。たぶん。(スタジオ爆笑)

「なんでそう思う?なんで自分は短命なんだと思うのだ?」


じいさんの目は、なんだか眼光がするどい。
玄関で、杖を持ったまま、でかい声で話す。
タレントは、少しうろたえながらも、

「いやあ、生活が不規則ですしね。夜遅くまで起きていることが多いし。・・・それに、たぶんあまり食事もヘルシーじゃないから」

「じゃ、わしの答えは、その逆じゃ。わしはそういうことをしてこなかったから長命なんじゃ。わかった?」
(スタジオ、シーンとした後、一部、ヒュー!という歓声)

インタビュアーが、もっと情報を引き出そうとして、

「ああそうですか、そういうことを気を付けていたら、長命になれるんですか。なにかこういうことをした方がいい、ということはないでしょうか?」

じいちゃん、顔の前で手をひらひらさせながら、Ah、「ないよ」
って。



インタビュアーは必死に食い下がる。

「すみません。なにか運動はしていらっしゃいますか?」

「太極拳を少々な」

「おお!太極拳をすれば、長生きができますか?」


「もう20年以上、まともにやってないから、わからんよ。そんなこと」


(ズコッ!)・・・太極拳以外には、なにかやっていらっしゃらないんですか」

「社交ダンスか・・・」

「おおお!!!社交ダンスをしてるんですか!」

カメラに向かって、目を丸くして驚くタレントの顔がアップになって映る。


「でも、もう40年以上してないよ」


(ズコッ!!)今、なにかしていらっしゃることはないですか」

「むしろ、しないように、と気を付けているな」

「そりゃ、いったい、なんです?」


爺さん、目を輝かせて、言い放つ。

「お前さんが、短命の原因と思うようなことを、しないのだあ!うわっはっはっは・・・」


爺さんはその後、妹さんの農場まで散歩⇒そのまま泊まる⇒トマト食べる⇒羊肉を食べる⇒寝る⇒ビリヤードをやる⇒・・・

なんか、そんな感じ。


なんでこう、世の中はサカサマなんだろう、と思うことばかり。

しようしよう、と思うとうまくできないのに、
『しない』でいると、うまくできることがあって・・・。


逆さまだねえ。



逆さま、というので思い出す。
さだまさしさんがコンサートで言ってたこと。

死んじゃったばあちゃんが好きで好きで、夢で逢いたい、おばあちゃんが夢に出てきてほしい、出てきてほしい、と願っていると、出てこない。

で、観念して、あきらめて、心が、そこから離れたな、というときに、

もうあきらめてから、ようやくホッとしたように、おばあちゃんが夢に出てくる。

どうも、脳みそがそうやってバランスを取ろうとしているかのようだと、さだまさしさんは、振り返っている。


人間の思考は、かなり逆さまのようで・・・。

ぬこ

かくれんぼが苦手な子

幼稚園の先生と懇談する機会があった。
ある年配の先生が、

「かくれんぼ、今の子たちはやりたがらないですからね」

というセリフがあった。

話はいろんなふうにそこから変わっていったのですが、
わたしはそれが妙に気になりました。

だって、かくれんぼ、楽しいじゃないですか。
どうしてやらないんでしょうかね。

その先生が言うには、

「かくれても、すぐに出てきちゃうんですよ。隠れているのがいやというか、無視されているような気がしてしまうのではないかと思いますね」

とのこと。

なるほど。ほっとかれている感じがしてしまうのか。
無視されているんじゃないか、ということが気になると、もうすぐに「ここだよ」と出ちゃうらしい。

そして、もう一つは、鬼になった子も、ぜんぜん気乗りがしないそうである。

「鬼になった子も、ぜんぜん探そうとしないし、ただ突っ立っているだけで何もしない子もいます」

これは、いつも探し物をするとき、親が探してしまうか、もしかしたら「探し物」が悪いことのようになっていて、ものをどこかへやってしまって探すとなると、たぶん嫌な感じで、家じゅうの雰囲気が悪くなるような感じで、探すからかもしれない、と言っていた。

「つまり、探すのは人生のロス、という感じでしょうか」

そういうことを学習していれば、そりゃあ、他の子を探すのなんて、苦痛にしかならないよ。

その懇談の場では、その程度のことで終わったのですが、ね。
わたしは、どうもそこが腑に落ちずに、帰りの車の運転をしながらも、けっこう長い間、このことを考え続けました。

『探し物』にたとえ悪いイメージがあったとしても、かくれんぼがきらいになるかなあ。
だって、物がなくて困っていて、それで親に怒られながら探すのと、
こうやって仲の良い友達と隠れあって、お互いにそれを探し合うのとでは、まるで雰囲気も違うように思うんだけど。

鬼になって突っ立ったまま、何もしなかった子って、要するにルールがわかってなかっただけなんじゃないのかな。

・・・まあ、それでも気にはなるね。
だって、隠れている子を探そうね、といって、あっちかな?こっちかな、と探すんだよってことくらい、どんだけぼーっとした子だって、わかると思う。

幼稚園の先生は、こうも言っていた。
園庭でかくれんぼが苦手のようだから、園のプレイルームに跳び箱だとかいろいろと隠れる場所までつくってやっても、みんなそれほど熱をあげない、のらしい。

「要するに、見えないものを探す、ということは、昭和の世代ならファンタジーであり、冒険であり、発見の喜びをもたらす遊びだったのですが、令和時代のあたらしい人類にとっては、なにかを探すなんてことは、興味関心の湧かないことなんですかね」

・・・だって。

ただ、かったるい、というだけか?

ふりかえると、隠れる、ということは、かなりの知的な活動であったように思う。

わたしが小学校3~4年生にかけて、まる2年間かけて、毎日のように遊んだ「ポコペン」という遊びは、ジャンルとしてはかくれんぼの発展形であった。
そして、ものすごく高度な、狩猟感覚、逃亡感覚、跳躍、すり抜け、だまし、などのテクニックを磨かなければならなかった。なんとも野性味のあふれるスポーツであった。

狩るか、狩られるか。
仲間を信頼するのか、それとも裏切るのか。
本気で悔し泣きをし、仲間との意思疎通がうまくいったときは、とびあがって喜んだ。

現代っ子にとっては、そんな古典芸能は古臭いばかり。
デジタルで遊べばそんな苦労はしなくてもいいわけだ。
池田さんちのおばさんはうるさいから、台所の横を通り抜けるときには音を立ててはいけない。
しかし、基地に行くには池田さんちの台所の下の抜け道を通るのがもっとも速い。
だから、決定的な勝利をおさめるには、義経レベル、ひよどり越えレベルの精神力と胆力が必要であった。

池田のおばちゃんに怒られるか、それとも仲間の窮地を救うのか・・・。

まあ、本当に苦労したからなあ。
おかげで自分の足が遅いことはよく自覚できたし、足の速いSくんのことを尊敬できた。
あと3cm動けば、敵に見つかる、という、「自分のつま先が敵から見えているかどうか」の判断も、的確にできるようになった。

その辺の身体感覚のするどさを、今さら力説したとしても。
今のデジタル社会には、そんなの関係ないものね。
一人に一つ、アイパッドが配布される時代だもの。
かくれんぼなんて、そのうち、急速に、気が付いたら「昔の遊び」になっちゃってるだろうネ。

「なにそれ。その遊びのどこが、おもしろいんですか」

とか、令和生まれの子から、冷静に指摘されそう。
で、悲しいのは、それをうまく解説したり表現したりして、伝える言葉を、われわれがあまりもってなさそうなこと。昭和の言葉でそれを言っても、その言葉そのものが伝わらないだろうし、もはや「冒険」という言葉そのものが、デジタル庁の時代には、画面の中のことだろうし・・・。

asobi_kakurenbo

【星新一風・短編小説】謎の曜日

S氏は小学校の教員だった。
土日にはわが子が通っているサッカースクールの遠征に他県まで付き合い、疲れて帰宅する。
「明日からまた授業か・・・」

さて、場所は変わって、小学校。
授業が終わって放課後、職員室で深いため息をつく。
「月曜日なのにこの疲労感か。なんのための休日なんだろ」

それを聞いた同僚のN先生が同意する。
「ほんとよねえ。月から金まではクラスの子たちを世話する。土日はわが子の世話。まったく気の休まらない毎日だわ・・・」

次の土日もまた遠征。
今度はちがうサッカー場。
試合後、息子のユニフォームやスパイクを車に積みながら、S氏はため息をつく。
「今日はまた遅くなりそうだぞ、こりゃ」

サッカーの試合を終えて、高速道路をとばし、帰宅する。
すでに後ろの席で眠り込んでいる息子の寝顔を、バックミラーで見ながら
「明日からまた授業か」
とつぶやく。
S氏にとっては、休んで良い曜日など無いのだ。


ところが、だ。

次の朝、起きてみると、なんだか目覚めがちがう。
ふしぎと身体が、休日の朝を迎えたかのような感覚を覚えた。

「あれ。今日は月曜日だよな。出勤しなきゃ」

慌てて着替えてリビングへ行くと、まだ着替えてもいない妻がいた。
パジャマ姿のままだ。
ぼうっとして、冷蔵庫の扉に手をかけたまま、立ちすくんでいる。

「なんだ、そんなところで。今日は月曜日だぞ」

「そうよねえ」
妻の目が定まらない。
「わたしも月曜日だと思って、朝食をつくりにきたのよ。でも、こうやって冷蔵庫の前に来たら、なんだかどうしても、今日が休日だったような気もしてきたのよ。どうしてなのかしら」

妻にそういわれると、そういう気もしてくる。
「あれ。おかしいな」
妻の口から「休日」という言葉が出てきた瞬間、自分の脳裏に
「そうだ、今日は休日だったはずだ」
という強い感覚がよみがえってきたのだ。

「あ、そうだった。なんだっけ?祝日なんじゃなかったっけかな?」

そういって、リビングにあるカレンダーにふと目をやって、驚いた。

カレンダーの今日の日付が、おかしいのだ。

「あれ?今日は8日のはずだが・・・」

カレンダーに目をやる。
「たしかに昨日は・・・7日の日曜日だったよな」

きのうの日付け、7日の場所にはS氏の手で、マジックの赤い丸が書かれている。
そして、「Y県I市へサッカー遠征」という字がはっきりと。

しかし、その隣の今日の日付け、8日が見当たらない。
ちょっと待てよ?あれ、どうしたんだ?なにかがおかしい・・・。

良く見直してみると、7日の隣にうっすらと7の字が消えかかったようになった別の字が印刷してある。あきらかに、印刷ミスのように見えた。

「あれ。このカレンダー、まちがっているんじゃないか」

もう一度、目を凝らしてしっかりと横の方をみてみると、ちゃんと次の日が8日で、しかも月曜日だ、という枠があった。
つまり、今日を示す曜日だけが、不自然に増えているのだ。

ええーっ。どうなっているんだ。

サッカー部の息子が、起きてリビングへやってきた。

「お父さん、今日は学校、あるんだっけ?ないんだっけ?」
「なに寝ぼけたことを言っているんだ、昨日が日曜日で、今日は月曜日だろう。学校のしたくをしなさい」
「あれー。やっぱそうか。なんか、今日が休みだったような気がして・・・」
「おいおい、お前までおかしなことになってないか」

やはり。なにかがおかしいようだ。
S氏はそういいながら、思い出そう、思い出そう、としていた。
「今日が休みの日である理由。なんだっけな。祝日なのか、どうだったっけ」

しかし、そうやって思い出そう、思い出そう、とすればするほど、笑いたくなるくらいに、今日が休みの日だろう、という感覚がはっきりしてくる。
もはやその感覚は、どうしようもなく確信に近づいていた。
「なにか理由は忘れたが、どうやら今日は仕事にはいかなくてよい日だった気がするぞ。なんでだったかは忘れたが。しかし、どうにも気になる。いったい今日は何の日だったのか・・・」

S氏は椅子に腰を掛け、テレビをつけてみた。

テレビのキャスターが映り、ニュースをやっていた。
「あれ。ふつうだな」

S氏が言い終わらないうちに、キャスターが緊張した表情で言い始めた。

「たしかに、今日は何曜日だったのか、さきほどからみなさんにお伝えすることができていません。番組にはさきほどからたくさんの視聴者の皆様からの問い合わせが相次いでおります。ただいまも、お電話が鳴りっぱなしです」

テレビの画面の右端には、時刻が表示されている。
それはいつもと変わらない。
しかし、いつもテロップとして出ているはずの、曜日のところだけが、抜けていた。

「ええ、スタジオも混乱しております。現場の誰も、今日が何曜日だったのか、覚えている者がおりません!」

S氏は立ち上がって受話器をとり、職場の電話番号を回した。
しばらくたって、教頭が出た。

「あ、教頭先生でしょうか。おはようございます」
教頭はぶぜんとした声で言った。

「S先生ですか。S先生も分からないんですか!」
その声の調子から、S氏は目が覚めたようになった。

「あ、今日はやはり、出勤日でしたか。しまった。急いで学校へ向かいます!」
「来るには及ばん」
教頭はぶっきらぼうに言った。

「今日が何曜日なのか、さっきから保護者からの問い合わせが続いている。しかし、わたしもそうだが、誰もそれが分からんのです。一応わたしは学校へ来てみたが、他の先生はだあれもここには来ておりませんぞ」
「校長先生はごぞんじないですか」
「校長先生も、さきほど、今日は休んでもいいはずだ、理由はわからんが、とおっしゃって電話を切られた」

なにがどうなっているんだろう。

テレビ画面では天気予報をやっていた。
週間天気予報が映し出されたが、今日のところだけ、曜日が書いていない。明日が8日で月曜日だ、ということだけははっきりと書いてある。

「いったい、今日って何曜日なのかしら」

妻があくびをしながら、また言った。

「月曜日でないのなら、もう一度寝てもいい?」
「まったくのんきだなあ。もしかして月曜日だったらどうするんだい?」
「だって、今の天気予報だって、あしたが月曜日って言ったじゃないの」
たしかにそうだ。じゃあ、いったい今日は何曜日だというのだろう。

テレビでは首相が映し出された。
首相官邸の前にはすでに多くのマスコミが詰めかけ、押すな押すなの騒ぎだ。
マイクを何本も突き付けられ、困惑した表情の首相が言った。

「我が国では、突然今朝、今日がいったい何曜日だったのかが判然としない状況となりました。国中のどのカレンダーを見ても、カレンダーと言うカレンダーがすべて、今日をうまく表示できていない、という報告を受けております。外務省を通じてワシントンやロンドン、パリ、モスクワや北京とも連絡をとりましたが、どの国でも本日が何曜日であったのか、不明という状態であるようです。したがって、本日は・・・」

マスコミの記者たちがいっせいに前に体を寄せる。
そして、首相の顔の前のマイクをさらにグイっと前へ押し出した。
いったい、今日が何曜日だというのだろう。

「本日が何曜日かということですが、個別の案件にはお答えすることを控えさせていただきます」

マスコミから怒号が飛んだ。
「国民はみんな知りたがっています!」
「そうだ!学校だってJRだって、曜日で動いているんです!」

首相は再度、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
そして、なにかを言おうとした。
カメラがさらにその顔をズームにし、記者のマイクが詰め寄った。

「まったく問題ありません。以上。通してください」
「首相!こたえてください!」

首相は仏頂面のまま、車に乗り込もうとした。
マスコミの記者たちがそうはさせまいとして道を阻もうとする。
屈強な体をした黒服のSPたちが、首相のまわりを囲んでもみあいになった。

記者が叫ぶ。
「国民の生活を無視するつもりですか!」
首相がSPの体の向こうから、ひょいと首だけ出して言った。
「その指摘は全くあたらない。粛々と進める方針は、いささかも揺らぐことはない」
「進めるって言ったって、今日が何曜日なのかが分からなきゃ、進めようがないじゃありませんか!」

首相はなにがおかしいのか、顔の下半分で笑み浮かべたまま答えている。
「よく意味がわからないというのが率直なところ。はい、はい、そこを通して!」

女性の記者が金切声をあげた。
「国民の生活なんかどうでもいいというのですか!国民にとっては大事な案件ですよ!」

首相はもはや眠たそうな顔にさえなっていた。
「ああー、まったく問題がない、と言っておりますぞ。レッテル貼りはやめていただきたい。」

テレビの中継は、そこで切れた。

画面がキャスターのいるスタジオに戻ると、困惑したキャスターが続けた。

「今日はいったい何曜日なのか、世界中が曜日を失って、途方に暮れております。わたくしどもは番組を続けますが、曜日が失われた以上、世界中で混乱が予想されます。どなたも冷静になりましょう。非常事態とも言うべき状況です。」

見ると、画面の右上に、巨大なテロップが出た。

「謎曜日」

「へええ。今日はなぞ曜日か。なぞなぞみたいで面白いね、お父さん」
隣で見ていた息子が言った。
「たぶん、学校、ないよね?」
「ああ。たぶんね。」

S氏はぐいっとのびをした。

学校はこの調子では、休みだろう。
妻はもう2階に上っていった。もう一度寝るらしい。

「ねえねえ、お父さん、曜日がなくなったらどんなふうに混乱するの?」
「うーん」
息子はなんだか楽しそうに聞いてきた。

S氏は庭を眺めた。

「混乱、ねえ」

太陽はふつうにのぼり、あさの光が庭を照らしている。
道の向こうの畑には雲雀(ひばり)がいて、鳴いていた。
しずかに、風がそよいでいる。

「べつに混乱など、しちゃいないな」

息子がテレビのチャンネルを次々に変えながら、

「謎曜日♪、謎曜日♪」

と口ずさむのが聞こえた。

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