30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年09月

評価って何だろう~自問自答シリーズ~

算数の授業中に、それは突如として訪れました。

「評価」ってなんだろう、という問いです。

正しい評価ってなんだろう、というのは、いつも教員についてまわる「自問」です。

今、5年生は分数の足し算引き算を学習しております。

ご存じの通り、分母が異なる分数の場合は、ちょっと計算がやっかいですな。

つまり、分母を同じ数にしておかねば、計算がスッとはできません。

そう、「通分」をしてから、足し算引き算をするわけですね。

ちょうどその「通分」をどうしてするのか、というところをあれこれと子どもたちと悩んでいる途中、ある児童がですね、

「通分考えた人、あたまいいー」

と面白いことを言ったわけです。

わたしは通分を人類ではじめて考えた人がだれか分からないのですが、

まあ、分数、というものを考えた時点で、通分、ということはそこから自然と導き出されるものでしょう。2分の1という大きさは、4分の2、と同じ大きさなのですから。分数がそういう定義である以上、通分、という仕草は、算数の数理の世界には、当然のように現れてくるのでしょう。

ところが、その子は、だれかが異分母の加減算をするために、

「通分」

を発明したようにイメージしたのです。
そして、「すごい!」「この人、天才か」と思ったわけですね。


クラスの仲間もわたしも、
「そうじゃないでしょ。発明したとかじゃないでしょ」
と思いました。

それでもその子が、
「通分」という数理計算上の工夫?について、「スゴイ」と感動した、高評価を出した、ということが面白くて、ちょっと教室に笑いが起きました。

わたしはそのときに突如、モディリアーニを思い出して、ちょっと算数なのに、モディリアーニの話をしちゃいました。

モディリアーニはご存じのとおり、イケメンのイタリア人画家で、生前はあまり絵が売れずに世間的にはほとんど話題になることなく死にました。

ところが、そのモディリアーニを評価する人物が新聞にその記事を書いたり、少数のパトロンたちが運動をしたりして、それをもとにモディリアーニは世界でも有数の画家となるのですね。

わたしは幼いころ、名古屋市の美術館がモディリアーニのおさげ髪の少女を買ったためにモディリアーニを知り、父も好きで良く模写をしていたことからそのちょいと変わった作風が好きでありました。

わたしがモディリアーニを現在こうして楽しめるのは、当人のモディリアーニのおかげでもありますが、やはりそのモディリアーニの絵の価値を知り、その価値を認めた人がいたからですね。

画家はそういう人が多いですね。ゴッホもそうだと聞いたことがあります。

少数でもパトロンがいて、その絵の価値を正しく見てくださらなかったとしたら、私のような大陸から離れた島国に住む東洋の人間が、彼らの作品を見て楽しむことなんてできません。

つまり、「正しくその価値を認める」ということには、かなりの価値がある、ということです。
価値を認める能力にこそ、価値がある、というわけです。

となると、「通分」の良さをきちんと指摘して感動すらできた、という、この子のセンスは、まったくもって素晴らしいわけですね。価値を認める能力が、ある、というわけで。

わたしは子どものころ、通分に感動したかというと、まったくそんなセンスは持ち合わせておらず、ただひたすら

「算数なんて、くだらないなあ、ちっ」

としか思っていなかったと思います。

そういう私が、くだらなかった、のですな。よくあるパターンです。

osagegami

ねこの気持ちは自分の気持ち

ネコは何と言っているのか、考えていたら、

嫁様が横から

「おなかへってんじゃないの」

という。

こういう場合は、あれですね、つまり

嫁様がおなかをすかせている、ということが多い。

案の定、嫁さま、やおら立ち上がって

「おーい、猫さん。かりかりだすよー」

と言って皿に餌を少量足した後、

「わたしもおなかへっちゃった」

自分も冷蔵庫を開けておりました。


こういうの、心理学でなんてんだっけな。
たしか、心理学の教科書にも、説明がありましたね。
万人に共通の心のはたらき であります。

ネコをみて、「この猫はさびしそう」と指摘する人がいたら、
たいがいの場合、その人がさびしさを抱えております。
自分の心を、あたかも猫がそうであるかのように、見るのです。
心理というのは、どうもそういうものらしい。

ロールシャッハテスト、というのがあります。
インクの滲み、のような図柄です。
ご存じの方も多いでしょう。

chou-cho


これを見ると、いろんな感情が湧き出てきますので、それを自由に話してもらいます。
まあ、この模様は偶然できたものなので、まったく意味はありません。
しかし、この意味のない記号、サイン、図柄を見ただけで、人間のこころというのは、自由に想像力をともなって、生き生きとはたらきはじめるわけです。不思議です。

そこに父親の顔を思い浮かべる人もいれば、強い悔恨の気持ちが浮かんできたり、無邪気にはしゃいだ子ども時代を思い出す人もいます。なんにせよ、自由なのです。人の思念と言うものは。

人間は、人の行動を見て、あれこれ、と思いますが、
そのほとんどは、自分のこころの状態を解説するものとなります。

例えば、
他の人がしかめつらをしたのを見て、あの人は失恋したんだ、と思うとします。
実際は、彼は朝食べた魚にあたって、ひどく体調が悪いだけなのですが、
「ああ、きっと彼は失恋したばかりなのだろう」と考える人は、自分にとって、「失恋」あるいは「恋愛感情」というものが、とくに重要だと思える精神状況なのでしょう。

つまり、Aというものを見て、Bだ、と答える人にとっては、
B、というものがただいま現在、とくに重要な事柄なのです。

Aをみて、Cだという人にとっては、その人の人生において、今現在Cが重要だというわけです。


つまり、この猫、はらへってんじゃないかな、というとき、

人は自分が腹をすかせている、というわけです。

このことを、テレビのコメンテーターは、自覚すべきですね。

テレビを見ると、よく、コメンテーターがしゃべっていますね。かなり気軽に。
最近話題になっている芸能人のことを、あれこれと言いたいことを言っています。
そして、かなりの程度、それは自己紹介になっていることが多い、ということです。コメンテーター自身の心理状況を、自白していることが、往往にして、ある、ということですな。

これはもうそっくりそのまま、教師にあてはまります。

「この子、ぜんぜんいうこと聞かないし、わたしのこときらいなんじゃないかな」

それは、その子どもが教師をきらっているわけではなく、

大概の場合は、教師である自分がその子のことを気に入っていない、ということなのでしょう。

monasama

ねこの気もち

秋の朝、(今日ですが)

のろのろと起きだして、軽くトーストを食べたあと、
庭をながめていると、猫が歩いてきました。

その猫の顔を見ていると、なにやらわたしに話しかけているようです。

たまにありますね、こういうこと。
ネコが、俺に向かってなにか、話してるんだろうな、ということが。

ネコがなにやら真面目な顔つきで、ふにゃふにゃ語りかけてくるのです。

ふつう、ネコは通常、あまり視線を合わせてきませんね。

失礼だと思っているのか、直視してきません。

ところが今日は、直視も直視、真剣なまなざしでなんとまあ、にゃあにゃあと。

このとき、わたしは自問自答をはじめました。

この猫さんは何をしゃべっておるのか、と。

どうしてしゃべりかけたのか、と。

なぜ今朝にかぎって、真剣なまなざしでこちらを見つめるのだろう、と。

なぜ視線を外さないのだろう、と。

わたしになにか忠告をしているのだろうか、と。

それとも助けを求めておるのだろうか、と。

それともただ、からかっているのか、そうしたくなっただけなのか、と。

わたしはなんとまあ、たくさんの自問自答を繰り返したことでしょう。

で、わたしがすぐに思ったことは・・・

このブログにわたしが考えた思考プロセスを、書きたくなった、ということでした。

やはり、このブログはこのタイトルにして正解だと思いましたね。改めて。

今日はそれだけ、です。

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ブログのタイトルを変えました~

ブログのタイトルを変えました。

『新間草海の!!自問自答ブログ』です。

突如、自問自答という言葉がぴんと来まして・・・。



先日、わたしが教師になりたての頃の、今から14年も前の、このブログの記事をみて、問い合わせがありました。

その方は何度も教員採用試験を受けている、わたしと同じような境遇の「転職サラリーマン組」の方で、このまま教員を目指すべきか、やめるべきか、と悩んでおられました。

人生、なにかを辞めたり、終わらせたり、というのはタイミングの取り方が難しいですね。
日本人の癖で、「あきらめる」ということが、ちょっと否定的にとらえられがちですから。

当時のことなんて、あまり覚えていないので、きちんとその方の希望する回答ができなかったので申し訳ない気持ちです。
教師になりたいという方がけっこうな数、このブログを読んでくださることがありがたいです。
そういう方が、

「なぜブログをはじめられたのですか」

とお尋ねだったので、なんでだろう、と自分でも考えているうちに、

要するに、自分は、『自問自答』が好きなんだろう、というしか答えが見つからないことが分かりました。

まあ、率直にいえば、「癖(へき)」ですね。

どうしようもない。
変えられません。癖なんで。

また、先月でしたでしょうか、若いころにお世話になった人生の大先輩が本を出版されたのですが、その方も、ずーっと、「自問自答」を続けておられて、刺激を受けました。

なんで自分はそう思うのだろう。
なんで自分はそれらを知りたいのだろう。
なんで自分はそこに興味を持ち続けるのだろう。


自分自身が「そうなってきたこと」「そうなってあること」への、解明がしたくて仕方がないのです。

つまり、自問自答、ですね。


人は誰でも、日々頭の中で、自分自身に問いかけ、自分で答えるという作業を繰り返しています。
その数はなんと毎日3万〜4万回と言われています。

その自問自答のプロセスこそが思考といわれるものです。通常、この自問自答は心の中で無意識で行われますので、自分では認識していません。でも、この無意識でしていた自問自答は、意識的にすることもできますね。

わたしはブログをはじめて十年以上経つわけですが、週末にブログを書くために、おそらく月曜日の朝から、自問自答を繰り返しております。

一週間、ありとあらゆることに自問自答を繰り返しながら、結局自分なりに出した「解」を、整理したくてここへこうやって書いているのだろうと思われます。

となると、このブログの正直なタイトルは、

新間草海の「自問自答」

と、こうなると思ったわけです。

冒頭の、教員採用試験にいつまでチャレンジするべきか、と悩んでおられた方も、
自問自答を続けているわけです。
人生において、いちばん必要なのは、自問自答する技術なのかもしれません。
ただしく、自問自答する術(すべ)、というべきか。

では、タイトル以外はそれほど変わりのないブログで、
まだまだ「自問自答」を続けますよ。

どなたもどうぞ、かっぱえびせんをつまむかたわらの気分で、おひまつぶしにご覧くだされ。

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【ついに】『ごはん論法』が教室でも!

ごはん論法、という言葉はどれほど一般的か、分からない。
わたしもたまたま姉との会話で教えてもらっただけで、ふだんからニュースもテレビも見ていないから、ちょっと知らなかった。

ちょっと調べると、こんなふうに紹介されている。

ある言葉にAB二通りの意味がある場合、どちらの意味であるかを明らかにせずに、その言葉を使い、Aだと思わせておいて、あとで、都合が悪くなると、AではなくBの意味で使ったのだと居直る論法を「ご飯論法」という。【文春オンライン 池上彰「WEB 悪魔の辞典」】

以下が、いわゆる「ごはん論法」である。
Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」

Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

Q「では、何か食べたんですか?」
A「お尋ねの趣旨が必ずしもわかりませんが、一般論で申し上げますと、朝食を摂る、というのは健康のために大切であります」

Q「いや、一般論を伺っているんじゃないんです。あなたが昨日、朝ごはんを食べたかどうかが、問題なんですよ」
A「ですから・・」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。ご飯、白米ですね、それは食べましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の食生活をすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、大臣としての業務に支障をきたしますので」

これをこのまま教材にしたら、子どもにとってはとても学習しやすいと思うが、ときの大臣の答弁のひどさを指摘して作ったものだから、ちょっとまずいかもしれない。

ごはん論法には、2通りの種類がある。
1)意味の縮小ではぐらかす
2)意味の拡大ではぐらかす

実際に起きた国会での答弁がきっかけで作られた『ごはん論法』は、上記のタイプでいえば、縮小タイプである。
ごはん、というキーワードが(白米)も(パン)も含むのに対し、わざと(白米だけということに縮小)して答弁しているのだ。
これは、悪いことをして、それをなんとか隠さなければならないという場合に使用する。

2つめの拡大タイプとしては、こんなのが考えられる。

Q「昨日、ちゃんと診察してもらってきたの?」
A「ああ、病院ね、昨日ちゃんと行ったよ(友達のお見舞いをしただけだけどね)」

Q「悪いところや気になるところ、全部お医者さんに診てもらってきたのね?」
A「全部といわれても、身体のことだから全部ってどこからどこまでか」

Q「診断はなんて言われたの?」
A「診断っていうかどうかちょっと分からないが、お医者さんとは話をしたから(あいさつしただけだけどね)」

Q「いや、きちんと病名を教えてほしいのよ。おじいちゃんが昨日、病院でなんといわれたかが、問題なんですよ」
A「だから、お医者さんの顔をしっかりとみて、ちゃんと話はしてきたって(偶然そこにいた医者にあいさつしただけ)」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。お医者さんとはどんな話をしたのですか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私のその時のセリフをすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、もう記憶が定かではありませんので」

これは、病院へ行く、という言葉が、ほぼ「診察を受ける」という意味だとして話をしているのに対し、わざと「お見舞い」もその意味に含めるようにして意味を拡大している。

この「意味の拡大は、ごはん論法の用法としては第二用法ともいうべきものである。
先に述べた縮小タイプなにか悪いことをしちゃったという場合に使われるのに対し、
拡大タイプは、やらねばならない重要なことをしていないという場合に使われることが多い。


なぜこんなことを考えているのかというと、もうすでに、小学校の教室に、この『ごはん論法』(主に第二用法【拡大】)が姿を見せ始めているからだ。

それは、『宿題をしました論法』である!!

Q「宿題をしましたか」
A「宿題はしたよ(算数はしていないけど、音読はやったもんね)」

Q「全部したのですか」
A「全部といわれても、ちゃんと正解したかどうかまでは分からないし、中には分からないものもあったから・・・」

Q「では、なにかやれなかった宿題があったのですか」
A「なんで先生がそれを聞くのかちょっと分からないけど、ぼくは勉強はやっぱり大事だと思っています」

Q「いや、一般論をきいているのではないんです。あなたが昨日、宿題をやったかどうかが問題なんですよ」
A「だから、宿題は大事だし、勉強も大事だということは重々承知をしております」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。放課後、うちに帰ってからの学習ですね、それは何と何をやりましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の家での生活ぶりをすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、生徒としてのプライバシーに支障をきたしますので」

これは隠ぺいのタイプとしては、
〇しなければならないことをしていない場合
だから、【第二用法】である。

全国の小学校の先生がた!!
事件ですぞ!!

わたしの勤務校では、
ほぼ、これに近いことが起きたらしいです!
(隣のクラスの先生談)


そのうち、
〇悪いことをして隠ぺいしたい場合
の【第一用法】も出現するかもしれない。


ごはん論法

大リーグボールから『禅』へ

先日、いきなりだしぬけに巨人の星を思い出すことがあり(※前記事参照)、あれこれとこの連休中に自宅で思い出にふけっているうち、妙なことを思い出した。

それは、『逆説』ということである。

つまり、世の中にはやけに「逆が真なり」ということが多い。

わたしは人生のかなり初期の段階から、なんでこう、常識とはまったく逆さまだと思えることが、世の中には多いのだろうか、と不思議に感じていた。

きっかけは、
糸川博士の「逆転の発想」を読んだことだったかしらん。

高校生時代にこの古い本をなにげなく古本屋で手に取ってみると、なかなか暇つぶしとして面白かった。ためしに近所の同級生で、同年代では随一の読書家であった山田くんに「読んだ?」と聞いてみると案の定読んでおり、彼もまた「常に、真実は逆にこそ存在するのであるナ」と喝破したので驚いた。

ちなみにこの山田君は政治家の秘書になって裏から政界を操作してやる、と中学生のころから息巻いており、実際に現在は内閣の裏方をどうやらしているらしいから、一度かたく思い込んだ、人間の怨念と言うのは恐ろしい。彼は中曽根首相の悪口を当時から「中学生がここまでいうか」というくらいに語っていて、その内容はわたしにはちんぷんかんぷんであったが、中学生のくせに日曜日になると父親と政治のことで午前中いっぱい論議するという彼のことであったから、それはおそらく彼の父から学んだことであっただろうと思う。

さて、逆説と星飛雄馬がいかに結びつくかについて書きますと、
やはり飛雄馬が大リーグボールのヒントを得る重要な場面でして、

〇飛雄馬がここぞと投げたボールがライバル左門(大洋)に打たれてしまう
〇飛雄馬は悩み、禅寺で座禅を組む
〇すると禅僧がやたらと警策で肩を打ってくる
〇最初、飛雄馬は「なんだばかやろう、肩ばかりねらって打ちやがって」と反感を持つ
〇しかし反感を持てば持つほど、禅僧が自分ばかりねらって打ちこんでくる
〇警策は長い木でできているが、それが死ぬほど痛い、心がイタイ
〇自分ばかりねらいやがって、と怒れば怒るほど、心がイタイ
〇しかしそのうちに心境が変わり、もうどうせなら、打たれようと思ったとたん打たれなくなる
〇不思議に思っていると、禅僧がつぶやく
〇禅僧「打たれまいと思うから打たれる。打たれようと思えば逆に打たれない」
〇飛雄馬は、ハッとしてグッとくる
〇飛雄馬は禅寺をあとにして、苔むした参道の石畳の上を歩くと、木立の間を抜けてそよぐ風や鳥までが新しい魔球「大リーグボール」の誕生を祝うかのように飛雄馬にほほえみ、語りかけてくる
ということがあったわけですな。すみませんおぼろげな記憶と多少脚色が入ってます(謝罪)

見事な逆説ではありませんか!

がんばればがんばるほど結果が得られず、すっと力を抜いたとたんにいともたやすく実現するのです。

こういうことが人生にいやに多い。やけに多い。死ぬほど多い。ほとんど世の中すべて、こういうことばかりであって、もう全体にそればかり、といいたくなるくらいに多い。

本ブログの読者諸兄にも身に覚えがあらんと推察される。

教育界での逆説と言えば、

成熟社会では、「みんな仲良し」的な教育は、逆説的なことに、人を平気で差別し、危害を加える人間たちを量産する

ということでしょうかなあ。

ちなみに、本ブログでの「逆説」に関する記事は、以下の通り。

〇叱れば叱るほど、叱る必要が増す
〇教育における逆説とは何か
〇困るとは何か

うーむ、どうも逆ばっか。この世は逆さま、というのが本当のようでありますナ。

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重いコンダラ

運動会の前日。
大勢の先生方で、校庭の準備をしておりました。
徒競走のラインを引いたり、集団種目の道具の確認をしたり、してました。

わたしもその中にいたのですが、ふと見ると、校庭に土の低い場所があるのに気づきました。
土日に雨が降り、雨水が流れたようです。

体育主任の先生もそれを見つけて
「ここ、土で埋めましょう」
と、バケツやら一輪車やらで、土を運び始めました。

それまでラインカーで線を引いてた先生たちも集まってきて、みんなで足で踏んだり、トンボでならしたりしました。

ところが、柔らかい土を盛っただけなので、そこだけ固くならない。
試しに走ってみると、足がとられて地面が削れるのです。
「これ、転んでしまうかな?」
と心配になりました。

上からしっかり、土を押し固めないと、ダメなようです。

校庭を見回すと、校庭の端、フェンスのところに、恰好なモノを見つけました。
それは、こんなやつ。
つまり、整地用手動式ローラーです。

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わたしがふざけて、

重いコンダラで、かためるしかないかなー」

とつぶやくと、若いT先生がまじめな顔で

「コンダラ・・・?ですか?え・・・」

と困惑気味に言ったのです。

わたしは

「いや、ローラーだけど、まあふざけてコンダラっていうんだよね」

するとT先生はやはり真面目です。
50のオッサンで、主任の私が、にやりともせず解説気味に言うものだから、T先生も恐縮しつつ、

「へー、なんていうのか、知りませんでした。コンダラ、とってきましょうか?」

という。

わたしはまったく、フザケ甲斐がなく、なぜそれを【コンダラ】というかを解説する気もなくなって、そのまま

「うん。コンダラ、いっしょに取りに行こう」

と言って終わりにしてしまった。

いっしょに校庭の端までそのまじめな若いT先生と、ローラーを取りに歩きながら

「いや、コンダラって正式名称じゃないからネ。嘘だからネ」

という解説を、

「しよう、しよう、した方がイイ、した方がいいよな、うんぜったいその方がイイ

と思いながらも・・・すみません、

ついそのままにしてしまいました。

星飛雄馬の話をし、花形満のこと、大リーグボールのこと、養成ギプスのこと、ちゃぶ台をひっくり返す話もしたほうが良かったかもしれませんが、彼は興味はないでしょうし、グランドでいきなり歌も歌わないほうが良いでしょうからナ。

♪ 思い、込んだら、試練の道を・・・ 行くが 男の ド根性・・・

【5年社会】漁港はどこに多いのか

【指示】魚を食べたことがありますか。
食べたことのある魚の名前をノートに書きましょう。


グループで、出した意見の数を発表。

寿司を表示。

sushi

【指示】全部、言える人、挑戦してみましょう。
⇒クラスで数人に挑戦してもらう。⇒板書。

これらをすべて、水産物、といいます。
水産物を育てたり獲ったりするのを、漁業、といいます。
また、加工して売る仕事を、水産業、といいます。

【発問】では、日本の水産物の取れ高は、世界何位でしょうか。

2018年の統計で、世界10位です。
一位は中国、二位はインドネシア。

【発問】アメリカと日本では、どちらが多いでしょうか。

答えは、アメリカ。
アメリカが5000万トンの漁獲生産量。
日本は、4240万トン。
少し、アメリカの方が多いですね。
実は、以前はだんぜん、日本が多かったのですが、ここ数年でアメリカに追い越されました。アメリカの人たちも、たくさんお魚を食べるようになり、食生活が変化してきています。でも、一人当たりにすると、まだ日本人の方が3倍も多く、お魚を食べています。


さて、日本人はアメリカ人の3倍もお魚を食べますが、そもそもどのようにして魚をとっているのでしょうか。

日本の漁港の数は、全部で3000ほど。
地図上では、とくに大きな漁港にしか記号がしるされていないが、数えてみよう。

【指示】地図帳16ページをみて、漁港の印(⚓)をみつけたら全部、〇をつけてみよう。

【発問】漁港はどんなところにあるといえるでしょうか。

・北海道の右側(東)。
・東北の右側(東)。
・九州にも多い。

【発問】漁港はなぜそこに多いのだろうか。

・たくさん魚がいる?
・でこぼこしているから、港がつくりやすいから?

【指示】海流図をみて、気が付くことを発表しよう。

・親潮が魚をつれてくる。
・黒潮もある。
・九州は、対馬海流もあるよ。

【発問】なぜ地図では、海流のしるしが赤かったり青かったりして、色がちがっているのだろう?

・温度のちがい。

黒潮は幅が200キロメートルある。
深さが約、500mもある。
そこを、だいたい、人が歩くより少し速いくらいのスピードで海水が一定方向に、常に流れている。黒潮は、3年から5年すると、地球をひとまわりまわって、元の場所にもどってくる。

【発問】なぜ日本人は昔から、魚をたくさん食べてきたのだろう。

・海流が日本列島の付近をたくさん流れていて、昔からいろいろな種類の魚が豊富にとれたから。

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幻の『はごろもチョーク』

羽衣文具は、名古屋のメーカーであった。
わたしは子どものころから名古屋だったので、まあ、羽衣チョークで育った、といっても過言ではない。わたしの母校で使用されていたのも、もちろん、はごろもチョークだった。

はごろもチョークの中でも品質の高いものは、世界中で絶大な人気を誇った。
世界中の教員が、「HAGOROMO」ブランドを愛したのだ。
しかし、羽衣文具は、しばらく前に諸般の事情から廃業してしまう。
このときは、大変な「はごろもロス」が起こり、世界中の教員がその廃業を惜しんだ。

わたしの勤務校でも、やはり羽衣は使えない。いつも事務の先生が買ってくださるチョークは、他社の安めのチョークであります。まあ仕方がない。税金ですからね。

しかし、教師になりたてのころは、羽衣チョークでしたよ。
今でもなつかしく、思い出します。
事務の先生のところへ行くと、スチール棚にいっぱい、「はごろも」のマークが入ったチョーク箱がおいてあり、わたしはたまにそこからチョークをもらい受けて、教室で使ったものです。
いい感触でしたね。口の中でやさしく溶けるラムネのような。

羽衣チョークの良さは、きめが細かく、毛筆のように黒板に字が書けたことである。
とめ、はらい、はね、などのこまかいところが、羽衣チョークなら、とてもよく表現できた。
だから、『むかしの先生の方が字が上手だった』という人も、世の中には多くいるのではないかと思う。

世界中の大学で、羽衣チョークは特別に愛されていた。
羽衣文具が廃業するとなったとき、世界中の大学から注文が殺到し、多くの学者が「わたしがリタイアするまでの分を確保せねば」と考えたことが分かり、ニュースにもなった。
イギリスのケンブリッジの理化学の教授やら、マサチューセッツ工科大の数学や物理の教授、フランス、イタリア、世界中が「はごろも」ブランドとの別れを惜しんで、その様子が報道された。


さて、はごろもの品質は、製造工程にもひみつがあったが、従業員たちがもう非常に几帳面にルールをまもって仕事をした、ということにも支えられていた。
人間には、「慣れてきたことでの手抜き」というのがあるのだろうが、はごろも文具には、それが無かった。

その羽衣チョークが手に入りました。
わずかですが、はごろも文具の工場の道具を一式買い取って、つくりつづけようとしてくれた方がいたそうである。

ちょっと自分のモチベーションをあげるために、自分のエンジン回転数を高めるために、ときおり、スーパーアイテムとして使いたいと思います。

ひとは、アイテムに助けられることもある。
人間と道具、という関係は、なかなか深いものです。

「しなりある羽衣チョークを携えて三十四年の教師生活」(愛川弘文)

どうです? いい短歌でしょう。
この歌を詠んだ愛川先生は、わたしはお会いしたことはないですが、とても幸福な教員生活を送られたのだと思いますネ。

Sはごろも3

レアを選べ!

ネコの体は面白い。
チーターやライオンなど、ネコ科の動物特有の筋肉の付き方をしている。
首を動かさないで、前足と後ろ足、全身を油断なく運ぶ。
ネコは歩いていても、目の高さが動かないそうだ。だから、猫の顔や目ばかりみていると、その分肩の筋肉などがずいぶんとやわらかく上下し、しなやかに動くのがよけいに分かる。

家の猫を見ていると、
「猫の体ってのは、ずいぶんとやわらかく、しなやかに動くのだなあ」
とあこがれに似たような気持ちが出てくる。

こちらは齢50となる中年オヤジである。体がかたくて、どうにもならない。
先日は運動会の練習のため、校庭で子どもらと共にラジオ体操をひさしぶりにやったが、気持ちと身体がまったく折り合わず、リズムに合わせて一生懸命に動かしてみても、ちっとも曲がらないどころかどんどんと子どもからテンポが遅れていく始末。

「・・・先生遅いよ」

冷静にクラスのおしゃま女子から指摘を受けると、恥ずかしさで舌をかみたくなる。

ネコが、自分の体の重心を自由にあやつりながら、身体を移動させたり動かしたりする元には、丈夫でしなやかな骨格がある。その骨格に筋肉がついており、それを伸ばしたり引っ張ったりしながら稼働させているわけだ。

なぜこんなふうに意識する癖がついたかというと、先日、ある大学の教授の研究室を訪ね、ちょっと話をしたからだ。
その教授は日本でも珍しい方で、骨格標本をつくることのできる教授らしかった。この教授は骨の専門家なのであった。
私はどういう風の吹き回しか、職員の研修でこの方と会うことになった。

この教授は骨を見て毎日暮らし、骨をつくって日がな一日過ごす。
「骨をつくる」というのは、なかなかふつうの人がやることではないが、要するに動物の死骸を引き取って、そこからあらゆる骨を取り出すのである。

「筋肉が邪魔でしてねえ」

その教授は本当にめんどくさそうに言うのである。

「わたしは骨しか要らんのですよ」

教授は長年の研究の結果、もっとも筋肉を溶かすのに向いているものを発見した。それは、入れ歯をきれいにするためのいわゆる『ポリデント』という商品だそうだ。
他の化学薬品では骨が傷みやすく、ダメだそうである。

「骨までもろくさせてしまうのでは、ダメなんです。骨は残したいが、筋肉は要らん。そのバランスですよね」

教授はいかにポリデントが優秀かを力説するのである。
たしかに、教授の机の横には、ポリデントが段ボールに詰まって大量に置かれており、

「このポリデントで、次はどの骨を取り出しましょうかね」

とにこにこした。

教授はもう毎日のように骨を取り出すためにポリデント溶液をつくり、動物の死骸があると聞けば、すぐに駆けつけてそれを貰い、ひそかに大学構内の自分の研究室まで運んで、たちまちにして骨を取り出すのである。

教授の目下の悩みは、その教授が担当するゼミに、学生が寄り付かないことらしい。

「がいこつ教授、なんてあだ名をつけられましてね。たしかに筋肉を溶かしているので研究室はかなり臭いし、わたしはもう慣れっこで、その異臭の中で弁当なんかも食いますが、ひとり減りふたり減り、とうとう今在籍している学生は、校内広しとは言え、たった1人なんです。この1人が将来、あとを継いでくれる保証はなし、頭の痛いところですよ」

わたしはなぜ、この教授が大学でこんな奇人めいたことをしているのか、分からなかった。
しかし、このときに教授がこの日本でたいへんに価値の高い人であることが、判明した。

警察から電話がくるのである。
ドラマのようだが、事実なのだ。
人骨か否か。
それを正確に判断できる人間が、この世にはなかなかいない。

警察から持ち込まれた骨。
それを教授は神妙な顔つきでみる。
判断は素早い。

「ハクビシンの足の骨ですね」

警察はホッとして、深々とお辞儀をして去る。

・・・そうである。

教授はもう自分がそういうレアな人種であることを自嘲気味にほのめかして、
「ハクビシンはもう、かれこれ五体以上はポリデント漬けにしてやりましたよ」
と、口元をゆるめて言うのでありました。

わたしはその研修というには中身の濃すぎる「研究室訪問」を終えて思うのには、
「後継者問題というのは、どこにでも存在しているのだなあ」
と、深く感じいったのでありました。

骨を研究する人が、日本にはいなければならない。
それが人骨かどうかを、即座に判断できる人も、この世にはいた方がいい。
しかし、そんなレアな職業をめざす若者が、いない。

レアな方が、よいのではないか?
これからの生き方として、レアな方が、生きていく場所ははっきりと固まる気がする。
若者よ、どう考える? 将来をえがいている最中のキミは、大勢が集う道を歩くのか、それとも人がめったに寄り付かない、道かどうかもあやしいような道を、レアな人材になるために歩くのか。

わたしは、レアな道がいいような気がする。
これからの時代は・・・。レアな方が。
たしかに、レアは、たしかに見えにくい。社会からも、見えにくい。
『パッと見』では、発見されない。世の中は、その他大勢が多すぎる。
しかし、一見わからないのだけれども、検索すればたしかにヒットするのが、レアな立ち位置だ。

若者よ、レアを選べ。

人の経験しない道を行き、人の経験しない場を見て、人の経験しない体験を積め。

その教授は、たった一人の研究ゼミ生のために、弁当を取り寄せ、論文も懇切丁寧にみてやり、院への推薦も保証し、ありとあらゆる親切をはたらいているそうである。

「しかし、彼は、ここでは弁当を食わんのですよ」

教授はタイガーのポットからお湯を汲み、お茶をいれて飲みながら、ため息をつくのでありました。

いやはや、人生は深いですナ。

pori
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