30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年08月

小学生は自治体験を積むが大人になったら忘れる件


前回の記事について、BLOGのメッセージ機能を使って、コメントをいただいた。
コメントをいくつか読む中で、あらためて次の疑問がわいてきた。

大人になったら、どうして「話し合い」ができなくなるのか。

子ども時代に「話し合い」を体験し、クラスの運営について経験を積んだはずだ。
自治についての困難さもわかり、責任や言論の重さもわかったはず。
そして、なによりも、「だれかに服従するのではない自由さ」の良さ、そして「仲間とともにつくりあげていく社会のだいご味」を知った。

「自分たちが仲間であり、仲間は知恵をだしあうことができる」ということ。
そして、「仲間の知恵が危機を救い、その知恵と相手を思うやさしさが、自分をこんなにも元気にしてくれる」ことを知った。

パワハラ体質の先生の言うことに服従するのではなく、自分たちお互いを一人残らず良くするための知恵を出して、自分たちが解決していく心地よさは、なににも代えがたいことを知ったはず。

ところが、大人になるとどうしてそれができなくなるのか。

土曜日の朝から、遠くの山をみて、いろいろと思いつつ、気づいたことがある。

「大人は自治をさぼっているからだナ」

小学生は、毎日、自治を現実にすすめている。
なによりも、クラスという35~45人の組織があり、構成員はすべてが仲間意識でつながっている。一人残らず発言が許され、その発言はお互いに尊重しあって、みんなが聴きあう。

また、クラスだけのことであれば、すぐに、アイデアが生かされる。

給食の配膳に関して、疑問点が出されたらすぐにそれを解決しようとする。
解決するためのアイデアが出されたら、それをすぐに実行しようとする。
また、実行したら、次の日に「やってみてどうか」をすぐに意見交換しあう。

このくりかえしをしているから、どんどんと生活が、具体的に変わっていく。
この、ダイナミックな生活の実体験があるから、手ごたえがあるから、子どもはみんな、やる気に満ちている。だって、自分の意見がすぐに通るんだもの。あるいは、みんなが聞いてくれるんだもの。そしてどんなアイデアも、「言わないよりは、言ってくれた方がいい。どんな意見も、あとでみんな財産になる」という考えのもと、全員に笑顔で迎えられるのだから。

この自治の実態があり、それをまさに実現しているという具体的な

腹の底からの実感

があるから、子どもはみんな、自治を全身全霊ですすめている。

ところが、大人にはそれがない。
だから、大人になると、

「話し合いはダサい」

と考える人が徐々に増えてくるのではないだろうか。
そして、具体的に目の前の事実や生活のこまごましたことを話し合うよりは、なにか大きなイメージやふわふわした幻影を夢想するようになるのではないだろうか。

これを打破するには、小さな町や村などの単位での、自治意識の高揚が必要だ。
しかし一般の行政区割の上での、村や町は、すでに緻密なシステムでがんじがらめ。
だからそれ以外の、コミュニティ意識が芽生えてくるような、ゆるやかな地元意識を大切にしたつながりをつくるべきだ。
今の公民館では、なかなか難しい。今の公民館はすでに既存の仕事でいっぱいだから・・・。

今の公民館とは別の、ニュータイプの

ジェネラル・パブリックのための広場、学び舎。

これをあちらこちらに乱立させよう。

そうすれば、夢見がちな「ニッポンすごい。オレは日本人だからオレもすごい人間なのだろう」という雰囲気は解消し、足元にしっかりと根付いた、等身大の自分や、実際の自分自身の生活に向かい合い、話し合うことのできる人が増えてくるのではないだろうか。

「自治ができないのはダサい」

という雰囲気が、小学生の生活には、かなりむんむんと、ありますよ。

祇園絵

始業式も運動会もなく、過ぎていくが・・・

いちばん驚いているのは、

「なくてもいけるんやなー」

ということ。

始業式もないままでしたが、(放送で短時間、校長先生のお話がありましたが)
とくに何事もなく、ふつうに授業が始まっております。

また、運動会もやらない、ということになったままで、とくに支障がありません。
(まあ、やった方が楽しいし、子どもたちは楽しみにしていたので残念です)

学校生活としては、さまざまな行事が、『無いなら無いで』、とくに支障なく過ごせているのです。

実は昔から多くの教員が指摘していたことですが、
学校は行事が増える傾向にありました。

増やすのは、イイコトだから、やりやすい。
しかし、
減らすのは、たいへんなので、やりにくいです。

非難もくるし、するどい質問もくるし、電話もかかるし、
まあはっきり言えば、クレームが来ます。
そのクレームは、教頭先生が受話器をとって、聴かねばなりません。

「どうして組体操をやらんだ! みんな楽しみにしとるやないか!」


ネクタイをしなくなったときと同じような、あっけなさで、

運動会がなくなり、
式典がなくなり、
〇〇集会がなくなり、
あれこれがなくなりました。

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クールビズもびっくりしましたからね。
まさか、ネクタイをしないビジネスマンがでるとは思わなんだ。

古い話で恐縮ですが、その昔、半袖背広姿の大平首相が記者の前にあらわれたときは世界がひっくりかえったかと思いました。まあ、実際、その後、スーツの上着が半そでにはならなかったのですが。

oohira


そのニュースをテレビで見ていた母が

「まあ、ネクタイはなくならないと思うよ」

と言っていましたが、実際に10年以上経つと、しっかりと総務省の運動が根付いてきました。
今では、かなり多くの人がネクタイをしていません。
ビジネスマンが真夏、地下鉄の駅から地上へ出てきますが、ネクタイのない人も多いですものね。


あっけないものです。

「社会人は真夏でもネクタイをするもんやで」

と語っていた母の予想は、まちがっていたのです。

ネクタイも、組体操も、無くなりました。

で、とくに困っていません。



もしかしたら、ですが、
なくても困らないもの、というのは、たくさんあるかもしれません。

そういうの、なくなると、あっという間ですよ。
ネクタイと同じです。組体操と同じです。

べつに、なくても困らんことに、みんなやってみたら気づいたわけですね。

授業も、宿題も、そういうのが多いかもしれない。

ためしに、教師の仕事をできるだけ、減らしてみよう。
できうるかぎり、省エネルギー、省セリフ、省『生徒指導』、いるかいないか判然としない透明人間のような教師像を、ためしにやってみるのがいいと思う。

すると、実際はやらなくてもいいことが、多いと思うね。
で、そこまでやると、ようやく見えてくると思うね。

全部捨てることで、ようやく、見えてくる。
それまで見えてこなかったものが見えてくる。
いかに些末なことに日常を忙殺されていたのか、そこでようやく腑に落ちる。
これまで手を抜いてきた授業の準備、力を入れてこなかったあれやこれや・・・。
本当はいちばん大切だったこと。

「本当にやるべきことが、こっちにたくさんあったわ!」とね。

ネッシー

「頭つかって考えるとか、ダサくね?」という風潮

学校というのは、なぜこんなにも嫌われるのだろうか。

いや、わたし自身も、自分が中学生だったころの一時期、学校が嫌いだったこともある。

「頭をつかってしっかり考えたいのに、考えないのってダサいしつまらない」

と、常々、思っていた。
だから、思考停止している学校の生活が、いやだった。

どのへんが思考停止かというと、

「そうじをしろ!」

という感じかな。

ただ作業しろ、という圧迫されたような感じがしたのです。
頭はいっさい使わず、思考するのを放棄して、ただ作業しろ、とパワハラ風に迫る。
これは嫌でした。

わたしが特にいやだったのは、ただ「そうじ、やれえぇッ!!」とヒステリックに叫ぶ教師。
思考停止のように見えた。
わたしがそんな話をすると、仲の良い山田くんは、「本当にそうだ」と賛同してくれていた。
おまけに、澤井君も、吉川くんも、みんな
「そうだそうだ。あんな思考停止したアホな教師はいやだよな」 と賛同してくれた。

つまり、世の中には、「思考停止は嫌だ」と考える人が、一定数の割合で、いるようである。

しかし、だ。
逆の考え方をする人も、いる。
詳しく言うと、「頭を使って考えるとか、ダサいよね」というタイプ。 さっきとは、真逆です。
この風潮も、今の日本には、かなり多くあると思うナー・・・。

たしかに、居丈高に「気候変動がー」とか「今の社会はー」とか言う人がいて、ふんぞり返って偉そうである。高慢ちきにみえる。その人たちの特徴は、ともかく高慢な感じである。そういう人たちが、「頭を使っている雰囲気」を得意げに披露しているのを見ると、

「頭つかってしゃべるのとか、政府のことをとやかくいうのとか、ダサくね?」

と思ってしまうのもわかる。


整理してみよう。
今の世の中は、次の2つに分かれる。

1)「頭をつかわないのはダサいよな」派
パワハラ親父風が大嫌い。「思考停止」も大嫌い。ともかくまっすぐ突き進むタイプが大嫌い。
話し合いが大事で、どんなことも話し合いで進めなければ納得しない。
話し合いをしないのなら、幸せになるわけがない、と考える。
(真の民主主義でこそ幸せになる。見た目や形よりも気持ちや精神性の自由さ、豊かさが大事)

2)「頭をつかうのはダサいよな」派
高慢ちきなインテリ風の「やたら早口」で、なにかにつけて「ちゃんと話し合えばいい」というタイプが大嫌い。
話し合いだけで幸せになるわけがない、と考える。
(民主主義で幸せになるわけがない。もっと見た目や形が分かりやすく豊かにならないと)

これらの2つのタイプがいて、
お互いに、相手のことを責めているようだ。
一方がもう一方に対して、「話し合いをしろ!」と責め、
責められた方は、「話し合いをしても幸福にはならん!」とかたくなに拒む。

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本ブログの筆者であるわたし、新間草海としての見解をのべるとすると、

どちらも惜しい。

わたしは、小学生が正解だと思う。

小学生は、パワハラ親父風に結論をともかく押し付けようとする、なんてことはない。
クラス会議でも、そんなふうに押し付けて押し切っていこう、という態度をとる子は、まぁー、ほとんど、皆無です。国会議員が研修で見に来る方が良いと思うね。

もうひとつ、やたら早口で結論をまくしたてる頭よさそうなインテリ、もいません。
みんな、ゆっくりです。当たり前ですが、俺だけが正解を知っている、お前ら馬鹿どもに教えてやる、というふうな子は、一人もいません。

小学生は、ゆっくりと、じっくりと、結論を急がず、でもたしかに毎日のように前進します。
ともかく、一生懸命に考えることに価値をおくのです。そして、より良きをさぐり、まず、だれかいやな思いをしたり悲しかったりする子はいないか、と考えるのです。「〇〇ちゃんが泣いているよ、どうしたんだろ」というのは、小学校生活では本当に大きな事件なのです。

そして、結論を急げ!というような、外野の声には耳をかしません。
小学校では、締め切りがどうこう、というのはありませんから。
あわてたうえに、結論がこれだ!と興奮して思い込んで、
あとで悔やむなんてことは、人間が何度も繰り返してきたことです。

だって、思い込んで間違っていたら、引き返さなければなりません。
人生、よく「あるある」なのです。
オーストリアとオーストラリアを間違うことなんて、頻繁にあるのです。

急げ!と成田からオーストラリアに向かったところ、あとで

「いや、ちがうって!目的地はオーストリアだよ!!」

と言われたら・・・。

そういうことばかりです。人生は。
もしそうなったら、再度引き返すのですぞ!コアラとカンガルーのいる大陸から、急旋回で一路ヨーロッパをめざす!
もうそりゃあ、タイヘンですよ!!
おまけに、大損ですよ。コストがかかりすぎます。
しかし、多いのです。こういうことが。
原発しかり、五輪しかり・・・。

だから、結論を急げ、と言われても、慌てないのがいいのです。
まだじっくりと航空チケットを見直したり、本当に古都があるのはどちらなのか、音楽の都はコアラのいるオーストラリア大陸なのか、それともヨーロッパの方なのか、きちんと考え直しながら行動した方がよさそうです。

「オースア」のオーストリアなのか、
「オースリア」のオーストラリアなのか?
自分が行くべき先は、鳥(トリ)なのか虎(トラ)なのか、どっち?

しかし、大人になってしまったら、もう話し合いなんてしている暇はないようです。
じっくりゆっくり考えるなんてことは、大人になってしまったとたん、もう無理!
GOTO政策も、ポピトンヨードの感染予防効果も、世界の気候変動も、閣僚の靖国参拝も、黒塗りの議事録についても、桜を見る会も、教育勅語の暗唱指導をしていた某幼稚園についても、とにかく『熟慮』『話し合い』なんてしている暇はありません。
ですから、政治がこれだけ混とんとしているのでしょう。

仕方のないことなのかもしれません。
子ども時代は、少なくとも、じっくりと「話し合うこと」をさせてあげたいと思います。
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【漢字の学習】1学期末テストの反省

漢字テストの出来が良くなかったので、振り返り。

①漢字を読めるようにしたい
この1学期、4月当初のテストで前年度からの学習不足がみえている子たちをみてきました。
すると、まず、読めない、ということがある。
漢字を読めなければ、ぜったいに書けませんわね。
なので、漢字を読めるようにしなければならない。

②小テストの言葉だけでなく、さまざまな熟語を覚えさせたい。
小テストは100点を連発していても、大きなテストを抜き打ちでやるとダメ、という子が多い。
なぜかと考えてみたら、小テストと大テストは決定的にちがうことがあった。
小テストは、なにが出るのか事前に知っているのである。
つまり、小テストで100点をとろうとして、小テストに出てくる熟語(のみ)を覚えようとしてしまうのである。結果、その言葉なら書けるが、ちがう熟語になって問題が出てくると、書けない子が多くなってしまう。

③宿題を一律にしたくない
もともと宿題なんて出したくないのがわたしの教師人生のスタートでした。
教師になって最初の2年間は、すっとぼけて本当に宿題を出さなかった。
親からも非難され、まわりの先生たちからも文句を言われたので出すようになってしまった。
そこで出すようになって考えるのは、要するにわたしは、「一律」がいやだったのだ。
だから、一律でなく、子どもたちが自分で考えて、自分で必要だと思えるような学習であれば、それはまったく自由にどんどん進めてほしい。そこで、できるだけ早く、一人ひとりが個別の宿題をするようなシステムを考えた。

まず、大目標を立てた。
学期末に、習得すべき課題の漢字をすらすら書けるようになろう、というのだ。
子どもたちも大賛成である。

つぎに、どんどんやろう、ということにした。
漢字ドリルをやりたい子はどんどんと進めることにした。
小テストはあとまわしで、とにかくどんどん書いて終わらせてしまおう。
終わらせたら、どんどんとテスト、同時に自己チェック。ここで書けない漢字をピックアップ。すると・・・

自分が書けない漢字のみを、漢字練習帳にすることになる。

↑ ↑ ↑ ここが、革命的!はやくこの状態にしたい!


漢字スキルを1冊終わらせるのに、早い子は1か月ほどで仕上げてしまうのではないかな。
そうなると、冬休みまで、残りの3か月は、
『書けない漢字を探して、その字だけをいろんな熟語で書けるように練習する』
という、理想の漢字練習ができるようになる。

甘いだろうか?

でもまあ、やってみよう。試行錯誤が大事だ。

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【第1ステージ】
~8月後半~10月後半くらいまで(2か月くらい)
月曜日と木曜日は先生チェックの日として、授業時間にチェックの時間をつくる。
友達がチェックを受けている間は、下記をどんどんと進めることができる。(もちろんチェックをくぐらないと、次へは進めない)

ドリルの基本の進め方
①音読(漢字の読み、文例の読み、熟語の読み)
②書き順の声を出しながら「大きな文字」を指でなぞる。3回。「指なぞり」
③書き順の声を出しながら「1,1,2,1,2,3,1,2,3,4・・・」と1画目にもどりながら「大きな文字」を指でなぞる。「書き順練習指なぞり」
④書き順の声を出しながら、机の上に書く。3回。
⑤1ミリもはみ出さずに、鉛筆でなぞる。
⑥ていねいに鉛筆ですべてのマスを埋める。
⑦必ず先生のチェックを受ける。
⑧自分のペースで進める。


先生のチェックの方法

なぞりのずれ がなければ合格
とめ、はね、はらい が正確であれば合格
字の小さいものはダメ
字のうすいものはダメ
書き順チェック(ひとつお題を出す⇒目の前で空書きする)
熟語チェック(その漢字のつく熟語を2つ言う)


学習のペースを考えよう

スキルの学習が進んできたら、途中で自分で見直しをさせます。
PDFファイル(印刷用)

声かけ

〇〇くん、漢字できるようになりたい?
じゃあ、家でも進めていかないとね。一気にやろうとすると忘れるのも一瞬だよ。今日はどのくらいやれそう?
すごいなあ。そんなにやれたらたいしたものだ。明日、見せてね!

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【第2ステージ】
10月~12月末まで

ドリルを一通り終了した子から、どんどんと小テストに移る。
(もちろん、これまでのところが終わらない子は第1ステージに取り組む)

★第2ステージの1周目
小テストは5問ずつ行う。上下段、どちらも書いて先生に見せる。
全部正解したら、次に進む。
もし間違えてしまったら、空書きや指書きで覚えなおし、覚えてから直しておく。(赤で書いて直す)
つぎへ進む。

ドリルが1冊分(1周分)終わったら、2周目に入る。
担任はそのために、小テストを印刷しておかねばならない。

★第2ステージの2周目
上段はていねいに書く。
下段は熟語を書く。辞書を使う。
10問すべてやって見せる。
先生の熟語クイズに何も見ないですばやく答える。
指定された熟語が3つ言えなかったら、もう一枚やる。
もし3つともすぐに答えられたら、次へ進む。

★第2ステージの3周目
漢字ドリルの熟語を使ったテストをつくる。(教師はそれを印刷する)
自分のためでもあり、さらには友達のためでもある。
同じように3周目に入った子どうしで、お互いに解きあう。


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さて、漢字が読めないという点をどう克服するか。
国語の授業の開始時刻になったら、最初の5分間で音読を行うことにする。

音読システム

①漢字の音訓のみを1冊まるごと読む⇒時間を計って合格するとつぎへ
②音訓ぬりつぶし音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
③熟語音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
④熟語読み方ぬりつぶし音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
⑤例文音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
⑥例文読み方ぬりつぶし音読⇒時間を計って合格するとつぎへ

漢字スキル音読タイム記録用紙

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宿題はどうするか

宿題は基本的には、毎回指示しません。
しかし、大目標に向かってすすんでいますから、時期によって宿題を自分で進めます。
ステージ1の時代は、全員が漢字ドリル本体を進めることです。
宿題帳に書くのではなく、指で書いて、空書きができるように準備をします。それが宿題。

ステージ2の時代が近づいてきたら、授業でチェックをする時間をつくります。
全員が、漢字ドリルをどんどんと空書きし、自己チェックします。
書けた字には、大きな字の上にチェックを付けていきます。
最終的に、すべての漢字の上に、チェックがついているのをめざします。

このころから、宿題を出します。
さて、ようやく、いわゆる漢字ノートの出番です。


自己チェック問題の宿題のやり方

自己チェック問題とは、まだチェックのつけられない、空書きで書けなかった字です。
自己チェックで、書けなかった字だけを、ノートに書いていくのです。
そのノートは、毎週火曜日と金曜日の国語の授業の最初に、先生がチェックをします。
つまり、この漢字の宿題は、火曜日と金曜日だけ提出するのです。
そのかわり、火曜日も3ページ分、金曜日も3ページ分です。
1ページで5文字分。熟語も書きます。

これと同時並行で、2週間に一度、漢字の自己チェックをして、チェックのできる字、つまり空書きで書けた字を増やしていきます。
チェックが増えていくと、だんだんと、全部かけるようになった、という子が出てきます。
そしたら、宿題に書くスタイルを変更します。

熟語宿題のやり方

これまでは、書けなかった字を書いていましたが、つぎの段階では、熟語をたくさん書きだすのです。右ページには熟語を書いて、その下におおきなかっこを書き、そのかっこの中に、熟語の意味を書きます。
さらに、左ページには、右ページにしらべた熟語の例文を書きます。
大人用の漢字辞典を使って学習するとはかどると思います。

最終的には、この 熟語の宿題 ができるステージにくることができれば、かなり漢字に親しんだということがいえるのではないかと思います。

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【DNA】コロナウイルスと先祖の関係は?

コロナウイルスのような感染症は、人間にとっての脅威だ。
このような感染症と人類の戦いは、過去にもあった。
一番古いのは、現生人類ホモサピエンスが、気候の安定とともに、アフリカを出て、各地へ進出しはじめたとき。

これは大冒険だった。
それまでには経験しなかった脅威が、ホモサピエンスを襲ったのだ。
それが、

ウイルス感染!

ホモサピエンスがひょっこりアフリカから外で出てみたら、おそろしいウイルスが、別の土地にはふつうに存在していたわけだ。これで、ホモサピエンスはかなり数を減らします。

ところが、ホモサピエンスの中に、生き残ったのがいる。
それは、実はすでにかなり前に、アフリカを出てヨーロッパや中近東のあたりに住み始めていた、ネアンデルタール人が関係している。

アフリカを遅れて出てきたホモサピエンスは、一部、死に絶えました。
病原菌に冒されて。ヨーロッパやアジアに存在していたウイルスに勝てなかったのです。
ところが、ネアンデルタール人は、そのウイルスの耐性を持っていた。なんとなれば、彼らネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスより数十万年も先に、アフリカを出てヨーロッパやアジアに広まっていたわけ。その間に、ウィルスへの耐性を獲得していった。

我々の先祖は、みんな大急ぎでネアンデルタール人と結婚し、あわててDNAにその耐性を取り入れた。その結果、生き残ることができたらしい。

つまり、今の時代に生きている日本人も、ホモサピエンスである以上、DNAの一部にどの人も、ネアンデルタール人のDNAをかすかに持っているのだ。

もしかしたら、今のコロナウイルスの騒ぎにも、このDNAレベルでのなにかが関連しているのではないか?と研究している科学者もいるそうである。

まだ何もわからないらしいけど・・・。


ネアンデルタール


さて、ついでに。
現在の日本民族には6つの源流が考えられる。

時代的に古くから言うと、
1番めは、まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔。
2番めは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民。
3番めは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられる人たち。
今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとだ。
4番めは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系。
5番めは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びと。
6番めが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っている。
したがって、もっとも古くから日本に住んでいる現在の民族は、縄文人の血を引くアイヌ民族であります。

ヤマト王朝を建国した人々は、ずいぶんとこの1番目の人たちに、遠慮した方がいいかもしれない。
少なくとも、中元歳暮の礼くらいは尽くさないといけない。あとから来たものが、大きな顔をすべきではないからだ。

で、結局、1番目から6番目までがどんどんと混血して現在の日本人ができあがっている。

今の日本人は、このすべてが祖先にあたる。
少しずつ、その遺伝子を、多かれ少なかれ、持っている。
ちょっとずつ、体の細胞の中に、分け合っている。
現代日本の、どの日本人も全員が、一人残らず、祖先のDNAを受け継いでいる。

やはりお盆には、祖先を招き入れて、接待をせねばなるまい。
すべての祖先を引き入れるとなると、部屋がちと狭いが、相手はミクロの遺伝子なので、んまあ広さはどうってことない。

縄文系のご先祖には、縄目の器でお茶を。
海の民のご先祖には、カタクチイワシのおつまみを。
大陸からのご先祖には、馬刺しを。
そして元騎馬民族には、馬頭琴の音楽を聞かせてあげたい。

ともかく、現代人はご先祖をお招きするのに、最低6種類のおもてなし法をマスターすることが肝要うだ。そのうち、100円ショップに、6種類のかんたんなおもてなしグッズが並ぶでしょう。

しかし、今日近所のDAISOへ行ってみたら、なんだかもうオレンジ色のパンプキンのお化けが飾られていたぞ。
ちょっと早くない?あれ、10月だよな・・・外国のお祭りの、外国の先祖が里帰りするやつ。
なんていったっけ?あのイベント・・・。たしか、子どもがお菓子をねだるやつ。
弘法様じゃなくて・・・思い出せんな。

harowin

23歳の青年と話す・・・50歳のおっさん

自分が座っている職員室の席のことを書きたい。
となりに、23歳の青年が座っている。
新人の先生だ。

ものすごくよくできた青年で、わたしはうんと尊敬している。
自分が23歳だったころを考えると、隣席の青年がいかによくできた人なのか、いつも感動するのだ。

物腰が落ち着いていて、やわらかく、清潔感にあふれ、正直で、素直である。
この青年が、わが町岡崎の教員になってくれていて、本当によかったと思う。

さて、その23歳の新米先生と話すと、けげんそうに、
「あらま先生はいったいどこに住んでいたのですか」
ということを質問してくる。

これは返答に窮する。
いろんなところに住んでいたからだ。
また、仕事でいろんなところへ出かけたからだ。
日本の各地へでかけた。

5年生の社会科は、日本全国の農業や産業について学ぶ。
わたしが知っていることや体験したことをもとに授業の素材を考えていると、
隣席の新米教師から、

「え?みかん収穫をしたことがあるんですか?」
とか、
「え?林業をしたんですか?」
とか、
「え?北海道で牛を追いかけたんですか?」
とか、その都度聞かれる。
もう、自分でも不思議なくらいに体験談が出てくるのだ。

これらの経験はすべて、自分が今の世の中を考えるときの、下地になっている。
いちばん自分でよかったと思えるのは、この地球という土地は、あるいは日本というのは、ずいぶん豊かな土地だということを、肌で感じていることだ。この感覚は、20代のころから、何一つ変わりがない。

この地球という星は、あるいはこの世の中というのは、あるいは人間と言う生物は、なんという豊かさに包まれているのだろう、という感じ。
これは、20代の最初に感じていることを、今でもまったく同じように感じながら生きている。
だからだろうか。わたしは自分の中身が何一つ、20代のころと変わらないように思う。

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ここで、提言したいことがある。

日本の小学校は、過疎地の廃校を利用した合宿教育体制を作ってはどうだろうか。
都市圏の子どもたちみんなに、実際に農山村に触れて、農業を啓発される機会を作るのだ。
すでに多くの人が、これと同じことを言っている。
ところが、まだ実現はしていない。
まじめにやれたら、どんなにすばらしいかと思う。

日本にはすばらしい観光資源が無数にある。
また、優れた自然環境が存在している。
観光・農業・教育の条件は、すべて揃っているようだ。
「金儲け」を目指すのではなく、人の幸福を目指した社会を生み出すことができる、すばらしい国の一つではないかとさえ、思う。

「ぼくは、新間先生のように、日本はすばらしいとか、なかなか言えないです。他を見たことがないんで」

私の中には、この国がいかにすばらしいか、という思いがある。


たしかに、腐った時代もある。とくに昭和初期の圧政、圧迫。
国民をだました政治家と軍部は、狂っていた。
日本は神の国、という一つのドグマで、人を支配しようとした。
それは、うまくいかなかった。「これしかない」「この道しかない」というような、ある決められた一つきりのドグマで、人間社会を支配しようとしても、うまくいかないのだ。〇〇主義は、一つに偏ってしまうことで、人間社会をゆがめてしまう。これ以外はダメ、という白黒主義は、狭い視野をつくる。ヘイト・排除主義は、けっしてうまくいかない。
この国は、特に昭和の初期から、これまでに間違ったことも経験した。
しかし、この国の自然と人間自体は、本当は・・・素晴らしいはず。

その国の誇りを子どもたちが取り戻すためにも、子どもたちの農業体験は行政がすすめてほしいと思う。親もついでに、参勤交代すればいい。江戸と地方を行ったり来たり。半年くらいで。

ちょうどコロナだ。東京の密を、緩和しよう。
国が国民に現金をわたし、半年間、好きな地方で農業体験をするってのはどうだろう。
大企業の内部留保をこの際、使えばいい。
もう、日本は、元のような大企業依存の社会には、もどらないのだから。
チャンスだと思う。

「成長」だけが良いのではない。
ゆるやかなフェードアウト、静かな規模への縮小をだんだんと。
だれもが傷つきにくいような、順序やスピードを考えて、すこしずつ縮小していく道を。
人口は減っている。増える見込みは薄い。どうしたって、空き家、空きビルは増える。
ここちよい、お互いを大切にしあえる人間関係至上の社会へ、しずかにゆるやかにシフトする道をさぐろう。

子どもたちとそんな将来を描くような、未来をひらく学びをしてみたい。

tokyo

幽霊の存在について

休み時間、子どもから怖い話をリクエストされることがある。
わたしは一瞥をくれるだけで、
「悪いけどそんな話、してる暇ないでしょ。先生は御覧の通り、超絶忙しいですわ」
と、ノートに赤ペンを走らせる。
子どもに付き合っている暇はない。貴重な休み時間は宿題のチェックだ。

ところで怖い話を聞きたがる子どもは多い。
なぜ、子どもはそうなのだろう?

NHKで以前、ひつじが動く大人気の動画が放映されていた。
みなさんご存じ、「羊のショーン」だ。
クレイアニメ、という分類で、粘土でつくった動物を写真で撮影して作る。

クレイアニメの撮影はとことん時間がかかるらしい。
以前、イギリスのBBC放送が、羊のショーンの製作現場をドキュメンタリーで放映していた。
実際の粘土で作ったキャラクターを、少しずつ、ずらしながら撮影している。
それらを、連続して映すと、あら不思議、ひとの目には、いかにも粘土がそれ自体の意識をもって、連続的に動いているように見える。

ふつうのアニメーションもそのようにしてつくるが、何枚も絵を描かなければならない。
今はデジタル技術が進んで、コピーも可能なのだろうが、ひとの目に誤解させるという点では、クレイアニメも同じ仕組みである。

ところで、なにが誤解かというと、実際には動いていないものを、動いているように見てしまう、という点だ。人間はいつの間にか、この羊が動いている、と思い込む。

マジックも同じで、ひとに、ある現象を、こうだ、と思い込ませる。
たとえば瓶の中にはなにも入っていない、と思わせる。
しかし、蓋の裏にはしっかりとコインが貼り付けられている。

人間の目には、「知覚の恒常性」とよばれる性質がある。
これにより、網膜に映った画像は再構成されて見えている。電光掲示板やアニメが動いて見えるのはこの仕組みによるものだ。

けっして、電光掲示板の字が、動いているわけではない。
また、アニメも、動いているわけではない。
しかし、わたしたちの目は、「動いている」と認識してしまう。

UFOも幽霊も、わたしはお話としては大好きだ。しかし、大半は『ひつじのショーン』と同じで、実際には動いていないものを、動いているかのように見てしまっただけである。

で、こういう話を、こわい話に夢中な小学校高学年の前ですると、

いやがられる。

それはそうだ。幽霊が、いるかもしんない、と思うから、こわいのだ。
目の錯覚だ、認知の問題だ、メタ認知しろ、などと言われたくない。
たった一つの偶然の現象を、知識や経験によるその人のスキーマで書き換えて都合よく怖い話にしただけだ、などと解説されては、せっかくのこわい話も台無しである。

しかし、こっくりさんなどが流行するときは、こういうメタ認知の学習を進めることがある。
超常現象を信じてしまう認知エラーと、偏見や差別を生み出す認知エラーは同じもの。

「人間は、常に認知のエラーを繰り返しながら生きている」

日ごろから、こういう認知の方法、という自分自身についての学習は、するチャンスをつくらないといけないと思っている。

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記憶の奥に、しまいこまれていること

幼いころの、まるでタイムスリップしたのか?と思うような体験について。

小学校の2年生でした。
ちょうど、季節は夏休み。
時間は、たっぷり、とてつもなく長く、あります。
その日、わたしは近所の友だちと申し合わせ、昼飯を済ませたあと、いっしょに探検を始めたのでした。

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わたしたちの小学校へは歩いて45分ほど。
毎日、かなりの長距離を歩いていた。
その途中、民家もないただの林がつづくような場所があった。

以前から、ここに道があるな、とは気づいていた。
しかし、どうみても林がつづくだけ。奥には人家も、なにもない。
林道の奥になにがあるかなんて、気にもしていなかった。

友達が、
「今日はこの道を行ってみようぜ」
とさそった。

そこを歩き始めたが、すぐに後悔した。
だれも通らない道らしく、草が伸び放題だった。
車が以前通ったらしい。軽トラが入れる程度の轍(わだち)があった。
そこを、左右の草むらから伸びた草をよけながら、ずんずんと前進した。

途中で勾配もあり、のぼったりくだったり、ずいぶん向こうの景色が見渡せるような崖沿いも歩いた。先頭を歩いていた、背の高い筒井くんが、

「あ、向こうに高速道路が見えるよ」

と手招きをした。
なるほど、そこには道の途中の、林の切れ目から、景色が見渡せる場所があった。
ずいぶん遠くだと思っていた高速道路が向こうのほうに、ジオラマの部品のように見えていた。
自分たちの町を立体的に見たような気がして興奮した。

さらに長い時間、歩いた。
探検、という感じがあって、わたしたちの気分は高揚していた。
途中、持ってきた水筒の中の麦茶を飲み、休憩しながら、大声でしゃべっては、足を進めた。
歩いてきたのは通学路からの一本道だったから、道に迷う気づかいはなかった。
帰りも迷わず、ひたすら戻ればよい。
そろそろ引き返すか、というころだ。

道が2つに分かれる場所が見えた。
「分かれ道だ!」
驚いたことに、ちょうど二股に分かれる真ん中に、平屋の建物があった。
さらにびっくりしたのは、こんな場所に、いるとは思わなかった人間がいた。

子どもだった。
まさか。
同じ小学校の子か?

こちらは全員で5人いたので、人数で勝(まさ)った気分になっていた。
そこで、めげずに近づいて行った。

するとその子たちはいったん隠れた。
わたしたちはちょっと驚いていた。
なぜかというと、その子たちは到底、同じ小学生とは思えないような身なりだったからだ。
まるで、日本昔話に出てくるような・・・古い着物を着ていた。

建物に近づくと、さらに驚いた。
木材を貼り合わせただけのような建物であったが、いろんなものが並べてあったからだ。
つまり、そこは店だったのだ。
しかし、値段はどこにも書いてなく、いったい何がいくらなのかも見当がつかなかった。

「お店なのかなぁ?」

われわれの仲間うちでは、一番年上の敬太郎くんが怪しんだ。
で、われわれ5人は、そこで前に進めなくなってしまった。
2人の子が、じっとこっちを見ていたからだ。
敬太郎くんが小声で言った。

「みんな気をつけろ。こっち見とんで」

われわれが頼るのは、敬太郎くんしかいなかった。
一番年上の3年生だったから。

全員、足をとめて、様子をうかがっていたが、そのとき事件が起きた。
日ごろからお調子者のたかしくんが、こともあろうに、その子たちに話しかけたのだ。

「ガム売ってるかなー。10円のガム」

おいおい!話すのかよ!
全員が、たかしくんを見た。

お調子者ですぐに怪我をしてしまうことで有名だったたかしくんだが、こういうときの突破力を持ち合わせていた。人間の力はなかなか通常時にははかれないものだ。なぜなら、非常時こそ、他の人間にはふるまえないようなふるまいができる人間も、なかにはいるからだ。
たかしくんは、こういう非常時に、役に立つ人間だった。
もう、他のメンバーはだれもが怖気づいてしまい、年下のけんちゃんはもうあとずさりをはじめたくらいだったのに、たかしくんだけは

ふだんの調子で

あるいは、

ふだんの調子に、さらに輪をかけたようなテンションで

ずかずかと、その建物に近づくことができた。

それは正解だった。
たかしくんがその『店』に入ると、おばあちゃんが出てきたのだ。
そして、ふつうに声をかけてくれた。

「おやまあ、どこから来なすった」

たかしくんは、カクダイの10円ガムオレンジ味を期待していたようだが、それはなかった。
私たちはふだんから、10円のガムをいくつか買う、というようなことしか仲間内ではしなかったから、それ以外を買うつもりはなかった。
よく見ると、食料らしいもの、野菜やなにかが並んでいるようで、お菓子のようなものはほぼ、そこには見当たらない。しかし、さまざまなものが手に取れるように陳列してあったり、奥にお金をしまうような場所もあったから、やはりお店であったのだろう。

たかしくんだけが、そのおばちゃんと話をした。
話をしていると、2人の子も、元気がついたらしく、やがて近づいてきた。
一緒に遊ぶか? というような話にもなった。

ところが、やはり髪型もちがうし、服装も違うし、なによりそのお店(建物)全体が醸し出す雰囲気がどうにも「現代風」ではなかったので、たかしくん以外はもうはやく帰りたかった。
とくに一番下のけんちゃんは、泣きそうになっていた。

で、帰ることにした。

すると、おばちゃんが恐ろしいことを言った。

「もう、ここには来ない方がいいでな」

2人の子どもも、同じことを追随して言った。

「こっちの道には、入ってきちゃいけんで」

たかしくんは元気に手を振って、2人の子にさよならを叫んだ。
帰り道は、敬太郎くんの足がぐんぐんと速くなっていたから、必死でついて歩いた。
藪の道がやけに長く感じた。
途中の景色がみえるところまでくると、敬太郎くんは、もう我慢ができなくなった、というように走り始めたので、全員で必死になって走った。
夕暮れだったし・・・みんな、沈黙していた。

なんだったのだろう。

帰宅して親に話すと、

「あそこは入っちゃいけん」

と言うだけであった。
翌日確認すると、敬太郎君の家でも、
「あそこは行ってはいかん」
とのことだったらしい。

だんだんと、この話題は下火になった。
その後も、登下校中に何度かその道が話題になった。
けんちゃんは、この道のことを、
「むかしに行く道」
と呼んでいた。
興味をもった友達も他にいるにはいたが、とても勇気が出ない。何度か入りかけた子もいたが、果たさなかった。
そのうちにその道は、入り口に材木が置かれるようになり、閉ざされてしまった。

今から40年以上前の話だ。

夏休み、ときおりふと、当時の情景が浮かぶことがある。
何十年と経っているのに。
あの強烈なひざしと、せみしぐれと、汗のにおい。
土の上を、草をよけながら、ぐんぐんと歩いたときの、あの感じ。

おばちゃんとあの子の「ここへ来ちゃいけんで」というのは、どんな思いだったのだろう。

子どものときに見た風景は、一生、思い出となって、自分の中にしまいこまれている。
今でも、せみしぐれを聞くと、ふと、よみがえる景色がある。

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「自分のあたまで考えるのがカッコイイ」VS・・・

依存はカッコ悪い。
自立がカッコイイ。

 ↑ これはそうとも言い切れない。
そもそも人間は、人とひとの間で生きるのが当然で、すべて周囲から受けたもので生きている。だから、依存するというのも当然で、相互に依存しあって生きているのが事実。相手に依存できることが社会的動物の証でもある。

しかし、自分の感情まで、依存させるのはカッコ悪い。
たとえば、隣の家のおじさんが、

「テリー伊藤はかっこいい」

と言ったので、自分もテリー伊藤を好きになる、というのはいささか短絡的すぎる。
根拠を自分で言えないくらいに、「思慮が浅い」という批判は受けるべきだろう。
なぜテリー伊藤がかっこいいの?と聞かれて、

「えっと・・・隣の人がそう言ってたので」

というしかない程度なのだから。

自分の感情は、自分の中に湧き上がってきたものを見て、あるいは
知恵を使い、自分らしさを追求したうえで
「わたしはこれが好きだ」
というべきである。

自分の好み、という自分の主体性のつまった感情まで、
他人に操作させるのは、カッコ悪い。

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と、これに近いような議論を、教室でする。
たとえば国語の授業で、討論になった時に、
「Aだと思う」か「Bだと思う」か「そのどちらでもない」か、
どれかに自分で胸を張って手を挙げる、という場面。

隣の席の剛田武が
「おれはAだ。おいのび太、お前もAだよなあ」
と言ったとき、
「いや、ぼくはBだなあ」
と涼しい顔で、なんの躊躇もなく言えるかどうか、ということ。

このときに、感情的に剛田武になびいてしまうのか、
あるいは精神のよりどころとなるくらいに、日ごろから崇拝してやまない源静香が
「のび太さん、わたしはBよ」
と言ったからBだとするのか、
あるいは自分で考えて、どうも今のところどちらでもないなと判断して
「どちらでもない」
に挙手するのか、ということ。

このときの自分の感情に、責任を持つことって、かっこいいじゃないか、ということ。

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剛田武になびくのは、恐怖感に支配された、ということになる。
あるいは源静香になびくのは、崇拝思考(陶酔感)に支配された、ということになる。
どちらも、主体性がないことが共通している。

主体性をもとう、というのが文科省の大方針である。

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恐怖感にも自分の魂を売り渡さず、
かといって
陶酔感にも自分の魂を売り渡すな、
というのが、文科省の方針である。
文科省はただ一つ、「自ら主体的に考え、自ら主体的に創造せよ」と教える。

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・・・と、ここまでは理想論であります。

実際は、子どもはうんと「非主体的」になってしまいがちだ。
先生が言うから、友達が言うから、お母さんが言うから、ということで、
いともやすやすと決めてしまい、自分の好みまで深くさぐることがない。

まあだからこそ、小学校教育があるのでしょう。

さらに突き詰めると、この話はいじめにもつながります。
いじめを肯定する子も、ちらほらいます。
自分が気に入らない子をいじめて、何が悪い、と開き直るのです。

これは、むしゃくしゃして鬱積した感情を吐き出したい、というだけなので、良いとか悪いとかの道徳では抑えることができない。<知的ではない態度>に向けて<知的な対話>を促しても、子どもは受け入れません。
その子は、自分ではどうにもできないような、むしゃくしゃした感情に溺れてしまっているから、そこから真に主体的になる道をたどっていかないと本当には自立できないのですが、もう自分がそういう感情に溺れていることすら客観視できないし、自分を取り巻く状況をつぶさにしらべることもできなくなっている。
だから、いじめ、という非道徳的な行為も平気で行ってしまえる。

そういう子に、「自分を見失っているよ」というセリフは届きません。
そんなふうに自己を客観視できる子なら、そもそもいじめなどしないし・・・。
いじめる子は、ただ、どこかで周囲からINPUTされた、勝手な感情を吐き出しているだけです。
そして、そんなふうに吐き出すことの快感に酔いしれているだけ。
まったく主体的ではありません。

このように、主体的態度が育っていない子どもを、主体的に考え行動する子にするにはどうするか、というのが文科省が100年ほど悩み続けていることです。その最中に、太平洋戦争などの不幸な事件も起きました。金属バット殺人事件もあったし、神戸の酒鬼薔薇事件もあったし、最近では神奈川県津久井市の事件もありました。どれも、「感情を吐き出す」ことに酔いしれた事件でした。

で、教師はどうするか、という難問ですが・・・

はっきり言って、難問です。
「主体的な態度」というのは、長い時間をかけて獲得するものなので、
授業でちょっと考えたからといって、なにかすぐに身につくかというと・・・

そうではありません。

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したがって、この方法がいいかどうか、わかりません。
まだ自分でも、考えあぐねています。
しかしまあ、なにかするしかないので・・・とりあえず、この1学期には

「いじめはかっこいいだろうか」

という討論を仕組む、というのをやってみました。

いじめは正しいかどうか、ではありません。
かっこいいかどうか、です。
だから、正解はありません。(かっこいいかどうかは人によるので)

ただし、話し合いの場では、自分はどう思うかを言うことになります。
で、かっこいいなら、なぜそう思うのか、
かっこよくないのであれば、なぜそう思うのか。
その考えの奥を尋ねられる、というわけです。

これまでは「良い悪い」の軸でしか、考えていなかった子ばかりです。
1年生の時からそう習ってきたから、という子もいます。
すると、「〇〇先生がそう言ったから、というのはもう卒業しよう。これからは、自分で考える、というのを大事にしよう」と伝えます。
「いじめは良くないから、カッコ悪い」
という子には、
「なぜ良くないと、カッコ悪いのですか」
と聞きます。
すると、だまってしまいます。成績の良い女の子なんて、困ってしまいます。
そんなの、考えたことない・・・。

『たばこを吸う人だって、身体には決してよくないと思っていても、かっこつけて吸う人いるでしょう。良くないことがカッコイイ、と考える人だっているよね』

というと、さらに混乱してしまいます。

今年はこれをやったら、ほとんど全員がカッコ悪いに挙手したのですが、
いちばんみんなが納得した理由は、
「いじめをする人は、パワハラだからキモイ」
というのでした。
小学生がパワハラという言葉を使うことに驚きました。
解説抜きでみんな理解してました。さすが現代っ子。

わたしが
「なぜパワハラが(キモイの)?」
とさらに尋ねると、
「自分の感情しか見てないから、キモイ」
というような感じでした。

ある女の子は、こうも言いました。
「たぶん、いじめる人は、こういう(話し合いの場)だと何も言わないでごまかしてしまいそうだから」と。

みんなで討論をくりかえすうちに、教室のまんなかに、
いじめっ子の、苦しいような、切ないような『感情処理のようす』が浮かんできたのです。

これは、良い悪いとか、正しいか正しくないか、という視点からは、けっして見えてこない景色かと思いました。
ここでは、子どもたちが、「熟考」するのが当たり前、だときちんと実感することが大事で、感情を吐き出すという友達のせつない姿は、「討論を前提にする子たち」だからこそ、見えてくるのでは、と思いました。

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水木しげる「総員玉砕せよ!」について

ネットのニュースをたまたま見ていたら、
靖国神社で軍人の格好をしているおっさんたちが目にとまった。
無意識に、「総員玉砕せよ!」の水木しげる二等兵の姿をさがしてしまう。
水木さんはいなかったが、人はそれぞれのやり方で、醜悪な戦争をふりかえるのやなあ、と感心した。

さて、ご存じの通り水木さんは個性の豊かな人で、戦地に行ってまず絵を描こうとした話は有名で、上官に呆れられるのですが、世界中でこういう人はいたようですナ。フランスの作家、アルフォンス・アレー(Alphonse Allais)もまた、戦地を戦地と思っていないような態度でのんきに暮らしていたため、上官に怒られたそうだ。

わたしはこの話が好きなのは、子どもも同じような子がたくさんいるからで、教室を教室を思わず、授業中を授業中と思わず、好き勝手に寝転がったり、あくびをしたり、ムシと遊んだりする子はたくさんいる。わたしは呆れるのだが、昆虫の好きな子は、やはり、足元に虫などいたら、掃除中でも箒などほっぽりだして、掃除も忘れて昆虫の背中の羽の色に夢中になるわけです。

コスプレするおじさんたちも、水木しげると同じでしょうね。
水木しげるは、南国の珍しい景色をみたら、スケッチをせずにはいられない。同じように、靖国神社のコスプレおじさんたちは、コスプレの魅力にはまってしまっているのでしょう。やらずにはいられない、という感じ。毎日やるわけにもいかないから、終戦記念日、という大義名分がつけられそうな日をチャンスにしているのでしょう。

さて、授業中にムシに夢中になっちゃう子について、わたしは決して放置はしません。
こころのなかでは、その子らしさを十分に面白がっているのですが、そんなふうな担任の心中は知らせません。
どうするかというと、シンプルですが、今の時間の目的はなんだったか、と振り返ります。
授業は1時間ずつ、その時間の目的と目標があるので、算数なら「今日は、合同な四角形の書き方を明らかにする、だったよね」と、確認します。
たいていは、それで授業に向き直ってくれます。
集中してないなと思ったら、それなりの個別フォロー、全体への指導の時間配分などを変更します。

水木しげるにも、上官が目的を話したでしょうね。わたしと同じように・・・。


上官「馬鹿モノッ!」
しげる「はっ」
上官「ここにお前は何をしに来たんだ!」
しげる「はっ。こんなところへは二度とこられませんので、スケッチをするためであります!」
上官「馬鹿モノッ!鬼畜米英との戦いに来たのだ!米国の兵士と戦うためだっ!」

しかし、合同な四角形の書き方をマスターしよう、というような目的ならわかりますが、戦えといわれても、なんで戦うんだ?というのが水木しげる先生のホンネでしたでしょうね。

しげる「上官どの!なぜ戦うのでありますか!」
上官「馬鹿モノッ!南方を押さえねば、資源が手に入らないではないか!」
しげる「上官どの!なぜ資源が手に入らないのでありますか!」

これ、授業でも扱う場面ですが、なぜ太平洋戦争をはじめたか、という理由には、教科書にも「資源を手に入れようとした」と書いてありますよ。ただし、手に入らないから、という理由はまちがいです。資源はありました。しかし、「余計にほしいと考えた」からですね。東南アジアの資源を、ただ同然で、自国のものにしようとしたからです。

まあ、目的なんてのは、大人でもこうして見間違えたり、勘違いしたりしやすいのですから、常に熟慮しておかねばならないというわけです。

ただし、コスプレには目的なんてものはないでしょう。ただ、あの恰好がしたい、あの服を着たい、という、やらずにはいられない、という心性に突き動かされるようにして、靖国神社へ集っているのでしょう。

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当てる力(ちから)の衰退

教室から「正解」が必要とされなくなってしばらく経ちます。
文科省が「生きる力」を重要視して、だいぶ変わってきたな、というのを感じています。

正解を当てましょう、という教室文化は、もう・・・消える寸前かな。
教室の中で、クイズ合戦のような雰囲気は、ほぼ無いです。

大人の方には、クイズが好きな人が多い。
だから、まだテレビ番組ではクイズが多いし、
「小学校5年生の問題が解けるかどうか」というのに芸能人が挑戦しています。
つまり、まだわたしを含めた40代以上には、ふだんから

「正解を当てようとする」という雰囲気

がかなり濃厚にあるのではないかな。
現状の小学校についても、たぶん、大人たちはそういったイメージを持っている。
ところが、現状の学校はだいぶちがいます。

教室で重要視されるのは、けっこう間違った意見です。
柔軟に考えられるかどうか、です。
だから、授業のふりかえりをすると、

「今日の授業で最初に出てきた〇〇の意見が良くて、だからみんな一生けん命に考えられた」
「わたしは途中で意見を変えたけど、意見を変える直前に〇〇という意見が出たのがきっかけだった」

というような感想が出るし、教師はそういうふりかえりに価値を認めます。

また、クラスのルールを決める際にも、「正解はないよね」というところからスタートします。
ルールも何度も変えられる。現状や意見に応じて。
このときに、「正解を当てる」という感覚は、・・・無いですね。
つまり、ルールにも正解はない、と子どもたちもわりとふつうにそう感じている、ということ。
子どもたちが気にしているのは、みんなが納得している度合いが深いかどうか、という感じかな。

あとは、将来の職業についての正解を当てる、という気分についてだけど、
これらは、もうほんとうに皆無かなぁ・・・。

昔は、おそらくそういう気分もあったのではないだろうか。
医師や弁護士、宇宙飛行士、プロ野球の選手、デザイナー、芸能人、という具合に。

今は、将来なりたいものアンケートをとっても、てんでバラバラで、取る意味がないです。
少し前に流行したユーチューバーも、子どもからしたら数ある選択肢のなかのほんの一つ。
べつに、流行でもなんでもない。
職業じゃなくて、「沖縄」と書いた子もいる。つまり、沖縄で暮らしていけるのであれば、どんな職業でも可、というわけ。あるいは起業をイメージしている?

すでに小学生の文化から、『正解を当てよう!』というのは、なくなってしまったようです。

でも漢字は正確に書けなくちゃダメよ!

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教員の警戒心について

これまでの仕事歴を振り返ってみて、教員歴がいちばん長くなった。
転職を繰り返した身であれば、このことにやや、感慨深い思いが浮かんでくる。

教員の職業病であろうか。
どこか、自分のこころの動きに対して、いつも警戒するようになった。

複数の子どもを毎日観察していると、この子はいったい何を考えたり感じたりしているのかな、とわかりそうでわからない。
わからないので、結局、自分の都合で子どもの気持ちを解釈してしまうだろう、と思う。
そのことの警戒心が、常にある。我ながら、面倒くさい。

子どもと暮らしていると、その行動や性格にもいろいろと個性があることに気づく。一生懸命にルールを遵守しようとする子、先生の仕事を手伝おうとする子、話をよく聞いているような感じの子、一生懸命にそうじをしてくれている子、そんなのどーでもいい子・・・

教員らしく、一生懸命に子どもを理解しようと思えば思うほど、
「ま、これは俺の勝手な感想だネ・・・」
という諦念がつきまとう。

しかし、そのことがわかっているのに、それでもなお、観察しようとしてしまう。
病気である。『観察病』だ。

その病の良くないところは、「徒労感」である。
だって、けっきょく、その子のことがわかるはずないもの。
ただの、予想であり、ただの、自分勝手な感想を持つだけのこと。
教員は無力です。

ただひたすら、座禅を組むようなものです。
「師匠、なぜ座禅を組むのですか!?」
「意味を問うな。ただ、ひたすら組むのだ」

只管打座(しかんだざ)、という言葉の通り、ただひたすら、子どもを観察するのであります。
観察したからと言って、なにもいいことはありません。
でも、観察するのです。

そんなふうに言いながら、
「きっと、なにか良いことがあるんだろう」
って思われるでしょう?

ところが!観察したところで、なにも良いことはないのです。
15年教師をやっても、何も得られません。

ところが、いいことは、なくてもいいのです。
良いことが、なにひとつ起きなくても、大丈夫。
教員と子どもの関係は、
不安と圧迫と誤解と決めつけがなければ、両者は極楽の関係です。
なにもいいことがなくてもネ。

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悪口を言いたくて言っているわけではない

教員をやっていて面白いのは、1年の経過だ。
担任になってしばらくすると、だんだんと変化が出てくる。
人を責める場面が減っていく。
このことだけでも、ものすごい変化だと感じる。

やっているのはかんたんなことで、

「〇〇してほしい」

を言えるようにする、というだけのことです。

実際に学級でみんなが生活していると、あれこれと課題・問題が持ち上がる。
これは当然のことで、給食当番のことやそうじのこと、日直の仕事、宿題のこと、
さまざまにみんなでやりくりをしているのだから、話し合うことが当然でてくる。

そのときに、やはり多いのは、相手を責める、ということです。
責めたくなるのは無理のないことで、小学生がみんなで生きていこうとしているのだから、当然だ。

これが大人どうしの話なら、相手の都合もよくわかるし共感もする、立場を理解しようとする心も働く。相手がこうしてほしいと思っているんだろう、ということも察して動く、という配慮もある。

ところが、子どもどうしですから、相手の求めることが分からないのです。
だから、基本的なコミュニケーションとして、ちゃんと伝える、ちゃんと聞く、ということが必要になる。

子どもはモデルを探しながら生きていますから、身近なモデルとしてたとえば友達や、夫婦の会話を参考にするかもしれない。
すると、

「なんで ~ しないんだ」

とか

「〇〇しなきゃだめだろう」

という言い方を、まずは参考にする、ということです。

だから、4月当初、教室はこういう言い方が蔓延している状態。


そこから、先に書いた「〇〇してほしい」という言い方をうながしていくと、
だんだんとその言い方で言えるようになってくる。

たとえば、
「なんでそうじしないんだ!お前、サボり魔だな!」
という言い方をする子がいた場合、いい直しをしてごらん、それじゃ伝わらんよ、とうながすと
「〇〇くんに、ほうきでここを掃いてほしい」
と言い直す。
それも、深呼吸して、相手の目をみて、大きめの声で、ゆっくりと言うようにうながす。

すると、呼吸が合うのか、目が合うのか、気持ちが合うのかわからないが、聴ける体になっている。
で、
「わかった」
といって、その子はほうきで掃くのですよ。

まるで魔法がかかったようです。
今まで、

「そうじさぼんなヨ!」
「なんでやらんのだ!」
「いつもさぼってんな、お前!」
「お前の机、きたねえな!」

などと言うことばが行き交っていた教室が、

「ここを掃いてほしいです」
「はい」

というように、変化していく。

不思議なことですが、〇〇してほしい、といえるようになるだけで、
あたかも 憑き物がとれるように 悪口が消えていくのです。
なんかが憑依していたのかな、というくらいに。

実はこれはかんたんなからくりで、
子どもは本当はこころのなかで、あれもしてほしい、これもしてほしい、というのを常に100くらい思っているのですね。
で、もっと言うと、大人も常時、100くらい、あれしてほしい、これしてほしい、と思っています。40代でも50代でも60代でも100歳でも、人間はつねに100くらい、そう思っている。

しかし、なぜかこの世の中はそれを言ってはいけない空気があり、それを言うと
「甘えるな!」
と叱られるのですよ。

だから、子どもはものすっごく、がまんしております。
(実は大人も我慢してる)

なので、それを開放してあげるだけで、人間心理は安定するのではあるまいか。

一番肝心な点は、

〇〇してほしい、と言うだけで、効果がある、という点です。

べつに、それがかなえられなくてもいいんです。
人間って不思議ですね。〇〇してほしいんだ、そうか、そうか、と相手に受けてもらうだけでいいんです。べつに事柄として、それをしてもらえなくても。

女子に嫌われていたやんちゃくんが、クラスのみんなの前で、〇〇してほしい!と叫べるようになると、変化が起きます。やんちゃくんが、徐々にクラスの味方になっていきます。みんなを助けるようになる。正義の味方になります。
不思議ですよ。まったく。

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悪口を言った理由など、ぜったいに聞いてはならない

勤務校に、教育実習生が来ておりました。
コロナでたいへんな時期ですが、人材確保は必要なので、受け入れたのでしょう。
まあ学校は大勢の人が出入りをしておりまして、業者も荷物を搬入するし、PTAの親たちも、ふつうに校内で会合をしております。

教育実習生はたいへんです。
わたしは経験がないのでよくわからないのですが。
なぜわたしが教育実習を知らないのかは、わたしの経歴をごらんください)

先日、実習生がどうやら子どものけんかの仲裁らしいところにいるのを見ました。
どうやら実習生の目の前で、悪口を言うなど、なにかトラブルが起きたらしい。
わたしは通りすがりだったので、担当の教諭がそこへ現れたのをいいことに、そのままお任せして職員室へ行ってしまいました。

去り際に、ちょっとひっかかったのはなにか。
それは、悪口の仲裁のしかた、であります。

「なんでそんなことを言ったのですか」

と、彼女は子どもに向けて言っていた。
これは、悪口の理由を知りたかったらしい。
ところがふつう教員は、『悪口の理由』というのは、尋ねないものなのである。

世の中、なんでもかんでも、理由は必要ではないし、理由を聞いてはいけないものもあるのです。
とくに、子どもの指導の場面では、悪口の理由は言わせません。
なぜ、悪口の理由というのは、子どもに尋ねないのでしょうか。

理由を聞くのではなく、あなたはどうしてほしいのか、を言わせます。
で、その悪口を言うことで、相手がそうなるのか、を考えさせます。
悪口で解決はしません。その馬鹿さ加減を学習する場面なので。

ヘイトをすることで、相手が自分の望んだような行動をしようと思ってくれるかどうかを確認すると、まあ当然なのですが、自分の希望はぜったいにかなえられません。
ヘイトをしてもしても、何度ヘイトしても、ぜったいに自分の希望はかなえられない、という鉄則をここで学ぶのです。

それなのに、なぜヘイトするかの理由を説明させてはいけませんナ。
相手の言い分を、聴いてはいけないのです。ヘイトに関しては。
なぜかというと、ヘイトそのものが、すでに意味がなく、社会を壊すからです。

ヘイトする人の言い分も聞くべきだ、という人もいるでしょう。
しかし、民主主義を守るためには、ヘイトの言い分は一切聞かないのです。

「理由(わけ)を聞かない」というと、人権をふみにじる行為だ、という人もいるかもしれませんね。
でも、ヘイトした時点で、相手の人権を踏みにじっているので、人権を踏みにじる側の言い分を聞いている暇はないし、順番すら間違えている、というわけです。踏みにじる者がまず救われるべきではないのです。その馬鹿さ加減に気づくのが先です。踏みにじる側を救うよりも、救わねばならないのは、「ふみにじられて苦しんでいる側」です。

だから、「なぜヘイトをしたの!?」ということを、先生は尋ねません。
これは教員の世界ではまあ常識でしょう。
しかし実習生ですから、そのへんはまだ、あいまいなのですね。

「なんで、あらまくんのことを、おばけ、なんて言ったのですか」
「だって、あらまくん、おばけみたいなんだもん!」
「どこがどうおばけというのですか!」
「だって顔もおばけだし、髪の毛もおばけみたいなんだもん!」
「顔のどこがおばけなのですか!」
「だって目も鼻も口もおばけなんだもん!」
「髪の毛はどのへんがおばけですか!」
「くちゃくちゃだし変なんだもん!」
「くちゃくちゃでもおばけではないでしょう!」
「だって変なんだもん!くちゃくちゃでねじれてんだもん!」
「どこがねじれてんですか!」
「だってうしろも前も、横もてっぺんも、みんなくちゃくちゃなんだもん!」
・・・

このやりとりを、あらまくんはどう聞けばいいのでしょう。
おそらく、先生がヘイトの詳細な理由を言わせるたびに、『なんでそんなこと聞くんだ!』とくちびるを噛むでしょうし、相手の返答を聞かされるたびに、 『おまえのいい加減な決めつけをなんで聞かされるんだ』と憤慨し、泣けてくるでしょう。

つまり、悪口を言った理由など、ぜったいに聞いてはならないのですね。

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夏休みに子どものことをふりかえってみる

夏休みに入りました。
子どもたちのことを思い出しています。

こんな姿があったなあ、あれはおもしろかったなあ、と
子どもの様子を思い浮かべて、家族に言わせるとぼうっとしています。

もっとこう言えばよかった、あれは理由はなんだったのかなあ、とか、
自分の反省もでてきます。

さて、1学期を振り返って、いちばんやっちゃダメなのは、急がせることやなあ、とあらためて。
ところがあれもこれも、それもどれも、みんなやれ、という状況がある。
その情勢に対して、どこまでうまくすりぬけていけるか、というサバイバルだ。

やらないでもいいものを、できるだけ精密に見分けて、やらないで済ませる、という知恵にかかっている。それができない教師は、自滅するだけだ。子どもたちは自尊心をなくし、疲れ果て、ただ地べたを這いまわっているだけ(這いまわり教育)になる。

押し寄せる通達、チラシ、イベント催しの知らせ、
△△教育、◇◇教育、☆☆教育、〇〇教育、をしろ、という圧迫感。
あれをせよ、これをせよ、というすべての圧迫から、子どもたちをどう守っていくか。

保障すべきは、「考える時間」だ。
ぼくたちはなんのために、なにを考え、なにを得たのか。
そして、また、なにが分からなくなり、できなくなったのか。
1つ進んだら、2つわからないことがでてきたことを、喜べる子どもに育てないと。

「ねえ、わかった?」

と聞いてしまう教師は、もう次の時代には不要となる。

わからないことを楽しみ、わからないことを生涯の楽しみに思える子に。
それを、「これがわかった、これがわかった、これがわかった・・・」で疲れ果てる子にはさせない。結局、なにもわかっていないのだから。

うまく伝えようと言葉を尽くしても、結局は本当に伝えたいことを伝えるなんて、とうていできない。なによりもそれを聴こうとする側の真摯な、素直な、そのとおりに受け止めようとする純粋な気持ちがなかったら、曲解、誤解の嵐だ。

ノートばかり見て、黒板ばかり見て、友達の顔をみない子にはさせない。
友達の表情を、飽きるほど眺めて、
「さっきの君の意見だけど、この点をもう少し聞かせてもらえないだろうか」
となるようなのがいいなあ。

45分では足りない、足りない、時間が足りない。
だからこそ、教員が「捨てる課題」を見いだす感性を身につけないといけない。
これからの教育が生き残っていくための、砦だと思う。

時間どろぼう
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