30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年06月

『龍の子太郎』を教科書に

たしか私は小学生の2年生ころだったかな・・・昭和のこと。
もう本当におぼろな記憶。

先生たちにうながされて、体育館に入っていくと、見知らぬ人たちがいる。
彼らは演劇をしてくれるお兄さんやお姉さんたちだった。みんなで迎えてくれた。
一人のお兄さんはなんだかジャンプして両足の先に手でタッチをするという曲芸らしきことをし、ぼくらは歓声をあげた。それだけで、ぼくたちはうれしくなった。
このあと、この人たちがぼくたちのために、とんでもなく楽しいことをして見せてくれるんだ、という気がしたからだ。

それが、劇団なんとか(覚えてません)の人形劇「龍の子太郎」でした。
大きい龍も小さい龍も出てきて、幻燈のような仕掛けをつかったりと工夫されている舞台で、悲しいけど見た後には元気が出てくるような、子どもの心をわしづかみにするのに十分な劇でした。酔いしれましたね。見終わった後、泣いてる子もいたし、劇団員の方たちが体育館から出る際には握手をしてくれたのは今でも覚えている。

その方たち、当時はまだ20代、30代の方たちだったろうから、今はもう70代から80代になっているだろうか・・・。
わたしのこの頭の中の、記憶の映像に映っているこのお兄さん、お姉さんたちは、今はどうされているのだろう。


ところで、どうしてこれを思い出したかと言うと、教室で子どもが読んでいたからですな。
それも、松谷みよ子さんの、ハードカバーを。
昭和のにおいがぷんぷんするような、挿し絵の芸術的な本を。

お、と思って少し借りて読んでみたら、思い出してきて・・・
思わず教室で「龍の子太郎」の話をしてしまいました。
ちなみに母龍が自分の目玉を太郎にしゃぶらせて育てたエピソードはずいぶんと面白い。
わたしは、目というのはさまざまなものを見ているから、知恵の意味があるのではないか?と考えています。龍になったお母さんは、自分の知恵を太郎に授けたいと願って目玉をしゃぶらせた、ということになるんじゃないかと。
このあたりは、なんだかゲゲゲの鬼太郎にも通じていくような気がします。
鬼太郎の父親も、実はかなりの知恵者です。わたしが以前見た回では、お父さんは閻魔様とタメで話をしていた。地獄の閻魔様と「やあ」「ひさしぶり」的な会話ができるあの人、霊界ではなかなかのポジションを占めて居るんじゃないか。

ともあれなぜ5年生でこの物語が重要になってくるかというと、5年生は社会で日本の国土を学ぶからですね。火山とか湖とか川とか平野とか山地とか。そうした土地の様子を学ぶ際に、古くから伝わる伝承はそのイメージを大いにふくらませてくれます。

太郎の話も、古くから伝わる民話伝承が元になっています。実際に信州の松本・安曇平はいまは田園風景が広がっていますが、かつてはそうではなく、ただの荒れ地だったらしい。そこに治水を施して水を得て、いくつもの水の流れをつくったことが、こうした物語の背景にあったのではないかと言われています。

物語の最後に、母親龍が見えない目でもって太郎を背中にのせ、大きな岩に何度も体当たりするシーンは涙をさそう。傷ついたからだでも惜しまず体当たりを続けていると、ついに岩がうごき、たまった川の水がついに村の方へと流れていく。龍は傷ついたまま倒れ、ついに動かなくなるのですが、太郎の涙がふれるとあらまあ。最後はハッピーエンドです。

文科省は、なぜこれを教科書に載せんのだ!!怒!!


tatunoko

学級目標をどう考えるか

学級目標をつくる時期になった。
毎年より、コロナの関係で1か月ほど遅いかな。

さて、この学級目標をみんなで考える前に、実はもうやることがあります。
そして、学級目標をつくるころまでには、すでに子どもたちの中にめざすものがあるようにしておきましょう。

めざす姿があると、なんだかイキイキしますね。
そして、そのめざす姿を、おそらく自分は実現していけるだろう、という自信。
その自信は、めざす姿が、聖人でなければとうていなしえないものではない、というところからきます。

やっちゃいけないのは、聖人君主でなければ絶対に到達しえないような「悟りの境地」をめざしてしまうことです。
これを目指すと、ほぼ、学級目標の意味がなくなってしまいます。

学級目標は、学校によっては黒板の一番見える場所に貼るように、と指示されることもあります。
また、学校によっては逆に、一番前の見える場所には貼ってはならないと真逆の指示をされることもありますね。

長い教員人生、波乱万丈あるのですが、できるだけスムーズにこの荒波をのりきっていくためには、その学校の「暗黙の了解」をただちに知って、その通りに実行することです。
とくにわたしのように、転任、赴任してきて1年目、という教員は、職員室でできるだけ目立たないことが生きていく重大なコツとなります。
前の学校と比較しない、というのが大原則です。
あれ?と思っても、まずは黙ってみんなの様子をみる、というのが1年目のオススメ。
学校というのは1万を超えるピースでできた巨大なジグソーパズルのようなもの。1つのピースをみて、あれこんなところに、なんでだろう?と疑問が湧いても、なぜそこにその妙なピースが置かれているのか、実は背景にさまざまに入り組んだ無意識の配慮と合理的な配慮があるからです。1年をこえたころ、ああ、あれでいいのだな、みんな相当悩んだだろうなあ、というのが分かってきます。それまで、新入りは黙ってみているべきなのです。

今回、わたしの赴任した学校は、黒板の前には「できるだけ学級目標なども貼らない」という指示でしたので、安心しました。

さて、聖人君主でなければとうていなしえない学級目標とは、次のようなものです。

「笑顔で〇〇」
「元気に〇〇」
「仲良く〇〇」

これらは、タブーとされています。
教員を10年以上勤めると、これを避ける知恵が出てくる。
なぜか。だって、1年間ずっと笑顔を目標にするって、できますか。できません。
ずっと元気に・・・無理です。ずっと仲良く・・・無理。

だから、これを目標にすると、いつの間にか学級目標というのは、ただそこに貼られているだけ、というものになります。そのうち、だれも意識しないことになります。壁のシミのようなもので・・・。

さて、笑顔で〇〇 というのは、はたして目標になるのでしょうか。
いいえ。

実は、笑顔になるのは、ある目標をめざしていろいろと取り組んだ結果にもたらされるものですワね。どうでしょう・・・?いかがですか。みなさんもそう思われますでしょう?
笑顔はめざすものではなく、めざしたあとに、まるで熟した果実が地面に落ちてくるようにして、ふっと手に入るもの。

また、仲良い人間関係というのも、あるものをめざして日々を積み重ねていくと、いつの間にか、あの人は信頼できるな、またあの人は自分を頼ってくれるな、というのが分かってくる、実感できてくる、というものでしょう。めざすものではないわけです。

ではなにがめざす姿なのでしょう。
何が、目標なのでしょう。

それは、
〇だれでもやれることで
〇どうやればよいかが具体的にとても簡単で
〇そんなことなら、ぜひやりたいと思うことで
〇やることによって自分が助かる、自分が良くなると実感できるもの
〇そのことによって自分もそうだが、みんなもよくなるだろうとわかるもの

うちの学級目標は、かんたんです。
たくさん意見を出すクラス

これがすぐに決まった。満場一致です。
なぜなら、この1か月間、ずっと、

「意見がたくさん出てくると、みんな賢くなれるし、お互いにすごいなと思い合えるし、友達の意見がいいなと思えるし、いい意見はいいねと言ってもらえて嬉しいし、たとえ間違ってもその間違いがあったからうんとよく分かったと言ってもらえるし、意見を言いながら頭が整理できるし、よく聞くからその子のことが良くわかるし、いいことばかりだよねえ」

ということを、これでもか、これでもか、と話し合って話題にするからです。
だから、学級目標を決めるころになって、まったく焦る必要がありません。

「今から学級目標を決めよう」
「みんなで知恵を出し合うクラスがいい」
「いいね」

3分で決定です。
その知恵を出し合う、という言葉に、いったいどのような意味が込められているのか、もうそこにいる38名が全員、わかってきている、というのが前提です。

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【子どもはすでに十分に良い】とPDCAサイクル

PDCAサイクルをご存じだろうか。

PDCAとは、

Plan(計画)
Do(実行)
Check(評価)
Action(改善)
の頭文字を取ったもの。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Action(改善)のサイクルを繰り返し行うことで、継続的な業務の改善を促す技法です。

「PDCAサイクル」という言い方もありますが、これはPDCAの最後のステップ、Action(改善)が終了したら、また最初のPlan(計画)に戻って循環させることを意味するもの。

これは文科省はもちろん、小学校の現場にも取り入れられています。
子どもたちも、教室に自分のPDCAシートを持っていて、生活の規則や授業中の態度などについて、自分なりのめあてを決め、それにそって実行計画をすすめ、一日の終わりや一週間の終わりに自己評価を行っています。

これははまる子にははまる。
おりこうな子ほど、計画達成率が高く、先生にもほめられます。
親にもほめられる。やることが明確化しているので、やりやすいのでしょう。

ところが、この工場の生産効率をあげるようなシステム思考が、どうも気に食わない子も出てきます。
興味の対象が学校生活、廊下歩行、給食のマナー、名札をつけること、授業の準備を行うこと、ノートに丁寧に書くこと、委員会の仕事を進めること、当番活動をまじめにやること、などには向かない子です。

学校でひたすらメダカを眺めていたい、という子にとっては、このシートへの記述と先生への報告が、いかに先生に褒められようとも、どこか面倒な毎日のお祈りのようなもので、早く終われ、としか思わない活動になってしまっています。

もしも、そのPDCAシートのPLANのところに、

「今日は自分が満足するまで、メダカを眺める」

と書き、先生が認めてくれたらちょっとは意味が出てくるかもしれないですが・・・。

ところが、そんなもの、PDCAサイクルを回さなくたって、ぜったいに実行するに決まっています。
ひたすらメダカを見たい子は、だれが何と言おうが、見るのです。緑の藻を動かして、たまごを見つけようとするにきまっています。そこにPLANなど、くそくらえ、というわけです。
おまけに、DO なんて促されなくてもやりますし、Checkにいたっては、

「いやあ、もうちょっと見たかった」

ということになるのは火を見るよりも明らかです。
また、最後のActionは、なにを改善せよ、というのでしょうか。
ひたすら心の満足を追ってメダカの卵を探し、ああ満足した、明日もやろうかな、というだけのことですから。もう改善しようのないほど、絶好調に決まっています。

どうやっても絶好調となるに決まっている子の活動に、「改善」という言葉ほど、ふさわしくない言葉はないでしょう。

そういえば、なぜ通産省の言葉が、しれーっと文科省の世界に入り込んでいるのでしょう?

もしくは、子どもというのは教育、というよりももっと「福祉」の世界でこそ生き生きと輝くことのほうが多いのですが、通産省と「福祉」というのはどう考えても相反している世界のような気が・・・(誤解があればすみません)。

PLAN
「メダカを自分の心が満足するまで見ることと、もしか気が変わったらそれをやめて違うことをする」
DO
「今日はメダカを見ようとしてちょっと見たが、友達に誘われたから結局ドッジをやった」
CHECK
「ドッジボールでも心の満足が得られた」
ACTION
「改善点はとくにないが、これからも学校生活をつづけていきたい」

↑ このことの意味が、わたしにもいつかわかる日がくるのだろうか。

PDCAkusokurae

【道徳】分かるとは何が分かるということか

A「なあ、きみ。ぼくは気づいたんだ。ツバペッペイさんは本物の悟りの人だと」

B「それはすごい。でも、だれ?その人・・・」

A「とにかく真理を話すんだ。一度講話を聴いたらもう忘れられない」

B「へええ。よかったねえ。面白い話だったんだな」

A「あの目、あの話し方、素晴らしい愛を感じたね」

B「きっと、やさしい人なんだろうねぇ」

A「とにかく、あの人の言うことは絶対の真理だ。人生というものを知っているんだ」

B「ははあ。そんなに感動したの」

A「人生の何たるかをぼくはそこで初めて理解した。真理はシンプルだ」

B「ほー・・・」

ネッシー


A「ぼくもこうやって初めて真理にたどり着いたので、毎日が明るく思えるよ」

B「・・・」

A「あの人の言うことはぜったい正しい!」

B「・・・あそう。しかしまあ、自信がすごい・・・」

A「(かぶせ気味に)いや、あの人こそ、真理にたどり着いて覚醒した方なんだ」

B「あそう。ではあなたも真理にたどり着き、仏陀のように大悟したのか。そりゃおめでとう!さぞ今は心境穏やかなのだろうね」

A「いや、ぼくなんかまだ道半ばだ。永遠に道半ばなのかもしれない」

B「なぜ。・・・あなたも真理を理解したのだろう?」

A「ぼくなどまだ足元にも及ばない。なぜならぼかぁ、間違いの多い人間だからね」

B「えええ?あなたは本物の悟りを得たのだろう?」

A「いや、逆さ。自分は間違いが多い人間だということがわかったのだ。ぼかあ、自分のことをしっかり認めている。間違いの多い人間だということを・・・。そうして反省することができる。これは実は悟りの一部さ」

B「はああ。まあ、自分は正しく判断できる能力があると思い込んで泥沼、ってのは、太平洋戦争をふりかえるまでもなく、よくある話だし・・・人間ってのはそういうものだろうなあ」

A「ところが、ツバペッペイさんはそうでない。あの人は真理をつかんだ人なのだ。あの方の言うことはすべて正しい」

B「・・・あれ、待てよ?・・・しかし、あなたは間違いの多い人間なのだろう?」

A「そうさ。わたしはツバペッペイ氏の足元にも及ばない。間違いを反省するべき人間だ」

B「あなたは間違いが多いのだろう?で、そのあなたが判断したことは・・・」

A「もちろん!大いに間違っているんだ。どうだ。こんなふうに素直に反省するところなんざぁ、ぼくもかなり修行が進んだといっていいだろう」

B「あなたには正確に判断する能力は・・・」

A「もちろん、無い!・・・どう?キミの言いたいことはお見通しだよ。ぼくはそれほど高慢ちきな人間ではない。ぼくにはツバペッペイ氏のような千里眼はとうてい無理なのさ。でもそれを自覚できているところがえらいのだ」

B「なるほど。あなたには、正確に判断する能力もないし、間違いが多いことがわかった」

A「そう。で、世界で唯一の真理の探究者こそツバペッペイ氏だ。キミにも氏の高邁な理論を伝えたいよ」

B「あなたは間違いだらけ」

A「そうぼくは。で、ツバペッペイ氏は最高」

B「ということを言うあなたの話は」

A「そう。間違いだらけ」

B「で、その間違いだらけのあなたの話は間違いだらけ」

A「そう。そしてぼくが確信しているのが、ツバペッペイ氏が正しいということ」

B「その話は、間違い?」

A「そう。ぼくの話はほとんどが間違い」

B「ではツバペッペイ氏は・・・」

A「・・・このぼくが判断したことなので・・・んまー、正しいともいえんな

B「ツバペッペイ氏は正しくないかも、ということでいいのかな」

A「・・・んまー、よかろう」


分かるとは何が分かるということか。

これを小学生のそうだなあ、4年生か5年生くらいで、考えておいた方がいいのかもね。

【道徳】嫌い、ということの誤解をなんとかする

文科省は基本法や指導要領で、とてもいいことを言っている。
わたしは基本的に、文科省のいうことは常識的で、素晴らしいと考えている。
よく読んでみると当然だが、人権的な配慮にあふれている。
というよりも、人権的にまちがったことを書いてある場所は皆無である。
差別をなくし、人を個として尊重すべき、と書いてある。

道徳の教科化については、賛否の両意見があるが、わたしはこの目標はすばらしいと考える。
「自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。」

しかし、授業自体は旧態依然としており、あの教科書をいくら読んで意見を出し合ったところで、なにか根本がずれているために、子どもたちは意外にも

他者とよりよく生きる

ことが難しいのである。

これは現場の教師としては苦しいところ。
文科省は
「道徳をしっかりやれば、いじめもなくなるし、子どもたちは他者を思う子に育つ」
と思い込んでいる。
ところが実際はそうならないから、困っている。
いじめが出れば、文科省は
「なぜいじめが出るんだ、道徳をしっかりやっているのか!」
と考える。
でも、その道徳をきめられたように教科書をつかってがんばっていても、いじめが起きるからみな苦しんでいる。
決定的なのは、当の教師自身が、「なんでいじめが起きるのかわからない」と思っていることだ。

〇子どもに原因があるとする考え。
〇親に原因があるとする考え。
〇善悪の判断が理解できていないのだ、とする考え。
〇礼儀を教え込んでいないのだ、とする考え。
〇伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度がたりんのだ、とする考え。

どれも違うし、ズレているから、上記のように考えている限り、決していじめの原因がつかめないし、人間とはなにかも理解できないままだ。

善と悪を分けましょう、というのをいくら学んでも、ちっとも学級の雰囲気は良くならない。
この実態をしったら、この現状をみたら、文科省のえらい人も泣くだろうと思う。
そして、なんでだろう、と疑問をもつと思うネ。

礼儀をいくら教え込んでも、不気味なロボット人間が多数出来上がるだけで、ちっとも子どもらしくない集団ができあがる。これも、文科省の役人がみたら、「こんなはずではないのに」と残念がるだろうと思う。

さらには国や郷土の良さを知って自尊心を高めることに重点をおいても、やはり子どもは決定的に変わることがなく、自分勝手で気分屋で、お母さんを困らせる点は変わらないのであります。

わたしには、文科省の担当者の気苦労がしのばれる。
子どもの学級集団は、1年間、ずっと同じように毎日顔を合わせるのである。
その集団が、安心して心地よい空間にならなければ、子どもは決して成長できない。
そのことに重点をおかず、子どもを律するために、とだけ考えて苦悶したのだろう。
最終的に結論がでず、ともかくあらん限りの指導のポイントをかきなぐった学習指導要領になった。

それが、これである。
A 主として自分自身に関すること
○ 善悪の判断,自律,自由と責任(低、中、高)
○ 正直、誠実(低、中、高)
○ 節度、節制(低、中、高)
○ 個性の伸長(低、中、高)
○ 希望と勇気、努力と強い意志(低、中、高)
○ 真理の探究(高)
B 主として人との関わりに関すること
○ 親切、思いやり(低、中、高)
○ 感謝(低、中、高)
○ 礼儀(低、中、高)
○ 友情、信頼(低、中、高)
○ 相互理解、寛容(中、高)
C 主として集団や社会との関わりに関すること
○ 規則の尊重(低、中、高)
○ 公正、公平、社会正義(低、中、高)
○ 勤労、公共の精神(低、中、高)
○ 家族愛、家庭生活の充実(低、中、高)
○ よりよい学校生活、集団生活の充実(低、中、高)
○ 伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度(低、中、高)
○ 国際理解、国際親善(低、中、高)
D 主として生命や自然、崇高なもの
との関わりに関すること
○ 生命の尊さ(低、中、高)
○ 自然愛護(低、中、高)
○ 感動、畏敬の念(低、中、高)
○ よりよく生きる喜び(高)

これをしっかりと指導すれば、いい子になるだろう、という文科省の願いである。
ところがそうならないから、文科省の担当者は、こういう文書を作成した直後から現在まで、常に苦悶しているのだろうと想像する。

安心して暮らせる、子どもが勉強をやる気になれる教室をつくるのは、たった一つ、これを解決すればいいだけである。

「嫌い」をじっくり考え、「好き」になる。

これだけで、友達が好きになり、授業が好きになり、教室の掃除道具が好きになり、友達の発言が好きになり、自分が好きになり、やる気に満ち溢れ、世界が変わり、地球が好きになり、過去も未来も好きになる子になる。

毎日子どもをみていたら、「単純でシンプルなことを自分を材料にとことんしらべていく」やり方のほうがあっている、と思うネ。

道徳の授業は、やらんならん、という要素を増やさない方がイイと思うがナァ・・・。

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