30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年04月

【温(ぬる)い社会へ!】今こそ創り変えていく時機(チャンス)!

コロナで社会が大きく変わろうとしている。
なにが正解なのか、みんな見通しを持てていない。
人の気持ちや社会通念(今までこうだとしていたこと)が、大きく変化している最中だ。

その『変わり方』で大切なのが、日本人のテンポ、だと思う。

幼い頃、おじいさん、おばあさんを観察していると、
ぬるい感じ
がしていた。

シュッとして、チャンとして、カチっとしているのが、自分の母親なのだとしたら、
祖父や祖母の家にいくと、なんとなく感じる、「ぬるさ」。

そうじ機も、自分の住む家の掃除機は、シュッとして、かっこいい。
デザインが、いい。

しかし、ばあちゃんが使う掃除機は、なんとなくもっさりとしてぬるく、
爺さまがわかす風呂は、ぬるかった、のであります。

まあ、わたしが幼かった、というせいも、ありましょう。
そりゃそうで、熱過ぎる風呂に、孫をいれようとは思わない。

いや、わたしがここで言ってるぬるさは、温度のことじゃない。

そうじ機にしても、母親なら、パッと手に取って、シュッと電源コードを差し込み、たちまちにして、サーッ、サーッ、と掃除をはじめる。

ところが、おばあちゃんはですね。
もっと、動作がのろいんです。はっきり言えば、遅い。

まず、コードが掃除機にまきつけてある。
それを、ぐーるぐる、ぐーるぐる、と・・・。
次に、ようやく掃除機をもちますが、一回で、スイッチが入らない。
何度か、指の先をすべらせて、ようやくパッチン、と入れる。

そこでサーッと始まるかと思ったら、そうじゃない。
そうじ機の吸い口が、やたらとつっかかる。なにかにぶつかるわけでもないのに、スーッといかない。
重そうに掃除機の本体を引っ張り、コードがひっかかり、ガタガタ音がして・・・音まで、ぬるい。
しかしそれでもばあちゃんは、丁寧に掃除機をかけて、ああきれいになった、とわたしにむかって、にっこりとして見せる。


今思うと、子どもを育てるのは、この「ぬるい」感じが似合うと思うねえ。
「遅い」とか、「のろい」とかだと、非難されて責められそう。

しかし、「ぬるい教育」だと、なんだか許される気がする。
とくに漢字で書くと、「ぬるい=温い」。

わたしは母親の掃除するところは、なにやら追い立てられる感じがして、見ていられなかったけど、
ばあちゃんが掃除しているところは好きで、ずーっと、飽きないで見ていられたもんネ。

子どもには、適温がある。
今こそ【ぬるい】という価値観へ、日本全体がシフトすべきだ。
断じて、元通りの「せっかち」が良い、という社会通念に戻してはいけない。
それは、多くの人を不幸にする。
ネットで注文したらすぐ届くのが良い、としていないか。
その気持ちは、どこかで宅配便の業務を圧迫しているのかもしれない。
子育ても同じだ。

全精力を傾けて、日本人が古来より大切にしてきた、ぬるさ、を復活させよう。
おそらく、日本人はついこの間まで、ぬるく、生きていたはず。
持続可能は、「ぬるい」からこそ実現できる。

family_ofuro

【コロナ禍】硬直したら、あかん

タモリさんが昔、ラジオの中で

「やる気があるものは去れ」

と言ったってネ。
なんか、わかるわ。
だって、ただの「やる気」って、どこか不健康だもの。

そのやる気、大丈夫?
やる気があるって、なにをやるの?
やる気がありますって、なにをするつもり?
なんのために?
それ、やれなかったら、どうなるの?
そのやる気、なくなったらどうなるの?

「笑っていいともは、スタッフにやる気があったら続かなかった」
だって。

お茶の間の人気者が
「すぐに終了すると思ってた」
と言いながらも、番組がずっと続いたのは、「やる気」がなかったからだそうで・・・。

NHKのブラタモリという番組の、讃岐うどんを放送する回の中で、こうも言った。
「コシがあるのは、ダメだねえ。人間も同じ。コシがあって、しっかりしているのは、だめ。コシがなくって、ふにゃッとしていないと

コシのない子は、しっかりしてない。つまり、世間の価値観とは無関係。
したがって、世の流行や世間体、損得や効率、見た目や評判に左右されず、「外圧」に操作されない状態でいられる。

世間の価値基準とは無関係でいられると、やはりこれは、いいことがある。
自分の中の「探求心」だけで動くことになるから、
なんといってもネ、『飽きない』の。
飽きない、めげない、くたびれない。
これが大事!


飽きないから、ずーっとやっていても平気。
マンネリズムに強い。

その一方で、コシがないから、途中でやめても平気。
やめるのが平気だから、平然としたまま、メンタルがやられてしまわないままで、
「次は、これね!」と明るく言える
プライド無いから、すぐリセットできる。
リセット力に優れる。
リセットできるから、いつでもスタンバイOK、という雰囲気。

コシのない子は、居場所を限定しないで、ふらふらするから、
新しいものに遭遇する可能性の高い子。
そして、世間の評価と無縁だから、自分で「面白い!」を決められる。
コシの無い子は、まだ誰にも評価されていない世界にも、優しい目を向けられる。

つまり、
「まだ形の無い世界」を、
創造できる子。


コロナウイルスの禍が起きて、世界が変わりつつある。
これからはもう、ソーシャルディスタンスをとるのが当たり前。
一斉に何かをする、長時間かけてする、という形が変わっていく。
お医者さんが本当にドライブスルーをやるとは思わなかったもの。

さあ、世の中、どんどん変わっていくぞ~!!

ドライブスルー
まー、硬直しとったらかんわ。(名古屋弁)

【今こそ!】子どもにモフモフの毛布を与えよ

くたくたになって帰宅したとき、ふわふわの毛布にたおれるように横になることがある。
そうすると、そこにふわふわな毛布の触感を得て、なんとなく、心が軽くなる。

これはまったく理屈に合わないことだ。
脳内の思考や苦労ごとや心配がなくなったわけではないのにも関わらず、なぜだか心が軽くなるのだから。

なぜか理由ははっきりしないけれども、癒される。
これは、ホントにわけがわからないが、たしかに実感としてある。
実に、不思議だと思う。

幼い頃、父が勤務先から、小さなトロフィーを抱えて帰ってきたことがあった。
父はそのころ、なかなかの熾烈な業界で営業をしていた。その月はどうやら父の販売成績が良かったらしく、職場の大会で表彰されたらしい。
母はうんと喜んでいたが、なんだか子どもには分からない大人の事情もあったようだ。つまり、懐(ふところ)の具合が、多少なりともあたたまったのであろう。母は常には見せないほど嬉しそうにしていた。

母はトロフィーを小さな箪笥の上に飾り、幼い私たち兄弟に、
「これは本当に大切なものなんだから、触ってはいけません」
と教えた。

ピカピカと金色に光るトロフィーは、実際にはただのプラスチックであっただろうが、わたしたちはそれを本当の「金」で出来ているのだと思い込み、父親を
「実はすごい男なのではないか」
と危うく思い込ませるほどであった。

ところで、一度、わたしはそのトロフィーを触りたくて仕方がなくなって、親の留守中にひとつ年上の姉と共謀し、箪笥の上のガラスの扉を開けて、持ち上げてみたことがある。

そのときの、重さには、実際感動した。
本当に重かったのだ。
わたしは、その金のトロフィーを何度も持ち上げて、やはり姉とふたりで
「うちのおとうさんって、すごい人かも」
と、束の間の勘違いにひたることができたのである。

ところが、その化けの皮が剥がれるときがきた。
今度は3つ年上の、ちょっと利口な姉が、わたしたちに真実をばらしたのであった。
「あんなの、ただのプラスチックだよ」
わたしとすぐ上の姉は反論した。
「ほんものだよ。だってあんなに重いんだよ」
それを聞き、すでに中学生だった一番上の姉は鼻であしらうように笑い、そのトロフィーの底の蓋をはずしたのであった。

そこから出てきたのは、小さな、コンクリートのかけらのような四角い石で、その石を取り去ったトロフィーは、とんでもなく軽かったのでありました。

トロフィーが軽くなった途端、ものすごい勢いで、わたしたちの幻想はガラガラと崩れてしまった。トロフィーの価値が、またたくまに消え去った。
「えー・・・」
小さい方の姉とわたしは、二人であまりのことに驚き、愕然とした。

ふわふわの毛布と同じく、重たいトロフィーには「価値」を感じる。
これは、理屈ではなく、身体的なメッセージが心に大きく作用した、ということであろう。
人間の脳は、理で悟るというよりも、身体で感じるメッセージの方を、かなり重要なものとして把握するらしい。
だから、わたしたちは手にずっしりと感じ取った「重さ」に感動し、
ふわふわの毛布の「やわらかさ」にホッと安心を感じるのでしょう。
これは、人間が「理」よりも「感覚」で生きているってことの、証明になりますね。

心が本当に痛んだようなときは、周囲がおせっかいに発する理性の言葉なんかより、人肌の温もりの方がどれほど恋しいことか。

猫が毛だらけな理由は、そこ。(←暴論)

理屈ではない。
毛だらけで、もふもふで、やわらかくて、あたたかくて、なでるとつやつやで、すべすべで、押すとやわらかい。

猫がどんなにナマケモノで役立たずであっても、うるさく鳴いても、お菓子の箱をふんづけて歩いても、許されてしまうのは、毛だらけだから、でありましょうナ。

教訓:学校休校の今、子どもには、ふわふわの布団を用意すべし。

ぬこ

ニューヨークに学ぶ 日本の教育現場でやれること

このところ、ずっと家庭訪問をしてきた。
長い臨時休校が続いたこと、とくに新学年になり、担任が変わったというのにほとんど会えぬままであったことから、子どもに自己紹介をする意味でも、顔を見せたかったからだ。
マスクをしたまま玄関から2m離れ、「はじめまして!」と大きな声で自己紹介をすると、笑ってくれる子どもの表情は、本当の救いだ。
しかし、それも『非常事態宣言』により、やめるようにお達しが出た。

学校には、低学年の子を中心に、約20%くらいの人数の子たちが登校している。
両親ともに在宅勤務がかなわず、どうしても預かる場所が見つからない子どもたちだ。
高学年はほとんどいない。留守番もできるし、場合によっては料理もするだろうし、危険回避をする知恵もある。学校にくるのは、低学年がほとんど。

しかし、ニュースは一向に明るくなる兆しがない。
おそらく、この低学年の子たちが学校に来れなくなる日も近い気がする。
この学校の区域内で、感染者が一人でも出れば、外出はもっと厳しくなりそうだ。
また、児童の保護者や教員の家族に感染者が一人でもでれば、おそらく学校は閉鎖だろう。

わたしが気になったのは、子どもたちの中には、あきらかにメンタルに不安を抱える子がいるだろう、ということだ。
当然だろう。大人であっても、そうだ。仕事のこと、生活費のこと、また子ども・家族に対しての負い目が発生しやすい。いつものようにいかないのだ。生活スタイルを思うように進めていけないことによるストレスがかかる。

今回の家庭訪問で、わたしは、最初の一言を決めていた。
玄関を開けて子どもの顔が見えた瞬間に、
「よかった!元気そうだね!」
と言うことにしていた。

その一言で、子どもの表情がぱっとほころぶのが分かった。
元気でいてくれさえしたら。なんとかあと少し、休校の間、健康に気を付けて過ごそう、と思ってくれたら。

玄関先に出てきてくれた保護者の中には、こういう人も多かった。
「先生、GW明けには、学校はぜったい始まりますよね。それでなかったら、困っちゃいますよ、ほんとうに」
わたしは、あいまいに笑うだけだ。

ニューヨーク市長は、9月まで公立校を再開させないことにした。
ニューヨークに住む人たちが、スーパーの入り口で、2mどころか5,6m近くも離れて立ち、それでもめげずに1時間待つことも我慢しながら買い物をしている風景を
ニュースの映像
で見た。
夜7時になると、町中から拍手が聞こえる。命がけで医療行為にあたる関係者へのねぎらいと尊敬のサインだ。
これほどの感覚が、まだ日本にはないような気がする。少なくともわたしの住む地域には。

「最悪を想定しなければ」

職員会議で、校長が言った。

もしも、このまま禍(わざわい)が収束せず、仮に5月下旬まで休校ということになれば、夏休みは一日も無いだろう。行事もすべて無くし、これまでの授業を取り戻さなければ。

しかしそれも幸運が味方してくれた場合の話だ。
先の話で、地域に感染者が出たら、また1,2週間の休校措置はありうる。

国が動かないのであれば、県で。
県が動かないのであれば、市で。
行政が、大きな公共の建物を建設するお金を教育費にまわし、機材を貸してくれないだろうか。
あるいはどこかの、ふとっぱらの大事業主が、タブレット機器をすべての小学生に貸与(与えなくても、この期間中だけ貸してくれればいい)してくれないだろうか。

そして、先生たちがそれぞれ、心のこもった動画をアップすればいい。
「こんな内容では公開できない」と責めたり、その動画の質や授業の質、内容を責めるのは、すべての禍が終わった後に、すべての教師の、動画アップへの努力をほめたたえた後にしてくれ。
教育委員会は、先生たちの真心を信じたらいい。授業がうまいへた、じゃないのよ。すぐに、子どもたちが、一日でも早く、「学校を感じる」ことが必要だからね。スピードなのよね。

絵本を読んでくれる先生がいてもいい。
自分の担任の先生が、いつもの顔を見せてくれて、自分たちだけのために絵本を読んでくれたり、話しかけたりしてくれるだけで、子どもたちの心にはぜったいにプラスになるでしょうよ。

算数の得意な先生は、黒板を前に、ていねいに教えてくれたらいい。
社会の得意な先生は、写真や資料をみせながら、考えさせてくれたらいい。
理科の得意な先生は、実験をしてみせてくれたらいい。

それを、教育委員会が「これは許可する」「これは許可しない」とやるから、心が疲弊する。
現場ではマスクをしようと注意喚起していたのに、WHOが「マスクは効果ない」とか言ってたから、広がった面もあるでしょう?
きくところによると、医療現場では「この人を検査したい」と判断しても、保健所が許可しないからできない、と困っていた現場のお医者様は、たくさんいたらしいですね。
つまり、現場ではなく、どこかの会議室で判断しようとするから、初動が遅れるのです。

今は、『非常時』。
現場が動かない、現場の判断で動けないのは、『非常時』には、まずいのですね。
非常時は、現場に権限を与えなければならない。(←と、諸葛孔明が言ってた気がする)

jikennha

コロナと敬語

今朝、一年生の子が

「ねえ、なまえ、なんていうの」

と聞いてきた。

ため口、である。
いや、あなたとわたしは、タメではない。かなり、離れている。
おそらく、あなたの母親や父親よりもわたしの方が年上であるぞ。

ところが、一年生の子は、

「ねえ、これ折って」

とか、

「こっちじゃない。あっちだ」

などと、わたしをタメであるかのように、扱う。


わたしは、敬語って何だろう、といつも考えている。
敬語でなくてはならん!とまことしやかに言う人も多いが、わたしは敬語でなくても平気である。

この、敬語でなくても平気、というのは、いつからか身につけてしまった私の思考癖で、これはもう、「癖=(へき)」である以上、変えがたいものだ。

だから、一年生が敬語を使わずわたしとしゃべっているのが、なんとも心地よい。
これはもう、癖(へき)だから、仕方がない。

癖(へき)だから、敬語抜きが、心地よい。
世間には申し訳ないが、気分がいい。

周りの先生は、
「こら。ていねいな言葉で言いなさい」
と指導している。

それはそれでいいが、相変わらずその少年とわたしは、タメで話をする。
私「どうする。これ、そんなに飛ばんぞ」
子「じゃ、こっち折れば」
私「そんなに折ったら飛行機じゃなくなる」
子「棒みたいになった」
私「ただの、紙の棒だな、それは」

日本中から、世間から、いっさいの『敬語』がなくなったら、どうなるだろうか。
おそらく、そのくらいの変化が、今、世の中に起きていると思う。

コロナウイルス騒ぎで、戦々恐々としている現代日本。
あなたを感染させない、というのと、自分を感染させない、というのが、これほど如実に同意義になる、わかりやすい例がなかったと思う。

つまり、わたしとあなた、は、如実に同一価値である。

同一価値が、お互いを敬うのは自然だから、自然な流れで敬語が生まれたのだろう。
と考えれば、敬語には本当の愛が詰まっている。

しかし、「わたしに向かって敬語を使わないとは何事だ!」と王様や先生が怒るとなったら、それはあんた、ちがうだろう、と言ってやらねばならない。

大事なのは、あくまでも、自然さ、ということだ。
お互いが、お互いを、『同一価値』とわかりぬいてからの、「しぜんさ」が。
幼子も老人も、人として、個人の尊厳の価値は、同じであるわけだから。(←世界人権宣言より)

しかし、おたがいが本当の本当に、心底尊敬しあったら、敬語は消滅する気もするね。しぜんさ、という点で、タメの方がちょっと分があるかな。

↓ Universal Declaration of Human Rights.
Universal Declaration of Human Rights


【教頭先生】その日のうちに帰りましょう

4月1日。
緊張感がただよう中、職員室があらたにスタートした。
多くの先生たちの異動があった。新しい顔ぶれ、新しいチームの船出だ。
大学を卒業してきたばかり、という若者もいるが、朗らかないい顔をしていた。
ベテランは余裕のある態度、面白いスピーチをして職員室をなごやかにさせる。
コロナのことはあるけれど、それでも学校はまじめに、まじめに、進んでいく。

先生たちはまじめすぎる、という言葉を巷で聞くことがある。
生真面目で融通が利かない。子どもを型にはめようとする、などだ。
たしかに、そういいたくなる場面もあるのかもしれない。
しかし、先生たちのまじめさは、本当は市民にとっては宝なんだとも思う。

どんなことも、子どもが混乱するのでは、という意見が出ればすぐに修正しようとして、たくさんのアイデアがでる。今回は、入学式も始業式も、イレギュラーな対応をしなければならない。大人数が集まる形がとれないシナリオをあらたに考える必要がある。
先生たちは、生真面目で、融通がきかないからこそ、手がかかっても、面倒であっても、できるだけ子どもにとってどうか、と考えてシナリオを考えようとする。そこを「そんなにまでしなくても」と言う先生は一人もいない。その姿勢は不思議なくらい共通している。職員室での暗黙の了解、になっている。そんなことは当然だ、というわけだ。

こういう先生たちの一貫した「まじめさ」が無くなってしまったとしたら、こんなに惜しいことはない。日本の小学校の教員が、いつもまじめな態度を失わないことは、われわれ『市民にとっての大きな力』なんだろうと思う。

ところが、それが先生たちの弱みでもある。
今日の職員会で、本当に多くの事案が検討された。長い、長い、職員会であった。
その終わりごろに、教頭先生がこう、言われた。

「できるだけ、その日のうちには、学校の玄関を閉めて、全員が家に帰るようにしましょう」

それを聞いて、苦笑がもれた。
おそらく教頭先生にしても、少しユーモアを加えてのセリフだったのだろう。
苦笑いをしてクスクス笑っている先生たちが多かったが、どこかに身に覚えがあるということ。つまり、深夜、日付が変わるころまで残って仕事をしていた経験があるのだ。

どんな仕事でも、たいへんなことはある。
厳しい状況に置かれたら、ときには睡眠時間を削ってもやらねばならない、ということもあるだろう。仕事、というものはそういうものかもしれない。多くの大人が、そういう状況で働いているのだとも思う。
わたしは、教師が深夜まで働くことが悪いとは決して思わない。
子どものためになる、と心から思えば、「この時を逃してはいけない」ということもあるし、ここまで用意しておかねばならない、というときもある。子どもが本当にこのことで伸びる、と確信すれば、成長する、と思えば、教師はまじめだからやりたくなってしまうのである。

しかし、そこまでしても、報われることは少ない。
そのことに親が言及することはないし、誰も知ったことではないからだ。
教師の仕事は、本当に報われないものである。
やってもやっても、報われない。それで心を病み、辞めていった知人もいる。
裏でどれだけ仕事をしているかを知っているから、保護者に責められ、烙印を押されたようになり、追い詰められていく同僚をみるのは本当にツライ。

今日の職員室の様子を、マスコミが報道すればいいのに、と思う。
いや、そんな回りくどいことをしなくてもいい。だれか一人でも、保護者が記者としてそこにいたらいいのだ。PTAがいい。職員室がどんな雰囲気なのか、いつも広報する人がいればいいのに。

それができないのが、今の社会の構造的な欠陥だろう。親は勤務をしている。学校にきて、記者のような真似をする時間も金銭的な余裕もない。無理なのだ。

わが子なのに、わが子のことなのに、親は密接につながることができない。
それが今の社会のシステムだ。
親が自分の子どものことを、もっともっと、平日の昼間の様子を、身近に知れるようになればいい。先生たちとともに、子どものことを話題にして、あれこれしゃべり、大いに愉快がり、子どもの成長をほんの一足、つまさき一つ分でもいい、成長したところを見つけ、地域の保護者、先生たち、つまり大人たちが、よってたかって喜べばいい。

子どもの話をしながら、せんべいを食べましょう!

IMG_5070
子どもの成長を見て、喜んでいるのが先生だけでいいのか。
保護者ともっと話したい!
10年前、教師になりたてのころ抱いた感覚は、今でも私の中にある。

(※ちなみに、2012年に書いた記事 ↓ 当時もこんなこと考えていたんだな~)

学校の教師がもっと社会に出ていくべきだ
http://arigato3939.publog.jp/archives/54402106.html
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