30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2019年07月

『土用の丑の日』を改革しよう!・・・水産庁の方へ

以下は、水産庁の方がひょっとしたら見てくれるかもしれないので書きました。
水産庁に所属する以外の方は、深く考えず、読み飛ばしてください。

◎なぜウナギを食べるのか

7世紀から8世紀に編纂された「万葉集」に、ウナギを詠んだ歌があります。
石麻呂に吾れもの申す夏痩せに
よしといふものぞむなぎとり召せ

(大伴家持)

「夏の暑さで大変でしょう。身体が弱ってきたと感じたのなら、むなぎ(ウナギ)を食べると良いよ」
友人の石麻呂という人に、家持がそう勧めたという歌です。
現代の栄養学と照らし合わせても、合理的だと言えるでしょう。

◎ウナギは大切な水産資源

日本人が、「土用の丑の日、うなぎの日。鰻を食すれば、夏負けすることなし」という平賀源内のコピー文に魅力を感じて、家族そろって鰻を食べてきたことは、とてもユニークだし、楽しいことです。

ところが、水産資源を一度に大量に消費することには問題があります。特に、現状のような売買の仕組みそのままで、消費することは大問題です。

売れ残りが、大量に出ます!

そして、それらはほぼ全量、焼却処分です!

日本人が完全に予約制でウナギを注文するならまだ被害は軽微で済むかもしれません。水産業の現場にまで1匹単位で予約をいれて、完全にその予約の数に従って仕入れをするのなら。
しかし、天然であれ養殖であれ、売れるかどうかわからない数を大量に「かば焼き風に仕上げて販売網にのせてしまう」ために、売れ残りの量が毎年3割もあり、それらが消費者の意識にのぼらないところで廃棄され、重油で燃やされていることを考えれば、水産資源を

今しかない!
この道しかない!
今でしょ!


と、ヒートアップした感覚で大量に売ろうとするのは、合理的ではありません。

人間は常に冷静である方が得をします。
生きているのだから、人間もたまにはヒートアップしたいときも無論、あります。そして、時と場合によってはヒートアップすることが楽しいのです。しかし、他国との関係やこういった経済に関係する思考は、できるだけ冷静なのがよいのです。

そこで、提案をします。

「年に一度だから」という理由のために経済的損失がでかくなってしまった、というこの風習を変えるため、うなぎを食べる日を、合理的に増やしましょう!

たとえば、もう一度、こよみを見直してみましょう。
なんと、土用の丑の日は、年に何度もあるじゃないですか。

【2019年の土用の丑の日】
1月28日、4月22日、5月4日、7月27日、10月31日

【2020年の土用の丑の日】
1月23日、4月16日、4月28日、7月21日、8月2日、10月25日、11月6日

水産資源の貴重さを十分に学習してから、(公共広告機構などでCMするといいと思います)今年は鰻をいつ食べようか、と7月に集中しないように考えるのです。

土用の丑は、春にも秋にもある!

ということです。

こう考えると、ウナギだけではありません。
クリスマスケーキの大量廃棄も、大問題です。
これも重油で燃やすらしいです。
せっかく中東の国から地球を半周してまで日本に運んできた貴重な重油。
ケーキを燃やしてよいわけがありません。

そこで、増やします。

【2019年のクリスマスケーキの日】
2月28日、5月22日、7月4日、9月27日、12月24日

クリスマスだ、と言っているのではありません。
あくまでも、クリスマスケーキを年に分散して食べよう、という日です。

おそらくジャニーズやよしもと興業の芸人さんたちが、

「おれは2月に食うよ」
とか
「おれは新緑のすてきな5月」
だとかテレビで言えば、日本人はすぐに「じゃわたしも」と考えるでしょう。

しかし年のチャンスが5回あるわけですが、そのすべて5回ともケーキを食べると不幸が訪れる、という都市伝説も一方で流しておいた方がよいかもしれません。食い過ぎです。それは。


christmas_cake

「怒っているとき」の頭脳が実はヒマな件

先日、怒っているときは頭脳がたいして働いておらず、暇~である、という記事を読んだ。
怒りは興味があるものに対して脳が理解できないサイン


怒りを正当化するとき、必死に頭を動かしているだろう、と思っているけれど、実は

「怒っている」

段階で、すでに脳は合理的に動くのをやめていて、ただ自分の気分を反復し、反芻(はんすう)しているだけだ。

怒っているときは、

◎こうしてほしかった

ということを、ただひたすら、脳の内部で何度もエンドレスで繰り返しているのだ。
実際の事実としては、こうしてほしかった、というその「願い」は実現されていない・・・。

(自分が思ったような現実でないと、こうなる以下)
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現・・・(以下ループ)

脳内のニューロンは、願いを強く刻印する。
この「刻印作業」にも意味はあって、刻印すればするほど、それが順当になぞれた(達成できた)ときの達成感(ごほうび、報酬的興奮、ドーパミン分泌)が多くなる。
つまり、脳内にイメージを刻印し、その達成のあかつきに、大きな喜び(興奮)を得ようとするのだ。

ところが、現実的に、うまくいかないとき。
ひとは、願いが実現されないため、なんとかその『刻印作業』を打ち消そうとする。
その打ち消し作業は、めまいのような混乱を引き起こす。
高速道路で急ブレーキをかけるようなものだ。
急ブレーキは、タイヤと路面の間に大きな摩擦を生む。
その摩擦が、「怒り」というわけだ。

つまり、怒りは合理的思考に努めようとする脳の、正常な規制機能なのである。

混乱に気付くと、人間はアクセルを踏むのをやめ、暴走寸前だった脳の運転を、正常化させようとする。(はず!だった・・・)

ところが、人は言葉をもってしまった。



「怒り」の感情システムは、太古の昔、ヒトがまだ、言語のコミュニケーションをもたなかったころ、できあがったものだ。

神経系の発達で脳の正常化をうながすシステムであった「怒り」機構は、めまいと混乱によって、自身にそれを知らせる、人に正常性をもたらす(リカバリさせる)ためにそなわったものだ。

めまい、混乱、という信号を受け取った人類は、そこで脳への刻印作業を一時停止する。
そして、自分が客観的にどういう状況にいるのかを冷静に見極めようと立ち止まる。
1)事実をみよう、とする。

2)事実はどうか、と信号を受け取りなおす。

3)そこで、どうするかを考え、選択し、行動にうつす。

このように、あくまでも、「怒り」というのは、自分の脳の、合理的な防衛的規制機能だった。つまり、人を正常化させるために備わった、人類の「生きる術」であった。

ところが、現代人になればなるほど、その「生きる本能、もしくは生きる技術としての脳システム」を、きちんと使いこなせていないのだ。

なぜか。

言語をもったとたん、

「おれは◎◎をしてほしかったんだ!」

ということを、何度もくりかえし、相手に説明し、わかってもらおうと延々と繰り返すことができるようになってしまったからだ。

そのことは別に怒りとは無関係の行動にすぎないのだが、人はそこで混線(こんせん)し、「言語で自分の思いをだれかに説明することと、怒りの感情は、セットだ」と思い込んでしまった。

おまけに、◎◎をしてくれていない相手が、『わが怒り』の感情を引き起こしたのだ、と勘違いするようにまで堕落してしまった。

ちがうっ、つーの。(※ひとりごと)

怒りは、自分が自分のために発生させている。

相手は一切、無関係である。

「怒り」さえも、幸福への道。

人間は、最初から、一切が幸福に生きるように設定されている。

(怒りシステム研究道・初代家本「碇屋ポン太博士の怒りシステム解体新書」より)

hysteric_okoru_man

愛知県は暑い!急に暑くなりよった・・・【悲鳴】

わたしの勤務する学校は、愛知県にあります。

今週より夏休みに入っているため、子どもたちと会うことはほとんどありません。

ですが、学校のプールを少しの期間、開放しております。

で、学校で会います。

ご機嫌です。

みんな。



そして、おそろしいことに

「先生、宿題ぜんぶおわらせたったー」

と、ニヤッと笑います。



「なんで先生、体育二重丸やないの」

と文句を言う子もいます。



「アイス買って食べようっと。いいだろう」

と、財布をみせびらかす子もいます。

「職員室、クーラーないの」

あるわけないでしょう!!

足元に汗がたまるくらい、暑いっての。

汗で、びったびた、です。

なんにもしてなくても。

書類をつくってるだけで、汗が噴き出てくる。


したがいまして。

学校で、2回ほど着替えます。

びったびた。

職員室、30℃は超えてます。とっくに。

廊下の床が、冷たく思えるので、おもわずそこに寝そべりたくなります。

実は、クーラー、あるんですよ、職員室には・・・。

でも、使いません。

お金がないから、ダメ、と。

市から、指導があります。みんな、ちゃんと守っています。先生だもの。




びったびた!



涼しいところに、行きたいなあ。


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国会とは何か、という授業【6年社会】

1学期の終わりに、国会や内閣、三権分立、裁判所、憲法などを学習した。
近代国家の基盤となる国家の制度は、学習しなければならない、というわけだ。

わたしのクラスには、「総理になる」と断言する男がおり、わたしは常々、

「これで本当に総理になったらすごい話だナ」

と思うのだが、おそらく無理であろう。
彼は、ともかく算数が苦手で、分数のわり算をみると「泣きたくなる」らしい。
まあ、分数のわり算の意味がよく分からなくても、もしかしたら時代が後押しをして、総理になる可能性はあるかも・・・。

さて、ちょうど参議院の選挙があった、という先週と今週にかけて、わたしは「国会」の授業をしております。子どもたちも、

「さんぎいんせんきょ」

という言葉は知っているし、両親やジジババが「投票」というものに出かけた、ということを知っている。

おしゃまな子が、いつものようにシッタカをかまして、

「かいけんするでしょう」

というから、当選した人の会見のことかと思ったら、【改憲】のことであった。





さて、クラスで話題になっていたのは、国会議事堂の工事のことだ。

共同通信の記事には、

『次第に全身が動かせなくなる難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の患者、れいわ新選組の船後靖彦氏(61)が当選確実となった。
国会設備の改善や議場へ介助者の同伴を認めるなどの検討が必要となりそうだ。参院の担当者は投開票日前の取材に「仮に当選した場合には、議員の意向をくんで最大限配慮する」としている。』

とあり、このことがテレビでも少し流れた?のらしい。(わたしは見ていない)

子どもがそのことを話題にしていて(おそらく両親が話していたとみられる)、

「国会議事堂、工事するかもしれんって言ってたよ」

と授業中に発言したことがきっかけで、わたしたちは10月に修学旅行で今年は東京に行くことになっており、みんなが次々と

「え?じゃあ、私たちが見学してるときに、工事するんかなー」
「国会にスロープってないの」
「エレベーターとかってあるの?」

など、興味をもって(というか心配になり)発言しはじめた。


一応、ニュースを見てきた、あるいは両親にそんなことを聞いたよ、という子が回答担当者になり、

「当選したから、なにかするかも」

と。



一番の心配は、国会議事堂の見学が中止になったりしないか、ということだったが、わたしが

「スロープを大きくするとか、一部そういうことがあるかもしれないけど、国会が閉鎖されて大工事、ということはないから大丈夫」

と言ったので、ホッとした空気が流れた。


ふだんなら、あまり子どもたちには「関係ない」ように思われがちな国会の授業だけれども、今回はタイミングがどんぴしゃだったから、みんな興味津々だったなー。



以下、関連するニュースより(抜粋)

◎内閣府によると現在、日本国内で身体、精神、知的障害のある人は963万人。2020年の東京パラリンピックを前に政府が障害のある人たちに配慮したインフラ改善を呼び掛ける中、船後氏と木村氏が当選した。

◎舩後氏の車椅子は意思疎通のための装置などを搭載しているため、一般的な車椅子よりもサイズが大きい。スロープを設置するなどして登壇できるかどうかの検証も必要になる可能性もある。



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はやぶさ大成功のニュースが流れて

「はやぶさ2」の成功が報道された。
あぁ、良かったな、と思う。
記念に、最初のはやぶさのときの記事を再掲することにしました。今夜はこの記事を懐かしんで読みながら寝ることにしよう。(以下の記事中のはやぶさは、1号のことです)


【以下、2013年2月の記事より再掲】

はやぶさ大成功のニュースが流れて、保護者の多くも話題にしてくださったようだ。
朝、学校へ行くと、
「先生、よかったね!!」
と何人もの子が声をかけてくれた。

先生、ニュース見たよ、とか、
いろんなトラブルがあったんでしょ、とか。

親も、子どもの興味に応じて、解説を加えてくれているようだ。

「すごいねえ」

「はやぶさ」が、すごいのだ。
そのプロジェクトが、すごかったのだ。
関わった人と、その情熱がすごかった。

私が以前、宇宙科学研究所で勤務していたことを少しばかり話していたので、保護者がその気になって、子どもに関わってくれている。
宇宙の話をしてくれていたり、家から宇宙の図鑑や本を持ってくる子もいる。
なかには、相当くわしい宇宙大好き少年もいる。

私も、そういう子にはできるかぎり、自分の分かるかぎりの話題を投げかけてみている。
人工衛星、探査衛星の話をするだけでも、いろんな話題がある。
星座はあまりくわしくないが、衛星にまつわる話や、そのデータを日本のどこでどう集め、どうやって送信し、どこで研究者がくわしく調べているのか、というような裏事情を少しは話すことができる。
そんな程度の、軽い話であっても、やはり伝わるものがあるのか、教室でもよくみんな、話を聞いてくれる。

惜しいのは、鹿児島の内之浦で撮影した、当時の写真が1枚しかないこと。

仕事場の同僚と、背広姿で、ロケット模型を背に写した写真しかない。

もっといろいろと撮影していれば、はやぶさの話もたくさんできたのにな、と思う。
(当時は仕事だったから、写真なんて撮っているヒマがなかった)

はやぶさの打ち上げの時、発射の向きが垂直でなく、斜めになっていることの話をしたら、今日はかなり子どもたちの興味をさそったらしく、

「テレビで見た!」
と大声で叫ぶのもいて、大いに盛り上がった。

日本のロケット発射技術、衛星探査の技術、そうした日本人の誇りとなる部分を伝えられることは、教師としても大きな喜びだ。
そして、こうしたロマンを教室で語れることが、本当に日本の教育でも必要なことなのだ。
大人が、真剣に頑張っている、ということを、たくさんたくさん、伝えたい。
シラケた顔の高学年に、真剣さを伝えるのには、「はやぶさ」の話題はもってこいなのだ。

はやぶさは、後継機を開発するという。
もちろん、必要だ。
教育界にとっても、たいへんに必要な出来事であり、プロジェクトである。

はやぶさ2が、楽しみだ。

はやぶさ

「ばかたれ」について

読者の方から、たまにメッセージをいただくので、返信のようにして書いています。

担任の先生が、「ばかたれ」とわりと怖い調子でおっしゃるとのこと。
「そんな言葉を使わなくても注意はできると思う」と。

わたしも同感です。

教室が暗くなります。
言われた子は、その言葉で何を感じて、何を思うか、というのが気になりますね。
教師はいつも、「子どもがどう思うか、どう考えるか」を考えるのです。
授業も同じです。教師が何を教えたか、でなく、子どもが何を学んだか、です。
その方が重要で、大事なのです。


さて、「ばかたれ」に戻りましょう。
当事者でなくとも、周りで聞いている他の子どもの心にも、そういう言葉がじわじわと影響することは間違いない事でしょう。

強い言葉でいうべきではありません。
なぜなら、その言葉は内容がツタワラナイからです。
強い勢い、先生の怖い表情、恐ろしい調子、なにか嫌われている感じ、だけが伝わります。
なにもいいことはないのです。だれも得をしません。

児童が教師に向かって暴言を吐く、ということもあります。
児童が牛乳瓶を黒板に向かって投げつけるとか・・・。
教員を長く続けていると、本当か、ということも聞きます。

中学校の担任をしていた知り合いの先生は、
朝、学校へ通勤する途中に、ボーッとしながら運転をしてて、

「あのトラックが、横からぶつかってくれないかなあ。そうしたら大手を振って入院できる」

と思って、その後、そう思っている自分にびっくりした、と言って話していました。

それでも、「ばかたれ」と言うべきではありません。
おそらく、必要なのは、その子自身に対する理解の深さです。


もしかすると、そこまでのことではないのかもしれません。
文面からだけではちょっとわかりませんが。
若い先生で、ともかく学年主任の年配の先生に怒られるのがいやで、
「落ち着いている、よい学級」をつくりたいのかもしれません。
それで焦って、

強い調子でガツンと叱って言うことを聞かせる

ことにした、というだけのことかもしれません。


20代の若い先生なら、休み時間にはもう子どもといっしょになって、サッカーなり、おにごっこなり、校庭をかけまわって遊んでいるでしょうかネ?

子どもは、そういうことをしてほしいのかもしれません。
もっと先生とおしゃべりをしたいのかもしれないし。
子どもは、大人からしたらただそれだけのことでも、言わないこともあるのですな。

面と向かって

「先生、いっしょにサッカーして」

と言わないことがあります。

いっしょに遊んでほしいのに、遊んでくれない先生に対して、
ちょっと反抗して見せる、ということもあります。

あるいは、もっと楽しい授業にしてほしいのかもね。
子どもも、以前の先生と比べますから。

「以前の、〇〇先生の教え方のほうが、上手だな」

と、なんとなく感じているものです。
でも、今の先生が自分の担任なのだから、いい先生だと思いたいし、ぐっとこらえて、授業を受けているのです。先生の努力も感じていて、うちの先生だって頑張っているから、とちゃんと受け止めようとしているのですね。

「ばかたれー」が、本当に愛情深く、大好きな先生の放った絶妙な一言で、みんなでそのあと、大笑いするような空気の中で、たわいもなく響いた言葉であればいいがな、と思います。

oowarai_man
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