30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2019年03月

【6年社会・歴史】京都旅行で新年度の準備

今回、わたしはかねてからお会いしたかった京都のプロのガイドさんに会うことにした。
6年生の担任をする、と決まる頃から、歴史の授業を大事にしたい、と思うようになったからだ。
京都を久しぶりに歩いてみたい。
それも、きちんと、ガイド付きで。
歴史の授業に、新たな視点が加わることだろう。

京都駅に着くと、八条口とは反対側の中央出入り口に出た。
ここには、羅生門の模型が立っていて、ちょっとした写真スポットになっている。

羅生門1


わたしが羅生門の説明をモニターで見ようと近づくと、帯(おび)を貝の口にきゅっとしめた粋な着物姿の欧米人が、i-phoneで自撮りしているところだった。
その欧米人はさまざまな角度で自分を撮影していたが、結局、羅生門をナナメ下から見上げるような角度がもっとも気に入ったらしかった。

彼は表情をさまざまに変え、髪をやわらかくかきあげたり、顔の向きを変えて流し目をしたり、いろんな工夫をした。3分ほどして、わたしが凝視していることに気付いて、はにかんだような笑顔になった。
わたしは「OK、OK、気の済むまで自撮りしてほしい」と思い、それを伝えようとした。

「OK、OK、I want you to take your self-portrait ・・・until you feel good」

顔を赤くして、なんとかしどろもどろの怪しげな英語を繰り出す。
すると、たいへんにきれいな日本語が返ってきた。

「すみません。お邪魔でしたか。羅生門を御撮りになりますか?」

フランス仁1


いえ、人を待っているので、大丈夫です。
わたしはボディランゲージを駆使して顔の前で大げさに手を振って大丈夫だという意を伝えたが、その後、彼が芥川の小説を知っているかどうか、とても聞きたくなった。
うまく聞けるか自信はなかったが、

「Do you know the story of RASHOMON written by AKUTAGAWA・・・」

すると、たいへんにきれいな日本語が返ってきた。

「ああ、羅生門は小説で読みました。ちょっとこわいところもありますが、京都に住んでいる身としてはとても身近なオハナシですね」

彼はどこまでも端正な顔立ちを崩さず、真面目にしっかりとした口調で話した。
どこの国から来たかとこれまた必死の英語で尋ねると、母国はフランス、と言う。
フランス語だったのか、しまった、とわたしは思った。
わたしが残念そうな顔をしていると、涼しそうな着物姿の彼はわたしに、

「観光ですか?」

と尋ね、わたしが懸命に、

「ウイ、ウイ」

と言うと、笑って「京都を楽しんでくださいね」と、言いながら去っていった。


さて、今回お世話になるガイドさんの名前は、加藤さん。
英語とロシア語のふたつのガイド国家資格を持つ、プロである。
加藤さんの話によると、ロシア語のガイドは数が少ないため、ロシア語メンバーがあつまると、プーチンの通訳はどうだったか、などの話題がふつうにあるそうだ。プーチン相手の仕事の依頼が来るなんて、面白すぎる、とわたしは思った。

加藤さんといっしょに、まずは御所へ行った。
京都御所は、かつては事前の申し込みがなければ参観できなかった。たまに一般公開があったが5日間ほどと短くその期間に観光客が殺到したそうだ。しかし今では通年で公開されるようになったため、御所はとても身近になった、と加藤さんは話した。

御所のまわりの広い公園につくと、朝早くからすでに多くの人が思い思いに歩いていて、桜や桃などの花が、はんなり、と上品に咲き誇っている。
歩いている人はいるけれど、静かに無言でその雰囲気を味わっている人が多く、喧噪はない。あたりはまったく、しずかで不思議な雰囲気で包まれていた。(つづく)

IMG_3704


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あいづちを『撃て!』

嫁様が新しく勤め始めた。
私立の保育所である。

そのため今は、毎晩のように、彼女の職場の話を聞かされている。
向こうは、新鮮な人間関係の中で、あれやこれやと面白いことがあるので、話したくてたまらないのであろう。「でね、そのときA先生がどうにかフォローに入ったから良かったんだけど、でもねぇ・・・」



ところが、わたしが相槌を打たないと、怒るのであります。
「ね!ね?・・・ねえ聞いてる?」

わたしはここで、夫婦間がうまくゆく方法を編み出した。
今日は、多くの夫婦の間柄を保つための、とっておきの方法を紹介したい。

それは、簡単なことではあるが、

「ちゃんと聞いたふりをしろ」

という、至極まっとうな、当り前のことである。

嫁様の話は飛躍が大きい。
あちらこちらに飛ぶ。
また、科学的ではないし、少々、論理的ではないところもある。
したがって、まともに神経を使って聞けば、

「え?ちょっと待って。さっきはこう言ってたけど、なんでなの」

とか、

「え?どうして、そんなに早く・・・?ええと、さっきの事件からそれって、どのくらい時間が経っているの?」

などと、訊き返さなければならないことがたくさん出てくる。

ところが、嫁様はそんな質問にはさらさら答える気はないし、
なんでわたしがそんな微細な部分にこだわっているのかなど、到底理解できないのだ。

したがいまして、もっとも両者にとって負担が少なく、
両者が笑顔になって、明日に向かっての英気を養えるようになるためには、
この方法しかないのであります。

まず、あいづち。
つぎに、あいづち。
そして、変化のあるオウム返し。
最後に、あいづち。

内容は聞いていなくても、である。


世の旦那サマたちに釘をさすが、もちろん、これは、こちらがへとへとに疲れている場合に限る。
話を聞けるのであれば、聞いてもらいたい。
当たり前である。

ところが、あいづちをうつのさえ、呼吸が乱れて難しいくらい、
会社で疲労している場合もあるのだから、そういうときは、こくん、とうなづくのがいい。

そして、「聞いているふりをする」のである。

「嫁の話は、きいたふりでしのげ」

さて、先日もこうやってしのいでいたが、
嫁様の話が、「子どもの悪口を言う先生」ということになったので、
わたしはひさしぶりにきちんとそれを聞き、ちょっとばかり意見も言った。

このつづきは、次回。


osyaberi2

持ち帰りの技術

学期末に近づくと、子どもたちは荷物を持ち帰ります。

最終日、両肩に荷物を食いこませるようにし、両手両肩にすべてぶら下げて帰宅する猛者もいる。

「せんせ・・・くるしぃ・・・」

だ、だいじょうぶ?と聞くが、

「なんとか・・・帰ります・・・」

歯を食いしばって歩いていく。



これは、どうしてこういう事象が起きるのか、不思議ですが、子どもからすると

「まさか、休みがくるとは思わなかった」

ということらしい。(事前に忠告は何度も受けているのに、ですよ?)

永遠に、毎日のように自分の人生は繰り返されて行くのだ、という感覚になっていて、朝起きてご飯を食べたら靴を履いてランドセルをしょい、友だちと道を歩いて教室に入り、みんなとすごすのがつづく、と思っている子がいる。

もちろん、きちんと毎日のようにカレンダーを見て確認し、

「最終日まであと10日。よし、そろそろ絵の具は持って帰ろうかな」

と計算できる子もいる。

しかし、まさか、この学年が、この学級が、おわってしまうとはついぞ考えたことが無かった、という子もいるのである。

いよいよ終業式が終わり、教室も片付いて、通知表ももらって、

「春休みですね、みなさんさようなら」

となってから、ぼうっと立ち尽くす子もいるのである。
「まさか、こんな形で終わるとは」
「人生に、こんな区切りがあるとは思わなかった」
「この毎日が、俺の人生のすべてだったのに」
「ずっとこの日常が、毎日が、くりかえされていくと信じていたのに」

とまあ、こんな雰囲気の心情であるのだろう。(推測)


わたしは実際、

「え、本当に終わっちゃったの」

と、子どもがつぶやいたセリフを聞いたことがあります。


とてつもなく不安な顔をしたまま、その子はゆっくりとランドセルをしょい、
水彩画のセットを肩にかける。
そして反対側の肩から画板をさげ、その上から今度は体操着袋をあらためて背中に背負う。

そして左手に図工の木工作品や家庭科でつくった布の袋や裁縫道具などを入れた巨大な「作品袋」を持ち、右手に上履きやらぞうきんやら、しばらく学校に忘れていたジャンパー等を入れたこれも大きな袋をさげたところで

「先生、ぼうしを頭にのせてください」

と言う。

見た目はもう、特別に仕上げた雪だるまのような雰囲気。

さらに、そのまま、画板をあちこちの机の角にぶつけながら歩いて昇降口へ移動すると、お世話好きで心配そうに見ていたクラスの気の利く女子から、

「あ、Kくん、これ忘れてる」

と理科の観察バッグと地図帳の入った袋を渡されるが、もうなんとしてもどこにも持つことができず、女子にうしろからランドセルをあけてもらって、そのふたの部分で地図帳と観察バッグを無理やりにはさみこんでもらって、なんとか『ほうほうのてい』で下駄箱へ行き、泣きそうになりながら靴をさがしてもらってはかせてもらい、まるで遠くから見ると人ではなく荷物が移動しているかのような恰好で、帰宅するのである。

すべての子がこういうわけではないが、こういう子も、いるのである。

「まさか、この幸福な毎日に、突如として終わりがくるとは、にわかに信じがたい」

こういう子が、世の中には意外に多いことに、世間はやがて気が付くであろう。
大人はスケジュールで動くが、子どもは心の満足で動くので、大人と同じような動機では行動しないという場合もあるのである。

春がすぎ夏がきて、秋がきて、冬がきたからと言って、このクラスや先生、この人間関係に区切りをつける必要が、なぜあるのか?
もっともっと、このままで時間をすごしたい。

「大人の事情です。ごめんね」
としか、言えません。
そういう決まりで、そういうふうに社会をつくったから、ということです。

「まあ、社会ちゅうものは、いずれ人間にふさわしいように変えていけるから、ね」

これが、Kくんとの春の別れの言葉となりました。
よい春休みを!

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言うことを聞く子、きかない子

嫁様は最近になって保育園で勤務しだした。

職場では新人で、子どもからも
「あの先生は、新しくきたんだよ」
とみなされている。

Aちゃんが、食後の片づけをしないまま、
お皿を持ってこないで、そのまま園庭に走っていこうとした。

嫁様は、あっ、と思った。
そして、とっさに「Aちゃん!片付けは・・・!」と、
言った。

Aちゃんは止まったが、また外をむいて、
やはり走っていこうとした。

今度は、園長先生が、
「Aちゃん、お片付けしてから~」
と言った。
すると、Aちゃんは、観念したかのように、歩いて戻ってきて、きちんと片づけたのであります。



嫁様はそれが面白かったらしく、
「園長先生はオーラがあるから、やるんだよね。観念してね」
と言った。


わたしは、子どものAちゃんから見て、園長先生と嫁様はなにが違うか、と思う。

Aちゃんは、園長先生が怖くて、言うことを聞いたのではない。
Aちゃんからすると、嫁様の発言は、意味は分かるが、自分が聞くこと、ではない。
ところがAちゃんからして、園長先生の一言は、自分がそれを聞くこと、になってる。


園長先生と、Aちゃんとの間の、それは信頼関係というべきか、
かたく結ばれた、なにかなのでありましょう。

この人のイウコトは、聞きたい。

そう思わせるものが、Aちゃんの中には、あるのですな。
園長先生に対しての・・・。


わたしはそれは、園長先生への、信頼だと思いたい。
園長先生は、最後には

「わたしはあなたのために最後まで責任を持つ」

という、真摯なオーラを持っているのではないか、と。

嫁様に無いわけではないだろうけど、どこかで
「わたしは平社員だから」
という意識があるのではないか・・・(ごめん)

教育とは、目の前の子どもに対して、良心によって、直接的に責任を果たそうとすること。
だれか別のえらい人が総責任者になってしまったら、もう現場ではだれも「当事者」にならない。

これがいちばん、恐ろしい。
「上からの指示なんでー」
という教育ほど、恐ろしいものはない。
だって、目の前の子どもに対して、何も思わない、ということが許されてしまうようになるからね。

現場の教師を、教頭校長が支え、教育委員会が支え、国が支えてほしいものだ。
ところが、国の指示を自治体が受けて『とにかく、国からの指示ですんで』で内容には責任をもたないまま、教育委員会に丸投げしてしまったら、もう教育委員会はなにもできなくなる。
その、何もできなくなった教育委員会を校長や教頭たちが必死になって支え、現場の教師がなんとか子どもたちに命令し、飲み込ませようとしているのでなければいいが・・・

杞憂でありますように。

教育は、「なんせ、上からの指示ですから・・・」で動いてはいけない。
目の前の子に、直接に責任を負う担任が「何も思わずにいてよい」ことを、許してはいけない。

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食器を投げる子、投げない子

春、終業式まであとわずか。

なんとなくしっとりした雰囲気で、給食をたべながら、
ああ、そういえば、食器を投げる子が、いなくなったなあ、と気づいた。

食べ終わったあと、食器を片付ける。
食器の入ったカゴというのがあって、かなり大きい。
そこに、全員分の食器がつみかさなる。

春、このクラスは、このカゴが、とっても汚かった。
食べ終わったあと、まだおかずのこびりついたような皿が、何枚も、このカゴの中に
ぞんざいに置かれた。
悪い時は、「投げ捨てるようにして、入れられた」感じがあった。

おもしろがって、放り投げるようにして入れる子もいた。
それも、何人も。
給食台の上が、飛び散ったおかずで、汚れ放題に汚れていた。

4月に担任を持ったとき、

「この状況を変えるのがゴールではない」と思ってスタートした。
形を変えるのは、1日で可能だ。
大声で怒鳴りつけるか、
厳しくチェックして事細かに注意するか、
名簿をもってきて、一人ずつ確認するか、
教師ならどんな手立てもとれる。


食事が、ていねいにできるようにしたい。
いつの間にか、そうなるように、この場がしあわせな空気で包まれるように。
「高級レストランのように」という言葉を子どもに向けて発しなくても、自然とそんな空気になるように・・・

こころが満たされて、満足して、安心して、友だちが好きで、ここにいることが幸せで、みんなとこうやって食事ができることが好きで、楽しくて・・・

そんな食事ができるなら、お皿を投げる気にもならず、おかずがとびちることも分かり、これをつくってくださる方、調理してくださる方の思いにも、どこかで通じていく気持ちをもてていることだろう。

つまり、こころがこまやかになる、ということだ。
それは、びくびくすることではない。
それは、こころがしめつけられ、ささいなことが気になる、というありようではない。
『気になる』、のではない心の状態。



「こうじゃなきゃ、なんか気になっちゃう」の反対が、いいなあ。
「どんな状況でもかまわないけど、なんかこうしたくなって、こうした」がいいなあ。


1年間を通してみて、この子たちの良さが見えてきたかな、というとき。
いつの間にか、子どもたちはみんな、落ち着いて食事をしている。

これは、担任が、この子たちの良さが見えるようになったから、
そういう目をもててきたから、
ようやく、この子たちは、本当の姿をみせるようになってきたのだろう。

大人が子どもを誤解しているから、食器を投げるのだ。
この世に、食器を投げる子、は、いない。

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