30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2019年02月

【4年国語】オノマトペの授業

ガリガリくんのアイスの写真
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ポッキーの写真
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ぷっちんプリンの写真
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この中に、オノマトペが隠れています。
【発問1】どんなオノマトペでしょう。
また、それは何を表したかったのでしょう。
お菓子メーカーの人は、なぜ商品名にオノマトペを使うのでしょうか。




これは、漫画に出てくるオノマトペです。
201201_03


【発問2】いったい、何を表したかったのでしょう。
なぜ、漫画では、オノマトペをたくさん使うのでしょうか。

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【発問3】日常生活でどんなときにオノマトペを使いますか。
1)保健室でこんな会話がありました。
自分「おなかが痛いです。」
先生『どんなふうに痛いの?』
自分「       と痛い」

(しくしく、ズキンズキン、ちくちく、ズーン等)

なぜ、どんなふうに、と聞かれたときに、
オノマトペを使ったのでしょう。


2)こんな会話がありました。
料理のおいしさを伝えたい時。
この店のフライドチキンは、ころもが「   」しておいしい。
だけど、あっちの店のはころもが「    」としてまずい。

(さくさく ベターッ、等)

なぜ、料理のおいしさを伝える時に、オノマトペを使ったのでしょう。



【発問4】この写真を見て、漫画のようにオノマトペを入れましょう。

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ノートに自分の考えたオノマトペを入れてみましょう。
また、そのわけを話してみましょう。

『ドキドキ』
演技をする男の人が緊張している様子。

『ハラハラ』
観客が緊張している様子。

オノマトペは、心の状態をあらわすときにも、使います。
日本人に限らず、世界中の言語でオノマトペは使われています。
ほかにもどんなオノマトペがあるのか、探してみましょう。

学校に行ってもよいし、行かなくてもよいとは本当か

前回の記事のつづき。

人間にとって、学校というのは何か。
「学校」のあり様は、歴史的にも、ものすごく工夫構築されてきた。
ち密に考えられているし、なにより国が本腰を入れてつくってきた。
国民の人生を、幼少時~少年少女時代~青年期、大人まで、微細に詳細に、考え尽くしたもの。
人材育成、国家繁栄、という目的を果たす巨大な装置、であります。
今でも一部の人が唱えている、税金を使っているのだからみんな行け、という論法は、
その前提が「人間は国のための生き物」という考えなのでしょう。

ところが、本来的には「国」のあり様を0ゼロから考えていけばいい話しなので、
「国は人間のための道具・装置」と考えれば、その税金を使っていかような学校を用意すればよいか、ということになる。

そこを考えようと思うと、多くの人間は、「待てよ」と思って震えることなりますね。
なぜなら、

「人間のための」学校・・・をつくった経験

が、無いからです。

歴史的にはそこが逆転で、「国のための人間をつくる学校」を長年かけ、執念と根性でつくってきたが、「人間のための学校をつくる国」をつくってきた経験はまったくない。
だから、「人間のため」ということになると、はた、と思考停止するわけです。

そんなことはない、という人もいる。
「自分たちは、人間のための学校をつくるために、試行錯誤してきた」
たしかに、私学の一部や、公立であっても「みんなの学校」のように、人間のため、ということを考えて実際の教育を直接的に責任をおいつくってきたところもある。

ところが、どこかぼやけている。
自信が持てない。

やはり、稼げる人にならないと、大人になって就職できない。

という前提を、考え直すまでにはなかなか至らないから、でありましょう。

ゴールは、大人になって稼ぐ、税金を払う、ということ。

そうなるための学校。

じわじわとそこから考えていくと、やはり就職に有利なような教育、経済界の求める人材像、会社に気に入られるように、というゴールになっていくのでは。

ゴールはどこか。
人間としてのゴールはどこか。
そもそも、ゴールをめざす、とはどういうことか。
人間と言うのは、ゴールをめざす生き物、ということでいいのか。

目的、かな。
そこは「分かっているもの」として、みんな話を始めるのが普通。

もしもそこを、丁寧に考えていくとしたら・・・

時間がかかってしょうがないから、
ゴールとか目的とかは、『はしょって』いきましょう!


ということか。

水ごけ

してもよい、しなくてもよい、というのは本当か

数々の職を経て、転職を繰り返した挙句に教員になった。今、学校という社会の中で生きるようになっても、頭のどこかで、「これが絶対のルール、ということではない」という考えは、ずっと滲みついて離れない。現に、学校のルールだって、見直しがあり、変わっていく。ぜったいにしなければならないと思っていた行事が、来年は校長の意見で廃止されることだってある。A校長が「家庭訪問は絶対に大事」と言っていたが、B校長は「廃止します」と言える。可能だからである。

「してもよい、しなくてもよい」ということがある。
たとえば、日曜日に礼拝にいく敬虔なキリスト教徒であったとしても、基本的には礼拝に「行ってもよいし、行かなくてもよい」という認識でいるだろうと思う。(想像)
また、われわれ市民の憩いの場である公園を、ひとが思い思いに散歩することについて、「してもよい、しなくてもよい」ということが言えるだろうと思う。
居住地についても、人間は選択をすることができて、〇〇県に住むことについては、「住んでもよく、住まなくてもよい」のだろう。

ところが、「してもよい」⇒「してよい」⇒「したほうがよい」と、進化する場合がある。

なかなか公園の利用機会が増えないので業を煮やした市役所行政係が、市民は公園を利用してくださいとよびかけて、公園の利用者にはペットボトルの備蓄用水を無料で配布したとしましょう。すると、これは、「してもよい」レベルではなく、官がそれを肯定している、つまり市民としては積極利用していくこと、に進化します。

さらに、「したほうがよい」から、「しなければならない」になる場合もある。

公園を利用しないと税金を高くします、という市長が立候補して当選し、公園利用者は経済的な恩恵を受けるが、利用しない人からは税金をたんまりとる、ということになる場合がそれだ。

ほとんどの市民が、日曜日に公園を散歩しないやつは馬鹿だ、ということになり、われもわれも、とみんなで公園を散歩しだすだろう。それが当たり前の風潮になってくると、ちょっとまずい。

ある人が
「おれはべつに、散歩しなくてもいいし、したい気が起きないので、散歩しない」
というと、

「おまえ、馬鹿だなあ。税金がとられるじゃないか」
といって、馬鹿にすることが起きる。

どうだろうか。
いつの間にやら、世界が変わっていることに気付きますね。
もうすでに、「してもよいし、しなくてもよい」という世界は、そこでは消滅しているのである。
「しないやつは馬鹿だ(白い眼)」
「しなければならないのだ」
と、なっているではありませんか!(びっくりですナ!)

人間社会の基本的なルールというものは、「してもしなくてもよい」であったのに、それをどんどんと放棄していくのが、現代という社会の宿命なのでありましょう。
(安楽死・尊厳死も、そのうちに「早めに安楽死しないと税金が高くなるから、早く死ね」と行政が言うようになるかもネ。嘘ウソ・・・こわーい・・・)

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スキーウェアを持ってきた子の話し

.
ある女の子が、スキーウェアをもって学校へやってきた。
久しぶりに雪が積もったからです。
そして、ふだん仲の良い学友たちがスキーウェアを持ってきていないのを知り、
「えー、今日はみんなウェアを持ってくるかと思ったのに」
と言って残念がっている。

すると、ふだんはそれほど一緒にいることはないけど、同じクラスの女子1人が、声をかけてくれたのです。
「うちは大丈夫だから一緒に外に出よう」
防水性のジャンパーを着た子だったので、彼女もその気だったのかもしれません。
その2人は、まあ特別に仲が良い、というわけでもない間柄でしたが、ともかく2人で外に行こう、ということになったらしい。

わたしは最初の子が、いつも横に居る仲良しの子に向かって何度も、
「〇〇ちゃん、外に行こうよ~」
と言ってたこともあって、
内心、残念がっているのではないか、と思いながら、
表情をじっと見ておりました。

すると、ですね。
あまりふだん遊んだことのない相手と一緒になって、
なんだか、お互いに、いつもの調子が出ないのでしょう、
彼女の表情からは、まだ残念そうな雰囲気が、抜けきらないのです。

まあ、それでも誘ってくれた子と2人で、廊下から外に出て行きましたわ。
静かに、何かしゃべりながら。



さて、遊び時間が終わる頃、校庭の隅の方から、
2人が校舎の方へ、歩いて帰ってくるのを見つけました。
わたしは、
「どうかなー、楽しんだかなあ」
と思いながら、様子を見ていますと、
こっちへ歩いてきながら、二人とも大きな口を開いて、笑っています。

それはそれは、本当に幸福そうに見えました。

笑っているから、幸福、というわけではないけれど、
「うちら、一緒に遊べるやん」
という発見が、愉快なんだろうか。

うちの友達は、AさんとBさんとCさんで・・・、という思い。
ところが、Dさんもいた。
なんや、これまでの、「うちの友達は・・・」、というの、ただのキメツケじゃん。

ふだん、一緒にはなかなか行動しない2人が、ひょんなことから共にお散歩してみたら、意外なことに楽しくて、なんだかいい時間を過ごせた、ということ。

キメツケは外れた方が楽しいね。

yukigassen

んなわけない、ということ

わたくしには、「こんな気がしてならない」というの、がある。

○仕事はできないほうがいい
○努力はしないほうがいい
○できるだけ無能なほうがいい
○まちがった方がいい
○できるだけ、達成せず、成果がでず、わくわくしないほうがいい
○しゃべらないのがいい
○みんなでなにかをやらないほうがいい
○反応しないのがいい
○夢は、ないのがいい
○感動しないのが、いちばんいい
○高みに登るより、一番底へたどりつけば全部見える。

さかさまダー。


聞く人はみな、
はなから無視するか、
馬鹿じゃないか、と思うか、
意味不明、と呆れるか。

そんな調子です。



でも、たまに、これを聞くと、

「にやっ」

として、私の顔を見る人もいる。

私も思わず、「にやっ」としてしまうネ。


あまのじゃく、というのは、ちょっと恥ずかしい。
良いものでは、ないね。

ゆめ
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