30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2019年01月

個性、感覚、すべて異なるのが当然

子どもは、一人ひとり、異なる。
どうちがうかというと、かなり、ちがう。

なにせ、親がちがう。
親の個性があり、価値観がちがう。
親の本音もちがうし、社会的な立場も違う。
大人としての意見もちがい、好みも違い、世の中への姿勢が異なる。

つまり、環境がかなり異なる。
それに、子ども本人の元来の資質がちがえば、完全に一人ひとりが異なるわけだ。

給食の時だって、個性が現れる。

食べた後、ていねいに食べる子、たくさんこぼす子、さまざまだ。
こぼしたものをていねいにナフキンで包んで、ゴミ箱にはらいにいく子もいれば、そんなことはおかまいなく、床にパッパッとうでで払ってそのままの子もいる。

ある子は、ご飯の上から、持参したスポイト容器で、水をふりかける。
これは、親御さんの指示による。



ある年、担任になったばかりの4月に、保護者の方が来校された。
会って話してみると、何ごとかを憂うような表情を浮かべて、

「先生、うちの子に、こういうものを持たせますが、担任として許可していただけますか」

と、何かをハンドバッグから取り出し、心配そうにわたしの前に差し出した。
手に持っているものを見せていただくと、小さなスポイト容器である。

「実はこの中に水が入っています。この水をふりかけると、食品中の有害な添加物を無害にできますので、給食を食べる前に、子どもにふりかけさせるために持参しますが、良いですか」

わたしはドキドキしながら、

「どうぞどうぞ。もちろんかまいませんよ」

と言った。

お母様は安心したように笑みを浮かべると、もう一つ、相談事があるのですが、と再度、不安げな表情になった。

「うちの子がこういうものをふりかけているのを見ると、クラスの中には『あ、へんなことをしてる』というように、うちの子に向かってからかったり、はやし立てたりする子が出ないとも限らないので、そういうときには担任の先生にフォローしていただきたいのですが」

「なるほど」

わたしはうなずいて、

「そういうときには、きちんと対処して、つらい思いをさせないようにしましょう」

と請け合った。

お母様は安心した様子で立ち上がり、礼を言って帰られた。


子どもは、親から大きな影響を受けて育ちます。
間近にいる大人、それも自分を育ててくれている親の本音を敏感に察知します。
親の本音は一人ひとり異なるのですから、子どもの反応もそれにともないます。
したがって、だれひとり、同じ子はいないのです。

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1年生とのふしぎな会話

今の勤務校では、最初から高学年ばかり担任している。
そのせいで、どの子からも

「あらま先生は、高学年の先生」

と認知されているらしい。

よく低学年の小さな子たちから、

「あ、お兄ちゃんの先生だ」
とか
「お姉ちゃんの担任の先生だよ」
と、言われることが多い。



先日、給食室の近くですれちがった、どうも1年生らしい男の子が、

「せんせい、てぶくろをはめてください」

と言った。

わたしは最初ちょっと、意味が分からなかった。
とっさにあたりを見回したが、わたし以外に、教師はいなかった。

男の子が差し出したものを見ると、小さな手袋だ。
男の子はもう一度、

「せんせい、このてぶくろを、はめてください」

と言った。
そして、自分のかわいらしい右手を、いっしょにわたしに向けて差し出した。

わたしは、「こんなことって、あるのかしらん」
と、3秒くらい、考えた。

とりあえず、その真剣なまなざしに負けて、てぶくろを受け取ってみると、合点がいった。

その手袋は、よくあるように、はめる口(くち)、手を入れるところが、ゴムで伸び縮みしないのだ。わたしは口をひろげてみたが、少し伸びたかと思うと、その先が、きゅっと締まっている。あとで誰かがそう加工したものか、もともとそういう製品だったのか。

もしかしたら、口がひろくて、その子の手からすぐに脱げてしまったのかもしれない。だから、糸を入れて、口を狭くしたのかも。
それでも、よく見てみると、とくにそのような加工をしたようにも見えなかったので、そういうような製品だったのかもしれない。
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手を入れる内側は、ふわふわの起毛がしてあって、あたたかそうだ。
たぶん、手首まできちんと入れてしまえば、具合よく、おさまるのであろう。

わたしはその子の手をとり、てぶくろをかぶせようとして、努力をしてみた。
親指を入れ、残りの4本の先を入れて、手首までをなんとかその狭い口からおさめることに成功した。

すべて入れてしまうと、こっちも、と左手を出す。

左手もおさめると、笑顔になった。

そうか。1年生は、この時間に帰るのか。バスに乗るまで、校内で待っている子なのだろう。偶然通りかかったわたしをつかまえて、

「よし、もう手袋をしておこう」

と思ったらしい。


その子は手袋を顔の横で振って、にっこりして、

「せんせい、ありが、とう」

と言った。

そして、去っていった。



わたしは何をしにそこへ来たんだか、ちょっと思い出してから

「あ、そうだった。灯油を取りに来たんだった」

と、歩き始めました。

高学年ばかりやってると、こういう感覚が薄れてしまいますね。
そうだそうだ、1年生の担任のときは、手袋はめるとか、こんなことはふつうにやってたワ。

お父さんとお母さんにはゆっくりしゃべってね

ゆっくりと話す女の子がいる。

彼女がゆっくり話すからか、まわりのみんなは、彼女の発言を注意深く聞こうとする。
彼女から、「言葉を大切に選んでいる」という感じを受けるからかもしれない。

ゆっくりとていねいに話すから、相手に対して何か言う時も、それがあまり責める口調に、聞こえない。だからか、自然な人気がある。

前からそんな雰囲気を持っていたな、と思っていたら、先日、ちょっとした会話の中に、ヒントがあった。

「今度の児童会の発表で、全校の前で話すことになったから、緊張する」

というので、

「そうだねえ。全校の前なんだもの、ねえ。緊張するよね」

と応ずると、彼女は

「でも、お父さんとお母さんに話すときみたいに、ゆっくりしゃべっていれば、たぶん大丈夫だと思う」

と言った。


ちょっと、わたしのセンサーにひっかかりましたので、尋ねました。

「お父さんとお母さんに話す時は、ゆっくり、を心がけているの?」

「はい。小さいときから、親に話す時はゆっくりしゃべってね、と言われてたから」


なるほど。

ゆっくり、か。
ゆっくり歩くとか、ゆっくり考える、とかあるけど、

「ゆっくりしゃべってね」

ということも、あるのだなあ。


この女の子は、
「人に話す時は、ゆっくりしゃべったほうがよい」
と道徳的に習ってしつけられたのではない
そうではなく、道徳的にどうこう、というよりも、
お父さんとお母さんから、お願いされた、ということなのだ。

「お父さんとお母さんは、あなたの話をきちんと聞きたいし、ちゃんとその意味をわかりたい。だから、お願いだから、ゆっくりしゃべってほしい。そうするとよく分かる」

というようなことが、過去にあったのではないかな、と。
この子は、それを10年間、続けているわけ。
大事な、お父さんとお母さんに、わたしのことを、きちんとわかってもらうために、ね。

探検にでかけよう

梅原猛と梅棹忠夫~科学と哲学の間~

.
高校の図書館で、梅原猛さんの本を一時期、順に読んでいた。
その隣に並んでいたのが、梅棹 忠夫さんの本。

両方とも、名前が『梅』なので、゛うめ゛繋がりで面白がって読んでいるうち、双方に共通のもの、あるいは少しちがったものを感じ取り、一年くらい楽しんだ記憶がある。
梅原(うめはら)と梅棹(うめさお)。
この2人を、交互に読んだのは、今でも幸運だったと思う。

梅原は、(日本文化の根本思想とは)生きとし生けるものと共生する哲学であり、科学や科学技術も、そのような哲学に裏づけられなければならない、と書いた。
梅棹は、科学は人間の業だ、と言った。
科学が人間を破滅に追い込むことは自明(原発事故が象徴的)だが、それは人間の業(ごう)である、と。

高校生の私は悲観して、じゃあ人間は自分でも抱えきれない、把握しきれない科学の影響から破滅してしまうってことか、と泣きたくなった。
しかしこの哲学者、科学者のお二人は、そうでない、と。
暗黒の中に、光明がある、と。

それは、「共感」だ。
梅棹先生は、「英知」とも言っていました。

知的にならなければならない。
人は、『知的』だから、光明を見るのだ、と。

人間が暴走するかしないか、紙一重。
そこに、人間ならではの共感する力が発揮できれば、暴走を一歩前で食い止めることができる。

たしかに、原子力発電所も、いわゆる利権があり、運動があり、経済の影響があり、それでお給料をもらって暮らす人もいれば、反対運動もあって、非難もされる。

推進派と反対派の、両方がいる。両方の立場がある。
そこには、「話し合い」はない。
マネーの力でごり押しし、我慾、我利を押しつけ合う姿や、それに抵抗しようとする姿はあるが、話し合いになっていかない。

梅棹先生は、原子力発電についての広報誌の中で、
「原発はきちんとコントロールするから大丈夫」という電力会社の人に向かって、

「民族学をやってる立場からいうと、人間ってのは、案外とあてにならんのです。まともでないことをしでかすのが人間。原発は高度なコントロール下におけば大丈夫という。そうかもしらんが、そのコントロールをなんでかしらんが、間違ってしまうのも人間なのです

というようなことを言っている。

原発をあきらめきれないのと同じで、人間は科学をあきらめきれない。
それが、業だ。(麻薬みたいなものだね。やめられないのだもの。やめられないのが麻薬だから)

しかし、その業と向き合うときに、だれかが、社会が、共感してくれたら、救われる。
人間は、業を抱えるけれども、その業が、人の共感で、解消する(やめられる)ことがある。

人間が、科学と添い遂げられぬ悲しみ。

その気持ちに共感さえしてもらえば。

解消することも、ある。

共感、を、祈り、とよぶ人もいる。

震災直後、なんでも博士の荒俣宏さんが、東京の街の節電風景を見ながら、「人々の祈り」のようなものを感じ取った、と語っていたが、こういうことかも。

ついでに思い出したが、鶴見俊輔は、「真理とは方向感覚である」とのこと。

もうこれで、日本の哲学者が3人もいなくなったことになる。
梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - 2019年1月12日)
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年6月25日 - 2015年7月 20日)

梅原たけ

【自由研究】錦織圭の強さの秘密

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父親「練習に行こうと親が言ったことはありません」
日本の若手トップアスリートにおける両親の教育方針に関する一考察
http://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2010_2/5010A317.pdf
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科
氏名:杉山芙沙子
 ↓
杉山愛
宮里藍
錦織圭
石川遼
 ↓

体罰・罵声・強制・威圧など、強い口調での指導⇒0人
自発的な子どもの意思と周囲の十分なサポート⇒4人

 ↓

子どもの意思を最大に尊重する周囲環境

 ↓

大人の意思も最大に尊重される

 ↓

評価の在り方

よくできた
うまくできた
上手にできた
立派にできた
(1割)

やりたいことができた
みんなの力を借りてできた
つぎの工夫もみえてきた
さらにやりたくなった
みんながよくなることができた
何より自分が楽しめた
(9割)

 ↓

事柄、現象、やること、内容は、実はなんでもよい

 ↓

学校での評価から一歩離れたところでの評価(自己評価や満足を含む)を得られる
裏文化
枠外での活躍

 ↓

子どもの何をみていくのか
内面・心情・人格的なもの
(評価するでなしに、まずは満足が得られているかという点)

 ↓

自分が「満足」したときの仲間への声かけ

 ↓

現代っ子⇒強い評価にさらされたときの衝撃に弱い
(内面が育っていない、なにが大事か、ということが分からない)
(「賞」をとるのが良い、有名になるのが良い、評判の良いのが良い、という偏った観方に陥る)

 ↓

引きこもり
(平成24(2012)年には63万人)
自殺
(30代までが年間7000人)
ニート

 ↓

外面(そとづら)、外見をよくしようとする。(就職活動うつ・内定ブルー)

 ↓

「人は、外見を見ただけでは判断できない」

 ↓

みんなのことを思って動こうとする子は、⇒ほうきで隅まできちんと掃く(かもしれない)が、
ほうきで隅まできちんと掃くから、⇒みんなのことを思って動いている(とは限らない)。

心が健康な子は、⇒毎朝元気に笑顔であいさつする(かもしれない)が、
毎朝元気に笑顔であいさつをすれば、⇒心が健康だ(とは限らない)。

心が荒れている子は、⇒隣の子が牛乳こぼしても助けないかもしれないが、
隣の子のこぼした牛乳を拭かないから、⇒心が荒れている、とは限らない。

心の栄養が不足している子は、⇒校庭のマラソンをしないかもしれないが、
校庭のマラソンをしないから、⇒心の栄養が不足しているとは限らない。

 ↓

「1回3時間の練習を週6日間やり、試合初出場から約1年後には初優勝を果たしている。筆者は非常に近くで杉山愛と接していたが、テニスに関して口うるさく言った記憶は全くない。常に彼女の意思を尊重にし、叱った経験もごくわずかだ。筆者はコーチ、ディレクター、そして母として杉山愛に一人の人間として接し、「テニスは楽しく、すること全てを楽しむ」ことや「自主性を重んじ、強要はしない」ことを教えてきたつもりである。」
(杉山芙紗子)

 ↓

どれだけ外面(そとづら)がよくても、悪くても、

「どうしたい?」

と聞いてもらえて、素直に、正直に、

自分の内面について、言うことのできる人間関係がなければ、

どんな活動も、子どもの本当の姿をみとったことにはならない。

 ↓

(場所)学校だけ
(人間関係)外面や態度面で良い子を演じる関係
(評価されること)うまくできたかどうか

 ↓

(場所)学校や地域全体
(人間関係)内面や心の満足について語れる関係
(評価されること)お互いに満足しているかどうか
素のままでいられるお互いの、子どもと大人の人間関係があれば、どんな活動も、プラスになるに決まっている。

逆に、内面を正直に、嘘偽りなく、良い悪いの評価を超えてあらわし、純粋に励ましてもらえる人間関係がなければ、どんなに「良い」とされる活動をしても、なんの足しにもならない。

 ↓

そうやって励ましあえる人間関係に。
もっともスムーズに入るために。

まず手始めは、やっぱり、自分のなかの最も分かり易いマイナス(?)の感情、「怒り」と真剣に向き合うことからかな。

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しつけの方法

「ほめるか叱るかによって子どもの性格をコントロールできる」という前提が、教育界には根深く残っているように思われる。

だから、花壇の花の上を、おにごっこで駆け抜けていく子を、担任は叱る。

自然を愛し、花を愛することのできる心優しい子どもに育てるために、叱る、というわけだ。

「ほら!ハナの茎が折れちゃったじゃないの!ここ!足跡が残っている!あなたの足あとでしょう!」

ところが、ここで叱られたからといって、この子はべつに、花を愛し、心やさしくなる、とは限らないのでありますね。

「そんなことないでしょう」という人は、人間の行動を「訂正」し、その「訂正」を繰り返していけば、すばらしい人格の持ち主になれるはずだ、という思い込みを持っているのではないだろうか。


花の世話をしない子に、罰を与えても、好きになってはいかない。
自然の好きな、花の好きな子にしようとして、
「花を好きになりなさい」
と、指示を出しても仕方がない。
担任が花に興味がないのに、花が好きだというフリをして、
「花って良いねぇ」
何度話しかけても、子どもには見抜かれてしまいます。
ふとした瞬間に教師が見せる、興味のない視線の方が印象深いし、察知されます。
子どもは本能的に、教師の本音を感じて、そこに自分の行動も規範も言動もすべて、合わせようとするのです。

つまり、子どもを「花の好きな子に育てよう」としても、これはなかなかそうはいかないものなのです。

かように、「人間の内面になにかが育つ」、というのは、「悪い芽を摘む」こと以上に、なかなかたいへんなことのようでありますね。

ところが、何もしないのに、いつの間にか、その子に育っているものがある。そういう場合がある。
花好きのおばあちゃんが近くに居ると、いつの間にやら、何も教えないのに、けっこう花好きな子になっているので驚くことがある。

これは、意識的で意図された明確な指導よりも、無意識的態度のうちに伝わってしまう指導の方がはるかに有効だ、というわけ。

こう考えると、世の中的にみた犯罪者をつくらないための指導、というのは学校教育では施すことができるだろうが(←これは、そういうものだとしてルールを強く教えることにより・・・)、しかし一方で、その子の内面にさまざまな豊かな世界を構築さしめる、ということについては、なかなか学校教育では難しいのではないかと思われてならない。

向いているのは、先生ではなく、まあ親か・・・それとも、一番いいのは「じじばば」くらいの距離感のある人たちかもネ。それも、口うるさくなく、意図的に教育しようという意志が皆無であるようなタイプのじじばばが、もっともふさわしいという気がするナ・・・。

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「自分がされていやなことは、他人にはしない」

新しく道徳が教科となった。

教科書を読んでいると、この本のいちばん底に流れている思想は、結局はこの「相手の身になってみよう」に尽きてくると思われる。


ところが、これは実は重大な落とし穴がある。

ぼく、平気だもの。

という子。
この子には、これは通用しないのであります。

AがBを蹴る。
Bが痛い、と泣く。
Aに対して、「Bくんの気持ちを考えてごらん。あなただって、蹴られたら痛いし、いやでしょう」
すると、驚くなかれ、Aは、こう言い放つのであります。

「だって、ぼく、蹴られても平気だもん」

教師はいぶかって、再度念を押す。

「本当に?だって、蹴られたらいやでしょう」

Aは、首をふって、「本当に平気だもん」

ここで前提が崩れてしまう。
すべての人が自分と同じ性格であることを前提として話を進めていれば成り立つ話が、実際は成り立たないのであります。つまり、
自分がしてもらいたくないことと、他人がしてもらいたくないこと、
自分がしてもらいたいことと、他人がしてもらいたいことが同じである。
という前提があって初めて、成り立つ話なのだ。ところが、実際の人間は、そうではない。

Aは、まじめ、である。
このくらいの蹴り方で、こんな程度に蹴られることなんて、ぼくは平気だ、と思うのである。本当に、心からそう思っているのである。このくらい、本当に平気だ、と思うのであります。

だから、この場合は、

「Bくんの気持ちを考えてごらん。あなただって、蹴られたら痛いし、いやでしょう」

ということではなく、

「Bくんは、あなたとちがって、痛いかもしれない、と考えよう」

ということを教えるべきである。

つまり、人間はこういう場合はこんなふうに考えるものである、感じるものである、というのは一切ただのキメツケである。実際には「そんなセオリーはどこにも無い」。

そうなると、Aは新たな問いを発見するであろう。
「なぜ、自分Aと、あいつBとでは、考え方や規準、道徳感情や価値観が、異なるのだろうか」
ここを考えるのが、教科としての道徳の、真のあり様ではないだろうか。


たしかに、生活上のルールを考えるのは、簡単だ。

〇たたくのはやめよう
〇けるのはやめよう
〇画鋲を置くのはやめよう
〇相手がいやだと思うことを強要するのはやめよう
〇パワハラはやめよう
・・・
しかし、こんなことは、「道徳の本質」とは異なるものである。


道徳は、「人間関係をスムーズにする方法や手立て、ルールを考える」というレベルを超えていく。
結局は、「人間とはいかなるものか、という研究」に近づいていくのではなかろうか。

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「ひったくる側」の心理

久しぶりに実家へ帰省。
夕食後、くつろいでいた姉から、イタリアの話を聞いた。

若かりし頃、姉はフランスに住んでいた。
1996年というから、ちょうど、ミッテラン大統領の国葬があった頃ですね。

ともかく、腹が減り、金は無い生活。
真冬でも暖房をつけず、震えながら暮らしていたため、仲間の日本人までが
「この部屋、だいじょうぶなの?」
と驚くほどの困窮ぶりだった。

それでも、「何でも見てやろう」の小田実じゃないが、若い頃というのは意気盛んなもので、なけなしのバイト代をやりくりし、一人でヨーロッパをよく旅した。

イタリアに入り、ちょっとした街を散策していたとき、向うから走ってきた男が、肩から下げていたショルダーバッグの紐を引っ張り、そのまま逃げ去ろうとした。

よくある、ひったくり、である。

ところが、こっちは、このバッグと金を無くしたら、もう二度とフランスにも日本にも帰れない、という悶絶状態の人間だから、おいそれと渡すわけにいかない。
そのまましがみついた。

そのとき、脳裡によぎったのは、

「ひったくられたら、おとなしく渡せ。あきらめない場合、下手をしたら刺されることもある」

という、旅行者が何度も聞かされるアドバイス。

姉は、ぼうっとした頭の中でゆっくりと

「あ、私はここで刺されて死ぬんだ」

と思ったそうだ。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと、地面が近づいてきて、倒れ、痛みを感じることなく、そのまま引きずられた。

実際にはそんなことは一瞬だったろう。
あとで、近くで見ていたイタリア人が、
「あなたは派手に転んだから、頭を打ったんじゃないか」
と心配したほどで、なぜ時間をゆっくりに感じたかと言うと、それは脳の処理速度が一時的に高速化したのであって、いわゆる死ぬ直前の『走馬燈状態』だったようだ。

その、脳が高速化した状態で、姉はわりと冷静になって

「わたしを刺すのはどんな男なんだろうなあ」

と思って、ショルダーバッグを引っ張られ、地面に倒されながらも、男の顔を見たらしい。身の倒れる角度がちょうど、犯人の顔を見られる向きだったのかもしれない。

「よく、そんな余裕があったねえ」

と感心して聞くと、

「なんだかとてもゆっくり時間が流れていたので、男の顔を見る余裕もあったんだよねえ」

と言った。

で、その男の顔を見て、姉はとても意外に思ったという。
その男は、泣きそうな顔をしていた、というのだ。

姉としては映画に出てくるように、ふてぶてしい悪党面(づら)で、人を恫喝するような悪い人相を思い描いていたのに、実際はちがう。

男は、甲高い声を出して何度もバッグの紐を引っ張り、姉が倒されてもまだ離さぬため、本当にくしゃくしゃの顔のままで、イタリア語で何か言いつつ、ぐん、ぐん、とくりかえし、引っ張ったそうだ。

姉が

「この人は何が悲しいのだろうか?」

と、とても純粋になって考えていると(といってもほんの0コンマ何秒の間に)

彼は、まるで子どものような泣き顔になり、あきらめて手を離すと、走り去ったそうだ。

「今でもあのイケメンの顔を、ときどき思い出すわ」

上の姉が

「よく刺されなかったねえ」

と感心すると、

「倒れて引きずられたんだけど、あの頃はフランスの食事にはまっていて、今よりかなり体重があったからねえ。あの男も、わたしを何メートルか引きずってるうちに息が切れて、体力が残ってなかったんじゃないかねえ」

と、呑気な顔で語るのであった。

今ならぜったいに手を離す、とのこと。
金よりも、命、である。



さて、わたしはこの話を聞いて、人に対して強圧的な態度に出る場合や、上から命令的、圧迫的な態度に出る場合というのは、それを心から当然のように思っているのだろうと思っていたが、もしかしたら違うのかもなあ、という気がしてきた。

ヒトラーのように、あるいはインパール作戦の牟田口(むたぐち)将校のように、強圧的に人に接してきている人の精神構造として、
「他の人間は自分にひれ伏すべき」
と心の底から感じているから、そういうことができるのだろう、と思っていた。
ところが、そのひったくり男は、悲しいような、泣きそうな顔をしていた、というのである。

人が、泣き顔になるとか、突然に激しい感情をあらわにする、というのは、その元に、背景に、なにかしらトラウマがあるものだ。イタリアのひったくり男は、どういう過去をもっていたのだろうか。まだ若かったというから、学校教育を受ける途中でトラウマを持つようなことがあったのか、それとも彼を育てた親との間になにかあったのか。いずれにしても、泣きながらひったくる、というのは、いかにもバランス感覚のない、幼いような感じがする。

人に対して強く出る、という行動の裏側に、なにがあるのか。

世間では、今、韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊のP1哨戒機に火器管制レーダーを照射したということが、話題になっている。韓国と日本の両国ともに、「相手に対して強圧的な態度に出よう」という行動が見える。
お互いが、お互いの国に対して、トラウマを持っている。あるいは、中国やアメリカに対して・・・。

必要もないのに相手に対してとんでもなく卑屈になったり、こちらの言い分だけを押し通そうとしたりすることがありはしないか。
極端な卑屈か、極端なわがまま、という具合にしか表現できないのは、不器用を通り越し、バランスを欠いた「幼い」ことのように思える。

結局、自分の抱えているトラウマを、双方が自覚することからでしか、いい解決は見つからないだろう。

カバン

言葉を使う弊害

言葉があるのだから、通じて当たり前、なのかどうか。
人と話をするんだけど、なんかわかってもらえてないな、伝わっていないな、おそらくずれてるだろうな、というコミュニケーションもありますね。

よくありますのは、子どもが
「先生!〇〇くんが急に椅子を動かして、指に当たりました!」
とか、訴えてくるとか・・・。

彼女の希望は何なのか。
あるいは要望、というより、なにか別のことがいいたいのか。
もしかしたら、なにも言いたくはないのか。

怒っているのか、残念なのか、何なのか。
それともその事象を万事受け入れた上で、報告だけをしたいのか。
びっくりしたから、そのことを分かってほしいだけか。

このあたりの微細な感じは、なかなか言葉にでもできない、のが普通じゃないかと思うね。

前述の、「指に当たりました!」のとき、私も含め、多くの先生たちは、何かしなければ、と思う。しなくてはならないのは、その子の思いにできるだけ沿うこと。ところが、先生だけがどこか関係のない方向へ突き進んでいく場合が・・・。

教師「なに?〇〇が椅子をぶつけただと?・・・〇〇くん!こっちに来なさい!!」

Aさん(え?そんなこと言ってないのに・・・)

だれも望んでいないのに、先生が暴走することだってある。
言葉を聴いたから、気持ちがわかった、と勘違いしやすいのかも。

教師は、こういう場合はこう対応するのが良い!

って、指導法というスキルをいくら身につけたとしても、人間の心ってものを知らないから、ずれまくって結局、子ども社会をややこしくしているのかもしれない。

つくえ

『賀正』26万アクセスありがとうございます

いつもアクセスしていただいてる、多くのみなさまへ。

新しい年、みなさまに、幸多きことをお祈りしています。

2019年、よい年になりますように。

愛知県の片田舎より。

(さて、みそ煮込みでも食いに行くか)


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