くたくたになって帰宅したとき、ふわふわの毛布にたおれるように横になることがある。
そうすると、そこにふわふわな毛布の触感を得て、なんとなく、心が軽くなる。
これはまったく理屈に合わないことだ。
脳内の思考や苦労ごとや心配がなくなったわけではないのにも関わらず、なぜだか心が軽くなるのだから。
なぜか理由ははっきりしないけれども、癒される。
これは、ホントにわけがわからないが、たしかに実感としてある。
実に、不思議なことだと思う。
幼い頃、父が勤務先から、小さなトロフィーを抱えて帰ってきたことがあった。
父はそのころ、なかなかの熾烈な業界で営業をしていた。その月はどうやら父の販売成績が良かったらしく、職場の大会で表彰されたらしい。
母はうんと喜んでいたが、なんだか子どもには分からない大人の事情もあったようだ。つまり、懐(ふところ)の具合が、多少なりともあたたまったのであろう。母は常には見せないほど嬉しそうにしていた。
母はトロフィーを小さな箪笥の上に飾り、幼い私たち兄弟に、
「これは本当に大切なものなんだから、触ってはいけません」
と教えた。
ピカピカと金色に光るトロフィーは、実際にはただのプラスチックであっただろうが、わたしたちはそれを本当の「金」で出来ているのだと思い込み、父親を
「実はすごい男なのではないか」
と危うく思い込ませるほどであった。
ところで、一度、わたしはそのトロフィーを触りたくて仕方がなくなって、親の留守中にひとつ年上の姉と共謀し、箪笥の上のガラスの扉を開けて、持ち上げてみたことがある。
そのときの、重さには、実際感動した。
本当に重かったのだ。
わたしは、その金のトロフィーを何度も持ち上げて、やはり姉とふたりで
「うちのおとうさんって、すごい人かも」
と、束の間の勘違いにひたることができたのである。
ところが、その化けの皮が剥がれるときがきた。
今度は3つ年上の、ちょっと利口な姉が、わたしたちに真実をばらしたのであった。
「あんなの、ただのプラスチックだよ」
わたしとすぐ上の姉は反論した。
「ほんものだよ。だってあんなに重いんだよ」
それを聞き、すでに中学生だった一番上の姉は鼻であしらうように笑い、そのトロフィーの底の蓋をはずしたのであった。
そこから出てきたのは、小さな、コンクリートのかけらのような四角い石で、その石を取り去ったトロフィーは、とんでもなく軽かったのでありました。
トロフィーが軽くなった途端、ものすごい勢いで、わたしたちの幻想はガラガラと崩れてしまった。トロフィーの価値が、またたくまに消え去った。
「えー・・・」
小さい方の姉とわたしは、二人であまりのことに驚き、愕然とした。
ふわふわの毛布と同じく、重たいトロフィーには「価値」を感じる。
これは、理屈ではなく、身体的なメッセージが心に大きく作用した、ということであろう。
人間の脳は、理で悟るというよりも、身体で感じるメッセージの方を、かなり重要なものとして把握するらしい。
だから、わたしたちは手にずっしりと感じ取った「重さ」に感動し、
ふわふわの毛布の「やわらかさ」にホッと安心を感じるのでしょう。
これは、人間が「理」よりも「感覚」で生きているってことの、証明になりますね。
(だから「感覚」ばかりで話をするし、それで混乱して不幸になっている)
心が本当に痛んだようなときは、周囲がおせっかいに発する理性の言葉なんかより、人肌の温もりの方がどれほど恋しいことか。
猫が毛だらけな理由も、そこにある。
理屈ではない。
毛だらけで、もふもふで、やわらかくて、あたたかくて、なでるとつやつやで、すべすべで、押すとやわらかい。
猫がどんなにナマケモノで役立たずであっても、うるさく鳴いても、お菓子の箱をふんづけて歩いても、許されてしまうのは、毛だらけだから、でありましょうナ。
そうすると、そこにふわふわな毛布の触感を得て、なんとなく、心が軽くなる。
これはまったく理屈に合わないことだ。
脳内の思考や苦労ごとや心配がなくなったわけではないのにも関わらず、なぜだか心が軽くなるのだから。
なぜか理由ははっきりしないけれども、癒される。
これは、ホントにわけがわからないが、たしかに実感としてある。
実に、不思議なことだと思う。
幼い頃、父が勤務先から、小さなトロフィーを抱えて帰ってきたことがあった。
父はそのころ、なかなかの熾烈な業界で営業をしていた。その月はどうやら父の販売成績が良かったらしく、職場の大会で表彰されたらしい。
母はうんと喜んでいたが、なんだか子どもには分からない大人の事情もあったようだ。つまり、懐(ふところ)の具合が、多少なりともあたたまったのであろう。母は常には見せないほど嬉しそうにしていた。
母はトロフィーを小さな箪笥の上に飾り、幼い私たち兄弟に、
「これは本当に大切なものなんだから、触ってはいけません」
と教えた。
ピカピカと金色に光るトロフィーは、実際にはただのプラスチックであっただろうが、わたしたちはそれを本当の「金」で出来ているのだと思い込み、父親を
「実はすごい男なのではないか」
と危うく思い込ませるほどであった。
ところで、一度、わたしはそのトロフィーを触りたくて仕方がなくなって、親の留守中にひとつ年上の姉と共謀し、箪笥の上のガラスの扉を開けて、持ち上げてみたことがある。
そのときの、重さには、実際感動した。
本当に重かったのだ。
わたしは、その金のトロフィーを何度も持ち上げて、やはり姉とふたりで
「うちのおとうさんって、すごい人かも」
と、束の間の勘違いにひたることができたのである。
ところが、その化けの皮が剥がれるときがきた。
今度は3つ年上の、ちょっと利口な姉が、わたしたちに真実をばらしたのであった。
「あんなの、ただのプラスチックだよ」
わたしとすぐ上の姉は反論した。
「ほんものだよ。だってあんなに重いんだよ」
それを聞き、すでに中学生だった一番上の姉は鼻であしらうように笑い、そのトロフィーの底の蓋をはずしたのであった。
そこから出てきたのは、小さな、コンクリートのかけらのような四角い石で、その石を取り去ったトロフィーは、とんでもなく軽かったのでありました。
トロフィーが軽くなった途端、ものすごい勢いで、わたしたちの幻想はガラガラと崩れてしまった。トロフィーの価値が、またたくまに消え去った。
「えー・・・」
小さい方の姉とわたしは、二人であまりのことに驚き、愕然とした。
ふわふわの毛布と同じく、重たいトロフィーには「価値」を感じる。
これは、理屈ではなく、身体的なメッセージが心に大きく作用した、ということであろう。
人間の脳は、理で悟るというよりも、身体で感じるメッセージの方を、かなり重要なものとして把握するらしい。
だから、わたしたちは手にずっしりと感じ取った「重さ」に感動し、
ふわふわの毛布の「やわらかさ」にホッと安心を感じるのでしょう。
これは、人間が「理」よりも「感覚」で生きているってことの、証明になりますね。
(だから「感覚」ばかりで話をするし、それで混乱して不幸になっている)
心が本当に痛んだようなときは、周囲がおせっかいに発する理性の言葉なんかより、人肌の温もりの方がどれほど恋しいことか。
猫が毛だらけな理由も、そこにある。
理屈ではない。
毛だらけで、もふもふで、やわらかくて、あたたかくて、なでるとつやつやで、すべすべで、押すとやわらかい。
猫がどんなにナマケモノで役立たずであっても、うるさく鳴いても、お菓子の箱をふんづけて歩いても、許されてしまうのは、毛だらけだから、でありましょうナ。
教訓:子どもには、ふわふわの布団を用意すべし。