小学生男子の将来の夢。
ひと頃は、サッカー選手が花形でした。
もっとも多かったのは、5年から10年くらい前かな、と感じます。
それが、このところ、少しずつ、少しずつ、減ってきているような・・・。
うちのクラスだけかな・・・?
プロのスポーツ選手、という職業が、子どもたちからすると、遠くなってきているのでしょうか?
どうせなれっこないだろう、というアキラメなのか、それとももっと別の要因なのでしょうか。
サッカーも振り返ってみると、やはり最初は、遊びだったはず。ボールを蹴りっこしながら、みんなで楽しんでいたものが、いつしか魅せるものとして、プロ職業として成立するようになりました。たぐいまれなる技術やワザを見せることが仕事になったのです。
プロフェッショナルという仕事としてそれが成立する、ということは、サッカーを見る観方も成熟している、ということ。
作戦の采配、選手の個人技術、選手同士のコンビネーションの見事さなど。
見る人は、そのはるかに高いレベルの、ほんのちょっとした些細な工夫に、しびれる。
そして、その「しびれ」に、お金、対価を払おうとする。
サッカーのプロとは、そういう「痺れ方」を、人々に提供することができる人々なのでしょう。
これまで、遊びをプロの領域にまで高めた人物、それを体現できる人物が、尊敬されたし、そういう人になりたい、と子どもをしびれさせていました。
ところが、時代は変わってきています。
子どもたちの、労働観、仕事観そのものが、わたしたちの想像とはちがってきているような気がしてなりません。
ユーチューバーになりたい、という子どもに向かって、
「ユーチューバーって、お金がもらえるの?」
と聞くと、
「うん、もらえるんだよ」
と答えてくれます。
「へええ・・・!いくらくらいもらえるのかなあ」
と、聞くと
「先生よりはもらえるんじゃないの。お金持ちっぽいから」
だそうです。
正直、がくっとしながら、
「ああそう。じゃあ、お金持ちになりたいから、ユーチューバーになるの?」
と、最後に一番聞きたいことを聞いてみると、
「ううん。ちがうよ。楽しそうだからだよ」とのこと。
さて。
その「ユーチューバーになりたい子の人数」が、ついに、わたしのクラスでは、
「プロのサッカー選手になりたい子の人数」を、追い抜きました。
努力した結果、遊びをプロ興行、プロ職業、労働にまで高めたサッカー選手は魅力を失い始め、
ただの遊びのようにみえるユーチューバーたちは、興行でもなく、職業でもなく、ただの余暇のように見えるがゆえに、子どもたちの支持を受けているのです。
・・・でもまた、これは際限なく、繰り返されるのかもしれませんネ。
ユーチューバーも、競争になってきて、遊び気分ではやっていられないでしょうから。
ユーチューバーがプロ職業化し、それを見て楽しむ顧客が、さらに精度の高い技術やコンビネーション、編集の采配を楽しむようになって来たら、もう子どもたちは、そこから離れていくでしょう。遊びであり、余暇であり、労働には見えないから「価値がある」と子どもに受け入れられているのです。それが「遊びのように見えているだけの労働」だと見破られた瞬間、もう価値は、無くなっているのでしょう。
AIが発達し、現代ある職業の半分が無くなり、消滅するであろう、といわれています。
人間はこれから、労働も余暇も、さまざまにとらえなおすと思います。
ひと頃は、サッカー選手が花形でした。
もっとも多かったのは、5年から10年くらい前かな、と感じます。
それが、このところ、少しずつ、少しずつ、減ってきているような・・・。
うちのクラスだけかな・・・?
プロのスポーツ選手、という職業が、子どもたちからすると、遠くなってきているのでしょうか?
どうせなれっこないだろう、というアキラメなのか、それとももっと別の要因なのでしょうか。
サッカーも振り返ってみると、やはり最初は、遊びだったはず。ボールを蹴りっこしながら、みんなで楽しんでいたものが、いつしか魅せるものとして、プロ職業として成立するようになりました。たぐいまれなる技術やワザを見せることが仕事になったのです。
プロフェッショナルという仕事としてそれが成立する、ということは、サッカーを見る観方も成熟している、ということ。
作戦の采配、選手の個人技術、選手同士のコンビネーションの見事さなど。
見る人は、そのはるかに高いレベルの、ほんのちょっとした些細な工夫に、しびれる。
そして、その「しびれ」に、お金、対価を払おうとする。
サッカーのプロとは、そういう「痺れ方」を、人々に提供することができる人々なのでしょう。
これまで、遊びをプロの領域にまで高めた人物、それを体現できる人物が、尊敬されたし、そういう人になりたい、と子どもをしびれさせていました。
ところが、時代は変わってきています。
子どもたちの、労働観、仕事観そのものが、わたしたちの想像とはちがってきているような気がしてなりません。
ユーチューバーになりたい、という子どもに向かって、
「ユーチューバーって、お金がもらえるの?」
と聞くと、
「うん、もらえるんだよ」
と答えてくれます。
「へええ・・・!いくらくらいもらえるのかなあ」
と、聞くと
「先生よりはもらえるんじゃないの。お金持ちっぽいから」
だそうです。
正直、がくっとしながら、
「ああそう。じゃあ、お金持ちになりたいから、ユーチューバーになるの?」
と、最後に一番聞きたいことを聞いてみると、
「ううん。ちがうよ。楽しそうだからだよ」とのこと。
さて。
その「ユーチューバーになりたい子の人数」が、ついに、わたしのクラスでは、
「プロのサッカー選手になりたい子の人数」を、追い抜きました。
努力した結果、遊びをプロ興行、プロ職業、労働にまで高めたサッカー選手は魅力を失い始め、
ただの遊びのようにみえるユーチューバーたちは、興行でもなく、職業でもなく、ただの余暇のように見えるがゆえに、子どもたちの支持を受けているのです。
・・・でもまた、これは際限なく、繰り返されるのかもしれませんネ。
ユーチューバーも、競争になってきて、遊び気分ではやっていられないでしょうから。
ユーチューバーがプロ職業化し、それを見て楽しむ顧客が、さらに精度の高い技術やコンビネーション、編集の采配を楽しむようになって来たら、もう子どもたちは、そこから離れていくでしょう。遊びであり、余暇であり、労働には見えないから「価値がある」と子どもに受け入れられているのです。それが「遊びのように見えているだけの労働」だと見破られた瞬間、もう価値は、無くなっているのでしょう。
AIが発達し、現代ある職業の半分が無くなり、消滅するであろう、といわれています。
人間はこれから、労働も余暇も、さまざまにとらえなおすと思います。