何がやりたいか、ときくのが当然になってきているのかと思うネ。
で、子どもの方には、とくに何もないわけ。
そこではた、と困る。
大人も子どもも、困ってしまって、見つめ合うわけ。
「ん?なにもないの?」
「はい」
で、またしばらく、見つめ合う。
これが、今のキャリア教育の実際のところ。
大人は、なにかさせなきゃ、と思うので、焦る。
それで、
〇〇はどうか
△△はどうか
□□もおもしろいよ
♢♢が向いているかも
などと伝えるも、肝心の子どもの方は
「はぁ」
という感じ。子どもには
(できることなら、そんなこと何もしなくてすませたい)
という気持ちがあるから、まったくかみ合わないわけね。
そういう子どもとやりとりをしていると、大人の方の、頭脳の内部が、ちょっとだけ、混乱してくるのネ。
「いったい、なんでおれはこんなに焦って、この子になにかをさせようとしてるのだろうか」
と。
そこらへんになってくると、だんだんと少しずつ面白くなってくる。
仕事って、いったい何だろう?
と、大人も純粋に考えたくなってくる。
大人なんだから、そういうことは分かっているはず、という前提が、ガラガラくずれる。
「お金が必要だし、実際に稼がないと。貧困にさらすわけにいかない」と、大人は唇をかみしめながら、子どもに伝えることになる。
教室の黒板に、でっかくお金のマークを書いて、「¥、これ!・・・¥!これを稼がないと、食っていけないでしょうがっ!」と、心なしか声を荒げて、言うことになりますね。
これが、現状の、キャリア教育の実際のところ、であります。
もちろん、こうであってはなりません。
理想は別にきちんと存在していて、文科省をはじめすでに多くのところで語られているから、実際、今は、多くの教員がもっとちがうアプローチをすると思います。
つまり、なにが違っていたかと言うと、入り口がまちがっていたのだ。
「何がやりたいの?」
と聞くところから違っていたのだ。
スタートがまちがった扉を開けてしまっているので、深い森に迷い込んでしまうようだ。
キャリア教育が開く扉は、まったくちがう扉。
「何がやりたいのか」ではなく、「わたしは何者か」でもない。
さらに、その前から問わないと、子どもに社会をイメージさせることはできない。
で、子どもの方には、とくに何もないわけ。
そこではた、と困る。
大人も子どもも、困ってしまって、見つめ合うわけ。
「ん?なにもないの?」
「はい」
で、またしばらく、見つめ合う。
これが、今のキャリア教育の実際のところ。
大人は、なにかさせなきゃ、と思うので、焦る。
それで、
〇〇はどうか
△△はどうか
□□もおもしろいよ
♢♢が向いているかも
などと伝えるも、肝心の子どもの方は
「はぁ」
という感じ。子どもには
(できることなら、そんなこと何もしなくてすませたい)
という気持ちがあるから、まったくかみ合わないわけね。
そういう子どもとやりとりをしていると、大人の方の、頭脳の内部が、ちょっとだけ、混乱してくるのネ。
「いったい、なんでおれはこんなに焦って、この子になにかをさせようとしてるのだろうか」
と。
そこらへんになってくると、だんだんと少しずつ面白くなってくる。
仕事って、いったい何だろう?
と、大人も純粋に考えたくなってくる。
大人なんだから、そういうことは分かっているはず、という前提が、ガラガラくずれる。
「お金が必要だし、実際に稼がないと。貧困にさらすわけにいかない」と、大人は唇をかみしめながら、子どもに伝えることになる。
教室の黒板に、でっかくお金のマークを書いて、「¥、これ!・・・¥!これを稼がないと、食っていけないでしょうがっ!」と、心なしか声を荒げて、言うことになりますね。
これが、現状の、キャリア教育の実際のところ、であります。
もちろん、こうであってはなりません。
理想は別にきちんと存在していて、文科省をはじめすでに多くのところで語られているから、実際、今は、多くの教員がもっとちがうアプローチをすると思います。
つまり、なにが違っていたかと言うと、入り口がまちがっていたのだ。
「何がやりたいの?」
と聞くところから違っていたのだ。
スタートがまちがった扉を開けてしまっているので、深い森に迷い込んでしまうようだ。
キャリア教育が開く扉は、まったくちがう扉。
「何がやりたいのか」ではなく、「わたしは何者か」でもない。
さらに、その前から問わないと、子どもに社会をイメージさせることはできない。