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前ブログのタイトルが、「叱らないでもいいですか」であった。
もうすでに叱らない、という行為そのものは自明のことになってきているので、その行為の意味はともかくとして、前提として自分が一切困らない、という心的態度があるのではないか、というところから、タイトルを『困らないけど、いいですか』と変えて1年が経った。
やはり今年も、「きみたちはやさしいねえ」こんなことばっかり、言ってる。
なぜ人にやさしくできるのか、ということが、不思議で仕方がなく、
そのことについての回答を、現時点で世の中のどこかで見たことが無い。
だから、毎日自分自身で考えていくしかないのだが、
考えても考えても、結論はでてこない。
ただただ、不思議、というだけである。
現在、わたしがぶち当たっているのは、「好き」という感情だ。
友だちのことが、大好き。
目の前のあなたのことが、大好き。
これが、どうやら、子どもにあるようなんであります。
人にやさしくしているもっぱらの理由は、これなのではないか、と見当をつけている段階。
なぜ好きになるのか。
これが、なぞでして・・・。
不思議で仕方がない。
なんで、そこまでして、友だちのためにするのか。
これを教室で言い続けていると、子どもたちも混乱してきて、
「なんだかわからんけど、好きなんよ」
と言い始める。
わたしは、なおも食い下がる。
「なんで好きなんだ」
と。
「わけわからんけど、どうしても好きなんよ」
と、子どもらは、言う。
困惑しきって、そう言う。
好きに、理由はない、という。
ところがわたしは食い下がる。
いや、きっとわけがあるはずだ。
でも、いくらあがいても、理由らしきものが無い。
とまれ、〇〇しなければだめだ、というような、余計な指導はやっぱり要らない気がするね。
この、「行動面の指導は不要」という考え方を、「アンゴッブ(UNGOB:アンネセサリーザガイダンスオブビヘイビアの略)」という。
前ブログのタイトルが、「叱らないでもいいですか」であった。
もうすでに叱らない、という行為そのものは自明のことになってきているので、その行為の意味はともかくとして、前提として自分が一切困らない、という心的態度があるのではないか、というところから、タイトルを『困らないけど、いいですか』と変えて1年が経った。
やはり今年も、「きみたちはやさしいねえ」こんなことばっかり、言ってる。
なぜ人にやさしくできるのか、ということが、不思議で仕方がなく、
そのことについての回答を、現時点で世の中のどこかで見たことが無い。
だから、毎日自分自身で考えていくしかないのだが、
考えても考えても、結論はでてこない。
ただただ、不思議、というだけである。
現在、わたしがぶち当たっているのは、「好き」という感情だ。
友だちのことが、大好き。
目の前のあなたのことが、大好き。
これが、どうやら、子どもにあるようなんであります。
人にやさしくしているもっぱらの理由は、これなのではないか、と見当をつけている段階。
なぜ好きになるのか。
これが、なぞでして・・・。
不思議で仕方がない。
なんで、そこまでして、友だちのためにするのか。
これを教室で言い続けていると、子どもたちも混乱してきて、
「なんだかわからんけど、好きなんよ」
と言い始める。
わたしは、なおも食い下がる。
「なんで好きなんだ」
と。
「わけわからんけど、どうしても好きなんよ」
と、子どもらは、言う。
困惑しきって、そう言う。
好きに、理由はない、という。
ところがわたしは食い下がる。
いや、きっとわけがあるはずだ。
でも、いくらあがいても、理由らしきものが無い。
とまれ、〇〇しなければだめだ、というような、余計な指導はやっぱり要らない気がするね。
この、「行動面の指導は不要」という考え方を、「アンゴッブ(UNGOB:アンネセサリーザガイダンスオブビヘイビアの略)」という。