30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年04月

5年国語光村 なまえつけてよ 授業プラン

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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あめ玉で時間を取り過ぎたので、この単元は短くやることにした。

小さな、微細な表現から、登場人物の心情を想像する力をつけたい。

本文を一読し、この文章には、次のような表現(印象を示す言葉)が多い事に気が付いた。

〇じっと
〇ぱちりと
〇ふらりと
〇ちらっと
〇ぷいっと
〇ゆらりと
〇さあっと
〇じっと(2回目)
〇そっと

これだ、これだ。
この微細な、ちっぽけな言葉の意味するところを、さぐることにしよう。
春花が勇太をみたときの、『印象を示す言葉』。
この小さな、春花の勝手な思い込みにも等しいような、勇太のしぐさを表す表現をさぐることで、春花の勇太への思いを読み取れるかもしれない。


もう一度、この表現を分類してみると、

〇じっと⇒茶色の子馬が
〇ぱちりと⇒茶色の子馬が
〇ふらりと⇒勇太が
〇ちらっと⇒勇太が
〇ぷいっと⇒勇太が

〇ゆらりと⇒ねこのぽんすけが
〇さあっと⇒風が
〇じっと⇒勇太と陸が

この中でとくに、「勇太」のしぐさ(春花視点によるもの)に焦点を合わせる。


ふらりと
そのときだ。道の角から、ふらりと勇太が現れた。弟の陸を連れている。

これは、地の文であるけれど、ほぼ春花の視点による表現である。
ではなぜ、春花は、「勇太がふらりと現れた」と、感じとったのか。【ふらり】を無くし、「勇太が現れた」という文に直してから比較した。

「道の角から、ふらりと勇太が現れた」を、
「道の角から、勇太が現れた」にすると、勇太はまるで、春花がそこにいることを知っていて、わざわざ、そこに会いに来たようにも見える。

ふらりと、という表現があることで、春花は、勇太が自分のことを意識して来たのではない、と考えていることが分かる。
「勇太が自分を意識しているはずがない」と思うから、【ふらりと】と春花は感じるのだ。


ちらっと
勇太は顔を上げて、ちらっと春花の方を見た。でも、すぐに目をそらした。

これも、地の文である。しかし、内容はほぼ、春花からの視点で書かれている。「ちらっと見たな」と受け取ったのは、春花である。
この、『ちらっと』を、仮に無くして読んでみると・・・

勇太は顔を上げて、春花の方を見た。

となる。

こうなると、勇太が春花の言動を気にして見ていたような雰囲気になる。ちらっとがあることで、「一瞬だけ」という感じがする。
つまり春花はまだこの時点でも、
「勇太は私のことを特に意識していない」
と考えているわけだ。


物語中、春花の勇太に対する心情が、直接どこかに書かれていることはない。だから、こういう微細な表現をのがさず見ることによって、春花の心情を推し量っていこう、というのが、初回の授業であった。


実際、この方法で取り組んでみると、比較的意見を書きやすい。
物語文に苦手意識のある子も、ノートに意見を書くことができていた。





次の時間、物語を3つの場面に分け、それぞれに春花の心情をまとめていった。

微細な表現に着目させ、
〇〇と と書いてあるけど、もしそれがなかったら、△△△・・・っていう感じに聞こえるから、わざと〇〇と、という表現で、春花の勇太に対しての気持ちをくわしく表現したのだと思う。

と、意見が言えるようにしていく。


その後、うちのクラスで出た【印象言葉】の解釈は以下の通りである。

★第二場面★
〇(勇太は)後ろから→わたしのやること(名前つけ)にはあまり興味がないんだな
〇(勇太は)じっと(2回目)見ていた→わたし(春花)のことで、心配をかけたかも。

★第三場面★
〇(勇太が)そっと→内緒でくれた。大事そうに。うれしい。
〇(勇太は)急いで→急がなくてもいいのに。話をしたかったな。

どれも、春花の心情を表すために、必要な表現である。
これらがもし仮に無かったら。
春花にとっての勇太の行動の意味は、まったくちがったものへと変わってしまう。

春花が期待するもの。そして、勇太の実際の行動。

これらの相互関係を、微細な『春花にとっての印象言葉』から、読み解いていく教材だ。

紙の馬

給食を考える

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給食が食べられる、ということを、子どもと考えてる。

今日はまだ、

「給食って、みんなどんなふうに感じているの」

というところだけ。

「おいしい」
「いいな、と思う」
「つくってくれている」
「いつも焼き肉があればいいのに」
「いつもプリンが出てほしい」
「でも、まあまあみんな美味しいから好き」
「もっとこうしてほしい、とかもあるけど、ふつうにおいしいからいい」
「全校分になるとすごいたくさんだと思うけど、みんな毎日つくってくれてる」


ああだ、こうだ、とみんなで出し合う。

わたしはほとんど、聞いている。

ジュースが出ればいいのに。
お菓子が出ればいいのに。
ステーキが毎日出てほしい。
アイスクリームが出ればいいのに。

そういうのに、一つひとつみんなで、ワハハ、と笑う。

でも、しばらく出し合っているとそういうのがやんで、

うーん、毎日、毎日、出てくるねえ、と。

一度も、休んでいないよねえ。毎日だもんねえ。

「お母さんといっしょだ。毎日、作ってくれてるもん」

本当、そうね。

なんで、こうやって毎日、みんな給食を食べられるんだろうか?




「うーん」
「なんでって・・・」
「ぼくが食べたい、と思っているから・・・」
「食べたいと思っているから出るの?」
「作ってくれるからだよ」
「お金を払っているから」



「ああ、そうだ。そういえば、お母さんも毎日、つくってくれるよ。それと同じ」


「ぼく、たまに手伝うよ」
「わたしも」


「おれ、たまにチャーハンつくるよ」
「チャーハンのもとがあるから、それでさっさと。かんたんだよ。コツはねえ。うーん、卵かなあ。けっこう卵を多めにして」
「わたしはこの前、カレーつくったよ」
「私も!カレー、かんたんだよ!じゃがいもの芽だけ、お姉ちゃんがやったけど」



こんな感じで、あれこれと出し合うだけで、なんだか幸せになる。

「ねえ、先生。これって、なんの授業なの?学活?総合?道徳?」

なんで、給食、食べられるんだろうねえ。

わたしは授業の終わりの時間に、再度、聞く。

また、みんなで考え込む。

「お金を払ってるんでしょう?親が」
「作ってくれているから」
「腹が減ったから」
「なんだかしらないけど、食べていいよ、ということになってるから」

ふーん。

ノートに、今日、考えたことをみんなで書くが、思いのほか、時間がかかる。

なにか、いろいろと頭を使った後は、それを書きだしたくなるものだ。




「またこの授業する?」

うん。

「こたえが出てないけど、いいの?」

どうかな。

「国語といっしょ。こたえはないんじゃないの?」
「決めなくてもいいんだよ。こたえは。ひとつじゃないから」

そうか。じゃ、そういうことで。

みんなの意見は、学級通信に載せて、またみんな各々が、考えることになります。

kyusyoku_boy_girl



学校が資本主義的になりきれないわけ

掃除を一生懸命にしている姿を見ると、心がうたれる思いがする。

なんで、ここまでしてくれるんだろう。

どうしてこの子は、ここまで、きれいにしよう、と思ってくれているのだろう。

カメラは向けないけれども、わたしの心には、その姿がしばらくずーっと、写っているように思う。

ぞうきんを、自分の手のひらのサイズに合わせて、四角く折りたたんで、きちんと持っている。

そのぞうきんは、しっかりと絞ってある。

拭き方も、テーブルを四角く、きちんと拭いている。

これはどうやって身につくのだろうか。

1,2年生の頃から、おうちの方に教えてもらってきたのだろうか。

先生にも教えてもらってきたのだろう。

また、教えてもらってきたから身についた、という以上に、自分でそのやり方に納得している、ということも大きいだろう。

そのやり方が、テーブルをいちばん美しく、きれいに磨くことになる、そのすがすがしさ、さわやかさを、自分でも身をもって感じ取っているから、だろう。

ごはんの盛り付けも、バランスよく、みんなに等しく、美しくしよう、と心がけている気がする。

「しっかりふきんをしぼっているなあ」

「ごはんがおいしそうに盛り付けてあるなあ」

わたしはつぶやくだけ、だ。

人というのは、なんで働くのだろう。

子どもたちがクラスでそれぞれ、協力してなにかをしている姿をみるたびに、

給料は出ないのに、なんでここまで働けるのだろう、と思う。

学校は資本主義から、だいぶ離れている。

教室は、クラスは、どうしても、相手が見える。相手の気持ちまで、見える。

だから、ほっとけない、・・・ということ、なのだろうか?

ぞうきん

5年国語光村『あめ玉』の授業 終わり

.
さむらいは、なんで寝たふりをしたのか

さむらいは、子どものだだをこねる声で目を覚ました。
そういう解釈が成り立つにも関わらず、クラスの中には、

「もしかしたら、このさむらい、最初から寝たふりしてたんじゃないの」

という懐疑派がいる。

またその一方で、寝たふりという解釈は自然じゃない、と主張する子たちもいる。

「だって、なんでわざわざ、寝たふりするのさ」

というわけだ。


寝たふり派は、そのもっともらしい理由を、どこからか見つけてこなければならない。

読み込んでいくと、冒頭のシーンが浮かび上がる。
舟が出ようとすると、
「おオい、ちょっとまってくれ。」
と、どての向こうから手をふりながら、さむらいがひとり走ってきて、舟にとびこみました。

走ってきたのだから、ぜいぜいと、息を切らしているはず、である。

そこから、急に、寝に入るのはおかしい、というわけだ。

「だから、寝てません」



しかし、これは逆襲されてつぶされた。

「だって、疲れて、逆に眠たくなると思います」

起こされた派は、もういい加減、ねばるのはやめにしなさい、という雰囲気。

「走ってきて疲れて、眠りたくなった。でも子どもに起こされた。これ、子どもたち、言うことを聞きなさい。・・・というわけで、刀ですらり。意味が通る」

たしかに。


ここで討論は終わりかけになった。

私は、教室全体に、「もうおしまいにしようか?」と水を向けた。




その瞬間。



「いや、だからこその寝たふり、なんですよ・・・」




と、低い声がした。

教室の全員が振り返ると、一番後ろの席の、前髪の長いMくんが、久しぶりに挙手している。

そういえば、Mくんも【寝たふり派】だった。

Mくんは、前髪をたくしあげながら、えーーーーっと、と大きな声で言いながら立ち上がった。

さむらいの気持ちになってみます。
あわてて船に飛び込んだ。
間にあって良かった、という気持ちと同時に、子どもの目線が気になったはず。
子ども目線だと、「あのおじちゃん、慌てて来てらぁ。ハァハァ息をして、おかしいの」と、そこですでに侍としてのカッコ良さが消えちゃってる。威厳も無くなってる。恥ずかしい。その母子に合わす顔がない。

『だから、寝たふり、です』

新美南吉は、ちゃんと寝たふりの原因から、物語を書き始めている、というわけだ。
おうい、まってくれ、のくだりは、たしかに物語のはじまりにとって、特に必要な場面でもない。しかしなぜか、さむらいが遅れてくるところから、描かれている。

「船に母子とさむらいが乗っていました。さむらいはうとうとしはじめました。」

で始まればいいものを、わざわざ、新美南吉は、さむらいを滑稽に描いている。息をきらして、

「おうい、まってくれ」

と言わせている。
そう書かねばならなかった理由がある、というわけだ。



まとめ

物語に無駄は無い。





学級としての、最終結論は、なし、である。

起こされた派も、寝たふり派も、共にちがう論があったからこそ、お互いによくよく文章を読み深めることができた。どちらも不正解というわけではない。だからこそ、さらに深く読み込んでいける。もっと奥があるかもしれない。

そこが文学の面白さ、楽しさなのだろう。



授業の振り返りを日記に記した子。

「さいしょは、やさしいサムライだな、というイメージでしかありませんでした。でも、深くみんなで読んでいくうちに、なんだかとても面白いサムライだな、子どもを驚かそうとしたり、恥ずかしくて寝たふりをしたり・・・。偉そうなサムライも、みんなと同じ、ただの人間だと思いました」


林の中の貝の仲間

4月22日時点の畑情報

私的な備忘録として。

〇腕が疲れたのは、草が茂っていたから。
 ⇒対策:きちんと草刈りをしてから、耕運機をかけるべし。
    :やはり春休み中に、草刈りと荒おこし、施肥までした方がいい。
 ☆実行:施肥+土づくり・・・
3坪(6畳)につきアルプス堆肥を1袋らしいので、2袋購入。
やや物足りない。気分的には、もう2袋くらい、バーク堆肥を入れたい。
鶏糞をうすーく、パラパラと。粒状鶏糞を袋の10分の1程度。

〇玉ねぎが草に埋もれていたのは、元の土の栄養不足。
 ⇒対策:昨年豊作だったのは、菌による保温と元の土の栄養があったこと。

〇家の畑で何を作るか、まだ決めていない。
 ⇒対策:きゅうりとトマトだけでも、きちんと計画すること。

P1150466

5年国語光村『あめ玉』の授業 その4

さむらいが起きたとしたら、どこか。

この発問に、あれこれと意見が出る。


しばらくするとひとりの子どもが、
「かあちゃん、飴だまちょうだい。」
と手をさしだしました。


すると、もうひとりの子どもも、
「かあちゃん、あたしにも。」
といいました。


「あたしにちょうだい。」
「あたしにちょうだい。」
 ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。


子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。


このいずれか、に落ち着く。
これはどこであっても、間違いということはないから、
どの子も安心して自分の意見を言う。
㋓の意見が多い。何よりも、「だだをこねた」というところが、侍の耳には【五月蠅く】聞こえそうだから。

しかし、ここでまったく別の意見が出る。


最初から、ずーっと寝ていない。つまり、寝たふり。

という意見だ。


㋓派は、「だだをこねた声で起きて、ちょっと不機嫌な感じのところに、さらに子どもがだだをこねているので、こら、だだをこねるんじゃない、という意味で、ちょっと子どもをこらしめてやろう、と思い、すらりと刀を抜いたと思う」

なるほど、つじつまが合う。論理的にも、納得できそうな感じがある。

㋔派は、「そもそも、この船には、ほかに客が乗っていそうな気配が無い。つまり、乗客はこのさむらいと、母子だけであろう。だから、ちょっとさむらいとしては、寝るふりをしてるほか、所在なかったのではないか」
そしてプリントに、
『あれ、客はこの親子だけか。子どもといっしょになっちゃったな。まあ寝たふりでもしていようかな、グーグーグー』
と、さむらいの心境を書いている。


㋓派と㋔派が拮抗したので、それぞれで俳優を決めて、その場面を演じてもらうことにした。

㋓派は、子ども役が上手にだだをこねてうるさくなり、そこでイライラしながらさむらいが「なんだうるさいなあ」と起きるところを演じてくれた。
そこで、刀をすらり、と出す。うまく演じることができて、みんな納得。

㋔派は、船に乗ったときから、「あれ、親子連れか。まあいい。わしは寝たふりでもしていよう」と寝たふりをし、そのままだだをこねるシーンで目を開けて、うむ、わしの出番じゃ」と演じた。
これも刀をすらりと出すまで、うまく演じた。これも納得。

しかし、一点、㋔派に【物言い】がついた。


なんで親子連れだと、寝たふりをしようと思うの?


さきほど、「なんだ、子どもがいる船に乗っちゃったな」と演じた子が、懸命に説明した。
黒ひげの大男。ひげづらのおさむらいが、母と子だけの船に乗る。
そうした場合、すぐそばに同行するような形になったとしても、なかなか打ち解けて話しかける風にはならないだろう、という。
「すぐそばに座っていて、目が合ってもなんか話す雰囲気じゃないと思う。だから寝た」

ところが、このあたりの細かいニュアンスが、女子の数人にツタワラナイ。
「なんで寝たふりなのか、まだ分かんない」


ここで、時間切れ。
子どもたちに聞くと、次回の授業の発問は、
「さむらいは、なんで寝たふりをしたのか」

をするのだそうである。

ヤマブキのつぼみ2


5年国語光村『あめ玉』の授業 その3

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さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか

これは、立場をはっきりさせる発問だ。

起きていたのなら、子どもが笑ったことも分かっただろう。
寝ていたのなら、子どもが笑ったことは分からないはず。
さむらいが、子どもたちに笑われたかどうか。そのことを、さむらい自身がどう感じているか。
どちらでもない、という答えが出にくい。

子どもたちは、きれいに半分程度に分かれた。

「いねむりをしていた」派の根拠は、
ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
という叙述にある。

だって、いねむりをはじめました、と、明記してあるじゃないか、というのだ。

いねむりをはじめた、と書いた以上、実際に寝たのだろう。
そうとしか考えられない、と主張する。


かたや、「いねむりしていなかった」派は、少し押され気味になりながらも、
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、

という叙述部分をあげる。

・・・はずの、というところが、ミソだ。

〇〇していたはず、というのは、ほぼ確定していたと思われている事実が、実はそうではなかった、という場合に使われる。
だから、作者である新美南吉自身も、「さむらいはいねむりをはじめた」とつい書いてしまった。だがしかし、そうであった「はず」のさむらいは、実は親子の様子をしっかりと分かっていて、大事な場面ではきちんと目をあけて、観察している。これは、「眠っていたはず」であろうが、実は「眠ってなどいなかった」ということなのだ、という。

いや、子どもが騒いだから起きたんじゃないの、という意見も出た。

なるほど、じゃあ、次に考える【学習問題】は・・・
さむらいが起きたとしたら、いつ起きたのか。

だね。

みんな、自分たちが発案した問題だから、意気揚々と取り組んでいきます。

あめ玉の表紙



底が見えそうで見えない人間関係

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めったに教員仲間で飲み会などしません。
そもそも、飲みに行く時間が無い。
夜、9時10時から行ける店も近所には、無いし。(田舎のため)

ところがこの年齢にもなると、なんだか行く機会も出てくるものだ。

新卒の先生を囲んで、励ます会が行われました。
ベテラン2人と私、そして若手1人の4人。

そこで出た話題。
「子どもが荒れていても、先生が鈍感なら何とかなる」
というやつ。


これ、前からなんとなく、うすうす思っていたことだったけれど、
目の前の方がひと言、そんなようなことをつぶやいたから、

「あああ!!それ、思ったことある!」

と改めて、考え直す機会になった。



子どもと言うのは面白いもの。
先生が倒れないで踏ん張っていると、子どもはどこかで先生を頼りにする(一目置く)もののようです。

先生がクラスのことをあきらめてしまったり、
良くない(悪い)学級だと決定したり、
クラスに行きたくない、と思ってしまったりすれば、その直後に、
「先生はそう思うんか。そんだったら、俺たちも!」と信頼関係の紐を切ってしまいます。

ところが、先生がそう思わずに、
ひるむことなく学校へ来て、授業をして、いっしょに給食を食べて、
共に掃除をして、帰りまでとことんつきあう構えでいると、
「うむ。おぬし、なかなかやるな」と思うらしい。
迷惑をかけ、牛乳瓶を割り、ガラスを割り、トイレを壊し、やんちゃの限りを尽くしても、どこかで
「あの人は俺の先生や」と思うものだそうで。

そういう意味で、先生として必要なスキルの内の一つが、

鈍感さ、

なのかもしれない・・・。


いや、
もしかすると、これは、
先生と子ども、というだけでなく、
夫婦でも、兄弟でも、親子でも、いろんな人間関係に言えることかもな、とも思うね。


あんなやつ、もう、イヤッ!!

と思うところまでいきそうで行かない。

どこか鈍感で、どこかにぶくて、
どこか焦点が合わず、底が見えそうで見えない感じで、
相手のことが、よく、分からない感がただよってること。

お互いに、底が見えそうで見えない、ということ。

決定的な断絶、断崖、亀裂をつくらずに済む秘訣?



人間の底なんてものは、決して見ることのできないもの、と了解した先生。

智くなく、愚鈍で、鈍麻で、するどさのない、先生。

・・・であれば、教師と生徒というのはお互いに ❝ふんわか❞ するんじゃないか。

syabondama

5年国語光村『あめ玉』の授業 その2

主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』

やさしい派は、結局、このおさむらいは、親切を働いたのだから、という。
やさしくない派は、それにしてもやり方があるだろう、という。

結論は、

「このさむらい、本当は優しい人なんだけど、ちょっと馬鹿」

ということになった。


そこで、私が介入する。

「まあ、馬鹿、という即断しないで、もうちょっと深く考えよう」


子どもがいたら、ふつうは刀を抜く前に、声をかけるだろう。
ところが、このさむらいは、かけない。
わざとしたように、無言で刀を抜いて、近づいてくる。
子どもはこわがる。母親もこわがる。
さむらいは、この家族に、命の危険を感じさせる。すぐにも、斬られる、と思わせる。

どうしてか。


うーむ。
考え込む子どもたち。
なぜ、一見、いじわるにも思えるような態度を、さむらいはとったのか。
どうして、子どもをビビらせるような、行動に出たのか?
なぜなんだ・・・。


教科書の最初からずっと見直して、なにかヒントはないか、叙述から探していく。

すると、そもそも、このおさむらいのことを、子どもたちが最初、馬鹿にしていたシーンが浮かび上がる。
黒いひげをはやして、つよそうなさむらいが、こっくりこっくりするので、子どもたちはおかしくて、ふふふと笑いました。
 お母さんは口に指をあてて、
「だまっておいで。」
といいました。さむらいがおこってはたいへんだからです。
 子どもたちはだまりました。

ここが、さむらいと、子どもの関係を物語っている部分です。

ここに、なにか重大なヒントがあるかもしれない、と注目させます。
おさむらいと、子どもの関係・・・。

イラスト図を配ります。
おさむらいは、こっくりこっくり。(ところが片目は半分開いている)
子どもは、笑ってる。
そういう図を配ります。
吹き出しをつくり、そこに子どもたちが登場人物の心中の声を書き入れられるようにしておきます。

つぶやきを書かせると、
子ども「うはは。強そうなのに、寝ちゃったよ」「すごいひげだな。だけど寝ちゃったな」
さむらい「せっかく寝たいのに、なんだか笑い声がするぞ」「おれのひげを笑っているようだな」

と書く。

そこから、このさむらいの性格が見えてくる。

まとめ。
「このさむらいは、ひげのことを笑われたので、子どもをちょっとこわがらせてやろうかな、と思ったかもしれない」

もう一度、さむらいの性格を考えながら、物語を音読してみる。

最初に音読したときと、今読んだときと、読み方が変わったところがある?

「飴玉をだせ、のセリフを、前よりもこわそうに読みました」
「いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、のところで、あれ?いねむりしてたはずなのにな・・・という感じで、意外な感じがするように読みました」

ん?どういうこと?

「このさむらいは、本当は、いねむりはしていなかったかもな、と思ったから」

さあ、二つ目の主発問。
「さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか」

討論開始、です。

amedama

5年国語光村『あめ玉』の授業 その1

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新美南吉の『あめ玉』を読む。

まずは音読。
 お母さんはおどろきました。いねむりをじゃまされたので、このおさむらいはおこっているのにちがいない、と思いました。
「おとなしくしておいで。」
と、お母さんは子どもたちをなだめました。

全員で呼んでいる時、工夫している子を見つけて

「あ、工夫している子がいる」
と読ませる。
「おとなしくしておいで。」

全員が、お母さんの声になって、さむらいを起こさないような声に変わる。

「いいですねえ!お母さんの雰囲気が出てきました!」と全員をほめる。

つぎ、さむらいの飴玉を出せ、のあと。

お母さんがおそるおそる、飴玉を出す場面を、だれかに実演してもらう。
うまい子にやってもらった後、みんなでやってみる。
恐る恐る、飴玉を出す感じをみんなで味わう。
その後、

 するとさむらいが、すらりと刀をぬいて、お母さんと子どもたちのまえにやってきました。
 お母さんはまっさおになって、子どもたちをかばいました。

のところを、何度か繰り返し、読む。
できるだけ、雰囲気を味わいながら、声の変化を出している子を褒めながら。

そして、

「ちょっと、先生はこのあたりが、納得できないんだけど、どこだか分かりますか?」

と軽く聞いてみる。

これが、ボクシングで言うところの、ジャブ、である。

この後、主となる発問をしたいのだけど、その発問を考える必然性をつくりたいので、ジャブをかましておくわけだ。

すると、子どもから、刀を抜くのが早すぎるわ、と意見が出てくる。

ちっちゃい子が目の前にいるんだから、刀なんて抜いたら怖いだろう。
だから、飴玉をお母さんに声をかけてまず受け取り、子どものいる場所から離れた反対側のへりに持って行って、それから刀を抜けばいいのに、と。
大人なんだから、周囲の安全確認をしろ、というわけだ。

「このおさむらいは、アホです。ちっちゃい子のことをもっと考えなきゃ」

お母さんだって、すっごく怖がっている。そのくらい分かるだろうに・・・。


そこまで引き出しておいてから、ようやく、じゃあ、みんなでこれを考えるか?といって、
主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』
するとやはり、やさしいはず、という意見の子が多くて、30人いる。
そんなにやさしくない、という意見の子が5人だ。

さて、いよいよここから、討論になる。

あめ玉

花粉症に勝つ!!

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日頃、何かに打ち勝とう、とは思わないのだが、
花粉症にだけは、なぜか

「打ち勝つんだ!」

という強い気持ちが湧いてくる。

今朝は、なんだか寒の戻りで寒かった。
それにも関わらず、わたしはパンツ一枚で、リビングに仁王立ちになる。
なぜか?
乾布摩擦が効く、という記事を読んだからだ。
気分が乗ってきたので、ついでに水垢離までした。丁寧すぎるか・・・。まあ、いい。花粉と戦うには、それなりの精神状態が必要だ。私はリビングの真ん中で気合を入れながら、乾布摩擦をした。

乾布摩擦をして余計に鼻水が出て、くしゃみをしていたら
妻に「そんなかっこで・・・馬鹿じゃないの」と言われた。
妻には勝てないが、『花粉症には、勝ちたい!』と真剣に思う。



そこで、思い出したのだが・・・

実はわたしは20歳のころ、運命のいたずらであろうか、なかなか数奇な運命をたどる一人の行者と知り合ったのである。
彼は現在、行者のランクを超えて、仙人を目指すようになった。もちろん、人目を忍んでひそかに、だ。今は、世を忍ぶための仮の姿として、たまたま東京都内で鍼灸師をしている。しかし、あくまでもそれは、口に糊するためのナントカに過ぎぬ。実際彼は、イチローも驚くくらいの努力家である。今も、寿命500歳を超える長寿を実現するために、ありとあらゆる訓練を続けているのだ。

乾布摩擦をしているうちに彼のことを思い出したので、メッセンジャーで連絡をとってみた。

以前、電話で連絡をとったときには、たしか「体温を上げるのが一番大事だ」と言っていたが、花粉症を打ち負かすのにも、体温はやはり大事なのだろうか・・・。


すると、彼は、ちょうど折り悪く、鍼灸の仕事の真っ最中であったらしく、患者さんの腰に鍼を打ちながら、「今はちょっと・・・あとで返事するわ」と、気さくな応対。

数分待っていると、

「花粉症は体質改善だ。元から攻略せんならん・・・。じっくり返事してやるから、夜、PCから返事する」

と期待できる返事も届いた。

持つべきはやはり友だ、と安心し、夜を待った。




ふくろうの鳴く夜になり、風呂からあがって子どもを寝かしつけてから、ふるえる指でPCを起動。
メッセージを確認すると・・・。


キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

期待できる一行目に、すでに実用的なアドバイスが書いてあった。
「ビタミンDが重要だ」
その一言から、最後の行にいたるまで、わたしが摂取すべき食品群が、ずらりと明記してある。

・・・

師のおっしゃるには、どうやら腸活はいいようである。
それと、やはり昔から伝わっている酵素関連の栄養を摂ること、
太陽光線を浴びること、野菜、大豆、海藻、乳酸菌、ヨーグルトなどが大事なようであった。

それにしても、花粉症に打ち勝つための方策を、こんなにも丁寧に、
しかも断言して書いてくれるのは、ありがたい。

「これでひとまず、体質を改善しろ!きっと(人生がすっかり)変わる!」

なんと力強いお言葉であろう。
わたしは師のお住まいになっているはるか東方を臨みながら、何度も拝を繰り返すのであった。

私は本日、スーパーで次の物を購入した。

1)にがり
2)のり
3)ブラックベリーの実
4)海藻
5)マグネシウム錠剤
6)ビタミンD錠剤
7)野菜
8)味噌
9)納豆
10)糠漬けの漬物
11)さば缶
12)バナナ
13)パイナップル
14)紫蘇の葉
15)にんにく


金はかかったが・・・

師匠の教えに従うことができる素直な自分がいて、わたしは嬉しかった。

スーパーから出てくるときの足取りも、非常に軽かった!
そして、すぐに太陽の光を浴びた。20秒くらい。

心なしか、花粉がわたしの身体から、去っていくような気がする。

「ふふふ・・・」

この冬日の弱い太陽光線を浴びることで、体内に巣食う邪悪な花粉どもが焼き殺されて行くのだ。

ああ、断末魔の悲鳴が聞こえる!!

私はニタリ、と笑ってスキップして駐車場を横切る。

もう、花粉とはおさらば、だ。
くしゃみ、鼻水、鼻づまりと、永遠にサ・ヨ・ナ・ラ・・・。

いいこと、聞いたゼ!!

今はもう、師匠に歯向かったり、抵抗したりなんか、しない!ぜったいに!!


これでまた、花粉症改善に一歩、近づいた!
kafun_tachimuka_woman

初任者のお茶くみ!

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初任者指導の先生に指導されたとかで、
朝、机の上に、湯呑みがおかれて、お茶がいれてあった。

「だれがいれてくれたのかな」
とつぶやくと、隣の先生が、
「なんだか、初任の先生がいれてくれたみたいよ。おどろきよね」

こんなこと、これまでにない動きだったから、へぇーっと思う。

初任者だからお茶?


「教室で子どもと話してた方がいいんじゃないの」

「うん。みんなそう思ってるんだけど・・・S先生が指示してるから、みたいよ」


初任者指導のS先生。
気をきかせて淹れてくれたのは嬉しいけど、朝は忙しいから、気をもむ。

やりたいことを我慢してないかな。
プリント刷ったり、子どもから提出物を集めたり、なんだかんだといろいろ。
気になることがたくさんあるだろうに、お茶くみなんてしなくても・・・

考えてみると、学校というのは、「〇〇するべき」というので動く文化。
だから、こういうことがたくさん多発する。

〇〇するべき、というのではけっして動かない文化であれば、こんなこと起きない。
いやいややる人もいないし、迷惑をだれも感じることがなくて済む。

こっちも気兼ねしなくて済むし、よけいな心配もしなくて済むし、「今日の授業だいじょうぶなんかな。こんなお茶くみなんてしてる余裕あるのかしらん」なんて、気を回さなくても済む。


なんだろうね。〇〇するべき、という文化。
考えてみれば、社会全体が、そういう病魔に冒されている、といってもいい。
ブラック企業の問題しかり・・・。

子どもはそんな「〇〇するべき」では動いていないから、もともとは人間にはないのだろう。
どこで身に着けたんかなあ・・・。やっぱ学校か!

縄文時代18


0点を取ってきた子を、責めるかどうか

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100点にうれしがる私たち、という前回に引き続いて・・・

0点を子どもが見せたら、責めるかどうか・・・。

漢字テスト、0点という紙をみて、

「漢字が書けないと、ろくな大人にならんぞ!」と叱りたくなる、という。

なぜろくな大人にならない、と思うかを説明してもらうと、
〇本が読めないのではないか
〇就職できないのではないか
〇人といっしょに仕事することができないのではないか

という。

今、この漢字テストが0点だと、もうすでにその10年後、15年後のこの子の姿が、見通せるのですか、というと、

「え、少なくとも、その確率が高くなるのではないですか」

と確率論を言われる。


しかし、この子の中にある、他のすばらしい素質や力が引き出されて、うまく動いて、社会でも活躍し、他の人をたくさん助ける存在になることもまた、想像できるでしょう、というと、

「え、この子にそんな力なんて、ないと思います」

と、かなり乱暴に断定するネ。

0点の紙を1枚見て、「わたしは10年後のことが見通せるので不安」というのに、
友だちと仲むつまじく、心温かい雰囲気で一緒に遊んでいる姿をみて、「この子の10年後が楽しみ」とは言わないのであります。

テストは将来に影響するもの、将来の姿を直接うつしだすものじゃ!
ところがその一方、友だちと遊ぶことは将来には影響しない!・・・ってサ。
ケチだねえ。・・・というか、テストが大好きなんだな。この思考法。


0点をみて、この子はこういう子、とかなりキメツケで見る。
100点をみて、この子はこういう子、とみる。同じこと。
どちらも、他のもっと多くのさまざまな面を無視して、テストの結果だけから即断し、優秀な子だ、ダメな子だ、と決めてみる。
この子自身がもっている、さまざまな可能性、素質、個性、まだまだ表面にも現れても来ていないような能力、そうしたものは、すべて無視する、と決めた感じ。

そんな簡単に、無視しないでほしい、と子どもは思うだろうと思うね。

「ちゃんと、ぼくのことを見てよ!

テストの紙じゃなくてさ!」




すみれ


100点をとってきた子をほめるかどうか

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100点をとってきた子をほめるかどうか。
これは多くの保護者会で話題になりましたが、みなさん、考えが違うようで・・・。


大人の我々は、その100点、という紙について、反射的に反応することが多いように思う。


100点ならよかったね、0点なら残念、と反射的に出てくる。
子どもも、そう思うようになる。
100点の友達をすごい、と言い、0点の子を馬鹿にする言動が出る。
「え、お前、こんな簡単なのも分からなかったの」と言う子だっている。
社会全体が、100点なら〇、0点は✖、と反応するから、それを覚えてしまう。



しかし、考えてみると、100点(という数字)が良い、というわけじゃないわね。
100点が欲しい、というわけではない。
その証拠に、答えを写しただけの100点は、みんな全員が「意味がない」という。
同じ100点なのに、意味が違う、と言うでしょう。


つまり、ほとんどの親は、100点をほめる、と思っているけれども、
その内情をよくつぶさにみてみると、数字の『100点』をほめたい、わけではない。
100点すごいね、と言っちゃうけれども、100点が良いわけではない。

息子さんが、学校が好きで、先生が好きで、学習に参加して、知的によく覚えて、いつも毎日、楽しく人生をすごすことができている、その様子が、100点、という紙にかかれた数字から、すーっと、うかがえるような気・が・す・るから嬉しいのだろう。確かなることは、何も無いわネ。
まあ、ぶっちゃけ、気のせい、ですナ・・・。

実は、100点を取らせるのはそんなに難しい事ではないです。
わたしは実際に、かなりの高得点を子どもたちに取らせますが、それはちょっとした技があって・・・で、実際に100点を取ると、子どもたちは「わああい!」と喜んでいますが、わたし自身はそのことについて、実際は醒めた見方をしています。

「すぐ忘れるもんなー。今回100点だからって、すぐ忘れるもんなー」

と思うことが多いかなあ。

子どもの姿の、表にでてきていて、見えやすい、見えた!と思いやすいところだから、
100点のテスト用紙をみて、つい反応しがち、ということだろう。

test100

迷惑をかけるな、に代わる教育方針は

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迷惑をかけるから、廊下でしゃべってはいけない。
迷惑をかけるから、体育館でボールを蹴ってはいけない。
迷惑をかけるから、校長先生の話をきくときは、黙っていなければならない。
迷惑をかけるから、授業中に立ち歩いてはいけない。
迷惑をかけるから、掃除をしなければならない。
迷惑をかけるから・・・

さて、こういう『禁止規範意識』が、わりとへいきな子もいるかわりに、
こういう「しなければならないルール」の多さで、メンタルがまいってしまう子もいる。

ユニバーサルデザインを意識すれば、当然、この

「迷惑をかけるから・・・ルール」のあり様とはべつに、
どの子にとっても優しい、受容しやすい、指導の在り方、というものがあるだろうと思う。
(↑これは仮説ね)

本当は、しゃべりたいときにしゃべりたい。
でも、しゃべっちゃいけない。
本当は、体育館でボールを蹴りたい。
でも、蹴っちゃいけない。
本当は、校長先生がしゃべっているときに、何か言いたい。
でも、言っちゃいけない。
本当は、掃除をしないで、水槽の魚を見ていたい。
でも、見てちゃいけない。


『規則・禁止事項・命令』が身の回りにたくさんあるんだ、と、
頭の中で思うだけで、「ウワーッ!」と叫びたくなる子、いるんです。
かつての、子どもの頃の自分を考えても、よく分かる。
わたし自身は子どもの頃、ずっとこうでしたナー・・・
(世の中は広いから、まったく命令や規則に抵抗感を覚えない人もいるのかもしれない?)


で、問題なのは、
そういう子を見た時に、その子自身を見られなくなること。
その子の実際の姿、その子らしさが見えないでいること。

目に映る現象、その子の姿だけを見ている先生の目には、
「ルールを破って言うことを聞かず、勝手なことばかりやる子」
としか見えない。1年間、ひどい場合は2年間も3年間も、ずっとそうとしか見えない。

その子自身の本当の姿が見えないまま、

「言うことを聞けない子」

と見ているだけで、過ぎてしまう。

なぜかというと、あまりにも先生の中で、

「規則通りに行動すること」

が巨大化していて、そのことが重要すぎるので、それ以外が目に見えなくなる、ということ。

迷惑をかける、かけない、ということに学校教育がこだわりすぎていて、
「その子らしさ」を見よう、というエネルギーが湧いてないのではないだろうか。



廊下を歩くときにおしゃべりしたくなるのは、
本当は「おしゃべりがしたいからする」ではない場合が多いと思うね。
人の気を惹きたかったり、友だちに笑ってほしかったり、
自分がさびしかったり、なにかその後のことで不安があったり、など
その行為(おしゃべり)になる原因、過程もあるだろう。
自分ではどうにもならない気持ちがあって、不安やさびしさが募って・・・
ということ、あると思う。

そこを理解しよう、というふうにならずに、ダメだなおしゃべりする子!としか見ないのであれば、さみしさ、不安にますます拍車がかかるだけ・・・。


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