30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年10月

リアリズムと子ども~子ども社会の価値意識~

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子ども自身は、人間の価値を、あまり詮索しないというか、
そもそも人間を比べることの意味を求めようとしないように思う。

子ども社会では、ひとを価値づけることに重点を置くよりも、
一度しかない、わたし自身にとっての体験に意義を置く。
かけがえのなさ、が重要なのだ。

他と比べると、しらける。
だから、〇〇は△△よりも価値が高いとか、低い、ということに、
気持ちを盛り上げていこうとしない。

いわば、◇を◇としてみる、ということをやっている。
ただそのまま、△を△としてみる、ということ。

そもそも、子どもは、難しいことをあれこれと考えないし、
悩むのはきらいだし、明確ではないことを無意識に避けようとする。

したがって、四角いものを、「いや、これは三角だ、三角であるべきなのだ」とは言わない。
仮に、大人がそう言っているのを聞いたとしても
子どもは、その「大人の事情」を理解しません。
子どもたちは、もともと、『忖度』をしない文化に暮らしているのです。

そういう意味で、子どもは徹底したリアリストであり、実証を重んじようとします。





・・・だからかもしれません。

教室では、戦前の教科書のような言い回しを、徹底して笑いのめしますナ!

日本は神の国なので、国難を迎えた時、神風が吹いて、元軍の乗った敵船をことごとく沈めました。

日本は神の国だから、神が風を起こして、敵の船を沈めることも有り得る!!


と、大人がいかに力強く断言したところで、リアリストである子どもたちは、相手にしないでしょう。

大人があてはめるカチを、表面上、一応は受け入れているようだけれども、

実際には、べつに、それほど、カチなんかにこだわらないのです。
「どっかのだれかが、勝手に設定した価値」なんかには。

どこかの人が、ある人をAと評価しようが、Bと評価しようが、どんなふうに価値づけようが、
丸いものは丸いのだし、四角いものは四角い、と考えるのです。



小難しい解釈の世界に入って、

本来は三角であるべきだ、とか、
ダイヤの形が正当なのだ、とか、
どっちが元祖だ、とか。

価値の解釈に拘泥したり、しないのです。

日本という国はすごい!神風が吹く!と言われても、

「その神風、太平洋戦争では吹かなかった、沖縄では吹かなかった」

と、知っているのです。



結局、丸いものは、丸いので。
誰かの意見や感想があれば、四角くなるというわけがない。


やっぱり、事実を見ないのは、大人の癖だという気がするネ。

かみかぜ

記録というもの~子ども社会の『価値意識』~

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先日、幅跳びの記録をとった。

2mの子と、2m50cmの子がいて、担任のわたしが、

「おお、2m50cm、すごい!」

と大声で叫んでいると、担任のそういう態度については、まったくふつうに受け入れています。

しかし、

あまり2mだろうが、2m50cmだろうが、そのことの価値については、あまり興味は無いようなのです。

なぜ、必死になって、他の子の記録を超えようとしないのでしょうか。


〇〇ちゃんがかっこよく跳べば、みんなが

「オー」

と言い、

△△ちゃんがタイミングが合わなくてずっこけると、みんな、

「あー」

と言うのであり、

まあ、そんな程度であるわけです。


次の日、「先生、わたしの記録ってどんだけだっけ?」

と聞いてきて、それもまたすぐに忘れてしまうようなのが、小学校4年生なのです。


そのことを残念に思ったわたしが、

走り幅跳びにおいて、記録を伸ばす価値、そして、

長い距離を跳ぶ意義を、これでもかと論じていると、

3月生まれの、教室でも一番幼い感じのする子が、

「先生、これって、遠くに跳べる方がいいんですか?」

と真顔で聞いてきました。

わたしは職業人として、誇りをもって、

「そういうことになってます!遠くに跳ぶのが良い!」

と大声で断じました。

しかし内心、

遠くに跳べるのが良い!と言ったところで、

「イヤ、べつに、それと、人の生きる尊さとは、関係ないやね」

という思いも・・・。



彼にとって、かけがえのない記録は、けっして風化しない。

しかし、他と比べることによる価値は、風化する。

小学校では、「価値」という言葉が、なんとなく雲散していく運命にあるようだ。

「価値」は、だれからも気に留められることなく、なんとなく浮いたまま、忘れられ、消えていく。

rikujou_habatobi

世の中を、少しずつずれ・・・

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ほとんど、テレビを見ない。
本も新聞も見ない。
情報のインプットをしない生活が、ここ15年くらい続いている。
したがって、わたしはおそらく、世の中と、かなりの程度、ずれている。

小学校の教師をしていると、子どもからのINPUTが多すぎて、気分的に、
残りの時間はずっと、OUTPUTをしていないと、身が持たない。
これ以上、新聞もテレビも、もう要らない、情報が多すぎる、おなかいっぱい、という日常だ。
だから、世間のことがよく分からない。

今はとくに、それに拍車がかかり、
ここ(当ブログ)に書いた文章も、かなりおかしいのだと思う。
世間的に見たら、話の論点がずれまくっている。


それも仕方のないことで、
わたしがほぼ一日中、年がら年中、つきあっているのは「子どもたち」であります。
わたしが会話を交わす相手の中に、大人はほとんど、いない。

いやいや、待てよ、
職員室の先生がいるでしょう、と思うでしょう?


ところが

職員室の先生は、一日の大半を子どもといっしょに話している大人です。
一日の大半を、大人と過ごしている大人が、職員室にはいないのです。
どの先生も、子どものにおいが、骨の髄まで、滲み付いている。
だから、職員室の先生たちは、まあいってみれば、
かなり偏っているわけですね。



とくに、わたしのように、毎日まいにち、

> > 家を出る→車で通勤する→学校につく。
> > 学校を出る→車で通勤する→家につく。

を何度も何度も、飽きるほど繰り返しているだけでは、
年間を通じて、ほぼ、まともな大人との会話がありません。

がんばってコンビニの店長(近所のおやじ)に話しかけたところで、
支払いを済ませるまでの数秒間、ただの時候の挨拶程度で終わってしまいます。

先日は、スーパーで、偶然にも出会った地元の知り合いに、
チャンスとばかりに話しかけてみたものの、相手も買い物の途中で
「じゃ」、と早々に切り上げられてしまった。

懸命な努力の甲斐も無く、いつまでたっても、普通の「おとな」と話が出来ない。

したがって、わたしの世界は、新橋の屋台で呑んでる中高年のサラリーマンとは、
まったく違ってきています。
感覚も、話す中身も、判断基準にするものも、善し悪しの観念も、ぜんぶちがってきている。

べつに、新橋のサラリーマンが日本の大人の標準だ、というわけではないが、
わたしが相手にしているのが「子どもの文化」である、という意味で、
わたし自身があまりにもそこに純粋に、どっぷりと、
毎日の生活の大半の時間を費やしていることから、

わたし自身が偏っているのであろう、ということは、説明ができると思うのです。

毎日、毎日、

少しずつずれて・・・

「世の中を 少しずつずれ 葱を噛む」


世の中の大人を全員、ずーーっと、一列にグラデーションのように並べるとしたら、
わたしはほぼ、世間という橋のとことん端の方、落っこちそうな場所に立っている。

このブログで、わたしは

端っこの方に、孤独に立っていることのさみしさ、ギャップ、
あきらめ、ずれ、・・・そういうものを書いている、というわけです。

さ、書くぞ。

ロシア女王

あなたの言う、その「親友」ってなんだろうか、という討論。

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親友ができた、という日記。

うちのクラスに、〇〇ちゃんと△△ちゃんは、わたしの親友です。

ということが書かれる。

すぐに、学級会、となる。
「親友」って、どんなともだちのことをいうの?

黒板に書かれた学習問題を、みんなで考え合う。

その〇〇ちゃんが、親友でなくなることって、あるの?

親友でなくなるとしたら、どんなことがおきたとき?

「裏切られたとき」
「わたしのことを好きでなくなったとき」

裏切るってなに?

「約束をやぶったとき」

約束ってなに?

「◎◎しよう、って決めること」

約束を忘れちゃうときもあるけど、どうなる?

「ただ忘れちゃったくらいなら、そのときはセーフ」
「いや、アウトでしょ」
「だってときどき、そういうこともあるじゃん」

好きでも嫌いでもない、という状態は、いいの?

「嫌いじゃないなら、OK」
「えー!」
「好きじゃないとダメ」
「えー」

子どもたちの討論は、細かな点をつけばつくほど、盛り上がる。

そして、次第に、なんだか分からなくなってくる。

相手が嫌いと言って、だけどわたしは絶対好き、というときは親友なの?

「うーん」

「もうさ、細かなことを言い出したら、きりがないよ」

じゃ、けっこう、みんな「親友」って言葉を、あまり深く考えないで使ってる、ちゅうことやなあ。

「まあ、そうかな」






ノートをひらいて、なにも書いてないページを出させた。

はい、今から、先生がいうものの絵を、描いてくださいね。

ただし、描き終わるまで、だれにも見せないでね。

「えー、なんで」
「おもしろそう」

1番。お月様。

描けましたか?

2番。流れ星。

描けた?

3番。おうち。

どう?どんな絵でもいいよ。ササッと描いてね。

4番。木。

5番。池。


では、いろんな人と、見せ合いなさい。

「えー、なにこれ?
Mちゃんの流れ星、むちゃでかいやん。
あ、家の煙突からけむりでてる。
げ、わたし、煙突、描かなかった!
おお、池に魚がいた!」



同じ言葉なのに、みんな受け取り方がちがう。

人は、一人ひとり、ちがう。



意外だと思った?

「うん」

なぜ?

「そんなにちがわないと勝手に思ってた」


だってさ。

オモチロイ。

school_chakuseki

金融を教える【財務省官僚を育てる教育】

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わたしの教え子が、将来、財務省の官僚になる可能性がある。

したがって私は、文科省がこれから進めようとしている、

いわゆる 『金融教育』 を、きちんと進めていかねばならない。


「金銭の大切さ」

とか、

「計画的な使い方」

というところが、小学校の金融教育の内容だろうけど、


ところが、現代社会はさらにその先を行く。

下記をご覧あれ。


初のキリスト教仮想通貨が誕生 キリストコイン

キリスト教で初となる仮想通貨「キリストコイン」が発行されることになった。慈善活動や宗教的実践を通じて集めることができる。

どうした行為がどれほどのコインになるのかは現在のところ明らかではないが、聖書を読んだり、ボランティア活動、教会の行事に参加することで通貨を獲得できる。

教会では「人道活動を支えて、自身の跡を世界に残してください。仮想通貨に、自らの精神的生活に投資して、追加の利益を得て、十字架や寄付を通じて自身の教会を支えてください」と信者に呼びかける。

宗教に資本主義を組み込むことは、信者の立場からは疑わしい取り組みであるが、仮想通貨は基本的にだれでもアイデアを出し、発行することができることから、宗教が金融を取り込もうとすることは自然な流れであり、これからもこうした動きや取り組みが続くだろう。



仮想通貨や地域マネーが大流行する昨今、これらの金融教育は当然の流れだ。

ニューヨークもロンドンも北京も上海も、みんな金融に真剣だ。

この社会情勢のもと、日本だけ乗り遅れるわけにはいかない。

子どもたちが暮らしを良くするための地域通貨発行を考え、

教室内でシュミレーションする活動も、まもなく始まると思われる。



本当にねがう社会のデザインを、子ども自身が、考えていく。

それが、新しく始まる、『コミュニティ・デザイン教育』

そして、『通貨・デザイン教育』
だ。


以下、わたしの好きな名言(By Rob Curedale)です。
“Design is creativity with strategy.”
デザインとは、戦略をもった創造性だ。


日本には、未来を創造的に切り拓いてゆく、賢い戦略が必要なのではないでしょうか。


もしかしたら、まったく現代人が予想もしないような、
「通貨」に対するアイデアや、概念が生まれるかもしれない。

これらを規定していくのは、これから大人になる、子どもたち。

金融教育

部活を続けなくてもよい

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部活やスポーツ教室をすぐにやめてしまう子がいて、

「すぐやめてしまった」

と、教師が残念がっていることがあるが、

まったく心配は要らない。



わたしには、教師がなんでそれでひっかかるのか、分からない。

「やめてしまった」

という言葉そのものに、すでに、ざんねんな感じが込められているよう。





テニスをやめる。

いいじゃないですか。

次、きっと、またなにか、やるでしょう。

先生も、いっしょになって、わくわくしてたら、いいじゃないですか。




部活、しなくてもよい。

テニス、しなくてもよい。




「投げ出さずに、続けるのがいい」


と、思っている人がいるけど、


子どもの動機が、

「先生やコーチに叱られるのが怖いからやる」

という程度だったら、

その子にいったい、なにが育つといえるのでしょう。

強要されなくなったら、やっぱり、投げ出すでしょう。




人生は長い。

自分が気づいて変えたもので人は生きていく。

強要されたものでは、人の核心は、なにも変わらない。





「まったく、すぐにやめてしまうんだから・・・」

困っているのは、大人。

子どもは困っていない。

なんで大人は、そのことで、困るのだろうか。

よく考えたら、不思議になってくる。




なんで、困るのか。

と、考えたことが無いから、困るのかもしれない、な。


困らないけど、いいですか。

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しわだらけの手で搾る、オレンジジュース

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父が亡くなったのに、母が一人で店をやる、という。

第一、この夫婦、もともと商売などやったことがない。

二人とも定年で暇になり、ものはためし、とやってみただけの店。

儲けなど、度外視である。



名古屋圏ではほとんどの喫茶店が、

モーニングサービス

をする。

なのに、ここは、ただの珈琲だけ、だ。



なんでモーニングをしないの?と訊くと、

「だって、たいへんだもの」



父は、店のシステムをシンプルにした。

もちろん、老人である自分たちがやれるように、だ。

お会計は税込みで500円。

珈琲も紅茶も、コーヒーゼリーもお抹茶も、すべて500円。

なんでかと訊いたら、

「だって、間違えないでしょう。おつりだってわかりやすいし」

なるほど。老人が無理をしない設計だ。



オープンしてすぐに、コーヒーの専門業者が売り込みに来た。

1日100杯以上、対応できるというドリップの機械を買え、という。

「そんなに客が来たら、命に関わる」

と、父が即座に断った。





かと思えば、経営のコンサルタント業者から、電話もかかってくる。

「売り上げを伸ばす講習に来ませんか?」

母が、申し訳なさそうに、断っていた。

「庭の木が伸びすぎてるから、切らないといけないから行けない」

向こうは、この老婆はボケてると思ったらしく、捨て台詞を吐いて電話を切ったそうだ。

「伸びすぎるのもねえ・・・」

困惑した顔で母がつぶやくのを聞いていると、

この夫妻が喫茶店の経営に関わるのはどう見ても

間違ってると思いたくなる。




よく来てくれるお客さんが、オレンジジュースが好きだ、というのを聞いて、

メニューにオレンジジュースを加えた。

それも、ただのジュースじゃ面白くないから、生(なま)のオレンジの実を、搾ることにした。

母が、丸いオレンジをまな板の上で輪切りにし、それを半分ずつギュッと搾るのをみて、

カウンターに座ったお客さんが思わず、

「えっ、ママが搾るの?え、じゃ、いいよ、いいよ、搾んなくても・・・!!」

あわてて別の客が、

「俺が搾ってやろうか?」

とまで口走ったそうだ。



小柄な老婆が静脈の浮き出た細い腕で、ぎゅううう、とオレンジを搾ろうとしたから、

その場にいた若い者はみんな、驚いただろう。



客が口々に、

「いやあ、驚いた。もともとビンか何かに入ってるのをコップに入れて出すんだと思った。そしたら本当に搾るからびっくりした」

母が一生懸命、40キロしかない全体重をかけて、うーんしょ、と搾っているのを見て、

客全員が、

「やめて!」

と悲鳴をあげたんだから、手搾りオレンジジュースが、いかに恐ろしい企画だったかが分かる。



「うちのお客さんは、わたしがまだ生きているかどうか、たしかめに来てるみたいよ」

店の主人を心配して、やってくる客。

「ママさん、体調、大丈夫?」

老人が店をやると、こういうことになる。




わたしは息子として、きっと、客に感謝して回らなければならないだろう。

今度、お客さんにお菓子でも配ろうかしら。

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学校は社会の縮図だという当たり前の常識?

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学校でしっかり勉強することができる子どもは、会社でもきっときちんと働くことができる。

同じように、家庭でしっかり家事などをして働くことができるお父さんは、会社でもきっときちんと働くことができる。

同じように、部活でしっかり活躍できる子どもは、会社に勤めても活躍することができる。

同じように、家庭でしっかり宿題のできる子どもは、会社でもきちんと事務処理をすることができる。

同じように、家庭でしっかり家族サービスのできる父親は、会社でもきちんと事務処理をすることができる。

同じように、学校でやっていけない子どもは社会でやっていくことができない。

同じように、家庭で妻とうまくやっていけない父親は社会でやっていくことができない。

同じように、休日にグータラしてねそべってテレビを見ているような父親は、会社でもグータラしている。

同じように、妻に文句を言われている父親は、会社でも上司や部下から文句を言われている。

同じように、プールでうまく水をかいて前へ進める子どもは、陸上でもうまく走ることができる。

同じように、サッカーが上手な子は、文化祭で歌の発表もうまくできる。

同じように、・・・



ここまで読んでくると、さすがに

あれ?

と思う。



学校は社会の縮図であり、学校でやっていけない子は社会でやっていくことができない、という考え方。

それは、その子の可能性を学校の中で求められる価値観に押し込めてみているに過ぎない。


学校は、学校だけでしか通じないようなオリジナルのルールがたくさんある。

学校は、社会の縮図だ、と考えるには、無理がある。


学校でリーダーシップがとれた。だから、きっと会社でも・・・

そういう場合もあるだろうが、またまったく違う場合も、かなりたくさんある、ということ。

学校でどうだったかというのに、どうしてもこだわりたい人もいるけど、

実はそんなに関係がないという要素が、すごくたくさん、想像以上に多くある、ということ。


また、学校には、無数のイベントがある。

イベントごとに、授業ごとに、単元ごとに、子どもは無数の反応をし、持ち味を出し、活躍する。

場面ごとに、人間の表現するものも、内在するものも、すべてがリフレッシュし、

かきまぜられ、新しくなって出ていく。



そう考えると、

「家庭は社会の縮図」だとか、「学校は社会の縮図」だとか、

ほとんど無意味なことだろう。



学校は無数の細胞とその関わりから出来ていて、家庭も社会もまた同じである。

学校と社会は似ていることも無数にあるし、似ていないことも無数にある。

関係ありそうなことも無数にあり、関係のなさそうなことも無数にある。



それを、さも直接関係のありそうなことにして、『縮図』という言葉に押し込めてしまうが、

それはきっと、

人間が、この複雑な人間関係を

わかりたい(わかったと思いたい)

という病気にかかっているときの、よくある行動パターンなのだ。

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ノリ、という文化

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ノリ、という文化がある。

友だちをからかったり、ぼけたり、つっこんだり、話を持っていくテンション、

それをまわりで聴くときのノリ。

ごく自然な雰囲気で、子どもたちはその、

空気のような『ノリ』を感じながら暮らしている。

ノリ、は、テンション、緩急、スピード、雰囲気・・・




ある意味、集団で、その『ノリ』に、酔っている。

『ノリ』くらいしか、見えやすい、分かりやすいものが見当たらないのだ。

唯一、目の前で実際に感じる『ノリ』を、「たしかなもの」として見る。

だから、集団で、その『ノリ』に、依存していく。


「きもい」
「うざい」
「べつに」
「意味わからんし」

こういう言葉がよく聞かれる教室。

笑う声でなく、嗤う声が聞こえる。
こそこそ話がある。
一生懸命は格好悪いこと、だとしたがる。
叱られている時にニヤニヤする。


このことで、担任が困ることはなにも無い。
子どもを変えようとしなくてもよい。

子どもはそれで、良い。
それが自己防衛の姿なのだ。

それが、自然だ。
人間だれしも、心が充たされなかったら、そうなる。




やるべきことは、子どもがどうであれ、同じである。

「きもい」と言う子にも言わない子にも、教師は同じ態度を貫く。


子どもの真意。


「本当はどうしたかったの?」


これを大事にしていくだけで、教室が変わってくる。




「ノリ」だけを観なくてもいいかもよ、と教えるだけで、

あ、ノリだけじゃなかったんだ!と分かる子には分かる。

伝わる子には、伝わる。

そして、実際に、「ノリ」よりも、確実で手ごたえのあるものに出会う。

そのときの感動。




本当は、本当のホントウは・・・



本当に願っていることが言えた時、聞いてもらえた時、

ノリ、という雲か霧のような、

正体不明な、

心の奥ではすごく不安に思う、わけの分からないものが、

スーッと小さく変化する。

「ノリ」に頼らなければ、という不安が消える。

そこにどんな「ノリ」があろうが、左右されなくなる。



子ども自身が、その人の、本当、をみるようになる。

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目に入れても痛くない話

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国語で、ことわざを習った。

目に関することわざ。



国語辞典を調べていた子が、

『二階から目薬』を発見し、

「そんな階段の上から目薬って、そんなん、無理やろ!」

みんな 「ウワハハハ!!」

・・・てなことを話していたら、



「目に入れても痛くない」って、どういうこと?

という子がいた。

なんでも、おばあちゃんがわたしに

「目に入れても痛くない」と言ったそうだ。

意味がわからない。

今、目に関することわざをしらべていたから、急に思い出したそうだ。



「へえ、そんなこと言われたん」

「目に入れるってどういうことだろう?」

席の近い子たちが、反応してる。



「えっと、目に入れても痛くないって、聞いたことある人?」

しーん。

クラスで、ほんの5,6人しか、手を挙げない。

その中の一人が、

「わたしも、おばあちゃんから言われたことある」




どうやら、この言葉は、おじいさんやおばあさんが、孫に対して言う言葉らしい。

「目に入れるって、なにを入れるん?」

謎めき過ぎてます。

目に入れるのは、目薬だと、相場が決まってます。

この場合、何を入れるんでしょうか。

各自の、宿題になりました。


「えっと、おじいさんやおばあさんと一緒に暮らしている人は、ぜひ聞いてみてください」

「あ、今度の連休で、ちょうどじいちゃんの家に行く!」

「あ、そりゃ、ちょうどいい」


どんな会話になるのでしょうか。楽しみです。



「じいちゃん、目に入れても痛くないって、どういうこと?」

「は?」

「なんか、じいちゃんが孫に言う言葉らしいんだけど・・・」

「お、おおう・・・」




おじいさまが、機転の利いた返答をしてくれるよう、祈ります。

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母の店

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父が死んだあと、喫茶店を閉めておりました。

ところが、母が突然、

「また、やろうと思って」

と、復活宣言。

店を改修し、老婆が一人で、喫茶店を再開することになりました。

「お客さんが来てくれるうちは、ねえ」

わたしは、もうこんだけ働いたんだから、ゆっくり過ごすのかと思ってたので驚きました。

「一人じゃ、大変じゃない?・・・本当にやるの?」

「あい」



ギャラリーも、復活するそうです。

絵画に限らず、洋裁、裁縫、布製品、革製品、陶芸、書、

世の中には、自分の作品を世に問う、という姿勢の作家さんがたくさんいるので、

こんな田舎の小さなギャラリーでも、けっこう希望される方がいるようです。


「作家さんたちと、作品を受け取ったり展示したり、大変だよ?

お父さんがいないんだから、もうギャラリーは無理じゃないの?」

「いいじゃない。こんなおばあさんだもの。だれも期待しないよ。作家さんが自分でちゃんと飾るよ」

「そう・・・?」





作家さんたちは、自分の作品をつくるのはプロ。

しかし、ごくたまに、作品を展示する仕方や、照明の当て方など、

けっこう悩む方もいる。

そこにアドバイスをして、父が場所や照明を工夫すると、

「この方がいい!」

と喜んでくださる。

「だいじょうぶ。作家さんたちに、好きなようにやってもらえばいいんだから・・・」



まあ、人生は一度きり。

母には、母の人生があります。

よくよく考えた末の結論、ということでしたから、

また再び、お店を楽しんでほしいと思います。

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月を見ようぜ!!

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満月を見たことある人?

はあい。

全員が挙手。

三日月を見たことがある人?

はあい。

これも全員。



4年生で、月の学習をします。
◎月は、日によって形がかわってみえること。
◎月は、時間によって、位置が変わり、動いて見えること。



月の観察。

本当は、全員で、見たいのです。

夕方や夜になってから、月がきれいに見える日に。



「学校で、みんなで見られると良いんだけどなぁ・・・」

ところが、昨今の小学生はみんな

ならいごとをたくさんしていて、学校で夜のイベントを催すことがしにくいですな。

昔、自分が子どもの頃は、夜に学校の校庭で映画を観たり、

日曜日に、紙飛行機をとばす大会をしたり、

あれこれとやったもんだけど・・・

当時と今とでは、子どもの人数が違いますので。





月に興味を持ってもらいたいので、月の模様の話をしました。

教室のテレビにでかい満月を映しました。

クレーターで、くっきりした明暗が見えて、模様がはっきりわかります。

「むかしの人は、これがうさぎの模様に見えたって」

「知ってる!!」


ところが、どこがうさぎの耳なのか、議論が沸騰する。

こう見ると、どうみても立ってるのですが、

usagi


ところが、すこし回転させると、

月の模様


これを、横っ飛びに跳ねているうさぎだとみる子もいます。

「先生、これ、ぴょーんって、左に跳んでるんじゃないの?」


なるほど。


それだけで、5分以上、みんなでワイワイとやります。

月に模様がある、ということが、こんなにも小学生には嬉しいんです。




授業の終盤で、

「今晩、全員、月をみようぜ!」

「オーッ!!」


これで今日の授業の目的は、なんとか達成です。
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