30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年08月

バタフライ効果とエビフライ効果

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NHKの「ピタゴラスイッチ」の、終わりかけの部分がテレビ画面に流れていて、

急に部屋に入ってきた息子が、

「あ、レコードがまわっとる」


↑ 途中のプロセスは全部、すっとばして、結果だけ見ると、こうなる。


最初と最後だけ見ると、どう思うかというと、

「ボールを入れたら、レコードが回った」



たしかに関連はあるはずなんだけど、

途中にある坂道が、あの角度だったから、とか

うまい具合に、ドミノが倒れてくれたから、とか

ひもの長さが、ちょうど木の板にあたって、板を倒すことができたから、とか

玉が転がりすぎないで、ちょうど穴に入って落ちてくれたから、とか

そういった、複数ある途中のプロセスには、目を向けず、

最初と最後だけをくっつけて、

「ボールを入れたら、レコードが回った」

と言い切ってしまうと、

なんだか急に、バタフライ効果のような、ゆらゆらした、めまいのような幻惑を感じることになりますナ。

いやいや、板とか、いっぱい倒れたからやで!!




バタフライ効果、というのは、ご存知のように、

「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」

というものであります。

ブレーズ・パスカルが『パンセ』に記述した、

「クレオパトラの鼻が低かったら、大地の全表面は変わっていただろう」

という格言も同じような発想に基づいたものと言えましょう。



すべからく、すべての物事は関連しあっているのは当たり前として、

Bすれば、Aになる。

という言い方は、ピタゴラスイッチの、最初と最後だけしか見ていない場合に

よく当てはまる。

こういうふうに、他の要素を抜きにして、とりあえず

分かりやすい要素だけを特に抜き出し、単純化して把握していこうとするのは、

シンプルを好む、人間の知恵の一つと言えましょう。



学校の長い廊下の端に、

「走るな!危険」

と書いた看板を立ててありまして・・・。

ずいぶん以前にお勤めでいらした先生の発案で、置かれたものです。

今年になって、新しくこの学校に来られた先生が、

「あそこは人通りも多いし、看板を外してもよいのではないでしょうか」

と職員会議で提案をしました。


ところが、昔から居る先生は、どう感じたかと言うと、

「あの看板があるから、子どもたちがあそこを走らないで歩くようになった。

効果が上がっているのだから、外さない方がいい」

でありました。


看板があると、子どもは廊下を歩くようになる。

Bすれば、Aになる。



本当にそうでしょうか。

見ているのは、ピタゴラスイッチ装置の、最初と最後だけ。

これを、ピタゴラ識(しき)と呼んでいます。

視野に入らない世界





子どもに、なんで廊下を走らないの?と聞くと、

高学年の女子は、こう言ってました。

「え?だって、疲れるから・・・」

看板があることを伝えると、

「え?そんな看板、ありましたっけ?・・・ああ、あそこのやつ!・・・あれ、そんなこと書いてあったっけ。忘れとったー。とりあえず、邪魔だからよけて歩いてるけど。何が書いてあるかなんて、ふだん見てないし」

これを、エビフライ効果、と呼びたい。

エビの身の大きさとは比較にならないほど、大きな天ぷら粉の衣(ころも)をつけて、実態よりもはるかに大きく見せることで、真実を見えなくさせる効果のこと、つまり、

事実が見えなくなることを、エビフライ効果、と呼んではどうか。




この場合の正しい語句の事例としては、

「バタフライ効果を信じたあげく、エビフライ効果に陥る」

というものがあります。どうぞ、ふだんから日常生活の中で、

〇バタフライ効果とエビフライ効果

セットでお使いください。

Sくんが安心していると・・・

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お地蔵様に傘がかぶせてあって、

おまけにきれいに掃除がしてあって、

そのうえ、美味しいものがお供えしてあると、

そこを通りがかって見る人のほとんどが、

なにかしら、ほこっとした温かさと、安心感を覚えるのではないかと思う。



どんな知らない土地であっても、

この土地のお地蔵様がこんなふうな扱いを受けているとなれば、

旅人は、たとえ信仰心がなくても、

「ここは安心できる町だ」

と思うのではないだろうか。





学級の仲間にとって、Sくんは、お地蔵様のような子でありましょう。

Sくんに、無理やりに、なにかをさせることはできないですから。



そのSくんが、安心して、教室でくつろいでいるときは、

他の子も、無条件に、教室が安心できる空間になっている。

Sくんがそこに、にこにこと佇んでいるだけで、

あたりを、「安心」という空気が、あったかく包み込んでいる。



ぼくは幸せだあ



Sくんが、そんな顔をしているように見えるときは、

教室の中の、どの子も、

ぼくだって幸せや

と思っていると思う。



Sくんの目が落ち着かないとき、

それは、担任の先生が、Sくんを、落ち着かない目で見ている時で、

Sくんの目が落ち着いているときは、きまって、

担任の先生が、落ち着いてSくんを見ている時だ。



Sくんの目は、

「自分がどう見られているか」

を、正直に示している。




この人は、ぼくに危害を加えない。



Sくんが、そう思っていることが、

周囲のだれもに、感ぜられる。



そうすると、いかにも、

ここは平和の砦だ、

ということを、みんなが思い出す、という仕組みらしい。



Sくんが「世の光だ」ということが、このことからも、よく分かるネ。

ojizousan


『価値』を信じて!?

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現代では、見かけよりも中身が大事、と言うことになっている。

だから、いかに見た目が美しくて、

精巧な技術で、ち密に磨き上げられ、

ピカピカと輝くようなガラスや水晶も、

ダイヤモンドに比べたらその価値はほとんどない、ということになっている。



ところが、ある人はガラスの指輪を持っていて、

精密にカッティングされた工芸品に、

なんどもため息をもらし、なんどもその美しさを称えて、

満足しきって、これまで暮らしてきた。

そんな話を聞くと、それがたとえガラス玉だといっても、

その美しさに、価値がなかった、というわけではあるまい。




見た目が美しい(と思うこと)にも、たいへんな価値が、ある。

そしたら、いちいち、そのことに満足している人たちに向かって、

「それ、中身はガラスだから。ダイヤのニセモノだから」

なんて、言わなくてもいいんじゃない?

ニセモノだろうがなんだろうが、断然、美しいと思ってるわけだし、

アクセサリー、というジャンルでは、

それこそ、きれいなビーズ、ガラス、水晶が、

きちんとした素材でもあるんだから。




化学的な原子構造がきちんとダイヤモンドである、ということにしか、

価値はないのだ、という言説、だれが広めているのだろう。

もしかしたら、ダイヤモンドを売ってる会社?



ダイヤモンドを売る会社の人からしたら、

「所詮、イミテーションに過ぎぬわ!」

「ダイヤの本物、ホンモノにしか、本当の美しさはない!あとはガラクタ!」

ということを、世の中の全員に、信じ切ってほしいでしょうナ。




われわれは、どうやら、外見よりも中身が大事、という文化なんでしょう。

それは一方で、とても良いことのように思えますが、

しかしまた、

周囲も必ず同じふうに考えてくれなくては、困るため、

「中身にこそ、価値があるのだ!」

と、ずっと、ずーっと、声高に主張し続けなければならないのだとしたら、

なんだか、それはちょっとばかり、胡散臭さを、どこかに隠し持っているようで・・・。




「いいの。ガラスでも、綺麗だから」

「私は、これが好き!」

と、明るく言い切っちゃう人ばかりになったら、

『本物証明』に価値を置こうとしてたダイヤモンドの会社は、困るのか・・・。

まぁ、べつに困らないか。

ガラスが美しいと、ダイヤモンドが汚れちゃう、というわけでもない。




結局、カチって、なんなのか?

「ここに価値がある!」と叫ぶとき。

みんなが本当に心底、自由な感じにふるまうような社会になってきたら、

どう変わるんだろうか。


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つづく教師の暴言報道に思うこと

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教師の暴言があった、ということで、テレビ報道されている。
所沢市の教師が「窓から飛び降りろ」

沖縄の教師が「脳みそをつかえ」

両方とも、命令調だということになっている。

これは、教師の叫びだ、ということは、明らかでありましょう。

教師の、悲鳴であります。



たぶん、相当な、プレッシャーを受けている。

逃れたい、逃れられない、そんな悲鳴です。

わたしは自分が教師だから、その苦しさが、なんだかよく分かる。

せつないねえ。



教師が逃れたいと思っているのは、なにから?

それは、「責められることの不安」でしょうナ。

子どもにいくら要求しても、頼んでも、願ってみても、

通じないので、だんだんと焦ってくる。

校長にどう思われるだろう、保護者にどう思われるだろう。

不安が大きくなり、子どもを変える、それしか考えられなくなる。

ブラック企業で、追い込まれた社員と同じです。

自分でも、他の方法も何も見えなくなり、

そのことだけが重大に思えてきて、どうしようもなくなる。

だから、悲鳴をあげているのでしょう。






大人が悲鳴をあげるという点で、すでに

この学級は、学級らしくない、ですね。

大人目線の学級らしさを追及しようとしても、

実はそこにいるのは、小学生ですから。

小学生のつくる、学級なのですから。

大人目線の学級らしさと、

子ども目線の学級らしさが、

違うのかもしれない。

小学生の学級に、大人の悲鳴は、要りません。




ところが、世間は、大人目線での学級を要望する。

教師は、それをつい、「忖度」したくなる。

だから、掲示物はすべて、折り目正しく、縦横90度、すこしのズレもなく、ぴったり貼られ、

机の角までぴったりと揃えられて、落書きも無く、わけのわからない粘土の作品もなく、

おしゃべりもなく、間違いも無く、なんにもないのが、尊ばれていくわけね。

ところが、現実の子どもっていうのは、そうはならない。


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「つい、カッとなって・・・」とは、なんだ?

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行き過ぎた感情を、処理する方法。

感情をどうするか、というの、

とくに誰かから、教わったり、習ったりしたことがない。




子どもたちと話していても、

「むかつくから」、「イライラしたから」、「カッとなって」、

というような言葉が、出てくる。

こういう種類のフレーズしか、習っていないからかも、と気づいた。




よく聞く、「つい、カッとなって」、というやつ。

こんなの、よく表現できたなあ、と感心してたら、ハッと気づいた。

これ、自分で考えた表現じゃないわ。どっかで、読んだり、聞いたりしてるわ。





ためしに、身近な人間に、

「ねえねえ、ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現あるでしょう?」

と聞いて回った。

「その表現って、言うことある?これまで、言ったことある?」

すると、みんな、

「あるよ」

と言う。



そこで、

「その、ついカッとなって〇〇しちゃう、みたいな文章って、自分で考えたの?」

と聞くと、

「いいや。どっかで聞いたり、読んだりしたのだと思う」




つまり、この、

「つい、カッとなって、〇〇しちゃう」

という文章表現って、どこの誰が考えたかしらんけど、

長きにわたって、日本の中で、ずいぶん流行し、使われてきた、ということらしい。

流行語大賞がとれる!


これ、表現、とか言い方、という問題ではないな。

頭に来たときの感情の処理の方法なんだ。

頭にきたら、何かに当たる、というの。

「そうするものだ」と、刷り込んでる。

その「刷り込み」が、具体的に、後々の世代へと、

きちんと受け継がれて行っている、ということ。

まさに、『言霊(ことだま)』、と言っていいレベルで。



つい、カッとなったら、数える、という人はあまりいない。

というのは、日本語ではまだ、

「この間、ついカッとなってしまって、数を数えたよ」

という文章表現が、人々の人口に膾炙してないからだ。



一度、日本人全員で、流行させてみたらいいと思うね。

別なパターンを。

カッとなったら、

数える、とか、散歩する、とか、甘いもの食べる、とか。

そしたら、

「ついカッとして、〇〇しちゃった」というのが、ふつうである、
と思い込んでいたところに、ちょっとした変化が起きる・・・かも。




我々は、ふだん使われてきた日常のフレーズから、

言霊にあやつられるようにして、

「これが当たり前だ」 「これが男(女)らしいのだ」 「これがあるべき姿だ」 というように、

これが正しい、とされる感情表出と感情処理の仕方を、学んできているようだ。




いったん、そこをぶちこわすのが、これからの道徳教育、ということになっていくだろうネ。

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下の名前で呼んでもらう件

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勤務校に、佐々木先生という先生が2名いらっしゃる。

すると、職員室で、

「佐々木先生!」

とは呼べない。

2名いらっしゃるから、どうしてもフルネームで声をかける。

「佐々木〇〇先生!」



そのフルネームが長いから、だんだんとみんな、

下の名前だけで呼ぶようになった。



このことを、なんとも不思議な感じがする、と、当の本人から聞かされた。

夏休みが終わろうとする今、なんとなく、職員室はしっとり、としている。
少しずつ、新学期のためのあれこれ、準備が始まっている。
しかしまだ、子どもたちが来ているわけではないので、まだ先生方に余裕がある。

すると、普段はそんなに話すことでもなかったようなことが、話題にのぼる。

「おれ、フルネームで呼ばれてるでしょう?〇〇先生って」
「ふんふん」
「それね、まだ全然、慣れないんだよね」
「ああー、そうですか」

その先生が言うのには、自分が下の名前で呼ばれる経験が、久しぶり過ぎて思い出せないくらいなんだそうだ。

「思い返してみればさー、おふくろに叱られてサ、これ!ユウタ!早くせんと!・・・なんて、叱られたときのこと覚えているくらいで、あとはずっと、名字ばかりだったから」

小学校でも、中学高校大学でも、ずっと

おい、佐々木!

と呼ばれ続けてきたんだって。

だから、他の人から下の名前で呼ばれると、すごく違和感があるんだって。

「ゆうた!って呼んでたのは、おやじとおふくろだけ、なんだよね。これまで」




佐々木ゆうた先生が、

「ゆうた先生」

と呼ばれているとき、

なんとなく、嬉しそうである。

こわもてで、一見すると、こわそうな先生なのに、

「ゆうた先生」、と呼ばれると、かわいい感じがする。

このまま、ずっと「ゆうた先生」と呼びたい気になる。

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みんな、「先生らしさ」と、戦っている

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先日の休みの日。

数人の若い先生と一緒に呑みましょう、ということに。

「さぁ、2学期だ、また、いっしょに頑張りましょうや」、と。

久しぶりに、いろんなことを話しました。





こうやって話してみると、いろんなことが見えてくる。

先生たち、みんな、「先生らしさ」と、戦っている。


実際には、得意分野、教科の志向、世代間の違いなど、分化した先生たちの姿がある。

先生も多様なのだ。

一人ひとり、教師は、世間の期待というものと、実際の自分を、いつも比べている。

そして、実は自分がそうではない、ということのうしろめたさのようなものも、隠し持っていたりする。

世間の中心に当然のように置かれた先生らしさ像に、「怖れ」に似た気持ちさえ、持っているのだ。



先生とは、テレビや新聞で語られる先生像だけではない。

実際の先生らしさ像は意外におもしろい。

実はゲイ、という先生もいる。

教師を辞め、転職しようとする先生、

休日は山にこもる、というアウトドアな先生、いろいろだ。



自分は、先生らしさの中心から、ほんの少しずれている、と分かっている。

だから、すこし、世間の目を忍んで、という意識がある。



飲み会では、絶対に、

「〇〇先生」 とは相手を呼ばない。

それが、教師の飲み会の最重要ルールだ。

店員さんから、

あの人たち、教員なの?

と、うしろ指を指されてしまうからだ。

教員が飲み屋に居る、ということだけで、顔をしかめる人たちもいる。



おそらく、日本中の先生が、みんな飲み会では気を付けていると思う。

先生は、素を明らかにしてはならない。

この意識が変わると、だいぶ楽になると思う。

先生も、世間も。

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教師は時事問題をぶつけられたら、どう対応するか

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夏休みにテレビのニュースを付けると、ミサイルの話をしきりに放映している。

こういうニュースがあると、わたしは憂鬱である。

なぜか。

学校が始まると、子どもたちが決まって、

「北朝鮮がミサイル撃ってくるんでしょ!?」


というだろうから、である。




わたしは教師になりたての頃、このような時事問題を、

わりと詳しく、子どもたちに解説していた。

ああ、恥ずかしい。

ネットやテレビで見たことを、まるで、自分が知っているかのように。

さも、批評家、専門家気取りで。




ところが、今や、わたしは中年、もっというと

初老の年代に差し掛かり、

マラソンはおろか、子どもたちのサッカーの相手もくたびれて、

すぐに走るのをやめてしまうくらいだ。

だから、わたしはもう、時事問題の解説など、いっさい、しない。

「北朝鮮がミサイル、撃ってくるんでしょ?!」

という子どもたちの挑発にも、一切応じない。

「ほぉ、そうなの?それ、自分でそう、思ったん?」

と、空をまぶしそうに見上げるだけだ。





ところが、子どもというのは、先生は何でも知っていると思い込んでいるらしい。

「先生、アメリカって、〇〇なんでしょ?」

「先生、日本って、〇〇なんでしょ?」

「先生、北朝鮮って、〇〇なんでしょ?」

初老にさしかかった私は、

「ほぉ、そうなの」

としか、言わない。



「へえ、いろんな意見があるのねえ〜」


あとは、

「もっとちがう意見、感想が言える人?」

と促していたらいい。

「いろんな意見や感想が出てきたねえ。よく調べた人もいて、感心しました。本当はどうなんだろうね?」



これまで受けてきた質問で、いちばん、心臓に悪い質問は、

「先生、日本って、戦争するの?」

である。

わたしは、驚いて

「えッ、やめとこ!」

とだけ、言っておきました。

それから、帰りの車の中で、

「先生って、こんな質問を受けるのか」

と、なんとも不思議な職業であることを、再認識致しました。





そういや、うちの子も、言ってたことがあるけどネ。

「戦争になるの?」

なんで、そう思ったかというと、テレビでそう言ってた、と。

マジな話なら、別の国へ行こう、と。





ミサイルねえ・・・。


親も先生も、事実は把握できないのでス。

意見感想しか、言えませン。


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「努力と競争」に変わる言葉

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暇なので、BOOKOFFに行ってきた。

すると、懐かしい漫画がたくさんある。

「巨人の星」や「あしたのジョー」。

「キャプテン」に「ドカベン」。

だれが読むのかな、と思っていたら、やはり手に取るのは大人たち。

懐かしいのかもね。




今の子たちにとっては、難しすぎる。

ハードルが高い。

それも、心理的なハードルが。



スポーツ根性のストーリー。

今の小中学生からしたら、驚愕する世界だろう。

「こんなしんどい世界は、見たことが無い」と。

どこか、特別に遠い、非日常の世界だろう、と。




ところが、まだ我々が子どものころは、

根性と努力で難敵に立ち向かっていく世界が、

まだまだ自分たちの身近なストーリーだった。

「努力すれば、必ず・・・!」 というのが、生きていた。




週刊少年ジャンプの、発行部数が過去最低らしい。

世の流れ、ということか。

すでに、「仲間、努力、勝利」 という言葉自体に、子どもたちの心がフィットしていない。



わたしたちは、つくるしかない。

競争、努力、根性とはべつの、変化した(進化した)、あたらしい価値観の言葉を。


ジャンプ2

保育園で講演~不安を取り除くこと~

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保育園で、講演会をしてきました。

0,1,2歳児が対象の保育園です。

来て下さった保護者の方、職員の方、みなさん若い方ばかり。

木をふんだんに使った建物で、とてもやわらかい、すてきな空間でした。



講演の後、質問がありました。

子どもが歯磨きをとてもいやがるが、どうしたらよいでしょうか

というようなことでした。

不安を取り除くことで・・・

と話をしました。

不安を取り除くと、元気になる。

これは大人も子どもも共通のようで・・・。

しかし、その「不安」も、

大人と子どもが、支配する、支配される、というような無理のある関係性でなかったら、

ほとんどなくなっていく。(最初から無い)



大人も子どもも同じで、

心の奥底の、『真意』を大事にしていく関係性があれば、

双方が無理なく元気になり、自然と活発になり、意欲がわき、

双方が困らず、最初から納得しあい、話し合える。



エピソードを交えて話をしました。

今回は70分ほど。

全力でお話させていただきました。

熱心に聞いていただいて、ありがたかったです。

その後その質疑応答で、さきほどの、「はみがきをいやがる・・・」の話題が出ました。



いっしょに笑顔になっていきたいんだ、ということ。

歯磨きの大切さを、きちんと伝えていく、ということ。

親も子も共通の、「一番星」をめざしていくんだ、ということ。

こころを満タンにして、共にすすもう、ということ。

質問をしてくださった方、とてもいい笑顔を見せてくださいました。



わたしにとっても、すごくたのしい1日になりました!

園長先生、お声をかけていただいて、ありがとうございました。

保育園で

「わたし」が主語になる間は平和 ~Nスぺ731部隊~

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NHKスペシャルで、「731部隊」が取り上げられていた。

また、インパール作戦のことも先日、やっていた。

録画してあったその2つを続けてみて、考えたこと。




えらい人の主語が 「わたし」 でなくなってるときに、
人は、要らない事件を起こすみたいやなぁ〜。


「軍人たるものは・・・」
「部下であれば・・・」
「日本人なら・・・」
「日本男児のすることに・・・」
「男っていうのは・・・」

こういう言い方をするときの目は、宙をさまよう。
自信がなく、虚勢を張っているように見える。

怒った時の感情の処理の場面で、この言い方がよく出る。

本当の自分の意志、自分自身を大切にできなかったから、
そのことが心の裏で分かるから、自分の心に勢いを駆るしかなくなる。

それで、大声(おおごえ)になってしまうのかな。

冷静でいられなくなることの原因は、たぶん、それ。


「他の軍人もみな・・・」
「相手は匪賊で」
「陸軍としては」

この時、「個人」は、すっぽりと抜けている。




「軍人」・・・も、
「日本人」・・・も、
「日本男児」・・・も、
「男」・・・ってのも、

みんな、わたし自身の実際とは、つながっていない。
くっつけようとした、というだけの『言葉』。



「わたしは、いやだと思った」
「わたしは、とてもできないと思った」
「わたしは、泣いた」


こういうことは、戦争を終えて、
心に余裕ができてから、はじめて言えたこと。

「わたし」が主語になる間は、平和な時代だ、ということ。



自分を大事にしなかったときの、言葉の癖は、よく見える。
平和な時には、それが見える。

つまり、主語が「わたし」以外になってしまう、ということは、
「わたしは、自分を大切にしていません」ということを、
だれかに気付いてほしくて、言外ににおわせているのかも。

NHスペシャル

心の性別

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小学校の先生をしていると、

幾人か、こういう子に会います。

身体の性とは別に、心の性をもつ子。

男子だけど、心は限りなく、女。

逆に、女子だけど、心の性という意味では、男。

どちらも、います。

社会からの圧力がまだ無いため、本人も楽に生きることができています。



話し方や興味、持ち物、なんとなく全部女子、という男子がいました。

集会などで、男女別で並ぶのですが、なぜか女子の方にならんじゃう。

並ぶ直前まで仲の良い女子との会話がはずんでいて、そのままの勢いで、つい女子の列に並んでしまう。

男子が女子を好きになる、という意味の、「愛の対象としての性」ではなく、

女子との会話が妙に弾み、持ち物を見せ合うのも、ノート交換をするのも、女子と一緒の方が楽しい、いっしょに遊ぶ対象が女子なのだ、という男子です。

声も、まだ高い声だし。

「でもさー、Mちゃんの持ってるピンク色のリボンの方がかわいいじゃん~」

そう言う彼を、ほとんど、女子の仲間として受け入れるメンバーもたくさんいて、

彼は彼なりに、女子の身内としての居場所を確立しているわけ。




音楽室に移動するときも、休み時間に図書室へ行くときも、

女子たちが、きちんと、彼のことを、待っている。

「ごめん~、まった?」
「行こーっ」


女子の3,4人といっしょに、図書室へ行く、彼。

いつも、メンバーの話の中心になっているから、話術も巧みなんだね、たぶん。



驚くのは、彼は、プールで着替える時は、男子の更衣室で着替えます。

べつに、驚くことじゃないのか・・・。



水泳パンツに着替える時は、男の子と、楽しそうにしゃべりながら、着替えている。

また、サッカーをやる時は、

「キャー、ボールきた!」

と恥ずかしそうにするんだけど、

けっこう、いいシュートを決めたりするわけ。



つまり、彼は、男子としての自分も受け入れつつ、

心理的に女子を十分に理解できる能力も兼ね備えている。



すごいですよ。

なぜかって、たぶん、この子は、平和の使者になれるですよ。

男子の世界も知っている、女子の世界も、知っているのです。



ニューハーフではなく、

ニューダブルです。

ダブルの、能力の持ち主です。

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父の見舞いで、思うこと

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父が入院しているので、見舞いに行った。

この父には感謝している。

とくにありがたいのは、

わたしが人生を、かなりナメていたことを、許してくれていたことである。


今でも私は、人生を甘いと感じ、ナメた感じがあるのだが、

それも、しずかに許容してくれている。


ふつうの父親であったなら、

「人生は、そんなに甘いもんじゃないぞ!」

と、叱るような気がする。



今でも、はっきりと、わたしは人生をなめている。

今の人間社会の根底の問題は、

人生をなめることのできない人が多い、ということに尽きる。

なめて、生きていくのが人生なのである。

人生は、ソフトクリームのように、甘い。

それを、

「なめたらあかん」

と言うから、おかしくなって、多くの人が「鬱」になる。




20歳の頃の、瞬間的な熱量で、わたしは世を、さすらってしまった。

さすらうことの、心地よさに、酔いしれてしまった。

だから、教師になるのが、ずいぶん遅くなった。

40歳を前にようやく教師を始めた、なんてのは、ずいぶん、世間を舐めた話かもしれない。



さすらう、を、漢字で書くと、

『流離う』

と書く。

わたしのような、さすらい者は、

人生の初期に

「自分は中途半端な、ふがいない奴」

と自覚したからか、

すっかり、社会の中で無理をしなくなった。

だからかもしれない。

「老い」に対する恐怖が、あまり、無い。




「メロンを、あと何回、食べられるかね」

と、父が言う。



あと何年生きられるか。

あと何回、食べられるか。

自分も、人生の真ん中は超えた。

自分の年齢の数え方が、ごく最近、変わった気がする。

若い頃は、0から数え始めた。

今は、逆だ。

あと何年生きるのか、と数えるようになった。

父の病室を何度か見舞ううちに、自然とそうなってきたようだ。




父とその後、なんということもない、ごく普通の会話をして、病室をあとにした。

「じゃあ、またね」

渥美半島のメロンは、気に入ってもらえただろうか。


女子の会話

.
夏休み。
わりと家にいる時間がある。

私が、嫁様の顔をみている時間も長い。
そこで、分かったこと。

うちの嫁様には、妹君がいるので、たまに姉妹でおしゃべりをする。

それがどうも、なかなかの長時間の会話なのだ。

わたしは、食卓で何をどうする、ということもなく、チビすけと遊んでいると、

否が応でも耳に入ってくる、女子どうしの会話。


ねこの餌は、なにがいいか、ということで、ずっと話をしている。


わたしは、つい、

そんなもん、店に行きゃ、いくらでも売ってるやろ!!

と言いたくなる。


ところが、女子が要求するのは、そんな簡明な「数式の解」ではない、のである。

べつに、女子は、問題解決をしようとしているのでは、ないのであった。



望んでいるのは、

「何を買えばいいのかの答え」

ではないみたい。




そういや、結婚したてのころ、ショッピングに付き合わないので、怒られたことがあるな。

丸井の入り口で、

「くつほしいな」

とつぶやいたので、

わたしはとっさに、本当になにも考えず、条件反射のように、

「あ、じゃあ、下のマックで待ってる」

と言ったら、

めっちゃ不機嫌になった。

・・・



迷う感じを、共有したいのであろうか。

あれがいいかな、これがいいかな、それもいいな、でもどうしよう~

こまっちゃうな~、と。




しかし。

靴、ならまだしも、

今回は、ネコの餌。

いつまで話しとんじゃい。



ねこのエサやろッ!!

なんでもいいがや!!




・・・と怒鳴りたくなりましたが、封印しまして・・・


ちびすけと遊びながら、

姉妹の電話対談が終わるのを、

ずっと、

ずっと、

わたしは静かに待ったのであります。



ところで、学校教育においては、なによりも

問題解決能力こそがゴールだと、

学校教育の大切な目標なのだ、ということになっています。

しかし、それと同時に、おなじくらいに大切なのが、

こころを伝え合う、通じ合う、人間の理解力、ということだと思います。




人間とは何か。

この理解力こそが、つぎの学習指導要領で大切にされていくべきでしょうな。

大人も、子どもも、お互いに。



問題解決ばかりでは、いつか、越えられない壁にぶち当たる。

問題解決は、万能ではない。

そこを、きちんと把握しておきたい。

愛知の山頂

つかちゃんの話 その2

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つかちゃんの家には、しょっちゅう遊びに行った。

初めて行った時、家の庭を見て、まずド肝を抜かれた。

まるでジャングルである。

植木鉢が所狭しと立ち並び、子どもの視界はすっかりさえぎられて玄関すら見えない。

「こっちから入って!」と叫ぶ、つかちゃんの声を頼りに裏手へ回ると、

家の壁際に巨大なガラス槽が見えた。

噂のカブト虫は、そこに眠っているらしかった。


ここでは何もかも、本格的であった。

僕は、わが家の軒下にある、30センチにも満たない、

ちっぽけな水槽のことをちらりと思った。



つかちゃんは、

「見る?」

というなり、柄の長いスコップで堆肥の山をほじくって見せた。


いた、いた。



白いカブト虫の幼虫が、ごろりと姿を見せた。

ぼくたちはのどを鳴らして、うめいた。

つかちゃんは、去年もいっぱいカブト虫を孵したらしい。

これなら、わざわざ取りに行かなくとも済むじゃないか、と思うのだが、

つかまえるのもやはり、つかちゃんの右に出るものはいなかった。



つかちゃんは夏休みになるときっちり成虫をつかまえて

ますますガラス槽をいっぱいにし、ぼくらをうらやましがらせた。

かぶと

「大人は知らないだろう」と子どもが思う世界のこと

.
わたしが小学校の頃。(今から、もう四十年も前だ)

小学校の一年上級に、虫取りの得意な少年がいた。

塚本という姓であったため、みんなからつかちゃんと呼ばれていた。

彼はたもを持つと横なぐりにビュッと振り回し、一度に何匹もとんぼをつかまえた。



つかちゃんは、冬になってもサンダル履きで過ごした。

くつ下なんというものには、目もくれなかった。

足はいつもすり傷だらけ、乾いた泥をこびりつかせたままで、

平気で家に入ってきては大人に叱られているような子どもだった。




つかちゃんは、私を外へ誘い出すのが上手だった。

雨降りの日でも外で遊びたがった。

大人が使うような黒い大きな傘をさして、ゴム長を履いて玄関で待っているつかちゃんは、

ある日、両腕にインスタントコーヒーの空き瓶をいくつも抱え、

私にも、いくつか持たせたのだった。



「ガムシを取りに行こう」

つかちゃんは急いで早口でしゃべった、「空き地にいっぱいおる。」



ガムシなんていう虫は知らなかったが、

つかちゃんの腕力に押されて空き地へ連れていかれた。

わたしは、その『ガムシ』というのが、肌を刺したりしないかどうか心配した。



空き地では、住宅を建てるために整地工事が始まっていたようだった。

雨の中にひっそりと黄色いショベルカーが置かれ、そいつが通った跡に

でっかい水たまりが出来ていた。



つかちゃんは脇にしゃがみこむと手のひらで丹念に水をかい出しては、

「ほらおるおる」

黒い小さな斑点のような虫を水ごと瓶へ入れた。

それは、ゲンゴロウのはるかに小さく縮んだような、迫力に欠ける虫であった。


幾分、期待を裏切られたような気分でいると、

つかちゃんは瓶をたちまちいっぱいにし、

「次!」

と、下を向いたままで叫んで片手を突き出し、空き瓶を要求した。

僕は黙って抱えていた瓶を差し出した。



つかちゃんは、

大人の知らない、大人が教えてくれないようなことを、

教えてくれる人であった。

子どもだけが持っている世界、知っている世界、浸っている世界が、あることを、

つかちゃんは、当時、わたしに教えてくれたのであった。

クスサン幼虫をもらった手のひら

職員室を覆う、「ピリピリムードと不安感」

.
以前から不思議に思われることを、一つ。

傍目(はため)から、全体に落ち着いているように見える学校は、見た目のわりに、

職員室の不安感が強いのではないか、ということ。


そういう学校では、先生方の、子どもに対する要求のレベルが高いことが、特徴だ。

おなじように、

先生方が、同じ仲間の先生たちに対して要求するレベルも高い。


同僚に対して、

強く見せる。

できると見せる。

キレる、と見せる。

冴えている、と見せる。



そう「見せて」いないと、なにかしら、

責められる感、

うとんじられる感、

蔑まれる感、

という意識が、あるようだ。

だから、職員室が、わりと、

そうはならないよう、自己保身のピリピリムードになる。

それが、子どもたちに、伝わっていることは確実だと思うね。

子どもの世界も、なんとなく、ピリピリ。





かえって、なんだか落ち着かない学校、

いろんな問題を抱えている、とみられている学校の職員室は、

意外にも、不安感が少ないように思う。




なんでかな、と思う。


たぶん、

職員室で、もう、お互いにかっこをつけなくてもよいし、

おのずと、相談しやすい雰囲気になっているし、

お互い様と言い合える、職員間で積み重ねた人間関係があるし、

どうしたって、なにがあったって、協力していくのだ、という

気持ちが強いからかもしれない。

仲間を責めることもないし。

ピリピリムードは、ほとんど、ありません。



これ、保護者から見たら、まるで逆に見えるのじゃないかな、と

ふと、思ったのが、この記事を書くきっかけ。



「子どもが落ち着いているから、いい学校だよ!」

というときの、『いい』の中身は、なんだろうか、と思う。



「いろんな子がいて、ハチャメチャだから、とってもいい学校だよ!」

ということだって、言えると思うね。

表面が静かだけど、内心はピリピリ、というの、よくありがち。

逆に、表面は波打っているように見えても、その実、一人ひとりはとっても充実して

のびのびしている、ということも、よくあることだろう、と思います。

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子育て講演会(愛知県半田市)に行きます!

.
来週土曜日、「叱らない子育てとは?」という講演会に
講師として出ることになりました。

場所は、保育園です。
保育園の先生たちと、保護者の方に向けて話すことになりました。


前回、6月に三重県の鈴鹿市で
子育てセミナーの講師として
お話させていただきましたが、
そのときのことを記事に書いたりしたので、

新間は、そういう話をする、ということで、
本ブログを知った方から、今回、講師を依頼していただきました。


依頼の内容は、
「叱らない子育て」について、話してほしい、ということです。

つまり、どうやら、

叱らない

ということで、

話のできる小学校の先生を、世間では探しているらしい

のですね。

これは、大きな時代の変化のように思います。




以前から、本屋さんなどで、

「叱らない」

というタイトルの本など、わりとよく並んでいたようであります。

また、テレビでも有名な『尾木ママ』さんなどが、

「叱らない」ということを、書いてもいらっしゃるようです。

だから、「叱らない」という子育ては、

ずっと前から、かなり認知されてはいたのでしょう。




ここ最近、本ブログのアクセス数が増え、「講演会」の依頼までくるようになったのは、

このような時代背景、「叱らない」についての意識の高まりなどが手伝って、

すこしずつ、意識が変わってきたことによるのでしょう。

実際に、「叱らない」という話を、具体的にできる小学校の教師だということで、

どうやら、わたしにも出番があるようで・・・。





ところで、

「叱るか、叱らないか」

を、とても大きな子育ての「方法の違い」だとする見方がありますね。



叱るか、しからずんば、叱らないか。

成功か、失敗か。
上がるか、下がるか。
浮くか、浮かないか。
アルカリ性か、酸性か。


わたしが話をするのは、どっちか、という話でなく、

子どもとは何か、という話です。
今、私が思う、【子ども】のことです。
その子どもに、わたしは、どう接しているのか・・・。

叱るべきか、それとも叱らないべきか、という話ではなくて、ね。

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小さな問題を見逃す力

.
学校は、他の一般的な企業とは、もしかしたら違うのかもしれない。

というのは、よく世間では、

「小さな芽をつむことが、大きな問題を防ぐことになる」

と言われるでしょう?

ところが、学校では、まったく逆です。




小さな問題は、むしろ、意図的にスルー、が常識です。

スルーできないと、これは、本当に子どもが荒れる。

子どもが息をしにくくなる、という弊害が大きいのが、小学校という場所の特徴だ。




実は、小さな問題というのは、「不安」という意識上のもの、であることが多い。

見逃しても、じつはたいしたことがない。

それよりも、

「このままだと、たいへんなことになっていくのでは?」

というような、不安が不安をよぶことによる心理的な弊害の方が、何倍も、何倍も、大きいと思う。



不安というものは、形や実態がないし、根拠とむすびつけることもできないものだから、

ふわふわしていて、とらえどころがない。

だから、すぐに、大きくなってくる。



不安で心に余裕がなくなり、冷静さを失って、噂を信じてしまったり、

ひとの心に目の向かない、なんともやるせない、

無駄な対応策を強引に人に押し付けることになったりする。



小さな芽、のようなものが見つかったら、

「あれ?自分、これが芽だ、問題だ、困ったな、と思っているけど、

これ、本当に困らなきゃいけないことなのかな。だれが困るのかな」

と考えていきたいと思う。


桃の絵

焼き場に立つ少年【ナガサキ】

.
6年生。
社会、歴史の授業。

『太平洋戦争』について。


授業の最初に、この写真を見せました。
しーん。

2680

日本は、アメリカ・中国などと戦争をしました。
この写真は、その戦争が終わったすぐ後に、長崎で撮影されました。

撮ったのは、アメリカ軍のカメラマンであるオダネルという人です。

この写真に、なにが見えますか?

「男の子」
「男の子が、小さな赤ちゃんをおぶっている」


まだ、なにか分かることや気づいたことはありますか。

「男の子の足は、はだしです」
「背中の赤ちゃんは、寝てる」


なんではだしなんでしょう。

「戦争で、なくなってしまった」
「どこかにいってしまった」
「急いで逃げてきたのかもしれない」


読み取った情報や、自分がそこから考えていけること、類推すること、背景として想像できることなどを、ノートに書かせた。

時間を十分にとったあと、ノートに書かせたものを元に、意見をだしあう。

おうちの人はどうしたのだろう

「お母さんも、長崎だから原子爆弾で被害を受けて亡くなったのかもしれない」
「原子爆弾じゃなくても、戦争中だから、死ぬことがあったかも」


長崎にも、外国人が攻めてきた、ということ?

「元寇のときは、外国人が上陸したけど、長崎にも上陸したのかも。」
「空襲があったのだと思う」


空襲ってなに?

「飛行機から、爆弾がたくさん落とされた」


日本の各地で、どれほどの空襲があったのか、資料集をみて、そこから情報を読み取る。
日本中、あちこちで空襲があり、大きな都市はほとんどが空襲を受けて被害をうけたことがわかる。

「長崎は原爆だけでなく、何度も空襲があった」
「きっと、この子は、アメリカや中国を憎んでいると思う。だから、兵隊になりたかったのかもしれない」
「だから姿勢がいいのかも」


子どもたちは、あれこれと自分自身におきかえながら、この子の心の内にまで想像をふくらませていく。

「歯を食いしばって、立っているようだから、きっとなにかとても我慢をしていると思う」
「お母さんが亡くなったから、我慢をしているのだろうと思う」
「背中の赤ちゃんが元気がないのは、食糧が不足していたのだと思う」
「栄養不足だったのだろう」
「たぶん、お母さんもいなくて、自分が赤ちゃんの世話をしないといけないということは、二人兄弟か」
「お父さんもお母さんもいないということは、学校には行けていないと思う」



あれこれと討論が終わって、この子をとりまく状況が分かってきたような感じのところで、

「この写真につけられたタイトルを教えます」

といって、
「焼き場に立つ少年」

と黒板に書いた。

しばらく、しーん。



背中の赤ちゃんは、もう亡くなっていたそうです。この子は、この赤ちゃんを火葬してもらうために、順番を待っていたのです。これを撮影したカメラマンが、この写真について書いています。この少年は、ずっと順番を待つ間、まっすぐに前を向いて、気を付けの姿勢をくずさなかったそうです
当時は、軍国教育でした。
どんな教育だったのでしょう。なぜ、ずっと気を付けをしていたのでしょうか。

「死んだ人が前にたくさんいるから、気を付けをしていたと思う」
「そうしないと、殴られたりしたのかも」
「気を付けをしていないと、叱られるからか」
「まわりに兵隊さんがたくさんいて、気を付けをしていたから、大人と同じように気を付けをしたのでは」


この赤ちゃんはなぜなくなったのでしょう。食糧が不足していたというけど、なぜそうなってしまったのでしょう。

「戦争で戦っている兵隊さんのために食糧を出していた」
「食べるものはほとんどが、軍隊のためにもっていかれたのでは」
「戦争で空襲があって、つくっているひまがなかったと思う」



用意していた、いちばん大事な発問をした。
少年はなにを見ているのでしょう。

「死んだ人の山を見ていると思う」
「焼けた自分の街をながめているのだと思う」
「なにも見ていない」


なにも見ていない、といった子に、どういうこと?

と尋ねると、

「たぶん、気を付けをしなきゃと思って立っているけど、立っているだけでやっとなんだと思う。だから、そのまま、もう何も心には入っていないと思う。目はあいているけど、なにも見えていないんだと思う」



最後に、この写真を撮ったカメラマンの手紙を読んだ。

長崎では、まだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に、わたしはたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

焼き場となっている川岸には、浅い穴だけが掘られている。水がひたひたと押し寄せていた。灰や木片、石灰が散らばっている。燃え残りの木片が、風をうけると赤く輝いて、熱を感じる。白いマスクをつけた係員がもくもくと、荷車の先から、うでや足の先をつかんで、引きずりおろす。そして、そのままの勢いで、火の中に放り込んだ。死体ははげしく炎をあげて、燃え尽きる。
(中略)

焼き場に、10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせていて、ぼろを着ていた。足は、はだしだった。少年の背中に、2歳にもならないような幼い子がくくりつけられていた。その子は眠っているようだった。体にも、まったく傷がなく、やけどのあとらしいものも、みえなかった。

少年は焼き場のふちに進み、そこで直立不動になった。
わきあがる熱風を感じていたのだろうが、動じず、そのまま動かず立っているままであった。
係員がようやく、その幼子を背中からおろし、足元の燃えさかる火の上に、のせた。

炎が勢いをまし、おさな子の体を燃やし始めた。立ち尽くす少年は、そのままの姿勢で立ち続け、その顔は炎によって赤く染まった。気落ちしたように少年の肩がまるくなり、背が低くなったようだった。しかしまた、すぐに背筋をのばして、まっすぐになった。わたしはずっと、この少年から目をそらすことができなくなっていた。

少年は、まっすぐを見続けた。足元の弟に、目をやることなく。ただひたすらに、まっすぐ前を。
軍人にも、これほどの姿勢を要求することはできまい。

わたしはカメラのファインダー越しに、涙ももう枯れ果てた、深い悲しみに打ちひしがれた顔を見守っていた。わたしは思わず、彼の肩を抱いてやりたくなった。しかし、声をかけることができず、そのままもう一度だけ、シャッターを切った。

すると少年は急に向きをかえ、回れ右をすると、背筋をぴんとはり、まっすぐ前をみて歩み去った。あくまでも、まっすぐ。一度もふりかえることなく。

〇この子はこのあと、どこへ行くだろうか。
〇大人になって、何をしているだろう。

最後に、感想を書かせた。

落雷後の犬山城を見に行く

.
「国宝・犬山城の鯱(しゃちほこ)に雷が落ち、半壊した!」

そんな、衝撃のニュースが飛び込んできたのは7月12日のことでありました。

愛知県人のわたくしは、もう本当にいてもたってもいられず、

その日のうちにも見に行きたかった。

ようやく行けるようになった夏休み、さっそく犬山城へ直行。

信奉するいわしの頭の神様に祈りをささげ、

温泉で身を清めてからの城入りとなりました。

風雲告げる城


駅近くの橋から眺めた犬山城は、嵐の直前。

まるで、泣いているようでした。

落雷でくだけちったシャチホコを補修するため、足場が組まれていました。

こうなったら一刻も早く、元の姿に戻ってくれることを祈るばかり。

作業をする方たちの安全を祈願し、橋の上から何度もいわしの神様に祈りを捧げました。

犬山城は現存する木造天守閣では日本最古といわれています。

木曽川が削った段丘の、いちばん高い、いい場所に、城がありますから、

市内からとてもよく城が見えて、かっこいいです。

犬山城の天守閣が、無事に元通りになるといいなと思います。





尾張徳川家のお殿様が、武士の時代が終わるとき、

犬山城に関しては、

「ひとつくらい、個人所有の城があってもよい」

とおっしゃったため、当時の城主であった成瀬家が、

個人で管理しつづけてきたそうです。

わたしが子どもの頃は、犬山城といえば、「なんだか珍妙なタイプのお城」って、イメージ。

だって、個人所有なんだもの。

「え?あれ、個人の家なの?」




しかし、最近になって、長年の悲願であった「譲渡」が可能となり、市が管理するようになりました。

成瀬家の方たちは、ずいぶんとホッとしたことだろうと思われます。

よかったですね~。


ふと、木曽川に目をやると、昔ながらの船頭さんたちが、川面をつーっと、

船で行き来されていました。地元の方にきくと、今夜、花火があがるのだ、ということでした。

木曽川の船頭たち2

「責めない」という選択

.
家族を殺された方が、殺人犯のもとへ面会に行く。

そこで、

「あなたが幸せになることでしか、解決は無い」

という。

殺人犯は、涙を流して、声を震わせながら、

「わたしが幸せになっても、いいんですか」

と、言葉を絞り出す。



殺された家族のことを思うと、居ても立っても居られなくなり、

同じように殺人を犯した者のところへ行き、何度も対話を重ねる、という。

それは、自分の感情をぶちまけるわけでもなく、

犯人を責めるわけでもなく、

ただ、「対話者」としての、ひとりの人間になるため。

「あなたには、対話者がいなかったのかもしれない」

身近に、本当の意味で、対話のできる人がいれば、あなたは殺人を犯さなかっただろう、と。

『ある遺族の選択』https://news.yahoo.co.jp/feature/710



わたくし、実は、同じようなことを、以前に聞いたことがある。

このブログにも、書いている。(2016年05月06日どんな子もかわいいは、嘘か)


アメリカの映画かドキュメンタリーで、同じように娘を殺された家族が、

これから処刑される殺人犯を前に、

あなたが幸せになればよかったのに、と言って抱きしめる、という場面だ。




幸福、というものを真に見つめれば、

自然と相手の幸福を願っていくほか、他にすることはない。



8月に入り、命とか、人生とか、考える機会が増えた。

日常に忙殺されることが多い毎日であるが、

一方で、人間の生きる、おおもとのところを、きちんと考えていたい、と思う。

犯罪者

毎日、話しかける、ためのコツ

.
毎日、教室のすべての子に話しかけたいと思ってる。

ところが、なかなかそうはいかないこともありましてね・・・。

自分からどんどんと、

「先生、せんせい、あのねえ」

と休み時間に話しかけてくれる子はいい。


そうでない子とは、つい、会話のないまま、一日を終えてしまう。

まじめにコツコツやっているような子ほど、授業中も目立たないことがあるし・・・。

話しかけようにも、用事を頼むだけではつまらない。

授業でなにか意見を言ってくれたらいいけど、それもない場合は・・・





わたし、ときどき、

子どもの着ているTシャツの絵や字を、ふと、読むことがあります。


ただ、読むだけ、ですが。

「あ、〇〇〇って書いてある」

とか、

「あ、きりんが書いてある」

というだけ。

そうすると、たいていの子は、ニヤッとしますね。不思議と。



Tシャツって、英語で書いてあることが多いでしょう。

それを、読めない子も多いから、その英語の単語のつづりを、

ただ読んであげるだけ。

ところが、これだけで、面白いらしい。



あ、今日はあの子には、あまり話しかけていないな。

と、給食のときに気付きますでしょう?



そしたら、昼休みに話しかけて、

「あっ!面白いTシャツ。The Big Apple だって」

その子は一瞬、たちどまって、

「え?どういう意味なの?」

「えっとね・・・」



まあ、こんなことをしながら、教師はクラス全員に話しかけております。

するとですな。

ある子のTシャツに、

SHINE

と書いてあったのですが、

4年生だから、ローマ字が読める。

おどろいて、

「先生!!わたしのTシャツ、死ねって書いてあった!」

ほぼ、泣きそうです。

そこで、教室にたった一冊ある英語辞書でいっしょにしらべて、



「おお、かがやく、という意味か!」

ホッとしておりました。


英語辞典があって、良かったー。

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雑巾をなかなか干さない子

.
子どもたちの椅子の下に、雑巾をつるしている。

他の学校は知らないが、愛知県の小学校ではよくあります。

椅子の下に、せんたくばさみをとりつけていて、

子どもの椅子の下には、床すれすれのところに、

ぞうきんが干してあるのです。


ところが、そのぞうきんが、どうしても床に落ちる子がいる。

つまり、せんたくばさみで、いちいち、はさんでつるすのが、面倒なんでしょう。

だから、洗濯バサミをつかわず、つるん、と

棒にひっかけておくだけ。

したがって、授業中に椅子をゆらしたり、立ったり座ったりすれば、

かんたんにそこから、ずり落ちてしまうのであります。


これを、教師は、負けちゃいけない、とばかりに、

何度も注意します。


ところが、こういうケース、ちょっとした、ささいなことであればあるほど、

教師から見て、「そんなもの、すぐに直せる癖だ、かんたんだ」

と思うものであればあるほど、

なかなか、直らないのです。

洗濯ばさみで、ちょちょっと、はさむ。

その動作を、面倒がって、やらないのであります。

大人から見ると、超、かんたんなことなのに。



するとね。

先生は、


こんなに簡単なことなのに!
自分の言うことを聞かない子だ!



と思うわけ。

めげたり、いらいらしたりしちゃう。



こういう場合、言葉での注意、うながしは、やめた方がいい。

たぶん、その子自身も気づいていないような、なにか「事情」があると思います。

つまり、その子にとっては、なにか合理的と思えなかったり、方法が気に入らない場合や、

「ぼくはもっとこうしたい」という思いが、潜んでいたりするときがある。

あるいは苦手意識や、よくない思い出など、

なんらかの潜在的な理由があるのではないか、とみます。



こういうとき、まったく新しいやり方を提案すると、良くなるときがあります。

「ぞうきん、そこにかけるの、やめようか」

「うん」

「そこだと、すぐに落ちちゃうね」

「うん。下にかがむのが面倒くさい」


こういう子、います。

かがむ格好を、生理的に嫌う子。

大人からすると、信じられないけど。




「じゃあ、置き場所を変えよう。この箱の中にしよう」

Aくんの場合は、そうじロッカーの金属面に、マグネットでくっつけておける、小さなバスケットをとりつけて、そこにかけておくことにしました。

バスケットは、100円ショップで買ったものです。

一発で気に入りました。そして、かかさず、そこに入れ続けてくれています。

「そうじ道具は、みんなここ」

Aくんの頭の中も、すっきりできたようです。

汚れて「きたない」雑巾が、自分の座るイスの下にある、というのが、

なんとなーく、気になっていた(いやだった)みたいです。

綺麗にすすいで洗ってるのだし、そんなん気にするかよ、と思うのですがね、

こっちからすると・・・。




小さなことほど、やり方を大々的に変えると、効果的なことが多いです。

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悪口が、空中にぷかんと、浮かぶ感じ

.
わが学級にも、悪口はあります。

とくに、まだ人間関係ができていっていない時期、1学期はありますね。

6月中旬くらいで、ずいぶんと静かになり、

「おや、どうも最近は聞かれないな」

となる。

子どもたちどうしの人間関係も落ち着き、クラスの授業の雰囲気や、進め方や、

お互いの性格、ポジション、好みなどが分かってきて、6月中旬ごろ、子どもたちは

「ちょっとひとまず、これでいいかな」 と思うのではないだろうか。



それでもたまに大喧嘩などがある。

すると、久しぶりだから、燃え方がちがう。

「死ねーーーッ!!」

「おまえ、うぜぇーーーッ!!」

と、さんざんやり合うが、これはまあ、ふつうの大人の人ならたまげることでしょう。

なぜならふつう大人になると、ここまでひどい悪口は、日常、言わないでしょうから。

子どもだからこそ。

こういうセリフを、言うのですよね。

大人になると、言わなくなるもの・・・。



わたしは、双方が悪口を言い合っていてもしかりませんが、これはもう、子ども自身が、

「相手をののしる」

ということについて、あまり楽しい感情をもたないから、

叱らないでも無くなっていくわけで、

ののしると、もうそれは、ひどい感情になりますよね。

泣きたくなるし、実際に泣くし、嗚咽するし、

泣きわめいたあと、周囲の友だちが、ちょっと距離をあけてくるし、

いいこと、なんもない。



そういうことを経験するというのは、まあ、ひとつは勉強なのでありましょう。

そして、相手をののしる、ということについて、みんなでまた、冷静になって、

その メカニズム というか、 からくりというか、

自分の感情がどうしてそう動くのか、

なぜそう思うか、そこで、どんな思いが湧き上がってくるか、

さびしい気持ちや、わかってほしいという切実な思いを、

見直していきます。


実際に、派手なけんかが起きたときが、

人間関係を深める、とってもよいきっかけになることは多いです。


そして、見直してみると、

その悪口が、とても自分の口から出た物だとは、思えないくらい、

自分から離れて、なんとなく空中にぷかんと浮いた、

寂しくて悲しい、愛おしいものに

見えてくるそうです。(子どもの日記から)

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「しつけ」がむずかしい時代になった

.
保護者会などで、よくスマホのゲームとか、テレビゲームのことが話題になる。

よく言われるのが、

「学校の方で、一律に、ルールを決めていただきたい」

というもの。

つまり、家で子どもを叱るときに、

「ほら、学校でもルールで決まっているんでしょ!」

といって、ゲーム機やスマホをとりあげやすいから。




昔は、こんなことで、あまり苦労しなかったと思うね。

なぜなら、わたし自身を振り返れば、よく母親が言うのは

「金がないから、無理」

というセリフでありまして、

それ以上の理由も説明も、なにもない。

べつに、それで躾をしよう、と意図したわけでなく、

「そんな金、どこにある。新しいものは要らん。無理、無理・・」

と言っておれば、うまいこと躾けられた(ような雰囲気になった)のではないかと思う。

隣近所も、なにかそんな雰囲気だったから、まだまだそれでいけた。

今のように、ほとんどの人がスマホを持ってる、という時代とはちがったのです。




・・・ということは、現代のお母様方が悩んでいらっしゃるのは、時代のせい、かも。

お母さんたち自身に、躾の能力があるとかないとか、そんなことではなく、

昔の母親がいちいち考える必要のなかった、

スマホやゲームのルール作りなどまで、自分でしなければならなくなったからです。



家庭で考えていかなきゃいけない諸問題が、多すぎる!

これが、今の世の中が採用する「子育てシステム」の、つらいところ。

今のお母さんたちは、それでかなり苦労している。

一人ひとりのお母さんの、キャパを超えているでしょ?

新しい時代の、新しいしつけ、新しい子育て、

新しい社会を見越しての助言など・・・こりゃ大変だよ。



それを、すべてのお母さんが一人でこなしていくなんて、

超難関な事業です。

苦しいのは、母のせいじゃ、ない。

ひとりのお母さんだけで、「現代版子育て」なんてできるものじゃない。



世の中が変わっているのだから、

社会全体の子育てのシステムも変えたらいいはず。

どうやら、

「伝統的な価値観での子育て」では、

無理、という時代に


なってきているようです。


pose_azen_woman

残業0(ゼロ)に賛成

.
残業0(ゼロ)というのが、いちばんいい。

今の社会の仕組みの中では、核家族が多いからね。



子どものまわりに、大人はやっぱりいた方がいい。

それも、ゆっくりとした大人がいて、

なんとなく「静養」している雰囲気がいい。

忙しそうで、不機嫌でいる大人を見るのは、

子どもにとっては楽しくない。



だから、わたしは、残業0(ゼロ)に賛成。

残業代0(ゼロ)には、反対。




しかし、これ、社会のしくみが、どう変わっていけば、

残業が0(ゼロ)になるんだろうか?



現代は、お母さんが子育てのプレッシャーをずいぶん感じている時代。

子どもが言うことを聞かない、というので、お母さんが焦燥する姿を何度もみてきた。




そりゃそうだ。一人で子育ての責任を一気に背負わされている感じがあって・・・。

きっと、母親をゆるさない社会は、子どもを許さないし、父親さえも許さないのだ。





残業がなくなって、父親がすぐに家に帰れば、母親はうれしい。

父親がゆっくりしているのを見るのは、子どももうれしい。




親が不機嫌だと、

子どもは、意味が分からなくなる。

その「不機嫌」の正体は、ナニ?

ぼくのせい?



機嫌良く、早く帰ってきてほしい。それだけで、すべて満たされる。

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小学校の教室の研究【あなたのための、空間】

.
人が複数いたら、利害関係が生まれて、一致しないから、
争いが起こるのではないか。

教師になる、ずっと以前から、私の頭にあった疑問です。

A君のための場であることが、Bくんのための場であることと、なんら矛盾しないのかどうか。

これは、AくんとBくんがちがう人間である、という『ユニークさ』が、それを両立させるのでしょう。

生物学の本など読むと、どうもそう思われてきます。


これは、簡単なことですが、Aくんのための場であればあるほど、Bくんのための場になるわけです。

教室には、離席する子もいれば、しない子もいます。

そして、双方が、それを邪魔とは思わないのです。

「ちっとも邪魔にならない」

というのが、ひとつのポイントだと思うようになりました。

そういう、おたがいの、間柄なのですよね。




では、なぜ、そうなるのでしょう。

ここは、あなた(わたし)のための、空間。


小学校の教室は、そこが決まっているから、ということなのだろう、と思います。


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