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教室がなんとはなしに、タノシイ居場所になっている。
それがなぜなのか。
結局のところ、
「義務意識がない」
からではないか、と思う。
来ても来なくてもいい場所であるのだが、そこにやはり、自分は来たくて、
来ようとして、だれにも頼まれたわけでないが、来ているぞ。
このような意識が根底にあるから、さきほどの
「なんとはなしに、理由はハッキリしないけど、なんとはなしに、たのしい」
という状況が生まれているのではないだろうか。
子どもに、義務がない状態、というのは、こちらで見ているだけで、楽しい。
そのままで、満ち足りている様子。
なにかをする必要も無く、しなければならない圧力もなく、のんびりしている。
すると、なにかが、始まる。
友だちと、なんか、したくなる。
目の前にオルガンがあれば、弾きたくなるし、画用紙があれば、落書きしたくなる。
粘土があれば、ひねってみたくなり、友だちの手がのびてきたら渡したくなる。
友だちに、聞かせたくなる、見せたくなる、いっしょにしたくなる。
いかにも自然で、おずおずとで、高圧的でなく、期待も無く、焦りもない。
そういう、お互いの関係であり、間柄(あいだがら)。
子どもは、
ごく自然に、オルガンの前で惹かれあうように、
余った粘土をお互いに分かち合うように、
ずいぶん気楽になりあった状態で、ふと、
そうだ、〇〇しよう、と
いう風だ。
大人が何かをしたい、というとき。
微妙に義務を意識しないか。
だから、懸命にそれを自分が取り組む理由を見つけ、
その理由をだれも聞いちゃいないときでも説明し、
自分の社会での居場所や位置づけを確定し、意義づけて、
〇〇のためにも、やらなければなりません、やります、がんばります!と
声高に叫ぶことで、義務感からの不機嫌さを忘れようと、みずからを奮い立たせる。
義務意識バリバリの状態で、「おれは本当は、何がしたいんだろう」と考えても、
それはただ、義務意識の一番フィットする対象が見つかるだけ。
対象が見つかると、声高に叫びたくなる。
「これだ!これがおれのやりたかったことだ、本当の夢だ!」
そう言わないと、自分が義務を持ってることがバレちゃうもの。
なにかをしないといけない、というのが無い子どもは、
まあ、ともかく、毎日、毎日、ご機嫌ですよネ。
不機嫌な大人は、上機嫌な子どもを許せなくなる場合があって、これが教育の大問題。
教室がなんとはなしに、タノシイ居場所になっている。
それがなぜなのか。
結局のところ、
「義務意識がない」
からではないか、と思う。
来ても来なくてもいい場所であるのだが、そこにやはり、自分は来たくて、
来ようとして、だれにも頼まれたわけでないが、来ているぞ。
このような意識が根底にあるから、さきほどの
「なんとはなしに、理由はハッキリしないけど、なんとはなしに、たのしい」
という状況が生まれているのではないだろうか。
子どもに、義務がない状態、というのは、こちらで見ているだけで、楽しい。
そのままで、満ち足りている様子。
なにかをする必要も無く、しなければならない圧力もなく、のんびりしている。
すると、なにかが、始まる。
友だちと、なんか、したくなる。
目の前にオルガンがあれば、弾きたくなるし、画用紙があれば、落書きしたくなる。
粘土があれば、ひねってみたくなり、友だちの手がのびてきたら渡したくなる。
友だちに、聞かせたくなる、見せたくなる、いっしょにしたくなる。
いかにも自然で、おずおずとで、高圧的でなく、期待も無く、焦りもない。
そういう、お互いの関係であり、間柄(あいだがら)。
子どもは、
ごく自然に、オルガンの前で惹かれあうように、
余った粘土をお互いに分かち合うように、
ずいぶん気楽になりあった状態で、ふと、
そうだ、〇〇しよう、と
いう風だ。
大人が何かをしたい、というとき。
微妙に義務を意識しないか。
だから、懸命にそれを自分が取り組む理由を見つけ、
その理由をだれも聞いちゃいないときでも説明し、
自分の社会での居場所や位置づけを確定し、意義づけて、
〇〇のためにも、やらなければなりません、やります、がんばります!と
声高に叫ぶことで、義務感からの不機嫌さを忘れようと、みずからを奮い立たせる。
義務意識バリバリの状態で、「おれは本当は、何がしたいんだろう」と考えても、
それはただ、義務意識の一番フィットする対象が見つかるだけ。
対象が見つかると、声高に叫びたくなる。
「これだ!これがおれのやりたかったことだ、本当の夢だ!」
そう言わないと、自分が義務を持ってることがバレちゃうもの。
なにかをしないといけない、というのが無い子どもは、
まあ、ともかく、毎日、毎日、ご機嫌ですよネ。
不機嫌な大人は、上機嫌な子どもを許せなくなる場合があって、これが教育の大問題。