30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2017年02月

「知識」と「意見」を分ける

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「知識」という言葉に、絶対的な肯定感をもつのが、多くの日本人だろうと思う。

知識が武器であり、知識が生活を便利にし、知識が人間としての深みを増してくれる。

人生は、知識で豊かになるもの。

これは、そうである、と私も思う。

「知ること」が、人生の最大の楽しみである、とさえ、思う。

ところが、「知識」というものは、カチンコチンに凍っている。
その、凍ったものである、というところが、「知識の」唯一の欠点である。

とくに、

「こうするとうまくいく」

と書かれた、ノウハウを紹介したもの。

これは、わたしから見れば、完全に凍ってしまっているイメージがある。

「うまく」 の中身が、その著者にとっては「うまく」かもしれないが、果たしてその良さが、自分に通用するかというと、案外と通用しない場合もあるからだ。

「あの店のラーメンは、めっちゃうまい!」

と聞いて、その店のラーメンを食べてみると、果たしてあまり、うまくない。

そんなことは、みなさん、星の数ほど経験しているでしょう?


ネットショッピングのクチコミがにぎわっていて、

「めっちゃいい!!買って良かった!」

と、仮に千人の人が書いていても、やはりその中の数十人ほどは、「私には合わなかった」と書くのが常である。

これから買おうとしている「買い手」にとっては、自分自身が、「いいね!」とつぶやく千人のうちの一人になるのか、もしかするとそこから漏れた、数十人のタイプであるのか、さっぱり判断がつかないのである。

だとすると、口コミ、というものは、読んで参考になるかもしれないが、読む前につかなかった決心は、やはり読んだ後も「つかないもの」なのだろう。

つまり、「決定打にはならない」というのが、クチコミの本来性というか、もって生まれた宿命なのでありましょう。


だとすると、買い物をする前には、やはり、10回の買い物のうち10回とも、

「買って自分自身に聞いてみるまで、良かったかどうか、分からない」

というのが、最後の最後、本当のところなのであります。

どれだけクチコミを見ても・・・。

たとえ1万人のクチコミを見ても、星の数を星の数ほど参考にしても、やはり最後は、賭け、なのであります。


・・・と、ここまで考えてみると、自分の人生をいちばん、後悔せずに送るのは、自分の第六感を信じて生きる方法、それ以外にない、のではないだろうか、と思うようになった。


同様に、結婚は早婚がトク、晩婚がトク、子育てのコツ、彼氏にするならこんな彼、とか・・・

人生の多くの事象について語るものが氾濫していて、

「これがトク!」とか、「このスタイルがかしこい!」とか「この生き方がステキ!」だの、

ありとあらゆる情報が錯そうしている。

こんなに情報がたくさんあるんだもの。

ノイローゼになるのも、分かるね。

コメント・ノイローゼ。

かつて、洗剤を買うのに、1日かかった、という職場の先輩がいた。

あれこれとネットを調べていると、さまざまな商品があり、コメントやクチコミがあふれている。

「よし、一番よいのを選んでやろう」

と意気込んで、パソコンの前でビスケットを食いながら画面をにらんでいたら、

あれもいい、これもいい、いや、あれはダメ、これもダメ、いや、やっぱりよい、いいや、よくない、いやいや・・・

結局、コメントを信じて読むだけで、アタマがふらふらになり、いいのか悪いのか、ちっとも分からず、片頭痛がおきて、倒れるようにベッドに横になった、という。





・・・・・・

ああ、そうかも・・・。

〇〇がいい!

というの、これは「知識」じゃあ、なかったんだな。

今、気が付いた。

〇〇がいい!というの、これは「知識」じゃあなく、ただの、「意見」だったんだ。

トホホ。

のけぞる

発問の大きさ、深さ、種類を変化させていく技術

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発問のレベルのちがいを把握する。
初歩的なものから、大きなものへ変化させていく。

海の命(光村図書・6年国語)

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※何を問うか。


【場面を問う】
太一はどんな気持ちか。
太一は何を考えているか。

【人物を問う】
太一はどんな人か。
太一について自分はどう思うか。

【資料を問う】
この話にどんな意味があるか。
この話をどう思うか。

【価値を問う】
命についてどう考えるか。
自分にとっての「命」はどんなものか。



※問う中身を、どんどんと深くする。

=============================

※発問の種類を変化させる


【共感的な発問】
太一はどんな気持ちか。

【分析的な発問】
太一がそうしたのはなぜか。

【投影的な発問】
もしも自分が太一ならばどうするか。

【批判的な発問】
太一のしたことをどう思うか。
本当にそれでよいだろうか。


何を問うか、ということと
発問の種類、その組み合わせ方を選んで
授業を組み立てていく。


海の命2

【若い先生からの相談】子どもの指摘を宅配

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若い先生に相談されたことで、一つ。

他の年配の先生が、

「先生、先生のクラスの〇〇くんが、下足箱のところでサッカーボールを蹴って、ドアにぶつけてました」

とか、

「先生のクラスの〇〇くんが、理科室の掃除ロッカーに入ってました」

というような、

子どもの変な姿の報告を『宅配便』のように、頻繁に教室まで届けに来てくれるらしい。

その報告、しょっちゅう届く『宅配便』を、どう受け取ったらいいか、悩んでいる、というお話。


結論。

ひと言、「あ、すみませんでした」で、いいじゃない?

無視するのは、まずい。

その先生は、せっかく教えてあげた、と言う気でいる。

それを、要らん事言うなあ、と聞いていたら、それは関係がまずくなると思うよ。

その先生が、ドアにボールをぶつけているところを注意してくれたり、掃除ロッカーに隠れているところを見つけて注意もしてくれているのだから、それでいい。

「ありがとうございました」

で済む話。


もちろん、理科室の掃除ロッカーに隠れるなんていうのは、なぜなのか、気になるなら子どもに理由を聞いてもいいし、アホみたいなことやめよう、と子どもに言ってもいいけど、実際はその姿を見ていない、その場にもいなかったのだから、まあ、聞くだけ、それでいいのじゃないかな、と思う。

子どもからすると、年配の先生に叱られて、さらに担任に叱られて、ということには・・・しなくていいじゃないかな。



「そうですかねー。これ、あとでもう一度、念を押して注意をしておけ、ということなのかな~、と思うのですけど、どうなんですかね~」

うーむ。わからん。

わたしだったら、どうするかな。
まったく名前も知らない低学年の子が、スタターッとすごい勢いで図書室に入っていくところとか、よく見るよね。

わーっと、つかまえて、

「ストップ!!」

ということはあるけど、たいていは、驚いているその子に、

「危ないよ、歩こう」

と言って、終わる。

子どもが、その場の危険な行動を【停止】すれば、それでいい、という感じかな。

その子がその後、ぴたっと生き方を変えるなんてことまで、期待もしない。
広いところは、走りたくなるよね。健康な子どもだもの。
その気持ちを、衝動を、完全にコントロールして生きなさい、とはならない。

走った彼が、何年何組のなんという子であるかなど、まったく感知せず。
さらには、その担任の先生にまで、そのことを報告しよう、などとは思わない。
第一、私、自分が忙しすぎて、すぐ忘れてしまうし・・・。


その年配の先生が、一つ一つ、見たことをおしえてくれるのは、なんでなのか、真意はよく分からない。

たぶん、そういうことをするように、と過去に、その先生の、さらなる先輩たちから、教わったのだろうと思うネ。

「お互いに、ちょっとした細かなことでも、子どもの行動については、連絡をしあいましょう!」

というような。

その感じで、がんばって教えてくれているのだろう、と思う。べつに、悪いことでもなんでもない。


それと、若い先生は、子どものことをいろいろと指摘されると、まるで自分が非難されているような気になり、プレッシャーを感じるのだろうが・・・。

だから悩むのだろうが、まあ、悩むのはやめた方がいい。

その先生は、あなたを非難したいのではない。

そうすることが、正しく、良い、と思っているからする。

または、

そうせざるを得ないほど、ご本人の内部で、なにか心配というか、不安のようなものがあるため(・・・よーわからんが・・・)。




いろいろと現象を見て他を指摘すると、自分は分かっている感が得られるし、指摘したことで何かが変わるとつい信じられるような気になり、不安が一瞬、解消する感じがするから、ね。

なにか言われたあなたの方に原因があるのではなく、注意や指摘をする側の、年配の先生の気持ちの方に、「困り感」のような、やらざるを得ない事情があり、やむを得ず『宅配便業者』をやっている、ということが多いんじゃないかな。

【結論】
「ありがとうございます!」で、頭を下げておけば、OKじゃないか?
宅配便




やはり決定的に楽しかったのは、授業!

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一日一日が、ようやく終わって。

「なにはともあれ、今日が終わった。今日がおわれば、それでよし」

と、廊下を歩く。



若い、S先生が、話しかけてきた。



S先生、初任者一年目、よく頑張っていましたね!!!

ベテラン教師もみな、国語の研究授業には、全員、襟を正す感じがあった。

あの「ごんぎつね」の追究、本当にすばらしかった。

子どもたちが、意見をとめることなく、みんななにかを伝えようとしていた。

ありがとう!そして、来年も、がんばって!!

うまくいかない、と悩んだ時期もあったみたいだけど、イイ関係でも事件は起こるもの。

ほら、恋人どうしでも、何十年という夫婦どうしでも、もめるときだって、あるでしょ?

いいことばかり、という学級もあるかもしれないけど、それは表面しか見えていないだけ、ということだってある。

S先生は、正直に、きちんと学級を見ているんだろう、と思う。

だから、なんだかいろいろ思うんだよね。

でも、そんなS先生なら、ぜったい大丈夫!!

来年も、バッチリ、応援するよーー!!

ろうか

ブラ・タモリは、構成が授業と同じだ

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NHKの、「ブラタモリ」。

もう、みなさん、ご存知でありましょう。
あの、大人気番組であります。
中高年はおろか、若いサラリーマンにもOLにも、学生にも人気だという、お化け番組であります。
ブラタモリで紹介された土地や場所を、後追いで旅してまわる、「追っかけブラタモリ」という人たちもいるくらいで、たいそうな人気。

正月から、
〇別府編
〇水戸編
〇金毘羅編
〇讃岐編

などをわたしも見てきた。

そこで、どれも見事な授業の構成になっているので、感心した。

まず、タモリさんがどこぞの場所で
「きょうは、〇〇です」
と、場所の紹介をする。

するとそこに、なにかその地域特有の名物らしきものがスッと出されて、

「そうそう、これこれ。有名ですよね」

というくだりがある。

ここまで、ほとんど、授業の導入といっしょ。

授業でも、なにか話題にしたいテーマにつながるモノを出して、

「これ知ってる?」

子どもが

「知ってるー。それ、△☆〇でしょう」

というふうに授業が始まることが多いが、つまりは軽めの導入でありましょうね。

その後、ブラタモリでは、間髪を入れず、お題が出る。

たとえば、讃岐編であれば、

「さぬきうどんはなぜ有名になったのか」

というような、授業で言う「学習問題」が出される。

視聴者もタモリさんも、

「おお、何でだろうか?」

と、一瞬考える。

そこに、資料としての人物(先生役)が登場し、学習問題につながるような、ちょっとした面白いヒントをくれる。

タモリさんは、

「おお、それは知らなかった。じゃ、なんでなのか、もっと、探りに行きましょう」

とはじまるわけ。


途中で、主発問につながる、伏線的な資料がいくつか出され、そこから徐々に一本のすじ、線が見えてくる。

番組の後半になると、タモリさんが、大きな学習問題につながる伏線をたよりに、

「これって、あれかなあ。ここもこうなってるのかなあ」

と、予想を出すようになる。

先生役が、

「そのとおりです。さすが、タモリさん」

なんて言いつつ、さまざまな角度から主発問【学習問題】の核心にせまる。

最後にもう一度、学習問題の紙が渡されて、

「さぬきうどんは、なぜ有名になったのか。これは、豊かな水と小麦の栽培に適した土地、海でとれる塩・・・」なんて感じで、タモリさんが学習のまとめを言い、

「よくできました」

と終わる。


これ、見事な授業の構成じゃないですか!!



われわれ教員は、ブラタモリをみながら、勉強すべきだねえ。
自分がするなら、どういう順番で、どういう言葉で学習問題をたてるか、どんな反応を予測するか、子どもにどんな作業をさせるか、ノートに何を書かせるかなど、あれこれと勉強できる。これ、たのし~!!

タモリ

親の批判はつきもの

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校長先生が、

「親の批判はこの仕事にはつきもの、と思って下さい」

と、職員会議でおっしゃった。

これは、勤務校で保護者からの批判があり、対応に苦慮したものをなぐさめるためにおっしゃったのではない。

そうではなく、最近、保護者から、何も批判めいたことがないから、であった。

校長先生のお気持ちからすると、

「先生たち、自主規制をしていませんか?」

というのだ。


きっかけは、職員室でのなにげない会話。

あるクラスの学習発表会で、子どもたちが理科の実験をしてみたい、と言った。

教室で、線香に火をつけ、空き缶の中のアルコールを軽く爆発させる実験だ。
気体のアルコールに火を近づけると、空気中の酸素と反応して爆発。この爆発を利用して紙コップを勢いよく飛ばしたい、ということになった。

これを、ある先生がたしなめて、

「学習発表会は、大人の人もたくさん見に来るでしょう。教室は理科室とは違うし、火をつかう実験はあぶないからやめましょう」


とやめさせた。

このことを伝え聞いた校長先生が、

「自主規制しすぎると、子どもの活動がのびのびしなくなるのでは?」

と、前述の発言になったのだ。

わたしも、そう思う。

たのしいことを規制し、できなくすれば、逆に子どもたちは問題を起こしやすくなる。

先生たちが保護者の批判を気にして自己規制を強め、避けようとすればするほど、子どもたちの不満がたまり、かえってそのことから児童への対応を問題視されるようになる、ということがあるように思う。

子どもが火を使う、といえば、それを安全に使えるようにしてやり、過剰な批判があっても自分が頭を下げていこう、というくらいの肚でいれば、子どもたちはうんと安心して、守ってくれ、実験を許可してくれた担任を頼るようになるのではないか、と思う。

まあ、校長先生の言う通り、だネ。

「批判は甘んじて受けよ」である。

批判を避けることのロスよりも、子どもが思い切りやることの方に価値がある。

(きっと、子どもは分かっているよ。誰が味方なのか・・・)

no_woman

「江戸時代以来」の落語ブームって、ほんと?

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今、どうやら落語ブームが来ているらしい。
【NHK クローズアップ現代 2016年10月放送】
「いま、「江戸時代以来」の落語ブームが巻き起こっている。首都圏の落語会は月1000件以上と10年前の倍。深夜寄席には大行列ができ、20―30代のファンが急増。個性派若手ユニット「成金」ら、新世代の成長が著しい。落語本来の「大衆性」を取り戻そうと、言葉使いを変え、SNSを駆使し、カフェの出張落語会まで仕掛ける奮闘ぶりだ。デジタル隆盛の中、落語特有のライブ感や世界観に共感し、魅了される若者たち。オリジナル小噺も交え、「平成の落語ブーム」の魅力をひもとく。」

この番組をみたとき、なにが衝撃だったかというと、
「おおお!今、落語ブームなのか!」
ということ自体に感動した。

天下のNHKが、そう断言してくれた、ということが、何よりも嬉しくて、とても気分が高揚したのを覚えている。

自分の中では、平成になってもう2度ほどブームが起き、すでにブームが去ったのか、と思っていたら、なにやら世間の感覚とちがったようだ。

まあ、そんなことはおいておいて、

落語がブームになるのは、明治のころからの日本の伝統であるが、いつの時代にも、わたし同様、落語に魅力を感じる人は多いらしい。とくにこの頃の若い人は、落語が新鮮に感じるのだ、という。

何よりも、登場してくる人物がいい加減で、また洒落ていて、さらにいえばコミュニケーションが上手である。

この、コミュニケーションの上手さ、というのが、どうやらあこがれ、であるようだ。

今の時代、コミュ障、なんていう言葉ができるくらいで、人々の中の強迫的なまでの、

「コミュニケーション上手にならなければ」

という観念が、現代人の多くをつき動かしている。

その肥大化した観念を持った現代人が聴くと、江戸の人付き合いのセンスをもつ熊公や八っつぁんのもつ浮かれたノリが、まるで異星人のように感じられるらしい。長屋のご隠居と共に、熊公も定吉も番頭さんも糊屋の婆さんも、みんながみんな、世間知らずのままでも決して動じず、軽々と生きている有り様が、若い人に受けている。

本屋に行けば、棚に並んでいるのは

「人付き合いがうまくいく方法」

だとか、

「雑談力」

だとか、

「上司や部下とうまくコミュニケーションをとる会話術」

なんていう本が束になって売られている。
今や、コミュニケーション不安という強迫で、ずいぶんと市場はにぎわっているらしいことがわかる。


落語って、ただのおしゃべりのような気もするし、

だったら漫才やコントの方が、現代風であると思うのですが、なぜ落語なのでしょうネ?


それは、ネ。


現代人が、物語(ストーリー)に、飢えているから、ではないでしょうか、ね。

コントや漫才の表出する「物語(ものがたり)性」は、一時のもの。一過性。束の間のもの。

ところが、落語は、それらよりかは、はるかに世界に広がりを感じさせる。

テレビ番組のひな段芸人のお喋りや、コント漫才にはない、さらなる刺激を、若い人が求め始めた、ということではないでしょうかね。

「らくだ」(落語の噺のひとつ)

なんて聞いたら、若い人たちみんな、卒倒しちゃうんじゃないでしょうか。
だって、最初から、死人を背負って歩くのですよ。
「長屋の花見」、「算段の平兵衛」、「粗忽長屋」の死人など・・・
落語には、放送禁止レベルの描写が、わんさか。

また、長屋の空間にはプライベート感など、一切ありません。
「おい、いるかい」
なんて、すぐに誰でも部屋に入ってきちゃう。
その部屋だって、たたみ三畳、四畳、広くて六畳。
江戸間の六畳がつづく路地で、わいわい言いながらみんなで暮らすんですから。

当時はおそらく、コミュニケーション、なんていう言葉も、なかったでしょうね。コミュニケーションなんて言葉を使いだしたから、みんな悩むようになったのかもね。



現代は、人間から人間へ、の刺激が足りないのでしょう。
とくに若い人たちには。

そんな長屋の【絶頂レベルの刺激世界】を、熊さんや八っつあんたちは、いとも軽妙、軽々と飄々と泳ぎ、わたっていく。

その姿に、最高レベルのあこがれ、を感じているのではないでしょうか。

ブーム

閻魔さま!おねがい!

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おそらく、2017年は、『閻魔さま』が、流行すると思う!

小生は、ずいぶん以前から、

「閻魔さま」 について分析しつづけているのですが、

「閻魔さま」 は、受ける要素がたっぷり、詰まっている。

2017年は、ぜったいに、閻魔ブームがくる、と思う。

いや、実はもう、すでに来ているのかも・・・。



だいたい、閻魔様は、全国津々浦々にある、閻魔堂にふつうにいらっしゃるので、とても身近な存在。ふだんから、人々に、親しまれる存在であります。

しかしまた、あの世の入り口におわしますところから、なにやら不可思議な感じがある。

さらに、閻魔様は、人に問う存在、でもあります。

「おまえ、一生の間に、なにをした?」

と聞くのですから、たまったものではありません。

そんなこと、死んでからすぐに答えられる人、いるのでしょうか。




絵本に閻魔様の出てくる物語があり、わたしが読んだとき、教室の子どもたちが

「閻魔さんがなにをきくの?」

「よいことをしたか、わるいことをしたか、きくんだよ」

となり、

「よいことをすれば、極楽へ。わるいことをすれば地獄へ落ちるんだよ」

ということをいう子がいた。

ところが、大問題が発生しました。

「え、じゃ、どちらもしなかった人はどうなるの」




たしかに・・・、

ごくふつうに人生をおくっていたら、

そんなにいいこともしないし、わるいこともしない

という状態であるのが、ほとんどではないでしょうか。


ひとりの子は、なにかで話をきいたようで、

「ありを踏んづけたら、はい、もうそれで地獄」

と言った。

教室中から、そんなわけはない、と一蹴されていました。

「その規定でいけば、極楽は存在しない」

つまり、ありを踏んづけないような人間は、おそらく生まれたての赤ちゃんしかない。

極楽は、赤ちゃんでさえ行けないところ、ということになる。

「極楽は、そんなふうに、人を最初から選別しないだろう」

という感じなのです。

そこで、もう少し「しきい値」を操作する必要が出てきた。

大問題になったのは、


「よいことをすれば極楽」

ということなのか

「悪いことをしなかったから極楽」

ということなのか、どうか。


ということ。

つまり、絶対的な基準となるものを一つ教えろ、ということです。

最初の質問の通り、

「とくに、良いことも悪いこともしてこなかった人生」

は、どちらになるのでしょう。


これは、もう分からないので、フィーリングで、多数決でクラスで決めておこう、ということになった。

「では、これから2年1組ではこうだ、というふうにどちらかに決めます。手をあげてください」


この結果、どちらが勝ったでしょうか。


これは、ネ、個人ごとに、どちらに重きをおいているか、ということだ、ね。

良いことをする

ということに価値をおくか

悪いことをしない

ということに価値をおくか


ですな。

もう何年も前のことですが、覚えているのは、当時の2年生の子たちにとっては、

「悪いことをしない」という方が、価値が高く感じられた。

だから、良いことをしている人でも、他の人の邪魔をしたり、脅したり、暴力を振るったり、ハラスメントするなど、悪いことをするのはいけない。いくら他で良いと評価されるようなことをたくさんしていたとしても、地獄行きである。

しかし、悪いことをしない、ということはとても価値の高いことだから、それでよい。

べつに特段、よいことをしていない、という人であっても、悪いことさえしなければ、ふつうに極楽へGOできる、ということになった。

どうです?

こういうことを考えるだけでも、閻魔さまって、面白い要素がたっぷり詰まっているでしょう。

2017年、閻魔ブームがくるよ!!


わたしの予想

今年の漢字は、王
流行語は、「それ、閻魔(えんま)ってるよね?」(=他の人の邪魔はしていないよね?)
CMには、閻魔がどんどん流れる。
ゆるキャラに、閻魔が採用される。
「藁(わら)って!閻魔さん!」という番組が始まる。

1年後、こうなってなかったとしたら・・・

そんときは、
そんときは・・・

ごめんなさい!

わらいえんま



新しい概念について

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この1年、ブログでぼやきつつ、新しい言葉を考案してきた。

一字一句すべて同じ言葉、というのは、だれも使っていないはずだ。

なぜなら、一応、「こういうことって、世の中ではどう表現するんだろうかな?」と迷って、検索したからネ。

しかし、検索ではひっかからなかった。

たぶん、わたしがもっと的を射た適切な言葉を思いつくことができなかったからだと思うけど・・・。

おそらく、同じようなこと(概念)を、だれか考えているはずで、わたしがその人の使う言葉を知らないだけだ。




だから、以下、くるしまぎれの造語だらけとなった。

もしご存知でしたら、世の中一般的にはこう言うんだよ、ということを教えていただけると幸いです。

一応、下記のようにまとめてみました。

情報、求む、です。

よろしくお願い致します。




『クエスチョン型発問』から『アビリティ型発問』へ。
(よさの関連を問う)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55573967.html

支え目線のしつけ』
(困っている子がいる⇒その子をたすけるというしつけについて)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55572292.html

無人格反応
(突発的感覚的な思考なしの会話のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55572252.html

体罰という発想がない=ヘルフリーズ発想
(体罰、などという行動様式そのものの発想がないということ)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55571835.html

相手を尊重する感じ、自分を尊重する感じ
(そのまま)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55570679.html

Offensive worry
(不安から発生する他人への文句のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55566598.html

ブレイミング・アディション(非難嗜癖)
(だれかを責めたくなる気持ちのこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55552948.html

コントロールルック
(友達を取り締まる目線のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55545713.html

同格教育
(人間を許すとか許さないとかがありえないということ)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55543283.html

人間の価値依存癖(Value-dependent addiction*バリューディペンデント・アディクション)
(人間が「価値」に左右されやすいこと)

ビフォーシェイピング
(ひとの行動の前にあるもの)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55539389.html

アンネセサリーインサイド
(他人の回答が無用である自分の内面のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55535784.html

主体性のあるマンネリズム
(飽きずに、ずっとやっていたくなること)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55532999.html

superior addiction /スピアリア・アディクション
(「なにものかでいなければ」という強迫)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55532509.html

認知の逆説
(ガンだと見なければ、ガンにならないということ)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55507330.html

もし、このような概念に関する情報をお寄せいただきましたらば、本当に感謝感激雨あられ・・・、です。


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子どもとの会話について

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子どもに、なにかを伝えるときのこと。

あてにしないで、伝えてみる。

子どもが何かを伝えてきたとき。

不思議なことを言うなあ、と聞く。


子育てのコツは、これか、と思うようになったネ。

もうかれこれ10年にわたり、ほとんど毎日のように小学生と話をしてきて、これにたどり着いた。

肝心なのは、

やりとり

ですか、ね。

目線とか、ボディランゲージもあるけど、やはり会話。

自分が発する言葉の、

口調。

音声。

そこらへんも味わいつつの・・・。




子どもが何か言っても、

「うむむ、さすが未来人。言うことが一味違う・・・。さっぱり・・・分かるようで、おれにゃ、分からんなあ」

という感想。



だから、あらま先生は、なんとなく、

信用できない感じ

だそうだ。

いいよね、このスリリングな感じが(爆)。

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卒業前に、親に感謝・・・

.
学習発表会でなにやる?と子どもたち。

もうすぐ最後の参観日なので、ああだこうだ、とアイデアを出し合っている。

で、親に感謝して何かする、というのが、わりとよくある「学習発表会」プログラムのうちの一つであります。

親は泣きたいのです。そのために、子どもたちも、わりと神妙になって作文など読み、

「おかあさん、ありがとう。インフルエンザでわたしが倒れた時・・・」

というようなくだりにくると、お母さんもこの6年間の子どもの成長に今さらながら思いが至り、なんだかんだと苦労したことや、かわいい1年生の手をひいて、この学校の正門をくぐったことなどが思い起こされると、もう涙腺が爆発的にゆるむのであります。


しかし、このセレモニーをやろう、と半分以上思っていたんだけど、どうしてもこの今の雰囲気じゃ、無理だろう、と思う。

毎日、何でもかんでも爆笑してるクラスに、涙腺が緩む気配はまったく感じられない。

ありがとう、という気持ちなども当り前にあるんだろうが、それを表現したときにも、この今のクラスでは、涙よりも笑顔しかないような気がする。

で、ありがとう、というセレモニーは、プログラムから消えてしまった。

まあ、あまり深く考えず、このクラスのあり様をそのまま見てもらって、(めったに保護者が学校に来ることなんてないのだし)、いっしょになって楽しい時間をすごせばよいのだろう、ということになった。

大体、いったい学校でなにを学んできたかというと、これは一言では言い表しようがない。
また、形にあらわれるものなど、ほんの一部であり、一人ひとりの子どもの内情に培われたり備わったり育ったりしたものを、

「見せる」

ということも、相当に困難なことなのだろうと思う。

これは、見る側にとって大変なことで、見る側にその視点がなければ、いっさい感知できないもの。

わたしとしても、いったいこのクラスの子どもたちになにが育ってきたかなんて、やっぱりさっぱり分からないし、言葉に変えることもできない。

この1年は毎日のように、この空間で、お互いの顔を見合わせて、あれこれとしゃべったりすごしたり、共に飯を食ってきた、という程度のことなのではないか、と思う。

と考えると、いったい親の期待する発表なんて、できるのか、という次元にまで行きつく。

見ようとする人が、その場の子どもをみて、なにか感じとりたいものを感じ取るのみ。

なにを感知するか。その人次第。
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洋ナシ海で見失うよ















回文をつくる授業をすると、しばらくクラスが回文ブームになる。

日記に、苦心惨憺、ようやくつくった回文がつづられ、

「先生、感想をお願いします」

とある。

一番みじかいのは、

「黴か?」

であった。

かびか

これも立派な、回文であろう。



次には、

しんかいいかんし
深海?行かんし・・・


である。
深海のことを尋ねられて、
「そんなの知らんよ。深海なんて、別に行かないのだし・・・」
という返答をしたのだろう。


回文をつくる際には、ともかくまずは気になる名詞から探せ、と言ってあったため、みんなで図鑑などみながら、

「ちょうちんあんこう」
とか
「じんべいざめ」
とか、
いろいろな気になる名詞を逆さに詠んで、うむむ、と唸っていた。

教室に、魚の図鑑があり、あれこれと見ていた子の中に、

にがいわ!ズワイガニ!

を作成した子がいて、これは、かなり評判が良く、教室の皆に発表した途端、オオーーーッ、というため息がもれた。


いくつかできて、教室で発表しあったもののうち、一番くだらないのは、

カカオとトマトとおかか

が一番くだらない、ということになった。


納豆とツナ
なっとうとつな

というのも、くだらないので、これが『くだらないで賞』の第2位。


ガスですが。


これも、くだらないで賞を受賞。

だいたい、5文字程度では、回文もすべてくだらない感じがある。
最低でも10文字程度は無いといけない。

ぜひ、もっと長いのをつくろう!
5文字じゃ、くだらんぞ!

と、発破をかけると、号令一下、みんなで字数を増やそうとして、

「先生、できた!」

「どう?こんどのは何文字?」

「こんどはすごいよ。えっと、ビックリマークを入れて、10文字!」



うどんか!!感動!!
うどんかかんどう


ズルいわ。



小学校6年生でも、せいぜい、このくらいです。

しかし、卒業前に、こんなことをしていて、良いのでしょうか。

いいのです。これ、全部、

1年生へのプレゼントですから!!!

写真は、不思議な枝の先。
1

【6年・国語光村】海の命の授業

2021年度バージョンのリンクを貼っておきます。


以下、2016年度バージョンです。
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【6年・国語光村】海の命の授業
個人的に参加している、元校長先生の私的勉強会で、「海の命」を学んだ。
わたしの勤務する、愛知県岡崎市の教科書とはちがって、「海の命」は、光村図書である。
別の市に赴任されている方が、授業レポートを持ってこられて、それを検討することになった。

【導入】
太一が瀬にもぐりつづけた理由は何か。
なぜ太一は瀬の主を探していたのか。
 (復讐やかたき討ちをしたい一心で追い求めていた?)


以下、S先生のレポート。

子どもたちから、「敵討ち」の言葉が出るが、また別の子からは、
「べつにクエが悪いのじゃない。自分の命をとろうとした相手から自分の身を守っただけ」
という意見も出て、すでにそこから討論の気分。

太一は父を殺された復讐のためにクエを追い求めたのか

これは、父がクエと戦って死んでいるのだから、「かたきうち」という言葉でかまわない、という子がほとんどである。
しかし、クエをそこまで恨んでいるだろうか?という点で、釈然としない子もいる。
「ただ、戦おう、という前に、その魚を見てみたい、という気持ちが強いのではないか」

父とは何か、父はどうその魚と向き合ったのか、父はどんな気分でその魚を見たのだろうか、という謎を解明したい、という気持ちがあったのではないだろうか。
だとすると、敵討ち、という言葉とはすこしニュアンスが異なってくる。

として見直してみると、父は殺された、という文はどこにもないことに改めて気づく。
父を破った魚、というふうにしか書いていない。
また、瀬の主を、「まぼろし」と表現したり、主をとらえることが「一人前の漁師になるために必要」とされていることなどから、どうやら、「敵討ち」というものとは、またちがう心持ちがあるのではないか、と見えてくる。

この問いによって、子どもたちは、

「どうやら、深く読もうとして言葉を注意してみていくと、新たな読み方がありそうだな」

という感想をもつ。

太一は主をずっと追い求めてきたのだから、目の前のクエを殺すべきだったか。
次に用意された、この発問も、多くの子どもが疑問に思う点である。
なぜ、太一はようやく見つけたクエを殺さなかったのだろうか?

前述の、市外から来られたS先生は、
「教室のほとんどの子が、読んだあとの疑問点としてこれをあげていました」
と言っていた。

わたしもその場で本文を何度も読ませてもらったが、その場ではすぐに解釈できなかった。
その先生が人数分コピーしてきていたのをくれて、読む時間も与えられたが、その短い時間では、わたしにも判然としなかった。じっくりと考えることができたのは、この資料を持ち帰ってからだ。

はたして、殺すべきだったか。
海の命2

【発問】
この作品の山場では、どんな太一が描かれているか。
(最後を〇〇する太一、~な太一、と体言止めにしてノートに書かせる)


主に出会って興奮する太一
主を殺すべきか迷う太一
殺さないと決める太一
一人前の漁師になろうとする太一

「クエを殺すかどうか悩んだ結果、太一は殺しませんでした。しかし、ずっと追い求めてきて、ようやく出会うわけですね。ではそこで、やはり殺すべきだ、という考えもあるかと思う。みなさんはどう思いますか」

賛成か、反対か。
意見を決めて、討論させる。

多くの子は、「殺すべきだとは思わない」と反応する。
しかし、それを理由をつけてきちんと自分なりの説明にしよう、ということになると、太一の心理がどのように描かれているか、行動の描写はどうなっているかなど、かなり詳細に読み込まねばならない。記述をもとに、自分なりの理由を説明できることが重要である。

「やがて、太一は村のむすめとけっこんし、子どもを四人育てた。男と女を二人ずつで、みんな元気でやさしい子どもたちだった。母は、おだやかで満ち足りた、美しいおばあさんになった」
この段落の説明は、すべて必要なのだろうか。


【発問】
主と出会うことによって変わることになった太一のその後ですが、太一が結婚したとか、子どもを四人育てたとか、このあたりの説明って長くないですか?この文って、必要でしょうか?


太一が結婚した情報は必要?
太一が子どもを育てた情報は必要?
子どもが男2人と女2人だ、という情報も必要?
母が美しいおばあさんになった、という箇所、これも必要?

これらは、みんな必要だ、というふうに子どもたちは言う。
しかし、これもまた、なぜ必要なんだろうか、なぜ立松和平がこのように記述したのか、というところになると、一人ひとりが深く前後の文脈を比較して読んでいかねばならない。
海の命

『卒業式まで』手作りカウントダウンが始まった!

.
『卒業式まで、あと30日!』

教室に、カウントダウンカレンダーが貼られるようになる。
子どもたちが手作りしたカレンダー。
毎朝、日直当番がめくって、

「ええー、みんなで給食食べるのも、あと30日!・・・えっと、これを書いたのは〇〇くんですネ」


みんなで描いたカレンダーやイラストを、日めくりして、卒業式までをカウントダウンし、ワイワイやっている。


この頃になると、なんだか本当に、言いようのない確信と、言いようのない滑稽さ、複雑な感情がぶわーっと湧き出てくる。

『叱らない先生』をやりはじめて、これで丸6年が経った。

卒業文集には、思い出の修学旅行、運動会、キャンプの思い出などのほか、「新間先生のこと」なんて記事も書いてある。
気恥ずかしくなるような褒め言葉が書かれていて、ちょっと躊躇する気持ちが出る。書き直しを、それとなくすすめてみるか・・・。いや、でもまあ、子どもが書こうとして自分で書いたものなんだし・・・。

「わたしは、6年になって、新しい先生になり、すごく学校が好きになりました」
「授業が面白くなり、よく聞こうと頑張っていると、算数ができるようになってきました」
「とくに6年生のクラスは、ぼくには最高のクラスとなりました」


「6年生になり、一度も休まずに学校に来ました」

これは、5年生のときまで、20日間以上休んでいた子。
なにかあると、すぐに休む、と言われていた子。
結局、一度も休まずに学校に来た。

A子とB子は、5年生まで犬猿の仲。
バスの座席をめぐっての長期にわたる大げんかが、保護者同士のけんかにまで飛び火しそうになった。
結局、6年生になってなにもない。

「ぴたっとやんだな」
昨年のことを知る教頭先生が、愉快そうにおっしゃる。

圧力をかけるのをやめれば、どんどん教室が良くなる。
こんな記事を、毎年書きつづけて、結局、6年経つ。

はじめの3年間まで、自分でも半信半疑だった。
叱らないでいいわけがない。
どこかに、自分でもそう思おうとする感じがあった。

でも、もう、6年間たつ。
圧力無し、という教育メソッドが、そろそろ研究テーマにあがってきてもいいんじゃないか?と思う。


たぶん、誤解があるんだろうネ。
「叱らない、イコール、子どもに迎合する大人」
となっているんだろう。

そうではない。
わたしは一切、流行している芸能ネタなどしゃべらないし、子どもどうしの会話にノリノリで首をつっこむことをしない。(そもそも、できないし・・・)。
子どもから話しかけられない限り、長い休み時間は職員室にいることが多い。

「叱らない、イコール、迎合」

としか見えてこないなら、なにか、視点が失われているのでしょう。

「叱らない」は、もっと基本で、ベーシックで、プレーンで、なにもない、ってことだと思います。

写真は、森で出会った小さな妖精。
3

6年算数・量と単位

.
メートル法、というものがある。

日本はもっぱら、メートル法。

1メートル、2メートル、という長さ。
その単位であります。
重さならグラム、容積なら、リットル。

これを、6年生で、自由自在に換算したり、言い換えたり、単位をなおしたりできるように、習得していく。


基本になるのは、この基準であります。
読み方は、ギリシャ語からきてる。
km hm dam m dm cm mm
キロ ヘクト デカ - デシ センチ ミリ
1000倍  100倍 10倍 1倍 1/10倍 1/100倍 1/1000倍

km / hm / Dm / m / dm / cm / mm

これを使って、次のような問題を解く。

『6キロメートルは、何センチでしょう?』

ふつうに計算しても、すぐにできる。


念のため、さきほどの基準ものさし、を使ってみましょう。
基準ものさしの、km のところに、6と書く。
km / hm / Dm / m / dm / cm / mm

そして、問題が何センチでしょう?だから、センチのところに、小数点を書く。
km / hm / Dm / m / dm / cm / mm
6                 .

あとは、その間を、0 でうめていく。
km / hm / Dm / m / dm / cm / mm
□  □  □  □  □  □  □
6   0   0   0  0  0 .

つまり、6キロメートルは、600000センチ、六十万センチ、ということになる。



もう一問。

『15キロメートルは何ミリでしょう』

この表のキロのところに『15』を書いて、
ミリのところに小数点。
km / hm / Dm / m / dm / cm / mm
□  □  □  □  □  □  □
15  0   0   0  0   0   0 .

15キロは1500万ミリメートル、ということだ。



この基準は、いろいろ使える。

3


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