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理科を教えていると、教科書の図に、あれ、と思うことがある。
たとえば食物連鎖などの図で、頂点にたつのは鷹のような猛禽類であったり、人間であったり、シャチやヒグマ、ジャガーのような大型の哺乳動物である。
その図だけを見ていると、いかにも頂点に『君臨』するような感じ。
ところが実際それは、「君臨」とは別物だ。
その証拠に、オオワシもヒグマもジャガーも、すべて絶滅を危惧されている。
種そのものとしては、いかにもひ弱であり、下等だと思われているウサギの方がよほど地球上では繁殖している。
「この世をば、わが世とぞ思う」のは、強い鷹ではなく、地面を走り回る野鼠の方だ。
わたしは教員になりたての頃、ある飲み会の席で、先輩に昆布の話をきいた。
この話はとても興味深く、食物連鎖の話に通じるので、理科の授業で毎年、必ず子どもたちにしている。
その先輩は、ある日、昆布に興味を持ち、昆布の全身が欲しくなった。
昆布とはなにか、教室で子どもに見せよう、と思ったが、スーパーで手に入るような昆布はすべて袋に入れられた時点でズタズタに切られている。本物を見せたい、と思っても全身をそのまま見せないと迫力がない。
そこで、市内をさがし歩いたが、小売店や問屋でも、全身まるごとは手に入らないことが分かった。それもそのはずで、昆布の中には、長さが10mくらいあるのもある。そんなもの、まるごとあるはずがない。
「え、そんな長いのか」
理科の先生をしていながら、昆布の実際の長さを知らないでいたことを恥じたその先生は、ようしそれなら、とばかり、自分で海に潜って昆布を取ってくることに決めた。
春のまだ寒かった時期だが、高速をとばして東北の海へ向かい、勇気を出して海に入った。
昆布を見つけてとろうとしたが、まず海の中の様子に驚いた。
昆布が、ぜんぶ、ヨコになっているのである。
先輩は、昆布というものは陸地の木々と同じように、縦に育っていると思っていたのだ。
そんなわけもないことは、ちょっと考えれば分かることだが、「昆布の林」という言葉もあるくらいで、イメージでは凛として縦に立ち並んだ昆布たちが目に浮かんでいたのだろう。
ところが、昆布はそんなふうに立っていたら、ただでさえ水中では光が少なくなるので、生きていかれるわけがない。たとえ弱くても日光が欲しくて、もう全身で日の光を浴びようと、水中でぐだーっと寝そべるのが当然なわけである。
次に、その中の一本に目をつけて、根本の株元のところをさぐりあて、さて引っこ抜こうとしたが、これがもうなんとも強い力で吸着しており、海底の固い地面から離れない。先輩は大根でも抜くくらいのイメージだったので、なかなか抜けないことに唖然とした。
それもそのはず、これもちょっと考えれば分かることで、強い波が四方八方からたえず押し寄せて来るのだ。昆布からしたら、油断したら抜けちゃうくらいの弱い吸着の仕方であれば、すぐに流されてしまう。そうならないように、仮根がぎっちりと食いつくようにして海底につき刺さっているのである。
先輩は、ものの何分かで、楽に持ち帰るつもりでいたので、これまた海中でがくぜんとして震えたそうだ。
たかが一本の昆布を持ち帰るのが実は生涯で数本の指に入るくらいの大事業だったことに気付いたとき、先輩の心に去来したのは、
「こんぶよ、今まで、馬鹿にしてきて、すまん」
という思いだった。
「ほんとうになー、まったく昆布のことなんて、知らなかったってわかったネ」
すでに顔を赤くした先輩は、何杯目かの注文で、ビールをおかわりしながら、続けた。
先輩の頭の中では、人間が一番偉い。次に大型の哺乳動物がえらい。次は中型の哺乳類、その次が小型の哺乳類、その下に鳥類、その下に爬虫類、くだって両生類、さらにくだって魚類が存在していた。
また、その動物たちの下に植物があり、それも完全なピラミッド、サクラやカエデのような種子植物を頂点として、ソテツなどの裸子植物はずっと下、苔やシダ植物なんぞは下劣で見下すべき存在として思い描いていたのだそうだ。昆布などは原始の生物、発達の出来そこない、憐れでならないものと思っていたらしい。
ところが、その昆布が言うことを聞かない。
まったく取れない。
海の中で、徹底的に先輩に対抗する。
先輩は、海の中で涙を流して謝った。
「おれはな、コンブなんざ、種子もなければ茎も根もなく、本当にどうしようもないやつだ、と思っていたんよ」
海で格闘するうち、先輩の心の中にはある尊敬の念が湧いてきた。
「どうしてどうして、僕は昆布というもんは凄いやつや、と思うようになって」
涙を流しながら昆布を引き抜こうとしていると、天の助けか、向うの方からポンポンポンと船がやってきた。
そしておっさんが、
「お前、なにしとんのや。昆布ひこうと思ってんのか」
と聞いてくれた。
先輩は、これは地元の漁師さんが、憐れに思って助けに来てくれたのだ、と喜んで
「はい、昆布がなかなかとれんのです」
というと、
「ばかやろう!人の畑に入って勝手に作物を採っていくやつがあるか!」
どうやら漁業権というのがあり、昆布の漁期はいつからいつまで、と決まっているらしい。
先輩は、採りかけた昆布を、ポイ、と捨てた。
説教が終わっておっさんがまた向うへ行ってしまったので、先輩はおっさんに分からないように水中の足の親指で昆布の端をつまみ寄せ、だんだんと足で昆布をたぐり寄せて浜にあがった。そうして必死の思いで引きずって持ち帰ることができた。
「これで、ようやく教室で本物を見せられる、と思ってな」
先輩はビールのつまみに、芋茎の酢づけを口に運びながら、笑顔でつづけた。
「家に帰って、長い昆布をガレージに吊った針金とロープの間に通しながら、なんでこんな長い昆布が育つのだろう、とそのことばかり考えてなー」
昆布が育つ場所は、水の底なので当然ながら光は弱い。
先輩は、そんな弱い光の中で育つには、まさに種子をつくらない、胞子植物だからできるのだ、ということに思い至る。
種子というのは中に胚乳とか子葉の発芽のための栄養だとかをいっぱいに詰め込んでいる。発芽という巨大なイベントのために、膨大な栄養を含むのです。それを人間は食品として食べている。コメでも、実際にはそれが発芽するための澱粉や蛋白質、ビタミンやミネラル、そういったものをためこんでいる。
栄養を満載にしたものが、種子です。
小さくとも、光合成をする葉っぱをつくるのに十分な資本金が、なかに貯めこまれているわけ。種子植物が、丈夫な種(たね)を作るというのは、植物にとってはものすごく大変なことであるわけです。
ところが、昆布は胞子ですから、種子をつくらない。胞子なんていうのは、言ってみれば一つの細胞がちょん、と切れて、ずんずんと増えてでかくなる、という程度のものです。ちょっと乱暴な言い方ですが、そんなことで胞子植物は増えることができる。
こうして生きて増えていくからこそ、暗い、種子植物ならとても生きていかれないような光の弱い世界でも、丈夫に立派に生きていくことができる。
種子植物は高等な(と人間には思われている)手段で、確実に増えることができる。そういう植物の進化の過程がある。しかし、何万年もの間、胞子植物は滅びない。それどころか、海の中では胞子植物こそが、その領域において、広がりにおいて、依然として「この世を謳歌」しているわけです。
飲み会はそろそろ終わりに近づいていて、隣の低学年の先生方のテーブルは、ビール瓶の残りを最後まで飲み干そうとみんなで乾杯をしていました。
わたしは今日の飲み会は、ほとんど昆布の話で終わってしまったな、と思ったのですが、まあそれでもいいか、なかなかいい飲み会だったな、と感じていたのでした。
わたしは窓の外を見ながら、
「光の少ない世界でも、生きているというのは、すばらしいことやな」
と何度も思い返しました。
店の外に出ると、まるで海中のサンゴように、ネオンが美しく夜の街を照らしているのでした。
理科を教えていると、教科書の図に、あれ、と思うことがある。
たとえば食物連鎖などの図で、頂点にたつのは鷹のような猛禽類であったり、人間であったり、シャチやヒグマ、ジャガーのような大型の哺乳動物である。
その図だけを見ていると、いかにも頂点に『君臨』するような感じ。
ところが実際それは、「君臨」とは別物だ。
その証拠に、オオワシもヒグマもジャガーも、すべて絶滅を危惧されている。
種そのものとしては、いかにもひ弱であり、下等だと思われているウサギの方がよほど地球上では繁殖している。
「この世をば、わが世とぞ思う」のは、強い鷹ではなく、地面を走り回る野鼠の方だ。
わたしは教員になりたての頃、ある飲み会の席で、先輩に昆布の話をきいた。
この話はとても興味深く、食物連鎖の話に通じるので、理科の授業で毎年、必ず子どもたちにしている。
その先輩は、ある日、昆布に興味を持ち、昆布の全身が欲しくなった。
昆布とはなにか、教室で子どもに見せよう、と思ったが、スーパーで手に入るような昆布はすべて袋に入れられた時点でズタズタに切られている。本物を見せたい、と思っても全身をそのまま見せないと迫力がない。
そこで、市内をさがし歩いたが、小売店や問屋でも、全身まるごとは手に入らないことが分かった。それもそのはずで、昆布の中には、長さが10mくらいあるのもある。そんなもの、まるごとあるはずがない。
「え、そんな長いのか」
理科の先生をしていながら、昆布の実際の長さを知らないでいたことを恥じたその先生は、ようしそれなら、とばかり、自分で海に潜って昆布を取ってくることに決めた。
春のまだ寒かった時期だが、高速をとばして東北の海へ向かい、勇気を出して海に入った。
昆布を見つけてとろうとしたが、まず海の中の様子に驚いた。
昆布が、ぜんぶ、ヨコになっているのである。
先輩は、昆布というものは陸地の木々と同じように、縦に育っていると思っていたのだ。
そんなわけもないことは、ちょっと考えれば分かることだが、「昆布の林」という言葉もあるくらいで、イメージでは凛として縦に立ち並んだ昆布たちが目に浮かんでいたのだろう。
ところが、昆布はそんなふうに立っていたら、ただでさえ水中では光が少なくなるので、生きていかれるわけがない。たとえ弱くても日光が欲しくて、もう全身で日の光を浴びようと、水中でぐだーっと寝そべるのが当然なわけである。
次に、その中の一本に目をつけて、根本の株元のところをさぐりあて、さて引っこ抜こうとしたが、これがもうなんとも強い力で吸着しており、海底の固い地面から離れない。先輩は大根でも抜くくらいのイメージだったので、なかなか抜けないことに唖然とした。
それもそのはず、これもちょっと考えれば分かることで、強い波が四方八方からたえず押し寄せて来るのだ。昆布からしたら、油断したら抜けちゃうくらいの弱い吸着の仕方であれば、すぐに流されてしまう。そうならないように、仮根がぎっちりと食いつくようにして海底につき刺さっているのである。
先輩は、ものの何分かで、楽に持ち帰るつもりでいたので、これまた海中でがくぜんとして震えたそうだ。
たかが一本の昆布を持ち帰るのが実は生涯で数本の指に入るくらいの大事業だったことに気付いたとき、先輩の心に去来したのは、
「こんぶよ、今まで、馬鹿にしてきて、すまん」
という思いだった。
「ほんとうになー、まったく昆布のことなんて、知らなかったってわかったネ」
すでに顔を赤くした先輩は、何杯目かの注文で、ビールをおかわりしながら、続けた。
先輩の頭の中では、人間が一番偉い。次に大型の哺乳動物がえらい。次は中型の哺乳類、その次が小型の哺乳類、その下に鳥類、その下に爬虫類、くだって両生類、さらにくだって魚類が存在していた。
また、その動物たちの下に植物があり、それも完全なピラミッド、サクラやカエデのような種子植物を頂点として、ソテツなどの裸子植物はずっと下、苔やシダ植物なんぞは下劣で見下すべき存在として思い描いていたのだそうだ。昆布などは原始の生物、発達の出来そこない、憐れでならないものと思っていたらしい。
ところが、その昆布が言うことを聞かない。
まったく取れない。
海の中で、徹底的に先輩に対抗する。
先輩は、海の中で涙を流して謝った。
「おれはな、コンブなんざ、種子もなければ茎も根もなく、本当にどうしようもないやつだ、と思っていたんよ」
海で格闘するうち、先輩の心の中にはある尊敬の念が湧いてきた。
「どうしてどうして、僕は昆布というもんは凄いやつや、と思うようになって」
涙を流しながら昆布を引き抜こうとしていると、天の助けか、向うの方からポンポンポンと船がやってきた。
そしておっさんが、
「お前、なにしとんのや。昆布ひこうと思ってんのか」
と聞いてくれた。
先輩は、これは地元の漁師さんが、憐れに思って助けに来てくれたのだ、と喜んで
「はい、昆布がなかなかとれんのです」
というと、
「ばかやろう!人の畑に入って勝手に作物を採っていくやつがあるか!」
どうやら漁業権というのがあり、昆布の漁期はいつからいつまで、と決まっているらしい。
先輩は、採りかけた昆布を、ポイ、と捨てた。
説教が終わっておっさんがまた向うへ行ってしまったので、先輩はおっさんに分からないように水中の足の親指で昆布の端をつまみ寄せ、だんだんと足で昆布をたぐり寄せて浜にあがった。そうして必死の思いで引きずって持ち帰ることができた。
「これで、ようやく教室で本物を見せられる、と思ってな」
先輩はビールのつまみに、芋茎の酢づけを口に運びながら、笑顔でつづけた。
「家に帰って、長い昆布をガレージに吊った針金とロープの間に通しながら、なんでこんな長い昆布が育つのだろう、とそのことばかり考えてなー」
昆布が育つ場所は、水の底なので当然ながら光は弱い。
先輩は、そんな弱い光の中で育つには、まさに種子をつくらない、胞子植物だからできるのだ、ということに思い至る。
種子というのは中に胚乳とか子葉の発芽のための栄養だとかをいっぱいに詰め込んでいる。発芽という巨大なイベントのために、膨大な栄養を含むのです。それを人間は食品として食べている。コメでも、実際にはそれが発芽するための澱粉や蛋白質、ビタミンやミネラル、そういったものをためこんでいる。
栄養を満載にしたものが、種子です。
小さくとも、光合成をする葉っぱをつくるのに十分な資本金が、なかに貯めこまれているわけ。種子植物が、丈夫な種(たね)を作るというのは、植物にとってはものすごく大変なことであるわけです。
ところが、昆布は胞子ですから、種子をつくらない。胞子なんていうのは、言ってみれば一つの細胞がちょん、と切れて、ずんずんと増えてでかくなる、という程度のものです。ちょっと乱暴な言い方ですが、そんなことで胞子植物は増えることができる。
こうして生きて増えていくからこそ、暗い、種子植物ならとても生きていかれないような光の弱い世界でも、丈夫に立派に生きていくことができる。
種子植物は高等な(と人間には思われている)手段で、確実に増えることができる。そういう植物の進化の過程がある。しかし、何万年もの間、胞子植物は滅びない。それどころか、海の中では胞子植物こそが、その領域において、広がりにおいて、依然として「この世を謳歌」しているわけです。
「僕はな、種子植物が最高や、と思っていたのだが、それは一定の条件下ではじめて言えることや。光の弱い場所では、シダ植物の方が繁茂するし、苔だって生きている。さらに光の弱い水中では、もうぜったいに、これは種子ではダメで、胞子植物や藻なんかの方が、立派に生きているのだ、ということ。これはもう、藻だとか胞子植物が下だ、とは言えんな、ということに自然と気づいたんや」
飲み会はそろそろ終わりに近づいていて、隣の低学年の先生方のテーブルは、ビール瓶の残りを最後まで飲み干そうとみんなで乾杯をしていました。
わたしは今日の飲み会は、ほとんど昆布の話で終わってしまったな、と思ったのですが、まあそれでもいいか、なかなかいい飲み会だったな、と感じていたのでした。
わたしは窓の外を見ながら、
「光の少ない世界でも、生きているというのは、すばらしいことやな」
と何度も思い返しました。
店の外に出ると、まるで海中のサンゴように、ネオンが美しく夜の街を照らしているのでした。