30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年09月

「こんぶよ、今まで、馬鹿にしてきて、すまん」

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理科を教えていると、教科書の図に、あれ、と思うことがある。

たとえば食物連鎖などの図で、頂点にたつのは鷹のような猛禽類であったり、人間であったり、シャチやヒグマ、ジャガーのような大型の哺乳動物である。

その図だけを見ていると、いかにも頂点に『君臨』するような感じ。

食物連鎖の図

ところが実際それは、「君臨」とは別物だ。

その証拠に、オオワシもヒグマもジャガーも、すべて絶滅を危惧されている。
種そのものとしては、いかにもひ弱であり、下等だと思われているウサギの方がよほど地球上では繁殖している。
「この世をば、わが世とぞ思う」のは、強い鷹ではなく、地面を走り回る野鼠の方だ。


わたしは教員になりたての頃、ある飲み会の席で、先輩に昆布の話をきいた。
この話はとても興味深く、食物連鎖の話に通じるので、理科の授業で毎年、必ず子どもたちにしている。

その先輩は、ある日、昆布に興味を持ち、昆布の全身が欲しくなった。
昆布とはなにか、教室で子どもに見せよう、と思ったが、スーパーで手に入るような昆布はすべて袋に入れられた時点でズタズタに切られている。本物を見せたい、と思っても全身をそのまま見せないと迫力がない。
そこで、市内をさがし歩いたが、小売店や問屋でも、全身まるごとは手に入らないことが分かった。それもそのはずで、昆布の中には、長さが10mくらいあるのもある。そんなもの、まるごとあるはずがない。

「え、そんな長いのか」

理科の先生をしていながら、昆布の実際の長さを知らないでいたことを恥じたその先生は、ようしそれなら、とばかり、自分で海に潜って昆布を取ってくることに決めた。

春のまだ寒かった時期だが、高速をとばして東北の海へ向かい、勇気を出して海に入った。
昆布を見つけてとろうとしたが、まず海の中の様子に驚いた。

昆布が、ぜんぶ、ヨコになっているのである。

先輩は、昆布というものは陸地の木々と同じように、縦に育っていると思っていたのだ。
そんなわけもないことは、ちょっと考えれば分かることだが、「昆布の林」という言葉もあるくらいで、イメージでは凛として縦に立ち並んだ昆布たちが目に浮かんでいたのだろう。
ところが、昆布はそんなふうに立っていたら、ただでさえ水中では光が少なくなるので、生きていかれるわけがない。たとえ弱くても日光が欲しくて、もう全身で日の光を浴びようと、水中でぐだーっと寝そべるのが当然なわけである。
昆布

次に、その中の一本に目をつけて、根本の株元のところをさぐりあて、さて引っこ抜こうとしたが、これがもうなんとも強い力で吸着しており、海底の固い地面から離れない。先輩は大根でも抜くくらいのイメージだったので、なかなか抜けないことに唖然とした。
それもそのはず、これもちょっと考えれば分かることで、強い波が四方八方からたえず押し寄せて来るのだ。昆布からしたら、油断したら抜けちゃうくらいの弱い吸着の仕方であれば、すぐに流されてしまう。そうならないように、仮根がぎっちりと食いつくようにして海底につき刺さっているのである。

先輩は、ものの何分かで、楽に持ち帰るつもりでいたので、これまた海中でがくぜんとして震えたそうだ。
たかが一本の昆布を持ち帰るのが実は生涯で数本の指に入るくらいの大事業だったことに気付いたとき、先輩の心に去来したのは、

「こんぶよ、今まで、馬鹿にしてきて、すまん」

という思いだった。

「ほんとうになー、まったく昆布のことなんて、知らなかったってわかったネ」

すでに顔を赤くした先輩は、何杯目かの注文で、ビールをおかわりしながら、続けた。

先輩の頭の中では、人間が一番偉い。次に大型の哺乳動物がえらい。次は中型の哺乳類、その次が小型の哺乳類、その下に鳥類、その下に爬虫類、くだって両生類、さらにくだって魚類が存在していた。
また、その動物たちの下に植物があり、それも完全なピラミッド、サクラやカエデのような種子植物を頂点として、ソテツなどの裸子植物はずっと下、苔やシダ植物なんぞは下劣で見下すべき存在として思い描いていたのだそうだ。昆布などは原始の生物、発達の出来そこない、憐れでならないものと思っていたらしい。

ところが、その昆布が言うことを聞かない。
まったく取れない。
海の中で、徹底的に先輩に対抗する。
先輩は、海の中で涙を流して謝った。

「おれはな、コンブなんざ、種子もなければ茎も根もなく、本当にどうしようもないやつだ、と思っていたんよ」

海で格闘するうち、先輩の心の中にはある尊敬の念が湧いてきた。

「どうしてどうして、僕は昆布というもんは凄いやつや、と思うようになって」



涙を流しながら昆布を引き抜こうとしていると、天の助けか、向うの方からポンポンポンと船がやってきた。
そしておっさんが、

「お前、なにしとんのや。昆布ひこうと思ってんのか」

と聞いてくれた。

先輩は、これは地元の漁師さんが、憐れに思って助けに来てくれたのだ、と喜んで

「はい、昆布がなかなかとれんのです」

というと、

「ばかやろう!人の畑に入って勝手に作物を採っていくやつがあるか!」

どうやら漁業権というのがあり、昆布の漁期はいつからいつまで、と決まっているらしい。

先輩は、採りかけた昆布を、ポイ、と捨てた。

説教が終わっておっさんがまた向うへ行ってしまったので、先輩はおっさんに分からないように水中の足の親指で昆布の端をつまみ寄せ、だんだんと足で昆布をたぐり寄せて浜にあがった。そうして必死の思いで引きずって持ち帰ることができた。

「これで、ようやく教室で本物を見せられる、と思ってな」

先輩はビールのつまみに、芋茎の酢づけを口に運びながら、笑顔でつづけた。

「家に帰って、長い昆布をガレージに吊った針金とロープの間に通しながら、なんでこんな長い昆布が育つのだろう、とそのことばかり考えてなー」

昆布が育つ場所は、水の底なので当然ながら光は弱い。
先輩は、そんな弱い光の中で育つには、まさに種子をつくらない、胞子植物だからできるのだ、ということに思い至る。

種子というのは中に胚乳とか子葉の発芽のための栄養だとかをいっぱいに詰め込んでいる。発芽という巨大なイベントのために、膨大な栄養を含むのです。それを人間は食品として食べている。コメでも、実際にはそれが発芽するための澱粉や蛋白質、ビタミンやミネラル、そういったものをためこんでいる。
栄養を満載にしたものが、種子です。
小さくとも、光合成をする葉っぱをつくるのに十分な資本金が、なかに貯めこまれているわけ。種子植物が、丈夫な種(たね)を作るというのは、植物にとってはものすごく大変なことであるわけです。

ところが、昆布は胞子ですから、種子をつくらない。胞子なんていうのは、言ってみれば一つの細胞がちょん、と切れて、ずんずんと増えてでかくなる、という程度のものです。ちょっと乱暴な言い方ですが、そんなことで胞子植物は増えることができる。
こうして生きて増えていくからこそ、暗い、種子植物ならとても生きていかれないような光の弱い世界でも、丈夫に立派に生きていくことができる。

種子植物は高等な(と人間には思われている)手段で、確実に増えることができる。そういう植物の進化の過程がある。しかし、何万年もの間、胞子植物は滅びない。それどころか、海の中では胞子植物こそが、その領域において、広がりにおいて、依然として「この世を謳歌」しているわけです。

「僕はな、種子植物が最高や、と思っていたのだが、それは一定の条件下ではじめて言えることや。光の弱い場所では、シダ植物の方が繁茂するし、苔だって生きている。さらに光の弱い水中では、もうぜったいに、これは種子ではダメで、胞子植物や藻なんかの方が、立派に生きているのだ、ということ。これはもう、藻だとか胞子植物が下だ、とは言えんな、ということに自然と気づいたんや」

飲み会はそろそろ終わりに近づいていて、隣の低学年の先生方のテーブルは、ビール瓶の残りを最後まで飲み干そうとみんなで乾杯をしていました。
わたしは今日の飲み会は、ほとんど昆布の話で終わってしまったな、と思ったのですが、まあそれでもいいか、なかなかいい飲み会だったな、と感じていたのでした。

わたしは窓の外を見ながら、

「光の少ない世界でも、生きているというのは、すばらしいことやな」

と何度も思い返しました。

店の外に出ると、まるで海中のサンゴように、ネオンが美しく夜の街を照らしているのでした。

Aくんが学校に来るのは、なぜか

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Aくんが学校に来るのは、なぜか、と考えたことがある。

彼にとって、学校とはうるさい先生があれこれと指示命令をし、座る場所まで強要される、おそろしく居心地の悪い場所である。

しかしそれでも、彼は学校に来る。

Aくんは、他の子をつめでひっかいたり、顔をパンチしたりするので、担任の先生から目の敵(かたき)にされていた。
Aくんが教室の一番前の席で、先生ににらまれながら、怒られているところを、私は何度か目撃した。

Aくんに、学校へ行く価値を教えたから、彼は学校に来ているのではない。
彼は、学校がきらいだ、と明言したことがある。
来たくない、と言ったことも、もちろん何度だって、ある。

しかし、彼はめげずに学校へ来ている。




わたしはAくんの担任ではないけれど、Aくんのことで何度も相談を受けたから、Aくんがちっとも折れずに、ちっとも暗くならずに、学校へくることは知っていた。だから、彼がちゃんと学校へ通ってくることに、なんともいえない彼自身の力を感じていた。

ひとつ言えるのは、

〇学校へくると算数ができるようになるよ
〇学校へくるとお友達ができるよ
〇学校へ来ると楽しいドッジボールができるよ
〇学校へくるといいことがあるよ


というような、学校へ来ることの価値を教わったから、来ているのではない、ということ。
彼は、そんな屁のような(押し付けられた)価値を知って学校へ来ているのでは、毛頭ない。

ではなぜ、一見、彼にとっては価値のなさそうに思える学校へ、彼は毎日通ってくるのだろう。


三年寝太郎が、地元に巨大な用水路をつくるために目の前の地面を掘り始めた時、最初、だれも手伝おうとしなかった。大人はだれも、そのことに「価値」を認めようとしなかったからだ。
ところが、子どもたちは手伝う。
用水路とは何か、その価値とはなにか、と子どもは問おうとしないからだろう。

三年寝太郎と子どもたちが、用水路堀りを毎日やるうちに、大人の中にも、そこに参加する人が現れてくる。
日頃あまり、「夢」とか、「価値」とか、「意味」とか、「意義」などを語ろうとしない人たちから、だんだんと参加し始める。

そこが、人間の不思議なところ。



用水路が1割ほどできあがり、堤が目に見えて分かるようになると、それを「意義づけ」る賢い大人がようやく表れる。この用水路づくりには意味がある、と認めるのだ。
そうなってから初めて、参加し始める人たちもいる。


この話から分かるのは、人間は「価値」にとらわれつづける、ということだ。
社会が価値を認める、ということに、われわれ大人はとても敏感になるし、そのことに依存する。


このことを、「人間の価値依存癖(Value-dependent addiction*バリューディペンデント・アディクション)とよぶ。


Aくんが学校をどう評価していても、彼は学校へ来たいのだ。
あるいは、学校へ来たくなくても、毎朝、登校することを選択しているのだ。

そこで、大人が震えながら、なにかを恐れながら、

「学校には価値がある!!」

と叫ばずにいられないこと自体が、なにか病的なのだろう、と思う。

学校の価値を語らずとも、
価値があるかどうかを問わなくても、
Aくんが学校へくることを喜び、大人はそこでもっとも人間らしくふるまいながら、Aくんと共にすごす、ということだろう。なにしろ、われわれは、生きていること自体がヨロコビであるのだから。

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ミサイルか、それとも落雷か

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先日は、雷の話でもちきり。
台風がちょうど迫ってきている、ということで、午後になって大雨になった。

授業をしながらも、ピカッと光って、大きな雷鳴がとどろく。
真っ黒な雲と、激しい雨。
授業中にしょっちゅう、外を見て、

「大丈夫かなあ」

帰りの傘の心配や、下校時に水路に落ちないようにね、と話してばかりだった。




と、下校まであと少し、という時間帯に、特別に大きな、

バリバリバリ・・・ちゅどーん!!

という音がして、本当に魂消(たまげ)ました。



どうやら近くの森のほうに、雷様が落ちたらしい。

ちょっと、地響きまでしたような・・・



子どもたちが帰る前だったので、もうみんな、びっくり。


幸い、学校はまったく停電もなにもしない。
音はすごかったけど、どこも電気が点いたままで、助かった。

すぐに下校したけど、正門近くの広場へ、保護者の方がだいぶ迎えに来ていらした。
ありがたい。


ところで、雷が最近はとても増えているのだそうだ。
先日、NHKの「メガクライシス」という番組で、雷が爆発的に増加していることが紹介されていた。

MEGA CRISIS 巨大危機
~脅威と闘う者たち~
第1集 加速する異常気象との闘い
ご覧になった方も、多いでしょう。
2020年、北極の夏の氷が全て溶けてゼロになる可能性が指摘されている。アラスカやシベリアでは永久凍土が融け、温暖化の加速要因となるメタンガスの大量放出も危惧されているのだ。
北極の氷がゼロになる時、何が起きるのか。地球では寒波や熱波が相次ぐとみられているが、“未知の領域”だ。世界中の気象学者たちが結集し、未来を予測するための挑戦を始めている。
日本列島での激増が恐れられているのは、スーパー台風、ゲリラ豪雨、落雷など。


この落雷が、原子力発電所に落ちまくったらどうなるのか、というのが、わたしの不安であります。

今はもしかすると、落雷よりも北朝鮮のミサイルの方が心配だ、という人が多そうだが、わたしはそうは思わない。

絶対に、断固として、落雷の方が心配だ。

みなさんは、どっちが心配ですか?

ミサイル?
それとも
落雷?



これはむずかしいところなんですが・・・


わたしの判断は・・・、

落雷に一票!

北朝鮮の将軍様が、日本の核発電所に向けてミサイルを撃ち込んだら、その爆発し飛散した放射能汚染は、めぐりめぐって北朝鮮にも届く。将軍様はそんなアホなことしないだろう、というのが、わたしの判断だ。

ところが、将軍様とちがい、雷様はそんな「配慮」など、しなさそう。

というわけで、

みなさま、落雷にはくれぐれも注意しましょう!!

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『指導死』という言葉

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『指導死』という言葉を聴いた。

指導し、責めて殺す、ということだ。

子どもは、

「おまえのせいだ」

と言われ、何も言えなくなって、死をえらぶ。

「おまえのせい」

とは言っていないにしても、子どもはそう受け取っている。

おまえのせいだ、と言われて、ではどうしたらいいのか、子どもは混乱したまま死を選ぶ。

そこに「指導」とよばれる、「正しいことへのいざない」が隠されているから、初めてこの言葉を聴いた者に、あるショックを与える。

「指導」は、なんのためか。

人が幸福になるための「指導」のはず。

しかし、そうなっていないときがある。

指導によって、人が「責められる」。

責めて、攻めて、責められてどうしようもなくなって、死ぬ。

それが、『指導死』だ。




人を責め、人から指摘されると感情を害する、怒る。

それが、すべての間違いだ。



教員が、子どもに対して、

「責める」

ということがあるはずがない。



ところが、部活の成績、学業の成績、人間関係のいざこざ、

すべて、

「お前が悪い、お前のせいだ」

と、指導するときがある。



どうしたらいいか、手をこまねいているのが生徒であるはず。

ところが、教師が、その生徒を責めつづける。



実は、責める側の教師こそ、困っている。

どうしたらいいのか、わからなくなっている。

自分が何をねがっているのかさえ、分からない。

それで、馬鹿の一つ覚えのように、不安を他人(生徒)にぶつけているだけなのだ。

教師も、何をしたらいいのか、さっぱり分からないのだ。

ただ、教師は、『不安』なのだ。

この世の中の、不安という不安が、身に迫って押し寄せてくるような錯覚に陥っているのだ。

部活で優勝しなければ、自分の教師としての指導力を責められる、と勘違いしている。

ひとりの児童を守るために、もうひとりの児童を責めなければどうしようもない、と思い違いをしている。

親から苦情の電話が入ったら、自分の指導がまずかったのだ、と思うのが当然だと思っている。




教師としても、もっと楽しい部活をしてみたい。

正月くらい、休んでいたい。

夏休みも、もっと楽しく子どもたちと会話したい。

ところが、そんなことをしていたら、子どもたちが練習しなくなるだろう、と見えない幻影に怯えきっている。

本当の教師としての気持ちを抑えて、抑えて、ふたをしまくってきて、相当に歪んでしまったのが教師だ。

その歪んだ教師が、何も手を打てずに、最後に陥るのが、


子どもを責める


という手段なのだ。

教師は、自らが、『コントロールルック』に陥り、『ブレイミングアディション』に陥っていることに気付くべきだ。


救われるべきは、追いつめられた子どもであり、同様に追いつめられている教師である。


この社会は、子どもと教師、そして親たちを追いつめる社会なのだ。


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(ヤフーニュースより引用)
教師が子どもを追い詰める―― 「指導死」の現場から
9月12日(月)14時1分配信

教室でカエルを飼う

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教室で、カエルを飼っております。
成り行きで。



責任者は、女の子です。
ダンスの大好きな。
ダンスの大会にも出ちゃうような。


ポニーテールをなびかせて、自転車こいでパンを買いに行っちゃうような雰囲気の子です。
で、カエルが大好きだそうです。
ケロけろけろっぴを、人生最初のお気に入りサンダルやお気に入りポーチで揃えたらしい。
そこから、カエルの好きな人生がスタート。



アマガエルがいると、手乗りガエルとして、学校まで連れてきちゃう。

今回もってきたのは、トノサマガエルです。
希少種になりつつあるので、できたらそっとしておいてほしい種なのですが、まあ愛知の田舎ですから。そのへんに、トノサマガエルもたくさんいるから、しばらくの間だけ飼うことにした。(地域によっては、もう希少種なので、できたらそっとしておいてください)


で、男子が休み時間にコオロギをもってくると、それを見るまにパクん、と食べる。

男子は、それが面白いらしく、どんどん持ってくる。

「ちょっと男子!!あんまりコオロギ入れないでくれる?コオロギだらけになってくるから」

男子に注文を付けますが、堂々と渡り合い、うまく扱っている。
すばらしいです。

こっそりとわたしに、

「男子がよく働いてくれて、助かります」

と日記に書いて寄こすほどで、彼女は気まぐれな男子にもきちんと交渉し、言いたいことを言い、男子がさぼっても文句を云わず、しかし一方できちんと定期的なカエルへの関わりを注文し、状況をうまく運んでいる。

こういう自然な関わりは、だれも疲れない。
人間、できないものはできないのだし、いびつな「機嫌取り」にもならないし、本当に気が楽で、体も楽で、精神的にも疲れず、くたびれず、体も疲れずくたびれず、無理がない。
できるだけのことをして、飼い続けるのが無理となればやめる覚悟はとうにある。ただカエルのいる間の楽しみと割り切って子どものように(というか子どもだけど)楽しんでいる様がいい。

宮沢賢治が雨ニモマケズで、

「ホメラレモセズ、クニモサレズ」

と書いているが、まさにそんな調子。
誉められよう、他に影響を与えよう、という何も無い。
だから、みんなに受け入れられる。
密度の濃い、楽しい時間のワイワイとした活動があり、乾いて白けた空気は一切ないのです。



買いかぶりすぎなのかなあ。


・・・と思いつつ、それでもう、半年すぎました。
やっぱ、この子のもっている素の、素質というか素直さというか、『素』でしょうね。
苦労しないで、生きていける力がある。
これが、未来をひらく力だよ。次の時代を輝かせるのは、こういう力を持つ子だよ。


カエル

許す、許さない、という話についてのアイデア

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ときおり、殴り合いの喧嘩があります。
先日もありました。
けっこう、バシッと、勢いよく決まってます。

こういうことがあると、小学校だなあ、と思いますね。
大人の世界では、あまり見かけない。(犯罪だし)

まあ、小学校だと、そういうことがある。
大人、教師が止めに入ります。

なんで殴り合いになったのかについて、当の子ども本人が語る。

「〇〇〇〇〇で、許せない、と思った」

どう思います?


許せない、ということらしいです。
分かりますね?


そうすると、教師は、あーだこーだ、言いますけれども。
結局のところ、

「許せ」

という話をする場合があります。


ところがね。
わたしは、「許せ」とは言いません。
「許す」とか「許さない」とか、そもそも、言葉としておかしい、と考えるからです。

この、「許す、許さない、はあり得ない」というアイデアは、なかなか通じる方がいないので、あまりしゃべったことがないけれど、わたし自身は、ずーっとそうとしか思えない。そのため、わたしは子どもに対して、この「許す」「許さない」という言葉は、ほぼ使ったことがありません。



みなさま、「許す」とか「許さない」という言葉の意味、分かります?

私はいつの頃からか、この言葉にとーっても違和感があって、使うことができない。
というか、よく考えると、意味が分からなくなる。

実際の現場では、殴り合いの喧嘩をして「〇〇〇〇〇で、許せない、と思った」という子に対して、「ああ、そう」と反応するけれども、そこで、許せ、とは話しません。言いません。

ともかく、殴ったら痛い、ということと、それを一方的に他に強制している、ということ、殴るで解決にはならない、あなたが本当に解決したいことは別である、と言う話をしていきます。もっとちがうアプローチでしか、あなたは幸福にはならない、ということですね。


でもそれが、「許す」というアプローチなのではない。
断じて、違います。

子どもに「許す」「許さない」を覚えさせたら、生涯にわたって、その子は何かにつけ「許していく態度」「許さない態度」しかとれない人になってしまいます。これ、不幸の始まりですよね。

そもそも、人間が、なにかを許す、許さない、なんてこと、あるの?

ということです。

謝るとか、許すとか。
許さない、とか。
違和感、ありませんか。

「許していきましょうよ」というから、人間が苦しくなる。
それで解決すると思ってしまうから、なおのことややこしくなる。

眉間(みけん)にしわの寄った努力型人間が、がんばって心ならずも相手を許す社会。
これ、いかに生きにくいか。こんな社会にしたら、人間みんな、目が死んでしまいますよ。
想像できますよね。

許す、じゃあ、ないんです。
気に入らないけど、許してみる、じゃあない。

こういう話すると、「相手を許す、自分を許す」とかいう人がいるけど、もっとワケがわからん。
なにそれ。フハハハ・・・。

学校で、「許す」「許さない」を教える道徳教育、そんなの道徳じゃあないだろう、と思いますね。
「許す」「許さない」をいうから、安定しない。

これからの学校道徳教育は、人間とは何かを知る勉強。
人間が人間を、許すとか許さないとか。そんなのあり得ない、ということを学ぶのが、「道徳」、ということになりそうです。

これを、『同格教育』といいます。


それなら、子どもたちも納得!チャンチャン!!

ゆるそう

修学旅行で東京へ

.
10月の最初に、勤務校で修学旅行へ行ってまいります。
あと、1か月。子どもたちもだんだんと近づいてきたのでちょっとワクワク。

行き先は、東京。
わたしは両国国技館での相撲観戦が希望だったのですが、秋場所にちょっと間に合わない。
今年は、9月11日(日)が初日。千秋楽が9月25日(日)の予定です。
この予定を見た時、なんと悔しかったことか。

先日、土俵入り、という話をしたら、子どもたち、キョトンとしていた。

「ほら、お相撲さんがハッケヨイ、とやる前に、行司さんが言うでしょう?」

いったい、なんだ? という雰囲気。

「ひがァーーシィーーー、たかのぉーーはぁーぁなぁ~、・・・にぃいシーーーー、ってやるでしょう?」

というと、

本当に、教室中の空気が固まったようになって、

「へえ・・・」

まあ、先生が変な声を急に出して、真剣に語り掛けてくるから、まあちょっとふつうの態度をとっておこう、という教師への配慮が見え見え。
ふつうだったら、

ドハハハッハ!!!


と笑うところだけどね。

・・・という感じ。

「知らない?」

というと、

ほとんどみんな、こくり、とうなづく。

そして、勇気を出して、ほんの数人が、

「なんか、なんとなく、知ってるかもしれない」

と真剣な顔で言い出した時は、わたしは本当に目の前が暗くなって血の気の引く思いがした。

さらに追い打ちをかけて、

「ええええ???本当に?本当に知らないの?」

というと、みんな、うん、と。

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「東方ハ、朝弁慶、神奈川県平塚市出身、高砂部屋。西方ハ・・・、とか言って、場内アナウンスとか、聴いたことない?」

「知らない」

「ええ、え、えっ、えーーーーつ、じゃああ、テレビでお相撲さんの試合、見たことない?」

「うん。一度もない」




小学生、知らないって。

相撲って、ほんとうに、国技か?




ということがあって、ぜひとも東京に修学旅行に行くのなら、歌舞伎か落語か、それとも相撲か、なにか見てきましょう、と提案していましたが、通りませんでした。

新宿中村屋のカレーを食べて、相馬愛蔵についてお店の人に話を聴きたい、という提案も、通りませんでした。

話題の築地へ行き、移転の何が問題なのか、お店の人の生(なま)の声を聴いてきたい、という提案も、通りませんでした。

結局、無難なところで、東京ディズニーランド。





わたしは子どもたちに、まあ今年はそうなっているのだけれど、なにか自分たちでもし、旅行を計画できるとしたら、どんなツアーがよいですか?と尋ねたところ、わりとみんな自由にあれこれと考えていた。

一人は、先生、静岡でもいいですか?と言い、自分は富士スピードウェイへ行き、みんなとママチャリで走ってみたいのだ、といった。

なるほど。そいつはいいねえ。

また別の子は、ゴジラの撮影場所を見たいので、調布の撮影所へ行って、映画の舞台裏を見てきたいと。

なるほどーーーー。



子どもたちの希望する修学旅行を、国語の学習と絡めて、パンフレットでつくることにした。

出発の時間から途中で寄る、高速道路のサービスエリア、経過時間、料金、すべて調べて自分なりの計画を立てることになった。やることは、ほとんど旅行代理店の業務である。

「こういうことを調べて、お客さんにどうですか?と商品としておすすめする仕事があるよ。」

「へえ。自分がついていけるなら、いいなあ」


ツアーコンダクターって、楽しそうだよねえ。

修学旅行へ行く前から、話はどんどん広がっていく。

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