30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年05月

ろくむし、かかし、ポコペン・・・

.
わたしは、学校がきらいな子どもでした。

なにせ、学校までが遠い!

3キロ半はあったと思います。
1年生の時に、1時間10分かかっていた。
2年生になったら、1時間ジャストで帰ってこれた。
両親が
「歩くのが速くなった」
と、喜んでくれたくらいです。

先生はやさしい女性の先生で、面白い話をしてくれるので大好きでした。それでも学校というもの自体は好きになれず、はやく休みにならないかとばかり思っていました。
勉強も退屈だし、休み時間が終わるのが切なくて仕方がありませんでした。いっしょに鬼ごっこをする友達と、ずっと校庭で遊んでいたいな、と切に願ったものです。

母親があとで笑い話で教えてくれたところによると、
ある月曜日の朝、ふとんの上でわたしが大きなため息をついて、

「ああ、いったい、学校をはじめたのはどこの誰なんだ・・・」

と、恨めしそうに言っていたそうです。





こういうことを、わたしは教室でたまに話します。

教師の子ども時代の話を、実は子どもたちは、とても聞きたがる。
そんなのどうでもいい、という子はめったにいません。
大人の昔話というのを、子どもは本能的に、興味を持って聴くような気がします。
体験談というのが、自分に一番ダイレクトに響くからでしょう。


4月、最初にわたしが話したのは、先生が子どもの頃、という話。
具体的に、どんな遊びをしたのか、話をしました。

〇Sケン
〇かかし
〇ゴムとび
〇くつとりメロン
〇ぐねぐね
〇ろくむし
〇さんパン
・・・

今ではほとんど絶滅した遊びがあるかと思います。

わたしはルールを言うだけでなく、当時の子どもの様子を生々しく、実況風に話します。
落語が好きでよかった、と思うのはこのときですね。
Sケンで、クラスのRさんが、女の子なのにぎゅっと手をにぎってくれて、助けようとしてくれたこととか・・・。
高学年だと、こういう話で盛り上がります。
男同士の友情、という話もします。けんかして仲直りした直後のSケンで、本気になって助けてくれたOくんの話とか。

クラスのまとまりを伝えるのには、「ろくむし」を半年間ずっと続けたクラスの話をします。
2時間目の休みには、ほぼ全員が結集して、男子も女子も「ろくむし」をする。
苦手な女子も、男子の陰にかくれて、うまく島にたどりつけるようになる。
狙われた子たちをかくまって、かばおうと必死になる男子たち、というあたりを、劇的に語ります。

「くつとりメロン」で、くつを取り返してくれた6年生、という話もします。
登校班のみんなで遊んでいて、6年生がすっごくかっこよかった、ということとか。
くつとりメロンでは、腕のリーチの長い6年生が、どれほど尊敬できたか。

するとネ。

みんな、やりたがるんですよ。


そりゃ、そうです。
当時の子どもたちの様子の中に、

ああ、いいなあ、そんなの

と思えるような要素を、これでもかと詰め込んで話をしているのですから。
つまり、理想の学級、理想の人間関係を、イメージさせていくのが、目的なのです。



「せんせい、そのろくむし、というの、やろうよ!」
「ポコペンやろう!」
「Sケン、やろう!」


平成の今日、こんな声が教室に響くのを聞いていると・・・




る、涙腺が・・・


昭和の時代に戻ったようで、わたしの目がしらが熱くなったのも、お分かりいただけますでしょうか。


※注

ポコペン、かかし、ろくむし、靴とりメロン

昭和40~50年代にかけて、東海地方に分布していた独自の遊びです。
なかでも『靴とりメロン』は、わたしの姉の仲間が発明した遊びで、当時学校中で一世風靡しましたが、おそらくルールの改訂に次ぐ改訂で、今は原型はなくなっているかと思われます。
また、お互いの靴を、遊びの道具にして取り合う、という感覚やセンスは、現代では敬遠される風潮もあるでしょうから、絶滅危惧の遊び、あるいはすでに絶滅した、と認定してもよいでしょう。これらはすべて、レッドブックデータに掲載されてしかるべき遊戯でしょうナ。


この図は、「かかし」という遊びのデザイン。
わたしの地方では、このかかしに、首の部分がありました。
この首に、石を落とすのが、いかにむずかしかったか・・・。

kakasi

モンスターはいるかいないか

モンスターというのは居ない。
想像上の動物なんであって、現実にはいません。

というと、
「いや、いる」
という人もある。
どうやら、その人の世界には、居るよう。

しかし、現実にはいない。
「いるんだ」、という人だけに、見える。
それが、モンスター。

さて、うちのクラスにいる、ちょっと教師を舐めてる感のある子。
前の担任から、

「この子がいちばんのガンです」

・・・なんて、ひどい言われようでした。

この子に対して、わたしは最初から、

〇〇くん、〇〇くん、と親しく呼びました。

で、最初の日に、〇〇くんがいないとき、〇〇くんを褒めました。
クラスの皆の前で、かなりハッキリと、褒めました。

すると、男子の一人が、

「すげえ、〇〇が褒められた」

と驚きのつぶやきをもらしていました。



〇〇くん本人は、そのことを知りません。
直接彼の前でそれを言ってもいいのです。
しかし、おそらく、その段階では、〇〇くんは、かならずそれを否定すると思います。
ほめられたことさえ、否定する、という心の状態があるのです。
ひとは、素直になっていないと、受け付けないのです。
ほめられても、けなされても。
その、どちらも、受け付けない。

ふたが開いていないので、そこに無理やりに言葉を流し込もうとしても、無理です。
だから、わたしは本人の前で褒めない。
本人の前でほめるのは、ふたが開いてからです。


4月。わたしは、〇〇くんを少しずつ、気にして暮らします。
〇〇くんをよく見るし、目を合わせる。にこり、とする。
本当は120%くらい、気にしているのですが、そんな素振りは見せません。
クラスの中で、他の子よりも、ほんの少し、塩ひとつまみ分だけ、ちょっと気にするんです。


当然、その波長は、本人にも届くのですが、あまりにも微細なオーラなので、本人の苦にはならない。


その微細なオーラは、少しずつ、彼の心を開かせることになりますが、けっして彼を特別扱いすることはありません。彼をほめるときは、必ずだれか他の子と抱き合わせで、同時に褒めます。
単独で取り上げるのではなく、他の子と抱き合わせでいっしょに褒めるのなら、本人も否定しないからです。


べたべたしませんが、彼を大切に、大切にしていきます。
彼の意思のままに学級が動くようなことはさせませんが、彼の意思の、尊重できるところはしていきます。
意見があれば、最後まで聞きます。なるほど、と一定の理解を示します。
そこは他の子についても私の態度は同様なのですが、彼の意見はぜひ聞きたいな、という態度で、身を乗り出すようにして彼の意見を聞こうとするのです。

4月、5月のスタート時点で、そのように少し、塩ひとつまみ分だけ寄り添うこと。
教師が、笑顔を見せていくこと。
それだけで、表情がずいぶんやわらいでくる。

前年度の先生が、

「最近、彼の表情、いいですねえ」

と言ってくれます。



周囲のだれも、彼のことを

ガン

と思っていない、という環境が、〇〇くんの表情が良くなる唯一の原因だと思います。



ガンだと見なければ、ガンにならない。
ガンだとみると、ガンになる。

これまた、美しい逆説でありますね。

この逆説のことを、『認知の逆説』と言います。

01-p

犬は、消耗品ではない件

.
ギターは、鳴らすうちに、よい音が出てくるようでありますね。
音楽の先生に聞くと、バイオリンなども同じだそうだ。

うちの音楽の先生はいろいろと教えてくれるが、多くの楽器はそういう性質があるらしく、大事に使うほどに、よい音を出してくれるようになるらしい。

そういえば、バイオリンの名だたる名器とよばれるものは、例外なく古いものですね。

現存する世界最古のヴァイオリンは、1565年頃にアンドレア・アマティが製作したものだと言われております。スプルース(松材)やメイプル(楓材)で作られているヴァイオリンが400年の歳月を経ても数多く存在しているのですから、いやはや。

つまり、楽器は、消耗品ではない、と。



子どもも、消耗品ではない。当たり前ですが。
このことは、先日の、
「すべての子どもがかわいいはずがない」
というメールの一文と、ちょっと関係が出てくるかもしれません。



実は、このブログを見たある人からコメントをもらいました。
その人は、
「子どもはそもそもかわいいけどね。
かわいがられると、
こどもはもっともっとかわいくなる」
と書いてくれていた。


これは、美しい逆説だと思いましたね。

もし、子どもが消耗品であったなら、どうか。
かわいい、と可愛がっていると、ぬいぐるみと同じで古くなり、汚くなってくるはずだ。魅力がなくなり、捨てよう、となるでしょう。

ちがう、というのです。その方は。
「かわいがられると、こどもはもっともっとかわいくなる」
ですって。

どういうことなんでしょうか。

しかしこれは、通常の感覚と、順序が逆ですネ。
ふつうは、対象がかわいいから、「かわいいわねえ」と可愛がろうとするのでしょう。
ぶさいくでいけ好かない奴は、最初から拒否するのがふつうで。
アイドルだって、かわいいからファンになるのですな。

キャンディーズ


最初はそうでなくても、つきあっているうちに、かわいがっているうちに、ホントに可愛くなってくる。という、この、消耗品では絶対にありえない感覚。
どういうことなんでしょうか?


もうひとり、コメントをくださった方がいる。
その方は、
「教師の経験はないけど、どんな犬もかわいいと常々思っています。爆」

だって。


わたしは、幼き頃、小さな犬をほんの数か月だけ、飼ったことがある。
学校の長い通学路の途中で寝そべっていた犬がついてきたので、近所のSくんとともにSくんちのガレージで飼うことにしたのだ。
もらい手がくるまで、という条件付きでありましたが、我々はせっせと手厚く、その犬を世話した。
すべての休日は、その犬を連れて旅に出た。リュックと水筒をもって、餌をもって。楽しかったネ。

その犬は、みすぼらしい犬で、体の模様はまるでとんちんかんな、あまりかしこくない雑種でありました。
飼い始めた当初から、こいつはバカだ、ということがよく分かったし、皮膚病にもかかっていたのですが、それでもわれわれの犬でしたから、われわれはもう、うれしくてネ。最高に可愛がったのですな。
Sくんの弟が、あまりにも可愛がって、いっしょに寝ようと家の中に連れ込んで、ふとんの上にあげたもので、お母さんからだいぶ、叱られたそうです。
次の日の朝、Sくん兄弟が泣きながら犬をホースで洗っていたので、わたしが仰天して駆けつけると、その話をしてくれた。

わたしたちは、見た目がみすぼらしく腹にあばらが出て、体の模様がまるでとんちんかんで、あまり賢くない雑種を、3軒となりの吉村さんところのシェパードとは比べなかったですね。近所にはコリーも、マルチーズも、チワワもいたが、我々はたしかに、

「可愛いからかわいがったのではなかった」

のですな。

「みすぼらしいけど、かわいがっているうちに、可愛くなった」

というお話なのだと思います。


つまり、犬も、消耗品じゃない、ということですね。

どんな子もかわいいは、嘘か

.
反響があったので、びっくり。

新間先生宛にメールが届いて、どんな子もかわいい、というのは楽しいでしょうね、とあった。

それはそうだよナ、とゆっくり読んでいったら、そのあと、

「しかし、それは現状で新間先生が良い子どもに恵まれているからで、地球上のすべての子がかわいいということはあり得ないですよね」

と、まあ正直なコメントをいただいた。




これは話をしていくと、じゃあ、人を殺した奴についてはどうなんだ、そんな奴でもかわいいのか、と追及されてしまうことがあるので、なかなかの話であります。
むずかしいですよねえ・・・



一つは、

子どもがかわいい、と思わないとダメ

ということではない、ということ。



「そう思わないと、教師失格ですか?」

いいえ、そういうことではないと思います。

ただし、子どもがかわいいと思えてくるのは、とても自然な感情のように思いますね。
だから、思おうとして思うことでもないような・・・。
自然に思えてくるのではないか、と。



わたしは、自分の子を殺された母親が、死刑囚の男に会って話をするところをなにか、米国かどこかのドキュメンタリーで見たことがある。

当然、短い面接の間に、

相手を吐き捨てるように罵(ののし)って、唾(つば)をはきかけて、歯をむき出していく親もいるんだけど・・・。

しかし、ドキュメンタリーに出てきたその母親は、同じような立場であるにも関わらず、

泣きながら、

「わたしはあなた(犯人)が息子だったらよかったと思う」

と言って、死刑を取りやめるように運動するのであった。

この意味はとてつもなく、深い。
よかった、というのは、それがラッキー(幸運)だ、という意味ではない。
そうするほかない、息子のようにかわいがりたい、それしかない、というのだ。

愛するほか、ない。

これはいったい、なんなのでしょうか。


どんな子も、かわいい。

これは、なんなのでしょう?



メールをくださった方は、おそらく若い先生なのだと思うけど、真面目に考えているからこそ、くださったと思う。
かわいい、という言葉の感覚と、今の自分のもつ感覚とが、ちがうように思えて来ているんだろう。
どんな子でもかわいい、というテーマが、相当に重く、のっぴきならないものに感じるのであろう。
そして、はやく、その心境にたどりつこうとされているのだと思う。

かわいい、という言葉も感覚も、今の若い人と、年をある程度とった自分とで、ちがったものがあるやもしれぬ。ファッションやセンスでかわいい、という意味でもないし・・・。書くまでもない、当然なことだろうけど。



かわいいとは、

その子の幸福を願う、ということかな。


だとしたら、幸福を願わない子はいない。


みっふぃー

「叱る」をやめたら、クラスは荒れる

.
わたしが、このブログが危険だと思っているのは、こういう人が出るのではないか、と恐れるからだ。

「ははあ、叱らないでもいいんだな。じゃ、叱るのをやめようっと」

すると、見事に、クラスは荒れる。

とくに、このページを見に来てくださる方で、新卒に近いような若い先生がどうもいるようで、そういう先生にはとても申し訳ない。誤解をさせてしまっているかも?




肝心なのは、叱ることがないように、する、という一点にかけることです。

無策でのぞんで、そのまま両手ぶらーり(あしたのジョー)でいれば、カルロスやホセ・メンドーサにボコボコにされるのは目に見えています。

わたしは、

「明日の予定、一週間後までの予定、一か月後くらい先の予定」

を、子どもにかなり丁寧に伝えます。
ただし、一度きり。

これの良い点は、子どもが教師の考えていることを、かなりの程度、理解する、という点です。
すると、子どもも頭が良いので、わたしに叱られるようなことをしません。
来週から組体操の練習が始まるのであれば、長い髪を切って、ショートにしてくる子もいます。
子どもだって、いろいろと考えるのです。その考えるきっかけは、きちんと伝えるのです。

クラスの子どもたちが、学校中の他の先生から叱られるようなことが無いように、ちょっと気を回しておきます。

たとえば、音楽専科の先生が気にするようなことは前もって子どもたちにも、

「そうそう、音楽だけど、そろそろグループごとのアンサンブルだってね。リコーダーの練習する時間がとれたらいいね。いつできるかなあ。(給食前は?)あーなるほど、いいね。給食前でも練習してもいいかもね」

なーんていう具合に、ちょっとヒントを教えてあげます。
これだけで、男子の何人かは救われる。
音楽の先生の前で、「苦手だけど、先週からずっと練習はしていました」と言えます。

音楽の授業から教室に帰ってきて、リコーダーの苦手な男子から

「新間先生、ありがとう」

と言われたこともあります。

「練習しておいて、よかったわ~」



子どもだって、うまくやろう、と思っているのです。

もし、叱らないでもいい教育をしようと思っていたら、子どもたちにウンと協力することです。





あと、いちばん大きいのは、子どもがずっと好きでいることですね。

これは難しい、と思われているようですが、万引きした子でも、かわいくて仕方がない、というのが教師です。

クラス中に迷惑をかけている子さえも、かわいくてならない。

別に修行だとかいうのでもなく、わたしが特別というのでもない。

憎しみさえ、愛の作用なのですから。

それを十分に理解していれば、もはや何も、憎まないでいられるのです。



あとは、案山子、ですね。

これを毎晩聞く。

さだまさしさん! ありがとう!!

なぜ「叱らないでもいいですか」なのか

.
このブログは、2006年の1月に書き始めた。

いつの間にか、10年が経つ。



さて、なぜ、こんなタイトルなのか。

理由は簡単で、「叱るのって、なんか変」だ、という気分が抜けないからだ。

ここが多くの教育者と異なる部分で、

「いや、べつに叱るのが変ってことはないでしょう。ふつうでしょう。当たり前ですよ」

という方がほとんどだろう。

未だかつて、自分と同じ気分の先生には、ほとんど出会ったことがない。



そもそもなんで、「叱るのって、変」という感じを持っているのだろうか。

「人は基本的に、自由だろう」

と、思っているから?





元来自由である人間を、強く圧迫して、行動を強制する、ということがあるとしたら、それはもうどうにも、自分にはできない相談なのである。

だから、廊下を走り抜けていく1年生を見て、

「ぶつかったら危ないよぅ」

と注意するけれど、そこには根本的に、

「廊下を走るのも歩くのも、その人の自由意志を妨げることはしょせん、無理だよな」

と、どうしても抜けない、私自身の感じ方があるのである。




もう一つは、叱るのはダメ、とも思っていないことである。

叱りたくなるのも愛の作用だと思う。

関わろうとする気持ちは、人間の愛だと思う。

だから、叱る、ということの本当の意味は、愛の作用だとも思っている。

しかし、それは、下手なやり方であり、相手に恐怖感を抱かせたり、敗北感を植え付けたり、心を捻じ曲げるような屈辱感を与えたりするような言動がもしあったとすれば、それは愛が狂って発露したので、人間を馬鹿にしたことになると思う。




そもそも、究極な考えを言うと、憎しみも愛だと思っている。

相手が憎い、という気持ちは、どんどん煎じ詰めて、突き詰めて考えていくと、(多くの人はそんなことを考えもしないだろうけど)、究極的にたどり着くのは、相手を愛したいという気持ちが発露できずにねじ曲がったことで、自分の中に湧いた苦しみの念なのだろうと考えている。
『かわいさ余って憎さ100倍』という言葉があるけれど、愛したいけど愛せない場合は、自分の中の矛盾が処理できずに持て余した苦しみを、とうとう最後に相手に向けざるを得ないのであろう。


だから、叱りたくなる気持ちや、相手を圧迫してしまったり、脅したくなる気持ち、言うことを聞かせたくなる気持ちも、痛いほどに分かるのである。

ただし、そこから、次に行きたいのである。

もっと、人間は、うまくやれる、と思うのである。





で、そこからいろいろと考えて、現在のところ、「叱らない先生」をやっているわけ。

わたしが教員生活を実践しながら、いくつかみつけたポイントがある。

1) 先生の願い、先生の気持ち、先生の視線を、できるだけ子どもに伝える。

2) 人間とは、「自分を大切にする」お互いである、というのを前提にする。

3) 「わかりやすさ」を大事にする。

4) 帰りの車の中で、さだまさしの案山子を聞く。


最後の、さだまさし作「案山子」については、補足が必要であろう。

わたしは本当はアナーキー・イン・ザ・U.K./アイ・ワナ・ビー・ミー、などが大好きなパックロック青年だったのだが・・・

Johnny_Rotten


だがしかし、教員であれば毎日のように、

元気でいるか 街には慣れたか
友達出来たか 寂しかないか

という心境になるのである。

お前も都会の雪景色の中で
丁度 あの案山子の様に
寂しい思いしてはいないか
体をこわしてはいないか

これが、なぜ「叱らないでもいいですか」なのか。
その理由ってわけ、ね。

自分も子どもだったからね。
案山子

同じことを書き続けるブログになってる

.
ブログを書き続けて、はや幾年。

毎日のように、同じことを書き続けている。

先日、20代のころからの仲間と会ったので、いろいろと話すうちに、さらに強く思ったのが、

「昔から、自分の内面は、まったく変わらない」

ということ。

進化しているか、というと、まったく進化していない。

「なにひとつ、変わらない」というと、友達は、

「いや、そんなことないでしょう」

と言ってくれたけど、そら、年をとれば外見も変わるし、ふてぶてしさも身につくし、疲れやすくなったり、目にクマができたり、と変わることもある。

だけど、内面はまーーーーーーーーったく、進化なし。



本を読まないし、メディアにも興味が無く、ただひたすら、職場と自宅を往復するだけの毎日で、内面が変わるわけもないか。



これだけ進化をみせないで十何年もすごせちゃうなら、このまま老人になるのではないか、と思う。



で、ぶれない、という話。

「叱らないでも いいですか」

これ、まったく同じことを、最初からずっと思い続けているのが、変わらない。

最初は甘い考えだ、と思っていた。

「5年もすりゃ」

と、自分でも思ってた。


「そのうち、ベテラン先生のように、ガミガミ叱るようになるだろうな」

そして、

「いろんなことも分かるから、きっと今だけなのだろう。叱らないでも・・・なーんて、言って遊んでるのは・・・」


ところが、5年過ぎても、同じことを思い続けていたから驚いて、


「あれ?同じこと考えて、いつの間にか、5年すぎちゃった」


おそらく、この教員人生のなんたるか、子どものなんたるかを、まだまだ分かっていないのだろう。
授業進めるのにも必死になってるし、研究授業もまだまだ無難なところばかりやってるし、ぜんぜんなんだろうな。

そのうち、いろいろなことが分かってくるだろう。
そのうち、「叱らないでも」なんて、言わなくなってるんだろうナ。


ところが、もうすぐで10年近くになるのに、いまだに、まったく何の進化もしない。





ずーーーっと、
「叱らないでもいいですか」
の、まんま。





おいおい。(←自分にツッコミを入れる)

今年、なにか別のことが見えてくるのだろうか?

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