30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年04月

スプラトゥーンが結ぶ縁

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どのクラスにも、愛嬌ある、小さなマスコットのような男の子がいるものだ。

失敗しても、へっちゃら。
周りのみんなが笑っても、いっしょになって自分のことを笑っちゃう。

堂々として、思ったことを言う。
誰かれとなく話しかけ、好かれている。

で、つい、とんちんかんなことを言ってしまう。
字はとんでもなく大きく、忘れ物の常習犯で、消しゴムをしょっちゅう落とす。
一部の世話好きの女子たちから、いつもなんとなく面倒をみてもらい、全校集会のたびにきちんと並んでるかな、と心配されている。

うちのクラスでは、くりくり頭のDくんがそうだ。



またべつに、

どのクラスにも、落ち着いた、風格のある女子がいるものだ。
休み時間は、しずかに読書をしていたり、いち早く次の授業の準備を整えたりしている。
クラスで一番字がきれい。大人のような、しっかりした字を書く。

明日の準備は常々怠りなく、授業中のノートも、キーワードをうまく使って丁寧にそつなくまとめる。

うちのクラスでは、Aさんがそうだ。
彼女の祖母は、裏千家の師範で教室を開いている。



さて、どういう神の計らいなのか、この2人が今、隣同士に座っている。
精神的な年齢差をはじめ、ふだんの言動や態度、何から何まですべてがかけ離れているという2人。見ていて、少し心配になる。


授業中に何かを相談するように指示を出すと、まずDくんが、嬉しそうにほぼ身体を横に向けて、Aさんに話しかける。
Aさんは、坊主頭のDくんが、やたらと調子よく話してくるので、相手をしなければと思いつつも、困惑気味な表情を浮かべている。
私から見ると、小さな小鳥がサイのツノにとまってピーピーとさえずっているようで、Aくん相手に目をパチパチさせて困惑するAさんが気の毒になる。ついにAさんはほとんどしゃべらず、小鳥が最後までさえずったまま、相談タイムは終わるのだ。


わたしは、気の毒に思い、次の席替えのタイミングを少し早めてやろう、と思った。
そして、Aさんは今度はだれか、おとなしくて賢い男の子と隣になればいいのにな、と思っていた。

きっと、ここまでこの文を読んだ方の多くも、そう思うだろう。






ところが、である。

Aさんのお母様と話す機会があり、お母様が笑いをこらえてお話されたところによると・・・


なんと、Aさんは、DくんといっしょにWiiのゲームをしているんだって・・・マジか?




きっかけは、Dくんが、Aさんに、

「ゲーム、なに持ってる?」

と聞いたことらしい。

「Wii-U」

とAさんが答えると、「おれも!」と話が合い、

「スプラトゥーンもってる?」

「うん」


そこでDくんがAさんにフレンド申請をして、インターネット通信が互いにできるようになると、、

「ねえねえ、今日、同じ時間にAちゃんもログインしててね」

と、Dくんが頼むようになったんだそうである。



Aさんも、ふだんはまったくそんなそぶりを見せないのだが、

「今日は、4時45分にDくんと約束してた!」

と急いで帰ってきて、時間を見ながら、Wiiのスイッチを入れているのだそうだ。

お母様が、もうおかしくてならない、というようにして、私に教えてくれた。




へえ・・・

あの、クラスで一番おとなしいAさんが、ねエ・・・。
Dくんとそんなふうに付き合ってたなんて・・・。



衝撃であるけど、なんだか微笑ましい。



ま、DくんやAさんのような子を、素直、と呼ぶのだろうネ。


ウスバシロ


ただの会話

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新年度でありますが、「叱らないでもいいですか」が、まったくぶれてこない。
これ、自分でも不思議。

自分が担当するクラスが、たまたまいい子たちばかりなのか?
と、思う時がある。

子どもはどの子も、担任の先生を好きでいたい、と思っているのではないだろうか。


考えてみれば、人間はみな、人を好きでいたい、そうありたい、と願っている存在なのではないだろうか。




家庭訪問で、おうちの人に会う。

話をする。

いい人ばかりだな、と思う。



毎日のように、子どもに声をかけていると、だんだんと机の周りに集まってくる。

興味があるのだろう。

子どもは、面白い、とつくづく、思う。

そして、子どもたちは、「先生は面白いなあ」と思っているらしい。

要するに、人というのは、面白い存在である。



わたしは、給食を食べるときの子どもの顔が好きだ。
いちばん、自分の顔をしているように思う。
かっこうをつけている子は、いない。
みんな、自分らしくふるまっていて、自然でいる。



子どもが、わたしの顔を、じーっと見ているのは、何を思って見ているのだろう。

「先生の箸箱、青い」

「うん。青い」

「それ、カーマに売ってたの」

「うーん、ピアゴだったかなあ」

「ふうん」


それだけの会話をしながら、なんとなく休み時間を過ごす子がいる。

授業中にはさほど元気よく発言をしない子のほうが、むしろそうやって話しかけてくる気がする。

わたしとその子の距離は、これで少し、縮まる。




子どもがなにをするでもない、ごくふつうの、ただの休み時間が、

教師としての一番大事な仕事の時間だと思うようになった。

ハイブリッドのたんぽぽ

【映画】『みんなの学校』はスペシャルか?

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映画を観終わった後、5人グループで話をした。

話題の中心は、これ。
「この話は、スペシャル(特別)な話なのか、普遍的な話なのか」

見終わって、自分で最も意外だったのは、

「おお、特別じゃないじゃん!」

という喜びにも似た、スッと納得するような気持ちでした。




木村校長が、真摯に対応している。
真摯に、呼びかけていく。
子どもたちにも、職員にも、地域の方々にも。

その真摯な向き合い方は、本当に頭の下がる、真摯な、命をくだくような、真正面からの向き合い方だ。

そして、この学校の職員たちが、すべて特別なスキルを持った、特別な能力をもった、スペシャルな方たちばかりかというと、そうではない。ごく普通の、どこにもいる、どこにもいる、真剣な先生たちだった。

わたしは、この感じ方が、自分では意外だったけれど、終わった後の爽快感は本当に得難いものだった。

「特別人間じゃなくても、やれる!!」




いわば、木村校長は、教祖ではなかった、という感じ方か・・・。

わたしのような特別人間でないと、これは無理よ。
こんなスペシャルなことは、無理ですよ。
これは、関西の、特別な地域のことですよ。
これは、特別に選抜された、スキルの高い職員たちの決死の物語ですよ。
こんなことは、こんな学校は、二度と存在しないのですよ。



・・・という感じがするのかな、という思いは、完全に裏切られた。(いい意味で)




ただ・・・。
この学校はスペシャルなのだ、という感想を述べられた方が、同じグループにいらした。
わたしは、これも分かる気がした・・・。

どういうことか。

木村先生は、他のせいにしない。
そこが徹底している。

子どものせいに、しない。
職員のせいに、しない。
親のせいに、しない。
地域の方のせいに、しない。

つまり、誰も、責めない。

ここが、木村先生の、たった一つ、スペシャルの(ように見える、思える)点だ。

木村先生は、事件が起きたら、それが悪い、とは思っていない。
悪いことを消去する、という発想とは逆だ。
要らないものを排除しようとする、その発想とは逆だ。

なにが起きても、それが目の前の子どもの姿であり、
それを受け入れるのが当たり前、となっている。

子どもが学校から抜け出そうとする。
木村校長は、それが、悪いこととは思っていない。
そんなことも、当然のように、子どもはするだろう、それが子どもである、と思っている(ようだ)。
だから、担任は、そのことで責められることがない。
また、そのことで、担任を責める親もいない。
学校の対応を責める、地域の方もいない・・・。

つまり、この学校は、関係者を、だれも責めない。
こんなこと、あるのか?



「いや、これは、スペシャルですよ。木村泰子先生だから、できたこと。ふつうは無理です」

そう思うかどうか。




スペシャルかどうか。
「責めない」は、だれもできないことか。
それとも。


「責めない」は、一番ふつうの、もっとも人間的な感性である。
だれもが楽な、もっとも普遍的な姿である。
ふだん、私たちは、「人は相手を責めるのが当たり前」と、思い込まされていないか・・・。



映画「みんなの学校」。

有名な映画だ。
見た人の間では、すでに語り尽くされているのかもしれない。
みんな、この学校の映画を見て、どう感じたのだろう。



「責めない」は、スペシャルなことなのかどうか。
だれもが、ふつうにとれる、立てるスタンスなのかどうか。
あるいは、特別人間が、特別に学習したうえで、ようやく実現する態度なのか?

壊れやすい、もろい、すぐに消えさえってしまうような。
がんばって、がんばって、頑張らないと、実現できないような。
そんな心の状態なのだろうか?「責めない」とは?


いや、木村先生は、ちがう、と言うだろう。
私は勝手に、そう思う。

「あんた、責めるって、なんなのよ。そんなエライしんどくなるようなこと、ほんまにしようと思てんのか?あほちゃうか。責めるって、どんだけアホなことか、骨の髄まで沁みてるから、そんなことようせえへんわ。責めて叱って、なにが得やねん。責めるんちゃう。伝えるんや。これがいちばん、人間が幸せになる、まっとうな道なんやで。責めて何とかしようなんてのは、伝えるのをさぼった、いちばんの手抜きや」

これ、↑ 勝手にわたしが、木村先生なら言うんじゃないか、と思ったセリフ。



人間の心がいちばん楽なのが、「責めない」。
責めて脅して動かそうというのがいちばんの手抜きで、いちばん苦しい。
責めないで、とことん関わるのが、いちばんの手ごたえで、いちばん楽(らく)。


相手を責めたくなる自分。
責めたくて、責めたくて、苦しくなっている自分。
責めようとすると、自分がいちばん苦しくなる不思議。
人間の精神構造は、どうしてこのようにできているのだろう?



いろんなことを思う、映画だった。

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