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「ウェル洋光台」というシェアハウスがあって、インターネットで記事が読める。そこに、
「人間は本来、贈ることが大好き」という文があって、とても共感を覚えた。
オーナー代行の戸谷浩隆さんは、こう語る。
(なぜ現代社会では贈り合う社会が実現していないのかについて)
『人間って何だろう、ということを、知ろうとしないからだと思います。人は本来、争い合わず、縛り合わず、シンプルに愛しあっていたいだけだったんだと思うんです。人と共に暮らして、人を愛する、人本来のつながり方、そこが欠けてるんですよね。
学校で、社会を構成するためのいろんな概念や知恵を詰め込まれる。その知恵を、そのまま暮らしに持ち込んでやろうとしてるんじゃないかな。みんなで決めたことをみんなで守りましょうとか。でも、それは人本来の姿ではないんです。人の数だけ 個性があるから、暮らしはもっと自由でいいはず。』
(人間の本来の姿について)
『人類は7〜8万年もの間、狩猟採取で生きていたわけです。彼らはお金ってものがないから貯めることをしない。ちょっと仕事をして、あとは寝たり、歌ったり。贈り合うことが大好きで、争いを好まず、心から安心して暮らしていた。そうした贈り合うこと、安心して暮らすことが人間の本来の姿だと』
さて、こんなシェアハウスがあるならば、それこそ『道徳』の授業に役立つと思われる。戸谷さんの記事の中に、掃除に関する場面があって、そこには「なぜかきれいになってる」というような箇所がある。ここはまさに、道徳の授業として扱い、子どもたちに討論させるべきではないだろうか。
『例えば掃除をするという行為を贈りたい人が贈ればいい 。ルールや役割はないんです。でも、きれいになっている。』
さて、今おそろしいことを考えてみた。
このウェル洋光台と、真逆のことをやっていると、人間らしさをどんどんと失って、ギスギスとした、『ぜったいに安心して住めない』社会ができあがるのではないだろうか。
たとえば、学校も、そうなっていくのでは。。。
真逆の実験をやってみると、分かるかも・・・。
この繰り返しで、どんな子ども集団ができあがるか。
実際に実験などするのは人権的に問題があるからできないけれど、想像しただけで恐ろしい・・・。
というわけで、「ウェル洋光台」のシンプルな事実にならって、上記とは真逆の、人本来のつながり方をする、ひとのケア、ひと同士のケアにこそ力点を置く、このことで学級経営をしていくとどうなるか。
引き続き、検証していきたい。
「ウェル洋光台」というシェアハウスがあって、インターネットで記事が読める。そこに、
「人間は本来、贈ることが大好き」という文があって、とても共感を覚えた。
オーナー代行の戸谷浩隆さんは、こう語る。
(なぜ現代社会では贈り合う社会が実現していないのかについて)
『人間って何だろう、ということを、知ろうとしないからだと思います。人は本来、争い合わず、縛り合わず、シンプルに愛しあっていたいだけだったんだと思うんです。人と共に暮らして、人を愛する、人本来のつながり方、そこが欠けてるんですよね。
学校で、社会を構成するためのいろんな概念や知恵を詰め込まれる。その知恵を、そのまま暮らしに持ち込んでやろうとしてるんじゃないかな。みんなで決めたことをみんなで守りましょうとか。でも、それは人本来の姿ではないんです。人の数だけ 個性があるから、暮らしはもっと自由でいいはず。』
---新間の感想---
↑ここでは、学校が名指しで批判されている。
学校での智恵が、本来の人間向きになっていない、ということだろうか。
学校は、いったいなにを目指しているのだろう。
そこを根源的に問われている。
(人間の本来の姿について)
『人類は7〜8万年もの間、狩猟採取で生きていたわけです。彼らはお金ってものがないから貯めることをしない。ちょっと仕事をして、あとは寝たり、歌ったり。贈り合うことが大好きで、争いを好まず、心から安心して暮らしていた。そうした贈り合うこと、安心して暮らすことが人間の本来の姿だと』
---新間の感想---
↑安心して暮らすことが本来の姿、とあ る。これはそのまま、目指す理想の学級の姿に完全に合致する。
現代教育の最大の問題とされる、いじめの問題、差別感情、学級崩壊、親子間や家庭の問題に至るまで、すべてこの「安心して暮らせるかどうか」という観点が見失われているのが原因だ。
さて、こんなシェアハウスがあるならば、それこそ『道徳』の授業に役立つと思われる。戸谷さんの記事の中に、掃除に関する場面があって、そこには「なぜかきれいになってる」というような箇所がある。ここはまさに、道徳の授業として扱い、子どもたちに討論させるべきではないだろうか。
『例えば掃除をするという行為を贈りたい人が贈ればいい 。ルールや役割はないんです。でも、きれいになっている。』
---新間の感想---
↑これは学級と同じだ。学校には掃除の時間があるが、掃除の時間以外にも、子どもたちが自発的に「教室をきれいに」するために動くことがある。別にとりたてて頼まれたわけでもなく、指導されたからというのでもなく、落ちていたものを拾う、だれのか確認して渡してあげる、ずれていたファイル立てを手をのばして少し動かして整頓する、授業の開始時間に自分の机の向きを黒板に向けて直すなど、子どもたちは自発的に整えようとする。
校内をすみずみまできれいにするタイミングを設けるために、学校全体でのそうじ時間を確保している、ということはあるけれど、現実には子どもたちが自発的に行っている ことで美しさが保たれている。
さて、今おそろしいことを考えてみた。
このウェル洋光台と、真逆のことをやっていると、人間らしさをどんどんと失って、ギスギスとした、『ぜったいに安心して住めない』社会ができあがるのではないだろうか。
たとえば、学校も、そうなっていくのでは。。。
真逆の実験をやってみると、分かるかも・・・。
○掃除はだれもやりたくない、という前提で、掃除の時間枠に強圧的に行わせること。ルールを決めて人を役割に当てはめること。行動しない場合は罰を与えること。
○給食は各自が個人的に食べること。みんなで分け合って食べる雰囲気をなくし、配膳当番も「人間は本来やりたくない」という前提で進め ること。協力し合って配膳を全員で配り合う、ということを禁じ、自分の分を確保することだけを考えさせること。配膳当番は、成績の悪い者に罰として強制的に行わせること。
○授業は絶対権力者の教師に気に入られることを子どもたちの精神活動の主として進めること。権力におもねることを刷り込み、「先生に気に入られると得をする」ことを前提にして生きるようにさせること。
○当番活動をフォローし合うことを禁じ、もし仮に体調その他、自己都合で代わったもらったりした場合はペナルティとして「仕事」をさせること。
○学校生活にポイント制を導入し、ポイントをとったもののみに、特典が与えられる仕組みをつくること。ポイントの多寡が、人間生活の行動に影響するよ うに「飼い慣らす」こと。ポイントの取得が大きな目的になるように動機づけること。
この繰り返しで、どんな子ども集団ができあがるか。
実際に実験などするのは人権的に問題があるからできないけれど、想像しただけで恐ろしい・・・。
というわけで、「ウェル洋光台」のシンプルな事実にならって、上記とは真逆の、人本来のつながり方をする、ひとのケア、ひと同士のケアにこそ力点を置く、このことで学級経営をしていくとどうなるか。
引き続き、検証していきたい。