30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年08月

発達障害 ~薬の服用に関する質問~

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Fさん、いつもお読みくださりありがとうございます。
そして、記事へのリクエストをいただきましたね。

薬を飲むのが良い、とする学校側の「お願い」に対して、父母の方がどのようにこれを考えていけばいいのか、みなさんお悩みなのでしょうね。きっと、たくさんの方が、このことに直面して、どうとらえていけばいいか、考えておられるのだと思います。

学校の現状、率直な意見を、というリクエストなので、わたしの少ない体験を通して、という限定された情報ではありますが、感想をちょっと書いてみます。

まず、学校の教員にも、「薬(くすり)」についての見解は、かなり意見の分かれるところだ、ということがあります。
先生たちも、一人ひとり、実は意見がちがいますよね。
大きいのは、特別支援コーディネーターの方の考え、そして校長先生のご判断でしょうね。担任の先生の力は弱いです。

ずいぶん前で、今はもう処方はされないと思いますけど、初期の頃、教員の世界に「ADHD」とか「発達障害」という言葉が知識として入ってきたちょうど10年ほど前でしょうか。「リタリン」という薬が出ていました。これ、もう、保険適応されていません。理由は副作用等です。
当時から、先生によって、「リタリン、大丈夫?」という方は多かったですよ。わたしはまったく薬について知らなかったので、先輩の先生がリタリンについて話しているのをきいて、これは難しい問題だな、と感じたことを覚えています。

わたしの勤務校で、リタリンを服用していた子もいます。副作用をみながらの慎重な投与だったと思いますが、親御さんもとても苦しまれたことだろうと思います。でも、学校側の説明や、家庭での「子育てのしやすさ」などを考慮されて、親御さん自身が決断されたのだろうと思います。親御さんがサインしなければ、服用は許可されません。

これは、親御さんが、家庭でも、その子の「育児」にへとへとに疲れていた、という現状があるでしょうね。その子の場合は、道路に飛び出していく、衝動的にガラスにぶつかる、わが子を見ていて、いつか大怪我するんじゃないか、それだけのことであっても、服用したらいいのかもしれない、という気持ちもあっただろうと思います。

ただ、これは、学校側が命令するものではないですよね。お子さんは、誰の子でしょうか。親御さんが愛する子ですよね。学校がたとえよかれと思ったからといって、親に学校が「命令」することは許されません。「命令」とまで言わずとも、圧力をかけている、と親御さんに思われた時点で、学校と親御さんの間の信頼関係は崩れています。けっして崩してはいけないのが、この両者の関係なのですから・・・。でなければ、子どもが一番被害を受けます。
わたしは、服用に関して、圧迫的に、学校がご両親に対して指導したり、指示をしたり、ということはあってはならないと考えます。


ただし、学校の先生がへとへとになっている場合があります。(これが現状では多いのかもしれません)
学校が、「頼むから服用を」と思っている場合だってあるのかも・・・。
でも、それは、親御さんが、たとえば、ですが
「学校では、支援級ではなくて通常級でお願いします。きちんと椅子に座って45分間まじめに算数を解かせてください、ぜったいにけがをさせないでください、集会にも静かに参加させてください」というような「注文」をした場合に、先生の方がテンパってしまって、そんなミラクルな指導を要求されるくらいなら、それなら「服用」させてくださいよ、ということなのではないかと思います。

これは語弊があるかもしれません。
なぜなら、お子さんによって、本当に表れてくるものがちがうので、ADHDはこう対処すればいい、というようなものではないからです。

構造化し、表示し、見える化し、関わりを工夫し、身体感覚を鍛え、気持ちを汲み、方法を規定し、変化させず、同じことを同じリズムで繰り返してあげて、ほめてあげて、にっこり笑ってあげて・・・

↑このくらいのことは、学校は取り組むだろうと思います。
そのうえで、厳しい成果を要求されたら、(たとえば組体操でまわりの子たちと同じように、怪我のないように演技指導してくれ、とか)、先生たちも、「服用はいかがですか」と持ち出してくると思います。
「服用なし、という条件で、学校側ではどんなことができそうですか」

親御さんが、↑こうやって言って下さることを、先生たちは待っているかもしれません。

しかし、先生にもいろいろな考えの人がいるので、せっかく親御さんがそう言っても「いや、服用しなければだめですよ」とおっしゃるかもしれません。そこまでして先生がこだわるようであれば、「なぜ服用しなければならないのか」を尋ねてみてください。親御さんの知らない苦労が、先生の方にはあるかもしれません。
「服用しないとこの子はどんな状態になっているのでしょう。もし他の子に迷惑をかけるようであれば、静かに一人で過ごせる空間を用意していただけませんか」
とおっしゃってみてはいかがでしょうね。
先生の方で勝手に、なにかとても窮屈な指導を親御さんに要求されている、と勘違いしているかもしれませんし、あるいは学校に、何か、とても強い刺激になるものがあって、お子さんにはとても過ごしにくい状況があるかもしれません。
大事なのは、先生も、親御さんも、どちらも気づいていない「何か」があるかもしれない、ということです。環境の工夫や指示の工夫、課題・内容の工夫などで、大きく改善できるものが、まだあるかもしれない。
その期待と希望をもって、両者がかならず心の手をむすびあって、協力していくことしかありません。
この両者の心が、すれ違っていては、うまくいかないのは明白なのです。

すみません、いろいろと思いつくことだけで・・・。
また、ご意見を、お寄せくださいね。

線香花火の花

子育てのコツの中のコツ

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これは子育てのコツの中のコツ。

人間社会では、どうしても年下がひいきされます。それが人情です。
大人が「かわいい」と思って関心を持ち、つきあってやり、話を聞いてやるとき、優先されがちなのは年下の子の方です。

まあ、それが当然で、人はもっとも小さなもの、かよわいものについて、親愛の情が湧くように、元来生まれついているのでありましょう。べつに悪いことではありません。
しかし、兄や姉はつらいでしょうね。
目の前で、自分以外に大事にされているものがある。どんな心持ちでしょうか。

子育ての大事な心構えは、兄や姉として生まれついた子たちの気持ちを想像してやることです。兄や姉が、弟や妹に対して、どのような感情を持っているのかを想像すれば、彼らの行動の裏にあるものが理解しやすいと思います。

子どもは、嫉妬の感情をあまり整理できていません。なぜかわからないが、むしょうに弟や妹にキツくなってしまうので、感情が混線している子もいます。
実は親の方は、年下をひいきをしているとは思っていません。だって、兄や姉については、十分手を尽くしてきたのですから!親からしたら、「お兄ちゃんはもう十分世話をした」と思いがちなのです。(多くの人は、これが落とし穴なんでしょう。)

兄や姉の立場の子は、どうしても一番幼い妹や弟の成長だけが家族の話題になりがちだと感じているのです。親としては、バランスをとっているつもりでも、実際の視線はどちらかというと、常に幼い子の心配に向けられがちです。玄関で靴を履く姿を見守るのも、外で何かをしている姿でも、親がじっと見守るのは、幼い子の方なのです。

兄や姉は、ちゃんと理解していますよ。親が弟や妹を心配する視線、その意味についても・・・。幼い子の方が心配だということも頭では分かるのです。親の行動が正しい、ということも知っています。

それでも、気持ちの中で、嫉妬の感情が静かに湧いてくるのです。
目の前で、親の「弟への関心の強さ」を見せられて、声にならない声で、「自分のことも、もっとみてほしい」と願うのは、自然の成り行きなのでありましょう。
親はどうするべきでしょうか。

夕ご飯のリクエストがあれば、年下でなく兄や姉の言い分こそ、たっぷりと聞き、十分に強く反応してあげることです。関心の大きさを態度や声に表して、年長のあなたこそたよりになるのよ、相談したいのよ、年長のあなただからこそ、夕ご飯のリクエストを聞いてあげたいと思うことです。

親は、万事、兄や姉への関心を強く持ち続けるのです。
それを感じとって、弟や妹が対抗しようとあれこれとやらかしますが譲りません。

「お兄ちゃんばっかり、ずるい」
と弟がダダをこねた時がチャンスです。
兄を大事にする理由を、しっかり諭して話すのです。

「あなたは気づいていないかもしれないけど、弟であるあなたのことを、お兄ちゃんはうんと心配してくれている。困ったときは助けようとしてくれているよ。お母さんは、それがちゃんとわかっている。だからうちでは、お兄ちゃんを大事にするんだよ」

最後に、
「お兄ちゃんに譲れたら、お母さんがあとで絵本読んであげるからね」
これで、おしまい。

どうです?やりすぎだと思いますか?
たぶん、このくらいやらないと、バランスがとれません。
このくらい、意識してやっていて、ちょうどトントン、といったところでしょうか・・・。

また、もし兄や姉が、弟や妹にチャンスを譲ったり、見守ってくれたりしている場面を見つけたら、そのことを弟や妹にも、教えます。あなたは兄や姉から大事にされているのよ、ということです。そしてそのあと、そんな兄や姉がとても好きだし、大事だよ、ということを親の口から、ちゃんと本人に声に出して伝えるのです。

そして・・・。

一番に親自身が、自身の嫉妬感情を整理することです。
実は、↑ これに尽きる。


自身の人間理解を深めると子育ては楽になるのですし、生きること自体が楽になります。(ただし、嫉妬は悪いことではないですよ、くれぐれも反省しておしまい、というだけにはしないようにしましょう!)



(教育機関誌連載コラムより抜粋)
黒菱ペアリフト遠景

愛知県人なのでまだ夏休み

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驚くべし、先日たまたま長野の知人と電話で話したら、
その人の言うのには、

「いやー、長野県の夏休みは短いのよ。もう2学期、始まったわよ」

という。

うっそー!


愛知県人で本当にラッキーだ。
まだ、31日まで夏休みだもの。
2学期は、9月からだもの。

多少、研究授業の検討会議で職員は学校に缶詰になることもあるけど、それにしたって、2学期は9月から。
長野の先生は大変だねえ。

他にも調べてみたら、北海道や岩手県なども短いらしい。


さて、夏休みの自由研究ですが、おそらく苦しんでいる子がたくさんいるだろう。

わたしがかつて担任した子で、こんな自由研究を持ってきた子がいた。
「サイコロの目は一番何がでやすいか」

この子はなんと、その夏休み中、ずっとサイコロを振っており、
家族で行った先のキャンプでも、テントの中でサイコロを振っては
その目の記録をノートに記していたそうだ。
学校のプールに来ると、更衣室でサイコロを振り、
ラジオ体操でも、待ち時間に滑り台の頂上でサイコロを振っていて、
ついに1万回以上、サイコロを振って記録を取った。

そしてその研究の結果、サイコロにもよるが、

なんと、

300回までは、あきらかに

「5」

が出やすい。

しかし、300回を超えるとその差が縮まり、600回でほぼ同じになった、とのこと。



その自由研究は賞はもらえませんでしたが、多くの児童がそのことを自分でも試してみようと思ったようで、しばらく話題になっていましたね。

他にも、

「ラーメンはどのくらいのびるのか」

とか、

「妹(1歳)と私の会話記録」

とか、

面白いことを考える子って、いますねー。



(写真は、モウセンゴケ)

もうせんごけ3

ハングリー精神 ~24時間テレビ~

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わたしは、24時間テレビを見ていて、いたたまれない気持ちになったことが何度もある。

タレントが、必死になって走っている。
それを見て、テレビの中のナレーションは、

「痛々しいですね」
「でも必死になって頑張っていますよ、〇〇さん」
「これからモチベーションも上がってきます」
「願いのこもった襷(たすき)をかけて、走る姿に声援が!」


たぶんこの昭和の必死なハングリー精神というもの、なんだかあまり受けないんじゃないかな。高度経済成長をまだまだ信じていた昭和40,50年代ならまだしも。
日本人の精神構造は、かなり変わってきている。

少し前になるけど、草食系という言葉で、

「若者たちが変わってきた」

と表現する向きがあった。
しかし、それよりもさらに前から、だいぶ変わってきている。
おそらく、20年以上前、若者が新人類と呼ばれたころから、すでに、
バブルがはじける少し前から、若者たちはすでに大人よりも先に疲れてきていて、

「あんなに激しく、何かを求めようとする精神構造って、疲れるよネ・・・」

となってきていた気がする。
あくまでも、個人的な感想だけど。
○みんな高級品が欲しい
○みんなリッチな暮らしがしたい
○忙しく働き、年に一度海外リゾートでのんびり寝そべるのが夢
○そのために、歯を食いしばって努力するのがよい

マスコミは↑こう言ってたけど・・・

たぶん、そんなことじゃない(=ではない)ところで、一部の人は動き始めていたのではないだろうか。
人々の行動の底にあるもの、つまり<動機>というものが、昭和と平成、とくに、この震災以後は、ずいぶん変わってきてるんじゃないの?


・・・と、思っていました。
だから、時代がハングリーを求めていないのに、まだ続けている古典的イベント、というふうに、24時間テレビのマラソンをとらえていました。




ところが!

今年の、DAIGOさんは、ちがったっ!!!




DAIGOさんは得難い芸人さんで、テレビの中でもごく自然にふるまうように思う。
決して、無理してなさそう。そこが好き。

それで、あんまり、

ハングリーな感じが、しない!

そこが、ちがった。

なぜなんだろう。
DAIGOさんは、時おり、沿道で声援を送る人に対して、ウィッシュ!とかやってたけど、

なんだか、なにかのついでに走っているようで・・・
べつに、マラソンに興味は無いけど、たまたま走っています、というような・・・

「興味が無い顔してるけど、あんたきっちり走ってるじゃないの!?」

とつっこみたくなるくらいの。



たしかに苦しそうで、眉間にしわは寄っていたけど、

急に

「あ、おれ、もう歩くわ・・・、っと、やめよかな」

と走るのをやめて、道ばたのカレー屋にふと入っていきそうで。


こんなにも、

ぼく、マラソンとは無関係です。

という感じのするマラソン・ランナーは見たことがないかもネ。

ま、育ちの良さ、ですかネ。(←自己肯定感のオーラがある、ということネ。総理の孫とかという意味ではない)




↓山の中腹でみつけた、偶蹄類の足跡。

あしあと

リア充について

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『リア充』、という言葉があって、わたしはずいぶん面白い感じを受ける。
カタカナと漢字がくっついているのもユニークだし、「リ・ア・ジュー」という、さいごの音感の、

ジューッ・・・

という音も、とても面白い。


夏休みで少々ボケてきたのか分からないが、ちょっとあまりにも自分が無気力になってきた感があって、最近、とても心地がよい。

頭の中を空っぽにして、ふんわ~りと漂うように歩いていると、それを懸念した嫁様がしきりと

「ダラダラしてないで、ほら、洗濯ものでも畳んでッ!」

と、私を働かせようとする。

そして、

「そんなふぬけたような、夢でも見ているような顔でいるの、やめてよネ」

と注意するではないか。


わたしはそれを聞いて、ニタニタし、

「馬鹿もの。吾輩は心身ともに充実するあまり、こうしてテレビも見ないし本も読まずに、ボーッとしておるのだ」

嫁はあきれかえり、

「まだ、座って高校野球でも見てくれた方がいいわ・・・。何にもしてないのを見ると、なんだかイラつく」

とぼやいて、さらに勢いよく、台所でジャーッと何か洗っている。



このやりとりを振り返りつつ、わたしは考える。

元来人間は、『リア充』になればなるほど、ちまたの情報が不要になるのではないか?


わたしは、あまり高校野球に興味がわかない。
オリンピックにすら、興味がない。
たぶん、2020年の東京オリンピックも、テレビのニュースも見ないし、あまり興味がわかないまま、いつも通り、いつの間にか終わっているだろう。そして、妻に言うと思う。

「あれ?オリンピックって、終わったんだっけ?」



他の人が何をしているか、何に精魂を傾けているか、それが気にならない。

そして、他の人のやり方や、方法や、目標や夢、というものについて、ぜったいに

ケチをつけないでおこう、と思う。

相手だって、尊重してほしいと思っているはず。

自分だってそうだからな。




だから、逆に、ケチをつけられても気にならない。無視できちゃう。

「困る!」

と言われても、全く、平気。





ケチをつけたりつけられたり、なんて、

もう卒業!

人間だもの。





 ↓ コーラをのめば、君もリア充になれる!!(ただし山の上は200円だった。ホント・・・)

ジューッ・・・

山の上は200円コーラ

父「教科書に墨塗った」

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終戦時、小6だった父は、実際に「墨塗り」をしたらしい。
「教科書に墨を塗った」という昔話はどこかで聞いたことはあったが、リアルに目の前の父からそんな話を聞けるとは思わなかった。

いやあ、本当だったんだ・・・

墨を塗るのは、高学年の教科書の方が多かったらしい。
父より2歳年下で、妹にあたる叔母が言うには、

「兄さん(私の父)の教科書がいちばん黒かった」

そうであります。

さて、ふりかえってみて現代。
一応、現時点では、今の教科書には「墨を塗らなくてもよい」ということになっている。
この際、ホッとしておこう。



小学校6年生では、公民を学ぶ。
憲法は当然として、内閣の仕組みとか三権分立とか。
国民主権、と言う部分に墨を塗らなくてもよい、ということになっている現状に、やはりホッとしておきたい。

ピンク玉花


ぼうっと見ている、ということ

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できるだけ、ぼうっとしてみる。

これは努力してやろうとすることではない。

ふと、力の抜けたような、

さっきまで頭の中を占めていた心配ごとの

何割かが急に

空のかなたにすうっと

吸い込まれてしまったときのこと。



ぼうっとして、なにか、考えているような、いないような、

目の前のことに、気持ちが吸い込まれて行くときの心地よい感じが

不思議なことに、いつまでも印象深く残っていて・・・。



そのときに、目の前にいたもの、映るもの、話しかけてくるもの。

自然界の、何かが、

黙っているだけのわたしに向かって、

働きかけてくるような気がする。



ふと。

視線を感じて。

その先に。

蜘蛛ですが何か?


「あ、気が付いた?きゃはは・・・」


蜘蛛と、目があう瞬間の出来ごと。

空から、やわらかい光が、降りてくる日の朝。

小5の夏は・・・

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たまたま名古屋まで所用で出かけた。

名古屋駅前はいつも通りで、直射日光と湿度がアスファルトを異様なまでに蒸すため陽炎がたち、10m先を歩く人の後ろ姿が、揺らめいて見える。

多治見市ではついに40度を超えたらしく、名古屋でもできるだけ日陰を選んで歩かないと、命がアブナイ、という感じ。


さて、そんな名古屋からJRで移動するさなかに、予備校の広告が見えたが、ある予備校は小学生のための夏季講習をしているようで、

「小6の夏は、天王山!」

という文字が見えた。

中学受験をするか、しないか。
あるいは、クラブや習い事をしている子は、ここでやめるか、続けるか。
いろんな選択がこの夏にあるわけで、たしかにこの予備校がいう、「天下分け目」が小6の夏だというのは、当たっているかもしれない。


そんなことを思いながら見ると、夏季講習の文字が窓にべったりと貼られたその予備校のビルが、なんだか巨大な山のように見えてくる。おそらく、あのビルの中では、クーラーの効いた部屋で鉢巻しめて算数の難題に取り組んでいる6年生がいるのだろう。


JRでいくつかの駅を通り過ぎ、乗り換えのために、とある駅のホームに降りた。
ベンチで座ろうとしたが混んでいる。
仕方がないので、所在無げにぶらぶら歩いた。
ふと見ると、面白そうなチラシが目についた。
コンコースの一部にJRの旅行代理店がチラシを置いているのだ。

そこには、夏休みの家族旅行を推奨する文面があり、

「小5の夏は、返ってこない!」

とある。

そして、いかにもという子が海岸で真っ黒に日焼けして、砂浜をバックに白い歯をみせて叫んでいる。


なぜ、小5なのか?語呂がいいから?

いや、それより、

こりゃあ、おそらく、予備校と裏で、話を合わせているんじゃないですか?

小5⇒思い切り海で遊べ!
小6⇒はちまき絞めて算数を解け!


どうも世間はこう呼びかけているようで・・・


大きなお世話です!!



うちは、昆虫合宿なんで!!

劣等感とはなにか

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つい最近、同僚の先生と、いわゆる「いじめ」のことを話していて、

「表面には出ていなくても、いじめの種は常に存在する、と思って学級をみていく方がいい」

という、ほとんどの教師が言いそうなことを改めて確認しているうちに、

「いじめてる側のほとんどが、なにかコンプレックスを抱えているよね」

という、これまたいつも話している話題になった。



劣等感、というの、とても大きいだろうと思う。
幸福とは何か、を考えるとき、「劣等感」について考えるのが手始めかな、とも。

ところが、これも注意が必要だ。
なぜかというと、「劣等感があるのがダメ」、となりやすいから。

そこからスタートすると、なかなか深まらないし、解消もできない。
クラスで話し合うとき、教師が「劣等感」を話題にすると、それを否定的に受け取って、
「劣等感があってごめんなさい」となる危険さえある。
劣等感を持っていることに劣等感を持ってしまい・・・(以下無限ループ)。
それじゃあ、いつまでたっても、〇〇感とは何か、と見極めようとする姿勢ができない。

学校・クラスでいじめについて話し合うことは一般的によくあるだろうが、いじめる側のコンプレックスを話題にした場合になんとなく「突破できない」感が残るのは、劣等感自体がダメとなって進まなかったり、優劣をつけるのが当然だとする社会の風潮もあったりするからかと思う。

子どもが自分の心を見ていけるようになるには、『心の状態をみていこう』とする強さが必要だが、それが育つまでにはかなりの粘り強い、大人のかかわり方が大事になってくる。

木もれ陽2

お母さん、喜ぶ?

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私立小学校の受験をしようと、試しに過去問を取り寄せて娘に見せたら、
「これをやったら、お母さんは喜ぶ?」

と聞かれたので、うーん、と言葉に詰まった。

その夜、夫に

「わたし、本当に私立に行かせたいのかな」

と訊いたら、夫から

「娘のためだろう」

と説得された。

ところが、どうしてもその後、以前のようには考えることができなくなった。

「私もつい今朝まで、娘のため、という言葉で自分を説得していたが、私立が良いと思う気持ちだけでこのまま進めていけるだろうか・・・」

自分に生じた(何か)が拭い去れない。
まじめな顔で、お母さんは喜ぶ?と聞いてきた5歳の娘の顔が、焼き付いて離れない。


そこで、いったい何が娘のためになるのか、と夫婦で話し合うようになり、いろいろと考えるうちに

〇おそらく15~20年後、大学のほとんどが定員割れを起こして閉鎖されていく。
〇将来は、いわゆる「よい」大学が「よい」という社会にはなっていないだろう。
〇この子が、自分の人生を考えられるようにしていくことが親の務め。
〇幸福とは何かを考えられる子に育てる。


というようなことを思うようになった。



・・・と、ここまで。

以前このブログの読者の方から頂いたメールの内容です。

すごいよね。

幸福とは何かを考える子に育てる、だって。



このご家庭は、今、どんな話をしているだろうか。
興味がある。

P1170191

人に愛されている実感

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子どもたちが夏休みになって、学校へ通ってこないので、我々先生たちはちょっとだけ時間ができる。

それで、わたしは最近、よくスーパーへ買い物に行くようになった。
夕方、定時に退勤することができるからで、まだ空の明るい時間にスーパー店内を歩いていると、

「うぉ、こんな時間に買い物できちゃっているよ」

と、テンションが上がる。

振り返ると、毎日どんだけ遅くまで仕事してんだろう、と自虐的になるけどネ・・・。


スーパーで、親子で買い物をしている姿も目に付く。

いいねえ。

私がカレーのルウを買おうとしていると、一人の4年生くらいの男の子が走ってきて、同じ売り場の棚の前で選び出した。

ああ、この子もルウを選びに来たんだな、と思ってみていると、すぐ後ろから、同じように息せき切って、妹らしいのがついてきた。

「お兄ちゃん、どれ選ぶの?」

息をはずませながら、訊いている。


わたしがハウスのジャワカレーか印度カレーか迷っていると、兄の方がS&Bゴールデンカレーの箱を手にして、

「これじゃない?いつものやつ、これだよね?」

と言った。

妹はそれを見て、「あ、そうそう」と言ったかと思うと、

「あ、こっちじゃない?」


手にしたのを見ると、
『プレミアムゴールデンカレー 中辛 』

とある。

たしかに同じようなパッケージで、同じような英語で書いてあって、おまけにどちらも金色であります。

わたしはそんな商品が発売されていたことを知らんかったから、

「おお、なんだプレミアムって・・・わけわからんけど凄そう」

と思ってみていると、兄妹はしばらく言い合ってから、その金のプレミアムを手放した。
そして、ふたりでノーマルなゴールデンカレーをしっかと抱えて、売り場を去って行った。

どうです?

二人でちゃーんと、きちんと、考えて動いているでしょう。

わたしゃ、感心しましたよ。

子どもだって、なにがいいのか、我が家の食卓を思い浮かべて、最善を尽くそうとしてふるまうのでありますよ。



私は結局、さんざん迷った印度もジャワも選ばず、黄色く「広告の品」と表示されてたこくまろカレーの箱をカゴに入れながら、

「なんか分からんが、いいなあ。あの兄妹」

と感慨にふけったのであります。


どんな家庭なんだろうか。

きっと、兄妹とも、家庭の温かみを、ぬくもりを、たしかに感じて生きているのでしょうなあ。

わたしは激安商品を手に入れた喜びよりも、その兄妹に会えたことが嬉しかった。





大人にとってもだけど、子どもにはとくに、大きいことだろう、ね。

「愛されたい」

というのは、だれしも、願うこと。

というか、人生、それが一番大事。
シンプルだけど、誰しも心の底で願っているのは、

『愛されたい』

ではなかろうか。




で、この実感があることが、人を元気にし、勇気づける。

応援されると、人はパワーが出るらしい。

テレビの実験では、なにか重いものを引っ張っている人が、一人でやっているときはどんなに頑張っても引っ張ることができない。

ところが、そこに応援隊が現れ、横に立って、

「がんばれー!」

とやると、驚くべし、引っ張って動かすことができたのである。

手を貸すのではなく、声をかけられただけで、人はパワーがふくれあがるのである。




声と言うのは、恐ろしい。
いや、声、というのではなく、「声」によってその存在を感じる、

「愛」

によって、人は動くのでありましょう。



やはり、「愛されている」から、その実感があるから、勇気が倍増する、ということは大いにあるのだと思う。

逆に考えると、

自分自身が常に、

「愛されている」

というところで生きていられると、これはものすごいモチベーションの高さと、たしかな勇気を獲得することになる。

「自分は愛されている、という実感を常に24時間、たしかに感じるだろうか」

これが自分の能力発揮を決めている大切な心の状態なんだろうと思う。




さて、愛すべきクラスの子どもたち。

彼らは私から、「愛されている」と思ってんのだろうか??

いや、そんなことはどうでもいいのである。

家庭で、親から、大事に愛されている実感を得ている子は、先生からもきちんと、「愛されている」と思うものなのである。なぜなら、スイッチが同じだからだ。

「愛されている」スイッチを確実に押している子は、空を見ても星をみても、土を見ても虫を見ても、海を見ても・・・何を見ても、自分とのつながりを思うことができるのだろう。
そして、そのつながりを予感しつつ、「愛されている」と思うことができる。

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