30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年07月

水戸黄門で哲学するクラス

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小学生も、勧善懲悪は薄っぺらだ、と思うみたい。

水戸黄門を見て、「やった、悪が懲らしめられた。よかった」

では終わらない子どもを育てる。

そもそも、その善とは?悪とは?なんの定義で?だれがそう判断しているの?と、

深く追究できる子に育てよう、というのが、PISA型(追究型)テストにも対応できる子だ。


越後屋、伊勢屋、大黒屋が悪いということになっているけれど、
では、その越後屋さんが本当により良く生きていけるようにするには?


学級全体が、SくんやTくんが良く生きていけるためのものに進化することで、
じゃあ、みんなはどう考えればいいのか?
学級の仕組みで変えられるもの、みんなの認識で変えていけるもの。


「あっ!野菜残してる!悪いやつだ!」

と指さして平気で言っちゃうクラスは、だれもが幸福に暮らせるクラスではない、という確信がある。

大体こういうことを大声で指摘して騒ぐ子自身が、淋しくて苦しんでいる場合だってあるのだし・・・。



野菜を残すってことは、きっとなにかあるんではないだろうか・・・、と。

少なくとも、ナスを残したから「懲らしめよう!」という発想にはならないと思う。

分かりますかねスズメ蛾1

こうするべきだ、が暗くなるワケ

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「あなたの生き甲斐、夢は?なに?」

と、追い込む社会機構、社会システムは、暗いと思うんだよね。

なぜだろう。

わたしゃ、なんだか、そう思う。




ときおり、ふと、

「マスコミが暗くなるのは、どうしてもそういう雰囲気があるからかな~」

と考えることがある。



「こうするべきだ、というの、どこからくるのだろう」

いつも、それをとりとめもなく、考え続ける。


なぜ、ひとは、そう言いたくなるのだろうか、ということ。

なにかを強く言い切ると、なんとなしに、自分が強くなってる気がしない?

強く言い切ると、一瞬つかの間、ホッとできるような気になるからかなー・・・。


反対!というのも、わたしゃ反対とは言わない!と頑張るのも、法案ぜったい推進!と言い切るのも、

ぜんぶ、同じこと。

楽じゃないのはすべて、間違ってる、と思う。



また、

「そういうことは、言わない方が良い」

というの、やっぱり人を縛ろうとしてるでしょう。

安部さんが、何を言おうが、自由。

自分も、何を言おうが、自由。

人を縛ろうったって無理なのにやろうとするから、歪む。




善をなせ、
悪を懲らしめよ

↑これも、楽じゃない。


まず、善悪、という考え方そのものが、きっつい。
このキツーい考えを前提にしよう、というだけで、もう大多数の人がついていけない。

勧善懲悪が分かりやすいという人いるけど、
麻薬のようなもので、ただ痺れてる感覚だけのもの。


みんな、自信たっぷりになりたい、ってね。

自信を得たい、というの、相当つよく、世の中の人の多くにはびこっている。

自信ある、という人の「自信」は、どんなものか。

未来永劫か、それともいつか、揺らいじゃうような自信なのか。



日本人は、強く言い切れるものを、欲しているようだ。


強く言い切りたい病。
言い切りたくなるような言葉を、いつもいつも、探し続ける・・・いつまでも、という人生。

アケビコノハの幼虫3

不満が無いから、

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不満が無いから、大地と話をする。

不満が無いから、太陽が挨拶してくれる。

不満が無いから、向こうの道を

だれかが横切る気配が、分かる。

不満が無いから、みんなが

何をしようとしているか、感じ取れる。



こころが身軽であること。

なにも持たなければ、受けるばかり。

ナミテントウの休憩場所

脳内処理するだけでもストレスフル


have の生き方と be の生き方。

考えてみれば、持つ、という生き方は、人間にとって、かなりストレスのかかること。

持つ、ということに精いっぱいになりすぎて、ロスすることがかなりある。

所有、という、実際にはありえない現象を、脳内処理するだけでもストレスフルなのに、そこに執着して、くっついていないと、はがれおちてしまいそうで、必死にしがみつこうとするから、体力も腕力も要る。

くたびれてしまって、自分の目の前に、いまあるものや、聞こえるもの、感じ取るものの量や質が、かなり劣化してしまう。

感じ取れなくなるところまでいきついて、いつまでも豊かさが見えてこない。

「自信を持つ」も、同じかな。。

赤い羽虫

地元名古屋のビールがうまい

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わたしは、岡崎市民です。

さて、6年生の担任は、いよいよ興奮度がMAXに近づきますね。

歴史の授業に、徳川家康が登場するから!

岡崎市の教員(6年担任)は、すべて、この時期に大興奮です。



地元の英雄、家康公が、晴れて教科書に登場する!

名古屋、岡崎、三河、などという言葉、単語が、教科書にこれほどまで輝かしく現れることは、かつて無かった。

大宰府も出雲も吹き飛び、鎌倉も、奈良や京都でさえも、戦国時代以後の

「尾張、三河、愛知」

という特別な地域の名称を前に、すべてかすんでしまう。

戦国三傑、
織田がつき、羽柴がこねし天下もち、座りしままに、食うは徳川

織田、羽柴、徳川。

この3人とも、この地域の出身なんだもの。




わたしは岡崎市の教員をやっていますが、

徳川家康の授業を地元で行うことができて

最高に幸せ。




ビールがうまい!!地元名古屋のビール、冷えてます!
IMG_0150

あらかじめ、少しずつ、というワザ

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基本中の基本だけど、

子どものやる気にとって、これが大事。

あらかじめ、伝えておく


たとえば、体育のマット運動。



1学期の最初に、
「1学期の体育で、最初の陸上の運動が終わったら、そのあとはマット運動やりますよ」
とさらり、と伝える。

陸上競技の活動が終盤に差し掛かるころにも、

「これが終わったら、その後はマット運動だよ」

と話題にしておく。

いよいよマット運動の初日になったら、3週間後には評価のテストをすることを伝えるのがいい。

「全部で7時間くらいやるよ。最後にはテストもして、みんなでお互いに発表会もするからね。」


その後、2時間程度やってから、今度は「2週間先」までのスケジュールを伝える。

6つの連続技を考えておくように、と言う。

同じことを、その日の帰りの会でも確認しておき、

「もう、連続技で何をするか、考えがかたまってきた人、いる?」

と聞き、何人かが挙手したら、言えるところまで発表させ、

「いやあ、すごい。今日話したことを、すぐに考えて、早めに準備できているのがいいね。」

と言う。



その後の練習では、

「倒立系のワザに、前転、後転系の技を組み合わせるといいよ」

と伝えて、教室に帰ったら紙にアイデアをまとめさせる。

一度にたくさんの情報を出さないのは、それを処理できるほど、人間にはキャパがないから。
無理はさせない。

次の日、また数人に発表してもらい、

「〇〇くんのプランは、倒立系も前転、後転、ぜんぶ入っているから見ごたえがあると思うなあ。むずかしい技にチャレンジしようとしているのも、すごい。意欲がいい!」


と感想を言っておく。

こうやって、少しずつ、数人に発表してもらうのは、何をしたらいいか見当のつかない子に、まねができるチャンスをあげているということ。

最後の一週間になったら、

「あと3時間です。今日、月曜日はプランの最終確認をします。先生がチェックするよ。水曜日は、技の完成度をぎりぎりまであげていきましょう。そしてお待たせしました、今週金曜日、いよいよ発表会です。失敗を恐れず、堂々と演技できるのがいいね」

こうして、少しずつ少しずつ、今は何をどこまで進めたらいいのか、目安を伝えていく。

大人でも、突然なにかを注文されることに、対応するのは難しい。無理だ。

子どもも同じ。

あらかじめ、一度にたくさんでなく、

少しずつ、あらかじめ、伝えていく、



当たり前なんだろうけど、意識していくのがいい。

子どもがお互いにつながれるように、次の予定を、心づもりを、つくっていけるように。


水滴

通知表は子どもが自分で書くべき

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休日に学校へ行くと、たくさんの車が置いてある。
ほとんど先生たちの車だ。
学校に、通知表を書きに来ているのだ。

平日はほぼ、他の仕事や文科省、市教委レベルの仕事に追われていてできないので、土日にやるためだ。

先生たちは残業が多い。夜8時、9時、というのが当たり前になっている。
だから、逆に「残業」している、という意識は薄いだろうと思う。学校というのは、それが当たり前だ、という意識だから。

さて、土日に書きに来ている通知表ですが、一人ひとりについてなにをどう書くのか、これが本当にむずかしい。

なかには、

「そんなの、簡単よ。先生が思ったこと書けばいいんだもの。子どものことで、何でも思ったこと書くのよー。所見っていうのは、思うこと、というくらいの簡単な意味なんだって、辞書にのってるでしょ」

という年配の先生もいるけど、多くの先生は保護者の反応を先に考えるから、どうしても、正面切って子どものあれこれをズバリ、というふうにはなりにくい。

教頭先生は、

「一にも、二にも、褒めてください。褒めることが教育ですからね。保護者も、褒められて文句付ける方はいません。ともかく褒めてくださいね」

と先生たちを鼓舞して回っている。




さて、と。

わたしは教室に陣取る。

職員室だと、子どもたちの顔が浮かんでこないからだ。

教室の前方にすわり、日曜日でだれもいない子どもたちの机をみる。

そこに、どんな顔で、どんな表情で、どんな姿勢で座っているのか、ふだんの子どもたちの姿から想像しながら、子どもを思い浮かべて、その子に尋ねる。

「通知表、なに書いたらいい?」

すると、その子は

「うーんと、体育かな」

とか、

「委員会の活動で児童会の発表したこと書いて」

とか、適当に話してくれる。

なかにはあまり語らない子もいて、そういう子はわたしに、

「何でもいいよ。とくに(がんばったことが)ないかも」

とまで、言う。(あくまでも想像上の子です。あくまでも)

「いやあ、そんなことないでしょ。いろいろ頑張ってたでしょ」

と、私が問いかけると、

「ううん。がんばったことなんてないよ」

「ああ、そう。ないの・・・」

私はなんだか困ってしまって、どういえばいいのか、しばらく迷う。


そうかもね。
「がんばった!」なーんて言葉、ニュアンスがちょっといい加減だものね。

わたしが、がんばったことを探そう、というと、なにか組み体操のピラミッドで、下の段で歯を食いしばって耐えているようなイメージだもの。スポ根物語じゃあるまいし・・・。みんながみんな、そんなふうに、毎日過ごしているわけじゃない。

楽しんでやれたこと、学んだこと、こういう言葉も、どうなのか。
それぞれに、ニュアンスやとらえ方があるのだろう。

彼を見ていて、一番いい言葉、しっくりくる言葉がなにか、私は探し始める。

「がんばりました。楽しんでいました。達成感を味わっていました。取り組んでいました。することができました。」


・・・、こういう言葉を使いたくない、という子がいるだろうにね。

どんな言葉が、いちばんぴったり、くるんだろうなあ。

毎日、どんな心持ちで、いったい何に関心を向けて、その子が生きていたのか。

ほんとうの内面、本当のところはさっぱり分からないのに、通知表を書く、という。

子どもの言動、表面を見ていてもちっとも分からないのに、なにか書かねばならんと言う。

通知表を書いても、

「こんなの、本当のわたしのことについては、ちっとも書いていない」

って、子どもが思うだろうことは分かっているのに、さもわかったふりをして、教師は書いている。


通知表、子どもが自分で書けばいいのに、ね。




アカゾウムシ

愛知県の教員であること

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愛知県岡崎市の教員になって、はや幾年。

岡崎市民として嬉しいのは、みそがうまいことだ。

かりんとうにも、みそ味がある。

karinto


これ、本当においしいよ。




休日は、これをぽりぽりと食う。

わたしは無精なので、

息子に、口の中にほうりこんでもらう。

息子は、自分もそれを食べながら、ときおり、思い出したように

わたしの口の中に、かりんとうを放り込んでくれる。



愛知県人。

みそが染み込んでる。

身体から、指の先から、

みそのオーラが出ている。

愛知県の教員になって、よかった!!!

七夕さまに「お願い!」

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7月7日。

今日は、七夕さま。

各クラスで子どもたちはお願いを書いてる。

給食のときに、1年生の教室近くを通ったら、笹の枝が設置してあった。

子どもたちの「お願い」が、さっそく飾ってあります。





クリスマスが はやくきますように
ばば なおたか


廊下にはカブトムシの飼育ケースが置いてあり、

窓の外からは、セミの声。

給食には、スイカが出た。

季節は、いよいよ夏本番を迎える。

仮面ライダー

    雨上がりの朝、仮面ライダーの子どもが飛び出してきた。↑

不安がない、ということ

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不安があるかないか。

このことが、何をするのでも、本当に大きなこと。




人には、なにをするのでも、どんなことをしようとするときにでも、

なぜ、それをするのか、という動機がある。

いろいろな動機があるのだけれど、

中には、不安を消そう、ということが動機となる場合がある。

この場合、不思議なことに、行動しても不安が消えない。

不安を解消しようとして行動するのに、行動したあとにも、不安はある。

回避はしたが、解消は、していないからだ。




さいしょから、不安がない、という状態でスタートしていれば、どうか。

前提として、怖れているものが無いので、

行動の途中でも、怖れはでてこないし、

行動の結果がどうであれ、

たとえ期待する結果にならずとも、

結果に動揺したり、不安が出現したり、ということにはならないのです。





つまり、不安のない状態であれば、強迫的に何かをやる必要がない。

やればやったで、やったことすべてが利益になる。

これが、安心の一番底。

安定、崩れようのない、安心にいる、ということ。




お出かけする場合も、友達に会いに行く場合も、

不安があるから行くのか、どうか。

自分に不安があるのかどうか、不安を消したがっている自分かどうか。




不安をなくすには、不安の正体を調べるしかないと思う。

人に対しての不安や怖れ。

特に肉親、親へのものを調べると、とてもよく分かる。

子どもの頃からの、根強いものだしね。

親との関係を調べるのは、とくに効き目ある。

総じて、自分を知る、ということ。


授業でも、親は大活躍。

道徳の人権教育で、一番深まるのが、親のことだ。

何でだろう、と常々思っていたけど、当然だよね。親だもの。一番近い。

みんな、本気で考えようとするからかもね。



親が好き。
尊敬してる。
産んでくれてありがたい。
このお母さんで良かった。
感謝してる。

ところが、受けいれられないときがあって。
ここが肝心。



親の言うことやすることに腹が立たなくなって、
親にどう思われるか等が気になることもなく、
自分についての他人の評価等の意味についてもそのメカニズムが分かり、
人と人の間柄が整理できると、(ここまで考えようとする人は稀)


完全な安心、完全な自由を満喫して、

心の底の底から、満たされた状態になる。

こうなると、何も要らなくなる。

もしかしたら、読書も宗教も、要らなくなるのかも。不安を解消する手段としては・・・。






すべての行為・考えを、

『不安のない状態』

そこからスタートしたい。



え? そんなん、無理?

無理と決めないで!
今の考えだと無理に見えても、ネ。
たとえ、今は、そう見える、ということであっても・・・。




大人は、よく思い出してみよう。

幼い子ほど、満たされてる。



二度手間かけてる時間が惜しいと思う人は、特に。

虫の名前はすべて子ども会議で決める
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