30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年05月

宇宙人が好きだ!

.
宇宙人が好きだ、という子がいる。

自分で考えた宇宙人キャラクターを、いろんなものに登場させている。
社会のノートには、その宇宙人くんが

「ここは大事なところだぞ」

とか言ってる姿が描いてある。

お母さんは、それがお気に召さないみたいで、

「6年生になっても宇宙人だとかって、ヘンですよね」

と、自分の息子なのに、ヘンだ、ということにしたがる。




世の中には、お墓が好きだ、という人もいる。
「河童の三平」「鬼太郎」「ゲゲゲの女房」で有名な、水木しげるさんだ。

水木さんは、よく自転車でふらりとお墓に立ち寄るが、お墓に自転車で入っていくと、

「おお!よくきたね!!」

という、歓迎の雰囲気がして、とても喜ばしいような、笑顔で笑いかけてくるような、不思議な感覚が、押し寄せてきて、たちまち水木さんをもてなすそうだ。




しかし、通常、宇宙人だとか、お墓だとかって、否定されていますよね・・・。

そんなものを、日常的に、口に出すだけで、ちょっとおかしな人、というふうに思われてしまう。

「・・・6年生にもなって宇宙人だとか・・・ったく、うちの子はバカですかね?」

と、自嘲気味に言うお母様に、わたしは何を言えばよいのだろうか。






お母様には、

宇宙人が気持ち悪く、怪しげで、低俗で、悪い趣味のようなものに見えるらしい。

「宇宙人やお墓なんて、低俗で悪い趣味だ」

と見える目の持ち主は、防御、守りの姿勢で生きている、ということだろうと思う。

子どもは、宇宙人が好き。

「宇宙人ってかわいいし、面白い。すてき」

こういう子は、そのような世界に住んでいる、ということだろうと思う。



どっちのレベルに住んでもいいけど、楽しそうなのは、子どもの方だ。


お母さんが、宇宙人を拒否することに、やれやれ、と思いながらも、

そんなお母さんの狭量を、心静かに受け入れているのは、子どもです。

精神的には、逆転しているのですが、気が付いているのは子どもの方で、お母さんの方は、それにまったく気づいていません。

そして、今日もまた、ダメ出しばかりしているのです。

お母さんの目には、宇宙人と言う低俗なものが、自身のハイセンスで平和な日常を、脅かす存在に見えるのでしょう。恐れているのは、お母さんであって、子どもではありません。

さらに、相手を変えようとし、非難し、ののしっているのは、お母さんであって、子どもではありません。



お母さんと子どもと比べると、明らかに、不幸なのはお母さんです。

子どもは、宇宙人の魅力に気づき、受容し、受け入れ、楽に調和して生きています。宇宙人に対しても誰に対しても、相手を非難したり、困ったり、攻撃したり、なじったりすることがないのが子どもです。幸福なのは、子どもです。



さあ、お母さんと子どもと、どちらが「変わるべき」なのでしょうか?

正解は、どちらも変わる必要はありません。

ただし、明らかに、困っているのはお母さんで、子どもは困っていません。

この話の結論は、

救われるべきなのは、母親だ


という、壮大なパラドックスなのでした。

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みみずをみせびらかす子

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これは、わたしの学級の話ではないのですが、まあ聞いてください。


ミミズに興味を持った子がいました。

このうようよしたものが、土の中にゴマンといることが、どうにも不思議!
おまけに、どこの土をほってもミミズは出てくる、顔を出す。
弱そうで、すぐに土に潜ろうとするだけの、なんだか妙な生き物。

彼は次第に、ここにもいるかしらん、ここにはどうかしら、というように、スコップ片手にあちこちほじくり始めるようになった。

もとより、「地球上のどこの土にもミミズはいるのだろうか」という巨大な疑問を確かめるために始めたわけですが、目線は完全に、「いるはず、ぜったいいるはず!」として探すから、よく見つけるのなんの。

ここにも、ほら、あそこにも、という具合。

お母さんから、連絡帳で1ページびっしりと相談が書き込まれる。

「うちの子は、まるで、みみずに取りつかれたようで・・・。困っています」



家の前の庭はもちろん、爺ちゃんのうちの畑をそこら中ほり返し、さらには学校にもマイスコップ持参という勢い。教室の前も運動場も、校庭の片隅まで、掘ってほってほりまくる。


するとね、その

熱の入れ具合、魂の打ち込みよう

に、反応する子が出るのね。

その子は、なんでSくんがそこまで打ち込めるのか、不思議でならない。

だって、みみずですよ?

打ち込む対象が、ミミズだってのが、納得いかない。

「自分は、彼のように打ち込めるものがあるのかな・・・」

と、Sくんと自分を比較して、彼のように熱中できない自分を卑下するようになる。

・・・


Sくんがうらやましくてならない。

熱に浮かされたようになって、ドッジボールもサッカーもやらず、寸暇を惜しんで、あたかも恋人に会いに行くかのように、校庭へすっ飛んで行くのが、もう

うらやましいというか、嫉妬するというか・・・。





ミミズに嫉妬する、クラスメートが出てくる。

妬(や)いちゃうわけね。



Sくんを、ミミズから、取り戻したい。





そこで、ちょっと変化球がかかります。

「Sくんって、ミミズばっか追いかけてるよ。変人だ!」

と言い始めますね。
そういったことを拡大PRして、彼が得るものはないのですが、それを懸命に言いふらす。
別に、Sくんがだれかに迷惑をかけているわけでもないのに、嫉妬心から、Sくんを奇人扱いにする。


すると、どうも雲行きが怪しくなってきた、というのでSくんも悩みますね。

Sくんは、ミミズを飼育することにした。

教室に、昆虫飼育ケースを設置し、ミミズをたくさん入れた。
皆に見てもらおう、ということです。

「ほら、こんなにオモロイから」



しかし、これが、炎上!

「ミミズ男!」
「きたない、さわるな!」
「ミミズばっかり触っているよ。ミミズマンだ」


ここでブチ切れてしまったSくんは、ミミズをつかんで、クラスメートに向かって投げつけてしまいます。

決定的にまずい事件になってしまいました!



学級担任のもとへ、苦情の嵐が寄せられます。

「ミミズを教室に持ち込み、個人的な興味で飼っている子がいるのはなぜなのですか?」
「ミミズを投げる子にどのような指導をしているのですか?」
「ミミズを投げられたことがショックで、うちの子はもう教室に入れません」
「娘がこの教室で、もう給食は食べられない、と言っています」





担任は、

Sくんの興味関心に、付き合わない。

ミミズに興味を持てるように、他の子に資料を提示していかない。

Sくんが好奇心を燃やしていることの価値を、他の子に向かって話さない。

Sくんが奇人扱いされた時点で、「奇人だ」とみる観方そのものについて、話し合いしない。



親は、ミミズを持ち込もうとした子のことを知ろうとしない。

ミミズを投げつける前に、どんなことがあったのか、尋ねようとしない。

ミミズに興味を持つ子が、教室でどんな扱いを受けていたのかについて、関心を向けない。

とんぼ

閻魔様に何を聞かれるかについて

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世の中が落ち着かないのは、まず頭の中が整理されていないからだ、ということについては、もう分かりきっているのですが、なにせ、このご時勢だもの、考えてる暇がない。


大事なはずの「頭の整理」は、忙しい世の中、どうやらどこかへ置き去りにされているようです。

人の邪魔をしない、ということだけでも、話し合えることがたくさんある。

人が死んであの世に行ったら、おそらく、閻魔様がきくのは、こういうことじゃなかろうか。
「お前は、他の人の邪魔をしなかったか?」

閻魔様からみたら、

「〇〇をしました、達成しました、やりました、できました、数字を伸ばしました、大きくしました、開催しました、展開しました、始めました」

という類は、ほとんど差が無いのでしょう。ハっつあんや熊さんやビルゲイツ、を比べたところで。

それで地獄行きか極楽行きかなんて、決めないのだと想像できます。



「他の人間の、邪魔をしなんだか?」

そこではじめて、

「え・・・、えっと。邪魔ですか?そうですね・・・」

と、考え始める人間をみて、閻魔様は、

「他の人の邪魔にならなんだかどうかって、考えたことないのかいな、こいつは」

と思うと、

「はい、地獄」

とスタンプを押すのでしょう。



生前をうつすという鏡を見て、閻魔様、そばにひかえている赤鬼どもに向かい、

「ううむこやつ、機嫌を悪くするなんていう姑息な手段を使って、人の気持ちを操作しようなどと不埒千万(バチン!)、この者、地獄に遣わすーッ」



さて、この話、いちばんやな顔して聞くのは、学校の先生たちでしょうなあ。

わたしはクラスで、こういうような、「閻魔様ってどんなこと言うかなあ」、という話をときどきしていますが、子どもも、ははん、と聞きながら、なにか考えているようです。

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給食でいざこざが起きないということ

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給食で、多い!少ない!というもめごとが起きません。

これはなぜなんだろうか。

読者の方は、給食と言われて、思い浮かべるイメージがそれぞれちがいましょう?
みなさんが小学生だったころ、お味噌汁って、出ましたか?
最近の給食は、一昔前とは異なっていまして、ほとんどが米のごはん食でありますから、汁物が出ることがほとんどであります。

今日は、けんちん汁でした。

ところで、汁ものというのが、いちばん、配りにくいのです。
全体に均質であり、濃度が同じ、というポタージュスープ系ならまだしも。
大きな具がごろんごろん、と入っているの、これがもっとも難しい。

具を適度にふりわけながら、35人分の器に盛り分けていく、というのが、至難のワザであることは、みなさん、想像に難くないでしょう。

深いおたまで、これまた深い缶の底をかき混ぜながら、スープと具を、ちょうどよい感じに、ちょうど均等になるように、と努力をするわけですが、1杯目は具たくさんになってしまうことがあるし、35杯目というのは、頑張ってもやっぱり、薄いスープのようになってしまうわけね。

最初は、具ばっかり見えるから、具が本当にたくさんあるんだ、と思ってしまう。
また同時に、どうすくいとっても、深いお玉にガバッと、これはもう、不可抗力という状態で、具がたくさんのってしまうのです。

これをば、少し減らしつつ、というの、とても難しいです。
だって、給食を盛り付ける時間って、たったの5分から10分程度ですよ。
当番の子たちがフル回転したって、それ以外に牛乳を配る、おかずをくばる、ごはんをくばる、よそっていくだけでも大変なことなのでして・・・。

つまり、結果として、具が大盛りたっぷり、という子と、具、すくなー、という子に分かれてしまう。



見ているとですね。

これはまずい、薄すぎる、具が少ないぞ、ということが、残りの10人くらいになるとだんだんと分かってきます。
残り5杯、という状態になると、いやあ具がほとんどないぞ、という、さしせまった状況。

すると、多そうな子のおかずを、もらいに出る部隊が自発的に生まれましてね。

「ちょっともらえる?」

とか言いながら、ちょっとずつ、みんなから具を分けてもらっている。

その間、
「とりすぎだ!」
「おれから取るなよ!」
「こんな薄い汁、飲めるか!」
みたいなことが、まったく起こらないわけ。


で、この光景を見ていた特別支援の先生が、

「礼儀ただしいですよね」

と言い、

「新間先生は、礼儀をきちんと躾けていらっしゃるから」

のようにおっしゃった。


別にわたしゃ、礼儀を教えた、躾けた、という実感はないため、

えーっ・・・

と思う。

(礼儀を躾けたっていうの、ちっとも分からんな。自分ではそう思ってないな)



こういうことって、子どもたち、「礼儀だから、分けてあげよう」と思ってやってるのかな。

そうじゃないように思う。

これはね、つまり。


仲が良いからなんだと思うね。


要するに、仲が良い、ということが、本当にさまざまな人間関係のストレスを、あっという間に解消する。

仲が良い、ということを、本当に実感したことがないと、このことは頭では絶対に分からない。

友達のことが、大好きになるってこと。

これが、クラスがまとまるための、子どもがやる気になるための、たった一つの方法ね。

カタクリの花

鳥のたまご、みっけた。

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「先生、たまご見っけた」

机の上にのせたのは、白い小さなウズラくらいの卵。

学校の隣の林の中でみつけたそうな。

「落ちてたの」

なるほど。



わたしは、まったく動じず、その子の顔を見る。

なにかが書いてある。

「これを教室で飼うわ」

と書いてある。



わたしは、ゆっくりと尋ねる。
机の上に山と積まれた、宿題のプリントを整えながら、訊く。

「なんのたまごじゃろうね」

「知らない」

「とり?」

「たぶん、とり。巣から落っこちたのかなー」



まだ、彼女は、飼うと言い出さない。

それで、わたしはつづけて、

「じゃ、たまごを、もとの巣に戻すか。じゃないと死んじゃうかもね」

すると、真剣な目つきで

「私が飼う。いい?」



このとき、教師はどういう返答をするのかで、このあとの動きが変わってきますね。

とても、迷います。


みなさんなら、また気の利いた返しをされることでしょう!


わたしは、こうでした。↓



「ひとりで?」

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ビオトープ池に向けて虎視眈々と作戦を練る

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勤務校に、池がある。

ところが、あまり活用されていない。
ビオトープにはなっておらず、ただの池。

おまけに、水質が悪くなるので、毎年夏休みには、水の入れ替えがあり、プールから水をひいてこなければならない。この作業が、なんと大変なこと。
職員作業の重労働なのだ。

ということで、この池をつぶしてしまおう、という計画がもちあがった。

「利用もされていないし、つぶしてしまいましょう。」

職員会議では、ほとんどこの意見が通りそうになった。

ところが管理職から、

「消防に関してのことで、この池は災害時の貯水漕になってまして」

結局、つぶすことはできない、という返答だった。



わたしは、内心、ニヤリ、とする。

そして、まず一人、昆虫の好きな先生を一人つかまえて、廊下でぼそぼそ・・・。



「ビオトープにしませんか?ウヒヒ」

するとその先生は、禁酒法時代のアメリカのバーで話す時のように壁に寄って、

「ええですな。ゲヒヒ。・・・でも、どこから水草を?」




いつの間にか、水草をじわじわと増やしてしまおう、という計画を立てた。




われわれは、水草を、入手しなければならない。

水草、たにし、メダカ、光合成細菌・・・

ゆくゆくは、生活科で、とんぼつり。

昆虫クラブで、イトトンボの生態研究を。

図工で、春のビオトープの絵を描こう。

理科では、メダカの観察ができる。

授業参観日には、スイミーの劇をこの池の周りでやりたい。

ビオトープから、夢は広がる。

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朝のスピーチ 「え、絶対続けたい!」

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朝のスピーチは、5年生の時からの定番です。

日直さんが、その日の朝に言いたいことをまとめていて、
ニュースのような口調で、話し始めます。

「8時30分になりました。ニュースの時間です。
今日、校庭を歩いていると、赤い実を見つけました。・・・」
という感じ。

これが定番となり、現在まで続いています。

実は、このところ、これがマンネリ化しているように感じていました。
ニュースもとびきり楽しみにしているようでもないし、
それほど楽しい質問がでるわけでもない。

5年生になったばかりのころ、もともと自己紹介の延長のような風で、気軽に始めたものがもう1年以上続いているわけです。
そろそろ飽きてきたのかと思い、先日、ふと

「どう?もう6年生だし、朝の時間は委員会や係りの連絡だけでもたくさんあって忙しいよね。もういっそのこと、やめてもいいと思うんだけど」

というふうに提案してみました。

すると驚いたことに、子どもたちは全員即座に、

「え、ぜったい続けよう!」

と言ったのです。

子どもたちの表情をみて、そんなに反応も見えないし、と思っていたのですが、ちがったようです。
実は子どもたちは心の中では十分に友達の話を聞きたくなっていて、それなりに朝の楽しみだと考えていたことが分かりました。

ほんの日常のささいな発見や出来事を、友達の話ながら、興味深く聞いていたのが分かります。



今日は、スピーチをしたのは、クラスでもほんわかとした癒し系で、コアラのような雰囲気のKくん。
自分が昨日、歯医者に行って歯をけずってきた場面を、ちょっと不思議なぼんやり加減で語ってくれました。

「お医者さんが、うがいをしてと言ってどっかに行っちゃって、ぼくは3回うがいをして待っていたら、看護婦さんみたいな人がやってきて、またうがいをして、と言ったので、また3回うがいをしたら、お医者さんがもどってきて、うがいはもういいよ、と言いました」

てな感じ。ちょっと不思議で面白い。



「今の話、面白かったよね、〇〇くん」

と聞くと、〇〇くんが、

「うん」

と言います。


わたしはそういうとき、すかさず、

「どこが面白かった?」

と聞きます。

すると、〇〇くんは、なんだかんだ、こじつけのようですが、どこがどんなふうに面白い、と言ってくれます。

もしそこで詰まってしまったら、

「〇〇くんにもう一回、そこのところを話してもらおうね」

と言って、発表を少し繰り返してもらいます。

不思議なことに、2回目の発表は、1回目の2倍、うまくなっていて、分かりやすくなっていることが多い。
これは大人でもそうでしょうね。考えながらしゃべったことは、なかなかまとまらないときにだって、同じ内容を分かりやすくもう一度話せるというのであれば、少し上手に話せるでしょう。

どこが面白いのか、という点についてこういうやりとりを重ねるうちに、友達の発表には、興味を持つようになってきたように思います。


友達の顔を、じっくり見ていられる、というだけでも、価値があることなのかもしれません。

私はたとえスピーチする内容がなくても、だまってそこに立っているだけもいい、みんなでその子の顔をしばらく見る、という時間であっても、価値があるように思いますな。


花の形がとてもデザイン的 ↓ 
デザインのすぐれたリンドウ

なぜか最近、年下が増えた(笑)

.
たまには、うんと個人的なことを。

中年になってきたせいで、ちょっとした変化を味わっている。
それは、年下が増えた、ということ。

ちょっと前(笑)のことを思い出すと、タクシーの運転手さんはほとんど
自分よりも年配であることが決定的であったし、
電車の駅員や、お店の人もほとんどは、自分よりも年上、というのが当然でした。

ところが、ふと気づくと、駅員さんが同年代になっていました。

そのことに気付いたときは、ちょっと衝撃でしたね。

「おお!たぶん、同い年くらいやな・・・。がんばっとるな~」

役所の受付する方が、自分よりも年下だろう、と思えた時も衝撃でした。

「お、年下や・・・。昔は当然、年上が出てきたけどなあ~」



職員室でも、ちょっと前までは(笑)わたしは、若手だったのですが。

今の勤務校では、わたしは中堅、となっています。
さらに細かな分類で言うと、なんとなく、中堅よりも古い部類、という厳しい範囲に入ります。


で、話はここからなんですが、わたしはうんと昔から、タメ口(ためぐち)で話すことが多かったのです。
それはなぜかというと、世間一般のルートとは違って、高校卒業したものの、
まともに就職しなかったからでしょうか・・・。

また、厳しいと言われる学生寮での生活を体験し、むちゃくちゃ先輩にしごかれて、
最大限に丁寧な敬語で寝言が言えるくらいに(!)、きびしい「敬語生活」をおくったものの、その内情は、とても強い仲間意識に支えられていて、形や見かけは敬語でも、心の中ではタメ口だったからだと思います。

それで、最初に就職した場所でも、タメ口が基本で、なにも問題が生じなかったので、
今でもそれが本当の意味のわたしの性分になってしまっているわけです。

とはいえ、ふつうに社会人として暮らしているわけですから、教員になって敬語を使うのは当然なのですが、心の中では、本音はタメ口なのです。

気を付けているのは、気を抜くと、年配の先生にも敬語でなくて、タメ口で話してしまうことがあることで・・・。

礼節は何よりも重んじておきたいと思うとともに、自分がちゃんと世界中の誰とも平等で接することができるか、勝手に相手の虚像をつくってみたり、イメージ操作に振り回されたりしないで、人と人とのまったく健康なお互いの関係を築けていけるか、← ずっと、肝に銘じておきたい、と思う。

本当の本当は、真の礼儀とは、相手を上にも下にもみないことだろうか。

(中身がまず第一で、・・・ため口がどうとか何とかは、その次なんだろうケド・・・)

アルマジロ、大・中・小。 ← お互い、大きさは違えど同格な三者。
アルマジロ大中小

好きになれない子どもがいるかどうか

.
好きになれない人がいたり、

好きになれない子がいたりするのは、

もう決定的に、ヘン、です。


どんなに宿題を誤魔化そうが、友達にいじわるをしようが、教師にとって

教室の中に、「好きになれない」子は、いない。

どんなに叱ったあとでも、好きなのです。




じっと見ていると、おもしろい動きをしているのが、子ども。

えんぴつを削る場面だけでも、よく芯の先まで確認しないと気が済まないタイプもいれば、

ゴリゴリっと数回まわして、おしまいっ、というタイプもいます。



黒いツチハンミョウを見つけて、

「先生、女王アリ、見つけた!」

と見せにくる子もいます。


「それ、毒があるからな。噛まれてないやろね」

というと、

「エ゛ッ!!!」

と叫んで、固まっています。



給食に甘夏が出て、ていねいにすじやら薄皮やら、ぜんぶきれいにむいて、身だけをきれいに並べ、悦に入っている子がいます。

かと思えば、みかんの皮を、ほそーく、ながーく、職人のような手つきで慎重にむいている子もいます。



子どもは動いていますから、動いていると、本当にいろんな表情が出てくるのです。

その、いろーんな表情を、見ようとしていれば、

「好きになれない子はいない」

と、思います。




教師は、子どもの動きをつくり、仕掛け、その動きの楽しさ、おもしろさ、良さを、まわりの子どもたちに広げていくのが仕事なのかもしれませんね。

「おもしろいこと、やるなあ!」

といって、惚れ惚れしながら、その子の顔を見ると、得意そうな顔をしています。

それをきいた周りの子も、いっしょに嬉しそうになる、というのが子どもの世界です。




わたしが、つい、

「ようし、みんなで、女王アリを探そうぜ!」

と言うと、女子はみんないやがりますが、男子はけっこう簡単にその気になってくれます。

「先生、どこにいるの?」

と訊くから、

「先生にきくよりも、下々のアリたちに訊くのがいいんじゃないの」

といって、アリ探しを促します。



結局、見つからないのですが、それでいいのです。

「ああ、いなかったなー」

で、おしまいです。

しかし、子どもたちはいい顔をしています。

「〇〇くんね、蟻を追いかけて、南校舎のプールまで行ったんだって」

「家庭科室から砂糖もってきたって」

「ありじゃなくて、ゾウムシみつけた」



この動きの中で、子どもたちの性格の違いや面白さが、浮き彫りになってくるから、それにきちんと先生が気づいたんだよ、ということを伝えるのが大事です。

「さすがSくん。頭の回転はやい。とりあえず、作戦たてるのが好きなんだもんなあ」

「さすがTくん。しらみつぶしに探すねえ」

「さすがMくん、手ぶらでは帰らないなあ」




こうしたことを、毎日やっているから、クラスに物語が生まれてきます。

登場人物のキャラがたってくる、光ってくると、ストーリーが生き生きしてくるようです。



  ↓ とかげ、いた!
とかげちゃ~んG

わたしが見ることのできるもの。

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トカゲを飼い始めたせいで、この休みはつくづく、虫づくしでありました。

エサとなる、生きたハエやクモを見つけるのが面白い。

それ以外にも、虫のことで一日が暮れる。

朝、散歩に出かけると、もうそこらじゅうに、モンシロ、モンキはもちろん、シジミチョウもいる、セセリチョウ、ミスジチョウ、カラスアゲハ、あらゆる蝶がすでに春の活動を開始していた。

わたしがムシに関心を持ち始めたとたん、これらの虫たちが、一斉に岡崎の山の中に現れたわけではない。以前からずっといたのです。


・・・でも、わたしにはそう思えない。

これまで、こんなにも、蝶は岡崎の市街地を飛んでいたのか?

虫たちは、こんなにも、この場所にいたのか?



わたしがムシたちに関心を向けると、急に、ムシが見つかるようになった。

わたしがラジオのスイッチを入れ、つまみを回すと、とたんに受信され始めるのと同じだ。

しかし、虫は、ずっと以前から居たのだし、ラジオのスイッチを入れようが入れまいが、わたしの関心とは無関係に、そこらじゅうを、ラジオの電波や無線は流れていたのに・・・。気づいていない。



わたしが、気づけなかった、というだけ。
関心を向けなかった、というだけ。

わたしが見ることのできるものは、ラジオのつまみをまわして、うまく合ったものだけだったのだ。




すべての子どもたちは、本能的に、

虫にチャンネルを合わせることを知っている。

そして、

お母さんに叱られた後でも、
先生に叱られた後でも、

友達とうまくいかなかった日でも、
ピアノ教室に通わなくてはいけない朝でも、

いつでも、そのチャンネルを合わせることができる、ということを知っている。


そして、虫たちは、子どもがどんな状態であっても、いつでも
その姿を見せてくれるし、目の前を飛んでくれるし、
あちらこちらと巣を探してうろついてくれるし、
・・・
誰にでも平等に、その姿を見せてくれる。


幼いころ、親に理不尽なことで叱られたときを思い出す。

腹を立てていた私は、じっとだまって、
晩御飯に呼ばれるまで、ずーーーーーっと、
水槽のゲンゴロウが泳ぐのを見ていたことがあったっけ。

涙でぼやけたゲンゴロウ・・・。



虫は、子どもたちに、

「もっと、のんびりしていいんだぜ」

ということを、教えてくれる貴重な存在です。

甲虫が行く茎の道
          あの・・・なにか御用で?(ハムシ)

なおしなおしの日々

.
朝、起きて手洗いに行ったのが、おそらく4時ごろ。

外はまだ暗かった。

それなのに、<教室でモンシロチョウを飼うための箱を探そう>と、ふらふらと庭に出て、物置に入った。

寝ぼけていたのかも。

荷物の奥の方に箱が見えたので、手を伸ばそうとしたとたん、足元のなにかにつまづいて、脚がもつれて前にのめり、あいにく、そこにあった大きな金属の棚のふちで脇腹を打ってしまった。

「うー、いてて」

一人で、うめいた。

<怪我してたら、組体操の演示ができん>

日頃、自分の身体を商品のように考えているのは、だんだんと身についてきた職業意識というわけか。

風邪をひいて、鼻声になったりすると、なんとなく、傷んだ道具で大工仕事をしているような、安い仕事をしている気がして申し訳ない。

脇腹の痛みはしだいにおさまったけれど、なんとなく早朝のしずかな時間に、家族も知らないところで勝手に痛がっていた自分が、滑稽(こっけい)に思えてくる。



朝の静かな時間を、庭ですごした。
まだ青くひんやりとした空気の中で、腹式呼吸、勝手な創作ヨーガ、<嘘くさい>太極拳などをする。

この、嘘くさいヨーガと太極拳は、まともにならったことはないのだが、やっていると、身体がほぐれて、爽快になってくる。嫁様は、この嘘くさい太極拳が大嫌いで、

「ぜったい嘘だし、みっともない動きだからやめて」

と非難するが、ちっとも気にしない。

嫁が眉をひそめる嘘くさい太極拳も、息子には受けが良く、息子はわたしの真似をして奇妙に身体をくねらして遊ぶ。

「へんな動きを教えないで。真似しちゃうでしょ!」

と嫁は怒るが、ちっとも気にしない。



今朝は、嫁も息子も見ていないから、ひとりきりで嘘くさい太極拳を数々こなし、なかなかに爽快な早朝であった。



メンテナンス、という意識はないのだけれど、自分の身体に意識が向くようになってきたのは、多少なりとも、「中年としての心構え」になってきた、ということだろうか。

玄米菜食がよい、糖質制限がよい、酵素摂取が大事など、巷は健康法ブームで喧しい。
自分の身体の状態は今どうなっているのか、よくよくしらべてみないことには、どこかのだれかのいうことに、そこまで頼ってよい保証はない。

自分の身体は、まったくもって、よく分からないことだらけ。

どんな食事で、どんな生活習慣で生きるときが、いちばん調子がよいのか、まだちっとも分からない。

「空腹」が気持ちよい、という感覚があって、それは20代のころから、変わらない。

多少空腹な時に、身体を動かす、ということがいちばん気持ち良い。

久しぶりに、牛の世話をしたいな、と思う朝であった。

春のあぜ道2

教師はボケ役がいいのか、それともツッコミ役か

.
ボケをかます子に対して、先生に期待される役はもちろん、いいツッコミの役だ。

「ちがうよ!」

だけでも、タイミングが良ければ、面白くなる。



ボケやツッコミの面白さは、高学年ならでは、と言う気がする。

勘違いで大笑いすることや、動きの面白さは、低学年がぴか一で、
友達のユニークな動きやアドリブのオモシロさは、とても小さな子にかなわない。

でも、ちょっと知的でウイットの効いた、頭脳の回転が問われるような面白さは、高学年だ。
6年生だからこそ、という場面がたくさんある。


ボケとツッコミが、テンポよく機能しているクラスは、子どものいい意見が相次いでくる。
テレビで馴染んでいるから、お互いの呼吸が分かりやすいのかもしれない。
そういうときにだけ、チラッと子どもが、自分の本音を語る場合もある。
子どもの、素の部分が、見えてくる。
このことが、いちばん大事だと思う。


歴史で卑弥呼が登場するが、卑弥呼はぜったいにその姿を一般の民の前に見せず、占いで政治を行った、という場面で、

「卑弥呼が男か女かどうかすら、本当のことはわかりません」

ということを資料で読んだ子が、資料集を指さし、

「えっ、この人、男なの?」

ギョッとした声を出した。
なぜなら、挿絵に描かれていた絵姿は、まったくの女性であったから。

「ちがうよ!・・・この絵も、本当じゃないんだし」

と、近くの友達がツッコミを入れると、

「えっ、この人、にせものなの?」

と、さらに大声を出す。

あまりに意外な声を出すので、クラス中が笑い出してしまう。


授業の最後に、ノートにまとめを書いて、発表させると、
「ひみこは鬼道をつかいました。魏の国と交流しようとして、奴隷をプレゼントしました。けっこう勢力がありましたが、邪馬台国は滅びました。古墳に埋葬されました。で、結局、男か女か。それは謎ですが、ぼくは女だと思います。なぜなら、魏の国から、鏡をもらっているからです」

聞いていた友達に質問されて、

「だって、女の人だから鏡がほしかったんじゃないかと」

こういう子がいると、クラス中でツッコミをいれることになって、歴史の勉強がたいそう楽しくなる。

教師は、自分がツッコミ役になる技量を備える一方で、クラスの子どもたちが、ボケたり、同時にツッコミにまわったり、とお互いにやりとりできるように、授業を組み立てるべきでありましょう。
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