30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年04月

袖擦り合うも他生の縁

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休日に、息子とバスケットボールをしようと、近くの公園に行った。

すると、近くの介護施設からだろう、車イスの老人たちが先に来ていて、どうやら花見らしい。

公園の隅に八重桜の大木があり、今が満開だ。
ピンク色の花びらが、ピーカンの青空に向かって盛んに咲いている。

公園のグランドでバスケをやっていると、ギターに合わせて歌声が聞こえてきた。

うさぎおいし、かのやま (ふるさと)

春のうららの 隅田川 (花)

はるのおがわはさらさらゆくよ (春の小川)

はるがきた はるがきた どこにきた (春がきた)



春の野で、ギターに合わせて歌を歌う。
みなさん、気持ちよさげで、頬がほころんでいる。


ギターのお兄さんは、施設の職員の方だろう。
けっこういい声で、リードしながら、なんだか場をうまく盛り上げている。
おじいちゃん、おばあちゃんたちも、ほほほ、と時折、笑い声があり、こころが開放されているようだ。


こっちはバスケをしながら、いい天気だし、桜は見事だし、ずいぶん楽しんだ。

どうやら介護施設の会合は終わったらしく、片付けに入った。
職員がアルミの机を畳んだり、車に積み込んだりしている間、待っている車椅子の何人かのおじいちゃんが、こっちをずっと見ていて、

「バスケットボールをやっとるな」

とか話をしている。

息子がシュートを決めると、

「おお、入ったわ。うまいな」

とか言ってる。


わたしは、その中で、かくべつに大きな声を出している一人のおじいちゃんに、興味を持つ。

バスケットが好きだったのかしらん。
それとも、ちょうど、うちの子くらいの、お孫さんがいるのかしら。
久しぶりにお花見に出て来て、気分がよくなったのかな。
うちらに話しかけたくなったのかな。
それとも、いっしょに来ていた養護老人ホームのお友だちに向けて、話題を提供したかったのか。


「ありがとうございます。なかなかうまくなったんですよ。5年生です。お孫さんがいますか?おじいさん、バスケがお好きなんですか?若い頃、選手だったとか?この近くの施設なんですか?」

そんなふうに、こっちも応えたかったが、微妙な距離があって、遠慮してしまった。

片付けが終わると、次々と車にのって、みなさん出発していかれた。



介護施設の車が去ると、息子が言った。

「なんか、ぼくたちのこと、しゃべっていたね」

息子も、やはり、声の一番大きかった、あのおじいちゃんが気になったらしい。

「返事しようかと思ったんだけど、あそこまで遠かったからなー」



人生旅行の妙味。
「袖擦り合うも他生の縁」、というのだろうか。


なんだか、家に帰って来てからも、あのおじいちゃんの人生話を、聞きたくなっている。


春のあぜ道

いろんなふうに、考えられる、という件

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いろいろと考えるのが、面白い。

ああだ、こうだ、と考えを言い合うのが、面白い。

教科書と合っているかどうかが大事なのではなく、

俺たちは、こんなふうにも、考えることができたのだ、という自負。





瓶(びん)の中で、ろうそくの火を燃やし、蓋をしたら、しだいに炎が小さくなり、30秒ほどで消えてしまった。

これを、

「どういうことが起きたのか?」

「明らかになったことは何で、明らかになっていないことは何か?」


というように、討論していくと、面白いことがわかる。



1) 「なにが起きたのか」を、説明するだけで、さまざまな見解が出てくる。

2) 明らかになったことは、ほとんどない。たった一つ、火が消えた、ということだけだ。

3) 逆に、まだ明らかになっていないことが、膨大に見つかる。



実験したんだから、結果が分かったはずで、なにかが明らかになったはず

そう考える人が、ほとんどだろう。


ある実験をやってみた。

明らかになったこと ⇒ 増えた。

不明だったこと ⇒ 減った。


それが、科学的思考ってものだ。


ところが。


やってみると、ちがうのだ。

子どもたちから出てくるのは、疑問点と、いまだ明らかにならない事実ばかり。

そもそも、いったい何が起きたのか、という点でさえ、いろんな意見が出てくるのだ。

理科は、やればやるほど、分からなくなる教科なのであった。




Aさんの意見。
火が消えたわけは、酸素がふたの隙間から、上空へと軽くなって上がっていったため。
酸素の変化001


Bさんの意見。
火が消えたわけは、酸素が水蒸気に変わってしまったため。
酸素は水蒸気になったと思う



いろんなふうに、考える。

で、今のところ、すべて、それらはあくまでも「考え」であって、

「事実」ではない、という、宙ぶらりんな感じ。




同じように、

人間とは何か、相手を理解するとは何か、という点をしらべていくと、
確かなことがスーッと消えたように見えなくなる。

気軽に頼っているところの知識や見解というものが、あやふやなものに思えてくる。
あれほど確かだと思えたものは、みな、正体不明のもやもやした実体のないもの。

どうやら確かなのは、

「〇〇したい」

と思っている自分、というだけだ。

相手のことなんて、ちっとも、分からない。

小学校のおもしろ歳時記

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「もう、こんな季節になったか・・・」

と、独り言を思わずつぶやきたくなる瞬間って、誰にもあることだろうと思います。

今日、そんな、 季節の移り変わり を実感するようなことがありました。

職員室に、一本の電話がかかってきたのです。

「すみません、おたくの小学校の子が、用水路の栓を勝手に開けちゃって・・・」


帰り道。

田んぼに水を引き入れるために、用水路の水量調節をしている栓を、勝手にいじってしまう子がいるのだ。
そのせいで田んぼに水が入っていかず、時間になっても予定していた水量にとどかないとのこと。

「田んぼの持ち主どうしで、お互いに予定もあるんでねえ。こっちは大変な迷惑ですよ」

教頭が、必死になって頭を下げている。

「今から、現場を見に行きまして、明日にもさっそく、全校の子どもたちに指導を徹底いたしますので・・・」

電話に向かって、90度に腰を折り曲げて、謝罪している。

話しが終わり、教頭が受話器を置くのを見て、わたしの隣に座っていた年配の先生が、

「あー・・・」

と、あったかいお茶を飲み干した時のようなため息をついた。

そして、

「いやあ、もうすぐ、5月なんだねえ。毎年のことだけど」

わたしがきょとんとしていると、

「いや、こんな電話がかかってきてサ・・・」

先輩は、教頭をチラりと見、

その後、深いため息をついて、目を閉じると、

「子どもが用水路の栓を開ける、電話がかかってくる、そして教頭があやまる・・・これでやっと、5月が来るなあ~ってね。実感するんだよネ・・・」

先輩は、ほおづえ姿で、心から柔らかい笑みをうかべて、そう語ったのであります。




そういえば、と私は思い出した。

同じように、ある季節を実感できる出来事が、ある。

冬。

ああ、いよいよ冬だよなあ、厳しくなるぞ、と思う頃。

この時期の話題は、学校のビオトープ池に、2年生が落ちた、というやつでして・・・

霜が降り、空気が凍てはじめる頃、2年生の先生は、

「さあ、今年の第一号は誰かねえ」

と、心の中で、予想をする。
自分のクラスだと、大変だな、とチラッと思う。

同時に、

「落ちた連絡⇒バスタオルもって駆け付ける⇒引きあげ⇒保健室⇒ストーブで暖める⇒替えのズボンとパンツ⇒保護者の連絡帳にパンツ洗濯依頼⇒説教」


という、一連の流れをシミュレーションするのでありますね。


しんしんと冷えた朝、

「せんせー、氷が割れて、〇〇くんが落ちたよっ!」

職員室に、こんな子どもの声が響くと、

「ああ、本格的に、冬になってきたなあ」

としみじみ、思うのです。

(そろそろスキー板、出しておかなきゃな)



わたしは、遠方に見える山の雪がとけてきて、ずいぶんと色が黒く見えてくると、ああ、冬はもう過ぎたのだなあ、ということを実感します。

目の前の桜が散りはじめ、道路に桜の花びらが重なり落ちているのを見ると、次にやってくる、さわやかな新緑の季節を感じます。

職員室では、今の時期、用水路へのいたずら旬な話題というわけで・・・・また、世間とはちがった歳時記が語られている、ということであります。


春の用水路

聖徳太子が教科書から消えた、というデマ

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学校をネタにした話題というのがたくさんある。

よく聞くのは、

「手をつないで皆平等のゴールイン」

というデマ。



これはデマであることが明白だ。

教員なら、「んなアホな」と誰でも、分かる。

これが、マスコミの噂で面白おかしく紹介されるときも、

「〇〇県の〇〇小学校での手つなぎゴール」

というように具体的に、紹介されることはない。

事実じゃないからね。


おそらく、どこぞの放送作家がマスコミ受けしそうな話題として、ゆとり教育批判にかこつけて作文したのでしょう。



もう一つあるネタが、

「知ってる?小学校の教科書が、昔と違って、どんどん変わってきてる!」

という話題です。

驚くべし、皆さんご存知の聖徳太子が、教科書から削除された、というデマがあるそうで。

他にも、西郷隆盛の写真が教科書で改訂されて、例の犬を連れた西郷さんではなくなった、とか。

みなさんがご存知の西郷どんの肖像、あれは、西郷さんを見たことがない外国人絵師が、ともかく絵を残さないとまずい、という状況で急きょ、作成した肖像画だ、というのだ。

だから、写真も改訂されたとの噂があったようで、どうなったか興味津々でありました。




ところが!!



ざんねんなことに、教科書、それほど変わっちゃいません。

聖徳太子だって、きちんとそのまま記述されていて、なんということもない。

わたしはわくわくしながら6年の新教科書(今年春改訂)を見たのに、

聖徳太子は、やっぱり昔のまま掲載されている!

うわさになってる聖徳太子が消えたなら、十七条の憲法とか、どう解説されるんだろう、と、ドキドキしてたのに。

しかし、2分後、やはりまた、西郷さんの噂を思い出して、

「あ、まだ西郷さんがいた!本当は上野の西郷さんは合成だったんだっけ!!」

と思い直して、次もまた、わくわくしながら西郷さんを探したら、やっぱり20年前の教科書と同じ、あの西郷さんが、あの写真のまま、掲載されている。


ちっとも、世間の噂どおりに、なっとらんのです。





なっとらんです(泣)。

ごっつい、たのしみやったのに・・・。



・・・しかし、縄文時代のあの対決図、
暴れまわる大ジカ VS 手に槍の男数人
これは、教科書から消えてもいいな。(←また言ってる)



聖徳太子

縄文時代の学習は、たったの1時間のみ!

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6年生の担任になって、一番ざんねんなのは、

社会の授業であります。

縄文時代の授業は、公には、

たったの1時間程度しか、予定されていません。

なんてこった!
縄文フリークのわたしが、たったの1時間しか、授業できないなんて!!



わたしは、大急ぎで、授業を進めなければならない。

1 縄文時代は豊かだったと言えるだろうか

2 狩り採集の暮らしと、農耕の暮らし、どっちが良いか

3 縄文時代は技術力が高いくせになぜ古墳がないのか


これだけでも、えらい時間かかる。
本当はもっと、討論したいことがたくさんあるのに・・・!!


この3つの中で、いちばん盛り上がったのは、1番の、

「縄文時代は、果たして豊かだったのか」


というテーマでしたね。

まだ最初の授業だったからか、子どもたちに縄文時代のイメージが薄く、いろいろと疑問が出て来て、面白かったです。

最初は、「貧しかったと思う」という子がほとんどでしたが、資料を読みこなすにつれて、

ものすごく豊かだった縄文時代、というイメージに、がらりと転換していくのが見事でした。

農耕をしないでも、ありとあらゆる自然界の恵みを得る能力が高く、豊かに暮らしていた時代、というのが、縄文時代の総括となりました。


ところがちょっとこれは問題があって・・・。

何が問題かというと、教科書によくある、

「縄文時代は欠陥があったので、弥生時代の農耕に進化した」

というストーリィが、なんとなくしっくりこない、という点ですね。

これについては、こんな情報も、子どもたちにちょっと耳打ちしておく。

「アフリカの奥地に住む、食物獲得に費やす時間が平均二時間以下(余暇たっぷり)のハドサ族に、文明人が農業を教えようとすると、『この世にモンゴンゴの実がこんなにたくさんあるというのに、どうして植えなければならないのか』と言って拒否したそうです。彼らは、農業を知らないから農業をしないのではなくて、余暇を守るために農業を拒否したのです」


すると、子どもたちから、

「あんまり豊かだったんで、人口が増えすぎたんじゃないかと思う」

だって。

スルドイ!!!!!


つまり、

縄文時代(すごく豊か)⇒人口爆発増加⇒ちょっと増えすぎて食糧不足⇒貧しい人たちが出現⇒しかたなく農業をやるはめになる。

というストーリー。


これなら、納得ね。

縄文時代を境に、どんどんと人にとっての自然環境は貧しくなり、昔ながらの悠然たる「狩り採集スタイル」、つまり、まるで富豪の余暇のような暮らしというのは、もう実行できない、というわけだ。

・・・っつーことは・・・人間社会は、どんどん、退化してますナ。





あと、

教科書や資料集には、大型のシカやイノシシを追いかける男たちが、手に槍や、弓矢をもって挑む構図のイラストが堂々と掲載されていますが、

これに真っ向から反論できる6年生ってすごいと思います。


「こんな、命がけのこと、やらないと思う。」

だって。




土器や墓をつくり、三内丸山遺跡の巨大掘立柱建造物がつくれるくらいの測量、土木技術に優れた縄文人たちが、こんなリスクの高い行動を、日々、行うはずがない。

「こんな、大型のシカと、真っ向からやり合うとか、ないよね」



わたしは、疑問に思って、尋ねる。

へえ、みんなが縄文人だったら、どうするの?だって、お肉が食べたいじゃない?

子どもたち、すかさず、



「えっと、落とし穴」
「みんなで追い込む」



ほぼ、全員がそれに賛同。



この、縄文人が、

「槍をもって、男たちが数人で、勇んで、命がけの、すさまじいリスクをはらむ大勝負に出ている構図」

というイラストって、ずっと昔から、訂正されずに続いている。

ま、事実、↑ こういったこともあったろうから、いいんだけど。




問題なのは、まるっきり、教科書や資料集を、疑ってかかる6年生がいるってこと。

歴史って、どこまで想像していいんでしょうか・・・。


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人生の、最大のなぞ

.
以前、1年生の担任であった頃。

知的障害学級のSくんが、登校するのは大変でありました。

お母さんといっしょに昇降口に到着すると、彼は実にゆっくりとした動作で、

くつをぬぎます。

その間、お母さんも、

実にゆっくりと、

彼の横で、立っています。


たいしたものだな、と当時、思いましたね。

わたくしも、息子が生まれてから、いつもなんとなく、そのお母さんの立ち姿を思い浮かべていることがある。


いらいら、でもなく。

「ハイッ、くつをぬいで!」

と言うのでもなく。

「先生が待っていらっしゃるんだからッ」

とか、そんなことがいっさいなく。

ただ、立ってる。


べつに、息子さんを心配しているふうでもない、

忙しそうに携帯の画面を見るというのでもなく、

他の子に話しかけてコミュニケーションを積極的にとるタイプでもなく、

ただ、そこに立って、邪魔にならないようにだけど、立って、待ってる。


でもね、不思議なことに、あまり、待ってる、というオーラがないのだった。




この、ただ、立ってる、というの。

これが、なかなか、できない、ということはみなさん、おわかりになるでしょう。


わたしはそのお母さんが印象的でありましたので、同じように立っていたかったのですが、一年生の担任ですから、すぐに他の子たちに囲まれてしまって、教室に呼ばれたり、外遊びに誘われたり、話しかけられたりして、ちっともゆっくりとその親子につきあっていることができなかったのです。


今、たまたまそれを思い出したのは、6年生をつれて1年生の学級に遊びに行ったときのこと。

(最上級生は、1年生と姉妹学級なので、子どもたち34人と共に挨拶にいきます)




1年1組さんに行くと、みんなきちんと席について、座って待ってくれている。

このクラスには、知的障害学級在籍、という子もふくまれていたので、その子と、支援担当の先生も、いらっしゃいました。

どんな様子だったかというと・・・



教室の中で、いちばんテンションの高かったのは、その、支援担当の先生でした。

なんせ、しゃべり詰め。

ずっとしゃべってる。

「ほら!Tくん、6年生がきてくれたよ、ほら、座って、ほら、手を出して、いっしょにやるよ、せーの!!ほら、よいしょ・・・手を出してごらん、そうそう、ほら・・・」

という感じ。


1年生との交流あそびの時間が終わり、6年生がおわりの挨拶をした。



すると、その支援級の先生は、

「あ、ほーら、Tくん、また6年生にきてもらおうね、バイバーイ、バイバイー!!」

と、とびきりの笑顔で、そのTくんとともに、うれしがっているのです。

いや、これでTくんが、同じように嬉しがっているのなら、OKですよ。

でも、そうではない。

興奮しているだけ。

興奮する、というのと、心地よく過ごす、と言うのは、別の話だと思いますね。



おそらく、Tくんと、ほとんどこれまで面識のなかった先生なので、彼と必死にコミュニケーションをとろうと努力しているのでありましょう。

ただ、おそらく、Tくんと心を通じ合わせるには、
◎高い声
◎多い台詞
◎腕やひじなど身体の一部を勝手に触る
◎耳元で大声を出す

等は、逆効果だと思われます。



その先生は、がんばってTくんと心を通じ合わせたいと願って、
◎明るい声で
◎話しかけることで
◎ボディタッチで刺激を与えながら
◎うれしさを表現する

ことをやりたかったのだと思う。

ところが、全部、逆効果だ。
ここが、ひとの業の深さなんでしょうなあ・・・。



Tくんと、心を通わせたいとねがう人が、

がんばって努力し、励めば励むほど、

Tくんの心を、とざしてしまう方向へ、事態がうごいていく。




わたしは、この、

「励めば励むほどに遠ざかる、ということが、人間社会には実に多い」


ということを、心から嘆くものであります。




なぜ、ほしいものが、得られないのか。


なぜ、努力すればするほど、得られないのか。




ここが、本当に人生の、最大のなぞ。

このことが分かると、のこりの人生が、なんと豊かに変わることだろう、とよく想像します。



おそらくそこらへんのヒントは、昇降口で、ゆっくり靴をぬぐのを待っていた、あのお母さんの態度のどこかに、あるような気がしています。


水仙の中の虫

『選活』(せんかつ)について

.
4月となり、職場にも新しい顔ぶれが登場した。
職員室が、なにかしら、華やぐネ。
ここには、
新しい人間関係が結ばれ始めた楽しさ、嬉しさ
がある。


夜、歓迎会で、先生になりたて、ほやほやの同僚(青年)と話をした。
すると、彼が、

「いや、ぼく、就活(シューカツ)もいろいろしたんですけどねー・・・。でも、教師になる気持ちが最後まで消えなくて・・・」

というようなことをしゃべった。


ビールとレモンライムを交互に飲みながら、思う。
何だか、「就職活動」って、とてもオトナの言葉に聞こえるナァ・・・。
みんな、すごいよなあ・・・。



「〇活」
という言葉を、よく聞くようになった。
就活(シューカツ)という言葉が使われ始めたころ、学生は、「活」という、短く勢いのある語を使い、就職戦線を乗り越えようとしたのだろう。

今じゃ、

婚活(こんかつ)
終活(しゅうかつ)
離活(りかつ)
産活(さんかつ)
なんてのまで、ある。

昨今ますます増えてきた『〇活』という表現。



『活』は「活動」の略で、漢字の意味は、

【いきいきと。勢いよく動く】

という意味。

デリケートな問題でも『〇活』と表現することによって、みんな、話題にしやすくなるのだろう。
お互いに、わかりやすく、親しみやすい語句にして使えば、一人で問題を抱えるよりも情報が入りやすくなる。


ただ、この

「活」

という言葉には、勢いがありすぎる。

勢いのある言葉を使い過ぎると、あぶない気もする。
なんだか、なにか大事なものが、どこかへ流されてしまうこともあるんじゃないか・・・。

そんな気がする。

たしかに、一気呵成に、というのは、ここぞ、というときには必要なものかもしれない。

しかし、同時に、「機関銃的」なあぶなさ、つまり、とめることのできない不器用さ、見当違いの方向へ弾を撃ってしまうかもしれないという恐ろしさが潜んでいるような気がする。





本来「活」は、とてもすがすがしくて、はりきっていて、明るいものだと思う。

ただし、たとえ自分が「活」の最中であっても、常にこれまで積み上げてきたものにこだわらないで、

自分の中の素直なものにとって、

無理のない進み方をさがして、

楽に、楽に、

考えていきたい。

自分の真意は、ひとの真意は、と・・・。

人間にとって絶対に無理のない道があるはず。






さて。統一地方選挙です。

駅前では、白い手袋にマイクを持った候補者の演説が聞こえてくる。

政治家のみなさんは、まさに今、選挙活動(選活?)のまっさい中だ。

選活

「今の日本」を論じてもいいし、「政局」を論じてもいい、「経済」や「国債危機」を論じてもいい。
どんな演説の内容でもいいけど、

いつでも、素にもどって、

ただの人間にもどって、


ひとにとって、どう考えていくのがもっとも「無理のない」行き方なのか、語ってほしい。


もしもそうでなかったとしたら、

どうせどこかからの借り物理論だろうし、

だれかをやりつけるための論法ばかりみがいたところで、

その「機関銃的発想」は、あぶなさばかりが目について、

ハラハラするばかりだしサ・・・。



春の野草
小さな、野草です。なんていう名前だろう?

教員は「社会モデル」と「医学モデル」のはざまで

.
職場でさかんに、このこと()を聞いて回っている。
「社会モデル」「医学モデル」の、どちらが重要だと思うか。

という質問。



社会モデルとは、

足の不自由な人のために、スロープをつくることが大事

という発想のことで、

医学モデルとは、

足の不自由な人のために、リハビリさせることが大事

という発想のことであります。



さて、うちの学校の先生たちは、どっちが大事だと判断したのでしょう。



実は、これはみなさんの予想どおりです。
つまり、

どっちも大事。



・・・ま、当然、そうお答えになるでしょうね。

先生たちは、どっちも大事で、両方を進めるべきだ、という人ばかりでした。
ほぼ全員、それを即答しました。

予想通りです。




その後、でも、どっちか、

少しでも大事だと思うのはどっちか、無理やりでも決めてください!

と、少々乱暴なお願いをしてみました。

さて、どっちだと思いますか?

これを読んでいるあなたの予想は、どうでしょう?

「先生たちはこっちを大事だと判断したんじゃないかな」

と決めることができましたか?



おそらくその答えには、ご自身の判断も、多少は反映されているのではないかと思います。


では、ふたつめの質問です。

なぜあなたは、そう判断したのでしょう?

先生たちは、そっちを選んだのだろうな、と決めた瞬間、あなたの脳裏によぎった判断の根拠とは、何だったのでしょうか。


なぜ、そう考えるのか。

根拠は?










では、先生方の、お答えになったことを書きます。

答えは、なんと、




「社会モデル」

でありました。


なぜか。


それは、おそらく、小学校の先生だから、ということなのでしょう。

つまり、

小学生を相手にしている先生たちは、


できる・できないは、子どものせい、ではない。


というのが、根底にあるからではないでしょうか。



これが、大人相手だと、


足が不自由なのは、自分の努力不足だ。

治そうと治療のための努力をまずはしていくことが大事だ。



というふうに、判断が変わっていくのだろうと推測します。



一概には言えないことは確かでしょうが、

わたしは、社会モデルに点数をつけるとしたら、100点をつけますね。

対して、医学モデルは、せいぜい5点。



医学モデルは、

人生は、努力によってなんとかするもの

という匂いがぷんぷんします。



でも、おそらく、人生は、そういうもの、ではない。

人生は、お互いがお互いの願いを聞き合うもの。

・・・だ、と思います。

まずは、ね。

わたくしと同じように、学校の教師をしている人でも、わたくし(新間)とは、まったく反対の点数をつける人もいるでしょうが・・・。



この


「社会モデル」「医学モデル」の考察は


これからの子どもたちの進路を決めるのに、大事になってくる。

キャリア、進路を考える際に、子どもたちの生き方の、その根底にふれるものだろうと思います。

キャリア教育は、この考察から始めるのが、大事なのではないかと思います。

「社会モデル」を大切だと思う子は、そういう進路をとる。

「医学モデル」を大切だと思う子は、そういう進路にすすめばいいのです。

そして、自分はどうしてそちらの進路を選んだのか、自分が根拠にしている思想のよりどころを、きちんと自分で把握しておくことに、価値があるのだろうと思うね。


〇いまは、「医学モデル」を大事だと思うから、そういう仕事を選びたい。
〇いまは、「社会モデル」に根拠を置く仕事に就きたい。



自分で、そうやって客観的に、自分の立場を知っておくことに、大きな価値がある。


黄色スイセン3
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