30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年03月

上手にテレビを見るコツ

.
「テレビを上手に見る方法」という本なら、うちの嫁様が書ける。
どこか出版関係の方、ぜひご相談ください。


その、テレビ視聴歴ウン十年、というセミプロの嫁様に言わせると、そのコツは、

「石の上にも3年」

・・・だそうだ。

テレビも、面白くなくても、ひたすら見る。

これをば、

只管打座
という。

テレビに正対し、
心をむなしくして、
ただひたすらに心に映りこむ音声と映像に、
おのれの波長を合わせていくことで、
テレビの裏側が見える、

というのだ。


慣れてくると、真の面白さ、ここで笑ってほしい、というタイミングが見えてくるのだそう。

「ほら、テレビでみんな、笑うでしょう。スタジオでみんな笑うじゃん。そこで、ちゃんと、心の底から、スタジオの人といっしょに笑うことができてこそ、真のテレビ視聴士(しちょうし)と言えるのよ」、ということらしい。

ほんの10分もしないうちに、リモコンのスイッチを切ってしまいたくなるのは、テレビ視聴士の受験資格もない、つまりお話にもならないレベルだそうだ。そのうちに、ありとあらゆるテレビの嘘くささが、寛容の精神と共に楽しめるようになる、という。

わたしゃ、危うく、「師とあおぐのはこの人だ」、と思いそうになりました。


ところで、先日。

ニートの討論番組みたいなのをやっていた。そこに、将来に夢も希望もなくて、という人が悩んでいたので、そこでちょこっとだけ、何か頭が動いた気がして、それをきっかけに、いくつか、書く。


コメントを求められて、「将来に、夢も希望もない」
と残念そうに呟き、同情されていた、
その人はニートであり引きこもりであります。

結論を言えば、夢も希望も、なくても皆幸福に生きていける社会が本当だ。

それを、さも「夢」を持つことこそが大切だというように教えてプレッシャーを与えている今の教育が狂っている。

脅迫的に「夢を持て」とは、本末転倒。
まず先に、大事なことがある。
それを無視しているから、夢もやりたいことも、なにも浮かんでこないので・・・。

なにも準備もないのに、脅迫的に夢を持て、と脅すから、子どもの「夢」がゆがんでくる。
神経症的な「夢」を追うようになる。
まともな夢でなくて、周囲の人にとっちゃ、はた迷惑な夢だってあるよね。
「やりたい」と思う気持ちが、はた迷惑になる、ということ、けっこう、多い。
戦争して人を殺したい、という勤勉マジメな政治家ほど、はた迷惑な存在はないわけだし。

(写真は、はげしく泳ぐ勤勉なナマケモノ)
P1030055


1年生の子に、「宇宙飛行士になりたい」とか「医者になりたい」とか言わす。
そこに、「夢が持てていてすばらしいです」とか、コメント書く。

いいけど、心がキュッと、ちぢんじゃってないか。気になる。

七夕の短冊に「ポテトチプツスの大ぶくろ、ぜんぶひとりでたべたいです」とあったが、
1年生だもんな。

まともな人間関係ができると⇒ やりたいことが見えてくる

これが本当の順番で。

NHKの討論でも、前段がすべて無視されているから、本当にやりたいことも見えてこないよな。

クロマグロが泳ぐ水族館

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クロマグロが泳いでいるという水族館へ行ってきました。「1匹だけ残った」とニュースで報道していたので、その一匹がどんな顔をしているのか、とても興味があったので・・・。
   
 たまたま通りかかった水族館の方に、世間話のように独り言っぽく

「もうこれでマグロの展示はしばらくないのでしょうかねえ」

と言ってみたら、意外にも反応してくださって、
   
「システムも見直そうという話も出ているし、まだわかりません・・・」と。
   
 いろんな意味での挑戦だったのでしょうが、「マグロの回遊が見られる」 という状況をつくるのには、乗り越える課題が多くあったようです。話を聞きながら、「これまでも、そこまで努力してきたの、すごいことだなあ」と思ったですな。

(写真は、現在この水槽で泳ぐ、一匹のクロマグロ)
一匹のまぐろ


この一匹も、なんだか調子よくないというか、水槽の上の方ばかり泳いでいるのだった。水槽は高さが何メートルもあるのに。
   
 なにかを求めているような。
  
 そして、かなりゆっくり泳いでいました。
  
 こうなった、そもそもの原因が何か、というふうに、多くの人は関心を寄せるみたいだが、マグロがこの水槽で生きていられる要因はざっと1000個ほど考えられているらしい。その要因1~要因1000も、その元になる事象をくわしく見ると、要因1の1、1の2、1の3、と細かく分けられるようで、そうやって原因の原因の原因の原因・・・と探り続けると、これはもう、とても人間には解明できないかもしれない。(マグロとは何か、という哲学的な問いに近づく)
   
クロマグロを見に3FB

  分からないけれど、生きている、というのが今の状況のこの一匹のマグロについて言えることで、
   
  他の死んでしまったマグロについても、これかな、というのはあっても、よくは分からないが、生きていられなかった、ということ。  
  
  手塚治虫氏のブラックジャックが、自分の手術道具のメスを鍛えてもらっていた鍛冶職人に、

 
「生き死にを医者が分かるつもりになるんじゃない」

  という意味の置手紙をもらって、泣いていたけれど、

マグロのニュースでも、何か共通するもの、感ずる。

クロマグロを見に

中高生こそ、落語を聴け!

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落語歴30年以上だから、このくらい言ってもゆるされるやろ。

「中高生は、落語を聴け!」

その理由は、耳に残るから、である。

いつまでも、残る。

たぶん、死ぬまで、残りつづける。

こんな残り方は、中高生でとことん聞きまくった状況でないかぎり、ありえないだろう。


なぜ、中高生のときの映像は、いつまでも生きているように、記憶に残るのだろうか。

わたしは、米朝が舞台上で

「還暦を迎えまして」

と言ったのを間近で見た。
「算段の平兵衛」という、ひときわ長い噺で、体力の要る舞台だったと思うが、米朝はノリにのっていて、絶好調だった。

わたしは還暦の爺さん、というのはよぼよぼのイメージだったのだが、米朝は枕のボケもギャグも新鮮で、ウケに受けていたから、やっぱ落語は爺さんに限るな、と帰り道に歩きながら合点したものだ。

今からすれば、還暦なんてまだまだ若手だ。

わたしは、たちまち、米朝のファンとなった。

ファンになって一番困ったのが、新聞の見出しをみて、ドキッとすることである。

新聞の一面に、黒々とでかく、トップの見出し!

朝一番に、
「米朝緊急会談実現」

とか真っ黒のでかい見出しの字を見ると、本当に心臓がとびだしそうなほど驚いた。

いったい、米朝師匠がだれと会談したのか!?

まさか関西圏を飛び出して、円楽さんと日テレ「笑点」にでるなんて話してないだろうな・・・。

ところが大体、新聞のトップ一面に載った「米朝」は、米朝師匠のことではないようだったので、がっかりしたものだ。

いまだに、アメリカを「米」と書くことには、ずいぶん違和感がある。
(北朝鮮を「朝」と略すのも、いい加減やめてほしい)


***


中高生のころ、学校の勉強はそっちのけ、全精力を落語に傾けていた時期、おそらく脳みそが特殊に開発されたとしか思えないが、今でも当時のギャグや声の調子、枕の小噺など、すべて脳裡によみがえってくる。

いつでも無料で動画が見られるようなものだ。

いってみれば、すっかり脳みそに永久保存されているわけ。


わたしは、ひまなとき、ふと目をとじる。

そして、頭の中で、チャンネルを合わせる。

「きょうは、えっと・・・、米朝にしようかな。話は・・・、そうだなあ、池田の猪買いか、皿屋敷か・・・」

すると、自動的に再生がはじまり、映像がスーッと流れていく。



で、飽きない。

なぜかというと、同じ話をきいても、発見があるからで、2回目には見えなかったことが、3回目に見えてきたり、10回目に見えてきたり、100回目

ハッ!!

とすることもあるからで、こうなったら、私の人生に、もはや、新作は要らない。



よく、ビデオレンタルなんかで、新しい映画の新作を次々に借りる人がいる。
私の嫁様も、よくハリウッド映画の新作を借りて来て見ているが、わたしは見ない。

なぜなら、そんなものを見ている暇はなく、時間の余裕がないからである。
忙しい中でも、暇をみつけては、落語を見なければならないからである。

カーナビのハードディスクに、小三治さんの落語がかなりつめこんであって、わたしはそればかり聞いている。たまに嫁様が同乗するときに小三治の音声が流れると、

「うわっ!またこれ聞いてる!・・・ったくもぅ、同じのばっかりで飽きないの?」

と、本当に呆れたように言われるけど・・・。


でもね、飽きないのですわ。

舞台の落語もいいけど、

音声で聞く落語や、脳内再生する落語はね、

ここでこんなふうに、とか、

ここの言い回しはもっとこう、とか、

声をはるところ、

ぼそっというところ、

間延びしたこえでとぼけたようにいうところ、

おかみさんが極端に下手に出る言い方とか、

わざと丁稚がカン違いして言うところとか、


聴きながら、どんどんと、

工夫をして、

聞くのですよ。




だから、忙しい!

だから、一度聞いたくらいじゃ、消化できない!!

何度も聞かないと、分からない!!

したがって、おんなじ噺を、

何度も何度も何度も何度も、くりかえしくりかえし、

聴くことになるのです。



当然、世間の話題に疎くなります!

ざんねん!

なんで、こんな趣味嗜好になっちまったんだ?



はっ、きっと米朝のせいだ。ちっくしょう!
あいつの落語をきいたせいで、こんなことに・・・


いや、

米朝師匠の、おかげですね。

おかげで、カネのかからん趣味が手に入りましたから。

ありがたい!

米朝師匠、安らかに。合掌。

beicho


写真は、一昨年夏の「米朝展」。

教育はセリフの字面ではなくて・・・という件

「そのままでいいんだよ」
と言っていい、ということ。

そんなことを言えば、子どもたちは怠けてしまうだろう、ということをたいていの人は不安に思う。私もそう思う。心の深い所では、そう思っている。よくいえば、心配してしまう。

だが、子どもにいちばんいけないのが、
「そんなことではだめだよ」
というメッセージであり、そのままがいいよ、と言ってあげても、まったく怠けたり、不遜になったり、傲慢になったりはしない。

そこが、子どもの、いいところ、であります。

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 ↑ 先日、若い同僚に、こういう話をしていたら、まったく信じない。

著名な児童心理学者である佐々木正美先生の言葉だ、というふうに解説しても、半信半疑。

まあ、ふだんから私が、冗談か本当か分からないことばかり言ってるので、仕方ないけど・・・(爆)。



これ、実は、半分正解で、半分ちがうんだ、と思っている。


つまり、Aさんが「そのままでいいんだよ」というと子どもが荒れる、ということがある。
しかし、Bさんが「そのままでいいんだよ」というと子どもは安心してのびのび育つ。

そして、Aさんが「そんなことではだめだ」というと子どもが荒れる。
だけど、Bさんが「そんなことではだめだ」というと子どもはより深く自分で考えるようになる。


つまり、セリフがどうのこうの、じゃないわけで、なにが違うのか。

言うか言わないか、とかじゃないわけで。

教員の世界ですごすようになって、ずっとこのちがいについて考えているけど、
このちがいは、とてもひとことでは言い表せない。


P1020469

なるほど、水中からみると、ペンギンの泳ぎ方が、よくわかるね。

きちんと想像した人がまだいない件

前回からの、つづきです。


さて、そうやって責め合わない学校ができると、どうなっていくか。

そこから先を、想像していくのが、これからの仕事です。

だって、まだ、人類史上に、そんな学校の姿を、

きちんと想像した人は、

だれもいなさそうだから。




だれも責め合わない、という前提の「想像」が、これからなんです。

で、たぶん、ものすごい、大仕事です。

頭が、ずいぶんやわらかくなくちゃいけないから。


どうでしょうか。

ともかくも、

他を責めることのない人間関係を構築するのが、

目的となっている学校を設立するのって、どう思います?


無理か、むりでないか、でなく。

まず、どんなものか、と想像したい。




決して、他を責めない、ということに最大の価値をおく。

そこにこだわり続けるシステムを構築すると

どんな学校ができるのだろう?



そして、その上で、あとは、個々人の子どもたちの、一人ひとりの、

能力を伸ばしていく。



うまく、想像できない。

多分、世の中から、そうとう、ずれてしまう。

今は、「いろんな能力が高く、態度のでかい、実行力のある子が良い」

となっているからね。

事柄を、やる、進めることに価値を認める社会だから。



ところが、この新しい学校では、

「事柄以前の、人と人との間柄を構築することの価値」

を、優先することになってしまう。



どうなるだろうか。



まったく、未知の、想像もつかない、新しい学校の姿。

だれも、まだ、想像すら、できない。

想像すら。

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だれとも攻め合わず、責め合わず、済む学校

前回からの、つづきです。


真意を聞こうとする文化、というと、一人ひとりが地道にがんばって意識するもの、という感じがあるけど、ストイックな感じは、そこには、おそらくないよなあ。

だって、そうなればなるだけ、仲が良くなっていくものだろうという気がするもの。



ちょっと待って、自分の真意は・・・
ちょっと待った、相手の真意は・・・




知ろうとしていると、相当、見えてくると思う。





こんな会話。
真意が見えますか。




「先生、ギターで校歌ひける?」

「来たばっかだから、無理に決まってるでしょ」




なんか、通わないものを感ずる。

相手の真意を聞こうとすると、こういう会話まで変わっていくと思うね。

パン、パンッ!と、なにかを跳ね返すような会話は、姿を変えていくんじゃないか。


その結果、

だれとも攻め合わず、責め合わず、済む学校になる。

それで当然、という文化が生まれる。


このことだけが前提にあれば、あとの形は、どうでもいいような気がしているんだよね。



理想を描くとき。

新しい学校をつくるとか、なにか新しいことをみんなではじめようとかするとき、そのなかまの間柄をつらぬく、

一本の柱になる文化。


つづく。


冬越しした白い花

真意を聞こうとする文化が、学校にあるか

前回からの、つづきです。


子どものは、簡単だ。

「キミは相手に優しくして欲しい、と思っているんでしょう。

反対に、

キミが

◯◯くんに対してやさしくしてあげよう、というのはどうなの?」


と聞くと、

「ぼくはやさしくしてあげようと思っているよ」

じゃあ、なんでねんどを触っていたのか、わけをたずねてみようよ。


すると、プロントサウルスの首が、とれそうになっていたから、なおしてあげようと思ったら、とれちゃった。

そしたら、うしろの席でそれを見てたUちゃんが、

「あっ、壊した!」

と言ったんだ、ということがわかる。




なーんだ、そうだったの。





やりたかったのは、プロントサウルスを、かっこよくしたかったということ、みんなで、いいねえ、かっこいいねえ、と言い合いたかった、ということ。お互いに見つめあって、ニンマリしたかった、ということ。

この思いは、みんなに共通のものだった、ということ。



真意を聞こうとする文化が、学校にあるか。

もしくは、子どもの周りの、大人たちの生活の中に、きちんと息づいているか。



つづく。

冬を越して生えてきたクローバー

悪循環から、抜け出すもの

.
前回からの、つづきです。


こういうことを、つらつらと考えているうちに、学級でいろんな揉め事が起きる。


子ども同士で、相手を変えようとして頑張っていることがある。

大抵、正義ヅラして、相手の行動を非難する子がいるので、話を聞きます。

すると、なぜ相手が悪いか、という話しばっかりする。

長いから、

「で、きみは、どうしたいの」

というと、黙っているから、

「じゃ、◯◯くんに、どうしてほしかったの」

と助け舟を出すと、

「ねんどをさわってほしくなかった」

という。

「ぼくのねんどを、大事にして欲しかったのね」

確認すると、うなずいて、そうだ、そうだ、という。

「ねんどもそうだけど、◯◯くんに、もっとやさしくしてほしいのね」

というと、確信的にうなずきます。



で、やさしくしてくれない、と思うから、苦しかったんだね。

なんで、ぼくにやさしくしてくれないんだ、となった。

そう思うと、なおさら、苦しい。



で、苦しいのは、相手のせいだと思うから、ますます苦しくなる。

苦しいからなおまた、相手を変えたくなって、なおのこと、苦しくなる。


悪循環。

この、悪循環から、抜け出すものはなにか。



さらに、つづく。


子どもとは

小学校で必修にすべきことは?

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1 事実と思いのちがい
2 あらゆる制度が未だ完成していないことの理解
3 人間の素の姿が大切にされるとはどういうことか
4 人と人との間柄に脅迫が要るかどうか
5 この世には、まだ名前のついていない事象や認識事項がたくさんあること



この5つを、必修とする学校。

そんな学校、どんな学校?

いまだに、この世には、あらわれたことのない、だれも見たことのない学校。




なにやら、正体のつかない、想像だけの学校。

シュタイナーは?
ニイルは?
デューイや、フロムは?

彼らは、想像しただろうか?

彼らの教育との、ちがいは何か?
あるいは共通点は、どこか?
海外には、こうした学校があるだろうか?
それとも、日本で、こうした学校の先駆例があるのだろうか?

1 事実と思いのちがい
2 あらゆる制度が未だ完成していないことの理解
3 人間の素の姿が大切にされるとはどういうことか
4 人と人との間柄に脅迫が要るかどうか
5 この世には、まだ名前のついていない事象や認識事項がたくさんあること


ここ数年、ずっと考え続けてきた、今の時点での、


しぼりきった5項目。



これらを、必修とする学校。

これから、その先を、想像していこうと思う。

冬越ししたイヌノフグリ

人間は、そうやって、最初から、生まれついている

.
前回からの、つづきです。



人の怒りが向いているのは、相手の方向ではない。
相手に、向けられているのではない。


なぜ、相手に対してではないか。






実は、人間は、相手の真意がよくわかったり、見えてきたりした瞬間、スッと怒りが溶けてしまう、ということがあるでしょう。

あっ、と思った瞬間、憑き物のような怒りが、姿を消してしまう。


・・・ということは・・・

つまり、相手が憎いのではないのね。

こっちが、そこまでして 「相手との間に、関係をむすびたがっている」状態だけど、

相手に関係なく、自分の側の話、というだけね。


相手は無関係。

あくまでもこっちサイドで、

こっちが、
「小人のいうことがスッと聴けなかった」
だけだ。




本当は、ひとは、

相手に対して、
怒っているわけじゃ、
ない。





これ、人の心がそうなってる。

ということは、

人間の心が、そうと教えてくれてるとしか、思えないの。

それを教えてくれる、ひとの心の中の作用。

自分の心の中の、働き。



心は、そうやって、
作用するように、なってるようだ。

どうやら、人間は、最初から、そのように生まれついている、ようで・・・。



つづく。

冬を越したヒメオドリコ2

三角帽子の小人

.
前回からの、つづきです。



さて、ここで、壮大な思考実験をしてみる。



もしも、仮に。

この人間の反応が、まったく逆だったらどうだろうか。

つまり、相手を変えようと欲した瞬間、ものすごい快感に包まれるとしたら、どうだろう。

そうふうに、つまり、今とは逆に生まれついたとしたら・・・

人間は、相手を変えようと思うことに夢中になるだろうね



でも、実際は、そうならない。
相手の変わることを願うと、すぐに、苦しくなる。
願った瞬間、瞬時に、もう本当に、

「正しく同時に」、だ。


その正確さは、機械的、といってもいいくらい。

(ひとに嫌悪感を抱いた時を思いだしてみたら、実感できる。ほんとに、すぐ、いや~な気分になるから)





これは、なにか、わけがあるな、と思う。

だって、ものすごく、はっきりしているもの。

相手を変えようと思った瞬間、やな気分になり、落ち着かなくなる。

だれにだって、よくわかる。



これ、そうとう、無理があるんだろう、と思う。

その無理が、道理として、絶対的に無理であることを、

「切なさ」「悲しみ」「非力感」「居直り感」「責めたくなる気持ち」「スッと通じないもどかさ」その他、

もろもろの、やっかいな感情が、・・・きちんと、証明してるではないか。

無理でっせ、と。

幸福になるには、無理がありまっせ!!、と。





相手を変えようと思った瞬間、

「あんさん、そりゃあ、無理でっせ!」

という具合に、なにかが、教えてくれようとしている感じがある。


この、無理でっせ、を伝えてくれるのは、わたしにとっては相当に厳しく温かい、愛のような存在である。


といっても、イメージは、三角帽子の小さな小人(こびと)なんですが・・・。




なんで人が怒るか、というと、この三角帽子の小人が、

「あんさん、そりゃ無理です、無理でっせ」

と、何度も話しかけてくるからだろう。

そして、この、関西弁を話す小人に向かって、

「うるさい、無理じゃない、無理じゃない」

と、あらがっている、突っ張っている、だだをこねているのが、怒りなんだろう。


だとすると、怒っているひとは、本当は、相手に怒っているのではなく、小人に対抗しているだけだ、と見えてくる。


つづく。

1

なぜ、その途端に苦しくなるのか。

.
前回からの、つづきです。


相手の真意、意図、気持ち。
こういうものを、聞こう、聞こう、聞けているかどうか、とたずねつづける人生。


そこを考え続けて行くうちに、「怒り」について、きちんと、最初から、一から、しらべてみたくなった。

なぜなら、「怒り」に燃えている間は、相手の真意なんかには、まったく触れようとしていないではないの。


われわれは、なんで、すぐに、
相手が悪いと思いたくなるのかな~。


夫婦間でも、
子どものことでも、

人間は、愛している対象であるはずが、
憎しみの対象になってしまう、

ということがある。

なぜ?

愛している、大切に思っているはずなのに?



これを、反省モードで調べても、おそらく、ただの反省にしかならない。
そうでなく、

・人間はなぜ、こんな矛盾を抱えているのか
・世界中の人類が、みんなそうなのか


と調べたくなる。
人の歴史はずいぶん長いけど、ずっと、この矛盾は解決されないまま、なのかいな。



どうして、◯◯なの!?(おかしい!)



あなたはどうして、そうなの!(許せない)




ひとは、大切な相手のことを、時折、こんなふうに、責めたくなる。

どうして◯◯なの?

この◯◯の中には、いろんな言葉が入る。


ずっとこれを考えていると、切なく、苦しく、なってくる。


なぜ、ひとは、相手を変えようと欲すると、苦しくなるのか。


どうしてか。
どうして、苦しくなるのか。
苦しくなるわけは。

なぜ人間は、
そういう具合に、
生まれついたわけ?


つづく。

2

本当に添うとは何だったのだろう

.
前回からの、つづきです。




たとえマチガイがあっても、ああ、なんだそうか、となればいいだけのことなのに、どうして、人の脳の中では、

「責められた」ような、

「良くない」ような、

価値判断や感情と結びついていくのでしょうか。


ある人の考えていたことと、自分の思いがくいちがっていた、ということ、よくありますね。

そもそも、本当に沿う、ということが、どこまでやれているのか。

実際は、無事に沿えているとは限らないはず、同じにならなくて当然だのに・・・(判断ができないはず)。





ある日、2時間目の家庭科の時間は、家庭科室だろう、と思って子どもたちを移動させたら、家庭科の専科の先生が、カンカンになって、

「なんで教室にいないのですか!教室でやります、と言ったでしょう」

子どもたち、叱られた~、と言って、戻ってきました。



ああ、責められたんだ・・・、と思うと、胃が痛くなるような場面です。

「先生、すみません。私が家庭科室だと思って、子どもたちに指示してしまったんです」

遅れて教室に来られた先生に、ひと言伝えます。


でもこれ、胃が痛くなる、ということではないよね。

ああ、よかった。と安心する場面。




なにか事情があって、家庭科室よりも、教室が良かった、ということがある。
で、それを伝えてもらって、その通り、教室に子どもたちがもどってきて、それで授業がやれる。
家庭科室の先生の、とりあえず望み通りになった。

もっというと、

専科の先生の、「教室でやりたかった真意」

聞けたらもっといいのかもしれないけど、

今となっては、要するに、教室で授業がやれてよかった、

↑ ↑ ↑ それが肝心。




聞いてないぞ、とか、前もって連絡が欲しかった、とか、せっかく家庭科室の前に行ったのに、とか、なにも出てこない。

家庭科の先生の気持ちに、そえてよかった、と思うだけ。
(沿えなくても、じゃ、本当に沿うとは何だったのだろう、と思うだけね)

で、あとで書こうと思うのですが、

カンカンに怒っているのはなぜか、ということについて、

ちょっと考えることがある。



それで、

家庭科の先生が怒っても、

わたしはとくに、困らない。




つづく。

3

あくまでも、それくらいの

.
前回からの、つづきです。





相手の真意を確かめる、

という行動が、案外、少ない。



私たちは、

聞いてすぐに、自分なりの解釈で

パッと反応する

ということが多いようです。


相手の気持ちは、今、本当はどうなのだろう。

さらに言えば、

確かめて、

「どうなの?」と尋ねてみて、

相手が「うん」と言ったからそうだ、

・・・ということも、実は言えない。



どこまでいっても、実は、

相手の本当の気持ちは、分からないのが前提です。



◯◯くんも、半分食べたい、と言った時点ではそうだったのでしょう。

でも次の瞬間は、

やっぱりもう少し食べたいな、となっていたかもしれないし、

食べてみたら、むしろ半分は多かった、

となっていたかもしれません。



ふだん、相手の本意を確かめることもない。

かといって、確かめたから確実だ、ということも言えない。

あくまでも、それくらいのお互いの間でしかない。

それが人間の間柄、実態なのではないでしょうか。


そもそも、一人ひとりが持っているスーパーコンピューター、

つまり脳味噌だって、

個別のものですしね。



入力しているものもちがう、
演算の仕方もちがう、
処理の論理もちがうのだから、

同じものが出力されるはずがない。



この子の赤色と、

隣の子の赤色と、

同じではない可能性の方が、

高い。




それでも、
相手の真意、聞けている、と、
思うのは、

なぜなんでしょう。


多くの人が、

「自分には、(相手の真意が)聞けている」、と

自信いっぱいなのは、なぜなんでしょう?


いや、ぺつに、それが悪いとかでなく、

純粋に、なんで人間というのは、

こんな感じに、なってるのでしょう?



たぶん、相手の真意を、

わかった!

と、思いたいのでしょう。



そして、

わかった!

という感覚が、

安心感に近い、似たような感覚だからではないか、というのが、私の推論です。


その、【わかった感覚】が、

安易に手に入ることと、

本当の安心と同じような味がするので、


化学調味料のように、

だんだんに舌を麻痺させていくのでしょう。






そして、

化学調味料の味に慣れた分、

不安を感じやすい

のじゃないでしょうか。



しかし、当てずっぽうを信じることで得られる似非の安心感は、

この世の子どもたちの間に、

多くの混乱を、引き起こしているようであります。



(つづく)

2014-08-17-12-09-27








気持ちを聞けた、と思い込んでしまって・・・

.

前回からの、つづきです。


教室に、いろいろな、「責め現象」が起きたとき。

わたしはわりとすぐに、気楽に学級会にしてしまいます。



この日も、5時間目をすぐに学級会にしてしまった。

さ、どんな展開だったでしょうか・・・。




このようなときは、

大抵、だれもがびっくりするような結論と展開で終わります。

◯◯くんは、どうやら、まったくりんごが要らなかったわけではなかったようなのです。じゃんけんに勝ってから、自分のお皿の上に、りんごを置いてみたら、


なんだかしらないが、
とても大きく見えてきてしまった。



じゃんけんするときは、自分の気分ももりあがり、高揚していたから、りんごのあと一つくらい、すぐに食べられると思っていた。でも、目の前にしてみると、どうやら1つは多いな、と・・・。



ところが、じゃんけんで勝って手に入れたものだから、半分食べて、半分残す、ということになると、みんなから何か言われそうだ、と思った。

それで、あわてて、



「やっぱり、要らない」



と、なったのです。

これは、聞いて見ないと、分からないことでした。



みんな、

「◯◯くんは、りんごがまるごと要らないんだ、と思っていた。だから、きょうのは、じゃんけんがしたかっただけで、本当はりんごなんて、要らなかったんだと思った。要らないんなら、じゃんけんはするべきじゃない。・・・そう思ったから、◯◯くんは、良くなかった、と思った」


ああ、そうだったのか、となってから、初めて、


「じゃあ、◯◯くんを責めるべきじゃなかった」


という感想が、ようやくここで、出てくるのです。



なんで、

最初の時点で、

よく◯◯くんの気持ちを聞きもしないで、


あるいは、「◯◯くんは、要らないって言ってた」(全部まるごと要らないって言った)と、あたかも彼の気持ちを聞いた(聞けた)、と思い込んでしまって、

責めたり、良くない、と言ったり、判断したり、するのでしょうか?



ここを考える時、たいてい、子どもたちは、シーンとする。

先生が何か言うんじゃないか、と、わたしの顔をじっと見ている。



わたしは、(これはお説教じゃないんだぞ、考えるんだ、考えよう)という気持ちで、黙っている。


そのうち、子どもの中の数人が、(あ、これ、お説教じゃないな)と感じ取るようだ。

そして、ようやく、


「なんで、責めたくなるんだろう?」


と、ようやっと、考え始める。




つづく。

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給食のりんごが余りました

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給食はみんな、楽しみにしているものだ、と思うのですが、思い方は、一人ひとり、ちがいます。また、その日の体調でも、気分もちがってくるでしょう。

給食のじゃんけん、というのがありますね。



あるとき、フルーツのりんごが余りました。

ある子がじゃんけんに勝って、もう一つもらえることになったのですが、

「やっぱり、要らない」

教室では、よく、こういったことが起きます。

じゃんけんに勝った途端、急に要らなくなったのです。


人間というのは、つくづく、
計算通り、
予定通り、
ではないものだ、ということを思います。

これを、非難する子もでてきます。

「先生、◯◯くん、せっかくお代わりしたのに、残そうとしているよ」

すると、じゃんけんに負けた子たちから、ものすごいブーイング。

「勝ったのに、残しちゃいけないんだよ」

お代わりした子は、なぜか分からないけど、さっきはあんなに欲しかったりんごが、今となっては急に要らなくなってしまった、そのことに、自分自身も動揺しています。みんなからも責められるし・・・

ところで、ひとは、なぜ、「間違い」を見つけて、非難したくなるのでしょう。



りんごは、2番目に勝った、Sくんがもらうことになりました。

すると、実はこの事件の背景、水面下で、

◯◯くんがSくんと取引しているか、あるいは一方的に、脅されてまきあげられたのではないか?

という疑惑が生じます。

事態はドロドロの、疑惑に次ぐ疑惑。
ロスの三浦さんも真っ青な、疑惑の5時間目になだれこんでいきます。

だれも◯◯くんの本当の気持ちがわからないのに、


なぜだか攻めたくなる、

責めたくなる、

落ち着かなくなる。





こんなはずではなかったのに、ということ、よくありますね。

わたしは、こういうとき、

なんで、人間はこういうことがあると、落ち着かなくなるんだろう

ということを思います。

そして、算数やら社会の授業はほって置いて、子どもたちとともに、そっちの研究に入ってしまう。

なにか、センサーが動くのです。

このことが、実はとても大事な勉強になるのではないか、という予感です。

わたしは、急遽、5時間目を「学級会」にしてしまいます。


つづく
フルーツがあまった

運動会のグランドの釘のこと

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人間である子どもたちを、

世間に引き寄せようとする。


そのことに、わたくしは、虚しささえ感じる。




逆に、自分の方が引き寄せられてしまう。

世間の枠からはみ出て、子どもたちが住む、

世間の価値とはズレた場所へと


誘い込まれてしまう。



ここに、ある意味、面白みを感じ、ある意味、厄介さを感じ、その狭間で、考え、考え、しながら過ごしてきたのが、これまでの約十年間の歩みだったと言えるのではないか。



とうとう、わたくしは、ついに、「世間知らず」と呼ばれても、平気だ、と、思うようになった。

(その代わり、「人間知らず」と呼ばれたくはない、と強く思いますネ)


さて、わたしくは教師として、堕落しているのでしょうか。

「世間」と「人間」。
どちらに軸足を置いたら、いいのでしょう。






運動会で、

「勝つぞ!オーッ」


とは思わない子が小学校にはとても多いのですが、運動会の感想文に、

「勝ってうれしかったです」

と教科書通り、大人の期待通りに書く子は多いのです。

しかし見ていると、どうもそれは本心ではない。

どうやら、そう書くものだと思って書いているだけのような気がします。



教師から見ると、感想文に、どうも期待外れのことを書く子がいる。

ある子は、運動会のグランドに、先生たちが長い釘(グランド用の鉄ピン)でしるしをつけたのを見て、そのことばかり、書いた。


「わたしは赤組で、赤組を応援しました。」
「赤が勝ったので、嬉しかったです」


そうも書いているから、そういう気持ちもあったんだろうけど、それよりも・・・

「運動会で、わたしは先生たちがつけていたピンク色のリボンのついたしるしのところを、こっちゃんといっしょにたくさん見つけて歩きました。きゅうけい時間にかぞえたら、48本ありました。2年生はピンクで、3年生はみどりと青でした。3年生は、みどりのところで、台風の目のリレーをやりました。4年生はき色のところでソーラン節をおどりました。わたしはいちばん多いのはなに色かなと思ってしらべたいなと思いました。赤が勝ったのでうれしかったです」

だって。



いや、いい作文ですよ、
たしかに、いいんだけど・・・。



作文としては、どうなんだろう。

ことに運動会の作文としては・・・。

なんで、自分が出場した競技のことを書かないのか!

赤が負けそうになったときに、ちくしょう!負けるものか!とテンションが上がった時のことを書かないのか!!

と思う先生もいるのだろうと思う。



でも、そういう指導に、だんだんと、違和感が出てきちゃった、というのが、現在です。

(つづく)
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教師は世間の代表選手

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学校生活、教員生活をある程度、続けてきました。

世間、と子どもとの、接点を見出そうと、してきました。

ところが、教室と世間とは、かなりちがうのです。

わたしは現在、このことに相当、戸惑いを感じています。





そもそも教員は、子どもたちに対して、いわゆる世間とは何かを、伝える存在ですね。

子どもたちにとって、私は、世間の大人の代表、というわけです。

ところが、世間的な価値観で、教室に居続けることは、わたしにとって妙な感じです。





子どもたちは、世間の価値観を、なにかのタイミングで、ときには、吹っ飛ばしてしまうからです。



たとえば、運動会は、世間的には、勝つのが良い、となっている。

ところが、子どもは、そう思っていない、ということがあります。

赤が勝つことに、それほどの価値を感じていない子に、わたしは教員として、指導しなくてはならない、と思ってきました。

勝つのが良いんだ。
勝つということには、大きな意味がある。
勝つと、嬉しいものなんだ、と・・・。

赤が勝った、万歳!!
(子どもはマネして、万歳してくれます)



つまり、子どもを、世間の方に、引き寄せる。
これが、わたしの仕事です。
これは、世間の多くの人が、その通り!と言ってくださることだと思います。

世間のことを学習できていない、いわゆる生(なま)の子ども。
人間のまま、まだ手入れも、加工も、されていない子ども。
この、人間そのものを、世間という世界へ引き寄せるのが、教師の任務です。




ところが、「世間」と「人間」を比べると、「人間」の方が、たのしく、面白く、ひとにやさしかったりする。

あるいは、「世間」よりも、「人間」の方が、豊かなストーリーがあり、そのストーリーにどっぷり浸かった方が、なにか、深く学べるのではないか、と思うこともあるのです。

(つづく)



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「イタイイタイ病」という、ネーミングの重要性

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5年生の学習で、もっとも印象に残った単元は何か、というと、

うちのクラスでは、

社会科の『公害』だという子が多かった。


水俣の、悲惨な「伝染病差別」について調べたら、図書室の資料が凄すぎて、相当にショックだったようだ。


また、イタイイタイ病、にとても多くの子が、コメントを寄せている。

3学期の学習を振り返る、という学習ノートを見ると、

「イタイイタイ病で苦しんだ人のことを調べたのがとても勉強になった」

というのが、多い。




これは、イタイイタイ病、というネーミングが、ショッキングなのだ。


そういえば、私自身も、小学校の頃の社会科学習で、この

「イタイイタイ病」

という病名が、克明に脳裏に刻まれて、記憶されている。




この病名は、最初はどなたが考え出したのか、言い出したのか、

おそらく新聞社かどこかの記者か、

あるいは、お医者さんなのだろうか・・・。




イタイイタイ病。

このネーミングをつけて、使用した段階で、すでにこの病気の苦しさ、痛み、背景やイメージまで、累々とベッドに居並ぶ患者さんたちの構図とともに、ありありと浮かんでくるではないか。


このネーミングは、ふざけて名づけたのではなく、もうショックと悲しみ、やるせない気持ちのまま、憤然として、決然として、世に訴える、という強い意志でもって、現実を知る方のうちのどなたかが、名付けたのだろうと思われる。

その意志は、今でも確実に、小学校の各教室の、子どもたちの感性に響き、引き継がれている。

ネーミングの勝利だと思う。




TPPで家庭菜園が禁止されるとか、不安視している人がいる。
当然、そんなことは起こりえないと思うのだが、そのような不安があることは事実。
そこで、その不安感に、ネーミング。

「おふくろの味喪失不安」

・・・まんますぎるかな。



大阪の学校給食がまずくて不満が高まっているというが、もともとは、「公の需要」である給食について、良質な業者が競争意識でもって、コストカットしながらも安価で美味であったかい、栄養的にも安心できる給食を提供できるはず、という楽観的観測で民営化されているのだから、この「民営化」をこう名付ける。

「スーパーウルトラ業者発掘システム」




原発公害で汚染物質がアンダーコントロールされていることについても、ただちに影響はなく、風評被害とされたことは、

「見えない公害」

と強く断言してしまおう。




小腸や大腸が安定していて、スムーズなお通じがあり、風邪をひかないで健康であることは、健全な腸内環境である、というのを略して、

「健腸」

と短くしてしまう。




相手の話の意図を一瞬では理解できずに、真意が未だ伝わらずに悶々としている状態を、
相手の理解の一時停止状況であることから、

「あ、ちょっと今、〇〇さんポーズ中」

というふうに会話しましょう。




こんなダイアローグで。

妻「あ、これ、賞味期限きれそう」

私「ん?(どゆ意味?)ちょっとポーズ」

妻「はやく、食べてくれってこと」

私「あ、オーライ」




世の中、ネーミングされていないものの方が、多いものね。


詐欺の電話は、「オレオレ詐欺」なんてダサいネーミングで呼ぶようになってから、わけわかんなくなった。
被害が逆に増えているでしょう。


このネーミングが、そもそもの失敗です。

詐欺電話のことを、

「キツネ男からの電話」


と、ちょっと物語風によべば、

「あなたキツネ男?」

と切り返しができるでしょうに。

詐欺電話はオレオレ詐欺というから、わけわかんなくなった。


「いや風邪ひいちゃってさ。声が変わってるかもしれないけど、孫のタカシだよ」
「きつねのたかし?」
「いや、本物だよ!で、ちょっと事故っちゃって、すぐに示談金100万要るんだ」
「きつねのくせに、車を運転するの?」
「人間だよ!・・・で、現金を振り込むんだけど、口座が今使えなくて、そのまま封筒に入れて送ってほしいんだ」
「きつねの住んでるところは、山の中だろ!」


このように、ずっとキツネでいじりたおすことができて、便利です。
ネーミングと言うのは、このように便利になるように、使わなければ、ネ。
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