30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年02月

「会話力」が抜群な80歳の女性に会う

.
「会話力」が抜群な女性に会いました。

『会話力』←とっさに、頭に思い浮かべたフレーズなんだけど・・・、

今朝会った人が、会話の力(ちから)がある人だったの。

力(ちから)と言うか、癒しというか・・・。


しゃべっているだけで、ふんわりと、しっとりとした時間が流れていくような。






御年、80歳なんだそうだ。

場所は、地域の「ごみ集積所」

私の住んでいる地域は、ごみの集積を工夫していて、

半年に一度くらいの当番で、2人ずつ、交代で見張りに立つのです。

町会がかなり広い範囲なので、たーくさん、朝になるとゴミが集まってくるわけ。

近所の人たちが、車や自転車で勇んで運んでくる。
かなり、手間だろうと思うね。

都会のマンションなんかだと、ごみを集めるシステムが進んでいるから、家の前とかでスポン、と投げ入れたらシューっと集積所に集まるなんていうマンションとかあるそうだ。


そういうのに比べると、わざわざ家から遠く離れた集積所まで、ゴミ袋をもって運ばなきゃいけないんだから、大変だよねえ。

しかし!!
そういう仕組みにしたおかげで、カラスが激減。


ごみが散らかることもなく、観光客が歩いていても、そもそもごみを集める場所が一つしかないから、ゴミそのものを、ふだん目にすることがない。

町全体が、きれいなイメージで、保たれているわけ。


集積所にね、朝行ってみました。当番だったから。

見張りと言うとなんだかアレだけど、要するに、その場をきれいに保つだとか、分別がうまくいっていない場合にちょっと手伝うとか、当番の仕事とは、そういうこと。


当番は二人制。

もう一人は、私より先に来ていらした。

おばあさんが、よっこらしょ、という感じで座っていらしたから、

「おはようございます」


とあいさつしたら、お婆さんもこちらを初めて見るのに、深々と挨拶された。

ちょっと恐縮しましたね。



さて、時間になると、地域の人がごみを捨てに来るので、いろいろとゴミ袋が倒れないようにしたり、記名を確認したりするんだけど・・・。


それでも、間に5分ずつくらい、だれも来ない間があきますわね。

自然とその方と会話が始まるわけ。



「まだまだ、寒いのが続きますねえ」


なんていう季節の話から、数年前の大雪の話、山がきれいに見える話、いろいろとしゃべっていた。



山本さんとおっしゃっる、お婆さま。
とても、ボキャブラリーが豊富な方だった。

会話の中で、なにか、常にこちらを慮るような、配慮を感じる。

とりわけ、相槌が、上手だ。

「そう、そう、ね」

というのが、山本さんの口癖だった。


山がきれいだ、というと、

「そう、そう、ね」

と言いつつ、

「冬の朝なんかはね、山の方が太陽で照らされるでしょう。とても素敵よね」

ほんの少し、こちらの話を、盛り上げようとしてくれる。

でも、饒舌ではないから、

自然とこちらが話をリードする展開になる。


私の息子が小学校に行っているというと、

こちらの話の呼吸を見ながら、

「今は、なんだか、図書袋だとか、上履きを入れる袋だとか、色々と要るのですねえ。

私等の頃には、教科書と筆筒だけあればネ、それでよかったんだと思うんだけどねえ」


もう70年も前の話で、と笑いながら、おっしゃる。


なんだろうか。

会話のテンポが、すこぶる心地よい。


山本さんは、中学校の頃、雨の中をずいぶんと歩いて岡崎の山を遠足で歩いた、ということをお話された。

「いやあ、途中で雨が降ってねえ・・・、あの当時、先生たちも気の毒だったろうねえ。

駅までみんな、黙ーって歩いてねえ、ほほほ・・・。

散々な思い出なんだけど、それでも遠足にみんなで行ったんだ、というのを思い出すだけで、なんだかいい思い出だわ」



家もビルも工場もない、当時の岡崎の村の様子が白黒の写真のようにわたしには見えるような気がした。

「健脚(けんきゃく)という言葉がありますでしょう、ねえ?当時は何にも歩くよか、ほかにしょうがなかったから・・・。

だからみんな、何も言わないけど、足はずいぶん鍛えられたんだと思うんですよ。」


決して早口にはならない、明るいが、ていねいなテンポで話をされる。

「苦労もしましたけど、足が強かったから、平気でしたねえ。

買い物もなんでも、平気で歩いてしましたよ。若いうちですよねえ、あなたも、登山など、どんどんされたら・・・」



話題は、たくさんあった。
私が都会から越してきたんだ、というと、

「都会は都会で、いいところがたくさんあるのでしょうねぇ・・・憧れるところもありますよ」

なんていう。

80歳のおばあさんが、都会に憧れるって・・・。


他にも、山本さんは、時折、話の中に、ドキッとするような言葉をちりばめた。

「健脚」(けんきゃく)
「滋養」(じよう)
「斟酌」(しんしゃく)

わたしは、なんだかこういう言葉を使われるおばあさんに、ふと吸い寄せられるような感じを受ける。

昔なつかしい、というのとはちがう、

なんだか、とても健全な、健康な、力のある言葉を感じ取る。

言葉に、力がある、ということ。




80歳のお婆さんと話をして、いいことは、もっとたくさんある。

当番の仕事が終わり、別れ際、山本さんは安堵の笑顔になって、

「あらまあ、楽しい話をしていたら、あっと言う間に終わったわ。あなたみたいな若い人から、元気がもらえて本当によかった」

と言ったのである。


若い人、ですよ?!


ひさしぶりに言われた!!!!!(うれしい)


つまり、ふだん子ども相手に過ごしていて、なんだか自分がずいぶん年上のような気がしていた私のような職業の者は、

おそらく、三か月に一度くらいは、

80以上の年齢の方と、リハビリをかねて、会話を楽しんだ方がいいのであろう。


そうして、人間の平衡を取り戻すというか、バランスをとった方が、なにかと精神衛生的にも、良いのではあるまいか。

自分が、年下になって、若い気分を存分に味わえる機会は、めったにないもんな。
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わたしはどこの人間なのか?

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子どもがゲラゲラ笑う。

「先生、コナって言わないんだよ。コナ、だよ」

字で書くとツタワラナイ。

粉、という言葉のイントネーションが、面白いらしい。




私の発音は、「コ」にアクセントがある。
「コ」が高い音で、「ナ」が低い音。

ところが、ここらの子どものアクセントは、わたしのとは異なる。
「コ」が低い音で、「ナ」が高い音。

それで、わたしが理科の電磁石の実験のときに、やたらと

「鉄の粉をここに置くよ」

とかなんとか、「こな」という言葉をたくさん使ったら、それだけでくすくす笑う。


イントネーション。
抑揚・音調・語調・声の高低変化。

こんなにも、違いを感じるものかなあ。



あとの休み時間に、近寄ってきて、

「先生、こなって言ってみて」

わたしが何度も、コナ、粉、と繰り返すと、それだけで目から涙が出てくるほど笑っている。



次の時間に、あんまりみんなが笑うからね、とアクセントの話をしたら、

「先生のおかしいのは、他にもあるんだよ」

と教えてくれる。

「なにが変なの?」

子どもは張り切って教えてくれる。

「あのね、ぶらんこ、が違うよ」

一人が言うと、みんな、そうそう!と、盛り上がってきた。

ハクション大魔王のアクビちゃんにそっくりな、Yさんが可笑しそうに、

「あとね、重さ、もちがうよ。先生のは、お・も・さ、というもの。」

するとまた、クラス全員が

「そうそう!!」




へええ・・・ちがうんだねえ・・・


ぶらんこは、子どものアクセントは、「ら」にある。

ぶ ら ん こ
低 高 低 低

である。

わたしのは、「ぶ」がもっとも高い。

ぶ ら ん こ
高 低 低 低



重さ(おもさ)の場合、子どものアクセントは、「も」と「さ」に存在する。


お も さ
低 高 高

となる。


ところがわたしのは、「お」が高い。

お も さ
高 低 低

となる。


「なんでこうも、言い方がちがってるんだろうねえ」

わたしが不思議がっていると、

「先生の、ありがとうってあるでしょう。ありがとうっていうの、お母さんと一緒だよ」

「ええ?お母さんは、どんなふうにいうの?」

「お母さんは、最後の、とう、が高いんだよ。大阪出身なんだからね」

その子の母親は、大阪出身で、関西弁だそうだ。
今はこの土地に越してきているから、岡崎の言葉になってきているのだろう。しかし、それでも幼い頃から言いなれた口調というのは、そのままなんだろうね。

「先生も大阪出身なんでしょう?だから、うちらと言葉がちがうんだよね?」




私は日本地図を見ながら、若い時から住んだ場所をすべて子どもたちに教える。
すると、日本のあちこちを、さまざまに移動してきて、住居が転々と変わっているから、子どもたちはとても驚く。


「先生は、日本のあちこちで暮らしてきました。言葉もいろいろ、アクセントもいろいろ、覚えました。それで、とうとう、ごちゃまぜになっちゃいました!」


すまん、すまん。

私は、すまんのう、と謝る。

すると、気の毒がった子が次の日の日記に、こう書いてきた。

「先生は、いろんな場所のハイブリッドだから、べつにいいんじゃないかと思います。ただ、教室だと笑っちゃうので、理科のときの、<こな>だけは気を付けてください。」

いいなあ、ハイブリッドかあ。
ちょっと、かっこよく聞こえてきたなあ。

それでも、まあ、<こな>だけは、気を付けます。
すまん、すまん。

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蒙古斑の少年

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近所の温泉。

私は湯につかって、のんびりと来し方、行く末を案じておりました。

ふと目の前を見ると、小さな男の子が歩いている。

わたしはつい、見てしまう。

いや、ホントは、見る気ないですよ。
でも、目の前をつーっと通っていくのだから、ま、仕方なしに、見てしまう。
目を閉じない限り、見ざるをえない状況だからね。


すると、おしりのふくらみのあたりに、目をうばわれた。

そこになつかしい、「蒙古斑」を見たからであります。

たしか、自分自身も、同じところに蒙古斑があったんじゃないかな・・・。
わたしは目を閉じて、記憶を思い出そうとした。

彼のお尻の、左側の、ちょっと腰骨に近いような不思議な場所に、かすかに、斑がある。
たしか、わたしも、かつて同じようなところ、左側の腰のあたりに蒙古斑があったのではなかったか・・・。



蒙古斑は大和民族以外、モンゴロイド系の人、ネイティブアメリカンにもみられますね。

ところが世界的には知らない人もまだ居て、ヨーロッパの方には、

「これは児童虐待のあざの痕ではないか!?」

と不安に思う方もいらっしゃると聞いた。
ご安心ください。これは、母親から生まれる際に、すでにみられるものです。




さて、私は蒙古斑をあまりじろじろと見ていると変に思われてしまうから、出来る限りすみやかに目をとじて、瞑想に入った。

湯の音が聞こえる。

隣のおやじさんの、くしゃみが聞こえる。

そして、自分の心臓の音が聞こえる。


蒙古斑の彼は、たしかに、自分と縁のある存在だろう。

いつの頃からか、この大和の国、瑞穂の国、秋津の国に、人がにぎやかに住み始めた。
その時から、この子とわたしとは、縁ある間柄であるよう、運命づけられていたのではあるまいか。
こうやって同じ湯につかり、同じ時をすごすことに、なっていたのでは?


それも無理のない話、と私は思う。

少年と、わたしとは、同じ蒙古斑を通して、たしかに、つながっている。

温泉


裸の背中を、見渡してみた。
日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。


ウーファーさんのような海外から来た、諸国の人もいるけれど、蒙古斑があろうがなかろうが、こうやってまじめに身体を洗い、髪を洗って、湯につかっている人たちと、わたしはつながっていた。

蒙古斑の子は、熱い湯が苦手だと見えて、なかなか湯につからず、足の先だけつけている。


男風呂は、だれも、なにも、しゃべらない。



男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
子どもも自然と、口を閉じて、静かに過ごしている。

老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。
かつて、その尻にあったであろう蒙古斑はすでに見えなくなり、ずっと以前は少年だったこの老人たちは、今や、銭湯の達人となった。
寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく、最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができるのだ。見事な世界!



そのすべては、無言のまま貫かれ、最後に、勢いよく、パシャッと音がする。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の「清め」の「水流し」である。


そして・・・


カコーーンーー・・・


(桶をひっくり返して置く音)



ほうら、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?

ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、銭湯の作法なのだ。



蒙古斑の少年も、わたしも、老人も、

みんな、同格。つながっている。

「先生、原発事故は公害なの?」


5年生の社会科で、「公害」について学習している。

ところで、現在子どもたちが使っている教科書ができたのは、2011年よりも以前のこと。
だから、当然放射能の事故など、ちっとも触れられていないわけです。

学習の中心は、「水俣」。

〇「有機水銀」で苦しんできた人々のこと。
〇当初は、「伝染病差別」により、「社会との関わりそのもの」を拒否されてきたこと。
〇「チッソ」という会社は、工場運営に関する法律を順守していたこと。
〇にも関わらず、最終的には最高裁により、「企業としての責任(企業犯罪)」を償え、とされたこと。


水俣市はそれ以後、人々の心がズタズタに寸断された「伝染病差別」の苦しみをのりこえるために、人々のつながりを、もやいなおそうと取り組んでいる。
また、チッソという会社は、自分たちは法律を順守していたんだから悪くない、という主張を通そうとしてきたけれども、やはりそうはいってもこれだけの影響を出してしまったんだ、という反省をし、出来る限りの償いをしようと努力をしてきた(不十分だという指摘はあれど)。

まあ、こうした学習をしてくるわけです。

私は、この水俣の学習にはとても大事なことが含まれているので、

新しい教科書で、

これを全部、放射能汚染公害に

取り替えてしまうべきではない。


と思っている。

たしかに、放射能汚染による甚大な被害は、公害としては史上最大のレベル。
チェルノブイリよりもひどい汚染を引き起こしている。
避難民は13万人を超える、というNHKの報道を見ても、それは分かる。

だが、水俣には、「差別」の問題や、「法律という枠組みを超えて責任を取ろうとする」という企業姿勢の変化など、学ぶことが多い。
だから、これからは5年生で、放射能汚染だけではない、「水俣+福島」という、ダブルセットの学習課題を設定するのが大事なんだと思う。

福島が大きすぎるからといって、


新しい教科書から、

「公害学習=福島」だけ、というようには、

してほしくない。



実は、去年まで、放射能汚染は公害とは呼ばなかった。
公の害、であるにも関わらず、だ。
言葉の上の定義だけであるが、放射能による大気の汚染、水の汚染、土の汚染はどれも、「公害」の規定には含まれていなかったからだ。

それが、2012年の9月以後、「公害」に含まれることになった。

2012年(平成24年)9月19日に環境基本法が改正施行され、これまで適用除外とされていた放射性物質を公害物質と位置づけることとなった。
(環境省/平成24年11月19日(月)に開催された中央環境審議会総会・中央環境審議会から環境大臣に対し意見具申『昨年の東京電力福島第一原子力発電所事故により当該原子力発電所から放出された放射性物質による環境汚染に対処する』の文言あり。
ちなみに、2012年6月20日、環境基本法13条の放射性物質を適用除外とする規定の削除法案が、国会で成立27日公布されました。「原子力規制委員会設置用案」の附則として提案され、可決成立したものです。)

教科書の改訂があったためなのか、分からない。
他の理由ももちろんあるのだろうけど・・・。


これがなぜ、分かったかと言うと、子どもから質問があったからなので、

「先生、原発事故って、公害じゃないの?」

と聞かれたので、最初の授業では、

「いや、実は公害には含めないんです」

と間違えて、言っちゃった。

しかし、考えてみれば、

「人や企業の活動によって引き起こされた、相当な範囲の汚濁、汚染により、多くの人が苦しんでいる」

というのが公害であるから、当然、放射能汚染もそうなんだろう、と思うわけだよね。

子どももそう思ったみたいで、

「なんで、放射能は特別扱いなの?」

という質問になり、

「・・・うーん、公害って呼ばないようにするための、何か理由があるんだろうね」

で終わらせていた。



考えてみれば、社会の学習というのは、世の中の変化や事故により、少しずつ進化していくもの。
逆に言うと、何を扱って、何を扱わないか、という取捨選択が、とても大事なんだよね・・・。


水俣ではないが、福島の場合も、

〇「放射能」で苦しんできた人々のこと。
〇長引く避難生活で体調が悪化したり、自殺に追い込まれるなどの被害者差別的待遇があること。
〇「東電」という会社は、発電所運営に関する法律を順守していたこと。
これまだ⇒〇にも関わらず、最終的には最高裁により、「企業としての責任(企業犯罪)」を償え、とされたこと。



最後の一項目だけ、ちょっと水俣と違うみたいだ・・・。
ま、これからだよね。


写真は、とある蒸気機関車の中。
2013-09-20-14-45-00

大人は、まともであるかどうか

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テロ事件に関する写真を、小学校の教室で見せたことで、

「命に関わるような重大な写真を見せるとは何事か」

と批判されている教師がいたらしい。ニュース記事になった。
テレビ番組で、コメンテーターが、何たる教師だ、とんだことをしてくれた、と憤慨していたようだ。

その一方で、命に関わることが少なすぎて、子どもたちにリアルな命について考えさせる機会がなくなっている、と指摘するコメンテーターもいる。小学校現場があまりにも無菌状態なので問題だ、とのこと。

「命を回避する現場の空気が、子どもたちから命の尊さを学ぶ機会を奪っている」

ということだそうで。


どっちにせいっちゅうんじゃ!

・・・と思った、と同僚の先生が憤慨していたけど・・・。

テロ事件の写真は、命を考えるという題材ではなくてマスコミが大衆に向けて、いかに加工されたメッセージを出す可能性をもつか、という「情報教育」の一環で出された資料であって、まあこの場合はちょっとちがうと思うが、それをコメンテーターは、人の生死に関わるからダメ、と意見したのであった。

加工写真かどうかは別として、実際の写真を見せることは、小学校ではありえないだろうと思う。あまりにもリアルで、ショックだから。

それに、大人の世界では現実に殺人があり、政治的には大人は相当ひどいことをする存在だけれど、小学校では一応、

大人はまともです

ということになっているから、こういう写真を見せることは、何重にもはられたバリアを崩すようで、ショックの度合がひどすぎる。



大人って、実は、まともじゃないんじゃないの?


と、うすうす気づいている子たちは、その思考の行く先で、どこか着地点を探そうとするだろうね。

そういう子たちの前で、とりあえず、大人の顔をしていられるのは、

「そもそも人間の思考はほとんどまともでない」
「大人も事実を曲解することがほとんど」
「自信たっぷりの大人ほど胡散臭いものは無い」


ということを、もう明らかにしてしまう態度の大人だけだろうと思う。
学校の教室ではもうすでに、うすうす気づいてしまっている子どもたちを中心に話をしていかないと、実情に合わなくなってきている。

40

目の無いネコの話

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「先生、目の無いネコがいるよ」

子どもから、時折、とんでもないことを知らされることがある。

学校にいるのではなく、登下校中の美容室の駐車場にいるのだそうだ。

世の中はシリアなど中東のことや、テロの話、ドイツとフランスの蜜月などの政治的な話題に加え、R-1グランプリ、寒波強風の自然災害、その他で話題は尽きない。


しかし子どもたちにとってのもっとも身近でビッグな話題は、登下校中の不思議な出来事である。

「知ってる。子ネコでしょう。両方とも目がないんだよね」


子どもたちの情報密度は高い。


ネコは、木にぶつからないで歩くらしい。
ある子が、自分が見た事例の報告をしてくれた。

美容院から中学校の校庭まで、よく歩いている。
校庭の植え込みのところで見た、という子が何人かいた。
地面が続いているから、事故にも遭わないし、たぶん大丈夫なのだろう、ということだった。



「目がないのに、ふつうに歩いているよ」
「不思議なことだねえ」



ネコについて、わたしが聞いている限り、

〇かわいそう
〇気持ち悪い


という感想は、子どもたちからは聞かれなかった。
かわいそう、気持ち悪い・・・。これで、コトを済ませようとする簡単な言及の仕方は、あまりリアルじゃないからかもしれないね。だって、目の前で生きて歩いているのを、大部分の児童が見ているんだから。もう、自分とそのネコの関わりがあるんだから、そんな安易な言及の仕方にはならないんだろう。

・・・

「美容室の人が、餌あげてるんだって」

帰りの会が終わって、帰る間際になって、もう一度、ネコのことを子どもが話してきた。
その子は、新間先生がネコを気にしているから、教えてあげよう、と思っていたのだろう。
その子の言葉の、「~なんだって」、という語尾から、伝聞情報だということが分かった。
ということは、この子も、誰かからそのことを、聞いたんだ。
彼女も、そのネコがきちんと餌を食べているかどうか、気になったんだろうな。
もしかしたら、この子だけじゃないかもしれない。
ネコの食事のことを、多くの子どもが気にしていた、という背景があるのかも。


その後、
〇ネコには親がいること、
〇その親が、黒猫であることなど、
大人が知らなかったような情報が、子どもたちの間ではきちんと共有されていることが分かった。

こんなこと、マスコミは取り上げないし、大人も話題にしないし、職員室でも誰も言及しないから、ちっとも知りませんでした。でも、子どもたちは、かなり大きなニュースとして、YAHOOニュースの見出しなんかよりもずっと身近なニュースとして、きちんと把握し、なにごとかをそこから感じ取っていたわけで・・・。


世の中、知らないことの方が、多いな。


写真は、雪のトラ。

虎雪

愛知県の教員は最高だ!

転職して、愛知県の教員になった。

もう、これで何年になろうか。

今でも、愛知県の教員になれたことを、嬉しく思う自分がいる。

愛知は、程よく、暖かい。
また、夏の暑さはたしかにきついが、岡崎くらいだと、まだ、凌げる。

三河でも海沿いだと、湿気もかなりだろうが、岡崎ならまだ、自分は生きていかれる。

夏の研修がらみで、名古屋市内へ用があって行ったが、名古屋は蒸し暑い!
喫茶店が流行る理由が分かった気がした。つまり、みなさん、長くは歩けないのだろう。うだるような、アスファルトの上を・・・。


岡崎は、雪もまあ、滅多にふらず、雪国のようにタイヤの履き替えもしなくてよく、比較的温暖だし、いい店もまあ、程よくあるし、飯もまあ、程よく美味いし・・・。

住めば、都ですね〜。

もうすぐ、梅の咲くのが見られます。
どうぞ、岡崎へ遊びに来て下さいね。

せきれいホールでは、「ケロポンズファミリーコンサート2015」が開催されます。
        
また、梅林で有名な、南公園では、
梅まつりも開催されます
(21日から3月8日まで)

いいこと、いっぱい!おかざき!!

ビバ、岡崎!

うめ

【道徳】修身の詩って難しいな

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日本ノ国ニ
明カルイタノシイ春ガ来マシタ
日本ハ、春夏秋冬ノナガメノ
美シイ国デス
山ヤ川ヤ海ノ キレイナ国デス
コノヨイ国ニ、私タチハ生マレマシタ

オトウサンモ オカアサンモ、
コノ国ニオ生マレニナリマシタ
オジイサンモ オバアサンモ、
コノ国ニオ生マレニナリマシタ

日本ヨイ国、キヨイ国
世界ニ一ツノ神ノ国
日本ヨイ国、キヨイ国
世界ニカガヤクエライ国


格調高いですね。
修身の教科書に掲載されていた詩です。

小中学校での「道徳」について、文部科学省は4日、教える内容を定めた学習指導要領の改定案を公表しました。

・・・

1)この詩の中で、もっとも多い字はなんですか。(国)
2)国、という字がいくつ使われていますか。(12個)
3)この詩に、題名をつけなさい。(例:美しい国、日本)
4)日本が美しいのは何なのか、作者はどう書いていますか。(眺め)
5)山や川や海が美しいというのは、何が美しいのですか。(眺め)
6)作者はなぜ、日本はヨイ国、と書いたのでしょう。(眺めが素晴らしいから)
7)日本は世界に一つの神の国とありますが、なんの神でしょう。(天之御中主神以後、八百万many)
8)日本以外に、世界で神の国とされている国はいくつあるでしょう。(たくさん)
9)それらの国の神は、なんと呼ばれているでしょう。(それぞれの言語でそれぞれに呼ばれている)
10)この詩の中でリフレインが使われている行はどこでしょう。(第二連の二行目と四行目、第三連の一行目と三行目)
11)世界に輝くとは、具体的にどんなことでしょう。(例:世界平和に貢献する)
12)偉い国ときいてどんな国だと思いますか。(例:品格を保ち、尊敬される国)
13)偉そうな国と、偉い国とでは何がどう違いますか。(すべて逆)
14)日本は偉そうな国か偉い国かどちらだと作者は書いていますか。(偉い国)
15)日本はヨイ国とありますが、なぜヨイ国だと作者は言うのでしょう。(世界に輝く偉い国だから)
16)神の居ない国は、ワルイ国かどうか、討論をしましょう。(例:全てはお釈迦様の手のひらの上のことなのでたいして悪くない)
17)日本に居る神の数と世界中の神の数でどちらが多いでしょう。(例:世界中の神)
18)日本はなぜそんなにも神がいるとされているのでしょう。(例:米一粒にも神が宿るとされているから)
19)この詩は何連でできているでしょう。(三連)
20)この詩に、もし第四連目を付け加えるとしたら、どう書き加えますか。(略)

パッと思いつくだけだけど、こんなくらいの発問。
ベテランなら、たちまちこの5倍は発問をつくるだろう・・・。
まことに精進は大事です。

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バレンタイン、ウイスキー入りにご注意

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「いいな、大人はお酒を呑めて!」
                             
このセリフのあと、つづきがあるのです。
なんだと思います?
                            
「いやなこと、忘れられるんでしょう」

・・・

休み時間、ひまな子が教室の前に集まってきて、おしゃべりをする。
そこにストーブがあるからで、私は次の時間の授業の準備をしたり、プリントのマルつけをしたり、している。

すると、バレンタインデーでチョコレートをどうするこうする、と話が出た。

「中には、ブランデー入りのお酒が入ったのが売ってるから注意してな」

とつい余計なことを言ったら、冒頭のセリフがあった、というわけ。

「うち、お正月に、ちょっとだけ飲んだよ」
「えっ?」
「しょうちゅう飲んだよ」
「へー」
「うえって吐きそうになった」


そこからひとしきり、酒はなんのために飲むか、という話題になる。


「そうねえ。なんだろう。大人には美味いからかなあ」

「ちがうよ。まずいもん。飲んだけど」
「大人はいろいろ大変だから、飲んで忘れないと寝られないって言ってたよ」



子どもたちの結論は、きっとなにか、忘れたいことがあるんだろう、という、なかば同情、憐れみを帯びた結論でありました。

その一方で、自分たち子どもも、いやなことがあったら、ジュースで忘れられたら最高だ、ということになった。




へー、子どもでもいやなこと、忘れたいこと、あるんか、と思う。

いやなこと、きらいなこと、不安なこと。人間は相当、これらのもの、もてあましているのだろう。

そのほとんどは、人間関係のことじゃないかな。

あの人から、悪く思われた、悪く言われた、ダメだと言われた、馬鹿にされた・・・。


ところが、人間は、

Aのものが、Aに見えたり、Aに見えたり、Aに見えたりする。


AをAと見る人は、ほとんどいない。

0211-0

牛乳を残す子

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牛乳を残している子に対して、わたしはとくに何も指導しない。

これは、

「牛乳を飲みなさい!」

と強く指導することが、保護者にとって体罰と受け止められる事例がある、という市教委からの指導による。

ま、それ以前に、子どもだって体調があろうし、好き嫌いがあっても当然だ。

なんでも食べられる子は、幸せだろう。そのことの価値は子どもたちと話し合うのがいいと思う。とくに、「自分は〇〇が嫌い」ということについて、きちんと大事にして、ゆっくりとじっくりと、それをしらべていくのが、なんといっても楽しい!のだから。



形だけ、

「のみなさい!」
「ハイ!」(ごくごく)


という状況をつくるのなんて、まったく意味のないこと。

とある現象をつくりあげることの意味は薄っぺら。
自分にとってどうか、どう考えるか、考える力を養う、ということが主眼なので・・・。



毎回、牛乳を半分残している子が、1学期、2学期の頃までずいぶん気にされ、責められていたが、この頃はもうさすがに周りから責められるようなこともなく、人はそれぞれの体調もあるよね、都合もあるよね、というやわらかめの理解になってきたことがあって、その子が日記にそのことを書いてきた。

「このごろは牛乳のことではなにも言われません」

4年生の頃、先生からも、クラスの子からも、みんなから責められてた、という。
それがトラウマだったが、このところ、なにも言われないから、よかった、と。

これは牛乳のことだけでなく、クラス全体のさまざまなことに、すべて共通して発生すること。
女子の表情がやわらかくなり、男子もこそこそすることがなくなり・・・。
友達の失敗をあげつらうこと、指摘すること、正しいかどうかに執着すること、友達の視線を気にすること。
すべて、氷解する。
あるとき、一気になくなる。
え、なんで?と、拍子抜け、するくらい、に・・・。


これは、なぜか。


つまり、「仲良くなった」ということネ。


人は、

「責められない」


ということが分かると、まわりを「責めなくなる」・・・みたい・・・。

これが人間の姿だろうと思うよ。
P1040139

「言わされた」について

.
小学校には、3月の終わり頃、

「6年生をおくる会」

というものがある。

6年生に向けて、はなむけのメッセージをおくる。
どんなメッセージがあるか、そのメッセージをどう伝えるか。
これを話し合うだけでも、本当にたいへんなこと。

6年生への手紙を書くだけでも、心をこめて書いていくこと自体が、すごい活動だと思う。

1年間をふりかえって、どんな出来事があったか。

その中で、6年生とはどんなふれあいがあったか、言葉かけがあったか。
仲の良い近所の6年生にたいして、なにか伝えたいことは・・・。


運動会の話が出た。

運動会で、6年生の保健委員会の子が、とてもよく気が付く子で、親切にしてくれた、ということを言う。

気分がすぐれず、日陰で休んでいたところを、声をかけてくれたとか。
テントの下で休んでいるときも、ずっと声をかけて、座っていても運動場が見えるように工夫してくれたり・・・。

こういう実体験があれば、伝えるメッセージが出てきやすいね。



ところで、その親切にしてもらった彼は、

「たのしかった、うんどーかい!」

というセリフを、以前、言ったことがあるんだそうな。
低学年の頃の、6年生を送る会で。


しかし、自分は本当はちっとも運動会が楽しくなく、
走るのも苦手だし、まったく言いたくなかったそうであります。


「ま、でも、係りになっちゃったから、そう言ったと思うけど」


今、急に思い出したんだって。
まだ、そのことが、心に残っていたんだね~。
でも、今回、きちんと本音で言えるから、たぶんその心残りも、なんとかなっていく気がする。


ウソは、こころに、妙~に残る。

で、真実は、それを昇華させる。


朝の風景

悪者はどこにいるのか

.
産経新聞のコラムで、イスラム国は悪者で、9条を変えて、たたくべき(戦争するべき)と言っている。
http://www.sankei.com/column/news/150207/clm1502070003-n1.html

これは、ふたつの主張をくっつけているのでわかりにくい。
分けて考える、単純化することで、整理してみると、

1)イスラム国は悪い。
2)悪い国はたたき、その国の人たちを殺すべき。


この2つの視点をもっていることが分かる。
教室では、この2点を討論の議題に据えることになる。
まだ授業はしていないけれど、改憲するようになればこれらを授業しないわけにはいくまい。

さて、上の2点のうち、1)は、イスラム国は、日本人を殺したから悪い、ということになっている。
ただし、イスラム国が殺したのか、イスラム国に住む軍人が殺したのか、というところで、把握の仕方が分かれる。
この産経コラムでは、イスラム国が日本人を殺した、ということが前提のようだ。
イスラム国、という国自体が、日本人を殺したのだろうか。
それとも、イスラム国の中にも、こういった殺人行為について、意見が分かれているのだろうか。
むしろ、強引で人を脅すやり方について、反対した人がいたという可能性はないだろうか。

反対した人がいる、という事実がもしあれば、イスラム国が日本人を殺した、という言い方は強すぎる。
イスラム国の中の、強硬派、テロ推進派が殺した、と言い方が近くなる。

また、イスラム国は悪い、ということは、イスラム国の行為の何が悪かったのか、ということについては、産経コラムはあまり分析的には書いていない。
おそらく、殺人がいけなかったのだろう。殺人というむごい行為は、いけなかった、というのだろう。普通に読めば、そうなる。

産経新聞は、
「イスラム国の中に住む一派は、日本人を、人間としてゆるされない、人を殺す、という行為で、いのちをうばった。人間としてあるまじき行為を行っている。この殺すという行為は、ぜったいにするべきではなく、いのちをうばうという点で、悪い」

というふうに言いたかったんだろうと思う。

そしてその後、

「日本はそんなことはしない。ひとのいのちをうばう、ということは人間としてするべきではない。イスラム国は、全世界が望む平和的な方法で、このことについて償いをするべきだ」

とつづけたかったんだろうと思う。

ところが、はなしが変わっていて、(なぜだ?)

2)で、殺せ、と言う。
ここが不思議であるが、おそらく、当のコラム筆者本人が、自分の言いたいことを整理できていないか、それとも、自分の論理の運び方について、破綻に気が付いていないか、だろう。

あるいは、コラム氏の子どもの頃からの成長過程で、いじめや何か、劣等感を刺激されるような辛い出来事があったか・・・。
コラム氏の今の心理状態を、彼の生い立ちなどから、全て話してもらうなどして、本当の意味で理解しないと、彼の言いたいことは半分もわからない。


まあ、論理展開の無理はひとまずおいておいて、次に、言及されていないことについて、コラムのつづきはどうなるのだろう。予想してみる。

2)では、殺せ、と言っているのだから、殺しに行く人が必要だ。
その殺しに行く人は、いったい誰なのか。

1)産経新聞のコラム筆者本人
2)産経新聞関係者
3)産経新聞の家族を含めた自発的渡航希望者
4)自衛隊と産経新聞関係者
5)自衛隊のみ
6)自衛隊とこの国の若者
7)自衛隊と国会議員
8)国会議員の中の有志
9)自由民主党員
10)その他

いろんな立場があるが、おそらく日本人の中のだれが殺しに行くか、コラム氏は意見を持っているのだろう。

3つめは、何人殺すか、という点。
その国の人たちのうち、何人を殺せ、と言っているか、このコラム文面だけでは分からない。
このコラムを書いた人には、意見があるのだろうが、おそらく、

A)全員みなごろし
B)イスラム国のテロまがいの行為を支持する国民だけをみなごろし
C)軍人とその家族だけをみなごろし
D)軍人だけをみなごろし
E)軍人のうち幹部だけをみなごろし
F)軍人のうち国外でテロを行う者だけをみなごろし
G)その他

この意見のうち、どれかだろうと思う。

こういったことが、くわしくは述べられていないので、コラムだけでは、意見の全体像がよく分からない。


言及されていることが少なすぎて、大仰なことだけが力強く叫ばれている。

小学校で、運動会でなにをがんばるか、ということについて、子どもが意見を出すと、

「ぜったい白に勝つ!」

という意見が出るが、そんな感覚に近い。
どうして?ときくと、

「負けたくないから!」

という。


その後、かなり討論が深まると、

「勝ち負けに関係なく、自分の最高の力を出していきたい。相手ががんばったら応援し、相手のおかげで自分も最高の力を出そうと思えるから、白も赤も、みんなが健闘することがいいと思う」

というところまで話し合いが進む。

コラム文面だけだと雑な感じを受ける。
戦争、という大変なことを書いているわりに、雑すぎる。

せっかくうまくいったのに。

.
たまに、低学年の教室をのぞくことがある。
熱を出して休まれた先生がいて、急きょ、わたしが朝の様子を見に行くことになった。

教室まで行くと、なんだかワイワイ騒いでいる。
無理もない。
いつもはいるはずの先生がおらず、見張っている人もいないので、しゃべったり立ち歩いたりしてる。
わたしが前のとびらを開けると、びっくりした目がいっせいにこっちを見た。

何も言わないのに、静かに席に着く。
そして、なんだか慌てて、本を出して読んだり、ノートを出したりする。
こちらをチラチラ見て、

(あの先生、5年生の先生だよ)

ナイショばなしの声で、力強く、わたしのことを言ってる。

今は、朝の学習の時間。
何も言わないのに、ほとんどの子が席に着き、すぐに学習を始めたので、私は少し拍子抜けした。

どうも、子どもというのは面白いものだ。
高学年の先生たちのことを、なんだか怖い先生だと思っているようで・・・。
私がそばを歩くと、緊張した面持ちで、みんな勉強をするふりをする。

面白い。

目の前の男の子が、漢字をたくさん書いたページを出して、澄まして字を書いていたので、

「すごいねえ。漢字たくさん書いてるねえ」

と声をかけると、男の子は、にんまり、した。


私は、字もきれいだし、なかなかやるじゃないか、と思って、この子にもう一度、

「すごいよね。朝からもうこんなに書いたの!!」

とびっくりすると、彼は、さらに、さらに、にんまりし、笑みを浮かべて、まるで大黒様のような表情になった。




すると、隣に座っていた、目のくりくりした小さな女の子が、かわいい声で指さし、

「ここ、まえに、かいたところだよ」

って。


わたしは、黙って男の子を見た。
彼の顔は今度は、口を一文字にむすんでおりました。
そして、黒板の上の方をみて、目をパチパチしておりました。



せっかくうまくいった、と思ったのにねえ・・・。

ninnmari

【デザートづくり】やんちゃくんが何をもってくるか

.
お楽しみ会をしまーす。

今回は、待ちに待った、デザート・クッキング大会!

家庭科室をお借りして、みんなでデザートクッキングとしゃれこもう!!


・・・

で、本日、事前の打ち合わせをやったのですが・・・。


一応、全員が何かしら材料を持って来よう、ということになった。
〇だれが、何を持ってくるか。

これはとても興味のわく決め事であります。

「ぼく、トマトもってくる」
「じゃ、チーズ、わたしもってくるね」


ま、こんなふうに話し合っております。
いったい何をつくるのでしょう・・・。


私はどの班の様子も見に行ったが、ある班でふと足をとめた。
なにやら、とても紛糾している様子。


「どしたの?」
「ねえ、先生。聞いてよ。Tくん、何持ってきたらいいか決まらないー」


Tくんは、どうもやんちゃの風がある子で、女子にとても警戒されている。
つまり、せっかく持参した材料を、登校中、あるいは学校に着いてから、Tくんが食べちゃうんじゃないかと心配されているのだ。

この班はクレープを作りたかったようだが、中に入れるフルーツを持ってくる、とTくんは頑張って主張していた。

Tくんが
「みかんの缶詰もってくる」
というと、
「缶切りで開けて、朝、食べちゃうんじゃない?」
と女子。

女子が本気で心配していることも笑えるが、肝心のTくんが、それを否定しないから話がややこしくなってる。

「うーん、おれ、食べるかもよ」
「じゃ、ダメ!!」


女子、からかわれていることが、分からない・・・らしい。


女子がキャーキャー言うこと自体が、この年代の男子には、とてつもない快感になるのだ。
それが分からないので、話がいっこうに進まない。

わたしは同じ班の男子が、何とかするだろう、と思った。
まあまあ、Tくんは口ではそう言ってるけど、大丈夫だから、てな感じで、とりなすだろうと思った。


だが、しかし。

驚いたことに、同じ班の男子を見ると、その男子も女子同様(!)、心配しているらしいのだ。
なんとまあ・・・。


見ると、おとなしくて優しい性格のWくんが、

「な、頼む、Tくん、サツマイモにして!」

と頼んでいる。

サツマイモなら、Tくんが登校中に食っちゃう、ということもあるまい。

女子もそれにならって、

「そうそう!おいもにして!!」




Tくんは、この騒ぎが収まるのが惜しいらしく、

「いや、家にちょうどチーズがあるから、チーズがいい」

Wくんと女子は、額をつきあわせて、「どうする?」とひそひそ。

黒髪の長いリーダー格のKちゃんが心配そうに、

「・・・ねえ、チーズ、来る途中で、食べない?」

と尋ねるも、Tくん、何食わぬ顔で、

「食べるかも」
「エーッ!!」




わたしは、のんびり待つ。

結局、Tくんはタイムアップまでに、さつまいも担当におさまっておりました。


あとの休み時間中、なんだか一仕事やり終えた感の強いWくんに、

「よかったねえ。Tくん、さつまいもで納得してたみたいで」

と聞いてみると、

「いや、先生・・・」

Wくん、あたりをちょっと見まわしてから、

「心配だから、オレも一応、家からイモ、もってきとくわ」


小さな声で言ったのでした。

(いや、イモは食わんやろ)とわたしは思ったのですが。



Tくんみたいな子は、こうやって友達思いの子たちに、うま~く囲まれて、人生をおくっていけるような気がします。

Tくんの屈託のない笑顔は、とびきりですからね。
みんな、そういう笑顔が、大好きなんですからな。
boku
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