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中華人民共和国に、もう5,6年くらい前になるか、
ある遊園地ができた。
なんだかネズミの着ぐるみとか、服を着た犬とかあひるの着ぐるみがうろうろしていて、なんだか見る人によっては、
「ディズニーランドのパクリじゃねえか」
と思えたらしい。
で、アメリカ当局やディズニー本社などが抗議した結果、このキャラクターやアトラクションは中国当局によって変更されることになった。
ここまでが、当時のニュースであった。
ところで、金のことを一切考えないとなれば、こういう遊園地が世界中にできる、ということは、ディズニーさんにとってはとても名誉であり、楽しみに思えることではないだろうか。
利権だとか版権だとか商標登録だとかグッズ販売などがすべてそこに入り込んでくるから、
「ちょっと、まった」
と言いたくなるのだけど、
もしも、純粋に、本当に、お金のことは一切、無関係、ということであれば、
「ああ、世界中のいたるところにミッキーが活躍してくれている。人々を楽しませてくれている。ありがたいことだなあ」
って思うんじゃないのかなあ。
ディズニーさんの本音は。
どうだろうね。
(こういうことを、道徳の時間に子どもたちといっしょに、考えるようにしないと)
「いじめ」の一つのパターン、
あいつ、おれのマネしやがって。
というのがある。
これを、いじめ初期微動パターンのうちの一つ、『マネされ訴訟』という。
『マネされ訴訟』を放置しておくと、いじめ、になる。
「ねえねえ、A子、P子ったら、わたしのマネばっかするんだよっ!」
「えーひどい。なにそれ」
「ほら、わたしと同じシャーペン。私が先に持ってたのにィ~」
「ほんとだ~。ぜったいそれ、マネされてるよッ!P子、ありえないよ、あいつ!」
こうやって、一日ずつ、少しずつ、P子を非難する仲間を増やしていく。
いじめは、まずは安易に同調する仲間づくりから始まるのが常の作戦である。
決して一人だけで、言いたいことを相手に伝えていく正攻法をすることはない。
それは、交渉、であり、話し合い、ということになるから、いじめにならないのだ。
いじめになるのは、安易に同調する取り巻きをたくさんつくる、という状況づくりがあるかどうか、だ。
で、どうしても、マネは許されるべきか許されないか、ということが、小学校の教室では大問題になっていくのであります。
でも、世の中、大人の世界は、マネは許されない、という世界だから、どうしても小学校の教室でも、「マネはいけない」ということになりがちである。(道徳的解釈と法解釈と人権的配慮などすべて混在するテーマを分けて考えることになる)
これが、いじめ発生の伏線、温床となるから、先生たちは神経をとがらせるわけだ。
大人の世界と子どもの世界、ここらが、狭間というか、くいちがう部分と言うか、相いれないところなんですよねえ・・・。
小学校教員は、毎日こういうことに接しているから、性格が屈折してくるのではないだろうか。
そうならないように、混線しないようにしないと・・・。(小学校の教室、学級は、大人の勝手に作り出した虚像の民主主義とはちがう運営でなければ子どもが納得しない、ということネ)
つまり、子どもは、大人社会は、ほぼ完ぺきに近いシステム、機構、になっている、と思い込んでいるが、
現状は、ナショナリズムや民主主義をはじめとして、すべての社会機構がまったく人間向きで完璧というわけではないからだ。
中華人民共和国に、もう5,6年くらい前になるか、
ある遊園地ができた。
なんだかネズミの着ぐるみとか、服を着た犬とかあひるの着ぐるみがうろうろしていて、なんだか見る人によっては、
「ディズニーランドのパクリじゃねえか」
と思えたらしい。
で、アメリカ当局やディズニー本社などが抗議した結果、このキャラクターやアトラクションは中国当局によって変更されることになった。
ここまでが、当時のニュースであった。
ところで、金のことを一切考えないとなれば、こういう遊園地が世界中にできる、ということは、ディズニーさんにとってはとても名誉であり、楽しみに思えることではないだろうか。
利権だとか版権だとか商標登録だとかグッズ販売などがすべてそこに入り込んでくるから、
「ちょっと、まった」
と言いたくなるのだけど、
もしも、純粋に、本当に、お金のことは一切、無関係、ということであれば、
「ああ、世界中のいたるところにミッキーが活躍してくれている。人々を楽しませてくれている。ありがたいことだなあ」
って思うんじゃないのかなあ。
ディズニーさんの本音は。
どうだろうね。
(こういうことを、道徳の時間に子どもたちといっしょに、考えるようにしないと)
「いじめ」の一つのパターン、
あいつ、おれのマネしやがって。
というのがある。
これを、いじめ初期微動パターンのうちの一つ、『マネされ訴訟』という。
『マネされ訴訟』を放置しておくと、いじめ、になる。
「ねえねえ、A子、P子ったら、わたしのマネばっかするんだよっ!」
「えーひどい。なにそれ」
「ほら、わたしと同じシャーペン。私が先に持ってたのにィ~」
「ほんとだ~。ぜったいそれ、マネされてるよッ!P子、ありえないよ、あいつ!」
こうやって、一日ずつ、少しずつ、P子を非難する仲間を増やしていく。
いじめは、まずは安易に同調する仲間づくりから始まるのが常の作戦である。
決して一人だけで、言いたいことを相手に伝えていく正攻法をすることはない。
それは、交渉、であり、話し合い、ということになるから、いじめにならないのだ。
いじめになるのは、安易に同調する取り巻きをたくさんつくる、という状況づくりがあるかどうか、だ。
で、どうしても、マネは許されるべきか許されないか、ということが、小学校の教室では大問題になっていくのであります。
でも、世の中、大人の世界は、マネは許されない、という世界だから、どうしても小学校の教室でも、「マネはいけない」ということになりがちである。(道徳的解釈と法解釈と人権的配慮などすべて混在するテーマを分けて考えることになる)
これが、いじめ発生の伏線、温床となるから、先生たちは神経をとがらせるわけだ。
大人の世界と子どもの世界、ここらが、狭間というか、くいちがう部分と言うか、相いれないところなんですよねえ・・・。
小学校教員は、毎日こういうことに接しているから、性格が屈折してくるのではないだろうか。
そうならないように、混線しないようにしないと・・・。(小学校の教室、学級は、大人の勝手に作り出した虚像の民主主義とはちがう運営でなければ子どもが納得しない、ということネ)
つまり、子どもは、大人社会は、ほぼ完ぺきに近いシステム、機構、になっている、と思い込んでいるが、
現状は、ナショナリズムや民主主義をはじめとして、すべての社会機構がまったく人間向きで完璧というわけではないからだ。