30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年10月

「共感覚」とモルゲンレーテ

「ぼくが不登校になったとき、自分の口から出るのは「水色の声」だった。親は「赤い声」でガンガン攻めてきたので、ぼくはチックになった。ある時親が「緑色の声」に変わった。それから気分が良くなった。色々な夢を考えられるようになって、やりたいことが見つかった。学校に行くようになって友達とも遊べるようになった。 」


声の質や内容のことを、「色」で表現していますね。

これは、「叱らない子育て」で有名な、尾木ママさんの本の感想として、書かれたものの一部です。


声に、色を感じる人がいる、ということ。
これを知ると、なるほど、と思う。

<色>というのは、すごいツールだと思う。
世界に、いろいろと色がある、ということは、本当にとてもすごいことだ。

このことを子どもにしゃべっていたら、こんなことを言う子がいた。

「わたし、国語はピンク色で、算数は青って感じがする」


わたしは、びっくりした。
おお!この子も、なにか事柄やイメージを、色合いで理解する脳の持ち主なのか?

爆笑問題の田中さんは、文字を色で把握している、と告白していたことがある。
田中さんは、

「昭和と言う文字は朱色に見える」

と話していた。

物を食べると手に形を感じたり、痛みに色を感じるなど、いろんな感覚の混線を「共感覚」というらしい。

たとえば、音楽や文字に色を感じる。
こうした感覚を持つ人は、200人に1人と言われている。

音楽の、<調>に色が見える、という人もいる。
ハ長調は白、ニ長調はオレンジ、ホ長調は緑、などという。

脳科学の進歩により、次第に共感覚の正体が分かってきた。音楽を聴いている時、共感覚を持たない人の脳は、聴覚野しか働いていないが、共感覚を持つ人の脳は、聴覚野と同時に、色を知覚する領域も活動している。

ムンク、リスト、宮沢賢治も共感覚があったとされる。



さて、

「わたし、国語はピンク色で、算数は青って感じがする」

という子。



よく見てみると、その子の国語のノートは、表紙がピンク色で、算数ノートの表紙は、青でした。





・・・色って、そのことかよっ!!

・・・チャンチャン!!


結論:子どもは大人ほど知識に頼らずに世の中を把握しようとしているので、国語、という瞬間にさっとピンクをイメージし、算数、と聞いた瞬間にブルーをイメージする、というようなこともあるのだろう。そして、それは、本人にとっては、大変に重要なことで、そのものの本質を把握しようとした結果得られた、素晴らしい能力なのだろう。
子どもと大人が話をする時に、なにかズレが生じたとする。実は子どもの「本質のとらえ方」を大人が理解していないせいだ、ということはないだろうか?



わたしには、この山が赤く見える。共感覚か?
(いいえ、ただの、ふつうの感覚です)

モルゲンレーテ

うち、美容師になって、幸せになる!

.
「やりたいこと、願っていることがある」

なーんて胸を張っても。

そのやりたいこと、自分がやりたいことなんかではなく、他の人の希望だったり、マスコミが言ってるから、だったりすること、よくある。

その「夢」、本当に自分のもの?

一生続くもの?

↑ こういうこと、よく考える。



子どもたちの会話に、出てくるもの。

「ぼく、わたしの夢とは」

以下。
レストランの店長だとか、IT企業を創りたいとか、医者になるとか。
国連の職員なんてのもいた。あとは身近な感じで、ケーキ屋、パンや、美容師さん。
具体的なのは、「TOYOTAに入社」だって。

ま、いいか。TOYOTAの自動車工場見学をしているからね。
「自動車工場こそが、日本の誇りだ。外貨を稼ぐ、稼ぎ頭だ!!」
・・・と、社会科で習ったんだから。


ところで、それって、職業だな。

夢って、職業のことだっけ?

道徳の資料に、「夢」を語る、というのがあるから、みんな、言うんだけど、
ほぼ全員、職業を言う。


で、思うんだけど、べつにこの子たち、くわしいキャリア教育を受けてきたわけでもないのに、
すらすらと、職業名を言うんだけど、どういうこと?

どこかで、そういう情報をインプットしたんだろうが、いったいどこで?

だれが、いつ、どうやって、この子たちの脳内に、

「○○という職業は、すばらしい」

ということを、注入したのか?



わかった。質問が悪かったんだろうな。

「大きくなったら、どんなことをやりたいのか」

という質問自体が悪かったんだ。

「この人生をどうしていきたいか、どんな一生を送りたいか」

まずは、こっちを聞くべきだったんだろう。

それだったら、

「うち、美容師になるわ」

で、終了!チャンチャン!!

・・・とはならないからネ。

美容師になって、何をどうするか、というところを話したいわよネ~。




仕事のための人間⇒人間のための仕事。
仕事のために人間を生かす⇒人間のために仕事を生かす。

山登りにゃ、理由は要らんね。↓
人はなぜ山に登るのか

人材活用ってなんだ。

.
「ほら、あの子が使えるじゃん!」

他のクラスの先生から出てきた言葉だった。


月末の学芸会に向けて、学年の先生たちは大忙し。
それぞれのクラスの音楽の発表や、劇、発表会の練習が続いていた。
どのクラスも、なかなかいい。

『子どもたち、やるな!いいかもしれん!

私も思わず独り言が出るくらい。
これなら、というレベルに仕上がってきていた。
いい出来具合になってきたな、見に来てくれた人も、面白がってくれる、楽しんでくれるだろう、と思う。

学年の会合でも、当然その話題だ。
担任が集まって、学芸会に向けてのそれぞれのクラスの進捗状況を話しあおう、というので、心配事、気にかかることを出し合っていた。
わたしは、一つ、心配事を相談してみた。

家庭科の裁縫作品でつくった、「お弁当を包む袋」。どうしてもミシンがうまく使えず、ちっとも出来上がってこない子がいる。その子とマンツーマンで作業をし、できるだけ完成できるように頑張っているのだが・・・。
学校を休みがちである上に、スロースターター、スローな学びをする子なので、到底、発表会の展示作品としては間に合いそうもない、ということだった。

まあ、実際には、ほとんど心配はしていなかった。
他のクラスの先生方がいろいろと気軽に出しておられるので、自分も出してみたのだが、なんとか時間を捻出していけないことはないし、いざとなればおうちの人にも応援してもらえるかもしれない。教科書通りにミシンをかけることができなくても、一部はマジックテープでもいいや、いざとなりゃ、という気でいた。

ところが、その話題になるやいなや、この言葉が出てきたのである。

「先生、先生のクラスは、Mくんがいるでしょ!?Mくんが使えるじゃん!」



意味が分からなかった私に向かって、

「Mくんなら、器用だし他の子に教えることもできるよ、あの子ならそういうの、得手だから」



要するに、このスロースターターの、弁当包みが未完成の子の、お手伝いをさせたらいいではないか、というのだ。

わたしはそれを聞いて、はあ、なるほど。たしかにMくんは、器用で、ミシンも言われたとおりにやれる子だし、利発そうなタイプで、気軽にお手伝いもしてくれるだろう、と思った。

いい考えだし、明日、その話をMくんにしよう、とさえ思った。


ところで、この、「使える」発言は、保護者からすると、あまり気分のいいものではないだろう。

人を「使う」という上からの目線、視点には、使役する立場、使役される立場、という「差別的」意味合いを感じるからである。

無意識のうちに、先生の口から出てきた、「使える」という言葉は、逆にMくんに親しみを感じるからこそなのか(たしかに前学年での元担任の方だった)、Mくんの持ち味や能力を高く価値として認めるからこそなのか、そこにはいろんな意味が含まれると思う。

しかし、やはり、どこかそこに、微妙なものを感じてしまう。
「使う」「使わない」の前に、まず、Mくんの主体は尊重されているのか?
・・・という点で。

おそらく、この学校という社会、空間が、
○何でも言える、何でもやれるお互いの関係
というものであれば、「使う」という言葉があっても、なにも感じることはないのだろう。

○だれでも自分の好きなことを言って、だれにもとがめられたり、嫌悪に思われたりしない。
○だれでも自分の好きなことをやって、だれにもとがめられたり、嫌悪に思われたりしない。
○だれでも、なんの断りもなし、遠慮もなしに、ずけずけと好きなことをやっても、なにも責められない。

こういう学校社会であれば、逆に、

「使える」


と思ってもらえることは、豊かな喜びであり、人生の楽しみなんじゃなかろうか。
また頼む側も、純粋に、「Mくんに、ぜひ、やってほしいなあ!」とスッキリ頼めると思う。
まったくの作為的なものは無しで。
操作してやろう、○○させよう、というものは無しで。
「断られて当然」なのだからネ・・・。


つまり、崩れようのない、徹底的に一致したお互いの関係があれば、
「使える」とか「使えない」とか、そんなのどうでも・・・。


ところが、現状はそうでないから、「使える」という言葉に、ビミョーなものを感じるわけ。
あたかもそこに、Mくんの主体が無いかのような感じがして。

「あいつは、使える!」

この言葉が、なんも問題にならない社会が、イイね。




太陽は万人に
はるか雲海のかなたから・・・

「想定と想定外の間をさぐる」授業

御嶽山の噴火。

先日、写真を撮るチャンスがあった。
今回の災害から、子どもたちは学ぶべきことがたくさんある。
写真を撮りながら、
「想定と想定外の間をさぐる」授業の構想を立てた。

噴煙をあげている御嶽山をはるかに臨む


<想定外>をなくすためには、ありとあらゆる<想定>をしておかなければならない。
だが、それは無茶な話だ。
「想像力や情報収集力の弱さ」には、限界がある。
ビジネスの世界では、「想定内を増やせ」と、まことしやかに言われるが、その努力は果てが無い。
<想定>の範囲を最大に拡大せよ、と言われても・・・。


ただ単に、<想定>の量を増やせというだけ、ではない。
そもそも、<想定>とは何なのか。
きちんと、調べて、その正体をつかんでおくということ。
少なくとも、小学生高学年程度のうちに。
人生の初期において、<想定>とはそもそも何なのか、人間の<思考の癖>を知っておくべきだ。


人の思考の癖。
<想定>に、合うか、合わないか。
人は、そこに着目しがちだ。
そして、<想定>に合う事象を受け入れる一方で、<想定>に合わない事象は受け入れない傾向が強い。
<想定>に合わない事象は、考えたくないし、計算したくないし、できれば無視したい。
意識の中から、排除したくなる。それが人の心理。


以下は、<想定>されたマニュアルに掲載がないからと、<想定外>を無視した事例。
埼玉県、秩父市の自衛隊派遣要請を断る(日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG18027_Y4A210C1CC1000/

埼玉県秩父市が今年の2月、県に自衛隊の災害派遣要請を再三求めたにもかかわらず、県は「市街地除雪のための派遣は難しい」などと断っていた。
つまり、「除雪で自衛隊派遣なんて、聞いたことが無いし・・・」というわけね。
マニュアルや前例にないのだし、そんなこと考えたこともないから、考えたくないよ、と。
<想定>してあれば立ち上がるけど、<想定外>なら、めんどくさいからヤダ。
これも、人間の思考の癖か。



さて、御嶽山の噴火。

<想定外>であっても、瞬時に、大事なこととそうでないことが区別できる、という力。
想定できなかった、危機的状況が生まれても、すぐに、大事なことだけに反応し、要(肝心カナメ)となるもの、心臓部を守りきることのできる力。
そういう力をなんとよべばいいのだろう?


思い起こすのは、1986年11月の、三原山の噴火だ。
大噴火が起きたとき、島民1万人すべてを島外に脱出させる、前例のない作戦が敢行された。
噴火口が山すそまで広がったのは、実に500年ぶりのこと。
大島内には、大昔の後の噴火口が40以上存在する。その噴火口が一斉に火を噴いたら、島内に逃げる場所はなかった。追いつめられた島民は港に向かった。そこは、殺到した人々であふれ返っていた。もはや、島の中で避難場所を探している段階ではなかった。町長が決断する。
それは、全島民1万人を島の外に逃がすという空前の脱出作戦だった。
マニュアルなんてものは、ない。つまり、<想定>は無かった。
それを超えて、たった今、この生命の危機をどうするか、という状況。

↑ まずは、この資料を使う。


次は、今回の御嶽山の噴火で、やはり<想定外>の中で救助活動を行った山荘の方たちのこと。
御嶽山の山頂から北側に歩いて30分ほどのところにある山小屋「二ノ池本館」の支配人、小寺祐介さん(34)は、噴火直後に登山者を誘導しながら下山した。このときの対応が、冷静で落ち着いていた。多くの人が、小寺さんに励まされて無事に山頂から降りることができた。
小寺さんに、噴火の<想定>はなかったかもしれないが、すぐに判断ができた、現場対応ができた、ということ。いや、山小屋の支配人をしている人だ、噴火の想定はあったのだろう。ヘルメットもあった、というし・・・。


<想定>と<想定外>の間。
いろいろと考えさせられる。


最後は、子どもたち一人ひとりの、<想定>と<想定外>をしらべてみる。
たった今、巨大地震が起きた場合のこと。
天井の蛍光灯が割れて落ちてきたら、どうするか。何に気を付ける?
ドアが開かなくなったら、どうする?
友達が怪我をしたら、どうする?

戦争が起きて、小麦が輸入されなくなったら、どうする?
食料の値段が急騰したらどうする?

そんなこと、考えても仕方がない、という意見もあろう。
いくら考えても、きりがない。
しかしそれは、<想定外>を<想定>の範疇におさめよう、と無理をして頑張ることではないのだ。


<想定外>に当たっても、

自分には、なにが大事か

自分は何を願っているか

自分にとって、絶対にはずせない一点は、どこか

これらの判断ができるかどうか、という点については、どうだろう。

解は無数にある。
ただし、真の目的はたった一つだ。
そのたった一つきりの目的を、見失わない子に育てたい、ということなのだ。

相手の期待に応えない自分で、当然

.
他人の視線が気になるとか、怒られるのがいや、とか、苦手とか。
強く言われるのが苦手、上司が苦手。

そういう子、多い。
人間関係に疲れるとか、人間が苦手、とか。


で、どうやって人間関係を楽にするかっていう話で、
人間関係の呪縛や疲れから自分を解放するため、というので、

とあるセラピストの言葉に、

「相手が悲しむのを見たくないからって
期待に応えようとしないこと。

相手が怒るのをみたくないからって
機嫌を取らないこと。

相手に喜んで欲しくて言って欲しい言葉を言わないこと。」


というのがあるんだって。


↑こういうの、なんか、ムツカシ~ッ!!!





これ、取り組もうとすると、おそらくかなり高度というか、負担になるんじゃないかな。
だって、感情のコントロールしろ、って話だよね。

それ、無理、むり、ムリ!

それに、ケチケチすんなって思う。
期待に応えたり、機嫌を取ったり、言ってほしい言葉を言ってあげたり・・・

↑こういうこと、するな!なんて言われたら、逆にくるしい。



どうしたらいいかというと、相手と自分をひっくり返した場合のことを考えて、
相手の期待に応えようとしない
 相手が自分の「期待」に応えないからといって自分は腹が立たない

相手の機嫌をとらない
 相手が自分の機嫌をとってくれないからといって自分は腹が立たない

相手の言ってほしい言葉を言わない
 相手が自分の言ってほしい言葉を言わなくても腹が立たない


・・・と、
こうなれば、解消する。


だって、自分が腹立たないようになれば、相手が腹を立てて当然、という思いが、消えちゃうもの。
やっていくうちに、「このやり方のほうが早い」、を実感できると思う。
自分が腹が立たないから、「相手が腹を立てて当然」とは思わなくなっていくから。

でしょう?
自然と、そうなる。


相手の期待に応えようとする行為を、やめるのではない。
そういうことは、しない。
つまり、自分を抑える、という方法はとらない。
そのかわり、

相手が自分の期待に応えないことは当然だと。

⬆︎これがスッキリしていれば、うまくいく。


逆のやり方の方が、簡単。
結局、自分が他の人の言動に腹の立たない人になれば、他人の価値観からも解放される、ということ。


そして、相手の期待に応えない自分で、当然ちうこと!!
恥じることなんて、なにもない!!
相手になんと非難されようが、たとえ非国民と言われても、なんも問題なし!!



あら、結局、「怒りの問題」になっちまった。






だれが吸っても、怒らない花。
蜜がなくなっても、腹の立たない虫。
セセリの吸蜜

「怒り」は、コントロールするものではないよネ

.
わたしが、「叱らない」というのを面白がって、こういうところに書いているからか。
よくこんな意見・感想をもらう。

それは、

「だって、思わず子どもの言葉に、カッチーンとくることだってあるじゃない」

「そのときに、この怒りをコントロールするなんて、無理じゃない」


ということ。


どうやら、コントロールするものだ、と受け取られている?



怒りをコントロールしよう、とは、思わない。
おそらく、怒りとは、よく言われるような <表層の感情> なんか、ではないと思う。


だから、コントロールなんか、しない!!できない!!

そじゃなくて、
怒りを、みる!!


みる!
シラベル!


で、結果として、「怒り」は、現れなくなる。

出番がなくなっちゃう。でも、たぶん、舞台のそでには、きちんと存在している。そして、他のキャストたちといっしょに、観客からは見えないところでちゃんと休憩している。舞台袖で談笑しながら、ウーロン茶飲んでる。で、あまり出番がないんだけど・・・。だけど、出番がないからって、キャストからは、外されることはないし、誰からも苦にされない。そういう俳優さんが、「怒り」。(と、思う)。

その俳優さんが出てくるようになっているのに、というか、既に舞台に出ているのに、それを無理やりに、出てこないように押し戻すなんて、芸のないめちゃくちゃをやるから、つらいし、苦労するんで、そんなこと難しいに決まっている。



「だって、思わず子どもの言葉に、カッチーンとくることだってあるじゃない」

カッチーンとくるような・・・心の状態・・・だからネ。
それから、カッチーンときても、べつにいいんだし。
ただし、カッチーンときたところで、自分の願っていることや本心が何なのか、分からないままだ。

やっぱり、「怒り」をきちんと調べて、究明してかないと。
これをずっと思っている。
「怒り」をシラベル。
これないと、何しても、また戻ってくる。ぐるぐる回ってばかり。
「叱らない」も、本当のところは、ほとんど伝わっていかない。


↓ 「だれか、一粒、食ったなッ!!!(怒)」

ナイアガラ

「いじめ」教育の常識を疑う

.
「いじめ」をなくす。
そのために、学校現場ではかなりの取り組みを行う。
実際に、それで効果もあがっていると思う。

だから、それについて、まったく文句はない。
むしろ、わたしもしっかりと、さらに取り組んでいかねば、と思っている。

ところが、ちょっと、思っていることがある。
道徳、人権教育の専門の先生からは、叱られてしまうかもしれないが、今の「いじめ防止」教育とは、真逆のことを一つ・・・。



実は、今のイジメ防止教育は、
「いじめられている子の気持ちになって見なさい」
というものが、多いのです。


ベストセラーになっている本、『わたしのいもうと』(松谷みよ子/文 味戸ケイコ/絵 偕成社)1200円は、その代表作。

いじめられている、いもうと の気持ちを、せつせつと訴えている名作です。

これで、いじめられている子の、気持ちを想像してみると、切なすぎて耐えられない。
自分はもう、絶対に、そういう「いじめ」には、加担しないし、許さない。
そんな気持ちにさせてくれる本です。


ところが、その逆の視点の本が、なかなか、無い。
つまり、

「いじめている子」

の気持ちを、うんと掘り下げて、その子の心情に、ぐいぐいと迫っていくような本です。


わたしは、その、「いじめている子」の側の、さびしさや、切なさ、孤独感、というものこそ、クラスで考えるべきだと思うネ。

実際、あれこれと事件が起きるたびに、クラス会議で考える焦点になるのは、

「加害者となった子のさびしさ、つらさ、生きにくさ、悲しさ」

なのであります。



口汚く、相手を非難し、ののしり、威圧しようとする子。
相手を自分の支配下におこうとし、威張る子。
そんな子自身が抱える寂しさ、つらさ。


つまり、


ジャイアンの孤独、切なさ、悲哀、つらさ


に焦点を当てたらどうなるか。


明確に浮かび上がってくるものがあれば・・・。
人間の弱さ、ひねくれた「ねじれ」のつらさが、見えてくるのではないか。

そこに「ねじれ」が見えてくるのであれば、時間がかかるかもしれないが、その子の、「素(す)」も、見えてくるだろうと。

ふつう、「ねじれ」が見えれば、「素」も見えるよね?

「いじめっ子、ジャイアンの孤独を見る」

だれか、↑こういう題名の本↑を書いてくれないかなあ。
尾木直樹先生、いかがでしょうか?
ジャイアン

叱らない、という結果

.
<問い>叱らない、というのは、方法なのか、結果なのか?


叱らないというのは、
あくまでも結果
それは、方法ではない。


「あらま・・・。いろいろやってたら、結果的に、叱らんで済んだわい」

・・・て、感じ。


じゃ、なにが方法か?

子どもが、自分の機嫌、自分の願い、自分自身の心の奥底にあるもの?(というとまたわけわからないが・・・)、自分の「素」のものに、気づいていけるように、接する、というのが、方法


自分の「素」(す)

に、気づき、それを出せるように。


それが、「叱らない教育」の「方法」。

で、結果として、「叱らない」という現象が、生まれる。



ひろーい景色は最高だ。

アンパンマンの世界は金銭の授受がないの?

.
「先生、アンパンマンの世界は、お金要らないんだよ」

お金、要らない?? えーーーっ!!
と、びっくりぎょうてん。

ジャムおじさんやバタ子さん、保育園の先生たちも、お金をいっさい使わない暮らしをしているとのこと。

なんでそんなことが分かるかと言うと、どうやらそういう説明が、アンパンマンミュージアム(全国6か所)にあるらしい。かつて、そこへ行ったことのある子が、力をこめて、断言している。
教卓の周りで行われる、休み時間のたわいないおしゃべりから、それが判明したのだが、本当か・・・?



金の要らない村、腹が減ったら、ください、といえば貰える村。
アンパンマンは、ジャムおじさんに給与もらっているわけではない。
バタ子さんも、カレーパンマンも、食パンマンも・・・。
そこに住んでいる人たちも、みんな、お金のいらない暮らしをしている。


そんな、バカな・・・。


まさか、と思ったら、本当にそうだった。↓


☆アンパンマンワールドにはお金はありますか?
http://anpanman.jp/sekai/qanda/049.html

*作者の回答
アンパンマンワールドでは、自分で作ったものをあげて、みんなに喜んでもらうことだけでうれしいので、お金はまったく必要ないんですよ。




ところで私は、高校を卒業すると同時に家を出て、学生時代はできるだけ「金のかからない暮らし」をしようと考えていた。
もちろんバイトもしたけれど、それよりも何よりも、ひがなのんびりと縁側で日向ぼっこをして暮らしていくのが人生の理想だと考えていたため、家賃が720円、という破格の部屋に住むことにした。

電気ガス水道が3千円で、すべて入れると 3720円。

今考えても、この価格は、スバラシイと思う。
それだけ支払えば、雨露がしのげて、風呂トイレが使え、部屋の電灯までつく、という暮らし。
今から四半世紀前には、そういう『学生寮』が存在していた。

超貧乏な暮らしをしていたが、何より筆記すべきは、寮の夜食の価格破壊ぶりであろう。
なんと、どんぶりに、山盛りのごはんが、1杯、10円であった。おかずが、30円。
缶コーヒーが100円だった時代で、多少、あれから物価は変化しているかもしれないが、それでも安すぎる。

わたしは、夜食を入手するために、毎晩10時に寮の食堂に出かける。
当時、わたしよりもさらに貧乏で、「赤貧男」と呼ばれていたYという同い年の男がいた。
その男が必ず私よりも先に来ていて、食堂入口の、褪せた黄色い壁際に立って待っている。
わたしを見つけると、

ニィッ、と歯をむき出して笑い、

「今日は、サンマやでぇ」

と、関西弁で教えてくれるのであった。

彼は、吉野屋で牛丼を食べるときは卵をつけた方がコスパが良い、というのが持論で、何度もその理由を、わたしに説明してくれた。(今となっては、それがなぜだか分からない。たぶん、この上ないほどのゴージャス感を、たった30円でも、存分に味わえるチャンスだから、というようなことだったと思う)

ともかく、彼の口癖は、

「金は使うと癖になる。できるだけ使わないのがイイ」

であり、

「邱 永漢(きゅう えいかん)が、こう言っているが・・・」

であった。
彼は、経営コンサルタントの邱さんを崇拝してやまなかった。


また、これが一番金銭感覚を鍛える、と言いながら、透明な空き瓶に、小銭をたらふく集めていたのを知って、なんでそうしているのかを問うたところ、

「金は、音が大事なんや。紙幣は音がせえへんけど、硬貨は音が鳴るやろ。その音を、自分の骨の髄(ずい)に聞かせちゃるわけや」

という感じのことを言っていたが、まさに、貧乏神、というか、赤貧の怨念がとりついたような男で、寮でも一目おかれる存在。

彼が、するめをくちゃくちゃ噛みながら、

「なんかもっと、食うもん、ないか~」

と、寮の長い廊下を歩いているときは、金の亡者が歩いているようで、近寄られると、なにかこちらのエネルギーが吸い取られるような気がしたものだ。


ところで、Yは、寮のお祭りだか何かで、赤いマントを羽織り、アンパンマンの役になって舞台に立ったことがある。

それを、今、急に、思い出した。

アンパンマン・ワールドは、お金のいらない世界。

この事実を、Yは、知っていただろうか。


あんぱん

秋の交通安全教室で、二つの指導

.
秋の交通安全教室を開催しました。

自転車での事故が、市内で多発したことから、かなり、力を入れています。
今回は、地域の交通安全を見守って下さる、交通安全協会の方や、警察にも支援を要請しました。

ところで、子どもたちの中で、

「安全への意識」

が高まることが目的なのですが、その評価はとても難しいですね。

どの子も、スタート地点やゴール地点など、教師や大人の目が光っている場所では、首を左右にふって、安全を確認しているかのよう。

形の上では、交差点での『一時停止』ができているので、安全意識が高まってきている、と判断するのは軽率です。この中の何人かは、大人のいないところでは、まったく無視して、勝手に道路を渡ってしまうでしょう。

これは要するに、安全確認、ということの意味や趣旨を、きちんと理解していない・・・というよりは、

「ぜったいに事故の無いように、運転していきたい」

という思いや願いが、まだ自分の中に確立できていない、ということなのでしょう。
目に見えない「願い」があるかどうかは、見かけの『一時停止』では、判断できない。


さて、あなたはどちらの指示を出しますか?

1) 一時停止をしなさい!

2) どんな運転をすれば、安全に帰ってこられる?



教員が最初にするのは、

「一時停止をしなさい」

という指示でしょう。

これは、最初に一回すればよく、あとは繰り返す必要はないと思います。

なぜなら、

教員が「一時停止」の指示を出す ⇒ 子どもが、指示に従って停止する

ということはあるだろうけど、

(見かけ上)一時停止をしている子 ⇒ 安全確認ができる子

とは限らないからで。




高めたいのは、その子の願い。
ぜったいに事故に遭わないぞ、という願い。
安全に行って、帰ってくるぞ、という真摯な思い。



むしろ、自転車教室に出る前に、教室の中でしておくのは、

「どうやって、ぜったいに事故に遭わない運転をする?」

という疑問文でしょう!




子どもには,指示文よりも疑問文 !


稲と木立(岡崎市内)

子どもに、関心がない、ということ。

.
学校の抱えているのは、ともかく「非難」されることを避けたい、という『大願』である。
この『大願』をかなえるためには、何でもする、と言うのが、学校の立場である。
学校には大義があり、看板があるのであるから、
世間から非難を浴びる、ということが最大の罪・・・だと考える教員が多いと思う。

学校現場サイドに居る者は「ともかく、そうならないために・・・」と、考える。そして、
<非難を浴びないために、○○をする>、という思考が、1から100まで、貫かれている。

そこで、校長は、こう考える。

「保護者の理解を得るためには・・・」

と。


校長の言葉は、もっとも重い。
なかでももっとも重いのは、

「それで保護者の理解が得られるでしょうか」

という言葉である。

さらに、職員会議でもっとも沈黙を呼ぶのは、

「保護者の中には、それはやめてほしい、という人がいるかもしれません」

というひと言であろう。

また、計画を立てる段階で、A案にするかB案にするか、という選択を迫られる場合は、

「保護者から非難を浴びないのは、どちらだろうか」

という価値基準、判断のものさしで、計られることが多い。



ともかく、全職員、全教員がこれまでの経験値から割り出した、

「こういう形であれば、非難されることは、おそらくもっとも少ないであろう」

というものが、実施される。


ある意味で、これはビジネスを成功するための必勝手段であろう。
とにもかくにも、危険から身を守るために、絶対必要な態度だ。


ただし、ざんねんなことに、問題がひとつある。

「目の前の子どもにとってどうか、という判断」

からは、「ズレ」てしまうかもしれない、ということだ。



つまり、大人の都合が優先されるわけで、
子どもの都合は、考慮されなくなる危険がある。



もう一つ。
教員の「かなえていきたい願い」は、どうなるのか。

「そんなことをすれば、保護者から非難されるのではないか?」

という恐れが、悲しいかな、教育活動を縛(しば)り上げている。



これ、教育活動だけ・・・じゃないね。
考えてみりゃ、人間社会のありとあらゆる集団、会社、グループ、団体、人間関係、生活全体を、この<非難されるかもしれない恐れ>が、しばりあげているのだろう。

思考が硬直化するのも、仕方ない。

試行錯誤の過程をあたたかく見守る目、じっくりと「創意工夫」を育てようとする目。

創意工夫を生み出すことのできない、硬直した空間、そこを打ち破るために必要なものは、何か?


不思議なタワー

TPPについて小学生が討論をすると・・・

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5年生は、「日本の農業」で、食料自給率を学ぶ。
もちろん、TPPが焦点になる。

下手をすると、TPPで食料自給率はうんと下がるかもしれない。
いろんな問題が叫ばれている。さて、どう考えるか。
うちのクラスでは、TPPの推進派と拒否派に分かれて討論させようとしたが、全員TPP反対で、討論にはならなかった。

なぜ、小学生は、TPPに反対するのか。


なぜかいうと・・・

別に、知的財産権がどう、とか、工業材料の輸出産業がどう、とか、グローバル化やアフラックと郵貯がどうこう、という話ではなく・・・・そんなことより、

もっと単純なことが理由でして・・・。

つまり、遠い国からわざわざ食料を運んでくるのは大変だろう、というのが、どの子にも共通する意見なんであります。

なんじゃその理由・・・・・・ガックリ。





わたしは、これはいかん、と思って、

「オレンジなんて、巨大な貨物船で一気に運んでくるから、みんなが想像するほど、それほど大変、というわけではない」

といって説得したが、無駄であった。
特許立国だとか、技術輸出立国だとか、原発輸出立国だとか、製造業側の立場の話も、きちんと子どもたちが調べ学習しているし、説明も盛り込んだのに、ダメ、である。

小麦とか重そうだし、たくさん運ぶのは大変だし、自分たちの食料は自分たちで作りたい。
・・・という気持ちがあるらしく・・・。

「機械や技術を輸出して金儲けし、食料は広大な土地でアメリカや中国など、他国の人につくってもらって買えばいい」という考えもあるのだヨ?

さんざん、↑そういう立場・側からの話もしたのに、なんとなく不満みたい。


いや、そんなむずかしい話ではなくて、単純・ふつうの感覚で、

「自分たちが食うもんだし、食べ物、自分たちでつくればいいじゃない?」

ということのようで・・・。

「とりたてがすぐ食えるし!」



単純ですねえ・・・。
担任としてはとても物足りない。
だれか一人くらい、TPPの推進派が出てこないかと期待していたんだが・・・。


小麦の多くが外国産の輸入だという資料を見せると、

「なんでもっと、日本でつくらないの?」

と聞く。

つまり、アメリカ等に頼ってばかりで、迷惑ばかりかけられない、というのである。
アメリカの人も、日本人の分も作らされて、いい迷惑なんじゃないの?

「いやいや、アメリカの人は、売れて儲かって嬉しいかもしれないし・・・」

ときちんと説明するのだが、子どもたちの素直な感想は、

「でも、いつもたくさんつくってもらってばかりだと、悪いし・・・」

「いやいや、アメリカの小麦は安いらしいから、日本の人も嬉しいんじゃない?」

と言うと、

「安いんなら、日本以外の国の人も、欲しいんじゃない?だったら日本だけが買うのも悪いし・・・」


日本は世界最大の食糧輸入国であり、2008年財務省貿易統計によると、食糧輸入額は約5兆6000億円で世界全体の10%を占めている、という説明が気に入らなかったのか・・・?





ま、

この感覚だと、TPPはあり得ませんね。

どうやら、子どもの感覚では、

「輸出や輸入には、できるだけ頼らない方がいいんじゃないか」

ということらしい。




これは、なぜでしょうか。

5年生の担任になって、新発見です。

3.11以後の、災害多い日本に生まれ育ったNEW世代なので、できるだけリスクを避けよう、というのが、この子たちの基本的な生きるスタンスになっているのかもしれませんね。
したがって、できるだけ、自分たちで何でも、出来ることはやっておこうヨ、ということになる。

「災害」が起きれば、輸入食料を食べたくても、運ばれない、食べられない、手に入らない、というの、
小学校5年生も、そのくらいは想像ができる、ということだ。

考えてみれば、この子たち、6、7歳のころに、東日本大震災ですからね。
入学して1年して、ようやく足し算引き算ができるようになった頃から、日本社会が大きくぶれて、急激な変化を始めたわけで。

そして、今回の「噴火」。
思い返せば、近年、日本各地に流れる異常気象のニュース。超巨大台風、竜巻・・・。
「異常」だったり、「史上初」だったり、というようなレベルの、「災害」じみた話ばかり、この子どもたちは、聞いて育ってきたわけだ。


したがって、ありとあらゆることについて、

「災害」

を視野に入れての、人生になっているのも、仕方のないことかもしれません。

この子たちが高校や大学を卒業するころには、新人類どころの話ではなく、おそらく、

「リスクマネージメント世代」


と呼ばれることになるだろうと思うね。

リスク、災害、という言葉に反応しやすい世代。


子どもたちの、こういった「災害を軸とした考え方の姿勢」は、これまでの世代にはなかった特徴的なものだと思う。
同時に、われわれは、そこに垣間見える、時代の流れ、時流、というものを、しっかりと、見極めていきたいものです。


写真に、月が写っていますが、わかりますか?

早朝の月

御嶽山、噴火!

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月曜日。
朝一番、教室に入ると、ちょっと緊張した雰囲気。
噴火のニュースがあったからだ。

開口一番、御嶽山の災害について、話をする。
第一に確認したことは、子どもの家族、知人、親戚に、今回被災している人がいないかどうか。

子どもたちの家族や知人には、災害にまきこまれた人はいなかった。
ニュースで何度も繰り返しやっていたから、クラスの大部分がよく知っていたし、大事件だということを把握していた。

今回のことで、子どもたちの反応 ↓。

「先生、富士山より先に、御嶽山だったね」

これは、以前、私が話したことを覚えていたのだろう。

8月に富士山へ行って写真を撮ってきたのを見せながら、
「樹海は火砕流で焼き尽くされた平原なのだ」
と、解説したことがあった。
その子は、その話を思い出したのだ。


今のところ、富士山は噴火していないが、御嶽山は噴火した。
日本は火山ばかり。噴火することもある。


火山名    噴火警戒レベル

雌阿寒岳    1(平常)
十勝岳     1(平常)
樽前山     1(平常)
有珠山     1(平常)
北海道駒ヶ岳 1(平常)
秋田焼山    1(平常)
岩手山     1(平常)
秋田駒ヶ岳  1(平常)
吾妻山     1(平常)
安達太良山  1(平常)
磐梯山     1(平常)
那須岳     1(平常)
草津白根山  2(火口周辺規制)
浅間山     1(平常)
新潟焼山    1(平常)
焼岳       1(平常)
御嶽山     3(入山規制)
富士山     1(平常)
箱根山     1(平常)
伊豆大島   1(平常)
三宅島     2(火口周辺規制)
九重山     1(平常)
阿蘇山     2(火口周辺規制)
雲仙岳     1(平常)
霧島山     2(火口周辺規制)
桜島       3(入山規制)
薩摩硫黄島 1(平常)
口永良部島 3(入山規制)
諏訪之瀬島 2(火口周辺規制)
(2014年9月28日現在)



実は5年生は社会科で、日本の国土について学ぶことになっている。


学ぶ内容を、変えた方がいいかもしれません。


今や、火山の知識を教える必要があると思います。

津波のことも、そう。
3,11以後、日本人全体の意識が変わっています。
海岸に近い地域を学習する際は常に、津波や高波、防潮に対する人々の備え、ということが勉強の焦点になってきています。

さまざまな災害について、必要なことを学ぶべきです。
つまり、3.11以前につくられた教科書は、ほとんど、意味がないのです。
子どもたちの問題意識や、世の実態に合わないから。
現場の先生はみんなそう思っているけど、政治家はあまりそう思っていない。このあたりが、現場とのかい離、とよばれる部分でしょうな。


「災害」、「防災」の視点を入れた、「日本の国土」単元が必要です。
同時に、「人間らしい暮らしとは何か」を考えさせるべきです。
(その前に、人間らしさとは何か、ということがあるけど)


ともあれ、改訂版の小学校5年社会科の教科書を、大至急つくりましょう!


防災の観点が必要だ

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