30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年09月

お母さんの言うこと、聞いて良かった

.
スーパーの駐車場。周囲をよく確認してから歩き出すのが普通です。親からしたら、これは当たり前。ウチの子もできると思っています。

「うちの子は大丈夫。先週だって、ちゃんと確認していましたから(‘◇’)ゞ」

ところが、今週になると忘れていて、急に走り出してしまうのが子ども。
走り出すわが子を見て、「ダメッ!」と大声。危険回避のため当然です。
しかし、子どもが幼いうちは、事前に車内で少し確認作業をしておくと、これを防ぐことができます。

「はい。駐車場に着いたよ。何に気を付ける?」

と聞くだけ。

「うん、車!」

「そうだね!車だね。お店に入るまでは歩く?それとも走る?」

「歩く!」

「よかった!お母さんと一緒に歩けば安心だね」


こんな会話があれば、子どもはきちんと、駐車場をお母さんと並んで歩くでしょう。そうしたら、スーパーの入り口で、きちんとその行動を認めます。

「ちゃんと歩いてこれたから、安全だったね!」

ほめ方はこれといって決まりがないので、こう言わなければならないわけではありません。わが子の目を見て、ニコッとほほえむだけで、きちんとメッセージを受け取るお子さんもいるでしょう。それはお母さんが子どもの気持ちにもっともなじむやり方を選べばよいのです。

大事なことは、お母さんが「こうしようね」と「教えた」行動のすぐ後に、お母さんの願いをきちんと受け取ろうとした子どもに向けて、OK!というメッセージを伝える、ということです。直後であれば、そのやりとりの価値を、親子でお互いに確認できます。子どもは、大好きなお母さんが教えてくれたこと、伝えてくれたこと、お願いしてくれたことを、きちんとやりとげたい、と心では思っていますから、自分が無事にやりとげたあと、お母さんがそのことを分かっているかどうか、ちゃんと確認したいのです。

考えが足りなくて、失敗して自分を責める展開と、きちんと方法を学び、やりとげた後にはきちんとほめてもらう展開。どちらが子どもの機嫌は良いでしょうか。

そのうち、子どもから親に、

「分からないから教えて」

と、メッセージを出すかもしれません。
これは、親にとっては助かることです。

高学年になる頃、思春期の前半で、こういうメッセージが出せるようになっていると、その後はたいへんスムーズです。あまり苦労しなくても、親子で意思の疎通ができるでしょう。
子どもが「教えて」というメッセージを出してくるようになれば、うんと応えてあげます。そして、
「困ったら、いつでも言ってね。いい考えが出せるかもしれないし」と言い、困った時には頼ってほしいということを、チャンスがあるたびに伝えることです。

親は、子どもが自分からメッセージを出せたことをほめてやることができます。
やがて、心の中では、「お母さんの言うことを、ちゃんと聞いておいて良かった」という思いが積み重なって貯金されていきます。これは、やはり「必ずきちんと教え、その後ほめていたから」なのです。

ところが、子どもに何も教えず、伝えずにやらせ、失敗したところをすかさず叱る、という展開だと、子どもは息が詰まり、不安が増し、自分を防衛するために、他を責めるようになります。自分以外のもののせいにしないと、身がもたないのです。また、親が決定権をもつことをキツいと感じるようになり、決定権を、親から自分へと奪おうとしはじめます。この親子の攻防はかなりキツいでしょう。「決定権」は親にある、ということ自体は、親子の信頼があれば問題になりませんが、親子間の信頼が薄くなれば、子どもはそれを問題にしたくなるのです。自分自身の誇り(プライド)を守るために。

<教育機関誌に載せた原稿より転載しました>


シラカバの巨木

(シラカバの巨木)

はらがたって、はらがたって、お菓子ぜんぶ食べた

.
最近、また「腹が立つ」ということについて考えるきっかけがあり、
「腹が立つ」、で思い出した事例。

わたしは当時、学級で、
「腹が立ったら、教えてね」
と話をしていたので、
日記に、こんなようなことを書いてきてくれた。

授業参観でお母さんが来てくれると言っていたけど、たぶん来なかったと思います。
授業中もずっと後ろをみて探したけど、一度もいなかったと思います。
お母さんは、
「ほかのお母さんたちが大勢いたから入れなくて、廊下から見てた」
と言ってたけど、廊下もちゃんと見たけど、いなかったと思います。
だから、きっと、弟の幼稚園の参観に行っただけだったと思います。
間に合うと言っていたけど、間に合わなかったんだと思います。
「嘘を言わないで、謝ったらいいのに」と言ったら、
だまって買い物に行ったから、わたしもだまって弟の分のお菓子も全部、
一人で食べちゃいました。(先生、ないしょです)
すごくはらがたったので、書きました。


腹が立った時の自分はダイレクトであり、素直な自分である。



Eテレの「ようこそ先輩!課外授業」で、モデルの冨永愛さんが出ていた。

番組内容は、「怒り」をテーマに冨永愛が多感な中学生に挑んだ、というもの。
中学生に向けて、冨永さん自身が子どもの頃からコンプレックスを抱き、怒り、悔しさ、を見つめて生きてきたことを語る。冨永さんにとって、怒りは自分を変える、バネになった。

番組の中で、怒りについて、
「怒る、ということは、贅沢なことなのでは」
と答えた男子がいた。

中学生で、そうしたことを考えることがすごい、と思ったが、はたして冨永さんはそれに答えて、

「でも自分の素直な気持ちだよ」と。

素直というのは、生きにくい。
怒りはムダ、と思いやすい。
だから、エネルギーを消費しないために、怒りを捨てる。
そうした気分を、中学生のその男の子は、言いたかったんだろうと思う。
「素直」は、わがまま、高望み、口先だけ、というイメージもあるんだろう。

『それを怒りにするだけ、損なことでは?』

中学生でも、そのくらいの考えに及ぶわけだ。


わたしは、中学生が、「怒り」を考えていこうとする姿勢に感心する。
人生の初期段階で、「怒り」は「ムダ」なのか、と考えていこうとしている。
冨永愛さんが、それを、引き出していく。
すごい人だなあと思う。

「怒っている」

それが素直なんだ、自分の実態なんだ、と

かけがえのない自分自身のこと、その自分自身の状態を大切に考えよう、と言ってくれる。


世の中から、「素直」が消えようとしている。
中学生ですら、「怒り」を消そう、ムダと考えて、賢く生きよう、となってしまう。
その場合の賢さは、自分の中の「素直」を消して生きる、という生き方であり、
世間に調子を合わせる、という生き方。


「素直」は、「怒り」から見つけやすい。


お母さんが嘘をついてる!と弾劾したいその子は、
お菓子を弟の分まですべて食べてもなお、
「日記」に怒りをぶちまけている。


怒りの感情をもってして、どうにもならないこの口惜しさを、
無念さ、報われなさ、切ない思いを、その「淋しみ」を、
お母さんにぶつけたけれど、

お母さんは、・・・買い物に出かけてしまった。

小川の近くに咲く花

めざまし時計の話だけで45分

.
日本列島、なんだか休みの日が続いております。
秋は、祝日が多いんだよネ。

そこへもってきて、土曜が保護者参観日だとか、運動会とか。
振替休日なんかが入るから、なんだかスケジュールがへんてこ。
子どもたちの表情も、なんだか冴えないわけで・・・。


心配になって、朝一番に、

「しっかり寝ていますか?何時に寝ている?」

って聞いたところ、みんなけっこう、遅くまで起きてることが分かった。

ついでに、

「親に起こされているか、自分で起きているか」

を話題にしたら、なんだかみんな、自分の家の様子を話したくなってきて、

「お姉ちゃんがまず私を起こしに来て、それが最初。2番目が弟で、3番目は犬」

だとか、

「お母さんがカーテンを開けるから、それで起きないと殺される・・・」

とか、盛り上がり始めました。


話の上手なMさんが、

「うちの家は、隣の犬が散歩するところからスタートします」


と、なんだか物語風な感じ。

「その犬が吠える声でまずお父さんが起きます。その後、お父さんがお母さんを起こして、お母さんがお兄ちゃんを起こして、お兄ちゃんが私を起こします。」

なんだか、ロシア民話の「大きなかぶ」みたい。

「お兄ちゃんが私を起こす時は、枕をすごい勢いで引っ張るから、頭がゴンっってなるから起きるけど、お姉ちゃんが起こす時は、口で何べんも、おきろ、おきろ、って言うからうるさくって、まだ起きない時は最後にが来ます」

なにかのお話をを読んでいるような語り口で、事細かに説明してくれる。

みんな気になったので、

「おに?」


聞き返しますと、

「お母さん。お母さんは、上に乗ってきて、手でこうやって、ほっぺたを挟んだまま大声で起こすから、死にそうになります」


みんなで恐怖におののく朝の様子を語り始める。



雰囲気としては、昔やっていた、明石家さんまさんの、「あっぱれ、さんま大先生」という番組のようで、なんだかいやに盛り上がってきたので、

「ちょっと待った」

小学校5年生、こんな調子で起こされているのか??
ちょっと気になる。

「この中には自分の力で起きている人もいるでしょうから、おうちの人に起こされているよ、という人は、逆に、自力で起きる方法を、聞いた方がいいよね?」


私は、自力で起きるための方法、できる子たちの取り組み、を聞こうと思った。


やっぱ、めざましでしょう?

ネタを振ると、待ってましたとばかりにみんな、
一斉に話し出す。


「うちの目覚まし、すげえでかい音で鳴るよ。でっかいベルが2つもついてる。お父さんが、若い頃、時計屋でいちばんデカイのを選んで買ったらしい」

「へえー!すっげぇー!」

目覚ましだけでも、お互いに興奮して話すだけのネタがあるようで・・・。

「わたしのは、ちゃんと、私の名前を呼んでくれるよ!」

「え?どういうこと?Yちゃん、起きて!とかって、勝手にしゃべるの?」

「そう!」


どうやら、自分の名前を設定できるものがあるらしく、同じ機種をもった子が、実に3人もいた。

あるいは、

「ぼくは違うけど、お兄ちゃんのやつは、転がる~」

「ころがる?なんだ、それ?」

説明を聞くと、それは球形の目覚まし時計で、センサーが働くのだそうだ。
人間がアラームを止めようとして手を伸ばすと、自動的に感知して勝手に転がるらしい。

「転がっちゃったら、アラーム停められないよね」

「そう。だから、人間がふとんから、自動的に出てくる」


なーるほど。まさに機械の思う壺ってワケだ・・・。



かと、思うと・・・

自分では絶対に起きれない、と断言をするMくん。

「おれ、ぜったいに起きられないよ。今まで、時計で起きたためしがない」

なんとなく、みんないつものクラス会議のノリになって、

「枕元だと、いつの間にかアラームを消しちゃってるから、部屋の入り口に置くといいよ。」

勉強が苦手で、どちらかというと頼りない雰囲気のSちゃんまでもが、熱弁をふるう。

「入り口の、それも地面に置くんだよ。そうすると、そこまで歩いてって停めたら、目の前に扉があるから、まあ布団に戻るよりも、このまま部屋を出て、下降りてこっかなーって、思いやすいから」

なるほど。その子なりの工夫らしきものが、随所にあるもんだ。

「いや、俺さ、あの目覚ましの音が鳴ると、すっごくいやな気分になるから、あれで起きたくないんだよね~」

Mくんは、なにかとても嫌そうな声で、訴える。

「じゃ、カーテンのないところで、朝明るくなるところで寝ればいいよ」

「いや、寝る部屋が北側の部屋だから、明るくならないんだよね」

「へえ」


なにか、いい考え、ないかナ・・・。

「うーん」





結局、早く起きるためには、早く寝ろ、という話で終わりました。

(気が付くと、1時間目、終了しておりました。)


朝は気持ちよく

「運動会は無い方がいい」 について

.
運動会が無い方がいい、というと、

「そんなものは暴言だ」 と一笑に付される。

しかし、よく考えてみると、学校にたとえば400人の児童がいたら、

その児童全員にとって、

「運動会が絶対にあった方がよい」

と言えるかどうか・・・。


その過程は無視して、

「ま、あった方がいい、という人が多いだろう」

という見込みで、やっているに過ぎない。
あくまでも見込みだから、断言できないはず。
今年は無い方がいい、という状況だって、あるかもしれない。
個々の事情、状態、その子の内面の状況によって。
今年は、まだその時期にあらず、という子だって、いると思う。


運動会っていいよね、というの、本当にその「運動会」こそが、彼らのユニークな力を伸ばしていくものなのか?その方法、そのやり方、その競技の仕方が、子どもたちの実際に、「ちょうど良い」ものなのか?

時間ないもン・・・。
そこまで考えてないヨ・・・。
運動会なんて、行事なんて、所詮そんな程度だ、という認識があれば。
このあと、行事って変わってくると思う。
なんとなく立派な感じ、見た目だけの運動会って、虚しさが漂うものだしね。




学校に現に通っている子ども一人ひとり。
子どものための、運動会。
この子たちのために、運動会をやろう、というのであれば、もっと形は変わると思う。

なぜ、長靴飛ばしを、やらないのか?

この1年生の子は、夏の間、長靴を飛ばすことに情熱を傾けていたのだ。
雨ばかり降ったこの夏に、お気に入りの長靴を買ってもらっていたから、この長靴を何度も飛ばし、驚くべきことに、20m以上も

遠心力

を使って、足を大きくカーブさせて振り回して、飛ばすことができるのだ。
そのことを、運動会で、ぜひ成し遂げたい、となれば・・・。



児童全員、自分だけの、特別な思いを持っているハズ。

一人ひとり、特別な種目に挑戦したいではないか。



隣の子に勝ちたい、ということだけを狙わせなくても、そういう種類の「勝ち負け」に、こだわらなくてもいいと思う。
自分の記録を伸ばしたい、ということに闘志を燃やせる子もいるのだしね。

運動会という行事は、すべて、「PTAに見せるもの」、になってしまっている。
授業参観と同じだ。
例年と同じ、今年も学校は、変わっていませんよ、ということを伝えるための手段のよう。

ほら、この通り。
私たちの学校は、いつもと同じ、変わっていません。
そして、世の中の常識から外れていません。
安心してください。


というメッセージが、運動会という劇場舞台の、幕を通して、透けて見えてくる。

しかし、これで、ほとんどの人が、

安心

したかのように錯覚してしまう。
なんでだろうネ。
こう聞くと、なにかしら、心の中に、「安心感」のようなものが湧く気がする。
「今年も、わたしらのよく知ってる運動会なのね。なら安心だ」と。




だけど、よく考えたら、おかしい。
本当の安心は、

目の前の子どもが、本当に育っているかどうか

ということなのに。
そのことについては、まったく分からないままなのに。






写真は、一斉に孵化して、『笹の葉食べ競争』をはじめた、ジバチ幼稚園の幼虫さんたち。
みんなで孵化しました

「叱らない」は無理、だからやらない??

.

「叱らない」というと、ほとんどの人が、無理、と答える。

無理だから、やらない。

あるいは、極端な人は、

「叱らないなんて、間違った方法だ」 と言う。




『叱らない』

をやってみれば、教育問題がタダで解決する。




まず重要なのは、叱らないと、子どもが言うことを聞かなくなり、勉強をしなくなるのでは、という間違った思い込みだ。

逆だ。

叱らないと、子どもが自ら自発的に行動するようになり、今、周囲から求められることに自然に反応して動くようになる。そして、勉強をするようになる。


このことは、やってみればごく自然に当たり前のこと。ちょっと考えればいいだけ。

叱られて、しぶしぶ言うことを聞いて、勉強をしている状態を想像してみればいい。
叱られて仕方なくやる勉強で、効率よく進むはずがない。



錦織圭選手が、額にしわを寄せて、眉をひそめながら、悲しい顔で、コーチの罵声を浴びながら練習した、という話、聞いたことが無い。

考えてみれば、当り前のこと。
それで、テニスが好きになるわけがないものネ。


桑田真澄さんは、

「体罰はまったく意味がない」

と言う。

理由はいくつかあるが、最大の理由は、それで強くなるわけではないから。

落合博満さんも、明確に、体罰を否定する。

理由はやはり、それでは選手が強くならないからだ。


ところがネ。

体罰で強くなる

ということを信じる人が、実際には、いる。

同じように、

叱ることで、子どもが伸びる、という、旧態依然とした考えが、まだまだ教育界に色濃く残っている。



叱らないことの副産物は、いくつもある。

○子どもは大人に恐怖を感じないから、何でも素直に話すようになる。
○子どもが「外面的・見た目的・一時的な評価」を気にしなくなる。
○子どもが、学校を好きになる。
○子どもは、人と人とは、恐怖でコントロールしあう関係がふつうなんだ、とは思わなくなる。
○子どもが大人の目を盗んで、表は「良い子」のポーズをとり、裏で反社会的、非社会的行為に耽る、ということがなくなる。




大人がキレるから、子どもも、

「ひとは、キレるのがふつう」

と思い込み始めている。

そして、子どもどうしで、お互いに傷つけあうようになる。



「叱らない」をやるには、かなりの準備が要る。

準備もなしに、いきなりは、難しい。

かしこく、準備をしていくこと。


まず、準備!
何よりもとにかく、準備が要る。


コスモスブルー

山積する教育問題をタダで解決する、たったひとつの方法

.
それは、

『叱らない』

ということ。



正確には、叱らない、ということだけで解決するのではなくて、

叱らない、ということがやれるだけの、さまざまな準備をする過程で、

問題が解消していく。


あくびがでますよ!

【昆虫クラブ】で、蛾のよう虫をGET!

.
蝶(ちょう)の幼虫ではなく、蛾(が)の方ネ。
蛾(ガ)の幼虫、ときいた時点で、嫁様は・・・。

「え?蝶(ちょう)になるんじゃないの」

ちょっと引き気味。
でも、実物を見せたら、「わー面白そう」と言ってくれて、私と息子は、ホッ。


昆虫クラブは、年季の入ったクラブ員がたーくさん居て、息子のような初心者に、いろいろと教えてくれる。

「庭の木通(あけび)の木に、ついとりましたのでね」

Sさんが、息子に渡してくれたのは、

アケビコノハ!!

白い透明ケースに入れてあるのを、ケースごとくれました。




次の日の朝。

「おーい、蛾の幼虫~おはよう~!」

さっそくケースの中を覗いていたら、なんと、脱走したらしく、姿が見えない。

「あれ、いない!」

「脱走だ、脱走!そのへん、うかつに踏まないでね!よう虫がどっか、歩いてるだろ!」


嫁様は真っ青になり、うちのチビ助が面白がって口の中に入れてしまうんじゃないかとか、軽くパニック!



ところが・・・。

ケースの中をじっと観察していた息子が、あれ?と大声を出した。




「あれ?こん中に、まだいるかも!!」


あけびの葉の具合がどうもおかしい。
寄せ集まって、くっついている部分がある。

その中を少しだけ覗くと・・・



いた!!

目玉模様が、見えた!!

アケビコノハ



なんと、まゆを作り出したの?
よく見ていると、口から糸を吐き、アケビの葉を合わせて、まるまりはじめたようです。


これが羽化するところを見たい。

「羽化(うか)、楽しみだねえ」

と話をしていたら、嫁様はまだ、軽ーくパニックの余韻が続いていたようで、



「孵化(ふか)、いつごろ?」

と聞いてました。


・・・孵化(ふか)とは、言わない。
・・・たまごじゃないし。

たのしみだねえ~。
ワクワクする!!


下は、最近考えた、ゆるキャラ。
しゃくとり虫の、『枝(えだ)尺(しゃく)さまⒸ』。

どなたか、ぬいぐるみを作って下さる方、いませんか?
秋の昆虫展で飾ります。

えだしゃくさま

道徳の授業中に・・・人生の大切なもの

.
今年になって、初めて、『道徳』の教科書が配布された。(以下、下ネタ注意)

これまでは、道徳というのは教科として教える内容ではなく、人格全般を扱うものだから、子どもの学校生活全般をみとりながら、生活や人間関係を営む中で、その子その子に応じた指導内容を、適時に適切な方法で扱うこと、というふうに理解されてきた。

ところが安倍政権になり、いわゆる道徳を、正しく教えることになりました。(可能かどうかは別として)

わたしは、これについてはどっちでもかまいません。
やることは同じだ。

たとえ、道徳の教科書を使ったとしても、子どもはびくともしないだろう、と思うネ。
逆に、使わなくてもほとんど影響無い、ということを思うし、それよりもはるかに大きく、子ども自身は、近くに居る大人の考えや行動から学び、影響を受けることが大きいと思われる。

教科書を使っても使わなくても、それ以上に、親の影響、教師の影響、身近な大人の影響を受ける、というのが子どもの立ち位置なのでありましょう。
みなさん、どう思われますか?


ところで、その教科書を、使わないといけないので、パラパラと見ていると、いわゆる

尊く、よきこと

がたくさん書いてある。

ようするに、

子どもたちよ、人生は苦しいが、清く正しくガンバレよ!

ということであります。



そこで、わたしが同じように、

「人生は苦しいが、ガンバレ!」

的な発言をしたとしたら、おそらく子どもは目が点になって、

「どした?いきなりどした?」

と、ざわざわするのが落ちだろうネ。



毎日同じ空間で影響しあって生きているのに、道徳の時間だけ、急にちがうトーンで、話をしてみたって、そんなのどうしたって無理が生じるっての。



ま、やることはやらなきゃ。

私はまず、読み物資料をみんなで声を合わせてがんばって読み、最後に、別の資料に掲載されていた<おすすめのワーク>をやった。

そのワークは、

「自分を振り返り、今の自分にとってもっとも大切だと思うものをみつけ、書きましょう」


という取組みでありました。

「人生の宝物、大事にしていきたいというもの」
を発表しあおう、というのです。

なかなかの難題です。小学校5年生が、心から大切だ、というものを、はたして見つけられるのか。
なかには、教師受けしそうなことを書くだけの「いい子」もいるだろう。
生活経験もそれほど豊かでない、たかだか10歳、11歳の子どもにとって、大切なものって言われて、はたしてしっかりと見つけて書くことができるのか。

わたしは、おそらく、みんな

「おかあさん」

とか

「家族」

とか、

「いのち」

と書くのではないか、と思った。

今の自分の人生に、もっとも大事だと思えるもの、なんだからネ。

あるいは、若い自分たちのこと、

「未来」

とか、

「友情」、「友だち」

それとも、この大自然を育んでくれた、母なる大地、

「地球」

とか・・・。

ともかく、そんな、思わず胸がきゅんとしちゃうような。

子どもたちはその純真な気持ちのままに、

心の宝石箱から
『珠玉の言葉の数々』を選びぬいて


書き始めるのではないか、と想像した。






ところが。


厳粛な気持ちで机間巡視をしはじめた私は、すぐに唇がふるえて真っ青になりかけた。

開かれた道徳のノート。
そこに書かれた、

「じばにゃんのシャーペン」

という文字を認めたからだ。


自分の人生をふりかえり、今の自分にもっとも大切だ、と思うもの。

それが、

「じばにゃんのシャーペン」

だと。

わが目を疑うとともに、何の授業をしていたんだか、一瞬頭がショートしかけた。


そして、さらに驚愕したのが、



これ ↓ ↓ ↓ 






「金玉」






・・・。

もっとも大事なもの。

それは、「金玉」




野球の好きな、男の子です。

私は彼の席の横で立ち止まり、震える指先で、彼の書いた「金玉」の字を指さし、

「これ・・・」

と思わず言いかけると、彼はちょっと、人目をはばかった後、こっそり小声でこう言いました。


「あ・・・いちばん大事なものでしょ!?」



・・・。


だまって丸をふたつ、つけておきました。




(写真は、金玉ではなく、金色に色づきはじめた近所の柿の実。)
金色に色づきはじめた近所の柿の実

「早く起きなさい」 と 「いつ起きる?」

.
なかなか起きない子に、

「早く起きなさい!」

と言って起こしている、という話。


先日、学級の保護者会がありました。
夏休みが終了し、2学期始まってすぐの参観日。
授業参観終了後の、学級の保護者会で話題になったのは、夏休みボケを直す、というテーマ。

別に最初からねらってそういう話題になった訳ではなく、
保護者の方が一言ずつ、順番に話をしていくうちに、自然とそういう話題にうつっていったのですが・・・。

シャキッとしない子どもを見ていて、親はイライラするのです。
我慢ならず、命令口調でガンガンと発破をかけているのだけれど・・・。
子どもは、口をとがらし、ほおをふくらませて、ふてくされているだけ。
ちっとも親の期待通りにシャキッとしない。

どのお母さんも、お父さんも、

反抗期にさしかかっているのですから、まあ仕方がないけど・・・」

でも、まあ、親としてはネ・・・
言わずにおれないから、親子で喧嘩になるのを覚悟で、言うしかない。

「そうそう。起きないんだもの」
「そうでもしなけりゃ、ねえ・・・」
「うんうん・・・」


みんなで顔を見合わせて、うなずきあっていました。



そこでわたくしが、

「早く起きなさい」

ではなくて、

疑問文の、

「いつ起きるの?何分?」

とやさしく聞いてはどうでしょう、と言いますと、


ガハハハハーッ!
という失笑と共に、
○いや、そんなやさしく聞いたって、うちのガキは起きないですよ!

○無視されますよ、無視。

○親が何を言ったって、都合の悪いことは無視するんですから。


という、威勢の良いお母様方の意見がほとんど。

ガハハハ、と机をたたいて、自分の息子の悪口を言って笑うお母様たち。
まあまあ、と私はなだめるように、

「朝一番からの命令口調を、ほんの少し変えてみて、子どもの反応を知りたい、というように、どう?・・・とか・・・教えてよ・・・とか、というような雰囲気でもって、いつ起きる?と聞いてみてはいかがでしょうか」


これは雰囲気が伝わらないと、いけない、と思って、わたしが何度か声をかける雰囲気を演じて見せたところ、学級のお母さんたちは、爆笑であった。

「アハハハ・・・そんな、生易しいような起こし方で、起きるわけがないですよ、先生」

目の端に、涙をためて、笑いながら、そうおっしゃる。


でもネ。

命令口調で、起こそうとしても、起きるのは起きるけど、そのあとに、何分も、時には一時間近くも、親子で雰囲気悪く、言い合いをしたり、舌打ちをしたりしながら過ごすのでしょう?

それを考えたら、ちょっと一度、雰囲気を変えてみるのも、いいかもしれないですヨ。

遅刻したらどうする、というのが、心配なので、

大声で叱咤しながら!
脅迫的に起こすしか!
他に方法は無いのだよ、明智君!


と断言されるのでしょうけど・・・。





命令口調だと、子どもからしたらね、

「お前は、こうやって起こしてやらないと、起きない子なんだからね!」

という指導をされているような気になるんですよね。

ところが疑問文で、どう?って聞かれたら、

「お前は自分で起きる力はあるよね。あとは、今の時間を把握しているかどうかだね」

というように、ちょっと、親と子の、お互いに問題だとする焦点が、微妙に変わるのです。



自力で起きる能力そのものを疑うのではなく、現在時刻を把握しているかどうか、という点を焦点にした方が、はるかにいい。


そんな説明をしたら、納得したようで、

さっきの、机をバシバシ叩いてガハハハと笑い、息子の出来の悪さを盛んに吹聴していたお母様も、

「はあ、なるほど。じゃ、口調が先生みたいにやさしくなるかどうかは別にしても、ともかく命令口調はやめにしてみますわ」


と言っていただきました。

命令口調がなくなるだけで、なんか変わると思うなあ。
どうかなあ。
子どもによるのかなあ・・・。

いや、きっと、大人の意識の中に、

「子どもの気持ちや内面がどうのこうのと、見えないものに関心を向けるなんて、不毛だ」

という固いものがあるのであれば、同じなのかもしれないなあ・・・。


写真は、アリジゴク。
アリジゴクだ!

「えっと、『きちんとお願いする、のワザ』にします」

.
「先生!AくんとNくんとRくんが、僕をこちょこちょしてくるんです」

「困っているの?」

「困っています!」

「じゃ、会議!」



こういう、何でもないような、チープな議題で、
会議をする癖をつけていく。
重い課題は、いずれ、かならずやってくる。
その時に、じたばたしないために、いつもいつも、どんな話題でも、

○子どもたちが
○お互いに解決に向けてアイデアを出して
○全員の幸福を「目的」として


話し合うようにしていく。
これは、クラスの雰囲気を、画期的に変えてくれます。
何より、

私たちのクラスは、私たちが主人公!

という当たり前の意識が、きちんと身に付く。
そして、隠された価値観を、自然と理解する。
(つまり、人間関係が最も大事だ、という価値観ね)



さ、というわけで、

会議実行まで、最速5秒程度。



「じゃ、当時の様子を、みんなにヴィジュアルに伝えて!」

「はい!」



Yくん、Aくん、Nくん、Rくんが登場。

Yくんが、他の3人から、こちょこちょされる。

「うひゃひゃははははーッ!」

「すげえ笑ってる!」

「やめて、やめて、やめて!!」

「おもしれー。喜んでるから続けよう」



はい、ストップ!!(カチンコ、と教師用コンパスで合図を送る)



俳優陣、席に着く。




Y君の願いは何?

「こちょこちょを、やめてほしいことです」

それは、伝わった?

「ぜんぜん伝わりませんでした」



はい、アイデア募集!


「転げまわりながらでもいいから、先生に言う」
「やり返す」
「あとで3倍返しだ!と言って脅す」
「新間先生がいなかったんだったら、隣の竹下先生に言う」
「相手に水をかける」
「助けを呼ぶ」
「きちんと言う」



最後の!もう一回、くわしく!


「きちんと、もうこちょこちょはいやだ、といって、別の遊びをやろうって言う」

Yくん、どう?


「えっと、笑い過ぎて声が出なくて、なにか言うってこと自体が、もう無理な状態でした」


はい、別のアイデア募集!


「じゃあ、もうやめて、のポーズをとる」
「首を横に振り続ける」
「オルガンの下に隠れる」
「相手に抱きついて、相手の手を動かないように締め上げる」
「やっぱ、他のクラスから、助けを呼ぶ、じゃないかなあ・・・」



Yくん、どう?


「えっと、一応、ぜんぶやったんだけど・・・」


それでも、やめてくれなかったの?

「はい。でも、呼吸が苦しくなって、笑い過ぎて苦しくなったときは、みんなやめてくれました」


はい、さらに別のアイデア募集!



「じゃあ、やめてくれた瞬間をねらって、もう本当にやめてほしい、ということを言って、別のことをやろうって提案するのがいいのでは?」



Yくん、どう?


「それにします」


じゃ、Yくん、このアイデアに、ネーミングしてください。

「えっと、『きちんとお願いする、のワザ』にします」


あとは、なにかにつけて、このワザを口にして、流行するまでやたらとネタにします。
しばらくすると、子どもたちの口から、友達どうしで、

「それ、きちんとお願いしたら、どう?」

というように、言葉が出てくるようになります。






写真は、煉瓦で組んだ、ロケットストーブ。
簡単に火がつき、スゴイ勢いで燃え続ける。

ロケットストーブ

靴下をはかない子 ~『大造じいさんとガン』~

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くつ下を履かない子がいる。
笑うと白い歯が目立つ、Yくんだ。
サッカー大好き、それもイタリア・セリエAの話題をよく知っていて、得意げに説明してくれる。


今日、国語の授業中、アレッと思った。

Yくん、机の下に、はだしのつま先が見える。
足のつめまで、ぜんぶ出して、涼しそうにしている。

わたしは、『大造じいさんとガン』 椋鳩十:作を読みながら、机間巡視中。

教師も長く勤めてくると、物語を朗読しながら、同時に
子どもたちの様子を見る癖がついてくる。

「残雪というのは、一羽のガンに付けられた名前です。左右のつばさに一か所ずつ、真っ白な交じり毛をもっていたので、かりゅうどたちからそうよばれていました・・・」

この子は、上履きを、すぐに脱いでしまう。
癖なんだろうネ。

「残雪、というのは、ガンの名前だね。どうして『残雪』という名前がつけられたのでしょう?」

わたしが発問すると、彼の足の親指が、くねくね、と動いた。

まるで、

「わかんな~い」

というように。


反射神経の鋭いMさんが、

「左右の翼に一か所ずつ、真っ白な交じり毛を持っていたから、です」

と挙手して発表してくれる。

その間、彼の足の親指は、まるで別の生き物のように、

「ああ、そうかもネー」


あっちを向いたり、こっちを向いたりしながら、反応していた。

私は意地悪く、さらに突っ込んだ発問をする。

「では、どうして、『左右の翼に真っ白な交じり毛を持っていたら、残雪、という名前になるのでしょう?」

足の指は、ゲゲッ、まだ続くのかよ、という具合に緊張し、
それから、


だらん


とうなだれた。

「わからん・・・」




私はYくんに訊く。

「Yくん、どうですか?」

案の定、彼は

「えー、・・・今、考え中です」



私は授業をしながら、気になってたまらず、

「考え中のYくん、ごめん、きみ、なんで裸足でいるの?」

と興味本位の質問をする。

Yくん、天井を見ながら、

「ええー、はだしの理由は・・・・・・今、考えてます・・・」

周囲の子たちがクスクス笑う。


「先生、Yくん、4年の頃からずっと裸足です」
横から友達の解説が入った。

Yくんが振り向いて、友達に弁解し、
「え、ずっとじゃないよ」

他の子も、そうそう、といった風で、
「あ、まあ真冬は靴下履いてるか」

「うん。俺も冬は履くよ」

「そういや、Yくん、春から秋までは、裸足だよね」

女の子たちも、クスクス。



おそらく、体温が上がる体質なんだろう。
頭の温度が上がるので、血液を体の下部へ集めるために、靴下をぬぎたくなるのかな。
いや、冬だと逆に、冷えてしまって、血液が足元へ行かなくなるよな?
・・・あれれ?

このあたり、よく分かりません。どなたか教えてください。


そういえば、冬でも裸足の方が気持ちいい、という古くからの友人がいる。
彼は、真冬でもほとんど裸足でランニングするという、一風変わった人間で、おそらく無意識のうちに、裸足による刺激で全身の血のめぐりを良くしようとしているのではあるまいか。


Yくんも、幼い頃から、自分の体の声をきいて、自発的に、「はだし人生」をスタートさせたのだろう。
だれかに「教わった」ものではない、自分で、自分の心地よさを感じ取ろうとして靴下を脱いでいるのだ。
我々にとって、自分の体が要求する声を、きちんと聞いてキャッチすることは難しい。
彼のその試みを、ずっとこれからも大切に、見守ってやろうと思う。



写真は、中秋の名月。明る過ぎ!
今宵、裸足(はだし)で、月を愛でる。

「コミュニティ・スクール」で地域は良くならない

.
「コミュニティ・スクール」は、なんだかとても大きなお世話、というような運動であります。

学校が地域のために、という言い方があるけれど、そんな思い上がった態度、地域住民からしたらまったく

「要りません!」

といいたいネ。

また資料によっては、正反対の表現で、

地域が学校のために

という言い方をしているけれど、地域は地域ですでに自治組織が機能しているから、いまさら学校のために、なんてこと・・・べつにやらなくてもよくって?(あるいは自治組織が崩壊している場合は、なおのこと、学校のために!なんてことできない)

自治会として地域のことは地域で、条例化することは条例化し、住民はみんな、お互い様、神社の夏祭りでも力を合わせるし、消防団も組織しているし、お互いが自由にやっているんだから、なんで今さら、『学校』を中心に・・・なんて、しなきゃならんの。

そもそも、コミュニティスクールのイベントって、子どもが利用されて、大人の都合で働かされるイメージ強いから、はやく廃れるべき、と思う。

どれもこれも、子どもの姿はなくて、大人のアイデア「やりたいこと」ばかり。

子どものため、という名目でやっていることは、ちっとも子どものためになんてなっていないのだから、子どものために何かする、というのは、一切、ヤメ!!!にしてもらいたい。


イベントが好きで、何かやることがいいことだと思っている人が、

みんなが笑顔で喜んでるからいい、という理由で、

活躍の場ができるのがいい、という理由で、

子どもも「お役に立てている」からいい、という理由で、

子どもがやりたい!と言っているから、という理由で、

なにをやっても、

すべて、ムダ仕事!



「子どものため」のコミュニティ・スクールを、10年やっても、20年やっても、30年やっても、

ぜったいに子どものためには、ならない。






どう?この毒舌。

(たまには、毒も吐かないとネ!)

さみしさは とおりすぎたる 夏の朝

 弱いところにひずみがくる

.
「おうちで、お姉ちゃんに、いじめられている。」

書いてきたのは、Sさん。

日記はどんな内容でもかまわないことになっているから、こういう心境の吐露も、たまにはある。

で、そのSさんが、いかにも不機嫌に過ごす。

「Aさんの持っている持ち物が、Kさんの物と同じだ」と言って、

「Aさんは、いっつも、Kさんのマネばかりしてる!」

と、非難する。

持ち物が同じだと、なぜいけないと思うのか、理由は言わない。

なんだかイヤ、という。

ああ、Sさん、とても、不安定だ・・・。
友達に、いつもよりも、べったりくっついて過ごす。
目つきが、厳しい。

日記に書いていた、お姉さんのことがあるから、なんだろう。



そこへ、急に電話が!!

水泳の授業があり、Sさんがプール道具を忘れてきたから、おうちの人が届けてくれるという。
これはチャンス!
学校まで来ていただいた、お母さんと昇降口で立ち話をした。


すると・・・

「うちでも姉妹で喧嘩ばかり。毎日です。原因は分かっているんですけど・・・」

Sさんのお姉ちゃん、部活でしごかれて、ものすごく不安定らしい。
バレーボール部で県の大会に進むために、スパルタ風の特訓受けているんだって。
それも自分から望んでやっているふうでなく、どちらかというと下手なんだけど、上手なお友達に引っ張られて、お付き合いしているような雰囲気だから、特訓がツライ・・・。

たぶん、下手くそ!なんて、怒鳴られているんじゃないかナ・・・。

だから、Sさんに対して、お姉ちゃんが中学校から帰ってくると、いきなり挑戦状をたたきつけるような風で、さっそく口げんか、バトルが始まるそうな。

「もうまったく、思春期2人は、どうしようもない・・・」


お母さんはすっかり肩を落として、落胆して帰っていかれました。


さ、話はここで終わらない。
学校が荒れるのは、休み明けと運動会が重なる9月だと言われていますが、うちの勤務校は、まだ9月3日だというのに、この荒れ具合。すごいよね。おそらく全国的に、こういう雰囲気は多いと思うんだけど・・・(子どもも大人も、異常気象続きで疲れているのかもね)


なんと、放課後、職員室に電話がかかってきた。
Aさんのお母さんから。

「うちの子が、なんだか顔色がおかしいので聞いてみたところ・・・」

Aさんが、大変に元気をなくしていて、悩んでいるという。

原因は、Sさんに、

「Aさんは、いつもKさんのマネばかりしてる」

と非難がましく言われたことらしい。

「マネなんかしていないし、たまたま一緒だっただけなのに、なんでそこまで言われるのか、べつに私はSさんに対しては悪いことしていないと思う」

そりゃそうだ。
Sさんは、お姉ちゃんとのバトルで心身消耗中で、だれかに八つ当たりしなけりゃならん、という状況だったのだからね。たまたま目の前にいた、Aさんに矛先が向いてしまった、という可能性が高い。

しかし、それでAさんが、元気をなくしているらしいから、もうともかく電話で直接話して、元気出すように伝えておいた。


今回のストレスは、

中学校の部活の仲間OR先生?⇒Sさんの中学生のお姉ちゃん⇒Sさん⇒Aさん


というように、伝染していました。

そうやって悪いものが伝染しているのかもしれないし、Aさんのせいじゃないよ!、と伝えてあげたいくらいです。


幸福が伝染するのならともかく、ストレスが、弱いものへ、弱いものへ、と伝染するようじゃあ、ねえ・・・。


伝染を止める力を持てるのは、

「イライラしているのは、だれか」
「イライラしているのは、なぜか」


という視点を持つ人だと思う。


写真は、不思議な蜘蛛の巣の形。
不思議な蜘蛛の巣の形

地元・岡崎から<富士山>をめざす

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私が現在勤務している、地元の岡崎から、ちょいと足をのばして、

富士山を見に行ってきました!

岡崎からは高速道路が便利です。
東名も、新東名も、両方市内を通っていますしね!


富士山は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が2013年6月26日に世界遺産に登録しました。
小学校でも、富士山を題材に、授業をすることがあります!
歴史的側面、地理的側面、芸術的側面など、知的な面白ネタが豊富です。

わたしは、葛飾北斎や安藤広重など、芸術面から授業をしたことがあります。
あとは、竹取物語を5年生の国語で習うので、そこで富士山を紹介しました。

帝(みかど)は、かぐや姫から薬をもらいます。それは、「不老不死」の薬でした。
だから、不死(ふじ)山ですね。
かぐや姫が月に帰った今、惜別の念にかられた帝は、それを日本で一番高い山の上で燃やすように命じます。
家来たちは富士山に登り、頂上の噴火口に薬を投じました。
こんな伝説がある、ということは、富士山はその当時、まだ、活火山だったのでしょうか。

こうして、富士は、(不死)の山、になりました。



ところで、9月1日は、防災の日。

富士山は火山でありますから、当然、噴火、という自然現象と災害についても教えるべきだと考えます。
山ってのは、噴火するものだ、ということを、教えるべきです。
鹿児島や熊本、箱根周辺の子なんかは、「そんなの、当り前だろ!」というでしょうけど・・・。

噴火ってのは、すごい。
なぜなら、地面が、熱をもっていることや、火を噴く、ということですから、衝撃がでかい。
1年生にその話をしたら、

「ぜったいウソだ」

と、頭から否定して、ずっと馬鹿にしていた子がいましたから・・・。

「そんなことあるわけないよネ。先生のうそつき!」


恐竜の絵本に、火山が噴火するものがあるでしょう。
「おまえ、うまそうだな」というやつ。
それを見せたら、

「これは大昔でしょう。今はもう、そんな火なんて吹き出てこない」

と言っていました。

こちらも意地になって、噴火の動画を見せたら、「おお!」だって。
しばらくの間、固まってた。
人は、1年生の6歳時点で「噴火」を知ると、なかなかに謙虚な育ちをしますな。
地面が盛り上がってくるということや、火を噴きだす、ということを、知っていると、なんだかスゴイです。
これはもう、息をのむほどの情けなさを、身に沁みて感じるからかもね。
現の人間社会なんて、チッポケやなあ~、ということを。


というわけで、富士山は火山ですから、痕跡がたくさん残されております。
山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖を総称して富士五湖といいますが、もともとあった大きな湖めがけて、火山から溶岩が流れてきて流れ込んだのですって。
その結果、湖の水があふれでて、あたり一帯を、洪水にしたそうであります。湖の底には、縄文時代からの遺跡が残されており、土器やらなにやら、今でもいっぱい出てくるそうな。

そして、有名な、「青木ケ原樹海」
豊かな森林ですが、森の下には貞観噴火(864~866年)の溶岩が固まっているのです。だから、木は地中に根を下ろすことができず、地表をはっている。半分立ち上がったような、妙な緊張した姿勢の杉の木なんかが見られます。どっしりと、根が張ってないから。
つまり、「樹海は若い森」なのです。
比べてみれば、樹海のすぐそばにある大室山の落葉広葉樹林は約3000年だそうですが、一方の樹海の方は針葉樹林になって、せいぜい数百年しかたっていません。貞観噴火の前、樹海一帯は大森林でした。溶岩流が森を焼き尽くした後、コケが生え、草が根付き、低木が茂り、徐々に針葉樹林になっていったのです・・・。


すごいよね。
森を焼き尽くし、湖にどっと流れ込む、赤いマグマの流れ。



えれえ、もんだ。

山は、生きているんだど・・・。


こういう、スケールのデカイ話を、たまに、やった方がいいね。


こんな授業の後、しばらくの間は、
小さな人間関係のごたごたが少ない、という気がするよ・・・。

フジさんだろう
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