30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年08月

「我慢」の価値ばかりで、「願い」の価値が見えていない

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教室で、同時に2人の子がガムテープを使いたい、と思った。
ところが、ガムテープは、1個、である。
一人は、我慢をした。
すると、担任に褒められた。
担任に、「我慢」「価値」を教えられたのだ。



しかし、実は、そんなことを褒められた程度では、納得していない。すっきりしない。なぜなら、本心を分かってもらっていないから。

本当は、使いたかったのだ。そして、そのガムテープで、自分の作りたいものがあったのだ。その作ったものを、見てほしかったのだ。その作品をみて、すごいねえ、と褒めてほしかったのだ。
ところが、そこまでの本心を伝えることなく、ただ、「我慢してくれて、えらい。やさしいね」という程度のことをいくら言われたところで・・・。



「ゆずりあって、使っていました。」
こういうことに、すごく価値をみとめるのが、今の常識だろうと思う。
職員室でも、こういうことに、たいへん価値をおこうとする。
しかし、実態は、ただ、表面上我慢しただけで、心底では「よい」と思えていないから、気持ちの上での負債を抱えたように感じた子どもを、生み出しているだけ、ということはないだろうか。



「先生、おれ、ずいぶん我慢したんだよ」
と言える子はまだよい。
問題は、言えない子。
言えない子の心に、「足りなさ」は、なにを育てたのだろうか。



「我慢」の価値を教える前に、担任には、やるべきことがあった。



「願い」の価値を教えるべきであった。



「我慢」をしたことがよかったのではない。
「我慢」には価値がない。
「我慢」はむしろ、無駄、(かもしれない・・・)。
「我慢」の価値に関して、大人はずっと、「躾(しつけ)」の美学をあてはめ、焦点を当ててきた。



焦点を当てるのは、むしろ、「願い」の方。
「願いをもっているのが当然である人間が、その願いを互いに受け、叶え合うのがもっとも優れたコミュニケーションである」



ガムテープが1つであろうが、2つであろうが、1000個あろうが、
実は、「足りなさ」とは一切、無関係な現象面。
「足りなさ」は、ガムテープが1つだろうが、2つだろうが、1000個あろうが、見つかる。



すでに、世の中には、「足りなさ」が満ちている。
かゆい背中を掻いてほしい人がいる。
孫の手が足りないだけだ。
すでに、人の願いは、満ちている。



その「足りなさ」を知り、受け、心が動き、満たしあう。



そのサイクルが動き出せば、「生きる力」が目の前に現れ、見えてくる。



「生きる力」のあるなしは、「足りなさ」=「願い」が見えるか見えていないか。



子どもに「生きる力」をつけたかったら、「足りなさ」を知り、その「足りなさ」=「願い」を遠慮なくじわじわと伝え合って、お互いに満たしあえるようにするだけ。


我々は、いつでも何でも、満たしてもらっている。





写真は、稲の朝露(あさつゆ)。
稲の朝露(あさつゆ)

人の願いと、その願いに応えることの不足

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足りなさを用意する



足りなさがあることに親がまず気づく



「足りなさ」とは、煎じ詰めれば、モノではない。



「足りなさ」とは、人の願いと、その願いに応えることの不足、である。



「人の願い」に気付いた時点で、それを知った人の心は、もうかすかにも、動き始める。



ところが、「人の願い」というのは、本当につかみにくい、はっきりしない。



心のまなこを、研ぎ澄ませないと、みえてこない、聞こえてこない。



いちばん簡単な対処法は、聞くことである。「どうしてほしい?」



しかし幼い子ほど、口で表現することと、本心がずれていることもあるし、表現できない。



自分は、目の前の、この子の、「願い」を知りえたのだろうか、ということについての謙虚さが、なんとか両者のマッチングを可能にする。



ただ、事柄としての「足りなさ」を用意したらよいのではない。



それは、「不足」を解消しなさい、という命令や、「不足」をなんとかしないと○○になってしまう、という見えない脅迫や、「不足」に対する我慢や忍耐を教え込むことにもつながる危険があるからだ。



目の前の人の、「願い」を聞きたくなる、その環境こそが「足りなさを用意する」のに必要なものだ。


写真は、里いものでかい葉と水滴。
里いものでかい葉と水滴

解決しないけど、解消するパターン

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クラス会議のつづき。

机を動かすのを忘れてしまい、掃除の時間になると女子に怒られている男子の話のつづき。

クラス会議の場で、自ら、

「漢字練習の罰を決めれば、机を必ず動かすようになるはず」

というので、罰則(ペナルティ)を設定しようとしたところ、
そんな罰では、本当にはよくならない、という意見が出て、話し合い続行しておりました。


うちのクラスは、クラス会議ですべて結論がパッパッと出るわけがない、ということを見越しております。クラス会議で意見を言い合うだけで、時間なんてあっという間に過ぎてしまうのであります。


単純に、どうするかを選択する、というような会議であれば、そりゃあ、パッパッと進むこともありましょう。
わが学級も、クラスの係りを決めたり、林間キャンプの班を決めたり、バスの座席を決めたり、運動会の練習の計画を立てたり・・・という場面だと、そんなに時間はかかりません。

そこまでこだわる内容でもないとなれば、みんな、子どもというのは、案外サバサバしているものです。
(サバサバ、という雰囲気になっていく学級になのかもしれないが)


ところが、いろいろと身近な問題で、

困った事態、困った状況、困った心境をどう考えるか

ということになると、そうは簡単に運びませぬ。

いろいろと、実は心の動きと言うのは複雑で、あるいはありとあらゆる方向から、考えが及んでくるもので、ああも考えられる、こうも考えられる、というように、思考と言うのは拡散する傾向があるのでしょうな。

Aくんが発した考えで、Bくんの脳みそが、フル回転しだす、ということもよくある。

すると、その自分の脳みその、ある状態を説明するのに、案外と時間を要するものです。
だって、今まで、そんな考えになったことがないのだから、うまく説明をしたい、となると、言い方も言葉も、なんだか不思議と、うまく扱えなくなるのです。

「えっと、えっと、だから・・・」

と言い続けることも、子どもならたくさんあります。
それらを、辛抱強く、最後まで聞こうとするのが、大変な手間でありまして、その手間を考えると、クラス会議でなにかが

パッパッと

決まる、決められる、なんというようには、考えない方がいいのです。ハナから。


そこで、クラス会議は朝の学活の、たったの5分間だけ開催されることもあれば、木曜日の6時間目に、たっぷりとそのつもりになって話し合うこともあり、いろんな時間枠と形態があるのです。
大事なのは、

決めた時間になったら、すっぱりと止める。

これが、黄金のルールです。
でないと、長続きしない。


さて、続行していた例の机の話ですが、土日をまたいで、この火曜日にまた、クラス会議を行ったところ、

あっさりと、罰則はやめになりました。

裸の大将Mくんが、

「えっと、漢字練習は宿題でやればいいから、別に机のことではやらなくてもいいかなと」

と開始早々に意見をだし、全員がそれなら、と納得して、収束しました。

それは、また別の子が、

「とにかく動かしてなかったら、すぐに声をかけて、みんなでやればいい(動かせばいい)」

という至極単純な意見を出したことも、みんなに影響したのでしょう。

まあ、考えてみれば、単純な話だったのです。

「ようするに、やりゃあいいんだよなあ?」

と、発言力のあるFくんがつぶやいたことも、みんなの気分を変えたようです。

土日をはさむと、気分が変わるものなのです。


で、その後、じゃあ、どうする、という新たなアイデアは、出ませんでした。
なにか、新機軸を打ち出す、とか、新たなルールを創設する、とか、特別委員会を招集する、とか、
そういった、新しい動きを期待していたのですが、そういうものは、出てこなかったのです。

「じゃ、どうする?今のところ、ともかく何も手を打たないまま、ということになりそうだけど・・・」

わたしが会議の時間が終了する直前に、全員に尋ねますと、常に冷静沈着でバスケの得意なKさんが、

「先生、とりあえず、みんな机をきちんと動かしているから、しばらくこのままでいいんんじゃないですか」
と。


つまり、とくに何か新しいことをやらなくても、もう実態としては、困った状況にはなっていないので、いいだろう、ということです。全員、気を付けて(?)いるからか、サッカー男子も全員、声を掛け合って、実態としてはきちんと机を動かしている。
ふと気づけば、だれも困っていないので。

ということです。

つまり、これは、【解決しないけど、解消するパターン】なのです。

クラス会議をやっていると、こんなパターンばっかり。

解決感、という言葉があるのかどうか知らないけど、達成して、みんなで解決した!やった!という感覚【解決感】は一切ないのですが、気づけば、いや・・・それ、解消しているでしょ、というの。

なんで、クラス会議をしていると、こんなパターンが増えるのか、というのは、謎~!!



(写真は、田んぼで見つけた、なぞの生物αアルファくん!)
なぞの生物を発見しました

「罰をもらえば、僕たちは良くなる」【クラス会議】

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クラス会議が絶好調だ。

今の勤務校では、こんなスケジュールになっている。
【4時間目】⇒【給食】⇒【お昼休み】⇒【そうじ】

給食が終わると、たちまちみんな、サッカーボールをもって外に出ていく。
そして、そのあとの【そうじ】の時間になると、机を動かして、教室を掃除する。

ところが、問題なのは、掃除の時間が短いことだ。
掃除の時間になってからだと、当番だけで、クラス全員分の机を動かさなければならない。とても大変だ。
だから、あらかじめ、各自で机を先に動かしておく。
どこのクラスも給食が終わると、自分で自分の机を動かし、次の掃除時間にスムーズにぞうきんがけができるようにするのだ。


このあたりの動きが、子どもたちにも分かっているのだが・・・
ともすると、サッカーのことで頭がいっぱいになり、男子の一部は、机を動かすのを忘れてしまう。
だから、【そうじ】の時間になると・・・

女子の声が、教室中に響く!


「ちょっと!男子!!」

サッカーでご機嫌になって帰ってくる男子に対して、女子からのお小言が!

「男子の机、動かしてないが!!」

男子は、ちょっと口を尖らしながら、机を動かすことになる。


このことが、クラス会議で話題になった。

「机を動かさない人がいて、当番がやることになって大変なので、困っています」


みんな、身に覚えがあるので、話し合いすることになった。

さて、どうするか・・・。



みんなであれこれ、いい考えを出そうとして、全員が円になり、2周ほど意見を回した。

出てきたのは、恰幅の良いひょうきんもの、Mくんの意見だ。

Mくんは、ひょうきんで明るい一面が目立つ一方、どことなく「裸の大将」的な人生の悲哀をにじませる、味わいの深いキャラをもっている。

「机を動かさない人は、給食のお替わりなし、にするといいと思います」

ところが、この意見は、

「もともとおかわりをしない、という人もいるから」

効き目がないんじゃないか、ということで、変更を迫られた。

Mくんは意見を変えて、次のように言いなおした。

「机を動かさないなら、宿題を増やして、漢字の勉強をするといいと思います」

私は、できるだけ身を小さくして、目だけを見開いて、子どもたちの会議の様子を見守っている。

先生はほぼ、何も言わないことが分かっているから、子どもたちは、ルールだけを頼りに、自分たちで会議を進める。

私が介入するのは、ルールが不明瞭になってきたときだけだ。
ルールを、再度、明確にするジャッジは、私がつかさどる。
そのことにより、子どもたちの安心感が増すからだ。

さて、罰則を決めて、机を動かさない怠惰な男子を厳しく律しよう、という意見に対して、男子も賛成をした。

私は非常に驚いた。
まさか、自分たちに対して、罰を与えるとは。
ところが、その後、やはりそうなるのだな・・・、とも思い直した。
罰則で自分たちを律しようというのは、社会全体がそうだからだし、1年生の頃から、あるいは幼稚園や保育園のころから、心や脳内に刷り込まれたやり方なのだ。

いわば、いちばん、馴染んでいる。

逆に、こういう、罰則で自分たちの行動を改めさせる、という方法、それ以外の「なにか」方法を、他に持たないからなのだろう。
バリエーションが貧弱すぎる。
こういう場合の、「よい考え」というのは、ほとんど他に思いつかないらしい。

そして、話はどんどんと、ずれていく。

話の核心は、机を動かすのが遅れると、掃除の時間が足りないから間に合わなくなる、ということである。
あるいは、机を動かすのを忘れてしまう子がいるのでどうするか、ということなのに・・・

静かに聞いていると、話の中身は、どんな罰がよいか、という内容に変化してきた。

「漢字1ページだと足りない。2ページなれば効き目が増すだろう」
「漢字は得意だからいいや、と思う人がいるかもしれない。そういう場合は算数を」
「いーや、効き目で考えれば、宿題にしないで、それこそ休み時間中に漢字の書き取りをさせればどうか」



ところが、全員一致しないので、この問題は、先送りになりました。
つまり、異議を唱えた子がいたのです。
勇気を出して、声をあげたのは、身体の一番小さな、まだ幼さの残る、Yさんでありました。

Yさんだけが、はっきりと、

「罰で直そうとしているけど、意味ない」

と言ったのです。


そして、

「全員が机を動かせたら、動かせた日を数えていって、たとえば1か月、ずっとできたらなにかいいことができる、というようなのがいい」

つまり、減点と罰則による締め付け法ではなく、加点とご褒美による褒め育て法にしよう、というわけ。


話はまだこれからなのですが、最後に、裸の大将のMくんが、


「要するに、おれが机のこと、忘れそうでサ・・・自信がないんだよねー。で、この間の漢字テストが悪かったから、おれにとってはさ、たとえ机動かすのを忘れても、その後で漢字が勉強できて、一石二鳥かなって・・・」


みたいなことを口走ったので、

えーーーー!!


と女子のほとんどがガヤガヤ言い始め、チャイムが鳴り・・・


さ、続きはまた来週です。



↓写真は、夜、テントにおとずれた蛾の顔。
夜、おとずれた蛾の顔

アマゾンの少数民族ピダハンの賢さ

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NHKの番組「地球ドラマチック」が面白い。

最近見たのが、不思議な言語を話すアマゾンの少数民族ピダハンの話。

どこが面白いかって、このピダハンという民族、思い切りローカルな言語しか使っていないこと。
世界でこのピダハンの言葉を話せる外国人は、たった3人だけ。
グローバルのグの字もない。だけど、最高に幸せそう!

単純に考えると、ちょっと意外なのです。
だって、まったくグローバルに背を向けているのですよ。

「外の世界には行かないし、行きたいと思わない」
「外国人は来ないでほしい」


なんて、村の大人が平気で言うのです。
外の世界の言葉は、
「まがった頭の言葉」
なんだそうだ。
そして、自分たちの言葉こそが、
「まっすぐな頭の言葉」
なんだって。

これを聞いて、なんという無礼な言いぐさだろう、と腹を立てる私たち文明人は、

「そんなこといって、電気のない暮らしのどこが幸福か。ピダハンなんて、似非(えせ)の一時的な幸福感にひたっているだけだ。実際に文明に触れたり、世界中の人が使っている実に便利な他の言語を知ったりすれば、さらに幸福になれる。本当の幸福はこっちにあるのだから」

と思ってしまいがちですよね。

そもそも、彼らの言語がなんとも不思議です。
なんと、数の概念も過去や未来の表現も・無いのですヨ・・・!

これは驚くべきことだ。
「1つ、2つ、3つ、4つ・・・」
というような、数詞がない。代わりに、
「ほんの少し、少し、少し、足りる、多い、ずっと多い」
という具合に数える(?)のです。

なんと不便なことか!!

・・・と、私は瞬時に思ったのですが、その一方で、まてよ、とも思う。
彼らは、それでまったく用が足りているのですし、困っていないのです。二つだろうが、三つだろうが、人数分あって、みんなの腹が満たされたら、それは足りた、ということ。もしも、

「もっとくれ。腹が減ってる」

という人が一人でもいれば、それは、不足だった、ということです。

ま、シンプルっちゃ、シンプルですわな。

それだけじゃない。
次に、驚くのは、接続詞が無いこと。たとえば、
○○と△△と□□は元気だ。

というような、「と」という接続詞が無い。

○○は元気だ。
△△は元気だ。
□□は元気だ。
・・・

並んで、順番に、一人ずつ、言う。
全員分、言うのです。

全員分ですよ!
なんというおおらかな文化でしょうか。
しかしこれは、七面倒だし、手間がかかる。
まともな『文明人』なら、じれったくて、仕方のない話だね。
しかし、ピダハンたちは、これで困っていない。
時間がかかっても、一人ずつ、大切に思いをこめて、言ってあげればいいのだから、困らないのです。
ピダハンは、一人ひとりを大切にする。一つひとつに、思いを込めるのです。「忙しいからやめだ」とは思わないみたい。そもそも、「忙しい」という単語が無い。なぜなら、未来を示す言葉がないから。

つまり、時間の概念が、まったく今の文明とはちがう。
常に、今日であり、今、なんだって。
だから、未来形や過去形がない。
理解できん。


想像できますか・・・?
ふつうは、想像することが・・・できないわね。
笑ってしまう!!



この民族は、そもそも、蓄えをしない。
私たちは疑問に思う。たくわえがないので、生きていけるのか?
答えは、YES。
目の前の川の魚は、常にいる。常に、泳いでいる。
昔から、川はなくならない。魚が絶えたことが無い。

だから、貯蓄、という概念が育たなかった。
また、、という概念も育たなかった。
当然だ。貯蓄、という技法や概念がそもそも無ければ、、という概念も発生しないのだから。

したがって、ピダハンはをもたない。
また、所有がない。だから、争奪がない。
未来のために、という思考もない。
ひたすら、を良くする。

だから、みんなまじめに働く。
家族のために、魚をとり、獣をとる。
狩猟採集で、恵みを豊かに享受しながら、家族であそぶ。村の皆で遊ぶ。のんびりと、大自然に包まれている。したがって、束の間的・享楽的に、憂さを晴らす必要が無い。


言語がそうだから、彼らがそうなった、というわけではなさそうだ。
もともと、不要な概念が発生せず、さらには育たず、持ち込まれず、教育されなかった。
教育されず、概念の発生もなく、習慣も育たなかったので、逆に言うと言葉も、
「育たなかった」
のだろう。
育たなくて困らないから、それで良いんだけどネ。(育たなかった、という言い方も、多分にこっちサイドの勝手な言いぐさだろうし)

宗教家がやってきて、ピダハンに宗教を与えようと頑張ったが、彼らはそもそも「不安」がなかったので、宗教を教えることができなかった。したがって、やはり、様々な「文明的な様々な概念」も、与えることができなかった。
そもそも、与えようとしても、理解されなかった。
だって、言葉がないんだもん・・・。(まあ、言葉がそうだから、という以上に、彼らの思考概念の特長が、それを賢く阻んだのだろう)


さて、わが身を振り返ってみると・・・



日本語は、不自由だなあ、と思う。
そういって悪ければ、かなり未発達だ。
未完成だし、改訂の余地がある。

無理して、グローバル化に倣った単語を使うから、どんどん頭の中も生活もグローバル化していく。
それで、等身大の自分から離れたことばかり考えて、苦しくなってる。
だとすれば、無理しない方がいい。
我々は、自分たちの願う「生き易さ」を十分にあらわし得る単語を、どんどん発明し、使っていけばいいのかもしれない。

言語が変われば、概念が変わる。
概念が変われば、文化が変わる。
文化が変われば、生活が変わる。
生活が変われば、思想が変わる。
思想が変われば、文明が変わる。


言語から変えていけば、いい。
気が付けば、原子力発電所なんて、きちんと廃炉になっているのではないか。



自由って言葉も、新しくするといい。
平等って言葉も、新しくするといい。
威圧って言葉も、今風にしたい。

教える、学ぶ、という言葉も、変える余地がある。
創造する、という言葉も、もっと噛み砕くといい。

馴染みやすい、それでいて、自分の理想を、きちんと、やわらかく、かしこく、伝えられる単語を、もっともっと、自分がつくりだしていくことが、自立なんじゃないの。

そして、友達が新しい言葉を使ったら、協力して、もっともっと、馴染みやすい言葉に、

練り上げ

ていけばいい。

少なくとも、

「それはグローバルでもないし、辞書にも載っていないんだから、そんな勝手な言葉を使うんじゃない!」

と規制をするのは、ナシ、ちゅうことで。

少なくとも、10人以上のコミュニティで、使える言葉を発明するのは・・・別にかまわないよね?


おそらく、次に規制がかかるのは、言葉だ。
言葉が規制されてきたら、かなりヤバイ。
そうなる前の、日本人の日本人のための新しい言葉と概念が、これから必要なのじゃないだろうか。


以下、NHKの番組広報の内容↓

ブラジル・アマゾンの奥地に、ピダハンと呼ばれる少数民族がいる。彼らの言語には数や色を示す言葉がなく、過去や未来の表現もない。彼らは、アマゾンの豊かな自然の恵みの中で、「過去」を思い患うことも「未来」を憂うこともなく、充実した「現在」を生きているのだ。心豊かなピダハンの暮らしを、長年、彼らと共に暮らした元宣教師のアメリカ人言語学者の目を通して見つめる。


ピダハンの本

「学ぶことを今すぐやめよう」IQ170の13歳少年が持つ視点がすごい

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すでに今ある常識や概念、約束、ルールなど。
今ある常識が、すべてのたたき台だ。みんなの共通の言語だ。
これらを学ぶのはとても大切なこと。
なぜなら、多くの人が、共通の言語で情報のやり取りをするのだから、その共通の言語を知らないと困るから。

しかし、共通言語、とされているものがある一方で、「方言」というものもある。
独自の考察を加えて、独自に概念化したもの。
その概念から、ネーミングされた、「こと、もの、意味」がある。

たとえば、たわけ、という言葉がある。
岡崎をふくめて三河・尾張では通じる言葉、概念だが、これは翻訳ができない。
だって、バカとはちがうし、アホとも違う。
ニュアンスが違うので、これは説明のしようがない。
これは、実は、グローバル化されないもの。
どうしても、ローカルでありつづける運命を背負ったもの

これからの世の中は、グローバルの一方で、ローカルが見えてくる時代になる。
なぜなら、グローバルの方向が目立てば目立つほど、とり残されたローカルも、くっきりと見えてくるからね。
グローバルで幸福になると信じている人もいるけど、実感としてはローカルで幸福になる、と確信している人もまた大勢いる。(増えている?)少なくとも、わたしはそうだ。

さて、共通言語(グローバル)は大事だということは、客観的にも正しい。
英語をうまく利用すれば、かなり多くの国の人とおしゃべりが楽しめる。

一方で、その人そのものに焦点をあてて、その人自身のことをよりよく知ろうと努めるのであれば、話は違ってくる。やはり台湾の人と話をするときには台湾の言葉が一番良いし、シンガポールの人と話をする時にも、英語でもOKだけど、本当にその人そのものにぐっと深く近寄っていきたい場合は、もしかしたらマレー語の方がいいかもしれない。

要するに、グローバル(共通言語)も大事だけど、ローカル(その人自身の言語)も大事なのだ。

これまでは、グローバルを覚えなさい、でないと苦労するからね、という学習がほとんどであった。グローバルを勉強した人、グローバルに通じる人が、重宝された。そして、あまりローカルに重心が置かれなかったのだ。
その人そのもの、その人自身、その暮らし、そのコミュニティ、その地域には重心が置かれなかった。


ところが。
これからの時代、その人自身の内面に重点が置かれる。
教育もそうなる。
たとえば、美術鑑賞教育の世界では、すでに革命が起きている。

ミレーの作品、ゴッホの作品、モネの作品、印象派なのかそうでないのか。
フランスかイタリアか。
ミケランジェロよりも先か後か。
ピカソ、青の時代をどう評価するか。

そんなことが、学習の課題にはならなくなった。

そうではなくて、

あなた自身が、どう感じ取り、その感じや印象を、どう言葉で表現し、仲間とコミュニケーションするのか。


ということに、焦点が当たり始めている。
だから、テストも変わる。
印象派の代表的な作家を3人あげなさい、という従来のテストは行われない。
あまり価値がなくなってきた。これは、グローバル化とはベクトルの違う、新しい動きだ。
どちらかというと、思い切りローカルなテストだ。だって、自分自身の主観で判断してよい、ということだもの。

クラス全員の前で、自分がこの絵の内容を、どう感じているか、どう受け取ったのか、3分間ずっとしゃべりつづけることができる、ということが評価される。
ほとんど、主観でよいのだ。グローバルな視点での情報は最小限でよい。(あるいは無くても問題視されない)

時代は変わり、生きる力を育てようとする。それは、印象派は誰かという知識ではない。
わたしがその絵とどう関わり、意見をもつことができたか、ということ。私自身のローカルな取り組みが大事なのだ。それこそが、生きる力なのだ。


ここに、こんな動画がある。

「学ぶことを今すぐやめよう」 IQ170の13歳少年が語った、天才の条件
http://logmi.jp/19098

この天才くんの言う、「学ぶこと」は、従来の学びスタイルのことを指している。
つまり、印象派が誰か、ということはそれほど良いことじゃないね、ということ。
その代り、自分自身がどう考えるのか、創造するのか、ということのほうが、もっと知的だし、ワクワクする。そして、実はその思い切りローカルな発想や主観的な判断の内容が、他の人にとっても参考になるし、あなた自身やお互いのことを知ることにつながる、というわけ。

大事なのは、「世の中のルールを知ること」ではなく、「わたしが一番よいと思うルールを新しく考え出すこと」

そして、その「わたしの考える一番」を、みんなで好き勝手に、言い合うことが楽しい。
ついでにいえば、押し付けるでもなく、分かり合うため、ということでもなく。
ただひたすら、自分の主観を育て、大事にしながら、自分自身を知るために。
「私の主観」の正体をとことん突き詰めていくと、「主観」がすっと溶けて消えていく。
そこまで自分自身の中身を大事にしていく。

「それがなんのやくにたつんだ!そんなのはグローバルなルールから外れている!共通言語にならんだろうが!」

という人も最初はいるだろうが、意味がわかってくれば、いなくなる。

だって、そもそもめざすものが違うんだから。

蝶の正しい名前と、その蝶の分布、生活領域、雌雄の区別を知りたいという人もいるけど、
(で、それはとても大事なことだけど)
蝶に焦点を当てようとしてない、どちらかというと、その蝶を見ようとする自分自身、人間を知りたいの。

だから、

「きみだったら、この蝶に、なんてネーミングする?」

ということなのだ。

白くて点々がついているから、「白ごまふりかけ蝶」と命名する、ということでいいの。

「それはゴイシシジミでしょ!いい加減な名前をつけるんじゃない!」


と叱る人は、そもそも目的がちがうことを理解してください。

ゴイシシジミの生態に興味があるのではなく、その蝶に、「白ごまふりかけ蝶」とネーミングした、そのネーミングセンスや命名の理由、その蝶に対するコメントを、3分間しゃべりつづけられる、その子自身、についての理解が目的なのです。

今の世の中の仕組みを成り立たす人になるために何を学ぶか

  ↓

私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みはどうなのか、を思考・創造する

IQ170・13歳のジェイコブ・バーネット氏だったら、当然、後者を思考・創造することが大事だ、って言うと思うよ。

(写真は碁石しじみ)
碁石しじみ

そして、星の輝く夜がくる ~本の紹介~

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新間です。
小学校の教師は、特殊だと思います。
理由は、小学生、という年代の子どもたちと、始終一緒にいること。
つまり、私はかなり、小学生から影響を受けています。
子どもからすると、教師は、大人としても特別ですね。親と同じくらい長い間、一緒に喋っているんですから。

一番の問題は、小学校の教師は、矛盾にぶち当たってばかりだということです。
現代の未完成な社会システムと常識に対して、子どもからすると疑問がたくさんあるわけです。
その疑問を、直接ぶつけられる。
自分自身が当然だと思う学級経営をすると、それは社会のシステムや常識とは、かけはなれているわけですから、子どもたちも、

「この教室の常識は、社会常識とは別なんだな」

ということを学んでしまいます。
例えば、文句を言う子のつらさをケアする、ということだったり、成績を良くする前に、機嫌を良くすることを重視したりすることです。
でも、その学級の常識に馴染んでいきますから、馴染めば馴染むほど、

「ねえ先生、なんで常識ではこうなの?」

というふうに、素直に疑問に思ってしまう・・・。





さて、夏休みです。
下記の作品をご存知でしょうか?

『そして、星の輝く夜がくる』(講談社)
真山仁・作


なかなかに味わい深い作品です。
阪神大震災で家族を亡くした教師が、3・11以後の東北で小学校に赴任する。

①被災地の子どもの感じる苦しさ。
②福島の原発に勤める父親を持つ転校生のいじめ。
③学校からの避難の最中に教え子を亡くした教師の苦悩。
④ボランティアと地元の人たちとの軋轢。
⑤震災の記憶をどうとどめるか。


どれも、大きなテーマです・・・。

著者が、この小説について書いた文の中から、こんな表現が見つかりました。

なぜ、小学校6年生が登場するのか、という問いに。

「みんなが打ちのめされている状況の中で、正論を一番通せるのは子どもだと思います。今回の作品は、子どもが大人を叱っているのです。登場する子どもたちを小学6年生にしたのは、大人の矛盾を指摘することができ、さらに大人が反論できない指摘ができる年代だからです。子どもだけど、他人を思いやることもできる歳でもあります。」


この、子どもが大人を叱っている、というの、いつも私自身が感じていることと同じですなあ。

6年生は、大人の都合や立場、というのも理解します。
だけど、やはり馬鹿はバカだ、と指摘できる。
素直に考えたら、戦争なんて、だれも欲していないのだから、やらない、と考える。
コネコネと理屈を言われ、他の国の人に殺されるかもしれないのだから、先に殺るんだ、という考えで大人から説得されても、まったくピンとこないし、納得できません。
それが、子どもです。
こんなへんてこりんな説明に納得するのは、大人だけや。

大人になるにつれて、病的になり、不幸になっていく。
「戦争」を仕方ないと考えるのは、すでに病的だし、不幸なのです。

この本を読むと、「幸福」を真正面から考えることになる。
成長と言う名の不幸について、じんわり考えさせられます。

幸福な子どもを、不幸な大人が叱りつける。
不幸になる指導をし、折檻をする場合もあります(体育会系部活の体罰とかね)。
部活動の体罰問題なんかは、幸福な子どもたちに向けて、不幸な大人が腹を立てているのです。
ともかく、すでに相手に対して腹を立てている時点で、不幸なのは大人の方ですよね・・・。


(写真は、目の前に現れた、巨大ナナフシ!)
ナナフシ

歯医者さんの怒り

.
歯医者に行ったら、女医さんがとても感じの良い人だった。

ていねいに診療内容を説明してくれる。

レントゲン写真を撮影する前には、事前にレントゲンをいつ撮ったか、心配そうに聞いてくれた。

「あまり連続して撮影したく、ないですものね」

近頃、内科やバリウム検査など、放射線関係で撮影したことはないか、と気を配って下さった。

こんなふうに丁寧に、心を尽くしてくださるのであれば、なんだかとても安心できる。

いろいろ説明を聞いた後、治療方針に納得して、すっかりこの女医さんに任せる気になった。




ところが。


そのあと、気が変わった。

女医さんが、カーテンの陰(かげ)で、看護師さんたちに、

「まだやってないの。ほら、早くしなさいよ!」

「確認してって言ったのに!」

「○○してないの?なにやってんの!まったく!」


というような感じで、話すのを聞いたのだ。

看護師さんたち、それを、どう聞いただろう。

もの凄い剣幕だったけど・・・。




そのお医者さんその人そのものが、どうこう、というわけではない。

だけど、今の、その雰囲気で、その頭の中身で、がんばっておられるのを見ていると、

ついさっきまで、親切に話をしてくれて、ていねいに接してくださった中身は、なんだったんだろう、と、不思議に思う。さっきの『親切の質』とは、いったい・・・。



お医者さん、『どこかでキレてしまう地雷』を抱えて、毎日奮闘しているのだとしたら・・・。

ひとは、なぜ、他を責めるのか・・・
いつまでも揺るぎない、心の底からの安心ってのは、ないのか・・・


がんばらなくてもいい!

なにかの責任を感じてるのかもしれないけど、

だれも、あなたを、お医者さんを、責める人、いない!!

だから、だいじょうぶ!!!

守ろうとしなくても、だいじょうぶ!!

周囲の看護師さんたちを責めなくても、だいじょうぶ!!!

あなたは、だれも攻めなくても、大丈夫!!!!

(最後の文句は、あべくんに対しても、言ってあげたい・・・)



夏の思い出

(水田と防風林)

子ども叱るな、吾、来た道だ。

.
子どもを叱るときに、

フッ!! と 勢い良く、

湧き出てくる強い感情、
怒りに似た、
なんでだ!と強い要求をするような、
言うことを聞け!と願う気持ちがMAXになったような、
天に代わって成敗するような、
あの、

つよい気持ちってあるでしょう?

これって、他の子どもに対してよりも、自分自身の家族、わが子に対しての方が、よりつよく、はっきりと出てくる。

他の家のご主人が日曜日いくらゴルフに行こうが、まったく気持ちはびくともしないが、うちのダンナがゴルフに行くと聞けば事情がちがって、「なんでだ!」というムカムカした気持ちになり、すぐに大きな声が出てきて、怒髪天を衝く、となる。

身内⇒つよく出てくる
他人⇒あまり出ない


ということから、
おそらく他人にはある程度のセーブがきき、
身内には遠慮なく、怒ることができるのだろう。

これ、どっちが楽かというと、
セーブせなあかん、という遠慮世界は本当に苦しく、
セーブしなくてもよい、という正直世界が楽ですよね。
つまり、

身内⇒正直⇒楽
他人⇒誤魔化しセーブ⇒苦

なのだろう。

どっちが幸せか、と言ったら、

誤魔化さないで生きた方が楽で、人間本来が幸福に生きられる道。

これについては、ほとんどの方が納得されるのではないか。



さて、身内に対してなら、遠慮なくそのままの気持ちが出せるので、

「叱る(ムカムカしながら)」

ということがある。

ムカムカ腹を立てる、ということを、

よくないこと

だとすると、その先はもう、一切考えることができない。
小学生のころ、

「バッチイから、砂場に落としたキャンデーは、食べちゃダメだよ」

という「言いつけ」を守るのと、そう変わらない世界の話である。

よくないことはしちゃいけない

と、教えられて育ったから、「そうなんだ~」と思って育った人、多い。
特に、教師には、とても多い。

同業の若い方から、

「腹を立てて子どもを叱るのは良くないですよね。でもつい叱っちゃうのですよ。本当にすみません、新間先生!」

というメールをたまにいただくことがあるけれど、

しかし、それはもうすでに、思考停止の状態とさほど変わらない世界の話で、

「しちゃいけないからしません」

ということでは、話は終わらないのです。

戦争が、

「戦争はしちゃいけないから、しませんよ」

ということでは、無くならないのと同じレベルで、

「しちゃいけないから、しません」

というのでは、何も解決しないのであります。




ちなみにこれは、私が、とある山奥の、とある場所で、そこの管理をなさっているご年配の方に特別にお願いし、撮影させていただいた、特別な「掛け軸と書」です。
子ども叱るなの掛け軸

子供叱るな吾来たみち
老人笑うな吾行く道

これを見ると、

「子ども叱るな」

と書いてあるから、禁止、ということなんだろう、と考える人がいるかもしれませんが、
ここには、「禁止」というニュアンスは、あまり感じないのではないでしょうか?


ただ、叱るな、という言い方、書き方がしてあるので、誤解を生みやすいですね。

叱るな、ということではないのです。

「叱らないでもOK」

ということなのです。

叱らないでも、ムカムカ腹を立てないでも、

まったく差支(つか)えが無い


のです。



・・・でありますから、本当は、このブログのタイトルは、

「叱らないでもいいですか」

ではなくて、

「差支(つか)えが無いのですが、いいですか」

が本当です。

まあ、

差支(つか)えがあって当然で、差し支えがあってよくて、

なんで差し支(つか)えるか、と考えていって、思い込みが外れると、

アッ

なんだ

差し支(つか)えていたと思ったけど、差し支(つか)えていなかったな

差し支(つか)えなくてもいいのだな・・・

あら?

なんで差し支(つか)えていた、それも相手に対してつかえていたと思ってたんだか・・・

お?

自由!

どこまでも、いつまでも。
人に寄り添い、添い遂げる道があるわ。

むっちゃ安心!

これは楽だわ。

人間、別に、差し支えることなんて、ないんだな!!


世の中みんな、さしつかえる、としてるけど、さしつかえないな!!
これまでずっと、腹が立つのは相手のせいだと思ってたけど・・・






許せ、ということではないよ。

同格!

懲りずにピッピ・イノベーション その3

.
懲りずに、
ピッピ・イノベーション、であります。

イノベーションと言う言葉は、日本では技術革新的な意味で使われますが、
広義では、ひと・組織、の革命をも意味するそうです。




さて、1年生の男の子が、6年生の教室まで、遊びに行く。

入学したての春。
最初の頃のこと、6年生が、1年生に向かって、

「いつでも遊びにおいでね」

と言ったので、それを覚えているからです。



ところが、6年生は、少しすると、それがイヤになる。
なぜかというと、その1年生は少々、乱暴なところがありまして・・・

6年生を蹴ったり叩いたりするんだそうで・・・。


みんな、その子のことを、

「まったく、凶暴性を持つ子で、危険極まりない」

というような把握の仕方をしていたし、先生も

「どうしたらいいですかね。あの子の資質に問題アリですよね」

という感じ。



ピッピだったらどうなるか、という思考の方法が、ピッピ・イノベーションでありますが。

たぶん、ピッピだったら、まず1年生を拒否しない。

だから、逆に、1年生も、ピッピをたたいたり蹴ったり、しないだろう、と。

その子は、かつて6年生にやさしくしてもらったことがあるから、それをまた、味わいたいのでしょうな。


ピッピなら、単刀直入に聞くよね。たぶん。

「あなた、いったい、どうしてほしいの」

叩いたり、蹴ったりは、ヒトと交わりたいという欲求のあらわれ。
ピッピなら、その子に聞きながら、
彼の、その表現方法(態度・方法)を、変えてもらおうとするだろう。



「もし一緒に遊びたいんだったら、○○して遊ぼうって、ちゃんと言ってよね」
「うちらのこと叩いたり、蹴ったりしても、あなたの気持ちは、なんにも分からないんだから!」


まー・・・
それでおしまい!

(ついでに、ピッピイノベーションについても、これで最後、おしまい!)

ピッピイノベーション

ピッピ・イノベーション その2

前回、ピッピ・イノベーションについて書いた。

その中で、

言うことを聞かなくてもよい

というのがあって、

それはかなり、大人が

ギョッ!!

とする言葉、である。



言うことを聞かなくてもよい、ということについては、おそらく100人のうち、99人の大人が

「そんなことない!」

というだろう。

「子どもは、大人の言うことを聞くべきだ!」

とね。




ところが、その、聞くべきだ!というアプローチの仕方で、行き詰ってしまったのだから、どうしたらいいの、ということであります。

「思春期の反抗期」というものがあるらしいけど、

聞くべきだ!
その通りにすべきだ!
と言っていても、反抗期の子等は、ちっともそうならない。

実際そうなっていないのに、あらためて
「言うことを聞かなくてもよい」
という文面を見てみると、大人は、
なんだか、ムカッとくるのです。



実際には子どもが大人の言うことを聞いていなくても、その通りにしなくても、

「子どもは親の言うことを聞くべきだ」

という線そのものは、崩したくない、ということでしょう。

で、実際は、子どもは親の言うことを聞いていないのですが。

聞いていなくても、そういうことにしたい、という「親の側のねばり強い姿勢を見せたい」ということなのでしょう・・・。



ピッピ・イノベーションでは、言うことを聞くべきだ、というふうには、ならない。

しかし、子どもは、親の言うことを聞くのです。

同格だからね。

圧力無用だから、そうなるのだ。

圧力無用!

「ピッピ・イノベーション」でひとは戦争をしなくなる

.
中国が日本をつぶす、というような恐怖感があるようで、反応がさまざまである。
中国に対抗するために、日本は軍事力を持つのだそうだ。
そして、日本が軍事力を誇示したとたん、ドンパチはじまる、というストーリーなんだって。

じゃ、軍事力を誇示しない方がいいんでないの、というのは、どうやら素人の考えらしい。
攻めてくるから、仕方なくこちらも攻めなければならぬ・・・という人、多い。
こういう考え、身近な人との関係ではしないのに、国としてのレベルだと、そう考えるんだって。


わたしのクラスでは、徴兵を拒否する子が育つ。
だって、自分の意見が言える子を育てたら、必ずそうなるもの。

叱られたって、
脅されたって、
金をやると言われたって、
生活が楽になると言われたって、
兵隊にならないと○○するぞ!と言われても、
軍隊に入隊しないと○○してやらないぞ、と言われても、

言うことを聞かない子が育つ。
言うことを聞かない、という見方で見れば、だけど・・・。

言うことを聞かない子を見ると、
頼もしさを感じますね、という人もいる。

「きちんと自分の考えをもとにして意見を言うことができる、いわゆるコミュニケーション能力の高い子ですね」


だって。

長くつ下のピッピは、圧力なんて気にならない子ですが、
ピッピのような子が、増えていると思う。

もしかすると、兵隊になるのはいやだ、と言うと、その子は圧力を受けるかもしれない。

叱られても、圧力を受けても、結局のところ、圧力を受けない子。
圧力が無用になってしまう子たち。
圧力無用の子どもたち。
言うことは聞かなくてもいい、というのが、根底にある子たち。
これは、世界はわたしを受け入れている、という絶対的安心感のある子。
言うことを聞いても聞かなくても、どちらでもよくて、それらに無関係に、わたしは世界から受け入れられている、という子。


こういう、

圧力無用の子どもたち


にむかって、

○○しろ!

というと、

「あなたは何に困っているの?」

と、逆に訊かれることになる。
圧力無用の子どもたちからすると、不思議で仕方がない。
わたしがその通りにしようがしまいが、そのことでなぜあなたが困るの、ということである。

わたしがそれをしないと、あなたはどのように困るの?

できうれば、あなたのその、不安や心配を、なくせるものならなくしてあげたい。
だから、ぜひ、
○○をしてほしい、という本音を、きちんと聞かせてほしい。

軍隊に入れ、じゃなくて。
あなたの本音は、もっとちがうところにあるはず。
あなたは、何を望んでいるの?
わたしが軍隊に入るかどうか、ということ、そんなことじゃあないでしょう?



圧力無用の子どもたちが、どんどん増えている。

小学校の教師は、それを毎日、ひしひしと感じ取っている。



もう、時代は、ピッピたちの時代だね。

『ピッピ・イノベーション』が、もうすぐ始まる。もう始まっている。

圧力無用!

入学式以後の10分間に「小学校生活のすべて」がある

.
たまに夢を見ます。

わたしの夢は、解説付きなのが特徴で、NHKのアナウンサーの声で、

「・・・さらに進んでいくと、洞窟の中身が明らかになってきました」


なんて感じの説明が入る。

カメラはどんどんと洞窟を進んでいくし、ライトが適切な個所に当たるのもポイント。

自分は内心、

「照明!もっと、明るく」

とか、

「ここはカメラがもっと寄れよ」

とか、言ってる。
おそらく前世がNHKの取材班だったのだろうと思う。

ところで先日見た夢は、入学式を特集する番組でした。



Aくんが、入学してから、いかに学校生活に馴染んでいくか、というドキュメンタリー。

番組は入学式の場面。
講堂(体育館)の壁面には、小学校の校章らしきものが見え、入学式おめでとう、という垂れ幕もある。
紺色のブレザーに身を包んだ新入生たちが、手をつないで男女なかよく入場しているところ。

Aくんは、校長先生やPTAの方に祝福の言葉をいただいて、真剣な目つきで座っている。

式が終わると、胸に大きなコサージュをつけた、薄紫の上品なスーツを着た年配の先生が先頭を歩いていき、そのあとを、新入生はボチボチと歩いていく。

廊下で2列になっているが、手をつないでいる子もいれば勝手にあちこち見に行こうとする子もいて、まあ2列なんだか3列なんだか、それとも4列なんだか・・・という状況。
先生は何も叱らず、ともかくやさしい微笑みをうかべて、自分について歩いてくる子どもたちを見守っている。

わたしは保護者といっしょに歩いてあとをついていった。
ということは、保護者だったのかな?
自分の立ち位置が、よく分からない。


さて、教室に入ると、机にでかでかと、なまえが貼り付けてある。
トイレをすませた子どもたちは、自然と自分の席にすわる。
そして、前をむいて、いい子にしている。

机の場所を動かし、向きをナナメにする子がいたが、先生が床のしるしを指さし、笑顔のまま、軽く直してくれている。その子は、床の線に気付いて、

「ああ、なるほどな。合わせる線があるんだ」

と理解する。

自分の席について、自然と先生の方向を全員が向く。
そして、しばらくの間、先生の話を聞く。

静かに黙って聞いていられたことや、
おなかの前に、グーひとつ、という座り方を教えられた子どもたちは、
もうすっかり身も心も1年生に染まってきている。

さて、この後、もう一度、体育館で写真撮影があるので、行かねばならない。
クラスごとの順番で、体育館で撮影があるのだ。

保護者も腕時計を眺めたり、廊下の掲示物を眺めたりしながら、ゆるゆると体育館へ移動する。
子どもたちが、廊下にならぶ。



みると、驚く。

今度は、きちんと、2列に並んでいるのだ。

さっきの4列だか5列だか、という状態は、すっかり消えてしまった。
もう、子どもたちの目は、1年生になったのだ、という気持ちで輝いている。
順番で並んでいる子の中に、トイレから遅れてもどり、列に入ろうとする子がいる。

先生が、スッと指をさすと、そこに自然に加わることができる。
前後の子は、空間をあけて、一人が入れるように、譲り合う。
見事な動きだ。


そこから、歩き出した子どもたち。

もう、先生のあとをしっかり歩いていく。
2列、右側通行。

「右側を歩きますよ。先生の歩くところです。廊下の、こちら半分側です。」

先生の説明で、歩く場所を理解した子どもたち。
どうやら、自分のいるべき場所が、この学校という空間では、きちんと決められているものらしい。



子どもたちの後ろから、保護者がしずかに、静かにつらなって、歩いていく。

さきほどの、雑然とした様子はもうすっかり見る姿もない。
静粛に、緊張して、歩いていく、子らの姿は、もうすっかり・・・。



頭の中に、ナレーションが聴こえてきた。


「・・・ここに、小学校生活のある側面が、たいへん明確に、現れています。入学式以後の10分間に「小学校生活のすべて」があるのです」



いつも、『NHK クローズアップ現代』で聴く、あの国谷裕子さんの声だった。


子どもが、いかに規格化されていくか。
最初の10分間に、すべて詰まっていたんだね。

静寂の世界

人はレールから外れたくない、という事例

.
だれしも、特技が一つくらいあるだろう。

ところが、「特技」という熟語は、子どもには馴染みがない。
だから、4月当初に

「みんなの特技を教えてね」

というと、子どもたちは顔を見合わせて、不思議な顔つきになり、

「先生、とくぎってなあに?」

と訊いたのである。


そこで、なんだかんだと説明をする。

「ええと、ほかのひとができないようなことですね。自分は得意だってこと。ぼくはこれこれができます!みたいな。」

うまい説明が見つからない。

「ほかのみんなは、たいていできないんだけど、ぼくにはできるよ、とかね」

すると、なんとなく合点したような顔をしたので、

「じゃ、さっそく、みんなの特技を一人ずつ教えてください」


とやってみると、さっそく最初の子が出てきて、

「ぼくの特技は、けん玉です」

という。

そこで、○○です、というひと言だけでなく、もう一文、プラスアルファで何か言って下さい、ということにした。
すると、

「ぼくの特技は、けん玉です。とめ剣ができます


といってくれる。これで2文になる。
これはいいお手本になったので、すばらしい、と拍手をする。

次の子も、最初の子にならって、

「わたしの特技は、てつぼうです。宇宙回りができます」

これも、2文で、いい感じ。

3人目は、

「ぼくの特技は、マット運動です。側転ができます」

・・・

なんだか、体育シリーズばかり続く。
こういうこと、小学生だとよくある。
なんとなく、前の人と近いものになってしまうのは、自分の発言が場違いなことになりはしないか、と不安なんだろう。

つまり、子どもたちは、目の前になんとなくレールが見えると、
ともかく一本のレール、てっとり早いそのレールにのればいい、と考えるのだ。

他にも、レールらしいものがある、ということに、薄々気づいていたとしても、
なんとなく、とりあえず、これは大丈夫だと分かれば、
その、ハズレではなさそうな、確実な1本に、乗ろうとするのです。
これを、安易だ!と指摘したところで、どうしようもない。

子どものせいではないのだから。
こちらの、事例の提示の仕方が、まだ不十分だったのだ。
説明が、子どもたちの安心できるレベルに、達していなかった。

そこで、体育のことだけでなくてもいいよ、と説明をはさむと、ちょっと顔つきが変わった。
一人の子が、
「ピアノとかでもいいの」
と聞く。
「いいよ」
と答え、続きを促した。

4人目はなんと、「お笑い芸人の組名を覚えること」だった。
これは、そこにいた全員の、

『思考の枠』

を、ぐぐっと広げてくれた感じがある。ようやく体育の種目から離れることができた。
すると、これもまた、すばらしい特技である、ということで、拍手が起きた。

5人目は、「いもうとと口喧嘩をして勝つことです」
6人目は、「50m走が速いです」

7,8,9人目、と進んで、10人目が、なんだか不思議な感性をもつ、Sさんでした。

Sさんは、前に出てくると、堂々とした態度で左から右まで睥睨し、落ち着いた声で、

「私は、耳を動かせます」

といった。

みんなが驚いていると、

「じゃ、やります」


と言って、やにわに顔を両手でおおって、

「顔が変になるので、顔は見ないでください」




その後、彼女の耳が、ぴょこりぴょこり、と派手に動くと、会場からはどよめきが起きた。


さて、11人目のKくん。

彼もまた、不思議なセンスをもつ子で、こういう、表に出てくるような機会があると、パワーがみなぎってくる。

Kくんは、

「ぼくの特技は、まず、鼻をつまみます」


と切り出して、みんなの見ている前で、自分の鼻をつまんでみせた。

そして、鼻をつまんだままの不思議な声で、

「つぎに、目をつぶって、息を、んんんッー!!と、思い切りとめます!」


と言った。

あまりの出来事に、教室のみんなが身動きできないでいると、彼は目をひらいて、きょろきょろとみんなの様子を見た後、いったん、鼻をつまんでいた手をもどし、ちょっと鼻をすすってから、咳ばらいをした。

みんな、固唾をのんで、次の言葉を待つ。
いったい、Kくんは、思い切り息をふんばったあと、どうなってしまうのだろうか。

Sさんのように、耳が動くのか?
それとも・・・?

ドキドキ。


会場が静まり返ったことを確認したKくんは、いよいよ時が満ちたと思ったのか、
再度、落ち着き払って、こう言った。









「え、そうすると・・・目の下に、クマができます」


Kくんは、ここです、と言って、自分の目の下を指さし、
指の腹で左右になぞってみせた。

「ここらへんに、できます」









拍手!

ラクーン

びっくりしたナァ、もう・・・。

しかし、それって「特技」に入るのか?・・・続きを読む

長くつ下のピッピは「戦争をしない」子

.
長くつ下のピッピは、スウェーデンの児童小説であります。
ずいぶん古い作品なのだが、相変わらず世界中で人気がある。
カナダでアニメにもなった。

先日、そのアニメバージョンを見た。

ピッピは、学校へ来ていない。いつも自由気ままに過ごしている。
ある日、学校と言うものに、初めて来てみた。

先生が見ると、ピッピは机の上に腰かけております。
他の子どもたちは、みんなお行儀よく椅子に腰かけているのに、ピッピはまったく頓着せず、木の机に腰かけて、くつろいでいる。

先生は眉を顰(ひそ)めながら、

「あなたが初めて来たっていう子?」

「そうよ。名前はピッピ。あなたは?」


この自己紹介の仕方も、先生の気に障ります。
なんと生意気な様子だこと!

さて先生、この子は算数が分かるのかしら、と簡単に尋ねてみます。

「あなた、足し算は知ってるの?」

「もちろん。知ってるわ」

「じゃあ、教えて」


先生は問題を黒板に書きながら、

「7+5はいくつ?」

すると、ピッピは、驚いてこう答える。

「え?あなたは知らないの?」


そりゃそうでしょう。
何でも知っていて、いろいろと教えてくれるというから、学校に来てみたのに、この先生は簡単な足し算すら知らない様子なんですから!

周囲の子どもたちは、このニュアンスの食い違いを、笑って楽しんでいる。
このまわりの子たちは、いわゆる、

学校という場で、きちんと座って学ばなくてはならないし、評価を受けねばならない、という立ち場

を理解している。
一方で、このピッピの返し技に、思わず納得して笑い声をたててしまうという自分の、両方の意識を持ち合わせているのです。

先生は、ピッピから、思わぬ返し言葉を受けて、興奮して答える。

「そんな。分かりますよ、7+5くらい!・・・ハイ。7+5は、12ですよ」

ピッピはあきれて言う。

「なんだ。知ってるじゃない」


これが、痛烈な皮肉でなくてなんであろうか。

続けて、先生はピッピに矢継ぎ早に問題を出すが、ピッピはてんで相手にしない。

「もし、そういうのが好きなんだったら、ひとりでやってて。私たちは鬼ごっこしようと思うの。それとも、いっしょにやる?


教師は、ピッピの答える回答自体には、まったく関心が無い
12、という数字の意味はどうでもよく、知識があるかどうか、に関心が向く。
つまり、知識の有無を測る、評価のための質問、「質問のための質問」でしかないのだ。
だから、この二人の関係性は、血の通わない、冷えたものでしかない。

ところが、ピッピはちがう。
ピッピが「鬼ごっこする?」と尋ねるときは、先生の答える回答が、大事なのだ。
そこには、血が通っている。
もし鬼ごっこ一緒にやるわ、というのなら、

「じゃ、いっしょにやろう!始めるわよ」

ということになる。

ピッピから思わぬ声をかけられた教師は、肩をすくめて、なにかがいつものようには進まないことに驚き、ピッピの「天然ぶり」に呆れるのですが、実はほんの少し、表情がやわらぐのです。(アニメでは)

全世界で何十年とロングセラーでありつづけること、ピッピという少女に人気が集まるのにも、うなずけるでしょう。

ピッピは人を責めない。
そして、人から責められない。(責められたと受け取らない)
ひとに近寄り、そのひとの気持ちを溶かしてしまう。
そして、世界をハチャメチャに楽しく変えていく。まるで魔法をかけるように。


ピッピは、だれにも脅されない。
どんな脅迫も、「脅迫」と思わず、「そのお願いは無理よ。残念ね」と言って、さらりと流してしまう。

もし日本に「徴兵制度」が始まって、赤紙がやってきても、

「そのお願いは無理よ。残念ね」

といって、さらりと流せばいいのです。
(もとより、こういうことがサラリと言い切れるような、ピッピの心根(こころね)を知ることが条件ですけど)
ピッピは徴兵されない

国際的な学習到達度調査(PISA)で日本上位

.
たまにはまじめに、教育関係のニュースを。

ご存知でしたか?
2012年に、国際学力調査というものがあり、日本はほとんどトップになりました。
ほとんど、というのは、上位に、

シンガポール
上海
香港

という国だか都市だか分からない地域が入っているからです。
この国だか都市だか分からない地域が上位3位でして、日本は4位ね。

なんでか、このOECDという組織のデータには、国ではなく、

上海
香港

という、日本で言えば大都市東京のような地域名が入っているのだ。
日本も、東京、という一都市だけで競争すれば、1位の可能性が高い。

日本は、北海道から沖縄、離島までを含めたトータルの数字。
上海やシンガポールの規模や教育環境は、ほとんど日本で言えば、東京23区だけ、という感じですからね。


さて、今、日本に、世界中の教育関係者が集まってきている。
夏休みだから、日本の教員が空いているのをいいことに、世界中から見に来ている。
そして、日本の教員に、授業をやってみせろ、とリクエストしているらしい。


ところで・・・。

いわゆる「ゆとり世代」は、2002年度に始まった学習指導要領で育った世代(1987年4月2日生まれ~)。
彼らは侮蔑的なニュアンスを込めて「ゆとり世代」と呼ばれることもありました。(過去形)

2002年にいわゆる『ゆとり教育』が始まり、2003年のPISAで学力が『世界トップレベルとはいえない』とされました。これはPISAショックとよばれ、マスコミが大々的に報道したので、世論も沸騰しましたね。
とくにこれまで黙っていた学習塾や進学大手の関係者が、

「それみたことか!」

と、広告を盛んに打ち始めたのを、ご記憶されている方も多いでしょう。

実は、この2003年のPISAを受けた子どもたちは、ゆとり教育を受けてこなかったのですが、にも拘わらず、学力低下の結果が、ゆとり教育のせいにされてしまった。

当時、円周率が3になった、という「虚偽」のニュースが流れて衝撃が走りました。
こぞってマスコミがこの嘘を面白おかしくニュースで取り上げたため、「学力低下」のニュースは、ゆとり教育のせいになったのでした。

マスコミを信じる人が多かったせいもあるが、こうした事実を整理して、きちんと提示しなかった教育関係者の動きも鈍かった。
当時の教育者たちは、何か反論的なことを言えば、

「だって、低下したじゃないか!」

と一喝され、何を言っても相手にされなかったらしい。(←研修で大学の先生が愚痴ってました)

もう一度整理しましょう。
ゆとり教育ではなく、いわゆるこれまで通りの詰め込み教育を受けてきた子たちが、2002年の1年間だけゆとり教育(というか、移行措置だったからほとんどゆとり教育とは無縁だった)の影響を受けたところ、PISAの点数が悪かった。ゆとり教育を受けてこなかった子どもたちの「学力低下」だったのに、ゆとりのせいにされたのです。

さて、2012年は国際的な学力調査の当たり年でありました。
PISAをはじめ、国際成人力調査(PIAAC:ピアック)でも、日本はほぼ、世界一になってしまった。

実は、「脱ゆとり」は現場にきちんと降りてくるまでに約10年かかりました。
2002年に指導要領が改訂されてから、その改訂の意味をきちんと把握し、ゆとりを脱出する、という体制になるまでに、何年もかかっている。
国の統括的な立場の役人が、声をからして「ゆとり脱出」を全国の自治体や県の教育研究レベルで説いて回るのに1、2年。全国の教育委員会が研修の場で、数パーセントの指導的な役割を果たす教師に、「ゆとり脱出」を解く講義をして回るのにそこからまた1,2年。先駆的な先生方がその意味を理解して、現場で紹介したり、授業の工夫を現場に根付かせるにはさらにまた、2~3年がかかる。トータルすると、現場の教師が本当の意味で、「ゆとり脱出」を合言葉に頑張ったのは、10年後。つまり、本当にゆとり脱出といえるのは、つい先日のことだ。

それまでの10年間は、逆に、ようやく定着したゆとり教育の意味を理解した先生方が、必死になってその「生きる力」を育てようとしだして、動き始めた期間だったのです。

だとすると、この2012年のPISAの結果が、ゆとり教育のおかげなのか、それとも、ゆとり教育を脱したおかげなのか、どちらなのか、しっかりと見極める必要がありますよね。

実は、

2002年時点での学力低下は、「ゆとり」のせい、ではないし、
2012年時点での学力向上は、「ゆとり」のおかげ、なのであります。



これは文科省関係の立場の方も、明言している事実である。以下↓。

「OECD国際学力調査は2000年に始まりました。これは高校1年生の4月に受けるものです。2012年にこの調査を受けた子は、2003年に小学校に入学した子どもです。2003年の時点ではゆとり教育が導入されており、そして完全に「脱ゆとり」が始まったと言えるのが2011年ごろからなので、彼らは小学校1年生から中学2年生まで、ゆとり教育のなかで育った世代です。その彼らが受けたテストで、日本は順位が向上したのです。




しかしこのことが、まったく報道されていないのは、当の文科大臣が、

「学力向上は、脱ゆとりのせいです」

とマスコミに語ったからですね。



だって、ゆとり教育受けてた子たちの成績が良かったなんて言ったら、進学塾も教育大手の会社も私立の中学高校もみんな、詰め込みをやめて、もう一度、「ゆとりってなに」って、やりなおすことになっちゃうから。

これから、「ゆとり」という言葉は、侮蔑的なニュアンスから、やっぱり大事なんだ、というニュアンスに代わっていくと思う。現場では。(現場の先生たちも、実はこのこと知っていて、「成績上がった子たちって、ゆとりの子たちですよねえ?新聞の論調って、なんでこうなの?」と言ってる。)


※下記は、たまたま見つけたUSAのデータ。日本は4位付近を見てね。
ゆとりの真価とは

牛乳をこぼした場面を見て・・・

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教室ではよくあることで、牛乳瓶を倒してこぼしてしまう。

わたしの暮らす愛知県岡崎市では、都会のように牛乳パックではなく、未だに牛乳瓶だ。

こぼしてしまった瞬間、当の本人は、

「あっ!」

と言う。

そして、隣の子が、

「あ、たおれた!」


と言って、とっさに、床を拭いてくれようとする。椅子の下の雑巾を、すぐに用意している。
こぼした本人は、机の上が豪快にぬれてしまっているから、机の上のトレイ(おぼん)をそっと持って、廊下の流しに運んでいく。

うしろの子が、気をきかせて、わたしに聞こえるように、

「先生!こぼしちゃったよっ!」

と報告してくれる。

その子はそのまま、今度はいわゆる机の上を拭くための、「キレイ」雑巾をもってきて、牛乳のこぼれた机の上を、きれいに拭いてくれる。

床にこぼれ落ちた牛乳を拭いてくれている子が、

「あ、赤白帽子もぬれちゃってるよ~」

と、見つけたことを報告してくれている。

ところが、前の席の男子が、とっさにこう言った。

「あっ!おれの椅子にも、牛乳が飛び散ってる!」

そして、そのまま何もせず、(つまり、拭いたりすることをせず)食べ続けたのだ。

気の利く、後ろの席の女子が、

「どこよ」

と言って、そっちも拭いてくれている。
食べつづける男子は、自分の椅子の背もたれ部分を女子に拭かせて、そのまま食べ続けている。



さて、こぼしてしまった本人は食器やトレイをきれいにしてきて、ふたたび食べ始めようとする。
雑巾で拭いていた子たちも、それぞれに片づけ、雑巾は洗ってしぼり、干したところまでして、そのまま席に戻る。

わたしが、

「どう?だいじょうぶ?」

と声をかけると、

「だいじょうぶです」

本人が言って、状態は正常に戻る。




こぼれたとき、わたしは、自分の分を食べながら、じっと周りの子たちを見ている。

時折、わたしに対して、牛乳をこぼしてしまったことを報告するときなど、子どもはわたしを見るから、わたしはそのままその子の目を見ている。

床を拭いている子も、なんとなく、わたしを見ることがある。

わたしは、最初からその子を見ているから、その子がわたしを見るときに、目が合う。

会話はないが、床を拭く子、後ろの席から報告をする子、隣の子、全員と目が合う。

こぼしてしまった当の本人も、わたしと目が合う。


この場面に、評価は要るかどうか。
不要ですよね。


ところが、この場面を見ていて、あとでSくんがこう発言をした。

「前の席のTくんは、拭こうとしないで食べ続けていた」



Sくんは、他の子の間違いを、指摘したいタイプです。
いいかどうか。
私に確認をしたがる。
いろんなことで。


Sくんは、Tくんの行動が、いいのか悪いのか、とわたしに聞きたいわけ。

周囲の子は、牛乳がこぼれたので、拭いている。
わたしに状況を報告する子もいる。
赤白帽子に飛沫がかかってしまったくらいだから、みんなの足元は大丈夫か、とそこまで気にして声をかけてくれる子もいる。
ところが、Tくんは、だまって、自分の分を食べ続けていたうえに、自分の椅子の背もたれにまで牛乳がついていたのを見ると、「あ、俺の椅子にも」と文句のようなことも言ったのだ。Sくんにすると、「あっ、俺の椅子までよごしやがって」というようなTくんの態度であった。さすがに、こんなふてぶてしい態度はありえないでしょう、というのである。
Sくんの希望は、要するに先生に、Tくんの行動についてダメ出しをしてほしい、ということね。



ところが、Tくんの心のうちは、私には分からない。
外面や言動だけを見て、彼の心のうちまで分かるものではない。
ああかな、こうかな、と勝手な推測をめぐらすことはできるが、それが当たって一致するかどうか、と考えると、一致することはあり得ない。彼が「牛乳がこぼれたこと」について感じていることと、私がそれについて想像することとが、一致するわけがない。

ありえないので、分かるわけがない。


わたしは、Tくんの思考や考えすらも、分からない。

Tくんが困っていなければ、わたしの出番らしきものは、おそらくないのだろうと思う。



わたしは仕方なく、

「クラス全員に訊くけど、牛乳がこぼれてしまったから、拭いたり片づけたり、しようかな、と考えた子はどのくらいいるの?」

と聞いた。

すると、Tくんも、シッカリ、手を挙げておりました。

「じゃなんで、文句だけ言って、座ってたの」

Sくんが尋ねると、

「だって、もう3人くらい動いていたから、ぼくが立ったら邪魔になると思った」


ということでした。

手伝いたい気持ちはあったんだねえ・・・。外見じゃわかんなかったけど。


姿や形、外面、見えるもの、言動をみて、その子の気持ちや考えが、分かるわけがない。
気持ちや考えだって、どこかで学習したことなんだし、これまで10年ほどかけて、外部から吸収し学んで身につけたものがほとんど。本当を言うと、気持ちや考えも全部がその子本人のもの、というわけでもない。

だれが、その子を責めることができるか。
だれも、できっこないね。
牛乳こぼした話
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