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哲学教室・・・らしきことをやってみた。
命題は、
「わたしはロボットではない」
これは、自分が精巧なロボットではない、ということを、証明して見せろ、というものである。
結論を言うと、これは、証明はできない。
つまり、
という定理に当てはまる。
やくざは、
「それはお前ではないってことを、証明して見せろよ」
「それは嘘ではないってことを、証明して見せろよ」
といって人を脅すのだ、と聞いたことがある。
実は、その証明は無理なのだ。
ある、ことは、証明できる。
しかし、
ない、ということは、証明ができない、のである。
子どもは、そんなことは簡単に、証明することができる、と思っている。
だから、
「ほら、こんなにスムーズに身体が動く」
「目をパチッとやるでしょう。ロボットはできないよ」
「ロボットだったら、おしっこしないよ。でもぼくはする」
などと、次々と、「自分が精巧なロボットではない」ことの証明を言い始める。
いや、でもねえ。
すごく人間っぽい、ロボットも、実はつくられているんだって。
こういうことを言うと、
「知ってる!アンドロイドでしょう!」
きた、きた。
しめ、しめ。
だんだん、と精巧なロボットは、人間そっくりなんだ、という認識が高まっていく。
わたしは詐欺師にでもなった気分がする。
いろいろと議論が進む中で、こういう意見が出てき始める。
「最終的には、家のお母さんに聞いてみれば分かるんじゃないの」
とか、
「いや、最後は、生まれた病院に聞いてみたら分かるんだよ」
などと、言う。
簡単に、
「生まれた時の写真があるから、ロボットじゃないよ」
といって、勝ち誇った表情になる。
ところが、
そうだね。写真があれば、間違いないよね。
といって、私の子ども時代の写真を見せ、
「これは、子ども型ロボットではありません」
と断言して見せる。
しばらくすると、やんちゃ坊主が狙い通りに、
「あ!!でも」
と言い出したらしめたもの。
「もしかしたら・・・それ、ひょっとして、ロボットなのかも」
わたしは、少し困ったように、
先生の子ども時代の写真。これがあるんだから、先生はロボットじゃないよね?
と言うものの、疑いを始めたやんちゃクンは、追及の手を緩めない。
「でも、その赤ちゃんの写真があったってダメだ。だって、そういうロボット、なのかもしれないじゃん!!」
このあたりから、だんだんと教室の空気は異様になってくる。
「もしかしたら、先生はロボットなのかも」
と、冗談のような、冗談でないような、なにか妙な声が出ると、気の弱い女の子は、ひえええと悲鳴をあげたりもする。
「でも、ごはんたべるじゃん!」
「ごはん食べれるロボットなのかもしれないじゃん!」
「あせをかくよ」
「あせをかけるロボットなのかもしれないじゃん!」
こうやって、一つ一つ、反論がつぶされていくと、なんだか、恐怖がしのびよってくるようで、教室は次第にぴんと張りつめたような空気が醸成されてくる。
もうなんだか、心臓がばくばくして、呼吸が荒くなってきちゃったような子がいたら、なんとなくそばへ寄って、
「実は・・・、先生・・・、ロボットなんです~・・・・」
と無表情でいうと、
「ギャーッ!」
ものすごい反応をする。
で、クラス全体が、学校全体が、先生全員が、お母さんもお父さんも、生きている人全員がロボットかもしれない、と恐怖がマックスになったところで、
「では、嘘無しで、正直に言ってね。ロボットじゃない人、手をあげて!」
というと、
全員が、ものすごく真剣に手をあげます。
よかったね、と言って、種明かしをします。
これだけでも、なんだか、とても哲学的です。
子どもも、なんだかしばらくの間、哲学的になるみたい。
面白い問いを考えて、日記に書くこともあります。
「ぼくはどうして、日本に生まれることになったのか、考え始めると止まらなくなりました」
「お母さんとお父さんが日本にいたから、ということは分かるのですが、でもどうして、そのお母さんとお父さんとの間に生まれてきたのか?」
「どうして、その生まれてきた赤ちゃんが、ぼくだったのか?」
・・・・
まったく、なんの哲学的な問いに悩まない子もいますが。
そういう子でも、青年になる入口で、おそらく悩むでしょう。
「なんであの子のこと、好きになっちまったんだ?」
ってね。
まあ、人間、人生長いですから、
たまには、哲学的思考が必要になるときも、あります。
哲学教室・・・らしきことをやってみた。
命題は、
「わたしはロボットではない」
これは、自分が精巧なロボットではない、ということを、証明して見せろ、というものである。
結論を言うと、これは、証明はできない。
つまり、
「ない」
ことは、
「証明できない」
という定理に当てはまる。
やくざは、
「それはお前ではないってことを、証明して見せろよ」
「それは嘘ではないってことを、証明して見せろよ」
といって人を脅すのだ、と聞いたことがある。
実は、その証明は無理なのだ。
ある、ことは、証明できる。
しかし、
ない、ということは、証明ができない、のである。
子どもは、そんなことは簡単に、証明することができる、と思っている。
だから、
「ほら、こんなにスムーズに身体が動く」
「目をパチッとやるでしょう。ロボットはできないよ」
「ロボットだったら、おしっこしないよ。でもぼくはする」
などと、次々と、「自分が精巧なロボットではない」ことの証明を言い始める。
いや、でもねえ。
すごく人間っぽい、ロボットも、実はつくられているんだって。
こういうことを言うと、
「知ってる!アンドロイドでしょう!」
きた、きた。
しめ、しめ。
だんだん、と精巧なロボットは、人間そっくりなんだ、という認識が高まっていく。
わたしは詐欺師にでもなった気分がする。
いろいろと議論が進む中で、こういう意見が出てき始める。
「最終的には、家のお母さんに聞いてみれば分かるんじゃないの」
とか、
「いや、最後は、生まれた病院に聞いてみたら分かるんだよ」
などと、言う。
簡単に、
「生まれた時の写真があるから、ロボットじゃないよ」
といって、勝ち誇った表情になる。
ところが、
そうだね。写真があれば、間違いないよね。
といって、私の子ども時代の写真を見せ、
「これは、子ども型ロボットではありません」
と断言して見せる。
しばらくすると、やんちゃ坊主が狙い通りに、
「あ!!でも」
と言い出したらしめたもの。
「もしかしたら・・・それ、ひょっとして、ロボットなのかも」
わたしは、少し困ったように、
先生の子ども時代の写真。これがあるんだから、先生はロボットじゃないよね?
と言うものの、疑いを始めたやんちゃクンは、追及の手を緩めない。
「でも、その赤ちゃんの写真があったってダメだ。だって、そういうロボット、なのかもしれないじゃん!!」
このあたりから、だんだんと教室の空気は異様になってくる。
「もしかしたら、先生はロボットなのかも」
と、冗談のような、冗談でないような、なにか妙な声が出ると、気の弱い女の子は、ひえええと悲鳴をあげたりもする。
「でも、ごはんたべるじゃん!」
「ごはん食べれるロボットなのかもしれないじゃん!」
「あせをかくよ」
「あせをかけるロボットなのかもしれないじゃん!」
こうやって、一つ一つ、反論がつぶされていくと、なんだか、恐怖がしのびよってくるようで、教室は次第にぴんと張りつめたような空気が醸成されてくる。
もうなんだか、心臓がばくばくして、呼吸が荒くなってきちゃったような子がいたら、なんとなくそばへ寄って、
「実は・・・、先生・・・、ロボットなんです~・・・・」
と無表情でいうと、
「ギャーッ!」
ものすごい反応をする。
で、クラス全体が、学校全体が、先生全員が、お母さんもお父さんも、生きている人全員がロボットかもしれない、と恐怖がマックスになったところで、
「では、嘘無しで、正直に言ってね。ロボットじゃない人、手をあげて!」
というと、
全員が、ものすごく真剣に手をあげます。
よかったね、と言って、種明かしをします。
あのね、「ない」は、「証明ができない」んだよね。
証明したいときは、「ある」を言うことになっているからね。
これだけでも、なんだか、とても哲学的です。
子どもも、なんだかしばらくの間、哲学的になるみたい。
面白い問いを考えて、日記に書くこともあります。
「ぼくはどうして、日本に生まれることになったのか、考え始めると止まらなくなりました」
「お母さんとお父さんが日本にいたから、ということは分かるのですが、でもどうして、そのお母さんとお父さんとの間に生まれてきたのか?」
「どうして、その生まれてきた赤ちゃんが、ぼくだったのか?」
・・・・
まったく、なんの哲学的な問いに悩まない子もいますが。
そういう子でも、青年になる入口で、おそらく悩むでしょう。
「なんであの子のこと、好きになっちまったんだ?」
ってね。
まあ、人間、人生長いですから、
たまには、哲学的思考が必要になるときも、あります。