30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年02月

「給食残飯グランプリ」 の後は 「無言の清掃選手権」

前回の記事、「給食残飯グランプリ」につづく、

自己成果中毒

のお話。


教室で生きるのには、何が必要か、ということを考えている。

何をするにしても、そのことを通して、「何を得て、何を失っているか」、ということに着眼する。



すると、たとえば、毎日そうじをしていますが、この場合はどうだろう?

清掃をすることで、1年生の子どもは、いったい何を得ているのか、何を失っているのか???



1年生の子は、ぞうきんをもって、なんだかいろいろ拭きたがります。

「先生!ここ、拭いていい?」

拭いていること自体がおもしろいのか、友達がどこかを拭き始めると、いっしょになってやりはじめる。



そんな清掃の時間に、これまた<体育会系>の指導が入ります。

「清掃選手権をやりましょう!」

これは、無言で清掃をしましょう、という運動です。

だまって掃除をするので、集中してきれいにすることができる、というワケ。

「だまって、掃除をすることで、余計な雑念が消え、集中してごみを見ることができます」

そうそう、それで、いいのだ。
そこまでで、いいのだ。
そこから、何か、<魔が差したようなこと>を言わなきゃいい。



ところが、どっこい、魔がさすのです。
清掃委員会とか、美化委員会とかいう児童会の子どもたちが、無言の清掃選手権を盛り上げるために、こんなアイデアを出していた。

以下につづく↓↓↓


無言な清掃で得られるもの

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「本音が言えるクラスにすること」

本当に思っていること、感じていること、それを本音というのかな。
本音がそのまま、あたたかく(?)、受け入れてもらえたら、安心だよね。

「本音を拒否される」という状態がつづくと、安心は、きゅうに冷えて、小さくなっていく気がするな。

楽しくなくなり、

笑顔がなくなり、

<笑い>が変化して、<嗤い>になっちゃう?

どうしても、笑えなくなる顔になっちまうね。

閻魔様が不思議そうに見て、

「地獄へ行け、と命令されたのに、なんでお前は嗤ってるんだ?」

と言うかも。

劣等感や勝ち負け意識で生きてこなかった人は、閻魔様の前でも、<裁き>の意味が分からないから、閻魔様に堂々と言いたいことを言えるし、鬼の前で、妙な「つくり嗤い」もしないだろうな。



「本音」を大事にするってことが、教室では至極当然になっている。

何にしても、「本音」を聞き合う。



それができるためには、決して、非難しないことが条件だと思う。

非難しないってことが、安心して理解できるから、だから、本音を言う。



本音、ホンネ。

「本音が言えるクラスにすること」

という、教育委員会からの命令が出ないかな~。

どの先生も、みんな悩んで、むっちゃ、面白くなると思う!!

本音って何だ?

安心って何だ?


ってところから、みんなで議論しないといけないからねえ。

いいこと思いついたなあ・・・!!

「給食残飯グランプリ!」

最近、尋常でない仕事量に忙殺され、体調管理が思うようにできていない。

寝ても寝ても、疲れの取れない感じがつづく。
朝、駅のホームで電車を待ちながら、その場にへたりこみたくなるくらい。

そこで、嫁様に愚痴をこぼすと、

「なぜ体調が悪いのか、なーんて、しらべるの、もう止したら」

とまっとうなご意見。

つまり、なんで体調が悪いんだろう、とか、どうしたら質の良い睡眠がとれるんだろう、というのを、一生懸命にネットや本やらで調べているのを見て、

「この人が疲れているのは、寝てないからだろうなあ」

と思っていたとのこと。

なんで、そのことに気付かなかったのだろうか。

そこで、思い切って

質の良い睡眠をとるための方法

を研究するのをやめて、その日は早くふとんの中にもぐりこみ、すぐに寝てみたところ、

驚いたことに、次の日はすっきり起きることができた上に、なぜだか午前中まで体調が良い。腹の具合もよいし、授業もすっきり進む。やることなすこと、なんだかうまくいくので、本当に不思議な魔法にかかったかのようであった。

つまり、「睡眠の質を良くするための研究」をやめた日から、すっきりと眠れるようになった。

思えば、こういうことをよくやるのだ、私は。





つまるところ、なぜだか人間は、本来の目的を見失ってしまって、「やる事柄や手段」の方にモーレツな意識を向け過ぎて、本来やりたかったことがやれなくなってしまうのだ。


これは完全に病的な症状でありますが、これを

「自己成果中毒による異物獲得行動」

とよぶのであります。


本来欲しかった獲物はとれず、別の獲物ばかりが獲得されてしまう


ということね。

なお、努力すればするほど、本来の獲物は獲得できないことが確定する。
勤勉で努力家でひたむきに真面目にやればやるほど、得たかったものは得られないのであります。


こういうことは、小学校の教室にも同様、同質のことが行われている。

たとえば・・・


給食残飯グランプリ、という取組みがある。

これは、


「わが子には給食を残さず食べて、健康で元気な子どもに育ってほしい」


と願うすべての教師と親による発案と取組みであります。



勤務校では数年前からすっかりやらなくなっていますが、まだおそらく、全国の小学校のあちらこちらで取り組まれていると思われる。


これは、給食の食缶に残された、残飯の量の多寡を計測するのです。

給食委員会とか食生活委員会というものが児童会で組織されていて、その子どもたちが、給食の終わったあとの食缶の重さを計測するのです。

すると、

1年1組は、0kg
2年2組は、3kg

というふうに、数値が出てくるでしょう。続きを読む

「目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神」を教えるのは不可能!

6年生の先生のボヤキ。

「目標がちっとも立てられないの」

職員室のイスに座るなり、だれかれと言うこともなく、お話を始められます。

職員室は大きな一つの部屋なので、みんなそれぞれのイスに腰掛けて、自分の仕事をしている。
その中で、こういう大きめの声で話をしている人がいれば、なんとなく相槌を打ってくれる人もいます。
こういうところ、やはり人は、人とつながっているのだと思う瞬間です。

「ん?○○先生、どーしたの・・・。」

低学年の、年配のおばあちゃん先生(失礼!)が、手を忙しく動かしながらも、なんとなく受けてくれます。
(この先生の母性のすばらしさ!子どもに大人気)

6年生の先生も、手元の資料をバインダーに綴じながら、おしゃべりを続けます。

「もう卒業間近だから、冬休み明けからずっと、中学進学前の目標を立てさせて、みんなそれにむかって、がんばっているわけよ。」

卒業間近の学級は、よくこういうこと、やりますね。
廊下に貼りだして、各自の

「中学入学、小学校卒業を目前にした、わたしたちの今の努力目標」

を明らかにするわけです。

すがすがしさが廊下中に漂って、なにかいい感じ。
新しい環境に進んでいくんだ、という、新しさに向かっていける幸福な感じがある。

ところが、昔からノーテンキだったSくんは、ちっとも目標が決まらず、定まらないまま、なんとなしにここまできてしまっている、という。

「もうすぐ保護者が見に来るでしょう(参観日がある)。Sくんだけ、具体的な目標がちっとも決まらないんだよね。」



なるほど。


Sくんだけ、

「まとめの勉強をいろいろがんばる」

という、なんとも抽象的な、冴えない感じの、いわば

「書か・さ・れ・た感いっぱい」

の目標で、お茶をにごしているらしい。


「達成感を味あわせてあげたいけど、これじゃあダメだわ」


他の子は、


○小学生で習う漢字をすべて復習しノートに書く。
○英語の短い文を100書く。
○6年生のまとめドリル、算数すべて満点になるまで復習完成する。
○理科ノートまとめ、社会ノートまとめ、両方とも最後ページまでやりきる。



↑ <いい目標>を掲げている!



「すごいよ。みんな。頑張っているのにさ。Sくんだけ、やる気ないもん」


6年生の先生、ハーッ、とため息であります。



わたしは可笑しくなってしまって、思わず、

自分の席で、ニヤニヤしてしまいます。



Sくん、いいなあ。


うちのクラスだったら、みんなSくんみたいになるぞ。


と、思うね。




目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神、というもの。

こういうの、教えられているんだと思う。

今の世の中、すごい価値づけられている。

目標を達成しました!と大声で言うと、拍手が起こり、尊敬のまなざしで見られること、多い。

「夢」

という言葉も、たいへんに価値が高いものとして、日本人の大好きな言葉になっているようだ。

星野仙一さんは、揮毫するとき、たいてい、この

「夢」

という字を選んでいる。


さらにいえば、ハングリー精神。
これも、今の社会の中では、特別に大事なものとして、認識されているらしい。

中教審だったか教育懇話会だったか・・・。
これからの教育を考える政府の機関のようなところで、どこかの識者が、「ハングリー精神を正しく教え込む」ことの大事さ、を訴えていたような気がする。


しかし、これらの、

「目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神」

というもの、わたしのクラスには、おそらくまったく、価値づけられないと思う。

それはいかに教え込もうとしても、軽くスルーされてしまうからだし、子どもたちが、心の奥底で拒否してしまうからで、大人のせいではない。私の責任でもないと思う。


一応、私なりに頑張ってみたものの、ダメだった。
子どもたちの世界には、これらは「位置づけられない」らしく、どうしてもスルーされてしまう。

もう、わたしゃ、あきらめました。


どうして子どもたち、この素晴らしい価値が分からないのかな・・・。


目標を達成したら、立派だ、すごいじゃないか!

と言っても、みんなおそらく、シーンとして、

「すごいかもしれないけど、わたしはべつにいいし」

という感じだろう。



それから、

夢をかなえる、夢を実現することが、人間としての最高の幸せだ!

と言ってみても、

「ぼくは、べつに叶えなくてもいいよ・・・」

と、いうと思う。

また、

ハングリー精神が大事!これが人間のパワーを引き出してくれるんだ!

と叫んでみると、

「なにそれ・・・、べつに要らない」

と言うだろう。


振り返ると、うちの学級は、春の運動会で、

運動会です!赤組、みんなで勝ちましょう!

と代表の先生が壇上で叫んでも、

「べつに負けてもいいけど」

とつぶやいた子がいて、みんながうなずいたクラスですから、どうしようもない。

その後、これじゃいけん、と私が焦って、

(このままじゃ、のんべんだらりと盛り上がらない運動会になっちまう!)

「みんな!ぜったいに、勝ちに行こうぜ!」

と大演説をぶった。


「白組なんかに、ゼッタイ負けたくないよな!みんな!!!」


しかし、そのときの子どもたちの様子、ちょっと気になりました。

ノッテこないというか、白けているというか・・・。

こっちの挙動不審なテンションの高さに驚いて、目が点になっている子もいたり・・・




その直後。

休み時間に、子どもが近寄ってきて、まるで幼な子をなだめるようなニュアンスで、

「先生、だいじょうぶだよ。きっと勝てるよ。心配ないって」

と言いに来たとき、わたしはずっこけましたね。

コッチが焦っているのを見て、なぐさめに来てくれたわけかよ・・・。


「やっぱ、先生は勝ちたいんだってー」
「へえー」



いったい、その他人事のような態度はなんだッ!





これ、叱りつけても、効果ないんだよね。
だって、子どもら、そうは思わないんだから・・・ネ。



「夢ですか?ハァ?という子には、学校教育は、もはや打つ手なしッ!!」




達成感を教える無理2

教員がいつも同じような服を着ている理由

おたんじょう日の子がいたので、クラスで乾杯をしました。

ジュースはないので、給食の牛乳です。

「今日、わたし、7歳になったんよ」

1年生です。彼女は、つい昨日までは、6歳だったのです。

わたしはそれを聞いて、あらためて、うーん、と考え込んでしまいました。

そうか、いつもいつも、わたしが目の前にしていたのは、たったの6歳の子たちだったのか。

そんなこと、当然、分かりすぎるほど、分かっていたつもりであるのに、なぜか、その子が実際に

「6歳だった」

ということが急に、なんだかとても大きなことのように思えてきました。

片手をひらいて、それから1本足してみました。

これが、6つ、です。

この6つの人生で、足し算を習ったり、漢字を習ったり、跳び箱をとんだり、縄跳びに挑戦したり、ということをやっているのです。

6つともなれば、一丁前の口をききますし、多くのことを理解しているようですが、それでも、やはり、わたしにはそのとき、



うーん、たった・・・、たった、6つだったのだなあ・・・



という、わけもなく胸に迫るような、なにか特別な感慨が湧いてきました。



6つの子が、毎日、教室で姿勢をただし、教科書を開いて、鉛筆を取り出し、一生懸命に慣れない字を書きながら、ふうふう、勉強している。

休み時間ともなれば、友達とわいわい追いかけっこをして遊んでいますが、よくまあ、あれやこれやと、本当に、頑張っているなあ、と素直に思えてきました。


教室のみんなに、

「今、6歳の子!?」

と聞いてみました。


手があがります。

2月後半の生まれと、3月生まれの子です。

3月31日に生まれた子がいて、

「わたしなんて、31日なんよ~?みんなより、いちばん遅いし。あと3日遅かったら、年長と同じになるんよ」

と言っていました。

私は、こんな子たちに囲まれて、毎日、暮らしているわけでした。


=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-



さて、次の日の朝、教卓の周囲に集まってくる子が、こんな話題を出していました。

「先生って、いったいいくつなの?」


わたしが、とぼけて

「さあ。忘れてしまいました」

と言うと、何人かの子がどっと笑いました。

質問をしたRちゃんは、

「忘れんぼ!!」

と怒りながら、なおも、

「うちのお母さんよりも、上でしょう?」

と訊きます。



いったい、Rちゃんのお母さんはいくつなんだろう、と思いながら、適当に

「先生はね、28歳です」

と大ウソをつきました。

すると、

「ええー!!お母さんより若~い!」

と驚いております。



そのあと、

「先生、28年間、生きてきたんだね?」

とRちゃんが言います。

「そうだよ」

「じゃ、この服も、ずいぶん古いんだねえ」

わたしがきょとんとしていると、

「だからかー、だからこんなに汚れているんかー。まあー、いいけど、たまにはオメカシもしないとね」


思わず笑ってしまいました。

私が大人になってから、ずっと同じ服を着ているのではないか、と子どもたちが思うくらいに、私の服は汚れている、ということであるらしく、私は複雑な気分でありました。

たしかにチョークの粉はついているし、ずいぶん着古したフリースの上着でしたから、6歳の子たちからすると、これはずいぶん古そうなものだ、という印象を持ったのでしょう。


さて、このフリースの上着は、1年生の子が毎日つまんだり、裾を持って引っ張ったりしているものですから、クラスの子たちには馴染みがあるらしい。

保護者懇談会の日、わたしがめったに着ないスーツを着ていると、

「あっ、お父さんみたいな格好してる!ねえ、先生、今日は、さわっちゃいけないでしょう?」

と言う子がいた。

つまり、今日のは特別な服だから、触っちゃいけないだろう、というのだ。
ふだんのフリースの上着だったら、触ってもよい、と思ってるらしい。

「いつものやつの方がいいな。あっちだったら触れるしな」

という子もいる。

ともかく、触るのが大前提になっているのが、可笑しい。


まあこういう発言を聞いていると、


「や、今日もまた、あの服着ていくか・・・」


となるんですな。


世のお母さん方、こんな調子ですから、・・・・・・少しくらい、致し方、ありませんでしょう??




服のこと

見せてくれない!

相談がありました。

ひどく落ち込んでイライラしたKさん。


ある子が、オレンジ色の紙を持ってきて、

「○○ちゃんには、見せてあげない」


と、わざわざ言いに来たらしい。


その子は、紙の、おもて側だけを見せて、

「これ、Kちゃんにはぜったい見せない。だから見ないでね」

と言った。



Kちゃんは、そのとき、まったく関係ない絵本を読んでいた。

しかしそんなふうに言われると、気になってくる。

いったい、なにが書いてあるのだろう。


すると、その子は、さらにこんなことも言った。

「見ていいのは、FちゃんとAちゃんと・・・だけ。」

そして、今から、Fちゃんに見せるのだ、と言って、どこかに行ってしまった。


なんとまあ、露骨な。(というか変化球というか・・・)

子どもの世界には、こんなこともあるのだ。



ただ、こういうとき、私は決して、その子を叱ることはしない。

言われた方の、Kちゃんのケアをする。

それに徹する。



Kちゃんは、寂しがっている。
嫌われたのではないか、なにかマズイことをしたのか、
何か理由があるなら、教えてほしい。

しかし、それ以上に、

そんなふうに言ってほしくない。
わたしだけ見せない、という「仲間はずれ」にしてほしくない。

そこで、見せない、という子を呼んで、


・「別にKちゃんがきらいなわけではない」
・「Kちゃんにいやなことをされたわけではない」
・「仲間外れにしよう、という気なのではない」


ということを確認する。

Kちゃんは、

「仲間外れにされた気分だった。もうそういうことを言ってほしくない」


とその子に伝える。


で、ここからが肝心で、


オレンジの紙を

「Kちゃんに見せないまま」

この話は終わるわけ。



別に、Kちゃんは、それで構わない、という気持ちでいる。
仲間はずれ、という心配が解消すれば、それで、OKなわけ。

これ以上は、踏み込みません。




え、叱らないの?


ソーなんです。



紙を見せてくれない

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笑顔の奥に秘められているもの

子どもが尋ねに来た。

「先生、きょうの3時間目、体育なにやりますか」


見ると、あまり体育の得意ではない、Fさんだった。

お、Fさんか。
なにか、気になったのかな?

「今日は跳び箱だよ」

すると、笑顔になった。

「やった。練習できる」



実は、Fさんの隣に、Mさんもいた。

そして、いっしょになって、

「やった、やった」


と喜んでいる。



Mさんは、体育がどちらかというと、得意な方だ。

問題です。

Mさんは、跳び箱が得意なので、喜んでいるのでしょうか。
なぜ、Mさんは、喜んだのでしょう。

こういうとき、わたしはそういうことが、妙に気になる時があって、訊いてみたくなった。


「お、二人とも喜んでる。」

「そうだよ、当たり前だよ。跳び箱やりたかったんだもん」


こういったのは、最初の、苦手なFさんだ。

それを横で聞いてたMさんが、

「わたしね、別に跳び箱はどっちでもいいんだけど、○○○○・・・」


このあと、


Mさんは、「とある理由」、跳び箱でよかったワケを言うのです。




Fさんタイプと、Mさんタイプと・・・。

子どもたちを見ていると、いろいろな子がいるけど、こういうやりとりの時に、見えてくるものってあるねえ。


跳び箱だって やった!
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好きなワケを言いなさい 「ンなもん、あるかい」

雪でグランドのコンディションが悪い。
さらに、朝晩に冷えるから、でこぼこの状態で、カチンコチンに固まっている。

こんな状態でさえ、Sくん、サッカーをやるんだ、という。

「なんでそんなに、サッカー好きなん?」

S 「わからん」





Yくんはおとなしい子。
家でもおとなしく、一人でぬいぐるみなんかで遊ぶらしい。

そのYくん、絵が好きで、とくに「あざらし」がお気に入り。
図工でも、粘土でも、かならず、Yくんの作品には、「あざらし」が登場する。

「Yくん、なんで、そんなにあざらしばっかり描くん?」

Y 「えー、なんでか、わからんな」





Eちゃんは、紫色が好き。
鉛筆も、筆箱も、紫色のを使っている。
とくに、紫の中でも、「うすいむらさき」が好きらしい。

先日も、卒業間近の6年生にメッセージを書くので、色紙をえらんだけど、Eちゃんはにこにこ顔で、

うすむらさき色

のを、選んでおりました。

「Eちゃん、Eちゃんはなんでか、うすむらさきが好きなんだねえ」

E 「うん。なんでかしらんけど、好きになったの」

「いつ頃から、好きになったの?」

E 「幼稚園の年長さんのときに、好きになった」

「へえ、なんでだろうね。なにかきっかけがあったんだろうねえ」

E 「ううん、ちがうよ。 いつの間にか、好きになったの」





1年生、きちんとこたえようとしてくれるのが、イイ。





子どもの世界は、これで、成り立っているのですが、オトナはそうはいかない。




理由を言いなさい!理由を!!

ちゃんと、ワケがあんでしょう!!ワケを説明してもらおうじゃないの!?



という感じですよね?!



だから、結婚相手を選ぶ時も、


「うーん、なんだか好きなの」


じゃダメで、




「だめよ、のん子ったら。ちゃんと彼を選んだ理由を言いなさいよ!なんかあるでしょう」

「それが、なんだか、知らないけど、好きなの」

「はぐらかさないでよ!!のん子だけ、ずるいよ。やっぱ、仕事だよね、彼が銀行マンだから?いいわよねえ」

「いやあ、そんな理由じゃない気もするし・・・」

「うそー!!じゃ、顔?うーん、顔、正直、微妙な気もするけど、まあまあかもね」

「いやあ、そんな理由じゃない気もするし・・・」

「もう!のん子ったら!!ちゃんと言いなさいよ!じれったいわね!!」








ワケは、ありません。

ワケを聞いたって、そんなもの、ありません。



1年生は、「ワケも無く」 

さまざまなことを、好きになるのであります。



ワケがないと、不安になるのは、オトナだけです。

オトナは、やっかいだね。困ったり、不安になったり・・・。



大人は、子どもに、聞いたほうがいいよな。


「先生、どうやったら、困ったり不安になったりしないで、幸福になれるんでしょうか」


ってね。

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