30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2013年10月

一度きり!自由主義で行う「運動会」のこと

運動会とはこういうもの、という思いは、かなり強い。

なんせ、歴史があるから。
おじいちゃん、おばあちゃんの時代から、
「こういうものじゃから」
というもの、きっと強い。
どの人の頭の中にも、ある。

その昔、骨のある校長がいて、

「行事はすべて、一度、白紙撤回します」

ということがあったらしい。

K県S市の話です。(都会です)

もう退職された方だけど、あまり武勇伝にもなっていないのは、おそらく、多くの教員が

「はた迷惑な」

と思ってしまったからだろうね。

白紙撤回したものの、それを一から、再度構築しなければならないし、何をするにしても、<そうしようとする理由>を説明しなければならない。これは、教員の仕事量からしたら、破格の作業量でありまして、そんなことは到底、現場に受け入れられるはずがない。

なぜ開会式をするのか、
なぜ紅白に分けるのか
なぜ玉入れをするのか
なぜ徒競走をするのか、


そうしたことを、一から話し合うなんて、そんな無茶な、ということでありますね。
現場の先生方、とくに体育主任の先生が、恨みにうらんだことでしょう。

「昨年通りで」

という一言で、スムーズに流れるはずだった「運動会」が、ともかく大変な行事になってしまったのですから・・・。
校長の考え、ひと言が、これだけ現場のしんどさを、コントロールしてしまうのです。

現場から総スカンを喰って、むしろ煙たがられて引退していった校長先生ですが、その後は市の博物館に少しの間勤務されていました。


ところが、私が博物館でその話を伺ったときに感じたのは、

「そりゃ、おもしろそうだ!!」

でありました。

これまで通りの運動会を、どうしても続けなくてはならない理由など、本来どこにもないのです。
考えてみれば、なぜ運動会を毎年やるのか、改めて理由を述べると、その中味たるや、本当に貧弱なものです。

「これまでのスタイルに価値がある」

となんとなくみんなが言っているから、そういうことになっているだけのことで、どうしてもやらなくてはならないものでもありません。

そうして頭の中身を軽くしてから、これまでの前例にとらわれずに会議を重ね、結局のところ、

「こんな運動会にしたい」


という教員の思いや願いのようなものがたくさん出てきて、たいへんに運動会が盛り上がったそうです。

入場行進は、オリンピックのような感じで、各クラス・学級の旗を掲げて、ユニークに手を振りながら歩いたそうです。
あるクラスはダンスを踊りながら、はたまた手拍子で歌を歌いながら、という具合で、子どもたちのノリがまるでちがって、終わった時には保護者から感動のメッセージがごまんと寄せられた、ということです。

(校長本人が言ってるので、割り引いたとしても、なんだか楽しそう)

さらには、自主参加種目、というものをメインにしたとのこと。

○年生は、この種目、というものではなく、各クラスから、参加したいものを募ったそうです。

すると、意外や意外、シンプルな100m走が人気だった由。

パン食い競争は、PTAの保護者向けの企画だったそうですが、じゃんけん大会で勝ち上がった子どもも参加したとか、逆立ち競争だとか、マラソンとか、なわとびとか、くつ飛ばしとか、・・・。

組体操もあったそうですが、新体操をされていた経験のある教師が主導したおかげで、「新・組体操」になったそうで、これは1年生から6年生までの好きな子ばかりが集まって、それはそれは、優雅で見事であったらしい。
やってる本人たちも、嫌々やってるのはいないので、美意識を大切にする子が集まったんでありましょうから、楽しかったろうね。


総じて、あまり、「がんばった」感のない運動会に仕上がってしまい、やってみたところ、保護者の受けは良かったにかかわらず、運営に奮闘努力した教師陣のほうの

あとあじ


が良くなくて、翌年以後は、結局もとの、学年ごとの、オーソドックスな競技スタイルに変わってしまったそうです。


あまりにも、運動会自体の、切り口が豊かになりすぎたおかげで、収拾がつかなくなってしまったのでした。

そうでしょうね、だって、評価できないんだもの。

これまでは、
きれいで、きちんとしていて、まとまっていて、努力が見えて、子どもたちがよく動いていて、汗が光っている、という評価視点を持っていればOKだったのに、

こんな、フレキシブルで自由で、かつ評価の難しい、いわば<人間のあれこれ>が詰まりすぎている運動会などをやられては、感想が多岐にわたりすぎて、収拾がつかないのです。

落ち着かないのは、「評価」に慣れてきている、依存してきている、先生たち、というわけだ。

だから、自分たちで、自分たちの首をしめた。



それを、遠いまなざしで、

「もったいなかったと思うんだよねえ。せっかく、べつのものを味わったんだけど、そのことに対しての自信もなければ、勇気もないんだ」


と、振り返っておっしゃっていた校長先生が、なんだか、・・・

という感じでしたよ。



今、振り返ると、こんなに、ユニバーサル・デザインで、発達障害の子にもやさしい運動会って、ああー、いいな、と理想に思えるのですが。
(おそらく、10年くらい、早すぎたんでしょう。今なら、この価値に気付く教員もいるんじゃないか。当時はおそらく気づいてもらえなかったんだろうナ・・・)


もしこれをご覧になっていて、

「お、これはおそらく、ワシのことでは」

と思われた、K県、S市の元校長先生、ぜひ、またお会いしてお話をしたいです。




とびだせ!子どもたち!

「相手に文句を言ったほうがいいよ!」というときのこと

「お店に文句を言った方がいいよ!」

この言葉の真意は、お店の商品が思ったものとはちがった場合に出てくる。

で、当人が言ってるわけじゃなく、他の人が、当人に向けて、

「こうした方がいいよ」

というようなことを、しゃべっている、というわけ。


これ、コンビニの駐車場で、若い女の子が、その子のお母さんらしき人に、けっこうな勢いで、そういってたのを、たまたま店から出てきたワタクシが、聞いてしまったのね。

で、聞いていて、これってなんだろう、と思った。

なんで、その女の子は、その方がいい、と思ったのだろう。

そして、なんで、そのことを、お母さんに、言わずにおれなかったのだろうか?

そこのところ、深いものがありそうで、その女の子に、聞いてみたくなった。(聞かないけど)



わたしは今しがた、セブンイレブンで仕入れた100円のコーヒー(無糖)を一口だけのみながら、なんだか、今の言葉と、その勢いが、自分の頭の中で、

わーん、わーん、と響いているのを感じながら、

「なんだろうなあ?」

と、思う。



わたしゃ、めったに、

○○した方がいいよ!!

というようなことは、言わないから、なんだか、そういうセリフを聞くと、妙な感じがしてしまう。

大体、○○した方がいい、というようなことは、

「この世の中、そうめったにはないんじゃないか」

という気がしている。



わたしに向けて、職場の人や家族や誰かが、

「○○した方がいい」

ということを言った場合、自分はだいたい、こう思う。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、いいかどうかは結局、だれにも分からないんだろうなあ」

その後、こう思う。

「そんでもって、ぼくという人間は、そう聞いたところで、そうするかもしれないし、そうしないかもしれないし、それはこの人の忠告(?)とはまるで別の次元で、結局のところは自分で勝手に、決めて行動するんだろうなあ」


自分自身が、こんなふうに、<煮ても焼いても食えないような感情と考え>でいるのだから。
まあ、仕方がないよね。
他の人はどうかしらないけど。

私はとりあえず、他の人に向かって、いくら勇気を振り絞っても、

「○○した方がいいよ」

とは、言わないんじゃないか、と自分で思う。


で、こういう人間が、教師をやっているせいで、


○人は言うことを聞かせられる存在である。

とか、

○怒れば言いたいことが伝わる。

とか、

○指示に従う子どもを育てるのが良い。

とか、

あまり思わないせいで、

教室でも、そういう言葉が、あまり、出てこないのであります。



とにもかくにも、関心があるのは、

「その子が何を願っているか」

ということに尽きますね。

「ウチの子、ゲームばかりやっているのよね」というとき

ゲームばかりやってる。
コマばかりやってる。
けん玉ばかりやってる。

子どもは、大体、○○ばかり、やっていることが多いです。

ドッジボールばかりやっている時期もあれば、
あれだけ1学期は

「ドッジ、ドッジ!」

と言っていたのが嘘のように、
夏がすぎた2学期には、

「サッカー、サッカー!」

に変わっていたこともあります。


いつも、サッカーに出ていた子。
休み時間になると、ボールをもって駆け出すような子でしたが。
風邪をひいて、サッカーに行かない日が続いた。

ところが、熱で休んだその日を境に、その子の中で、

「サッカーばっかり」

という日々が終わってしまい、

「粘土大好き!」

に変わってしまう。


風邪っぴきでサッカーできないから、何気なしに手に取った粘土が楽しすぎて、そこに火が付くと、もう天気が雨だろうが晴れだろうが、体調がどうであろうが、ともかくも休み時間は粘土細工に熱をあげています。

それを見て、大人は大体、

「また!ねんどばっかりやってる!」

と思ってしまうネ・・・。


大体、いつも、子どもはなんか、そればっかりやっているように、見えるものです。

「この子、○○ばっかりやってんのよね」

と、言われながら、子どもは大きくなります。

親や先生は、たいてい、そのパターンです。

牛乳瓶のキャップを集めることが流行ると、どこかで、

「牛乳瓶のキャップ遊びは禁止」

ということになる。

理由は、教室や廊下のあちこちに、牛乳キャップが散乱したり、落っこちたりしているからです。

( ↑ というのは大人のずるがしこい理由でありまして・・・)


子どもは、牛乳キャップがおもしろくてたまらないのに、ケチをつけられてしまう。

ベーゴマばっかりやってると、ベーゴマにケチをつけられます。

サッカーばかりやっていると、サッカーにもケチをつけられる。

クワガタばかり集めてくると、

クワガタがかわいそうだから、「クワガタ禁止」

になりそうです。

大人からすると、子どもがいつも、「そればっかりやってる」ように見えてしまうので、なんだか、気味が悪くなるらしいのだ。

「うちの子、こればっかりやってるけど、なにかおかしいんじゃないのかしら・・・」


でも、それは小学生の間だけです。

中学生になると、こういったマニアの価値を認めてくれるようになる。

つまり、こういったことで苦労するのは、小学生までなのです。

(みんな、早く成長して、中学生になればいいよね。)

中学生で、バレーボール部に入部してバレーボールばかり触っていると、

「いいねえ、燃えてるね」

という高評価をもらえる。





一番いいのは、高校生が高校野球をやっていることです。

頑張っているし
努力しているし、
なにか克服しようとしているし、
健全で、マニアックで、汗が光っていて・・・
よい!すばらしい!

・・・というように、社会の中でマスコミによって位置づけられているから。

もし、朝日新聞社が主催して、

「夏の全国高校牛乳キャップ選手権大会」

を開催するようになれば、牛乳のキャップを集めている小学生に対する偏見も、もっと軽くなるでしょうけど・・・。




さて、そこでゲームのことですが、ゲームに燃えている子は、親に向かって、

「でも、ぼく、将来、モバゲーに就職するつもりなんだ・・・」

って、ぼそっと言ってみたらいいのではないかと思うね。

そうすると、思いもかけぬ、「就職」なんていう夢のあるキーワードが会話に登場したものだから、親としては混乱してしまうよ。そして、隙を突かれてお父さん、何を思ったか、

「お、おお、就職、就職かあ・・・。アハハ、そうか、そこまで考えていたかマー君・・・。モバゲーに就職するなら、ちょっとゲームの研究しておかなきゃな」

ということになるかもしれないし。



親としては、ゲームにうつつをぬかしているのが心配で、もっと、ちがった、高尚なことでマニアになってほしいとおもっている様子。

うちのクラスに、ロケットおたくがいて、JAXAの打ち上げる衛星とロケットについて、マニアックに語ることのできる子がいたが、お母さんは鼻高々であった。

「うちの子、将来、JAXAに就職したいって言うんですよ」

ホホホ、である。

牛乳のキャップを全国津々浦々から集めようとして燃えている子どもは非難されるが、ロケットの模型を集めている子は称賛される。

行為は似ているんだけど、マニアという意味でも同じなんだけど、内容がちがうと、こうまでちがうか社会の評価・・・、というわけであります。(子どもからしたら、それほど違いが無い)


ともあれ、子どもが、ある特定のなにか一つのことに集中しすぎることについて、親や先生が警戒するのは、なんでなんだろう。

興味のバランスは平均的なのが良い、という価値観があるからかな??

バランスの良さが、それほど重要かと言うと、どうなんだろうか。

本当に、そんなに、重要で価値のあることなんだろうか。

・・・と考えると、おそらく・・・。

意味ないと思う・・・。



決定しているのは、以下。

楽しくて幸せなのは、牛乳のキャップを見つめている子であり、ロケットを見つめている子だ、ということ。

この場合、幸福でないのは、どうみても親と先生でしょう。明らかに。



「○○ばっかりやってるのは、ダメ!!」

自分が不安だからって、自分を落ち着かせたいがために、子どもを縛ってほしくないネ・・・。



子どもの幸福に対して、そりゃあ、

大人の側の、勝手で余計で要らぬお世話、

というものでありましょう。

やることが分からない子はストレスを感じて過ごす

保育園のとき、いちいち微細な行動にこだわっていた子がいました。泣いたらてこでも動かず、どうして泣いているのかも分からないので、保育士さん泣かせと言われた子です。小学校にあがったら全く愚図らず、はりきって行動するようになり、お母様がとても驚いていました。

小学校は、スケジュールが表に貼ってあり、ぜんぶそれで動きます。分かりやすいのです !!
何をしたらいいか、何に気を付けたらいいのか。
朝の会、給食、休み時間・・・、毎日毎日、きまったパターンで暮らします。マンネリズムという言葉がありますが、そのマンネリズムが実は心地よく、ストレスがないのです。幼い1年生にとって、マンネリズムこそが助けになるのです。

言葉を変えると、幼い子どもにとって、「習慣化」することは、生きるためのスキルなのです。
社会から自分に求められる行動を「習慣化」しながら、身体に馴染ませ、繰り返し覚えこませて、徐々にストレスなくやれるように消化していくのでしょう。

こう考えると、学校でイベントの続く、9月から11月の秋の時期というのは、子どもにとって苦痛なシーズンです。なぜなら、運動会や音楽会、遠足、学習発表会と、いつものスケジュールにはない、特別なイベントがたくさんあるからです。いつもの朝の過ごし方ではダメで、その日だけ特別に視聴覚室で練習だとか、校庭等でいつもとはちがう動きをしなければなりません。「こわだり」傾向の強い子にとっては、かなりのハードルです。この子たちの受けるストレスを最小に抑えるために、担任はできるだけ、「やる事柄」を単純化します。そして、パッと見て分かりやすいヒントを作って見せてあげます。

同じように、帰宅後の家での過ごし方も、単純でシンプル、「習慣化」しやすい暮らしのスケジュールを用意してあげればストレスが少なくなることでしょう。

ゲームばかりやっている子をみると心配になりますが、ゲームそのものが悪いわけではないですよね。

ゲームの代わりになる行動パターンを用意し、子どもがそれを心地よい、と感じるまで、毎日毎日繰りかえすのです。時間と熱意が要ります。

ある日気が付くとゲームではない事柄で「習慣化」形成がされていることでしょう。子どもは「習慣化」を望んでいるので、ゲームを望んでいるのではないからです。やることが決まっていないことが不安なのです。(子育て広報誌・掲載記事より「新間草海・子育ての理」)
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