30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2013年09月

ぼくは、悪い子!!

おそらく、

「ぼくはダメな子、できない子!悪い子!!」

という言葉が子どもから出てきたら、お母さん、どう反応するだろうか。

子どもは、その

ママの反応

を、凝視、している。

この凝視の目は、真剣そのもの、だ。

自分の、期待どおりの反応なのか、どうなのか。

希望する、願っている、期待している「反応」が、得られるかどうか・・・。



お母さんの表情、言葉、態度、顔つき、目の動き、視線の動き方、ニュアンス、身振り手振り・・・



先日、職員室の玄関に忘れ物を取りに来た、親子。

わたしのクラスではなく、低学年の、あるクラスの子どもだった。

お母さんと一緒に、忘れた宿題プリントを、取りに来た。
机の中に、わすれて、ランドセルにしまわなかったのだ。
お母さんに、宿題どこ?と促されて、急いで取りに来たんだろう。
夕方、オレンジ色のたそがれに照らされて、お母さんの軽自動車が、玄関前に横付けになってる。

すでに担任が退勤していたので、残っていた私が応対。

目の前で、

「もう、忘れものばっかりで!幼稚園にもどったらいい!」

と強めの口調でママが言うと、すかさず、背の低い、小さな男の子が、

「いいよ、もどる。だってぼく、馬鹿だもん。ダメな子。できない子」

と言う。

そして、ぎろり、と強い目をして、ママの反応を見たんであります。

ワタシ、その目をみて、


まるで、鷹のような目だなあ


と、関係ないことを考えておりました。

そのくらい強い関心をもって、さあ、お母さんがどう出るのか、どう答えるのか、確認しようとしています。

ママは、どうしたか。


うろたえました。

手がだらり、と下がり、力が抜けたようになったあと、鬼の形相になって、


「なんで、そんなこと言うんだ!バカッ!ホントに幼稚園に戻すよッ!」

と、期待通りの反応です。

それをみて、その子は、「ああ、やっぱり」という表情を浮かべて、さらにまた、口元をきゅっと、するわけね。



自傷行為ってありますね。
痛い場所をわざとつくり、その痛みを、確認するために、さらに傷つける。
痛みを確認することで、なにかを解消しようとしているかのよう。
痛みにこらえている自分に陶酔している。

痛みをつつきなおすのって、なんだろう、と思う。

絶望感や空虚感から心が押しつぶされそうになったり、また、やり場のない怒りが湧き起こってきた時、自分を傷つけるような行為をしてしまう。

実は、自傷行為は自分を救う手段、と言われています。

自分の中では消化できないような気分に浸ってしまったとき、大人なら、いろいろと手段を講じますね。
ショッピングで気持ちを発散させたり、酒を普段以上に飲んだり。
やけ食いしてしまう人もいるでしょう。中には、衝動的に壁を殴ったり、額を机にぶつけてしまう人もいる。

自分を傷つける事によって、怒りを鎮め、押し潰されそうな気分を放出するのだ。

気分の放出。

なんで、それが怒りを鎮める『感覚』になるか、というと、どうやら、脳内で操作が行われるらしい。
痛みを感じると同時に、人間は脳内で鎮痛作用のある、モルヒネ様の物質が分泌される、という学説もある。
(たしか女性の出産時には、同様のバランス操作が働いて、あの痛みに耐えることができるのだ、と聞いたことがあるな)

身体の痛みと、心の痛みと、ちがうような気がするが、心の痛みを救うために、身体の痛みを利用している、という言い方ができるかもしれない。

心の痛みこそが問題で、そこにメスを入れないと、対応策は見えてこないだろう。

元のところに生じているのは、「怒り」の感情に近いものか、と思う。

自分に対する不遇の念、不運であるという認識の仕方、正当に扱われていないという感覚、なんで自分だけが、という不公平感、怒り、やるせない気持ち・・・。

わざと叱られるような口答えをする子、親や教師の激しい怒りを買いたい、とでもいうような態度の子は、自傷行為に近いような感覚で、自分を救おうとしているのではあるまいか。

だから、子どもの内部に潜む、怒りの感情に、大人の「怒り」で向き合っても、うまくいかない。傷口が広がるばかりであります。自傷行為によって、つかの間の「気分の放出」を感じさせるだけで終わります。さらに、これを繰り返すことしか、子どもの中には、対応策が見つからない。子どもも、本当は別の対応をしたいかもしれないが、今のところ、気分を落ち着かせ、解消するのに、自傷行為しか思いつかないので、本人も苦しんでいる。
しかし、大人のまずい対応が、その闇の内部に、子どもをどんどんと追い込んでしまう。大人はこのことを自覚しないで、態度を改めないのはその子の「道徳意識」が薄いせいだ、としか、考えない。

どうしたら、いいんだろうか。



こういう子には、母性が効きますね。何しても、受け入れます。

「きみは、本当はすてきな子だから・・・。先生、わかってるよ・・・」

これを、雨だれが石をうがつように、6年間、言い続けることですな。

自分や相手、人間関係の認知の仕方が、少しずつ、音を立てて、変わっていきます。



でも、ざんねんなことに、

ほとんどの教師が、激烈な大声で叱っております。

こういう子には、父性はまだ早い。

時期としては、まだまだ、たーーーーくさん、母性が必要な時期であります。

母性よりも早く、父性ばっかり登場するから、子どもはもう、へとへと、でありましょう。

わたしの感覚では、父性は中学校くらいから本格的になればいいのであって、小学校高学年ではまだ序章、低学年や中学年では、もう、母性満喫、でいいんじゃないか、と思うのです。

先生、見ててよ

なにをしていても、

「先生、見ててよ」

と言う。

それが、ただのつま先立ちだったり、ノートになにかを書くところだったり、友達とぐるぐる手を引っ張り合って回転することだったり、いろいろ。

その、一部始終を、

「見ててね」

という。


見ていて、なにか、コメントを言わねばならない。

教師になりたての頃は、このコメントが、むずかしく感じられてならなかった。

なにか、言わなきゃならん、と思っていた。

それも、子どもたちにとって、プラスになるようなことを。


今は、すっかりと、やる気を失ってしまった。

ひどいときには、子どもが目の前で何かするのを見て、直後に

「はい、見ました~」

と言って、さらっと手元のプリントのマルつけに入ることもある。

すると、子どもが

「あっ、だめだめ!!もう一回、ちゃんと見て」

というので、仕方なくまた見る。

子どもが、目の前でぐるぐると友達と回転する。

そして、終わったらしく、「どう?」とでも言いたげな顔をすると、

「はい、ぐるぐる踊りね。ありがとうございました~」

「ちがう!さっきとどこがちがうか、見てよ!」

こんなふざけたやり取りでお茶を濁しております。



こんなやり取りをしながら、

「見て」

というのは、ほんとに正常健康な子どもの姿だろうなあ、と、常々、思うのであります。



この、「見て」が、ちょっと変化球になることもある。

わざと、叱られるようなことをして、

「こら!○○!!おまえはなんで、そんなことするんだ!」


と言われるのを、期待している子も、なかには、いる。


そのくらいの、強い刺激の、視線、関心を、欲しがっている、ということ。

だから、隠れて、意地悪をしたり、教師の目線に触れないところで、さぼったり、するのではない。

きちんと、教師の目の前で、

「反抗」

してみせるのだ。


これは、教師の関心を引き付ける、絶好の手段であります。

とくに、若い女性の先生なんて、泣くほど関心をもってくれる。

年頃の男の子にとって、もう、あまりにも強い刺激なわけでありますね。


先生が、好きで、好きで、たまらないから、

「反抗する」

というの。

分かりやすいです。



あとひとつ。

むしゃくしゃして、落ち着かないで、消化できない気分を、

まるでひねりつぶすような気もちでもって、

「わざと、いけない、とされることをする」

ということがあるな、と。


事例1)

女の子をぶった。教師に諭されて、「ごめんなさい」を言った。
そして、教師に、「はい、この件については、もうおしまいにしましょう」と言われたすぐ後に、
別れ際、もう一度、小さく、女の子をぶつ。

事例2)

壁に一列に並んだ金属のフック(給食着をかける)を、リコーダーでガラガラと音をさせながら、歩いていく。
教師に
「そんなことしません!なにやってるんだ!(リコーダーが傷つくだろう!それにうるさいじゃないか!)」
と注意されて、ごめんなさい、となった。教師が背を向けて、再度歩いて行こう、とした直後に、一瞬、
リコーダーで、もう一度、壁の金属フックをこすって、「ガラガラ・・・」、とやる。


さっき言ったばっかりだろう!

となりやすい場面。
教師がカッとなるのは、おそらくこんな場面じゃないかな。


そこで、なんでこんなふうに、

「注意された直後に、その行動を、なぞるように、もう一度、小さく繰り返すのか」

ということが、気になってくる。


○小さく、繰り返す


のである。

それも、

○注意の直後

に。



「うるさい!ガラガラ音たてているのは、どいつだ!音を立てて歩くんじゃない!」



と言われて、シュン、となって、

やべえ、もうやらないどこ

とは、決して思わない、のであります。


逆でありまして、小さく、その行為を、あたかも、テープを巻き戻したかのように、繰り返して、ちょっと、やる。



せっかく解消しかかっていた、ある種の気分を、おじゃんにされた。

教師の叱責が、ふいにしてしまった。

叱られたはずみで、解消しかかっていた気持ちを、元に戻してしまった。

それで、その無念さのみが、彼の脳を支配しているのであります。

もう、これは、解消したくて、仕方がない、という状態。

その、解消行為を、否定されてしまった。

しかし、あくまでも、解消したくて仕方がない。もう、あきらめきれない。

あきらめられない、というよりも、教師の叱責によってさらに強化された、「不満と無念さの相乗積」を、再度、解消しなくてはならなくなった状態。

それで、小さく、小さく、繰り返してしまう。
叱責の直後に、さっきの行為を、なぞるように、やってしまうかのであります。



これは、積極的に、やったことなんだろうか。

女の子をぶったのは、積極的にやったことか。
リコーダーで、廊下の金属フックをひっかけて歩き、音をガラガラさせるのは、その子にとって、どんな意味のことなんだろう。
ある意味、面白半分、ふざけて実験してみた、という気軽なもの?

それとも、もう、

止むに止まれず

なにかの気分を、解消したくて、やらざるを得ない気分の、行為だったのか。


わたしは、後者だと思う。

叱っても、叱っても、効き目がない。

あくまでも「反抗」する。

親の気持ちを、逆なでするかのように、反抗してくる。

口答えが、まるで親の気持ちを、懸命にこき下ろすかのように、激しく、とげとげしくなる。



こんなときの「反抗」は、やっぱり、


「助けて!」



という中身なんだろうな、と思う。



さっきの、廊下の金属フックのガラガラも、
どんな気持ちでやっているのかわからない。
もしかしたら、ガラガラと音を立てて、なにか自分の気持ちをようやく整えている、叫びたい気持ちを抑えているのかもしれない。やらざるを得ないのかもしれない。

でも、今は、それはちがう。
やっていいことではない。
みんなが気持ち良いことには、なっていない。

どうせなら、みんなにいやだ、へんだ、と思われることじゃなくて、受け入れてもらえるようなことで、気分が解消できた方がいいよね。
その方が、○○くんにとっても、本当のところは、いいんじゃないか、と思う。





○○くんが、解消したい気持ちが解消できて、さらには、みんなも、それで○○くんが落ち着くなら、やっていいよ、と言ってもらえるようなことがあれば、それをした方がいいよね。

このあと、音楽室について、リコーダーを吹くのが、いやだ、という気持ちも分かる。
だって、音楽の先生、すぐに怒るんだし・・・。

だから、音楽の先生にお願いをして、「ここだけ練習すればいいよ」というところ、教えてもらおうよ。
そして、そこだけなら、○○くんも、頑張れる。みんなと一緒に、全部やれなきゃいけない、というんじゃなくて、ぼく用に、頑張れる範囲を、決めてもらおうよ。
それなら、どう?







問題は、別のところにある、ということが、多いように思う。

表面しか、見てない場合だと・・・・。

口答えのない教室

口ごたえのない教室、というのでいけば、そんなのは世の中にたくさんある。
ただ、なぜ、そのような状態になっているのか、違いがあるだけで。

強圧的で、教師の機嫌が憲法のようになっている教室では、当然、口ごたえは起きない。
ヒトラーの前では、だれも口ごたえをしないようなもの。

そうではなく、自発的に、だれも、口ごたえをしない、という状態。

だれもが自由に自分の思いを口に出して、それが

口答え

にならない、


というもの。


そんなの無理、と、即座に反応する人、

どうせ、子どもなんて、そんなものだよ、という人、多いだろう。

世の中なんて、しょせん、だれかのご機嫌伺って生きるのだし、大人だってそうなのだから、腹の中と口先の言葉なんて別もの、子どもなんてむしろ、腹の中ではちぇっ、先公め、と思っていたって、口答えを表立ってやらないようになれば、それでいいんだ、という人、多いと思う。

あるいは、反抗期を解説する文を読んで、

「反抗期はあって当然、自分の意志を表現して自己を確立しようとしている過程の正しい姿」

というふうに、解釈して納得する人ばかりだろう。


そういう人が、

◎反抗期は、ないで当たり前

◎口答えは、ないで当たり前


なんて言われたら、即座に、

「あんた、あたまがおかしいのか」

と、反応すると思う。


いやいや、私のクラスは口答えもなく、自由に思うが儘に話して反応して、それでも口答えなんかでないし、それで困る人もいないよ、という先生、どなたか、そういったクラスの実践例をブログで紹介していないだろうか。そんなブログを読んだら、勇気百倍、という先生も世の中にはたくさん、おられるはず。
私自身は、ぜひ、そういった先生たちと、交流していきたい。
教師はもっと、自校や近隣の学校のみの交流だけでなく、せっかくインターネットやブログ、という手段があるのだから、学級経営等やご自分の理念についても、いろいろとさらけ出して、交流していくといいと思う。(というか、わたしがそれを望んでいる)

さて、反抗期を無くそう、とか、口答えをさせないようにしよう、というアプローチはそもそも出発点が間違っている。

人間と人間との、おたがいの間柄に、そもそも、相手を否定するものが起きようはずがなく、反抗など、あり得ないもの。

反抗、とみる観方が、どこからくるのかというと、人と人とはしょせん、相いれないもの、という自分なりの人間の観方から来ていると思う。

冷たい、さびしい、どこか人間離れした、人間観であります。

子どもの抱えるストレスを、弱い立場に向けて吐き出そうとしている姿を「反抗期」と呼んでいるのだとしたら、あまりにもひどいネーミングです。それは「反抗」ではなく、「助けて」という悲鳴なのでありましょう。
目に入れても痛くないとさえ思ったわが子の所業を、「反抗」だなんて、親であれば片時も思いたくないはず・・・。



話がとんでしまった。


口答えのない教室で、当り前。
子どもが何を言っても、どんな言葉で、何を表現しても、まったく構わないし、それでもまったく教師は困らない

ところが、教師が簡単に困ってしまうから、口答えを無くそう、させまい、と頑張るのだろう。

困らない教師になっておれば、「反抗」や「口答え」という言葉すら、どこか別の世界の言葉、あるいは死語のようにさえ聞こえてくる。



「困らない」っての、もっと探っていきたいことだ。
焦点を当てて、考えたり、探ったり、話をしようとしている人、どれだけいるだろうか。

学校に欠けているもの

それまでは拒否をして、体育館にさえ行こうとしなかったTくん。
連れて行こうとすれば、大声で抵抗して、走り回っていたTくん。

体育座りをして、校長講話を聴けるようになった、のは、

Tくんが、大人の願いを聞き入れた、ということだろう。

今度は、逆に、大人が、Tくんの願いを、受け入れて、育てていく番じゃない?



で、聞いてみたわけ。

「Tくん、Tくんの願いって、なに?」
「無い」


「なにか、こうしたい、とか、学校でこんなことやってみたい、というの、ある?」
「無い」


「(マジ?)なにか、ないかなあ?」

こっちは、あるはずだろう、と思っているから、しつこく聞く。

するとTくんは、なんでこんなにしつこく聞くんだろう、と不思議そうな顔つきで、

「??? ないけど・・・。」




つまり、学校の課題が、ここに凝縮されて、見えてくるわけだ。

学校には、やろうと思うことがない。
学校には、魅力的なプロジェクトがない。


いや、学校には本業の学問があるだろう、それが子どもの仕事だ

と、我々大人は考える。

しかし、Tくんにとっては、それは仕事には見えてこない。
こだわるものでもない。
べつに、やらないでよければ、やらないし、やりたくもない。その気がない。


大人は、そんなTくんの気配を感じると、焦ってしまって、

「勉強をさせなければ」
「掃除もさせなければ」
「みんなといっしょに行動できるように、適応させなければ」

それで、あっちこっちと汗を流し、なだめたり脅したり賺したりしてよくよく言い聞かせながら、

なにかを、させようとする。





させよう、とは、思わない。

Tくんの顔を見ながら、ボーッとする時間が、確保されること。

それが、学校には、ないんだ。

忙しすぎる学校生活から離れて、

ゆっくり、ボーッと、学校で、Tくんといっしょに、時間を忘れて、すごしたい。




学校生活に、<暮らし>、ということが、もっともっと、目に見えるように、なること。

ともに暮らしている、という実態が、誰にでも実感でき、より分かりやすいように、なってくること。

大事にされてくること。



・・・無理かなあ・・・

みんなと一緒にやれるようになる、が目的ではない

学校では、これが大事、とされている。

「みんなと一緒にやれるようになる」

そのために、ルールもあるし、躾も行われる。

やんちゃくんや、おてんばさん、あるいは発達障害の子、はたまた、心寂しい子どもなど、みんな、

「みんなといっしょにやれる」

ことが第一目標になる。



ある子が、みんなとそろって、遠足に行けた、というので、先生たちが職員室で嬉しがっているのを見たことがある。

ほとんどやる気をみせなかった学校行事に、それまでは罵詈雑言を浴びせ、クラスメートのアイデアや努力にケチばかりつけていたA子が、次第にクラスの仲間に迎えられ、しまいにはクラスの発表に参加し、練習するようになった。

この時の担任が、その日、暗い印刷室でひとり、輪転機をまわしてプリントを刷りながら、声をあげて泣いているのを見たことがある。


みんなと一緒にいること。

そして、一緒に、手を動かし、心を動かしていくこと。

まずは、このことが、大事にされる。

このことは、すべての出発点にあたるだろう。



ところが、学校では、このあと、が続かないのだ。

発達障害や学習障害を抱えるTくんに、体育館でみんなといっしょに体育座りをして、校長の話を聞く、というルールをしつけた。
それはそれとして、で、そこから、が肝心なのだと思う。

しかし、

「Tくん、みんなと一緒に校長講話、聞けてたね」
「そうそう」
「それも、体育座り、きちんとしてたじゃない」
「うれしいよねー、ほんとうに安心した」


これで安心してもいいけど、むしろ教員としての知恵と力を発揮するのは、これからだよね。

まだ、必要条件と思われることを、ともかくも整備して、学校の望むルールに適応させた、というだけに過ぎないのだもの。


適応させれば、それでよい、ということではない。
それは、ただの、出発点だ。

そこから、本当の教育が始まるんだろう、と思う。
(体育座りができるからって、そのことが本当の価値ではないのだろうしね)

1年生が意気揚々と手伝う感じ

以前から、この「感じ」は、こたえられんなあ、と思うことがある。

それは、1年生が、「意気揚々と」、手伝ってくれる時の、あの感じだ。

顔が、光り輝いている。

そして、目が、楽しくて仕方がない目になっている。

用事が終わりそうになる、その前に、すぐに、

「先生、これが終わったら、次は?」

と、聞いてくる。

他の子が頼まれそうになると、

「○○もやれるよ!先生!」

と、自分を指名してくれるように頼む。


そこで、

「あ、○○さんは、こっちやってもらおうと思うの。△さんが、あっちに運ぶでしょう。そしたら、そのあとに、残っているこれだけを、別の箱に入れておいてほしいのよ」

と、自分の活躍場所が指名されると、これがもう、なんともうれしくて仕方がないようで、

「うん!わかった!!!」

と、もうさっそくとりかかろうとする。



この感じ、なんでしょうね、もう、


「あなたの言うことを、願いを、聞きたくて、聞きたくて、添いたくて、添い遂げたくて、一緒に居たくて、一緒に話したくて、一緒に見たくて、一緒に笑いたくて・・・・」


こんなような、オーラが、もうそこらじゅうに、いっきに、ばらまかれている感じ。

そして、そのオーラが強烈であるがゆえに、クラス中が、ものの15秒も経たぬうちに、そっくりそのまま、その雰囲気に染まり切ってしまう。



先生は、これが嬉しいのだな、というのを、発見したときの感じ。

学校では、これをやることになっている。

学校では、これをやることが、ルールになっている。

という、行き方ではない。

子どもは勉強をするものだ、クラスの仲間を大切にするものだ

という、道徳規律で、言うことを聞いている、というのとも、ちがう。





好きな人のためなら、とことん。


そんな感じがする。



そういう、子どもを相手にしていることの、


なんともいえない、「恐ろしさ、畏れ、怖さ」というものを、感じる瞬間であります。



(好きな人のためなら、というの、これが、人間の持つ、最大のパワーなのかもな、と思う)

変わる美術館・変わる博物館

フランスの美術館には、子どもが毎日のように通ってくる。
日本で言うと、地域に根差した、図書館のように。

美術館なんて、辛気臭い、わけがわからない、静かにしていなきゃならない、というので、子どもからは敬遠される場所だと思う。

しかし、さすがはフランス、そこはかなり、考え方が違う。

日本のように、だまーって、しずかーに、まるで仏像を拝むかのように、一つひとつを、凝視していく「鑑賞スタイル」は、あまり普遍的ではないとのこと。

フランスでは、美術品を見る際に、あれこれと自由に見ることを楽しむために、会場でいろいろと工夫してくれている。

フランスの学芸員さんたちの、思考・志向が、顕著に、日本とは異なるのだという。

フランスの方たちは、

「子どもに味わってもらってなんぼ」

というところがあるのだろう。

たとえば、絵画には、クイズが併記されていて、

「思いつかないときは、近くの誰かと相談してみて!」

とか、まるでおしゃべりを促すような掲示がしてある。

日本のお堅い頭の学芸員さんたちからしたら、まるで戦慄を覚えるような、悪魔のささやきが記されているわけ。

大体、おしゃべりしながら、美術品やら工芸品、博物館の展示物を、見てよいものか。

日本人なら、そう考えるだろう。

こういった場所では、何よりも優先されるのが、「静けさ」である。

この静けさを片時でも揺るがすべきではない。

うるさい子どもは、できるかぎり、美術館から排除するべきだ。

「うるさいガキは、こなくて結構!」

これが、日本の博物館ね。




で、子ども向けに語りかけた、このような美術鑑賞アプローチが、実は、何よりも、

フランスの大人に、受けた。


・・・(笑)


入場者数が増え、市の財政に寄与する美術館が増大したそうであります。
そのようなわけで、フランスでは、美術館が、それなりに、アクティブで、パッシブで、アクロバティックになっているようなのでありました。


※Visual Thinking Strategies (ビジュアル・シンキング・ストラテジー)について

グループで対話をしながら、絵をみていく鑑賞方法。知識に頼らずに、作品をよく見ることからはじめ、「これは何だろう?」と一人ひとりに考えることをうながし、様々な意見を引き出しながら、作品の見方を深めていく。1988年からニューヨーク近代美術館(MOMA)で美術鑑賞法として開発されたVTC(Visual Thinking Curriculum)を当時の教育部長フィリップ・ヤノウィンとアビゲイル・ハウゼン(認知心理学者)がより学校教育を意識して進化させた。アメリカでは約300の学校および約100の美術館・博物館が導入している。

「叱って直す」は、できないって、ほんと?

ピッツバーグ大学教育・心理学部のMing-Te Wang准教授は「怒鳴っても、子どもの問題行動を減らしたり直したりはできない」と指摘し、「逆に悪化させる」と述べた。



ここまでハッキリ書いてくれると、すっきりするね。

怒鳴るって、大人が

「寂しがってる、恐れている、不安がってる」

ということを態度で示している、のと同じ。



子どもの目の前で、おのれの不安をさらけ出す行為が、

怒鳴る

ということ。



ところがあまり、そうは思われていないね。

大人は狡猾だから、正しい側が怒るのだ、というまちがった観念を、先に子どもに植え付けているからかな。



でも、幼い子は、すぐに見通してしまいます。

カンカンになった大人を見て、

くす


と笑うのは、小さな子どもが多いよね。

だって、頭から湯気が出ているのを見るのって、なんだか可笑しいもの。

なかには、

その

くす


に、またまた、悲しくも反応して、不安におびえてしまう人もいて・・・。



もう、そろそろ、人間と人間の関係に、お互いの関係に、ふつうに戻るべき。


子どもに、「怒鳴る」とか、いかにもオカシなこと、やってたんですねええ。

・・・って、2113年頃になれば、みんな言ってることでしょう。

どこにも角が立たないようにするのが学校運営

「エーッ!そんなことしたら、角が立つかも・・・」


という恐れ。

これが、学校の隅々に、息づいている。

「おっと!」


あぶない、あぶない・・・。

そんなことしたら、

怒られる、責められる、変に思われる・・・




それで、PTAが企画する「交流会」は、どんどんと縮小し、無難になり、前例に倣うことになる。

「責められないためには、どうするか。」と考えるようになる。

「去年はそうしたみたい」

「じゃ、それでやりましょう」





昨年通りに遣れば、どこから文句が出ても、

「だって、昨年も、それでやったということだったので!」

と、申し開きができる、というわけ。



きっと、責められるにちがいない。



という前提が、そこには十分、存在している。





そんな企画なら、やらなくてもいいんじゃ・・・


と思うけど、やめられません。

なぜなら、去年もやったからネ。

「なんで止めたんだ!!!」


と責められない、唯一の方法が、

「昨年通り」

というやつ、です。




で、実際のところ、だれも願っていない世界がそこに実現し、

みんな、白けて参加し、

「なんだか疲れる」

と愚痴を言うわけね。

「なんでこんなのやってんだろ」

「付き合いよ、付き合い。大人はこれくらい我慢しないと」



あとで、喫茶店でみんなが本音を言い出すと、

「こんなの、はやく辞めたいよね」

ということで一致し、その一致のあまりの符合っぷりに、その場に居合わせた一同が、全員驚くことになる。

だれも願っていないことを、

さも、だれもが願っているかのように取り扱って、

嘘の仮面をつけて、

「はい、たのしかったですね~。来年もたのしみです」

と言わなきゃならん、この苦しさ。




何が苦しいって、本音を言えないことだね。

ナチスが台頭し、ファシズムが世間を席巻したときも、なにがいちばん人々にとって苦しかったかを想像すると、おそらく、「本音を言えなかった」ということだろうと思う。

たぶん、そのくらい、程度の低いことなんだろうと、思う。

基本的に、保護者同士が、仲良くなっていないので、学校の行事は、結局このようなことになる。






どうしたらいいんだろうか?

わかりきってる。

仲良くなればいい!

そしたら、こんなぎくしゃくした間柄なんて、あっという間に、解決だ!


だけど、保護者同士が仲良くなるってこと、これが、世間の最大の、教育界のもっとも、いちばん重要な課題であり、解決しなければならないことであるとともに、もっとも難しいとされていることなんだと思います。

みんな、この、

責められるかもしれないという恐れ


によって、本音を言えない苦しみに苛まされているんだから・・・。

こうしたジレンマを解決する方法を考えたら、おそらくその方には、「ノーベル平和賞」が授与されるでありましょう。

このくらい大事なことなのに、だれも、この問題に、触れようとしない。


本音言うなんて無理だ。
仲良くなるなんて無理だ。

アキラメてる。


だって、あの人もあの人も、すぐに腹を立てるんだもの。
なにかあったら、すぐにイライラするんだもの。
気を悪くして、眉間にしわを寄せるんだもの。



「人間に対して腹を立てる」

これが無くならないと。。。。。

じゃんけんで負けて、悔しくないのか!!!

巷で驚くような言説を聞くことがあるが、たとえば、こんなの・・・。

「まったく、日本人の気概もどうかなってる。
尖閣諸島が取られそうなのに、平和ボケしている!
もっと日本人は魂を震わせて怒る必要がある!
負けん気がないのは、教育が悪いせいだ。
人間は、負けず嫌いくらいでないといかん!
根性がない!
日本人の耐性が乏しくなってきて、すぐに弱音を吐く、メンタルの弱い人間ばかりが目立つようになったのは、ゆゆしき問題である。鬱やら自殺やらが多いのも、幼いころから甘やかせすぎたせいだ!
すべて諸悪の根源は、ゆとり教育のせいである!!」


・・・という感じかな。

ところが、である。

子どもにもいろいろといて、

じゃんけんで負けて、ちっとも悔しくない。

という子がいる。

前述のような、「気概が無い」とか、「平和ボケ」とか、「負けず嫌いが必要」だという考えを、たとえ一時的にせよ持っている人にとって、まったく許しがたい存在に見えるであろう。

なにしろ、わたしのクラスでは・・・
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子どもの精神的な耐性を培うために

私の勤務校では、運動会が春に行われたので、もう終わってしまった。

秋になって、今度は、息子の通う小学校の

「秋の大運動会」

がある。


息子の学級の先生は、熱血の男性教師。

学級運営もすばらしく、保護者からの信頼も厚い。

「ぜったい、つなひき、勝つ!!」

といって、つなひきの特訓をしたり、クラス対抗リレーの練習をしたりと、希望の炎を燃え上がらせている。



さて、強い学級集団をつくりあげるには、コツがある。

なによりも、楽しさが、底辺に漂っている、ということが大事であります。

テニスの錦織くんが今、全米オープンに出て頑張っているけれど、彼のプレイは、とてものびのびしている。

今年は惜しくも初戦敗退で、悔しそうでしたが。

錦織くんを育てるときに、コーチが気を付けたことは、できるだけ強制にならず、押しつけにならず、教え込みにならず、緊張させず、耐えるような練習をさせなかった、ということ。

これは、多くの人には、信じられないことだろう。

天才だから、特別なのか・・・。



錦織くんは、

見た目、きつい練習を、黙々とやる。

それは、だれも「させなかった」からだ、というのだから、つじつまが合わない。

つまり、自分から望んで、練習に飛び込んでいった、ということでありましょう。

これが「ゾーン」に入る準備として、非常に大切なのだそうで・・・。

巨人軍の張本選手が、全盛期の頃、投手の投げた球の、縫い目が見えた、というけれど、それは、極限に集中力が高まっていて、いわば

「集中の極限状態」

になっていた、ということらしい。

こういう、身体と心が過剰に集中している状況を、よくスポーツ選手などが、

「ゾーンに入った」

という。(もしくは、フロー、とも言う)

その状態だと、通常は過酷に思えることにも耐えられる。嬉々として、取り組める。

今の子どもたちが、こらえ性がなかったり、耐える力、つまり耐性に乏しい、と言われるのは、こういう集中状態に入った経験をもたないからだろう。

経験があればあるほど、ゾーンに入りやすくなる。
つまり、「耐性」ができやすい。過酷な環境にも、メンタルが打ち勝てるようになる。

スポーツクラブのコーチは、最近の子どもたちを見ていて、

「低年齢のジュニアたちが苦虫を噛みつぶしたような顔をして眉間にしわを寄せてプレーする姿が多いのがとても気になる」

と言っている。

つまり、

昔ながらの、

体罰・根性・耐性・鍛える・ 罵倒する

というスタイルでは、子どもがスポイルされる結果、一流の才能は開花しない、ということ。

眉間にしわ、という時点で、もうすでに、ストレス感じまくり、なわけね。

杉山芙紗子さん、という方がいる。
この方、テニスプレーヤー杉山愛の母であり、コーチでもある、という珍しい人。

その方も、

「めったに愛を叱らず、意思を尊重した」

と言っている。

この芙紗子さんは、早稲田大学で論文を書くのだが、一流のスポーツ選手を育てるときに、

「のびのび育てる」

か、

「強制と威圧で育てる」


か、どちらがポピュラーなのか、調べている。

論文の中で、こう書いた。

「1回3時間の練習を週6日間やり、試合初出場から約1年後には初優勝を果たしている。筆者は非常に近くで杉山愛と接していたが、テニスに関して口うるさく言った記憶は全くない。常に彼女の意思を尊重にし、叱った経験もごくわずかだ。筆者はコーチ、ディレクター、そして母として杉山愛に一人の人間として接し、「テニスは楽しく、すること全てを楽しむ」ことや「自主性を重んじ、強要はしない」ことを教えてきたつもりである。」



世界に通用する、一流プレイヤーを生み出すのは、どんな教育か。


結果は、のびのび、だ。

理由は簡単。メンタル。

耐性ができるから、だね。


参考)日本の若手トップアスリートにおける両親の教育方針に関する一考察
http://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2010_2/5010A317.pdf

教師は大目に見てもらっている?

廊下を走らない、ということになっている。

そもそもは走るのが大好きで、走るスイッチがデフォルトでONになっているとしか思えない子どもですが、学校ではそのスイッチを、がんばってOFFにしておかなければならない。

それは、学校という装置がそういうふうに設定してあるからで、

「他の人の迷惑になることはしない」


ということから、廊下は、走ってはいけない。


ところが、子どもは、難しいのであります。

つまり、放っておくと、鬼ごっこを始めるのだ。

これは、どの学校でも、どの国でも同じようであります。

鬼ごっこは、どうやら、打ち合わせたわけでもないし、決まりを定めて国際条約にしたわけでもないのに、驚いたことに、世界中で行われている。法律で定めたわけでもないのに。

つまり、人間の歴史のいつからか分からないほど古代の昔から、鬼ごっこは、世界中の人間が、子どものときに

経験する

ことなのであります。

別にやらなくてもいいのに、やるのであります。

ということは、


「子どもは、鬼ごっこをやる生き物だ」


という定義も成り立つわけで、たいていの鬼ごっこは、走って行うことと相場が決まっている。

つまり、学校の長い素敵な廊下を、ぐいーん、と飛行機のように羽を伸ばして、すっとんで走っていくことは、もう、これは子どもの、

持って生まれた、当たり前の行為

なのでありましょう。
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