由香さんが、静かに、語り始めました。
北杜夫さんの、死に際の話です。
新聞記事では、「腸閉そく」という診断が出ていたが、あれは世田谷にある「駒沢病院」の診断で、家族ははじめて聞く病名に、まったく思い当たることが無く、
「なんでいきなり?」
と戸惑ったそうです。
腸閉そくなら、それに関連する、初期の症状なりが、日常的にもあって当然なのではないか。
しかし、その日の明け方、急死した北杜夫さんに、そんな兆候はまったくなかったのだそうです。
診断にはほとんど信憑性がなく、解剖を意固地になって拒んだ駒沢病院側に、なんらかの意図があったのではないか、と疑われるというのです。
ともかく、代々医者の家系ですから、医学のために役立つのであれば、解剖をしてください、と頼んだのだそうです。
ご家族、さすがですね。
しかし、そこで駒沢大学病院は、きっぱりと断る。
「医学的にはなんの役にも立ちません。」
「胸を思い切り開くことになり、その後の遺体をご家族に引き合わせることもできません。」
「なので、解剖はできません」
由香さんは、そこであきらめずに、ぜひ解剖をしてもらうべきだった、と、今となっては心底悔やんでいるとのこと。
おう吐物が、のどに詰まっての、窒息死。
明け方、着替え用のゆかたを看護婦に言われて用意しておいたにも関わらず、病院へ運ばれたときの黄色いポロシャツのままで、おう吐物を胸につけて、そのまま心臓マッサージをされていた北杜夫さん。
病院に運ばれてから、一度もまともに見てもらっていなかったのではないか。
なぜ、朝まで黄色いポロシャツのままだったのか。
なぜ、胸におう吐物がついたままだったのか。
なぜ、夜までいかにも平常に見えた父親が、翌早朝、急死しなければならなかったのか。
インフルエンザの予防注射の影響で、ちょこっと体調を崩しただけのはず。
そして、念のため、一晩入院して様子をみましょう、という、へんな風邪をひかないための、念を入れた予防措置だったはず。
それが、数時間後に、予想もしない「腸閉そく」という診断で死ぬなんて。
駒沢病院が出した資料には、
○ご家族は解剖しないことにすぐに同意をした
○ご家族は「腸閉そく」の診断にすぐ納得をした
○病院は遺体を責任をもって安置し、お家へ運ぶ際も最後まで責任をもって見届けた
とあったそうだ。
ところが、実際は、どれも嘘であった。
駒澤病院から自宅へ、北氏の遺体を運ぶ際にも、だれ一人として見送るものがいなかった。
由香さんが、
「こんなウソを書いてもいいのですか」
と尋ねると、病院関係者はだれもなにも言えず、うつむいていたままだったとのこと。
なださんも、
「腸閉塞はおそらく嘘でしょうね」
と言っておられたのが、最後、印象的でした。
(あーあ。このくだりを聞いて、本当に力が抜けました。でも、真実をおっしゃっていただいたことは本当にファンとしてありがたい。)
さらに。
救急車で運ばれて、すぐのこと。
由香さんが、念のため入院することになった北さんを前にして、医者に
「なにか気をつけておくこと、緊急性のあることがありますか。今のうちに、なにかしておくことはありますか」
と尋ねると、
「とくになにもありません」
と医者が答えたので、そのまま任せる気になって、一晩ゆっくり寝られたらいいわ、と判断したそうです。
ところが、そのセリフをしゃべった、「とくにありません」といった医者は、いわゆる昔でいうインターンのような、今で言う<研修中>の医者で、大学を卒業して数年の、ひよっ子だったそうである。
それを聞いて、由香さんはともかくがくぜんとして、
「こんな医者に、大事な判断の根拠をまかせてしまった」
ということを悔やんでいました。
そのくだりで、由香さんが、一瞬、声をつまらせて、涙目になられました。
会場のみなさんの方も、嘆くようなうめき声がもれて、はじめてこのことを聞いた、というショックで、なんだか呆然としていました。
その後の、木もれ陽のなかの小さな軽食会(立食スタイルでサンドイッチやカナッペなどが出た)には、わたしは参加しなかった。
愛知まで帰るのに、夜遅くなってしまうので・・・。
去り際、なだ・いなださんには、
「大ファンでーす」
と叫びたかったが、もう私も大人になっているので、それはやめた。
帰り道、車窓から、軽井沢の白樺林が見えた。
夕暮れで、少し涼しくなった空気が、ほてった顔や腕を冷やしてくれる。
人の死を、ひさしぶりに考えた。
高速に乗る頃、空が、うすく、明るい紫色に変化しているのが目に入ってくる。
そろそろ、自動車のランプを、どの車も点け始めているようだった。
2012年07月
さて、北さんの思い出話から、なださんの話にさらに力が入っていくのですが、やはり「躁鬱(そううつ)」の話になる。
なださんは、精神科の医者として、何人もの患者と向き合ってきた人だ。
だから、由香さんが、
「最近は鬱の人が増えてきた、と言うように言われますが・・・」
と話をふると、本当に多くの有益と思われる情報を語ってくれていた。
熱心にメモを取る人もいて、世の関心事であることがうかがえた。
さて、鬱の人を理解するには、という核心に話が及ぶと、結局なだ医師は何を言ったか。
「結局、本当にいいのは、全員が一度は鬱を経験するといいのです」
どんなふうに声をかけてもらうのがいいのか、どんなふうな心境になるのか、元気になりかけた時に、どんなふうに扱ってもらうと元気になれるのか。
○元気だしなよ
○がんばって!
○どうしたの
こんな言葉は非常にきつい、そうだ。
なだ医師は、「がんばれ殺人」という言葉を、かつて書いたことがある。
由香さんが、「じゃあ、どんなふうなのがいいのでしょう」と突っ込むと、
なだ医師は、
「傍白」でしょうかね。
と言った。
傍白(ぼうはく)=内心のつぶやきなどを表す
それを聞いて、わたしはピンと来て、心の中でつぶやいた。
「タスケテクレ!」
すると、由香さんもピンと来たらしく、
「よく父は、だれに話しかけるともなく、いきなり、タスケテクレ!とか言ってたんですが・・・」
と、エレベーターの中の爆笑エピソードを語ってくれました。
他にも、北さんの傍白には、「愛してる!」もあります。
それを聞いて、なださんも懐かしそうに、
「そうそう、それです。それが傍白なんですよねえ。そんなふうに、心の内を、話しかけるともなくつぶやく。そうして、こちらの心を見えるようにして、教えてあげるのです。だが、それはその鬱の人に伝えるのが目的、というのではないのです。傍白ですから。勝手に、こちらが一人で、つぶやく、ということなんです。それが一番、鬱の人にはいいのです。結果として、うつ病の人に、こちらの心が見えている。それが安心をつくる」
この解説を聞いて、さらに、ピン、ときました。
「この話、発達障害の子にも、自閉症の子にも、同じだよなあ。」
不安の強い子だから、できるだけこちらの情報を開示して、伝えて、そのつもりになってもらう。了解してもらう、安心してもらう、ということが必要です。
そのために、こちらの気持ちを、できるだけ開示していく。
ただ、そのことでなにかを「わかってもらおう」という意識が強いと、自閉症の子が「ナニカを要求されている」と思ってしまうので、よろしくない。
不安が逆に強くなる。不安をとりのぞいて安心させてあげたいのに、逆に不安を増大させることになってしまっては意味がない。
したがって、「傍白」と。
あとは、うつ病の人が救われるのは、周囲の人の理解が一番。
というくだり。
同じことが、自閉症児にも言える。
つまり、周囲の人の理解でもって、その子の価値をつくりあげていく。その子を生かすのは、その子の責任というよりは、社会全体の責任である、と。
うつ病の方の持てる価値を見出し、高め、生かすのは、社会全体のためであり、社会全体の責任。
同じですねえ。
そして、なだ先生はこんなふうにもおっしゃっていました。
今の世の中は、価値が見出しにくい。
高度成長の時代なら全員が物をたくさん所有して使って便利になれば最高、という価値観で行けた。(それがまた歪みをつくるのですが)
あの時代は、あまり「鬱」という感じがしなかった。
でも、今は世の中のどこを見ても、「なんだかねえ」という感じ。だから、鬱になる人も多いのではないか。
鬱も自閉症も、人と人とが当たり前に接する社会になっていないから、問題視されるのかなあ、と思います。
さて、鬱の話や、北さんの「躁」のときの派手なお話を聞いた後で、そろそろ時間がせまってきたのです。
それからが、衝撃でした。(つづく)
昨年10月24日に84歳で亡くなられた作家・北杜夫さん。
その追悼の集まりがあり、行ってきた。
会場には70~80人くらいだろうか、全国からファンが集結。
会場は木もれ陽あふれる、涼しげな中庭にセットされ、自由にイスを動かして、メインの壇上を見られるようになっていた。
壇上には、籐の椅子が2脚。
娘さんの、サントリー社員、斎藤由香さんと、精神科医のなだ・いなださんのお二人だ。
由香さんが最初から最後まで、本当に丁寧に進行をされていた。
空白の時間をつくらず、言葉づかいは丁寧で聞きとりやすい。
北杜夫のファンが集まるからといってコアな話ばかりするのでなく、きちんと茂吉や茂太さん、快活ばあちゃんの輝子さんのことなど、家族の関係まで一言ずつ解説をされていく。
ファンにとっては周知のことであるが、丁寧に、それも時間をかけずにサッと触れていくので、どんな人にとってもやさしい。忘れかけていた人にとっても、
「ああ、そうだったなあ」
と思わせることができる進行の妙技であった。
さすがは現役のOL、サントリーの由香さん。
実はわたしは幼いころ、北杜夫のエッセイの中にしばしば娘の由香さんが出てくるので、ひょっとしたら若いのかしらんと思い、自分の結婚相手にできるのではないか、と夢想さえしたものだ。
実際には私よりも年上で、気品と風格を兼ね備えた才女、ともいうべき人である。
会場には、もっぱら60代の方たちが集結し、私が一番若かったのではないか、と思われた。
何度も強烈な視線を贈っておいたので、しばしば、由香さんと目があった。
そのたびに、わたしは思い切り笑顔で笑いかけ、由香さんの見事な進行ぶりを心から応援した。
さらによかったのは、なだ・いなださん。
どこかのエッセイで、
「・・・ちゅうことになっておる(・・・ということになっている)」
というくだりを書いて、
「世の中をみるときは、かならずこの言葉を最後につけておくと、テレビにも政治にも世間にもだまされずに済む」
ということを書かれていた。
わたしは中学時代にこのエッセイをなにかで読み、
「頭のいい人だなあ」
と感服したことを思い出した。
さて、北さんといえば山梨の医局時代に病棟で患者同士の殺人が起きてしまい、たった一人の医者としてすべての責任をとらねばならない立場になり、たいへんな思いをされたエピソードが有名である。(医局記)
医局記自体は、青春記や航海記、昆虫記に比べると文章のリズムがたまに乱れていて、ああ、と思うことが多かったのだが、上記のエピソードの描かれた部分は見事な筆の力で、緊迫した孤独な戦いの日々を書いていて読者を惹きこむ。
なださんはこのエピソードをしゃべっていた。
「被害者の親族から罵られるのに黙ってひたすら耐え、すべてを終えてから、眠れずに北さんは、自分の部屋でなく、畳敷きのいわゆる雑居房のような、患者の部屋に入るのです。そしてそこにごろり、と横になる。すると、ずっとそれまで黙りっぱなしであった、もう長いこと<精神>が動かないと思っていた一人の患者が、いつの間にかそばにきて横になり、北さんに向かって、あんたもたいへんだったね、というようなことを言う。それを聞いて、北さんは、医者というのは机に向かったり、投薬のことばかりやっていてもダメで、目の前の患者と同じところに身をおくようでないと、患者の理解はできないんだ、ということを悟るわけです」
このことは非常に印象的であった。
つまり、文学者・北杜夫は、医者としても、天性の勘が冴えた、観察眼の鋭い、優秀な医者であった、ということ。
これを、同業者のなだ先生が指摘するあたりが、非常に印象的でした。
これまで、医者としての北さんを評価する文脈を知らなかったので。
発達障害児の対応をずっと続けてくる中で、この1学期にとくに印象に残っていること。
それは、休み時間の過ごし方である。
授業中は、障害児について、かなり対応できるようになってきた。
○事前に授業の流れを伝えておくこと
○細かく指示を出して、そのとおりにやれば、○(マル)をあげること
○集中できるとほめること
○複数のモノを与えないで、一つのことに集中したらよい、という進め方をする
○視覚優位の子には、見て負担にならないものを単数で用意する
○聴覚過敏の子には、落ち着いてしっとりと話しかけ、クラス全体が静かに運営できるようにする
思いつく限りで対応していける気がする。
ただし、昨年まで、休み時間はノーマークだった。
わりとすぐに、職員室へもどってお茶を飲んだり、他の先生の用事を済ませたり、次の授業の準備をしたりしていた。
ところが、その貴重な休み時間が終わって教室へもどると、事件が勃発しているのだ。
休み時間に、だいたい、何かが起きるのだ。
考えてみれば、休み時間は、なにをしたらいいか、わからない不安な時間である。
どうしなさい、こうしなさい、という指示がほとんどなく、ただ自由です、と言われておっぱなされても、実は、少しも自由ではない、というわけ。
「先生、ひま。何をしたらいいの」
こんなふうに言える自閉症児、発達障害児ばっかりだったらいいが、実際は他の子からからかわれていたり、思いもかけない事態が起きていて、他の子と一触即発の状況であることがおおい。
そこで、長い休み時間になったらとにかく、先生から先手を打ったのがいい、と考えた。
わたしは、紙粘土をたくさん用意しておいて、発達障害を抱える子に、さっと休み時間になると渡した。
1週間は、もった。
次は、白い毛糸を持っていき、あやとりしたり、こまかく切って色画用紙に貼ったりして遊んだ。
さらには、牛乳キャップの蓋を色紙でつつみ、毛糸でつるして、金メダル、銀メダルをつくる。
それも終わると、つぎは、白い毛糸を絵具で染めて、疑似染物をして遊んだ。
こんなふうに、休み時間の過ごし方にまで介入し、世話をしたことは、これまでなかった。
休み時間は、こんなふうにすごすと、たいくつをしなくて済むかもしれませんよ。
こうやって、教えて、過ごさせた。
よかったのは、ともかくも、
自閉症、発達障害を抱える子が、けんかもせず、ニコニコと機嫌良く過ごせた、
ということである。
これから土曜日の午前中は、公民館でクラスの先生と保護者がかならず輪になって茶話会をすることにしてはどうでしょう。
そうすれば、子どものいいところを、もっともっと、保護者に伝えることができます。
保護者は、子どものことを深く、理解できるようになるでしょう。
また、家での様子などをきき、先生たちもさらに子どもの理解を深めるでしょう。
わたしはなぜこんなことを思うのかというと、たぶん、自分の息子がまだ幼いからかもしれません。
わが子ながら、うちの子どものことを、面白いと思っていますから、もっと知りたい。そのことで、先生たちともおしゃべりしたいなあ、と素直に思っています。
クッキーとかせんべいを食べながら、なごやかに先生たちとお茶をしながら、息子のことをあーだこうだ、と面白がって話ができたら、楽しそうだなあ、と単純に思うので。
しかし、保護者が担任を責めたり、逆に担任が保護者を責めたり、保護者同士が責めあったりしていては子どもが不幸ですから、感情を害しないことを条件にするのはどうでしょう。
親が相手だと話すのが苦手だ、という教師もいるでしょうが、その先生の「親と話す技量」を責めてもしょうがないので、そこは保護者が主体で話ができるようにしてもよいし、その場を生き生きとしたものにするためのファシリテートができる、専門の「子育て支援ファシリテーター」を行政が派遣してはどうでしょう。
かといって、こういう動きを行政が一斉に上から下へ、というような目線で行っていき、何かが良くなった例はありません。ですので、ゲリラ的に推奨し、やれる人から始めて、やっていくのはどうでしょう。
教師が、地域の親たちと一緒に毎週土曜、公民館でぐるり輪になりお茶を飲む。(そのかわり、土曜日は出勤扱い)
教師の疲れをいやすのが目的の一つです。
もうひとつは、親の疲れをいやすのが目的です。
おたがいに、励まし合おう、という趣旨です。
月に一度でもいい。
これを拒否する先生は、たぶん心が相当疲れていらっしゃるか、モンスター的な親がいるのでしょう。
(でもね、一見非常識な親は、苦しんでいることが多い。話をさせてあげたらいい。そして、その方のねがっていることをしっかりと受け止めてあげる必要がありますよね。しかしま、教師が受け止めきれない事がほとんどですから、そこは先ほどのように、社会福祉士の資格をもつ方がコーディネートというか相談員となって・・・)
こうなると、今の小学校は2万2千校ほどありますから、2万2千×6学年=約13万人の社会福祉士が必要となりますね。新たな雇用も生まれ、このような志のある若い人がたくさん助かります。
こういう意見って、すでに世の中にも出ているものなんでしょうか??(不勉強故・・・、もうすでにこういうアイデアがあるんだろうか)