大手の出版社、小学館が出している雑誌。
「総合教育技術」に気になる記事を見つけた。
(2012年 06月号)だ。
特集記事の中に、「叱れない教師は叱れるようにならないといけない。それが今の教育界を是正するポイントだ」というような論旨が記されている。
これは、おそろしい誤解だ。
記事中に、こう書かれている。
(↓以下)
最近の子どもはほめて育てられ、家庭でも学校でも叱られる機会が少ないため、たまに叱られると素直に受け入れることができないようだ。反抗的な態度をとったり、逆ギレしたり、教師を恨むこともある。
・・・
この部分がいかにも稚拙で、ワタクシは目をうたがってしまいました。
記事の中には、いかにも多くの小学校の教師が同意見を述べているかのように、
「私の経験からいって、叱れない教師のクラスは崩壊する。しかし、叱られた経験が少ない若い教師が子どもを野放しにしている。このままでは崩壊するクラスが増える」(50代・男性教諭)
「叱られることに慣れていない子どもたちは「打たれ弱い」と感じる。そういう子どもたちが大人になったとき、この国がどうなるのか心配になる」(40代・男性教諭)
だの、いろいろ意見を書いているが、
ほんとなの??
いかにも世の中のみなさんが言っているンだぞ!、というような体裁にしてあるけど、実はそのライターさんが、ひとりで勝手に書いちゃっているだけじゃないの?
だって、
叱れないから、崩壊する。
じゃなくて、
しっかりと安心させ、勇気づけることができないから、崩壊する。
でしょう。
ライターさん、「崩壊」と「叱れない」をたくみに混ぜ込んで、この二語を、さも関係がありそうに仕立てあげようとしているけど、「崩壊」と「叱れない」は無関係ですぜ。
というよりも、叱責を繰り返しているから、崩壊するのだと思うけど・・・。逆です、ぎゃく・・・。
作家の室生犀星の掌編に、『幼年時代』というのがある。
ここには、子ども時代の犀星が、教師に強く叱責される場面が描写されている。
読んでいくと、本当にせつなくなってくる文章だ。
少年は、教師から叱られるたびに、よくなろうとするか。反省して、自分を矯め直そうとするか。
否。
先生の懲罰が強められれば強められるほど、少年の反抗心と、憎悪と復讐の気持ちは高まっていくのです。少年の心理、心のひだが、室生犀星の筆によって、生き生きと描かれています。
『私はよく怒鳴られた。
そんなとき、私は私自らの心がどれだけむごくゆれ悲しんだかということを知っていた。おさない私の心にあのむごい荒れようが、ひびの入ったかめのように深くきざまれていた。私はときどき、あの先生は私のように子どもの時代がなかったのか、あの先生のいまの心と私のおさな心がどうして合うものかとさえ思った』
『「おまえは居残るんだ。」
いきなり襟首をつかんで、行列から引きずり出された。まるで雀のようにだ。私はかっとした。腸がしぼられたように縮みあがった。真っ赤になった。ものの二分もたつと、私はよく馴らされた厚顔さに、その図々しい気持ちがすっかり自分の心を支配しだしたことを感じた。どうにでもなれ、という気持ちになった。私の目はいつものようにじっと動かなくなった。頭から足の先まで、一本の棒を刺しとおされたような、しっかりした心に立ちかえっていた。私は昨日のように、教室で立っていた。一枚、二枚、三枚・・・。と、人家の屋根瓦を読み始めた。何度も何度も読み始めた。気が落ち着くと、だんだん瓦の数が分からなくなった。眼がいっぱいな涙をためていた。私の怒りはまるで私の腹の底をぐらぐらさせた。』
・・・
叱っても、まるきり、子どもはよくなろうとしない、のですよ。
「アドラー心理学」の本には、
安心と勇気づけ
と書いているけど、叱って安心感を与えることができる、とは書いていなかったけどなァ・・・。
叱ったことで、表面がよく落ち着いて見えるのは、子どもが屈服して、いったん潜伏し、力をためなおして出直そう、と作戦を切り替えただけ。
教室をそんな状態にいくらしたって、あとでより凶暴化し、たくましくなったパワーを発揮されるだけですよ。
低学年でしかりつけた子が、中学年で息を吹き返す。
中学年でこわい先生にあたって、叱り続けられた子は、高学年の女性の先生に対して、
「よし、チャンスが到来したゾ!!」
と息を吹き返して、女教師に八つ当たりをくりかえすようになります。
さらに、中学年でも高学年でもチャンスがなければ、中学校に進学してから、
「ようし!!反抗すっゾ~!!」
と気合を入れてかかります。
つけあがるのは、やさしさと安心に包まれてこなかったさびしい子、意味のない叱責と安心感のない空間で愛に渇望したようになった子が、つけあがるのであって、
いつも安定、安心したしっとりとした空間ですごした子は、反抗する要がないから、つけあがらないわけ
です。
だいたい、大人が「甘やかして」みたら、とたんに態度を変えて、つけあがった、という子の、心根のさびしさ、不安、想像してみれば、理解できますよね。
その子はおそらく、叱責に次ぐ叱責で、育ってきたはずです。
だから、さびしくて、さびしくて、たまらないわけ。
その子をまた叱りつけて、どないしようっていうのか・・・。
「叱られることに慣れていない子どもたちは「打たれ弱い」と感じる。そういう子どもたちが大人になったとき、この国がどうなるのか心配になる」(40代・男性教諭)
あいたた・・・。
逆です。
叱られてこなかった、と本人も思うくらい、やさしく何度でも教えてもらい、ほめられ、勇気づけられ、はげまされてきた子は、つけあがらないし、素直に受け入れる心の余裕があり、自分を是正する勇気を持っているのです。
何度も何度も、やさしく教えてもらいたかったのに、冷たい注意や叱責ばかり受けてきた子が、さびしくて、さびしくて、大人のいうことが信じられなくて、せっかく教えてもらったこともまともに受け入れないのです。素直に聞かないし、叱ってもらってよかった、とも思わないのです。
叱られることに慣れてしまった子⇒末恐ろしい子
だと思うけどなあ・・・。(苦笑)
まあ、いいや。
この雑誌のこの特集、おそらく、このあと、かなり話題になると思うなあ。
さっそく、職員室で見せてきます~!!(報告、たのしみにしていてくださいナ)
◎本来父性原理で動いているはずの「学校」や「社会」に、いきなり子どもが染まるのは無理ですから、母性で育てていくうちに、少しずつ、こういうことをそろそろしてくださいね、そのうちにこういうこともできてくれなきゃこまりますよ、というぐあいに、父性をまぜこんでいく、というのが子育ての行き方だと思う。
この順序がぜったいに大事なのであって、最初が母性、そのあとに父性がこなきゃいけない。
生まれたての赤ん坊や幼児に、父性原理で社会から求められるハードル要求を、だしぬけに「はい、越えなさい」と示すだけでは、誰だって途方に暮れてしまいますよ。十分に試行錯誤したり、失敗しても大丈夫だからやってみよう、とあたたかく勇気づけをしてもらえた子から順に、安心して社会に出ていくための練習(父性によるハードル提示)に対し、自分から挑戦してみようと思えるようになるわけで。
まだ母性で包まれてもいない子に、いきなり、大声で教師が叱責するとどうなるか。
室生犀星の『幼年時代』のように、くやしさと行き場のない怒りで困惑し、混乱するのと、
「けっ。なにいうてけつかる。青筋立てて叱ってるつもりだけど、ちっとも迫力も無いね。うちのカーちゃんの方がよっぽどこわいも~ん」
と、おもしろおかしく心の中で思うん程度なんじゃないかな。
その隣にいる、感受性の豊かな女の子の中には、
「ああ、いやだなあ。○○先生はいつも△△くんに対して叱ってばかり。こんな大声で叱ったり怒鳴ったり・・・。なんだかおなかがいたくなってきた」
教室を漂う悪い空気とオーラに気分を悪くし、
「学校、行きたくない」
ってなってしまう子もいるのですよ。
そしたら、この小学館さんと執筆した方(ライターは誰だ?名前がないぞ)は、責任をとるんだろうか??
それでも、キツイ叱責に「慣れさせる」べき なんでしょーか?
てきとうなこと、書いてんじゃねーよ!!
と言ってやりたい。
2012年06月
わが勤務校に、唯一、初任者の青年教師、Fさんがいる。
Fさんは、初任者研修に勇んで参加している。
最近、何度か開催されている研修の様子を少し聞かせていただいた。
「まず、保護者でクレームをおっしゃる方に、冷たいお茶を出すことを習いました」
これで、まず目がテンに。
たかだか5年前でしかない、わたしの初任者研修時代よりも、もっともっと時代が新しくなってきてる。
ちょっと、新しくなり過ぎ、という感も。
「へー。別にいいけど、ちょっと斬新過ぎない?」
わたしと同年代の女性先生が、コピー室でプリントを印刷しながら、会話に加わってくる。
「御時世というか・・・。いまどき・・・だよねえ」
まず、初任者研修で、「クレーマー」となる「保護者」という想定そのものが語られたことが、ちょっと、ドキっとする事柄である。
あからさまに語られている点。さらに、その明るさでもって、スーッと研修してしまっている点。淡々としすぎなんじゃないの、という、なんだか落ち着かない違和感があるなあ・・・。
で、どんな内容だったかというと・・・。
「えー、なんでも、百貨店でのお客様対応の基本技術なんだそうですけど」
Fさんは、研修で習ってきたばかりの知識を、ちょっとばかり恥ずかしそうに語り始めた。
水色のシャツに、細く真白い襟が見える、おしゃれな好青年だ。
「夏でも冬でも、どちらもつめたいお茶を出すのが普通なんだそうです」
「へー、なんで?」
「あ、わかった。クールダウンさせるためでしょう?」
「そのようです」
たしかに、ホットな珈琲なんて出してしまって、相手の目と気分が冴えきってしまっては、話が落ち着くどころでないだろう。
百貨店のお客様対応技術としての鉄則だ、というフレコミに、この話、妙にうなずける気がする。
「それから、お母様一人の場合でも、できるだけ一対一にならないこと。相手の数より、一人分、多く同席するのがコツだそうです。ですから、わたしだったらT先生といっしょに・・・」
つまり、同学年の先生を一人だけでもいいから多く、おそらくは主任の先生がいいだろうが、同席させて、2対1で対応せよ、ということらしい。
「お父さんも来られて、相手が二人だったら?」
「その場合は、こちらに管理職を一人増やして、3対2にすると。数的優位が大事なんですって」
なるほどねえ。
ちなみに、ネクタイ正装で対応するのがよいらしい。
また、相手が「地位にこだわりを持つタイプ」である場合、こちらから管理職の教頭や校長が出ていくだけで、ごねる時間が減るらしい。
・・・というような、なんだか本当か嘘か分からないような話が、初任者研修であった、というのだ。
「なんでも、この話を以前、10年研修でやったら受けたので、昨年は5年研修でやったんですって。そしたらまた反響があって、今年は初任者研でも、ということになったらしいです」
いいけど、なんだか、こういう知識って、本来は必要のない知識だと思うんだけどナぁ。
保護者と教師は、タッグを組むべき仲間でしょう。
まあ、いいや。
しかし、初任者研修の資料の中に、
○教師受難の時代を強く生きる
○うつになる前にSOSを!
というプレゼンの印刷資料があるのを見て、なんだか力がぬけてきました。
でも、私は、ずいぶん保護者にめぐまれている。
どの保護者に対しても、「おもてなしの心」でもって接すれば、ぜったいにみんないい人ばかり、と思えると思う。
保護者のみなさま、そうですよね・・?
昨年度は、まるく円になり、順番に
「気になること」
を出させていた。
最初のころは、それなりの件数で順調に会議にかけられていたのだが、ともかくも僕の話を聞いてほしい、私の話を聞いてほしい、ということで、出されてくる件数が飛躍的に増えてしまった時期があった。
それでも、みんなの前で、
「気になること」
を言えた、というだけでスッキリするケースも多く、それはそれでやってよかった、と思えた。
それに、思わぬ効果もあった。
会議の中で、たとえ「気になること」の解決法を話し合わなくても、出し合うだけで、自然と解決していることも多かったからだ。
この方法のよさはある、と言える。
低学年のうちなら、だいじょうぶだろう。
しかし、中学年になって、少しずつ「友達の前で直接、クラスの課題をぶちまけること」のダイレクトすぎるやり方が気になる子も出てくる。
また、微妙な人間関係に起因する問題の場合、なんとしゃべったらいいのか、よく分からなくなってしまって、勇気を出して言いかけたものの、ただただ立ちすくむ、という子もいた。あるいは、説明したものの、なにかうまく言えず、まとまらないまま、という子もいる。
そこで、紙に書いて、ポストに入れる形式に変えた。
また、いつでも入れてよい、ということでなく、クラスの時間を使って、一人一枚かならず何かを書く、ということを不定的に行った。
そして、毎朝、かならず1件、課題をみんなで解決するのだ。
ちょっと難しそうで、アイデアを出さないと無理だ、ということであれば、すばやくグループ討議をする。
時間を朝の時間・5分以内でしたいのだ、と趣旨説明を早期にしておけば、子どもたちの中で、「先生、時間だよ」と教えてくれる子も出てくる。
うまく課題解決できなさそうであれば、次まで延期する。
こうして授業時間に食い込むことを防ぐ。
「ちょっと今日は時間なかったけど、明日までにちょっとみんなで考えておこう」
ということで済む場合も結構ある。
それで、明日になると、解決していることも。
(もちろん、いじめなどの緊急課題であれば、それはすべてを投げうっても対応する)
クラス会議のいいところはいろいろあるが、クラスお互いの顔や気分、考えていることが、すこしだけクリアに見えてくる、というところか。
それだけで、ずいぶん、人間関係がスムーズになる。
お互いの気持ちや考えていることの温度?のようなものが、つたわってくる。
そして、肝心なことは、
「みんな、幸せになりたがっている」
というような、本当にシンプルな基本事項が、暗黙のうちに共通理解できていくことだ。これは、やってみなければ感じられなかった。クラス全員がお互いに、運命共同体なのだ、ということの実感だった。
さて、実はクラス会議については、一昨年に取り組んだものの、自然消滅させてしまったことが忘れられない。
実質、私がクラス経営に会議をうまく位置づけられたのは昨年からだ。
昨年は、「お互いの心の内をたまには話し合って、課題があればそれを認識し合うだけでもいいから」と思ってやっていた。結果的には、そのくらいの軽いスタンスが継続のコツだったようにも思う。
一昨年は、なにしろ課題を抱えた子が多すぎて、クラスが冷え、疲弊しきっていたところからスタートしたものだから、ふつうにクラス会議をはじめても、まったく子どもたちの心に響いていかなかった。
「こんなことやったって、無駄だよ」
というような、子どもたちの冷めた視線を今でも思い出す。
ほめてもほめても、暖まらない、ぬくもらない・・・。
一昨年の方法には、ひとつ失敗があった。
それは、いつでもポストに手紙を入れられるように、常時受付を許してしまったことだ。
さらに、その方法を変えることを提案しても、すでにクラス会議に辟易してしまった多くの子どもたちの気持ちを変えることができなかった。
ポストに手紙を入れるパターンは、すぐに解決したい問題があっても、それが把握しにくい、というむずかしさがある。
また、すぐにポストが満杯になってしまう。
一昨年度やったときは、発達障害を抱えるこだわり傾向の強い女子が、特定の男子を個人的に集中して非難する内容の紙ばかりで満杯になり、
「○○くんがわたしに死ね!とか言ってきたので、なんとかしてほしいです」
というレベルが何十枚も。
同じ子が書いている紙もたくさん出てきて大変であった。
たとえばそれをクラス会議で、
「どう?」
と出しても、白けているだけであった。
「死ね、という暴言はクラスで許さない、というルールをつくるのはどうか」
と話が出ても、
「そんな、ルールなんてつくったって無理」
というあり様で、低温のクラスの空気を暖めるのに、えらいエネルギーを使わなければならない。
一か月ほどやってみてそんな調子であったため、私は
「うーん、こういう問題に関する、クラスの話し合いなどはこれまで一切もたれていなかったのかなあ」
という脱力感でちょっと挫折しそうになった。
ポストがあたかも戦争の象徴のようになり、クラスでも、ポストから出てくる文句があまりにもひどい。
「先生、あんなポストがあるから、雰囲気わるくなるんだよ」
という<ちょいかしこ>の女子の発言もあったくらいで・・・。
呪いの権化のようになってしまった反抗挑戦性障害のS子が、ポスト、という装置の働きに反応して、あれだけの文句を書き散らした紙を入れ続けた、というのが、今となっては彼女の心からの<救いを求める叫び>だったのではないか、とも思える。それを受容的に肯定的に受け取って、「わかってもらってよかった」という感覚をうんと植えつけてあげることができたら・・・。
ともかく、今年のクラス会議は紙ベースでどんどん裁いていく。
あと、書いた子の名前は紙には書かない。
だから、何を書いてもいい。誰が書いた文なのか、分からないから気が楽だ。おまけに、解決に当たってはすべて一般的な事象として、客観視しながら策を考える。これがいい。
春遠足に行ったことを作文に書いた。
「いちばん、心が動いたところから、書き始めましょう」
という定番の指示により、全員が書き始め、1時間かけて感想文が終了。
どうしても書けない子は、家に持ち帰って書く、と自分から言ったので、そうさせる。
「今日の夕方からはバレーボールの練習があるから」
と言う子もいる。翌日の休み時間に書くことにさせる。
さて、感想文を書かせると、まあまあ、うまい子もいる。
一方、心や気持ちのこもらない子もいる。
なかに、とびぬけた子がいた。
目の付けどころが面白い子も何人かいる。
職員室で読んでいるときに、ふと思いついた。
「これを、子どもたちに鑑賞させたいナ~」
図工の時間によくやる、ギャラリートークのような、あんな感じの授業を、国語の作文を使ってやりたい、と思ったのだ。
感想文を回し読みすることにした。
壁に掲示することも考えたが、それだと見ない子もいるだろう。
そこで、授業の中で扱って、全員が全員分を読む、という経験を強制的にさせよう、と考えた。
「学びから逃げない」
という体制を作らねばならない。
回し読みをさせる。
持ち時間が少ないので、1分。
「はい、回そう」
という私の掛け声で、全員が次の人へ、作文を回していく。
隣から回された作文に、さっと目を通して、そこに自分なりの書き込みをしていく。
「なにを書けばいいのか分からない」
という声が圧倒的であったので、まずは練習。
友だちの作文に、自分がコメントを入れる、という経験をまずはさせていこうと思った。
「いいね!」
というフェイスブックの単純でシンプルなコメントが流行しているのを思いだし、
「◎を書いて、いいね!と書き、自分の下の名前を書けばいいことにしよう」
それでも1分しかないと、作文を読むうちに時間が過ぎてしまう。
そこで、名前も省略化し、
谷口牧人(たにぐちまきと)
なら、
○の中に「谷」と書けばよいことにした。
谷という字のついた子はクラスに他に居ないから、これでよい。
すると、スピードがアップ。慣れてきたこともあるだろう。
7,8人書くと、シーンとした教室の中に、ただひたすら赤鉛筆で書く音だけが響く、というおもしろい光景が生まれた。
そこに!!
なんと、主幹の先生が見に来られたのだ!
うしろの扉が開いて、すーっと主幹先生が顔を出した瞬間、せすじが凍りつきそうになった。
や、や、やばい!!!
わたしは、ほとんど何も言わず、
「はい、1分。次。」
と30回繰り返すだけで、授業らしい行為はいっさい無く、子どもたちもひたすら鉛筆で書くだけ。
こんな授業を見に来ないでくださいよ!!
と泣きたくなった。
主幹先生は、案の定、子どもたちの作文をチラチラ見て、しばらくすると、つまらなさそうに帰って行かれました。