ウソにならない事を祈ります。
下記のデータを見つけました。
作成者は、文科省。
昨年末、12月末に予算関係の書類を作っています。
そこで、
実施する
との文言を発見!
うれしやな~
下記をご覧あれ~!!!
http://www.zenshihoren.or.jp/member/seigen/pdf/member_siryou_1201_9.pdf
ぜったいに、ぬかよろこびに、しないでね~
予算取ってるんだから、実施するよね。
願書配布、たのみますよ。早めに。
2012年04月
4月も終わると言うのに、まだ、発表がありません!
いやな予感がします。
平成21年度の報告に、「3~5年後には廃止を検討」とありました。
(小学校教員資格認定試験の見直しについて平成21年5月18日 初等中等教育局教職員課)
平成24年度の今年は、その3年後、に当たります。
開催が、危ぶまれています。
4月に発表が無い、ということ。
いくらなんでも、出願までの期間を、これ以上、短くすることはないと思う。
やな予感がつのる。
テレメールでも去年の情報しか掲載がない。
今年の情報、なんにも出てない!
いくら確認しても、去年のだけ!24年度の情報が無い!
去年のデータより。
受験願書等は,平成23年6月3日(金)から平成23年6月17日(金)までの間に受験を希望する試験実施大学の担当部署へ郵送により提出してください。(平成23年6月17日の消印のあるものまで受け付けます。)
ということは、ゴールデンウイークから願書を取り寄せ、書類をそろえ、応募するのに、1ヵ月と10日あまりで、すべての手続きを完了させた、ということだ。
これを、一か月よりも短いスパンでこなせ、ということは、おそらくないだろうと思う。
やっぱり、や~な、予感がする!!
いくらなんでも5月だ。試験会場となる大学の年間計画もすべて整っているはず。
その予定に合わせて、実施に向けた日程の調整がこれまでに済んでいるはず・・・。
今年は、ハラハラさせるけど、やってほしい。
そうだ!!!
キリのよい、5月1日、つまり明日から、受付するんだ!!!
そうでしょ、そうにきまってるよね!!・・・ね!
文科省、だれか知らないけど、初等教育課の官僚の方!
サラリーマンが一か月も教育実習するの、無理です!
おまけに会社辞めて浪人しながら家族養うの、このご時世ですから、困難です!
講師の口があるって思っているかもしれないけど、なかなか条件に合うのが無いんです!
だから、この試験って、けっこう重要なんです!
やめないで・・・!!!お、お、・・・お・・ねがいだから・・・(涙)。
この、魂の叫びが、天に届きますように!
そして、官僚の脳髄に、天からの声が、直撃しますように!
さて、体育の年間予定。
3年生は、リレーの練習。
*これから高学年になる。知っておくと役に立つ。
*お互いを責めない指導。励まし合う指導。
*バトンを渡すときの、お互いのタイミングの取り方は何度も練習する部分。「努力」「継続」の価値を知る。
4年生は、走り幅跳び。
*立ち幅跳びから始める。
*高学年では遅い。女子が真剣に取り組まなくなる。
*だから、4年の最初にやる。
*陸上選手(女子)のきれいなフォームをビデオで見せる。
*将来、メコン川を跳んでわたらないといけない日が来るかもヨ、と脅す(ワニ)。同時に、20代でアジアを旅しなさい、とアドバイスしておく。
5年生は、ハードル。
*身長がないと、むずかしいから。
*走り幅跳びでは力を抜きやすい高学年女子も、ハードルは倒したくないという心理がはたらき、わりとまともに取り組みやすい。
*テンポ、リズム、という要素を考えたり、身体をそれに順応させる、という高度なことが、5年だとやれる。
*準備や片づけのシステムを最初の時間に徹底させるため、道具の整理の仕方などを熟慮しておく。
*いきなりやらせないで、ショートステップで徐々に身体を慣らす。そのために、けんけんぱ、など、低学年でやっておくべき指導を念のためしておく。
6年生は、高跳び。
*これをするしないで、体育の印象が変わる。
*思ったよりも白熱する。
*高く跳びたい、という本能か?
*ただし、フォーム、ふみきり、というように細かく要素を分けて把握できるような指導がいる。説明をいくら繰り返しても分からないし、かといって、説明抜きではちっとも上達しない。最低限の要素をお互いに確認させる。
保護者と会った。
お昼ごはんを、ごちそうしてくれた。
勤務校の、ではない。
だから、ふつうに、知人とよぶべきなのかも。
ただ、話の内容が、
「親として、保護者として」
という話であったから、自然と私も、
「同じ年代として、同じ保護者目線」
という、目線で話をした。
その一方で、
「学校の教師として」
という観点でも、話をせざるをえない。
だって、私は毎日、学校で勤務しているのだからネ。
さて、そこで、
「いったい、なんでまた、○○○○で勤務していた人が急にガッコの先生なんかになろうと思われたのですか」
という、本当に何度も何度もくりかえし答えてきた質問を受けた。
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先日の「いじめ」レポート(上記)の反響があり、メールをいくつかいただきました。
いちばん多かったのは、
「あなたの考える、いじめ根絶のポイントは何か」
でありましたので、ほとんど当たり前の、みなさんご存知、という意見になりますが、一応記しておきます。
○すべて公(おおやけ)にすること
学校全体の保護者が、「ああ、○年○組でいじめがあったんだ。首謀者は○○くんで、いじめられたのは○○くんだ」とわかることが必要と思います。
情報は、公開した方がいいと思います。
公開すべき時期はありますし、被害を受けた子どもがそのことに対して、いい、と言わないとダメです。そういう、子ども自身が下す許可が要る、という条件はありますが、基本線として、いじめに関する情報をできるだけ公開していくことはよいことだと思います。
なぜかというと、いじめというのは、社会全体の問題であり、隠されるべきものではない、ということを、天下に示すことになるからです。とくに子どもたちにとって、いじめを隠し通すことは不可能であり、公開されるもの、というように大人が示してやる必要があります。
また、公開されると、いじめをした加害者側の子の心理はどうか、という意見をいう方もいますが、そのペナルティは受けなくてはいけない、ということを教える最大のチャンスであり、そこを逃すと、実は一番損をするのは、加害者となった子です。(ペナルティを受けない、ということが、逆に加害者を長期にわたって苦しめることになる)
加害者であった子が、みそぎをするチャンスを奪ったことになり、将来にわたって、世間に対して暗い影をしょっていかなくてはならなくなります。加害者の子も、救ってあげなくてはいけない、という視点を忘れてはならないと思います。
さらに言えば、被害者以外の全員が加害者です。見ていただけ、も加害者です。その場にいて、解決できなかった全員が。
また、とんちんかんにも、「被害者の子の心理をおもんばかって、公開しない」と言った校長がいましたが、あきれるにもほどがあ・・・。
いじめは、被害を受けた子にはなんの理由もありません。たまたま、ターゲットに選ばれただけ、です。その「いじめの構造」を説明して、周知しておくのは当然で、さらに、被害を受けた子のことも周知しなければ、いじめがあったこと自体が、あやふやなものになります。
だれがいじめを受けたのかは伏せますが、と言ったのでは、まったく被害者が浮かばれない。被害を受けた子以外の全員が、狂っていたのであり、おかしかったのです。被害を受けた子だけが、狂っていなかったのです。そのことを明らかにし、みんなが狂っていた、ということを天下に示し、被害者以外の全員が恥をかく、ということをしないとダメだと思います。きちっと恥をかかなくては・・・。
いじめを見過ごした、あるいは助長した、あるいは主犯となって加害した人間は、声なき良心の痛み、良心の呵責、ずっと存在し続けるストレスを隠しながら生きて行かないといけない。かわいそうです。
世間体なんて、実はそんなに関係ないのです。
いちばんおそろしいのは、「自分はひどいことをした」という、無意識に隠そうとした心です。
そんな魔物と、ずっとずっと、人生をいっしょにすごして行かないといけないのですからね。寿命が縮まります。
しっかり、世間に公開して、きっちり恥をかいて、自分の態度を責めて、生まれ変わる努力をする。
そのチャンスを、「まあまあ・・・」なんて、「なし」にしよう、と言う人がいたら、それが本当の悪人ですな。
すべて、公開すべきです。(なかなかすべて、ということができない。それがまたむずかしいところですが)
さて、いじめの話を聞く機会があった。
保護者です。
ご自分が、中学生のころ、悲惨ないじめがあった、というのです。
よく話してくれたと思うのですが、親として自分の息子を育てる立場になり、気心知れた、私には話をしたい、と常々思っていたとのこと。
どうしてああいうことが起きてしまったのか、子育てをするようになって、どうしても時折、あの頃のことが強い悔恨の念とともに、思い出すときがあって、忘れられない、ということでした。(お母様は実際の加害者側ではなかったが、傍観してしまった、ということでした)
「先生のクラスなら、けっしていじめはないだろうと安心しています」
とおっしゃっていただいたのだが、
「いや、いじめというのは、あるのが普通なんです。ない、という人は、見えていないだけですね。あるものを、なんとか食い止めていけるかどうか、ぎりぎりで持ちこたえている、というのが、日本の小学校のほとんどすべての実態だと思います」
と、私は言った。
どんなプロ教師の教室にも、いじめの芽はひそんでいる。
甘い教師は、その芽が見えないので、
「わたしのクラスには、ぜんぜんありませんヨ!」
なーんて、かんたんに言い放ってしまいます。
そう言っている、ということが、
「わたしは脇の甘い、素人教師でーす」
と言っているのと、ほぼ同義なんだと自戒しています。
さて、凄惨ないじめの報告を、保護者の許可を得て、掲載します。
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まず、いじめは、ある日の夕方、唐突に始まる。
いったん、帰宅したはずの子どもたち。
女子数名が、教室にふたたび、集合している。
(巧妙に、時差をつけてなんとなく集まる)
さて、行動開始だ。
全員のロッカーに、画鋲が置かれる。
全員、というのがポイントだ。
もちろん、自分たちのロッカーにも、画鋲は他の子と同じように、置かれる。
一日目は、それだけ。
仕事が済むと、速攻で帰る。
次の日の朝、おおげさに驚いてみんなで騒ぐ。
もちろん、犯人たちも必要以上に騒ぐ。
「先生!わたしのところにも置かれていた!ひどい!○○ちゃんなんて、鞄取ろうとして、指けがしたんだよ!!許せない!!」
こう叫ぶのは、昨日の夕方、みんなのロッカーに丁寧に画鋲を置いていた主犯のA子である。
先生は、A子がまさか犯人だとは到底考えず、いたずらざかりの男子の仕業だとほとんど確信してくれる。
まず、これで教師をだますことに成功。
教師が、熱を帯びた口調で、正義感に燃えて、男子をにらみつけて、叱ってくれる。
その姿を、
「ギャハハハ!ひっかかった!!」
と心の中では嗤(わら)いながら、実際には目に涙をうかべて泣くのだそうだ。
「こんな目にあって、うちら、むちゃくちゃつらい!!」
あとで、仲間うちで、
「あんときのB子の演技、サイコー!!」
B子が得意げに周囲をみまわし、センコーなんてチョろいもんよ、と。
仲間から賞賛されたB子の演技力にも、磨きがかかるというものだ。
おまけに、叱られた男子に不満が生じる。
「おれたち、なんもやってねえのに、センコーが叱りやがった」
首謀者たちは、その男子の言い分も聞いてやる。
「わたしたちも男子のしわざと思ってないからね」
と恩を売るのも、忘れない。
「ちょっと、あの先生、おかしいんじゃない」
そういう空気をつくっていく。
次の日、また、画鋲が置かれている。
ただし、自分たち+4、5人は置かない。
これで、クラスの3分の2がターゲットに絞られたわけ。
朝になって、
「いやー、わたしのは置かれてなかったけど、○○ちゃんとか△△ちゃんたちは置かれてたんだよねー、かわいそー。先生ー、○○ちゃんたちがかわいそう!はやく、解決してあげて!!」
こう言ったのは、前日に、ロッカーにすばやく画鋲を点在させた、B子である。もちろん、計画はすべて仲間内では練ってあり、同日の作業後には、B子からA子たちへの「作業終了」報告もある。
用意周到なのは、B子だけが行った、という点だ。
A子は部活に出ていたアリバイがある。
C子にも、アリバイがある。D子にも、E子にも。
主犯格のほとんどの児童に、アリバイがある。
教師もひょっとして、とうたがう場合があるが、これでほとんど、裏がとれなくなる。
B子は、教室に忘れ物を取りに行った、というだけだ。
昨日、教室で「ひどい」と泣いていた、あのB子を疑う者はだれもいない。
男子も、
「こええー。いったい誰だよ!!ふざけんなよ、お前か!!」
一気に男子、仲間割れモード。
職員室でも会議があるが、やはり男子が疑われているままだ。
A子たち主犯グループ以外にも、4,5人が助かっている、というのもみそだ。いったいなぜ、画鋲が置かれないようになったのか、というのも意図がよく分からない。担任も他のクラスメートも、狐につままれたようになって、不安になりつつ、次の日を迎える。
さて、翌々日は、男子全員が、画鋲なしグループに入る。
さらに、女子の4,5名も助かっている。
その子たちには、実は、情報がもたらされている。
「あんたたちは言うこと聞きそうだから、ゆるしてあげた」
というような意が、A子たちから、ひっそりと伝わる。
「このことバラしたら、ぜったい殺されるぐらい、いじめられる」
というような、脅迫もある。
さて、画鋲グループからはずされた男子どもは、よかった、と安堵していて、残りの女子の、4,5名がターゲットになっている状態だ。
残りの女子にも、なんとなく、伝わっていることがある。
「わたしたちの言うこと聞かないと、最後のターゲットにするよ」
というようなことだ。
全員、服従を誓うが、それでも、最後の日。
たった一人の女子のロッカーに、キラリと光る画鋲が、置かれているのだ。
「なんでわたしなの。ちゃんと言うこと聞くっていったじゃ・・・」
「てめえ、うちらの言うこと聞くとか言っときながら、眼がウソついてんだよ!!」
というようなことを威圧的に言い放ち、お試しの<飼育>が行われる。
「ぞうきんで、○○やれ」
とか、
「○○買ってこい」
は、まだかわいいレベルで、
「○○に向かって、△△って言ってこい」
だの、いろいろとやらされる。
それに非服従だと、徹底的にいじめるぞ、と常に愕かされている。
他の女子は、徐々に追い詰められていく最後のターゲットの悲惨な光景をみながら、
「ああ、わたしでなくてよかった」
と心から安堵する。
クラスの大半が、けっして口を割らない、真実を言えない、おそろしいいじめが、スタートする。
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保護者は、この話をしながら、眼に涙を浮かべていて、
「うちは家庭訪問の最後の日程、最後の時間にしてくださいね」
とわざわざおっしゃった意味がよく分かったのでありました。
わたしは、決められた他の家の家庭訪問を終えて、くたびれて、ようやっとたどりついたご家庭でありましたが、そこでこんな、目の覚めるような話を教えていただいた、というわけ・・・。
自閉症スペクトラムを自覚している小学生がいる。
その中に、自分の「発達障害」について、分析した子がいる。
なにが困るのか、学校で行われていることの、何に対して苦手意識が強いのか、自分で自分のことを解説している、本を読んだ。
◇陸上練習のとき、口で「こうやって」と言葉だけで指示されて、
分からなくてできなかった。
◇国語で「どんな様子ですか」「どう思いますか」と質問されると、
意味が分からず、イライラしてくる。
◇やってはいけない事を、たとえ話でされると、さっぱり分からない。
◇顔の表情や身ぶりで何かを伝えようとされると、さっぱり分からない。
◇必要な言葉で、はっきりと伝えてほしい。
◇手のコントロールができないからバランスよく字が書けません。
「きれいに」「ていねいに」と言われるけど、何がきれいなのか、
何がていねいなのか分かりません。
そこに、気になる言葉が。
「ぼくのことを、うるさい、うざい、と言う人がいます。そういう子をよく観察していると、ああ、ぼくと同じ、発達障害を抱えているな、と思います」
・・・というような意味の箇所がある。
つまり、発達障害の子を受け入れることのできない子は、同じように発達障害を抱えている子の可能性が高い、というのだ。
このことは、わたしの経験からもピタリと符合するので、おそらくかなり正しいのでは、と思っている。
イラツく子に対して、イラツく子がいるのだ。
ほっておけず、どうしても反応して、「自分はあいつを許容できない」という意味の言動を繰り返す。
それも、しつこく。こだわっていく。
いかがでしょうか。雰囲気が、似ているのです。
だとすると、情緒障害級が、同室で、複数人で、構成されていることって、ムリがありませんか。
なんで、文科省の人、こういうことをだれも言わないのでしょう???
片岡敏郎さんの歯磨スモカの「スモカ広告全集」を読むと、半日がたちまち過ぎる。
3歳の息子の相手をしながら、ペラペラめくっているだけで、至福のひとときであります。
なにしろ、絵と文が、ばっちり呼応している。
また、ぜんぶ、歯磨きによる歯の白さにむすびつける、粘着質なところがイイ。
重たくない。軽い。
でも、シツコイ。
これが、広告の真髄か。
理屈でない。
でも筋を通している。
これが、広告のお手本か。
コオロギの絵とともに、
「つづれさせ、りうりうりうりう
歯をみがけ、しやしやしやしや」
(つづれさせ、は蟋蟀の鳴き声だそうです)
カエルの絵があって、
「ガッコ ガ
ゲッコ ゲ
歯を みがこ!
ガッコ ガ
ゲッコ ゲ
脂(やに)を取ろ!」
ともかくもこの感覚、このテンションで、しつこいくらいにほめていきます。友達思いの言動を。
子どもの言動、何を見ても、
「大事なのは、ひとと共にで、ござんすな」
と、軽く、しつこいくらいに、繰り返し、刷り込みますと、
スモカ歯磨きが大正から昭和にかけて人気商品になったように、
子どもたちの気持ちに変化が生まれるのではないか、と。
消しゴムが落ちたのを拾ってあげた子なんて、
ヒーローのように賛美しちゃう。
「あ、落ちたよ」と知らせてくれた子にも、
「そうやって教えてくれるから、すぐに拾えるよね。○○さんみたいな子がたくさんいたら、この教室はうんと居心地がよくなるね」
と、ホメホメしちゃう。
机からポロッと落ちた消しゴムを見て、
「あ」
と言っただけの子にも、
「今、○○くんが、あ、って言ったので、気付けたよ。ありがとう!」と言ってよろこんじゃう。
さらり、とした今の子風のお付き合いが目立つ。
群れて、ひとかたまりになって、遊ぶことの苦手な子たち。
ひととの関わりが、めんどうくさい、苦手、重荷となってしまう前に。
「ひとと共に」の楽しさ、よさを。
休み時間、
「ひまだぁ」
と言って、ぼんやりしている子がいる。
「Sケン、みんなといっしょに行ったら」
「つかれる」
「図書室は」
「人がいっぱいいるから、やだ」
「かかしは」(愛知のローカルな、かかしという遊び)
「めんどう」
でも、一人で粘土するのも、つまんない、というのです。
「先生、休み時間って、なにしたらいいの?」
「人間関係をつくるために、人と関わりなさい」
(と言いたいですが、言ったことはありません)
「そうねえ。。。どこ行ってもいいし、なにしててもいいんだけどね」
相手の気持ちを感じ取るアンテナを育てておくこと。
ひとを受け入れる、という経験をしておくこと。
それも、低学年のうちから・・・。
さあ、いよいよ、教員採用試験の受験シーズンが始まりました!
愛知県の情報に限定して、掲載してまいります!
まずは、受験案内の配布について。
これは、今月下旬です。
ここから第一歩を踏み出しましょう!
受験案内の配布 平成24年4月末
※配布日は教職員課ホームページに掲載予定
願書受付期間 平成24年5月9日(水)~平成24年5月22日(火) ※当日消印有効
第1次試験 平成24年7月21日(土)
第2次試験(1日目) 平成24年8月20日(月)
第2次試験(2日目) 平成24年8月21日(火)
昨年、わが勤務校にボランティアでお手伝いに来られていた若い方が、昨日も学校へ遊びに来られて、
「受験しますんで、応援お願いします!」
と話していた。
まあ、知っている教員の息子さんで、ボランティア時代にも職員室でいっぱいしゃべった仲なので、みんなでお茶飲みながら、職員室の先生たちも
「がんばってねえ」
という雰囲気でした。本当に、合格してほしいです。
ちなみに、 愛知が求める教師像
1 豊かな専門的知識と技能を備えた人
2 児童・生徒に愛情を持ち、教育に情熱と使命感を持つ人
3 広い教養を持ち、円満で調和のとれた人
4 実行力に富み、粘り強さがある人
5 明るく、心身ともに健康な人
6 穏健、中正な良識のある人
これについて、いろいろとふだんから考えておくことをお勧めします。
1 の豊かな専門知識というのは、発達障害についての知識を99%問われると思っていてよいでしょう。
2は、いわずもがな。
4,5,6については、面接の応答に、それらしさをにじみださせましょう。小論文に、
「わたしは、以前の職場の先輩に、○○さんは粘り強さが持ち味だ、と言われたことがある。わたしはこの言葉をいつも胸に・・・」
なーんて、書くのもよいでしょう。
※算数の授業内容が増えたことについても今年は問われてくるのでは。
教科書の進度が気になって、年間のおおまかな進度を確認してみた。
すると驚いたことに、なかなかに厳しい状況でないか。
とくに、9月、10月、11月の行事だらけの時期。
算数、まともにやってられるのか??
10月ごろ、あまりのある割り算だって。
この「あまりのある割り算」が、なかなかに曲者です。
あまり、という概念がすっかり分からなくなる子がいるんですな。
ちょっと、ていねいに進める必要が出てきそう。
ここらあたりで、進度が一気に遅れてしまう気がしてならない。
そのために、スピードをMAXにして、かかっていかねばならない。
1学期のうちに、啓林館の3年生だったら、「時間と長さ」を終わっているようにしたい。
たとえば、こんなふうにするか・・・。
考え中。
(この時数計画の中に、ワークテストを盛り込めたら一番いい)
=========================================
小学3年生 算数 啓林館 進度計画
=========================================
4月(14)
1.九九の表とかけ算 3
2.わり算 11
5月(17)
どんな計算になるのかな1
3.円と球 5
ふく習 0.5
みんなで話しあいましょう 0.5
かくれた数はいくつ(1)2
じゅんび運動1
4.たし算とひき算の筆算7
6月(20)
4.たし算とひき算の筆算5
買えますか?買えませんか?0.5
ふく習,じゅんび運動0.5
5.一億までの数10
6.たし算とひき算4
7月(12)
算数の自由研究1
ふく習,じゅんび運動1
7.時間と長さ9
じゅんび運動1
8月(5)
8.あまりのあるわり算5
9月(15) ←●運動会で厳しい。少なめに見積もる●
8.あまりのあるわり算3
何倍でしょう2
9.計算のじゅんじょ1
よみとる算数(1)1
間の数1
算数のまど1
10.三角形6
10月(16) ←●音楽会で厳しい。少なめに見積もる●
10.三角形2
11.1けたをかけるかけ算の筆算14
11月(18)
ふく習1
12.重さ10
13.分数7
12月(15)
13.分数5
べつべつに,いっしょに3
14.計算のきまり1
ふく習,じゅんび運動1
15.表とグラフ5
1月(14)
15.表とグラフ3
16.小数8
ふく習,じゅんび運動1
17.2けたをかけるかけ算の筆算2
2月(19)←●インフルエンザにでもなったら大変!●
17.2けたをかけるかけ算の筆算6
よみとる算数(2)2
かくれた数はいくつ(2)2
18.□を使った式3
19.そろばん4
もうすぐ4年生2
3月(10) ←●ふくしゅうにあけくれる●
算数のまど-
ふくしゅう10
これだと合計175時間。
実際はもっとたくさん授業時間がとれるので、さらに余裕がもてる。
この進度ですすめられるようにするには、余計なことを抜きにして、シンプルな発問をくりかえしながら、混乱するような説明をできるだけしないでやれるようにしないと・・・。
「算数は、習うより慣れろ」です。
今年の認定試験情報はどうなっているか、気になります。
なんといっても、数年前より、
「そのうち廃止します」
という宣言が、文科省から出されているからです。
いつ、廃止になるのだろう、とやきもきしている方も多いと思います。
この試験が廃止になった途端、なにが起きるか。
こたえは、
「サラリーマンから教員への転職率が、グッと下がる」だ。
1か月もの間、会社を休んで、教育実習にエネルギーを注げる人は少ない。
おそらく、会社を辞めることになる。
教育実習以後、会社に勤務しないで、収入を減らしたら、家族を養っていくこともなかなか大変だろう。
中には、会社を辞めたらアルバイトして凌ごう、という意欲に満ちた方もいるでしょうが、幼子を抱えた家族に苦労させることは目に見えていますし、なんといってもすぐには教員になれる保障がなく、講師の口がちょうどよい按配で見つかる保障もありません。
つまり、そこからしばらくの間、収入の減る期間ができてしまうのです。おまけに、その期間がいつ終了するのか、めどがたちません。
一番良いのは、今の会社勤務、という生活実態を変えることなく、働き続けながら、免許を取得できる、ということなのです。
それには、教育実習を免除してもらう方法しか、他に方法がありません。
そのためのほとんど唯一の方法が、「小学校教員資格認定試験」なのです。
昨年の試験案内は、次の日付でWEB公開されていました。
平成23年4月28日掲載(文科省WEBにて)
この日まで、あと2週間。
その2週間後に、
今年度、認定試験が行われるのか、否か
が、判明するでしょう。
ドキドキです。
文科省の、賢明なる判断が求められています。
文科省の方!!
ぜひ、サラリーマンに、希望の手段を残してください!!
春風亭一之輔に、熱い視線が集まっている。
なにしろ、あの眼光鋭い、小三冶さんが
「あの人はなかなか」
とおっしゃったそうですよ。
こりゃー、なかなかの逸材と見ました。
なによりも、客をのんでかかっているのがイイって。
客をのんでかかる、というのがどういうことなのか、まだ分かりませんが、ひたすら
「どうなってもいい」
という感じの雰囲気がするんだとしたら、・・・たいへん、いいですねえ。
受けるかどうか、ということについて、冷静な人ほど、「どうなってもいい」という雰囲気がするのです。小三冶師匠もそうですね。枕から笑えるのは、この人、今日の噺なんざ、どうでもいい!と思っているんじゃないか、という、軽味(かろみ)が、おかしみに通じるからだろうと思います。
受けるかどうか、びくびくしているような弱気が見えると、なんだか気の毒になって、笑えませんからね。
一度、人生、「どうなってもいい!」という境地を知ることが大きいですな。
さて、一之輔さん。
びくびくしていません。
弱気が見えないのです。
この強気は、どこからくるんだ、と。
明日から落語家辞めてもいい、というくらいに思っているんじゃないか、と。
(それは立川談志師か)
受けるかどうか、客を試しているようなところがあり、
「ふふん、この程度で、これだけ笑うのか、ほお」
というような計算をしている風がある。(ここらは春風亭小朝師に似る)
また、受けないで当然、というような風がある。
「こちとら、笑ってもらおうなんて、思ってませんから」という感じ。
笑わせる、という風でなく、演じる、という具合。
演じて、演じて、演じて、笑わせる、という具合。
「受けないのは、演じていないから。」
これは、だれの言葉だったか・・・。
いつも思い出すのですが、キラ星のごとく光り居並んだ、あの昭和の名人たちのうちの、誰だったかのセリフでございます。興津要氏だったか、安藤鶴夫(アンツル)氏だったか、どなたかの本で読んだのだったかなあ・・・。
教員も、演じてナンボ、でしょうかねえ。
寺尾 聰さんの父親、俳優・宇野重吉さんの言葉に、
「思えば出る」
というのがある。
つまり、思いと芸(行い)が一致している状態、それが実ということ・・・だと。
言いたいことがあれば。
他の人より何倍も何十倍も思わなくては駄目。
人が10思うとしたら、100思えばいい。
そうして思いを深くしていけば、自然と伝わるものなのだ、と。
ああしよう、こうしようと小手先のことなどに執らわれるな。形にとらわれると、伝わらない。
・・・ということらしい。
その、「思い」とは何か。
以前は、「思いを放す」みたいなことばかり考えていて、
ともすれば「思っちゃダメ」のようにもなりかけて、我執を放すというのは難しいなあ、などと嘆息していたものだが、徒労であった。
思うのは自由。
もともと、自由なもの。
なんと、開放された気分だったろう。
相手が何を思うのも、自由。
わたしも、自由。
で、いったい、「何を思うのか」が・・・。
やはり教員、演じてなんぼ、ですかねぇ。
あれだけ純粋な眼で、見つめる目のある空間(教室)で、「なにか」を伝えなくてはいけないのですからナ。
「俳優とは本質を行動であらわす芸術である」(ステラ・アドラー)
春になったのがうれしいので、ともかく学級の子どもたちを引き連れて、外へ出ている。
「2時間目と3時間目、さんぽ」
というと、子どもたちは
「やったー」
そして、言わなくてもいいのに、廊下にすれちがった先生に向かって
「さんぽ行く!」
と報告している。
続きを読む
学級通信はわりと得意だ、と思っていた。
となりの年配の学年主任が、
「いやあ、わたし、まったく発行しとらんわ」
と自嘲気味に話をしているのを聞きながら、まあ30分ほどもあれば、WORDで体裁を整えて、作っていた。
文章を考えるのがチトめんどくさいが、それでもまあ、30分。
早い方だ、と考えていた。
ところが、この春からやってみているやり方だと、なんと1枚、10分で可能だ。この1週間、クソ忙しい雑事と事務処理の間に、もうすでに4号も出した。
(なかにはベテランの方がいて、新学期はじまって7日のうち、6日間出しつづけて、すでに6号、という方もいる。スゴイ)
いやあ、自分でも4枚も出せるなんて思っていなかったので、なんとも不思議。自分で自分をほめてやりたい。
やり方は、A4の紙、3分の1が写真、というひきょうなもの。
タイトルが上部にデン、と掲げてある。だから、タイトルと写真ですでに用紙の半分はこれで占められる。
次に、写真の補足の文。
なんの写真か、ちょこっと書く。
あとは、コーナーでちょっとした教室の様子をひとこと載せて、おしまい!
実は、このやり方は、5年も前に、同じ初任研の仲間から教えてもらっていたのだ。
「写真バーンと載せると、はやいっすよ」
と教えてくれたその若い初任者は、年間で200号を出し、初任研の担当の指導教官からも、一目置かれていた。
ともかく写真は評判がよく、保護者も「子どもの姿が良く分かる、よろしい」ということで、「ご家庭への説明責任を果たしておる」と校長からも誉められた、とニマニマしていた。
その話を聞いて、当時もマネしてみようと思ったが、できなかったのにはワケがある。
あまりにも日常が忙しすぎて、写真を撮る暇がない。
「あいつ、いつ撮影してるんだろ。授業サボって、力ぬいているんじゃないの」
今考えると、まことに不遜なことを思っていたものだ。
ところが!!
今年、ちょっと悟りを開いたものだから(北杜夫風に)、だしぬけに手を抜くことを覚え、今は完全に子どもまかせの優雅な毎日。
すると、見える見える、子どもの姿が見えるのなんの。一瞬の表情の変化が手に取るように見える。
じっと観察ができる。人間関係もよりDEEPに観察できる感じがする。余裕があるからか。
そのまま、カメラもってブラブラ歩きながら、パシャっと。
その写真を、
「みんなで話し合っているところです。中央のFさんは、○色がいいと意見を言ったのですが、折り合いがつかず、男子チームと女子チームの意見がまっぷたつに割れております」
といったような実況をつけて載せる。
昨年までの私なら、こんな余裕などなかろう。意見がまっぷたつに割れた瞬間に子どもの輪に割って入り、
「ちゃんと話しあいなさい!○さんの気持ちは?はい、つぎは男子の言い分を!」
などと、余計な介入をしていただろう。
なにせ、電光のごとく、イナヅマのごとく、この春に重大なる悟りを開いてしまったものだから、この余裕。
いったいなんの悟りかというと、
「勉強より、人間関係の方が大事」
という覚悟でしょうか。
覚悟をすると、時間をかけてじっくりとやろう、という気になる。人間関係の構築ストーリーを計画できる。
あと、勉強を効率よく教えられるようになった、という余裕が基盤。
これまでは教科書進度が10時間、となっていたら、10時間やっておりました。正直でしたね。
ところが今は、10時間のところを5時間でやる。
その浮いた分の5時間を、クラスの安定した健康な「人間関係構築」に費やす、というワケ。
さて、愛知県人として、桜を見に行かねばなるまい。
この3週間ほど、じっくりと身体を休ませる暇もなかった。
そこで、家族会議。
どこへ、桜を見に行くか。
ところが、愛知県内のどこももう桜が散り始めているようだ。
はやく行かねば!!
職場の同僚が、
「見事な満開でしたよ~」
と鶴舞公園の桜を絶賛していたが、鶴舞公園は駐車するスぺースが少なく、チビをつれていく気がしない。
さて、そこそこ遠出でもよいので、のんびりマイカーで行って、なんとなしに桜を見つつ、家族で散歩ができたらいい、と考えて出した結論が、
「岡崎公園!!!」
えー、あんまり、岡崎まで遠出することないなあ、と妻。
わたしは数年前にも、一度、行っている。
なんの用事だったか、友人とおちあう計画があり、岡崎公園を見に行った。
あそこなら、ぷーらぷら、と散歩ができそうだ。
家康のファンでもないが、おもしろい。
加藤剛さんの家康は良かったなあ。
もう何十年も前の、大河ドラマ。
「鬼の作左」が、すごい個性的で、最高だった。
長門裕之さん、よかったなあ。あの演技。