30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2012年03月

職員室の さみしいお別れ


お世話になった先生方が、最後の出勤日を終えられて、あいさつをされ、帰って行かれる。

つい最近まで、つい先ほどまで、
いっしょに話し、笑い、分からない事を聞いたり、しゃべったりしていたのに。


もう、これで会えなくなることが信じられない気持ちになる。

「新しい学校でも、どうぞお元気で」

手荷物を持ち、靴をはかれるのを見ると、本当にこれでお別れ、という感じ。


いっしょに見送りに出た年配の先生が、

「もう1年、いっしょにやりたかったねえ」

「本当にね」

ああ、同じように思うのは、自分だけではなかったのだ。

「荷物が多かったら、いっしょに運べたのに」

せめて、駐車場まで、駐車場の車までもいっしょについていきたい気になる。

「いやあ、さっき運んじゃったからね」

「ここでいいよ。みなさん、ありがとう。さようなら」


さみしい気持ちもあるけど、すぐ数日後には、新しい勤務場所での、緊張した毎日が始まる。
それが分かるから、泣いて感傷にひたる場合ではない、と思っている。
お互いに。

それでも、車が見えなくなると、

「ああ、あの先生と、もっとこんな話をしておけばよかった」


そう思うものですねえ。

だって、じっくりと話し合う機会が、ほとんどなかったのだ。
ないのだ。
職場の飲み会だって、しゃべることがたくさんありすぎて、本当には時間が足りないのだ。

今更。

そういうことに気づきます。

すると、日々の一回の、一度の会話が、実に大事なことだったのだなあ、と思う。

心おきなく、悔いのないように、会話してきたかなあ。

日々に忙殺される。
そんな心境のままで、尊敬する人と、本当には話をしないままで、すごしてきてしまったのだとしたら、なんともったいないことよ。
今になって、その方の本当の価値が、大きく、大きく見えてくることの不思議。



勤務校を去られる先生たち、
(あんな人になりたいなあ)
と思える人ばかりでしたねえ。



別れがあるから、出会いがある。

数日後。
すてきな方との出会いが、待っている。
そして、楽しい子どもたちとの出会いも、待っている。

春は、いい季節だなあ。




先生にほめられたことで一番うれしかった言葉 保護者


春休みです。
といっても、まだ卒業したばかりだから、のんきに忘れ物を取りに来たり、遊びに来たりする子もいて、なんだか華やいでいます。

元・わたしの学級の子が、忘れ物を取りに来て、教室をがさごそやっていました。
その間に、ついてきたお母さんと、ちょっとだけ話をしていました。

「先生にほめられたので、何度も家で言ってた言葉があるんですよ」


それはなにかというと、

「○○ちゃんスマイル」

だそうです。

マラソン選手のQちゃんスマイル、というのがあるから、ただ単にあれをマネしただけなのですが、

その「○○ちゃんスマイル」という言い方が、その子には新鮮だったようです。
(そうか、シドニー五輪から、もう10年以上もたってるから、高橋尚子選手のこと知らないんだ・・・)


なにかにつけて、

「お、○○ちゃんスマイル出たね。いいなあ教室が明るくなるよ」

とか、
写真をうつすたびに、

「あ、○○ちゃんスマイル!」

と言ってたものだから、すっかりクラスに定着したのだった。


笑顔のいい子なんだけど、自信のない子。
でも勉強はできて、プライドは高い子。
いろんなことが心配でならない、心配症の子。

なんとなしに、線が細くて、かよわいイメージの子でした。
ちょっと失敗すると、サーっと額に縦線が入って、ブルーになりそうな、ちょっと気の抜けない子でした。


なので、学校できみは笑顔でいるよ、すてきだよ、という意味合いを込めて、すりこんでいきたいと思ったのが最初だったか。


そう呼ばれるのが嫌そうなら、呼ばれていやだったらすぐ止めよう、と思っていたが気に入っていた様子。そのまま続けていたら、結局1年間、いろんなところで

「○○ちゃんスマイル!」

の呼称が活躍して、本人は実はそれが一番うれしかった、ということでした。


来年は、これに加えて、

「お、○○くんボイス!」(声のいい子に)
「あ!○○ちゃんウォーク!」(きちんと廊下歩行する子に)
「すごい!○○くんマジック!」(算数の解けた子に)

というのをはやらせてみようかなあ。




3月21日卒業式 6年生へ喝!


勤務校は、21日が卒業式。
愛知県は大体このあたりが卒業式であるようで、近隣校はほとんどがこの日程。23日が修了式で、ここから春休みだ。


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最近寄せられるメールから


なんだかいろいろな記事を書いているうちに、また返事をたくさん書いているうちに、わたしをとりまく状況が変わってきた。

人間と知り合うと、人間が人間をつなぐ法則があるのだろうか?

□教育委員をされている方と知り合いになってしまった(!)
□お医者様が「あなたが話していたことをセミナーで紹介しました」と言われた。
□取材された。


まあこんなことが重なるうちに、今年もメールの返信が約50件を超えました。
このブログだけが入口なのに、こんなにも問い合わせが来るのか、と驚いています。

多くは、教師への転職の話だ。
転職にふみきれないでいるがどうだろうか、と、私の新米教師としての実感を尋ねられている。(もう新米でもない)
また、教職の免許を取りたいが、大学の免許コースのうち、教育実習を受けないで済む方法が他にないか、という質問。これがダントツに多い。
私なら情報をつかんでいる、と思っていらっしゃる方が多いようだ。(残念ながら、小学校教員資格認定試験以外に、教育実習を回避できる方法を知らないのです)


さて、今年いただいた、みなさまからの質問を、ピックアップしてみました。

□昼夜逆転でゲームに夢中。不登校。対応は?(保護者)
□どうしても頭ごなしに叱ってしまうがいい方法は。(保護者)
□子どもを遊びに連れていくが、満足しないので楽しめない。なんでこの子は満足していないのだろう?(保護者)
□やさしい子だが、なんだかイライラしている子について。(先生)
□いじめがあり、相手の親が謝ってきたが、その後も小さないじめが続く。親はどうしたらいいか。(保護者)
□子どもの意欲を尊重して学級づくりをしているが、言うことがエスカレートしてきた。学校のルールを伝えているが、なぜだめなのか、と不満ばかりの子たちにどう対応するか。(先生)

これらに、自信をもって返答することができているのではないが、私自身ならどうするか、と悩みながらお返事を書く。
自分の今の気持ちや学びにそって、回答するうちに、相手の方には、そもそも返事が届いた、相談できた、ということだけですでに半分肩の荷が下りているような感じがあるらしい。


しかし、生身の人間を相手にする商売。
いくらでも考えていたいことがある。
残念なのは、同じ職場の先生たちといっしょに学ぶ機会がほとんどないこと。

こんな場合はどうするか、ということ、本当はいっしょに意見を交わしたい。

でも、それをやるには、今の職員室はいかにも忙しすぎる。

結局、自分の試行錯誤と実践の実感から、方向を見定めて行くしかないのかも。




IQからEQ、そしてNQへ


IQからEQ、そしてNQだって。

NQという新しい言葉、指数の概念があるらしい。
そもそも、数値というのはいかがわしくて怪しいもので、指数、というものはひどくあいまいでしかない。検査の状況によってまったくちがってくるし、ちょっとしたことで大きく異なってしまうものに、あまり信用をおけないのがふつうの考えだろう。


わたしもそう思う。


ただし、指数概念の意味するところは、ちょっとおもしろい。

30年前は、IQ。インテリジェンス・クオウシエント。
知能指数の高さを求める教育だった。
次に、20年前くらいから、EQ(心の知能指数 Emotional Quotient)と言われ始めた。感性、思いやり、協調性が大事、ということで、道徳教育が強化されたりもしました。

f:id:arigato3939:20120317182857j:image:right
→写真は、当時の米国タイム誌の表紙。EQに関する記事が特集された。
こうしてみると、隔世の感がありますねえ。


しかし結局、それらの指数を頭の片隅に置きながらの教育が、ことごとく失敗扱いされています。


その後、ひらきなおったかのように、人間としての総合力だ、という究極の指数、PQ、パーソナル・クオウシエント、などというオールマイティーな指数を言った人もいますが、これはオールマイティーすぎて、なにを意味するのやら訳が分からなく、具体性が無く、実際面では使いようがありません。(提唱されている方、ごめんなさい)




さて、次。
今、まあまあアカデミックな世界で言われだしているのが、NQです。

もう、ピンときているでしょう。
Nは、ネットワーク。
つまり、ネットワークをつくる力です。
人間関係をつくっていく力。話しかける勇気、自分をさらけ出す技術。相手の気持ちを読む感性。そして、あいづち、うなずき、あいさつ、返事、その他の基本的な行動。
それから発展し、自分にとってのネットワークを知り、構築し、自分らしく活用していく力にしていくこと。人脈の作り方。



これが必要なんだって。

マイケル・ダルワースさんは、どちらかというと大人向けに書いたのでしたが、これが実は教育の世界、子どもの世界にも必要だ、ということです。

子どもがクラスの中で、いきいきと輝けるために、いちばん大事だったのは、このNQだったので!

ネットワーク、人間関係がうまく構築できないと、情緒も安定しない。
つまりEQが伸びない。
また、勉強する時間や気構えができませんから、成績も伸びません。
つまりIQが伸びない。
NQが伸びないと、結果、IQが伸びないのです。
すべてに優先する価値が、人間関係の力だったというわけ。
(つまりNQがいちばん根底にある力)


・・・だって。

上記は、わたしが言っているのではなく、早稲田大学の教育関係の先生が言っていました。


それを先日、講演で聞く機会がありました。

「たしかに、アスペルガーの子なんかがクラスからつまはじきにされてしまう背景には、人間関係の構築の問題が一番なので、これは非常にあたっているな」

と思いました。

クラスが荒れる、といいますが、荒れるのは、人間関係が荒れるのです。そこからクラスの空気が悪くなり、成績が下がる。やはり、NQ→EQ→IQの順に、影響が出ます。

授業の上手下手、それは優先順位としては最後なのです。
人間関係づくりがとてもうまくいっていて、教室の居心地がだれにとってもよいものであれば、みんながんばって勉強しようとします。ある程度の成績はのぞめるのです。

しかし、どれだけ先生の授業がうまくても、人間関係の構築ができなければ、最悪です。
いじめや乱暴な言葉づかいが蔓延します。しだいに勉強の意欲やモチベーションも下がり、けんかの仲裁や「くつかくし」などの失くしもの探しに時間がかかり、勉強時間が減ってしまって成績が下がります。学校は行事が多いですから、その行事への準備も、ことごとくうまくいきません。みんなで足を引っ張り合いますから、時間が通常のクラスの倍かかってしまいます。学習するべき授業時間が実質、なくなっていきます


まあ、授業の上手い先生は、学級経営も上手なことが多いですが。


やっぱり、NQですよ。これからの学校教育は!




ぎゅー!の宿題


生活科で、保護者のお母様たちにお手紙を書きました。
生まれてから成長し、大きくなってきた自分たち。
その成長を支えてくれていた、親、周囲の大人。
自分が今まで成長するまでに、どれだけの世話をしてもらってきたか。
一度、考えてみる、という単元があるのです。(生活科)

お母様たちに、
「生まれたころのことを、ぜひ語ってください。名前の由来、病院で生まれるとき、ご家族はどんなことを思っていましたか。何をして待っていらっしゃったのですか。生まれてから、どんな思いでこの子を育ててきましたか。エピソードはありますか」

上記に限らず、書いていただいた。

すると、涙の出るようなメッセージ集が寄せられた。
一人、便せん1枚。
中には4枚くださる方もいらっしゃいました。

それをクラスの人数分集めると、一冊の本のようになりました。

それを順に読んでいくと、クラスの中に、なんだか不思議なオーラが立ちこめはじめ、

なんだかじーん、と。

生まれる前、どれだけ誕生を心待ちにしたのか。
生まれた瞬間、生まれてきてくれてありがとう、と泣いてしまいました、とか。
おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなで誕生をよろこぶ姿とか。
あなたが宝物である、ということを、これでもか、と書いてくれていました。

うれしいですなあ~。


子どもたちも、本当に満足そうな顔になり、素直な表情で、みんなうっとりして聞いていました。

一人ずつ、お母さんからのメッセージ、手紙を読む。
読み終わると、その子は静かな笑顔。
それを見て、クラス中のみんなも、なんだかニコニコ。
だれもしゃべる人はいません。
言葉にできないのです。

ただ私の声がひびき、みんながそれを感じつつ、ニコニコしている不思議な時間でした。


さて、その日の宿題。

「お母さんに、ぎゅーっとだっこしてもらってきなさい」

「えー!!!」

と大歓声ですが、ものすごくやる気です。

「えーー、なんて言ったらいいの?」

「しゅくだいだって、言えば?」

お互いに、いろいろと言い合っています。


翌日、いろいろな反応がありました。

「やってもらった~」
「やってもらったけど、すぐに妹が来て、ひきはがされた~」
「弟に見られないように、隠れてやった~」
「お母さん忙しくて、あとでって言われてそのまま忘れられた~」
「ぼく、いつもやってもらってるし、お母さんが勝手にやってくるから・・・」

おもしろい。


さらに次の日。
その翌日の予定を言うとき、わたしはもういいかな、と思っていたのですが、クラスほとんど全員が声を合わせて、

「先生!ぎゅーのしゅくだいは???」

「え?一回だけじゃないの?」

「えーーー!またやりたーい!!」


話はこれで終わりません。
先ほどの反応の中の、

「ぼく、いつもやってもらってるし・・・」

と言った子は、LDの子です。
不器用で、多くのことが、他の子とは同じにはできません。
教室の前の方に席を置いて、一つひとつ、指示を出すごとにその子の近くで確認をしている。
音読も、読みながらずれてくるので、指の先で、ときおり示してやる必要があります。

その子、でも、劣等感らしいものがない。
ぼくはできない、という感じはあるのだろうけど、それがとても薄い子です。
明るいし、前向きに課題に取り組もうとするし、まじめだから、成績は良いです。
聞いたことをまじめにやろうとする。

LDとは思えない。
でも、前の学年では、一番できなかった。
だから、担任の先生からの引き継ぎで、フォローしてくださいね、とは言われていた。

しかし、安定しているのです。
情緒が非常に安定している。
そのひみつが、わかった気がしました。
きっと、お母さんの愛情がたっぷりなのでしょう。ぎゅー、を、宿題にださずとも、お母さんが毎日やってくださっているのです。




「叱っても子どもは伸びない」について


いや~、衝撃的なタイトルをつけてしまいました。

「叱っても子どもはのびない」、ですって。

どう思われますでしょうか。続きを読む

怒鳴る先生


怒鳴る先生、多いです。
原因は3つ。
続きを読む

酔って子どもを殴る親~ふだんはまったくそう見えない人~


子どもがおそろしいことを教えてくれた。

「きのうね、お母さんが急にぼくをけとばしにきた」


あっけらかん、と。

半分、顔がにこにこしている。

なんだ??

目が点になりつつ、事情を聴くと、

「なんか友達と呑んで、酔っぱらって帰ってきたんだよー、そのあと、急にぼくの部屋にきて、そのときWiiやってたんだけど、急にけとばされた」

「けとばされたあと、ほっぺたたたかれて、そのあと、ひっくりかえされてたおされた」

「そんで、下にいたお父さんもたたかれたって。覚えてないって朝言ってて、そんでWiiのゲームソフト買ってもらうことになった。ごめんごめんって、すっごくあやまってた。ぜんぜんおぼえていないんだって」

なるほど、Wiiのゲームソフト、それがニコニコのわけか。


それにしても、学校や家庭訪問でもお会いしているし、なんだかとてもすてきな雰囲気をもったお母さんで、宿題も確認してくださったり、提出物もきちんとしているし、子どもが熱で早退するときも、本当にすぐに来てくださるような方。
お母さんとしては、たいへん助かる、学校としてもありがたいお母さんである。


うーん、人生いろいろあるからなあ。
まさかけとばすとは。

まあ子どもが言う「けとばす」は、どんな程度なのかわからないので、なんとも言えない。


虐待・・・。



世界中、どのお母さんも、虐待の一歩手前、二歩手前、というところにいるときがあるのかもしれないなあ・・・。

一時的なものかもしれないけど、子どもをうんとキツく、怒鳴りつけたくなるときだってあるのだろう。

教員も同じで、これまで通りの指示が通らない場合や、完全に教師の指示を無視している子、勝手なことばかり始めてしまう子、叱られている意味がわかっていないような子(多くが発達障害に自身も苦しんでいる子)


を、怒鳴りつけたくなってしまうのだ。

ここを、「怒鳴っても意味が無い」

というふうに、まずは頭で理解し、次に、怒鳴る、ではない、別の手立てがとれるようになってくると、教師としては進歩していく。




どれほど感謝していることか・・・!(支援級に入級できた子の親から)


PTAの活動も、無事に一年間を終えようとしている。
先日、PTA活動の総会が行われた。

そこで、ふと出会ったお母さんに、いきなり

「○○先生!」

と呼びとめられ、

「先生に、お礼を言わなきゃ、とずっと思っていました!」

いきなりだったので、お母さんの顔を見ながら

(昨年担任した子、Rくんのお母さんだな。どうしたんだろ)

とぼんやり。

(あら、なんだろ。お礼とか言って・・・)


金曜日の疲れた時間。
子どもたちが帰宅してからの、夕方。
総会は、いろんな保護者が役員をしているので、役員同士の交流が主な趣旨である。前年度から新年度への引き継ぎもある。
雑多な空間で、あちこちで、お母さんたちの世間話がはじまっている。

すでに少人数での部門ごとの話合いは終了し、これより全体会。
あと5分ではじまろうか、という、なんとなくぼんやりした空いた時間だった。

「○○先生に、どれほど感謝しているか・・・!」

もうこの時点で、お母様の目がみるみる赤くなり、うるうると泣かれ始めた。

「Rがこの1年間、本当にたのしく過ごせたのも、先生のおかげです。まだまだ不安もありますけど・・・。」


Rくん、わたしが昨年度担任したが、彼のためを考えて、特別支援教室に進級できるように取り計らったのだ。
WISCの検査からはじまり、特別支援級の先生をまぜての話し合いもくりかえした。
無事に、進級する際に、支援級の入級を許可していただいて、彼は今年度は支援級ですごすことができた。

これは、なによりも、彼にとっての幸福であった。

そのことが、親にも通じたのだろう。


特別支援級に入級することで、幸福になれる子は、たくさんいる。

だのに、そうならないのは、周囲の(←教員を含めて)無理解だ。

学校の特別支援級の人数が決まっている、というのもへんな話。
需要があれば、枠をどんどんひろげていくのが本当だ。

おそらく、近い将来、小学校の半分は、特別支援級のクラスになるだろう、と思う。
そうでなくては、実態に合わなくなるからだ。




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